「大丈夫!? 夜科!?」
「あ…ああ…」
夜科さんが雨宮さんの言葉に何とか答える。
隣の部屋との風通しが良さそうになった部屋に夜科さんの荒い息の音が灯った。
「じっとして!! 何も考えちゃ駄目……!」
僕も物理的に頭が痛いけれど、頭を振って痛みを振り飛ばして起き上がる。
集中無しで感情任せのPSIを使用・・・そんな事をしたら下手をすれば脳が潰れてしまうかもしれない。
「ちょっと……シャレにならねえ、かも……!」
夜科さんの顔が苦痛に歪む。
練習も無しに初めてPSIを使う人間があれ程までに大きな力を発現させたのだから、その痛みは恐らく相当な物だ。
喩えるなら狭い出口からいきなり大量の水を流したようなもの。出口自体が耐えきれずに破損してもおかしくない。
夜科さんの呼吸が荒い。これは本当に不味いかもしれない。
……キュアは、昨日使えるようになったばかりだ。
そんな拙いPSIで脳を治療だなんてそんな高度な事が出来るなんて自信がある訳が無い。
「これは……!?」
けれど、雨宮さんの驚く声を背にして夜科さんの額に掌を乗せ、目を瞑った。
キュアの力を意識の底から喚起して力を発現させる。出来ないのなら出来ないなりに出来る事をするだけだ。
雨宮さんに僕のPSIの事を聞かれてから、久し振りに自分のPSIについて考えていた。
胚、のようだと自分のPSIが生じるのを感じて思う。
何にでもなれるだけど、他の何かを模らないと存在し得ない1未満の存在、0。
形を成す以前の状態、色を持たないPSI。それは、自分を持たない僕らしい力なのかもしれない。
ライズの力が意識の奥に湧き上がりそれがバーストと融けあって一つのPSI、それ自体の形を成した。
「……? あれ、急に頭が軽くなったよーな・・・ってこれはさっきの感覚……?」
「あなた、キュアまで使えるのね・・・」
掌が淡い光を放つのを止めると、夜科さんは霞みがかった瞳から多少回復して頭を振りながら呟いた。
良かった、なんとかなったみたいだ。力の元の持ち主であるヴァンに心の中でひっそりと感謝する。
「はい。と言いますか、さっき夜科さんが気絶させられ……した時も使ってましたよ。
それはともかく、どこかまだ痛いとことかありませんか?」
どうやら先程のキュアの行使を雨宮さんは見ていなかったようだ。
余りにも夜科さんの回復が早かったから多少は訝しんでいたようだけれど。
「お前が治してくれたのか……いや、大丈夫だ、多少ボーっとするけど問題ねぇよ。サンキューな」
元気そうな夜科さんを見て雨宮さんが安堵の息を吐いていた。
そして、目の前に出来た大穴に視線をそっと移す。
「……それにしても」
「……ク、ククク」
雨宮さんが夜科さんのPSIを見ての感想を述べようとでもしたのだろうか。
何か言葉を告げようと口を開いた時、喉を鳴らす音がその声を遮った。
「クククク……!! ハァーハッハッハッハッハッハァ!!!」
突然、夜科さんがかませの敵役のような笑い声を上げた。
手の自由を奪っていた手錠を引き千切ってガッツポーズを上げたかと思うとその勢いに任せて床を転げ回る。
「すっっげぇー!!! だははは何だこの穴!? すっっっげェぞオレの力ーッ!!!
ねェ見た!?雨宮見てた!?」
「……」
あ、雨宮さんの目がスッと細まった。
まるで猫の死骸にたかる不愉快な蛆虫よりも更に不愉快な物を見たような、そんな目をする雨宮さんに気付き僕は何故か崩していた足を正座に正してしまう。
「さすがはオレ様!! オレは天才夜科アゲハ様だ――ッ!!
……っと、そーだヒリューのバカに送ってやろー」
夜科さんが壁の大穴の写真を撮ろうと携帯電話を取り出す為にポケットの中を探った。背後に迫る脅威に気付く事無く。
「へが!!?」
「ねぇ……謝らないの……? 部屋に極大の穴開けられた女の子に……! 謝らないの……!?」
僕は、そっと瞳を閉じた。多分今から目の前で行われる事は教育上よろしくない事だ。
それに、世界は悲しい物だって僕はまだ知りたくないから。信じていたいから。
視界からの情報が消え失せ、音が支配するようになった世界に不吉な音が舞い降りた。
「あ、あああ……」
「私にタッチするつもりでアレ出したの?そうなのね?」
何かが軋むような嫌な音が鼓膜を揺らす。
何が起こっているかは想像に易いけれど、だからこそ考えたくない。
「ごごごごごごめんなさいぃぃぃィィィィ!? あ、あ、いやあああああああああああああああぁぁぁ――……」
鈍い打撲音。
それが続く、続く、続く、続く、まだ終わらない……続いて行った。
そう言えば、映画とかで使われる人を殴る際の音ってこんにゃくでフランスパンを叩いて作られた音だってどこかで聞いた気がする。
ああ、うん。どうでもいい豆知識だった。
◆◆◆
「――……クソー、雨宮の奴、手加減ってモンを知らねェのかよ……
目立ちやすい顔じゃなくて服の下の部分を狙うってアイツどこの苛めっ子だ……」
横を歩く夜科さんが独りごちた。
まだ体のあちこちが痛むようで、異常が無いか色々な関節を回して確認している。
そんな夜科さんを尻目に眼前に広がる空へと目を向けた。
少し前まで空を覆っていた分厚い雲は既に散会したようで、散りじりになった濃紺色のそれらが今日一日の終わりを告げている。
「なあ、聞いてる?そりゃあ、穴開けたのは悪かったけどさ……」
「聞いてないです。夜科さんがその後調子に乗ったのが雨宮さんを怒らせた原因の大部分だと思いますよ」
雨上がりの後のアスファルトから立ち昇る独特の匂いに胸が一杯になりながら返事をした。
濡れたアスファルト、鼻を掠める水分の匂い、街路樹の葉が風に擦れる音……この何とも言えない雰囲気は夏が近い事の表れだろう。
また、夏がやって来る。色々な、本当に色んな事があったあの夏から一年が過ぎた。
僕はあれから何か進歩出来ているのだろうか。もう一度あの人に会った時にキチンと言いたい事が胸を張って言えるのだろうか。
そんな自問が風の音と共に脳を掠めて吹き抜けて行った。
「ばっちり聞いてんじゃねーか……いや、それにしたってさぁ……」
愚痴をこぼし続ける夜科さんがいい加減に鬱陶しくなってきたので僕の返事も投げ遣りな物になっていた。
あの後、テレビだったら放送できないような状態の夜科さんに三度キュアを掛けて復活させた。
ボコボコにされてもキュアがあるなら安心ね、などと言って雨宮さんはまだ笑みを浮かべて拳を持ち上げたので、流石に止めておいた。
もっとも、雨宮さんもあれ以上はするつもりは無いようにも見えたのだけれども。
あれは雨宮さん流のジョークだったらしい。なんとも心臓に悪い冗談だ。
「あ、猫」
夜科さんとの会話と呼べないような会話も途切れたので、ふと視線を夜科さんから逸らすと、そこには白い毛を基盤として一部に茶色の模様が浮かぶ一匹の三毛猫がいた。
猫は路上駐車してある車の下で丸くなって周りの様子を窺っているようだった。何となく気になって猫の方へとふらふらと向かう。
「おいおい、ンな事してたら電車に遅れるぞ――……って!?」
夜科さんの声にハッと我に帰った。
そうだ、今僕は帰りの電車に乗る為に夜科さんに駅まで送っていってもらっているんだった。
ああ、でも触りたい。猫に触りたい。いやいや間に合わなくなるのは困る。でもちょっとだけ……
遠い国の心理学者の言葉を使うなら、接近―回避型の葛藤が心の中で荒れ狂う。
「おっ、おい! ソイツ捕まえろ!!」
「はい?」
と、そんな胸中とは無縁な所で急に夜科さんが何かを思い出したように顔色を変えて猫の方を指差した。
突然の事に当然僕が戸惑っていると、指差された猫は何か自身の身に迫る危機を感じ取ったのだろうか、一目散に逃げて行った。
「あぁ――!! 逃げられた!? オイ、何ボサっとしてんだ! 追いかけるぞ!!」
「ええ!? いやあの……電車は……ああもう! なんで僕の周りにいる人は癖が強い人ばっかなんだ!?」
小さくなっていく夜科さんの背を見つめながら悪態が独りでに零れた。
夜科さんが居なくては駅までの道が分からない。要するに、僕に選択肢は初めから一つしかないのだ。
仕方なく僕も走り出す。
理由は後から聞こう。それから何か奢ってもらおう。とりあえずは猫を捕まえる事を考えなきゃ。
「待てェ――!!! コルァァァァァ!!!!」」
「……」
あんな大声と凄い形相をしているもんだから猫は脅えて滅茶苦茶に逃げ回っている。
あ、夜科さんが逃げる猫を追いかけて民家の植え込みを掻き分けながら進んでいった。
……住居不法侵入罪に器物破損罪ですよ。あと僕もついてかなきゃ駄目なんですか駄目なんですよね。
「はぁ……」
自然と溜息が漏れた。
なんか最近多くなっている気がする。これじゃ白髪なだけじゃなくて本当に老けてしまうような気がしないでもない。
とにもかくにも。電車には間に合わなさそうだ。
――・・・
「ぐへへへへさぁもう逃げようが無ェぞ……!! どうする……? 袋の鼠ならぬ袋の猫って訳だ……!」
猫が路地裏の行き止まりに入りこんでしまい、いよいよ逃げ場が無くなった所で夜科さんが下卑た笑いを浮かべた。
どうでもいいですけど、どっからどう見ても悪役の顔ですよ、ソレ。
と、心の中で突っ込みを入れつつも僕も夜科さんにやっとの事で追いつき、横に並んで逃げ道を完全に断つ。
走り過ぎて肺や脇腹が痛いやら、口の中が乾いて唾を飲むたびに喉が痛んで吐き気を催すやらで結構しんどい状態だった。
「ギャ――!! フギャ――!!!!」
おお、猫が壁に追い詰められて二本の脚で立った。生き物、死ぬ気になれば色々出来ると言うが本当だったらしい。
猫の顔が必死過ぎて憐れみを誘う。
それにしても、何で夜科さんはこの猫を追いかけていたのだろうか。まさか食べるとかそんな事は無いと思うが。
……いや、でもまさかな。
「……夜科さん、猫なんか食べても美味しくないですよ……?」
「誰が食うかッ!!」
よかった、一応確認してみたけど即答してくれた。
これでぐへへへへなんて言われた日にはサイレンの協力を頼むのを考えなければいけない所だった。
「ってそんなアホな事を言っている間に猫が俺達の隙間をこう、うまい具合にするりと抜けて逃げたァ――!!?」
「随分と説明的な……はいっと」
「フ、フギャ――!!?」
誰に説明しているのか分からない夜科さんは置いておいて、密かに練っておいたテレキネシスを発露。
見えない掌に掴まれて理解不能と言った表情で猫が宙でジタバタしている。
「……お、おお、ナイス!!やっぱすっげぇな、超能力!!」
「……」
夜科さんは、PSIを実際に使う所を見て喜んでいるようだった。
そのまま猫を夜科さんの方にやってやる。猫は、必死の抵抗も空しくすっぽりと夜科さんの腕の中に収まった。
……いや、収まったと言うと語弊があるだろう。腕の中で物凄い勢いで暴れているんだから。
顔に幾つもの傷をこさえて、夜科さんはやっと猫を鎮められていた。
今日はよくキュアにお世話になる日だ。お世話になるのが僕じゃないだけ良いのかもしれないけども。
そんなどうでもいい事を思いながら、僕と夜科さんは駅への道を再び行くのだった。
ほんっとに疲れた一日だった。
――・・・
結局、あの猫は夜科さんが捜索を頼まれていた猫だったらしい。名前はミィと言う。
飼い主に似てコイツ性格が……とか夜科さんは言っていたけど、僕には何の事か分からないのでその辺には触れないでおいた。
それから電車は予想通り間に合わなかったので結構な時間を待って次の電車で行く事にした。
もう直ぐその列車がホームに入るようだ、と言う事を駅のアナウンスから知る。
もう、行かなくちゃ。
「じゃーな、今日はあんがとな。PSIの事とか、コイツの事とか」
すっかり大人しくなった、いや、大人しくさせられた猫を片手に夜科さんがもう片方の掌を僕の頭に軽く乗せてきた。
身長的に丁度いい場所にあるとは言え、頭を撫でられ過ぎている気がする。別にいいんだけど、ちょっとだけ恥ずかしい。
「いいんですよ。……夜科さん」
「ん、なんだ?」
そんな事より言わなきゃいけない事がある。
声色のトーンを少しだけ落として、それから真剣な目をしよう。多分出来たと思う。
「力って、何だと思います?」
「ハァ……?力って、そりゃあ……力としか言いようがねぇよ」
夜科さんが怪訝な顔をした。それはそうだ、力は力でしかない。答えになっていない答えにも構わずに僕は続ける。
「すみません、質問が悪かったですね。力って、何のためにあると思いますか?
夜科さんは……力をどう使いますか?」
「……」
夜科さんの目が少しだけ細まった。
その視線を真っ直ぐに向けて来る。まるで僕の言う事を見極めようとしているような。
「夜科さんは、大きな力を手にして喜んでいるように見えました。けど、大きな力がもたらす物は決して良い事ばかりじゃないんです。
世間一般の人達の常識から外れたモノ、それがPSIです。そして常識から外れたモノは、常識が織り成す世界の中には存在できない」
ホームに響いた電車の到着を告げるメロディに遮られて、言葉が一瞬切れる。その間も夜科さんは目を僕から逸らす事は無かった。
言いながら脳裏に浮かんでいたのは、エルモア・ウッドのみんなやあの人の事。
そしてエルモア・ウッドに来て直ぐにお婆さんに言われた事を思い出していた。
「PSIの力が原因で大切な何かを失くした人達を、僕は知っています。異質なんです。PSIと言う物は。
……だけどPSIが悪いとは僕は思いません。要はその使い様、心の持ちようで悲しい事は避けれると僕は思っています。だから……」
「……あぁ分かってるよ。そんなムズカシー事考えなくても俺は力をあぶねえ事に使うつもりはねェよ。安心しな」
真剣な顔を崩し、薄く笑いながら夜科さんは僕の頭に手を置いた。それに誤魔化されてしまって最後まで言葉を続けられなかった。
力の目的、矛先を忘れないで欲しいと言う事を伝えようと思ったのだけれど、それは夜科さん自身が自分で理解して初めて効果がある物なのかも知れない。
それに僕だってPSIが使えるようになってからまだ一年とちょっとしか経っていないのだから、あまり偉そうなことを言う物じゃないだろう。
「っ……!」
胸に急に寒気が宿る。
それはPSIを覚える時のいつもの感覚だったのだけど、これは熱が熱すぎて、逆に冷たく感じているようだった。
胸に鋭利な氷のナイフを突き立てられたような、心臓を冷たい手で握られたような感覚に思わず眉を顰めた。
なんだか……嫌な感じがする。ふとした瞬間に全てがその冷たい熱に呑まれてしまいそうな……
「お、電車来たみたいだぞ。そろそろ行かねぇと」
その夜科さんの言葉にハッとする。
それまでの表情を無理やり変えて悟られないように誤魔化した。
「……ええ。それじゃ、また」
最後に夜科さんに別れを告げて、その場を後にする。
別れ際に何かあったら連絡してほしいと言う事で携帯電話のアドレスや番号を交換しておいた。
夜科さんの力については、きっと夜科さん本人が上手くやるだろう。
僕なんかが心配した所でどうこう出来る訳じゃないんだし。それに、雨宮さんも居る。きっと大丈夫だ。
電車の窓から外の景色が流れて行くのが見える。
すっかり日が暮れて濃紺に染められた空は、晴れてはいるが所々に雲が残り、それが何となくすっきりしない内心を映しているかのようで、
僕はそっと窓から目を離した。
◆◆◆
火曜日。
昨日の焼けるような夕日から予想はついていたが、今朝は雲ひとつない快晴。雲が無い為に地表の温度は宇宙へ逃げて行き、晴れている方が逆に寒い。
夏が近いとは言え、まだ日も昇らない今の時間は流石に肌寒かった。
玄関の重たい扉を開けて、早朝の薄青色の空気を胸腔いっぱいに吸い込む。
「うー……さむ……」
踵を踏んでスリッパ履きにしている靴を屈んでしっかりと履きなおす。靴ひもをきつく結ぶと心なしか気も引き締まったように感じた。
「よし……がんばろ」
一人呟き、庭園の芝生へと向かって歩き出す。芝が朝露に濡れて、その湿り気が靴越しに伝わって来てグリップが効いた一歩一歩が何となく気持ちいい。
芝生の真ん中に立つと、目を瞑って集中。目を開いた時には掌の中に一振りの剣が出来ていた。
皮が破れて違和感がまだ残る掌に、昨日雨宮さんに教えられた通りに剣を握りこむ。そして剣先と視線を交差させて直立する。
脹脛には昨日の訓練や猫を追いかけまわして走った事による筋肉痛独特の感覚がこびり付いていて、構えた時に薄く顔を顰めた。
昨日は何となく熱っぽかった脚は一晩寝ると見事に鈍痛に生まれ変わっていた。
朝ベッドから起き上がる時にその痛みで思わず唸ってしまった程だ。
それでもその痛みを無視、とはいかないがなるべく気にしないようにして昨日と同じ訓練を始めた。
――・・・
「はぁ……」
丁度あれから30分後。そこには芝生に倒れ込む僕がいた。
そんな一朝一夕で体が出来上がるとは思っていないけれども、本当に進歩しているのか不安になる程のしんどさだ。
芝に面している部分がその露で冷たい。背中は不快だけれど、脚にはその冷たさが心地よかった。
……いい加減な所で体を起こして再び訓練を始める。今度は、素振りの練習。
地面に突き刺していた剣を引き抜くと持ち方を意識しながらまた剣を構える。
「ふっ!」
風が小さく唸る。昨日よりもほんの少しだけ、けれど確実に大きく。
「えへへ……」
いきなり一発目から音を出せた事に嬉しくなって一人にやけてしまった。
掌に巻いていたテープにまた血が滲むけど、それも気にならないほどだ。
「……なに気持ち悪い顔してんの?こんな遅くに」
「え?」
不意に声が掛けられ、少し驚きながら声がした方を向くと、二階のバルコニーから顔を覗かせているフレデリカがいた。
フレデリカは胡乱な目つき、いや眠たげな眼で僕の方を見つめていた。
そんなフレデリカに言葉を投げ返す。見られていた事の恥ずかしさを誤魔化すように。
「いや、フレデリカこそ何してるの、こんな早くから」
「え?」
「え?」
……。
どうも、僕とフレデリカの間には認識の溝があるみたいだ。
何となく察しはつくけれど、要するにフレデリカは今の今まで夜更かしで起きていたのだろう。
それでこんな遅くに、と言った。
僕にとってみれば一度寝たから日付は変わったように思うけれど、寝てないフレデリカはまだ昨日が続いている。きっとそんな所だ。
「……まぁいいわ。で、何してたの」
バルコニーの柵に片肘をついて欠伸を噛み殺しながら尋ねて来る。
こんな風にフレデリカが何かに興味を持って自分から尋ねて来るのは珍しい、いや変だと言って差し支えない事なんだけど、
眠いから思考がどこか変になっているのかもしれない。そう結論付けた。
「……訓練だよ。何か、僕に今出来る事見つけたかったから」
「……ふぅん。訓練、ね。……まぁ変な奴の考える事はアタシには理解できないわ」
変な奴……。
僕って、変なんだろうか。変わっていると言う事は持っている力などから分からなくも無いが、変なんだろうか。
昨日夜科さんを見てどうして僕の周りには癖が強い、要するに変わった人が多いのだろうかと嘆いたけど、
もしかして……僕が変わっているから僕の周りの人も変なんじゃないだろうか。
……急に不安になってきた。頭を抱えたい気分になる。そんな僕の様子を見て一層フレデリカは胡乱な目つきを強くしていた。
そしていつも着ている熊のフードを被りながら言った。
「ま、あんまり思い詰めない事ね。アンタってどうも危なっかしいから」
「……え?」
今のは、幻聴だろうか。
何か、フレデリカの口から、不思議な、言葉が、聞こえた……気がしたんだけど。
フレデリカは自分の言った事に気付いていないのか、いつもの癖で髪の先を指でくるくると弄っていた。
「フレデリカ……もしかして、僕に気を使ってくれて、る……?」
「ッ!!?」
フレデリカの指が急に止まった。
いや、多分聞き間違いか、変な電波でも受信したのだろう。
それかサイレン世界で色々あった時に変な風に頭を打ったのかもしれない。
だってフレデリカが人の事を心配するなんておかしいもの。有り得ないもの。
ああほら、僕が変な事を言うからフレデリカが目を見開いた。
あ、顔がみるみる赤くなって行っている。
「……ふんっ!」
「って、うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!? ……って!そう何度も燃やされてたまるかっ!!」
急に押し黙って真っ赤になったフレデリカが、その顔の赤さに負けないくらい真紅の炎を投げつけてきた。
僕も大人しく燃やされるつもりも無いので、前々から考えていた対フレデリカの炎用の防御を発動する。
マテリアル・ハイの防御壁を球状にして体の周囲に創る。
これだけだと炎の熱に壁を突破されてしまうかもしれないので、更に工夫を重ねる。
最初に創った壁の直ぐ前にもう一度マテリアル・ハイを発動。
ただし、この時に神経を集中させて普通とは違った物を作り出す。
一枚目の壁のすぐ後ろにもう一枚空気を圧縮させた壁を創る事で、壁と壁の間の空気を失くす。
所謂なんちゃって真空状態を持った二枚組の壁が出来上がるのである。そして真空中は熱の伝導率が非常に悪い。
壁に炎の塊がぶつかり、壁に沿って炎が広がる。
だが、炎が壁を破壊する事もないし、その内部にいた僕に熱が届く事も無かった。
「フン……!」
そして炎が消えて視界が開けた時、そこにフレデリカの姿は無かった。僕の言葉に怒って部屋に引っ込んでしまったのかもしれない。
それなら、多分今から自室に戻って寝るのだろう。壁を叩いて消しながら独りごちる。
「酷い目に会った……。何だったんだ、一体……」
壁と接していた場所の芝は見事に真っ黒に焦げていた。これが僕だったかと思うとぞっとする。溜息を一通り吐いてから、また僕は素振りを始めた。
……人の事は言えないけど、フレデリカも感情の表現があまり上手くないみたいだ。
どこか、何かを誤魔化す為に力を使っているような、そんな気がする。
もっとも、感覚や感情と言った物がいまいちすっきりと理解できない僕にはフレデリカも言われたくないだろうけど。
相手がどう思ったかなんて他人には分からない。
その場の状況や相手の表情や性質などから推測、そう推測する事でしか分からないのだ。
誰もいちいち本人にどう思ったかなんて聞く事はしないだろう。
それは分かる、とか理解、とかの言葉を当てはめるのに相応しくない気がする。
感情をある程度分類分けし、自分に当てはめて考えてみるという方法で人は相手を理解したように思っている。
言うなれば、納得。
相手が分かると言う事は、相手が自分の中にある様々なパターンの人間像の範疇に収まっていると言う事。
だけど、その人間像が僕の中には無かった。
人がどう思ってどう行動するのか、初めはよく分からなかった。
初めと言ってもエルモア・ウッドで目が覚めてからだけど。その前はそもそも覚えていない。
なんで分からないのかも分からない。綺麗さっぱり忘れてしまったのか、それとも……
とにかく、僕には拙い推測でしか人を見る事が出来ないのだ。推し量る基準がそもそもに拙いんだから。
今だってどこか自分の判断が自分の物じゃないような感覚に陥る事がある。自分の言葉や動作さえも全て誰かから借りているような、そんな感じ。
だから、何でフレデリカがあんな風に真っ赤になって炎を飛ばすような事をしたのか僕にはよく分からない。何かを誤魔化そうとした、とそんな程度にしか。
その何かを推測しようにも、僕の中に当てはまる判断基準は見当たらなかった。
◆◆◆
火曜日。
それは一週間のうち最も苦痛とされる月曜日を何とか乗り越えた者達が迎える事の出来る日である。
月曜日は新たな一週間が始まったと言う無慈悲な事実にただただ打ちのめされ、呆然と悲しみに暮れるだけだ。
だが、火曜日はその事実に改めて気付く日である。まだ週は始まったばかりでしかないと言う事実に。
肉体的疲労感に加え、精神的な負担も大きい火曜日は人によっては月曜日よりも辛いと感じるかもしれない。
一介の男子高校生である夜科アゲハも、雲一つない晴天の空とは対照的な、どんよりと曇った顔をしながら道を歩いていた。
それは歩いている、と言うよりはふらふらと勝手に脚が進んでいると表現した方が相応しかったかもしれない。
「あ゛――……」
途中、目の前の電柱にぶつかりそうになるが、それを何とかかわす。
頭が揺れたその感覚に夜科は眉間の皺を更に深く刻んだ。
しかし夜科が陰鬱な表情をしている訳は、今夜科のすぐ横を歩いているサラリーマンが憂鬱な顔をしている理由とは、どうも違うようだ。
その理由とは、自身の体調の悪さと夜科の手が握っている一挺の籠にあった。
夜科がよろめいたのに合わせて籠も揺れると、籠の中で何か生き物が暴れるような感覚が夜科に伝わる。
「どーすっかな……」
暴れて鳴き声を上げるその中身とその飼い主を想って、夜科はぼそりと呟いた。
籠の中身は、先日の猫だった。
そしてそれは夜科がクラスメートの倉木まどかから捜索を依頼された猫であった。
トラブルバスターの真似事をしている夜科はそもそもの初め、その倉木まどかからストーカーの退治を頼まれていた。
ストーカーとお話、肉体言語によるものだが、をして倉木まどかに付きまとわせないように言って聞かせる依頼は成功した。
依頼が成功すれば報酬は一万円と夜科はしていたのだが、いざ依頼の成功を報告しようと倉木まどかと顔を合わせた時に、
夜科は見栄を張る為に報酬はいらない、困った事があったら何でも言え、と調子のいい事を言ってしまったのである。
小動物系八方美人。全ての原因は倉木まどかが非常に夜科の好みの顔と雰囲気をしていた事にある。
ここまでなら例え骨折り損の草臥れ儲けであったとしても何の問題は無かった。
問題は、その倉木まどかが夜科の想像するような可愛らしい性格をしていなかった事である。
倉木まどかは雨宮の財布を鞄から抜き取り、ゴミ集積場に隠すと言う雨宮に対して陰険な苛めを行っていた。
その現場を夜科は見てしまい、倉木まどかに対する夜科アゲハの幻想はそこで潰えてしまった。
倉木まどかに対して微かに覚えた憤りを夜科は、猫は自分で探せ、と捨て台詞のように言う事で倉木まどか本人にぶつけてしまっていたのだ。
そんな事が先週の終わりにあって、今は火曜日。
幸いな事に月曜は雨宮の呼び出しがあった事で倉木まどかとは顔を合わさずに済んでいた。
だが、今日。猫を捕まえてしまった以上猫を引き渡す為には顔を合わさなければいけない。
そんな時何と言えば良いのか夜科には分からず、それで悩んでいたのだ。
「おっすアゲハー」
不意に夜科は声を掛けられ、そして挨拶代わりに背中を軽く叩かれた。その衝撃で夜科はどさりと地面に倒れ伏す。
「……っておい!! アゲハ!!? しっかりしろ!!?」
「ふ、ふふ……親友の坂口君じゃあないか……俺は、もう、駄目だ……」
夜科の友人の坂口、通称サカが夜科の体を抱え起こし、夜科が震える声で言った。
顔色は、見るからに悪い。青白いのを通り越して夜科は土気色の顔をしていた。
「しっかりしろ!! 傷は浅いぞ!!!」
「なに朝からアホやってるのさ」
人通りの多い朝の通勤路で朝も早くから漫才をする友人二人に対して突っ込みを入れたのはヒロキだった。
いつもの事であると分かり切ってはいるが、流石に人の目が多いこの時間帯に人の目もはばからずおふざけをしている二人に対して突っ込まざるを得なかったようだ。
「……頭にまだ血が上ってる。しんどい」
「まーた姉ちゃんにどやされたのか」
まともに突っ込まれたことで演技じみた行動を止め、頭を振りながらゆっくりと夜科は立ち上がった。
夜科の表情がすぐれなかったのは猫関連の懸念のみが原因にはあらず、夜科アゲハの姉、夜科フブキに昨日こってりと説教を受けた事にもあった。
普段家に親のいない夜科家にとって、姉は夜科の幼いころから親代わりのようなものだった。
姉は半ばグレてしまった弟を更生させようと躍起なり、それが説教と躾と言う名の暴力という形で表れていた。
「……布団に簀巻きにされて一晩吊るされてた」
「マジか……」
学校をサボった事、門限を破った事など夜科家七つの大罪の内の幾つかを犯した夜科は、姉の手によってしかるべき処置を受け、
そしてそれによって体調の悪さがメーターを振り切っていたのだった。
もっとも、まだもう一つ悩む原因とも言えなくもない、気になっている事もあったのだけれど。
一人の少女の姿を頭の端に浮かべて、夜科は軽く被りを振った。今は考えても仕方のない事だと。
肩と首を回して泥にようにこびり付く疲労感と違和感をぬぐい去ろうとする。
同じ体勢で長時間いたため、回すたびに骨が乾いた音を立てた。
しかし、どんなに陰鬱な朝だろうと朝は朝だ。気持ちを切り替える必要があると夜科は考える。
そして肩を回し終えた夜科は一つ伸びをして気を取り直し、両端の口角を持ち上げながら言った。
「おはよっス、サカ、ヒロ」
――・・・
三人で話をしながら廊下を歩く。
話す内容は昨日のテレビがどうだっただの、今日の授業はどうだの、他愛の無い物達ばかりだ。
だが悪く無いと、夜科は思う。
常に腹腔で暗く澱んでいる漠然とした満たされなさが、友人達とふざけ合っているこの瞬間には忘れられていた。
そしてサイレンという非日常の泥沼に片足を突っ込んでしまった夜科は、その変わらない筈の日常がどこかそれまで感じていた物と違うように感じる事に、気が付いていた。
夜科が教室の扉を手にかけた。
教室に響く扉の開く音に既に教室の中にいた生徒達は一瞬扉の方を見遣るが、また直ぐにそれぞれの友人たちとの会話などへ帰っていく。
男子生徒の中の夜科達とそれなりに親しい者達は一言二言夜科達に声を掛けた。
そしてクラスメート達と挨拶する途中で、夜科はハッと視界に映った物に気付いた。
廊下側から2番目の列、そして後ろからも2番目の席。
そこに座っている、雨宮桜子の姿に。
雨宮の席の周りに人影は無く、雨宮は一人で本を読んでいた。
文字の羅列から決して目を離す事の無いその姿勢はまるで他人と関わる事を、他人が自分の世界に入って来る事を拒んでいるかのようだった。
もっとも、例え雨宮が本を読んでいなくとも、進んで雨宮と関わろうとする生徒は皆無だっただろう。
それは、雨宮が入学したての4月の上旬に話かけてきた生徒に言い放った言葉による。
『――……卒業式まで放っといてくれる?
サイレンがやって来るわ……!その時はアンタも私も無力なゴミ……!
せいぜいそれまで……下らない青春を謳歌してなさいよ……!!』
その言葉で、雨宮桜子のクラスでの立ち位置は完全に決まってしまった。話かけてはならない女(アンタッチャブルガール)。
危なげな妄想を内に秘めていて、そしてそんな妄想と現実を区別出来ていない頭のおかしい女だと、そう見なされたのだ。
当然そんな雨宮を気味悪がって近付く生徒は存在しなくなった。
今から思えば、当時の雨宮はサイレンのゲームにたった一人で挑んでいた事になる。
あの化物どもとたった一人で渡り合い、何も無い世界を彷徨う。
そんな事をしていれば心が摩耗して行くのももっともだと、夜科は内心頷く。
……しかし。
もうちょっと良い対処の仕方もあったのではないかと、夜科は思う。
せめてもう少し愛想よくしていれば、せめて奇抜な言動を取らなければ、せめて自ら他人を拒むような真似をしなければ。
――……せめて、辛いのならば一言でも相談してくれれば。
そこまで考えて、夜科は一人嘆息を吐いた。
そして頭を掻きながら思う。
(やっぱ、そりゃ無理だよな……)
自分一人で何でも抱え込んでしまう性の少女に、そんな事が出来る訳ない。
何でもかんでも抱え込んで、そして抱えた物の重たさに溺れかけても、助けの求め方を知らないのだから。
そもそも自分は相談に乗るような間柄でも無かった事もある。だが・・・
(だけど……)
今は、違う。
赤いテレホンカードに導かれ、サイレン世界へと共に行き、共に帰って来た今ならば以前とは違うと夜科は思った。
何がどう違うのかは分からないがとにかく何かが違い、そして今ならば雨宮に手を差し出す事が出来る気がすると、そう思ったのだ。
それは雨宮との間柄の変化と言うよりは夜科の心情の変化だったかもしれない。
「アゲハ?」
自らの席に荷物を置いて友人たちとの会話に戻ろうとしていたサカは、夜科が自分達とは違う方向へ向かっている事に気付き、声を上げた。
しかしそんなサカの声をも無視して夜科は近付いて行った。
背中を丸め、本を読む雨宮桜子の元へ。
「……オッス」
「っ!!?」
そして雨宮の脳天に、挨拶を伴った軽いチョップを落とした。
さほど強い衝撃では無かったものの、完全に予想外の出来事に雨宮は驚き、開いていた本に顔をぶつける。
「なっ、なっ……!」
言葉にならない言葉を、雨宮は顔を赤らめながらに言った。
それは羞恥と言うよりは驚いたための紅潮であったが、夜科はその雨宮の赤みを帯びた顔に一瞬見とれてしまった。
一方で不意に衝撃を食らわせられた雨宮は、まるで睨みつけるが如く夜科を見つめる。
「なっ、なんだよ、朝に挨拶するのがそんなにオカシー事か?」
「あっ、アイサツ……?」
雨宮は、一瞬夜科の言った『挨拶』という単語の意味が理解できていなかった。
何故なら挨拶などという概念はこの学校と言う場において、雨宮の中に存在していなかったから。
そして僅かな間の後に雨宮の思考回路が繋がる。
挨拶とは二人以上の人間が存在している場合にのみ成立するものである。
また、今現在自分の目の前には夜科アゲハしか存在しない。
つまり今自分は挨拶されて、その返答を期待されているという事実に雨宮は辿り着いた。
瞬間、思考が沸騰。
返答とは何だったか、どうすればいいのか考えようとしても思考は耳の裏のやけに煩い鼓動の音に塗りつぶされてゆく。
そして雨宮は涙目になりながらも、ある一つの答えに辿り着いた。
「おっ……」
「お?」
「……おっす!!!!!!!!!」
「めるぜずッ!!!!!!!!??」
轟音。
何かに答える時は、とりあえず相手がした事と同じ事をすればいい。そうすれば一応はキャッチボールが成立する。
それが、極度にテンパっている雨宮が導き出し得る精一杯の答えだった。
そんなライズを込めたチョップの挨拶は夜科の脳天にめり込み、夜科は奇妙な声を上げながらに床に倒れ伏した。
床にうつ伏せに大の字になった夜科は微かに痙攣している。
「あ……ご、ごめん、なさい……」
やってしまったと、直ぐに自分の行動に後悔。
ふと気が付くと先程までの教室のざわめきは姿を潜めシン、と静まり返り、誰もが雨宮を見つめていた。
正確には夜科が雨宮に挨拶した瞬間には静まり返っていたのだが動揺に塗りつぶされている雨宮はそれに気付かない。
誰もがまた自分を頭のおかしい女だと言う目で見ているのだと、勝手に自己解釈する。
「……っ!」
俯き、破れる程に唇を噛み締める。
夜科に挨拶されても、いつものように拒めば良かった。どうしてそれが出来なかったのだと、自分を責める。
自分は、どうしてこの場に存在していたのか。
最初から上手く出来ないと分かっている事を、どうしてしたのか。
後悔すると分かっていながら、どうして止められなかったのか。
(どうして……どうして……どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして!!!!!!)
そんな声が雨宮の内側に木霊した。
その自分を責める言葉が雨宮の中に満ち、喉元にまで達した時、雨宮の足は意図せずにも独りでに駆け出していた。
逃走。
どうすればいいのか分からない。自分がどうしたいのかも分からない。
雨宮が選んだのは、答えを出そうとする事から逃げ出す事だった。
それは優しくも残酷な選択だった。
悩む事を放棄する代わりに、また新たな自己嫌悪に苛まれる事になる。
――……だが、突然の腕を掴まれた感覚が、選択する事を阻んだ。
「……ふ、ふふふふふ……中々効いたぜ、あまみゃーさん……」
「っ!?」
訳も分からず後ろを振り向くと、そこには目の焦点のあっていない夜科が雨宮の腕を握り締めていた。
夜科は自らの側頭部を掌の底で叩いて魂が抜け出て行きそうなのを必死に押し戻している所だった。
そしてゆっくりと立ち上がると、困惑する雨宮の腕を改めて握り直し、夜科は駆けだした。
「ちょ、ちょっと!!?」
「……」
夜科は何も答えない。
ただ真っ直ぐ先を見つめ雨宮の手を引きながら走っていく。
そして辿り着いたのは、屋上だった。
雨宮の視界が一気に開ける。一点の曇りもない、どこまでも続いて行く蒼穹に。
無言で走り、階段を駆け上がってきた夜科は息が切れている。それでも笑みを浮かべて真っ直ぐに雨宮を見つめて言った。
「……ホラ、こんないい天気なんだぜ? ……湿っぽい顔してんなよ、オラ」
「いたっ!?」
夜科が雨宮の額を中指で弾いた。
会心の一撃のデコピンは、気持ちのいい音を立てて青空へと吸い込まれていく。
しかしデコピンを受けた当の本人である雨宮はその余りの痛さに思わず額を押さえて目尻に涙を浮かべていた。
また、何が起きているのかまだ頭が追いついていないようで呆然とした表情を浮かべている。
「嫌な事を引きずるのは、夜までだ。もう終わった日の事を引きずるなんてアホらしいと思わねぇか?
朝が来たらオハヨーさん。これでリセットすりゃいいんだよ」
「……っ」
驚いた顔を一瞬浮かべた後、雨宮の目尻に浮かんだ涙の成分が変わっていった。
握られている手とは反対の手でそっと目元を覆う。
「……そんな簡単にいくのは、バカなあんた位よ……」
「天才アゲハ様にバカとは失礼な。……でも、そっちの方がきっと楽だぜ?」
くぐもった声で雨宮が反論する。それでもなお夜科は言い切った。
その言葉に堪え切れずに雨宮が俯く。夜科に自分がどのような顔をしているのか悟られないために。
そして、雨宮は何故自分が夜科を拒む事をしなかったのか、分かったような気がしていた。
諦めたつもりでいて、どこかでまだ諦め切れていなかった。
心の扉をどれだけ頑丈に閉めたつもりでも、それが扉である限り扉は開かれる為にある。
雨宮は、あの時に鍵の掛けられた扉がノックされるのを聴いたのかもしれない。
繋がりが作られるのを期待したのかもしれない。
「……お、はよ……」
晴天快晴の青空の中、雨が降り始めた。
雨はコンクリートの床を濡らし、染みを作っていく。
それは大きな粒で、その雨は暫く止みそうになかった。
続く
とりあえず何とか忙しいのは一先ず片付きました。
長い間更新出来ずに済みませんでした。それから次話で2ndゲーム入るとかいっときながら長くなったからって分割してすみません。
待ってくれてるなんて奇特な方がいるかはわかりませんが次は必ず近い内に・・・!