月曜日。
それは新たな一週間の始まりを告げる日であり、人類が最も忌み嫌う曜日だ。
事実、世界中で自殺者が男女共に月曜日が最も多く、また脳卒中や心筋梗塞の発生率も他の曜日に比べ高い。
何故か。答えは実に単純明快だ。
学生は学校に、社会人は職場へと、それぞれが為さなければならない事を為しに向かわなければならないからだ。
そして、学生である夜科アゲハもその例に漏れず、憂鬱さを鞄と共に肩に背負いながら学校へ歩を進ませていた。
(雨宮は、帰って来た)
その憂鬱さを誤魔化す為、夜科は歩きながら思考する。
思うのは、未使用ならば五百万円の価値のある赤いテレホンカードを泣く泣く使用し、自分がサイレンの世界へとその行方を探しに行った少女の事である。
ニュースで放送された、頻発している謎の失踪事件の被害者リストの中にその雨宮の姿を認め夜科はサイレンへ行く事を決意。
それが、夜科があの荒野に立っていた理由だった。
そしてその少女、雨宮桜子は帰って来た。
行方不明者として扱われていた雨宮はお騒がせな家出少女として。
勿論、それが真実でない事は夜科はよく知っている。
雨宮と一緒にサイレンから帰って来たのは他ならぬ夜科なのだから。
しかし家出少女、無事保護というニュースは世間からすれば心底どうでもいいものだった。
自分の知らない誰かが死んだとしても心が動かされる事は滅多にないのに、ましてや家出した少女の事など、と言う事だ。
そのニュースは事実、芸能ニュースや議員スキャンダルなどより世間の関心を煽るゴシップ色の強いニュース達の間に埋もれ、
世間の隙間にスルリと入り込み見えなくなった。
雨宮の事を記憶に留める人間は、世間にはもういないだろう。
「よォーアゲハー。雨宮見つかったんだってよ。ったく迷惑な話だよなァ」
一部のそれなりに近しい人間を除いて。
夜科と雨宮のクラスメートである坂口、愛称サカは友人である夜科へと挨拶代わりにそう声をかけた。
「――・・・あぁそうだなァ・・・」
夜科は無難な言葉を投げ返す。
自分や雨宮がサイレンへ行って帰って来たと、本当の事を言えない理由があるからだ。
(一日でサカとヒロキに話せない事がたくさんできた)
サイレンに関する事を他者に話すと灰になる呪いの事もあるが、
しかしそれ以上に自分の友人を余計な面倒事に関わらせたくなかったというのもある。
「土曜日お前もあの後どーなったの!?ケータイかけても全然繋がらねーんだもん」
「学校フケた後はケータイ切って寝てた。すまん」
だから夜科は嘘をついた。
人を欺くための嘘ではなく、傷つけない為の嘘だった。
「担任に色々聞かれるんじゃないかな。ニセ刑事二人組の事。
・・・ま、でも学校側も事を荒立てたくないみたいだけどね」
そう言ったのは夜科の友人の一人、ヒロキだった。
実は夜科アゲハがサイレン世界へ行く前にちょっとした騒動、警察を名乗る二人組に赤いテレホンカードを狙われると言う事があった。
サカとヒロキはその騒動を見ており、二人が気にする事は雨宮の事だけでは無かった。
そのニセ刑事の事もサイレンに関する事のようなので夜科は、やはりその事についても口をつぐんだのだったが。
「――そー言われてもなぁー・・・特に何も無かったしナァー・・・
寝てたし・・・疑われてもなぁー・・・」
(なんて嘘の下手なヤツだ・・・)
(怪しい・・・)
しかし、夜科アゲハという人間は根が真っ直ぐな、真っ直ぐ過ぎるきらいもあり、嘘をつく事に慣れていなかった。
友人二人から同時に疑念の目を向けられている事にも気付かないでいる辺りがその表れであろう。
『夜科アゲハ 聞こえる?』
「ぅおッ!?」
二人を完全に騙し切れたと思いこみ頭の後ろで腕を組んでいた夜科は突然聞こえてきたその言葉に驚き、
盛大にバランスを崩して椅子ごと後ろにずっこけた。
「うはははははは!なにやってんだ」
「い、今の声は・・・!?」
『 夜科! 私の声が分かる・・・?
耳を澄まして ワタシよ
夜科
ここにいる やっぱいない 近い
アゲハ
遠くに ちょっと遠く・・・』
「これは雨宮の声・・・?」
聞こえてきた、と言うよりは頭に響いて来たと言った方が近いその音声は、夜科にとって聞き覚えのある雨宮の声だった。
隣に居るサカやヒロキの様子を見る限り、その音声は彼らには聞こえていないようだった。
会話をするというよりは一方的に投げかけられるその言葉を夜科は黙って受け取る。
サカやヒロキはそんな夜科の様子を訝しんでいた。
『学校近くの展望台で待ってる。通信終わり』
それだけを言い残し、音声はプツリと切れた。後に夜科の頭に残ったのは奇妙な感覚。
椅子から転げたと思ったら急に眉間に皺を寄せて辺りを見回し始めた友人にサカは訝しんだ。
「突然どーした・・・?」
「帰る」
「ハァ!?」
簡潔にそう告げ夜科は学校をフケた。
友人の二人は夜科に訳を尋ねてきたが、やはり夜科は頑として話さなかった。
どうせまた何かの面倒事だろう、と判断してその内友人二人も諦めたようだった。
夜科は普段から報酬を貰って頼まれごとを解決するトラブルバスター紛いの事をしていた。
今回もその類だろうというのが友人二人の判断であり、そして夜科は一度物ごとを決めたらそう簡単には判断を覆さない、
頑固ともとれる性格をしている事を長年の付き合いから二人は熟知していた。
友人二人はまだ一限目の授業すら始まっていないのに学校から去っていく夜科を黙って見送った。
――・・・
「夜科アゲハと交信しちゃった。テレパシーで」
街を眼下に一望する事が出来る展望台。
頭に響いた音声が継げた通り、そこに雨宮はいた。
遮る物が無いため、直に受ける風が雨宮の着けているマフラーをはためかせた。
涼しい顔をしながら乱れる髪を押さえつけている雨宮を視界に捕らえながら夜科は思う。
(・・・そもそも一日や二日で治る怪我じゃねぇっての。涼しいカオしやがって・・・)
最後に夜科が見た雨宮の姿は、ボロボロで弱々しいものだった。
体のあちこちに傷をこさえ、立ってもいられない状態。
それが、今目の前にはその弱々しかった姿が幻だったのではないかと錯覚させられる程に健全な雨宮の姿がある。
直面している現実が自分の常識から外れるという不快感を、夜科は一昨日の土曜日から連続して味わっていた。
そんな夜科を余所目に雨宮は思い出すような口調で説明を始める。
「・・・私がサイレンのテレホンカードを手に入れたのは半年以上前。去年の冬・・・
何もかもイヤになって大阪まで家出した時の道ばたの公衆電話・・・
私はネメシスQに出会い深く考えずにアンケートに答えた」
そこまで一息に言って、眼下に広がる街並みから夜科へと視線を移す。
瞳を閉じながら言った。
「以来――・・・私はあの世界を何度も旅している」
ゆっくりと夜科へと向かって歩き出す。
その顔は何かを思い出しながら、その記憶を噛みしめているようだった。
「サイレンて一体何なんだ――・・・!?」
「さ、行こ!」
「って、行くってどこへ・・・?」
雨宮が夜科の言葉に答えることは無かった。
そして夜科の短ランの袖をキュっと掴む。
「デ・エ・ト」
「・・・・・・・・・ハィ!!?」
◆◆◆
「ありがとうございます」
伊豆から送ってくれた運転手さんにお礼を言って、車から降りる。
目の前の道にはそれなりに車は走っているけれど、流石に時間帯が時間帯なだけに喧騒という程でもなかった。
照りつける日差しに夏を感じながら帽子を被り直す。
目の前には豊口市民ホール。
ここが今日、八雲さんに呼ばれた場所だった。
「・・・・・・」
メールアドレスは昨日の内に交換しておいたので、雨宮さんの携帯電話にメールし居場所を尋ねた。
流石に待ち合わせの建物は指定されたけれど建物内のどこにいるかまで指定されなかったから、どこへ行けばいいのか分からない。
メールを打つのに慣れていない為打っている間は無言になった。
「・・・っと」
送ってすぐに返事が帰って来たらしい。
ポケットに仕舞ったばかりの携帯電話が震え、それを教えてくれた。
「一階のカフェ・・・」
ズレてきた鞄を肩に掛け直し、歩き始めた。
――・・・
平日の午前中であるため人気の少ないカフェに足を踏み込む。
店員さんに人数を聞かれたけど、先に連れがいる事を伝えてやり過ごす。
一人でこんな所に入るのはなんだか緊張した。
目立たない奥の席に見知った四人の姿を認め近寄っていく。
「どーも」
そこには八雲さん、雨宮さん、夜科さん、朝河さんのサイレン関係者が集っていた。
なにやら話し込んでいたようなのでこちらから声を掛けて存在をアピールする。
「ん?・・・おお、遅いじゃないか」
八雲さんが話すのを止めて振り返った。
そして浮かべる微妙な顔。
「・・・って、なんだその頭」
「・・・朝起きたら髪が燃えてました。何を言ってるか分からないと思いますが、僕にも分かりません。
それはともかく、遅れてすみませんでした」
八雲さんが見ていたのは焦げた髪を急いで切った為に多少ちぐはぐになった頭だった。
約束の時間を大分過ぎていたのは、髪の一部が焼失したりしたのを何とか誤魔化そうとしていたからだ。
「夜科さん達も、こんにちは」
おう、と何処か意識が別の所に向けられている様子で夜科さんは答えた。
よく見ると夜科さんだけじゃなく朝河さんも僕の事を訝しむように見ていた。
何でだろうかと考えてみると、一昨日まで死にかけていた人間が今目の前でピンピンしている事に引っ掛かりを覚えたのでは、と言う結論に思い至る。
よくよく考えれば夜科さんと朝河さんはPSIの事を知らないのだから無理はない。
どう説明したものか、と内心首を捻りつつ椅子に腰かけた。
僕の分のオーダーを取りに来た店員さんにオレンジジュースを頼む。
他の人はみんなコーヒーだったけれど、コーヒーの美味しさが僕には分からない。
カイルやフレデリカ達も苦いのが無理だったし、僕だけじゃないんだろう。
多分まだ子供だからだ。だからって別に早く大人になりたいとは思わないけど。
「・・・で、だ。話の続きになるが、PSIとは脳の潜在能力。
人間が遥か昔に使い方を忘れてしまった危険な力・・・!私と桜子は・・・おっとソイツもそのPSIの使い手だ」
どうやら夜科さんと朝河さんにPSIの説明をしていた最中だったらしい。
僕にとっては昨日聞いたのと、PSIについては以前から知っていた話なので届いたジュースを飲みながら横で聞いているだけ。
「オレと朝河も・・・!その力に目覚めたって訳か?」
「そう・・・と、言ってもまだ赤んぼ同然だけどね」
コーヒーを一口含み唇を湿らせる八雲さん。
よくブラックで飲めるなぁと変な風に感心する。
「"PSI"は全脳細胞を瞬間的に100%活性化する事で発揮できる『思念の力』だ。
普段ヒトの脳細胞は負担が大きすぎる為およそ9割の脳細胞を眠らせ活動していると言う・・・」
「それって誤情報じゃありませんでしたっけ?
脳における神経細胞の割合が1割なだけで、実は脳は最適に働いているって聞いたような気がしますけど・・・」
「それはあくまでも現在の人類が科学の分野で解明し得る範囲での事さ。
違う分野から見れば、また事情は変わって来る。・・・続けるぞ」
何となく話に首を突っ込んでみたが八雲さんに軽くあしらわれてしまった。
大人しく話を聞いていた方が良さそうだ。
「PSIは脳を酷使する危険な力・・・ヒトは進化の過程で脳にリミッターを掛けてPSIを封印したんだ」
だが、と八雲さんは続ける。
「お前達はサイレン世界の大気に感染した事で・・・!本来人の脳にあるべき制御装置(リミッター)が解除されてしまったんだ・・・!」
これは昨日既に聞いた話。
だけど、脳の制御装置(リミッター)を外すと言う言葉。これに対する違和感が未だ拭えない。
何処かで聞いたような・・・そして、嫌な感じがする。
実際僕はサイレン世界に行く前からPSIに目覚めていたんだし、僕には関係のない事の筈なのに。
そしてもう一つ思う所が。
ヒトが進化の過程で封印した、と八雲さんは言った。
じゃあヒトは、生物はいつPSIを手にしたのだろうか。それは生まれつき持っていたのか、与えられた物なのか。
生物が生存の為に持つには余りにも過ぎていて不自然な力、PSI。
それは一体何なのだろうか。そしてどこから来たのだろうか。
・・・なんて考えても無駄な事を無駄に考えるのは話に入れなくて暇だからなんだろう。
手持無沙汰にジュースを啜る。甘くておいしい。
「PSIが覚醒した者は五感・身体能力を飛躍的に伸ばす事も可能になる。
筋力、視力、聴力、反射神経・・・上げる力は人により様々だ。
リミッターの外れた脳に超負荷をかけ、PSIは人間性能限界を突破する事ができるんだ・・・!」
八雲さんの口ぶりから察するに、ライズの事を言っているらしい。
そう言えば、とふと思う。僕がライズを使えないのは何でなんだろう。
そもそも僕が模倣出来るのは特定の人から限られた能力だけ。
サイキッカーには得手不得手はあれど、みんなバースト、ライズ、トランスの三つの力が備わっているのに。
ヴァンのキュアなどはバーストとライズの複合技だ。
それにも関わらずライズによる身体強化が出来ないのは、一体どういう仕組みになっているんだろうか、僕のPSIは。
「そしてもう一つ――・・・!オーバークロック状態の脳はある特殊な力の波動を産み出す・・・!」
思考の海に沈んでいると八雲さんがコーヒークリームを手に取ったのが見えたので何をするんだろうか、と意識を引き戻した。
八雲さんはそのままクリームをコーヒーに注ぐ。クリームは真っ黒なコーヒーの水面に不安定な白い波紋を描き白と黒が交わり始めた。
・・・存外、普通な事だったので少し拍子抜けしてまた思考に戻ろうかと腕を頭の後ろで組む。
「桜子」
「はい」
すると八雲さんは辺りを見渡し、人が近くに居ないのをわざわざ注意深く確認して雨宮さんに短く告げた。
雨宮さんがカップに手を添える。
「コーヒーのクリームが・・・!」
見ると不安定な波紋を描いていたクリームが、まるで意志を持ったかのように波打ち、波面には白い五芒星が浮かび上がっていた。
ああ、と僕は胸の内で納得の声を上げる。
「通称"テレキネシス"。PSIの波動でコーヒーの波面に模様を描いたのさ」
「一般的に巷で超能力と呼ばれる力はこのPSIの産み出す思念の波動によるものよ。
PSIは念動力(テレキネシス)、テレパシー、透視、発火現象(パイロキネシス)、予知・・・その応用は個人の資質と訓練で幾多にも及ぶ・・・」
どうやら八雲さんは今度はバーストを夜科さん達に説明したかったらしい。
確かに黒いコーヒーと白いクリームを使えば手を触れずに物を動かすと言うのが理解しやすいだろう。
それに液体なら固体を動かすよりも少ない力で済む。
八雲さんの言葉に雨宮さんが捕捉を入れ、更にその先は八雲さんが続ける。
横から見ていて気持ちのいいほどに連携が取れていた。それだけ二人は意志の疎通が取れていると言う事だ。
「・・・そしてPSIはあのサイレン世界の謎を解くカギでもある・・・!
PSIを覚醒させるサイレンの大気・・・つまりあの世界はPSIの力に満ちた異界に変貌してしまったんだ。
禁人種(タヴー)・・・!あの異形達の誕生にもこのPSIの力が何らかの形で関わっている・・・!!」
これも昨日八雲さんと雨宮さんから聞いた話だけど、僕が戦ったあの化物は禁人種(タヴー)と呼ばれているらしかった。
八雲さんも雨宮さんもまた別のサイレンに行った人から伝え聞いたそうだ。誰がそう呼び始めたのかも分からない。
サイレンに行った人がそう名付けたのか・・・それとも、禁人種を創った者がそう名付けたのか・・・
一切が不明で、腑に落ちずなんだか気持ちが悪い。
「我々を襲う何者かのPSI創られた生命体――・・・
PSIに対抗するにはより強力なPSIしかない・・・!」
八雲さんはそう言葉を結んだ。
・・・何だか話が壮大な事になって来たものだ。
僕はこっちの世界で普通にPSIに目覚めたから、いまいちサイレン世界とPSIの結びつきのイメージが弱いのだろうか。
八雲さん達、サイレン世界の大気でPSIに目覚めた人にとっては、PSI=サイレンの関係式が立てやすいのかもしれない。
「オレも強くなりたい・・・!そのPSIって力を・・・使い方を教えてくれ!!」
そうだ。
夜科さんが言うように、何はともあれ力を付けなくちゃいけない。
組んでいた腕を元に戻して少しテーブルに身を乗り出す。
八雲さんは、そんな夜科さんを頼もしく思ったのか、口元に薄く笑みを湛えた。
「まずはお前達の力を試させて貰おう。PSIの基本の一つ・・・テレキネシスの訓練だ。
さっきと同じ模様をクリームを操ってコーヒーの波面に描いて見せろ。グズグズしてるとすぐ混じり合っちまうよ!」
そう言って八雲さんは夜科さんと朝河さんと、そして僕にクリームを差し出した。
いや、あの・・・僕のはコーヒーじゃなくてオレンジジュースなんですけど・・・
「・・・・・・ええぇ・・・」
夜科さんと朝河さんは真剣な表情でコーヒーにクリームを注いでいた。
僕は・・・雰囲気に流されてジュースにクリームを入れた。何だか断れる雰囲気じゃなかった。
「できるなんて期待しちゃいないよ・・・カップにさざ波が立てば合格点。
まずは力の引き出し方を自分で見つけて覚えなきゃ、ね」
八雲さんがそう告げるが、PSI初心者二人はその声も聞こえないかのようにコーヒーを親の敵のように睨み付け、必死にクリームを動かそうとしている。
僕のは、案の定クリームがジュースの酸で凝固して白い粒が表面に浮いていた。
コーヒーが混ざり合わないようにテレキネシスを使う以前に、クリームが混ざり合っていない。
「あーあ・・・」
ぼやきながらテレキネシスを発動。
揺れるジュースの波面が、固まったクリームの脂肪分を中央に寄せる。
「あれ・・・?」
そして白い塊を引き上げようとした時、テレキネシスが急に乱れて塊が黄色の波面に落ちてしまった。
塊は再び脂肪の粒にばらけ、波面から飛び出した飛沫がテーブルに落ちる。
「・・・ブレ、か」
もう一度テレキネシスを使う。
脂肪が中央で塊になった時、思考を割いてマテリアル・ハイを投影。
脂肪が、空気と僕のPSIで創られたブロックの中に閉じ込められて、真っ白な液体で満たされたブロックが出来た。
固定解除(フォールダウン)するとブロックがプカプカと水面に浮いたのでそれはストローを使って掻き出す。
「・・・ん?」
やれやれ、と内心ノーと言えない自分に対してため息を吐いていると、ふと視線を感じたので顔を上げてみる。
すると、その場にいた全員が僕を凝視していた。
「・・・どうやったんだ!!?それっ!?」
「うわっ!?」
椅子を蹴飛ばす勢いで夜科さんが詰め寄ってくる。
咄嗟にジュースが零れないようにグラスを移動させたのは、自分でもナイスプレーだと思う。
「え、えーと・・・」
「しかも何だアレ!?変な四角いヤツ!!
どっから出したんだ!?マジシャン!?てか、あれもPSIなのか!?」
「夜科、落ち着いて」
雨宮さんが制止をかけてくれた。
やっぱり初見では無いにしろ殆ど初めて見る人にとってPSIは結構な衝撃らしい。
「・・・昨日感じたあの異様な感覚じゃない。それにどこか・・・ぎこちない?
なんなんだコイツのPSIは・・・」
八雲さんが何か呟いているけれど、よく聞こえないし今は夜科さんに詰め寄られていてそれどころじゃない。
夜科さんは取り敢えず雨宮さんの制止を聞き入れて自分の椅子に腰を戻した。
「えっとですね、PSIを使うときは・・・その、こうぐあーって感じで、ずばぁーって感じです」
「・・・なるほどな。全然分からん」
夜科さんが言葉の端に呆れを多分に含ませて言った。
すっかりPSIを使うのに慣れてしまっており、一々PSIを使う度に意識していた訳では無いので、
改めてPSIの使い方を言葉にするのは難しかった。
確か初めてPSIを使った時は僕もシャオから教わったはずだけど、シャオはあの時なんて言ってたっけ・・・?
「二人とも目を閉じて。意識を集中させて・・・頭の中にカップを思い浮かべるのよ」
「桜子ォ・・・甘やかしちゃそいつらの為にならんぞー・・・」
・・・そうだった。
PSIは自分のイメージを具現化する力。そうシャオから聞いたんだった。
一番大事なのはイメージ。
そして自分はイメージを具現化出来ると信じる気持ち、心の持ちようだった。
「PSIは思念の力・・・イメージを現実に変える力・・・!
自分を信じるの・・・あなたはもうPSIに目覚めている・・・!」
八雲さんの非難の言葉にも涼しい顔コーヒーを啜っていた雨宮さんが言った。
二人はその言葉通り瞳を閉じ、瞼の裏に潜む闇に目を向ける。
闇の先にあるのは、自分。
PSIは思念、つまりその人その物を映し出す。
思念とはその人を形作る物の表れ、決して同じものなど二つとして存在しない。
だから、PSIは人によって異なる表れ方をするのだろう。
それは言わば魂みたいな物だといつかアロハシャツを着た人は言っていた。
そんな人の魂を写し取るなんて決して有り得ないし、有り得ては駄目だ。
その有り得ない事が体現されている、僕。
・・・いつかは知らなければいけない事だけど、今は関係のない事。
「己のイメージを実現させる事があなた達には出来るはず・・・!」
「む!?」
「創り上げたイメージを、目を開いて投影する」
ちょうど雨宮さんと八雲さんのその声で意識を現実に引っ張り戻した。
二人が瞼を持ち上げる。
その直後。
「ッ!!?」
「どうしたの?」
店内に椅子の倒れるけたたましい音が響いた。不意に店内に静寂が満ちる。
みんなコーヒーのカップじゃなくてそんな僕を見つめて来る。店にいた人達も何事かとこちらに首を向けていた。
椅子を弾き飛ばしたのは、僕だった。
・・・何かが、無理やりに言葉に表すなら、恐怖を直に想像させる物が僕を貫いた。
背中を氷塊が滑ったような心地がして鼓動が急に煩くなる。
「い、いや・・・なんでも、ないです・・・」
上手く回らない舌で弁明しながら椅子を元に戻す。
怖かった。そう、怖かったと言う他ない。
「大丈夫か・・・?」
そう尋ねて来る夜科さんの顔をまともに見れなかった。
夜科さんが心配そうに手を伸ばして来る。
「ッ・・・!!」
「いつっ・・・!」
触れられた瞬間電流が走ったかのように体が跳ね、夜科さんの手を払ってしまった。
「あ・・・ご、ごめんなさい・・・」
「何だ一体・・・?」
朝河さんがPSIを初めて使った感覚に顔を顰めながらこっちの様子を窺ってくる。
急に態度が変わった僕を心配そうに夜科さんも見つめている。
二人にもう一度大丈夫ですと伝え、ついでに店内の人達にも頭を下げておく。
自分でも良く分からない感覚に戸惑いながら、椅子を元に戻した。
血液が濃くなり粘度を増したかのように鼓動が、心臓が痛い。
椅子を掴んだ手を見ると微かに震えていた。
本当に何なんだろうか、一体・・・
自分の頭と体が今更ながら訳が分からなくて不安になる。
「・・・大丈夫だってんなら、いいけどよ」
夜科さんも納得し切れていなさそうに自分の席に腰を下ろす。
それでも大丈夫だと僕が念を押すと、二人は僕から視線を外し、本来の目的のコーヒーカップを覗き込んだ。
「おお・・・!!」
朝河さんが驚きの声を上げる。
見ると波面には不完全ながらも五芒星が描かれていた。
一方夜科さんの方は・・・
「こ・・・これは・・・?」
「完全に混ざってるだけなんじゃないか?」
恐る恐ると言った様子で目の前の事実を否定して欲しそうに八雲さんに尋ねるが、八雲さんはばっさりと切り捨てた。
そして暫くの間事態を静観していた雨宮さんが軽く息を吐いて、一言。
「このダメ人間・・・!!」
「うわあ!?」
「怖いな・・・才能ってヤツは・・・」
雨宮さんからの冷たい一撃で心を抉られ、留めの朝河さんの一言で夜科さんの心は砕け散ったようだった。
それにしても雨宮さんは夜科さんに対しては遠慮が無いと言うか、何と言うか・・・
それにしばらくこの場にいる人を観察していたけど、どうやら朝河さんと夜科さんはサイレン世界で出会う以前からの知り合いのようだ。
どことなく初対面のぎこちなさがない。
「・・・こんにゃろう!!泣き虫ヒリューのくせに生意気だぞ!!」
「だぁ!コーヒーが零れるッッ!!」
逆ギレした夜科さんが朝河さんに飛びかかった。
・・・が、悲しいかな、体格の差から割と簡単に夜科さんは羽交い締めされてしまった。
「・・・まァ、初めから上手くいくなんて思っちゃいないさ。
悪いが時間だ。この辺で失礼する」
そんな二人を余所目に八雲さんは腰を上げた。
そして視線を向けた先は、僕。
「・・・ったく、ホントはお前にも聞かなきゃならん事は幾つかあったんだが、仕方ない。
これ以上は束縛怪獣(マネージャー)が五月蠅いんでな。代わりに桜子と話をしといてくれ。私は後で桜子から聞くから」
どうやら僕の遅刻のせいで話そびれた事があるらしい。
仕方なかったにしろ申し訳なく思う。
「すみません」
「・・・・・・」
頭を下げる僕を意味深に見つめる八雲さん。
一言も発さずに見つめるその深い瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
実際に見た訳じゃないけど、この人には力がある事は分かる。
何で分かるかは聞かれても困るけれど、何となくそう感じる。
「・・・まぁ、いいか。
オイお前ら!アホな事ばっかやってないでPSIの腕はしっかり磨いておけ。PSIを使う敵と遭遇すれば今のお前達では必ず殺される・・・!」
不意に強さが滲むその瞳が外れ未だにいがみ合っている二人を捕らえる。
そしてその場にいた全員を見渡しながら言った。
「そしてもう一つ・・・経験から言わせて貰おう。
次のネメシスQの呼び出しは恐らく二週間以内・・・!十日でPSIを身につけろ」
「十日だって!?」
「スプーン曲げを覚えた所でお前達に勝ち目は無いが・・・」
八雲さんがカップをつまみ上げてその湯気の立つコーヒーに人差し指を突っ込んだ。
力が高まるのを肌で感じる。やっぱり、この人は強い。
クリームの玉が指先で回る。僕が出来なかった液体を纏め上げて持ち上げるなんて芸当を、この人はやってのけた。
だけど・・・夜科さんのような圧倒的じゃない。
「力は使い方次第さ。PSIは己の発想と想像力でどこまでも伸びる・・・!頑張れよ」
夜科さんのアレは一体何だったんだろうか。
胸を押さえると早鐘ようだった心臓は治まっていた。
「ほい、あーん」
「はい?・・・って」
そんな事を考えていたら口にクリーム玉が突っ込まれた。
八雲さんの指が唇に触れてびっくりする。
・・・意外とクリームおいしい。
「んじゃ、後はよろしく頼むぞ桜子。出来の悪いちっこい方はよぉく面倒みるよーに」
そして八雲さんは去っていった。
確かに平日の昼間っから暇な大人というのも問題だし、都合が付かないのもしょうがない。
いつかのアロハシャツの人みたいな方が世間的には珍しいのだろう。
・・・二、三個クリーム貰っていこうかな。
そんな事を八雲さんを見送りながら思った。
「あーくそ!!ちくしょうが!!
体調が悪かっただけだ・・・!ヒリューに出来るもんがオレにできねー訳がねぇ!!!」
「ハッ、ひがむなひがむな。コツでも教えてやろうか?」
「だー!ウっせーんだよ!!」
・・・まだこの遣り取り続いてたのか。
と言うかこの二人、顔見知りなんて関係じゃなさそうだ。昔の友人、とかそんな所かもしれない。
「こんなとこで躓いてられっかよ!
・・・っつー訳で教えてくれ、PSIの使い方!!」
「はい!?」
急に夜科さんが僕に頭を下げて来たので驚いた。
それに意外と夜科さんが子供の僕にも頭を下げられるような人だとは思わなかった。
・・・それだけ真剣って事か。
「えーと、はい。いいですよ、それくらい」
「おお!マジか!!サンキューな!!」
頭を乱暴に撫でられた。
大丈夫・・・さっきまでの恐怖は感じない。目も合わせられる。
それどころか、大きな手が頼もしくさえ感じた。
「うん・・・じゃ、行こっか」
「行くって、どこへですか?」
頬まで抓られ始めたので流石に夜科さんの手を払って雨宮さんのに尋ねた。
伸びる伸びるとか言って楽しそうに引っ張るのは止めて欲しい。普通に痛い。
「私の部屋」
◆◆◆
それから徒歩で数分の雨宮さん宅へ。
予想した通り、三人は幼なじみだったらしく道中はその昔話に花を咲かせていた。
しかし、その中に僕は入れないためにただ黙って聞いているだけだった。
そんな雰囲気が宜しくないと思ったのか、間を持たすために時折夜科さんが僕に尋ねてきたのだった。
そんな訳で道中で色々な事を夜科さん達から聞かれた。
白い髪の事。
地毛だと答えた。
目の下の刺青の事。
僕にも分からないと答えた。
記憶が無いことなど色んな事を話さなければいまいち話に整合性がとれないけれど、正直、話すのが面倒だった。
それに、あまりその事を人に話すのは好きじゃない。
気の毒な奴だと、どうしても偏見が入ってしまうから。
打ち明けるとしたら話す必要性が出来た時で、それなりに親しくなってからだろう。
まあ、自分語りなんて面白くも何ともない物を話したくないし、夜科さん達もきっと聞きたくない。
「そう言えば、お前親は?」
そうしている内に夜科さんが何気なく尋ねてきた。
本当に何気なかったから、特に何も意図していなかったんだろう。
平日の真っ昼間に小学生くらいの子供が学校も行かずにこんな所にいる。
親は何も言わないのか?と、そんな所かな。
・・・元々学校は行ってないんだけど。
「あー・・・親はいません。保護者のお婆さんにはちゃんと言ってから来てるんで大丈夫です」
「・・・親はいないって、天樹院エルモアがあなたの親じゃないの?」
それまで黙っていた雨宮さんが突然話に参加してきた。
何が雨宮さんの琴線に触れたのだろうか。
「お婆さんと僕じゃ歳が離れすぎですよ。せめて孫とかなら分かりますけど、お婆さんに子供はいませんでしたし。
・・・それはともかく。僕はお婆さん、天樹院エルモアに拾われたんです」
「拾われたって・・・」
「色々あったんです。ま、いいじゃないですか」
「・・・・・・」
雨宮さんが口をつぐんだ。
僕が特に語りたがらない事から何か察してくれたんだと思う。本当は説明が面倒なだけだけど。
流石に気が付いたらトラックの中に居て、記憶が無くて、トラックには僕と同じ顔の死体がいっぱいありました、
それで目が覚めたらお婆さんの家でした、なんて言われても信じにくいし反応し辛いだろう。僕だったら困る。
それからしばらく無言で歩く。
親がいない発言も重たかった、のかな?それとも単純に話題も無いだけか。
「ここよ」
角を曲がって、雨宮さんがふと足を止めた。
目の前にはそびえ立つ高層マンションが。
「ひぇーここが雨宮ン家!?これ全部かよ・・・」
自動ドアが僕達を迎え入れ、更に雨宮さんが持っていた鍵で中のもう一つのドアを開ける。
かなり新しいマンションらしく、防犯設備も充実しているようだった。
平日の昼だからか人の気配しないマンションを歩く。
それにしても、どこか不自然過ぎる気がする。
余りに気配がなさ過ぎることや、全くマンションの内部が汚れていないこと。
比喩じゃなく人が居ないようだった。
「ハッハ!!オレのボロい家とは比べモンになんねェや」
「俺達手ぶらで邪魔していいのか、雨宮?」
「気にしないで」
キョロキョロと忙しなく豪華なマンションを見渡す夜科さんに、高校生で手土産を心配する朝河さん。
素っ気なく返し歩みを進める雨宮さん。
個性的だなぁとぼんやり思う。
そしてぼんやりしたまま鞄を漁る。
「はい、そう思って名物うなぎパイ持ってきました」
「・・・用意がいいのね」
「なんでうなぎパイ・・・?」
「うなぎパイって伊豆の名物だっけか・・・?いや、でも静岡・・・?」
雨宮さんは苦笑しつつ受け取ってくれた。
夜科さんは、どこか納得し切れないようでぶつぶつと何か呟いている。
「・・・でも、気を遣わないで。親はいないから」
「え・・・?」
「ここはパパが私の部屋用に借りてくれたマンションだから。私一人で住んでるの」
人の気配がしないのはそういう事だったらしい。
ドアの内側にあった表札にも雨宮さんの名前がポツリと書かれていただけだったから、半分確信に変わっていた所だった。
「な、なんたる金持ち・・・!」
「雨宮の家族ってそんなにスゴかったのか・・・!」
それにしても。
親がいるのに、愛されない。
それは親がいるかどうかも分からないのとどっちが悲しいのか。
・・・以前にフレデリカに言われたことを思い出す。
『思い出したくない過去があるくらいなら、いっそアンタみたいに記憶がない方がマシだわ』
そう言われた時、すごく悲しかった。
悲しかったけれど涙は出せなかった。どこかその言葉に、納得した自分がいたから。
まあ、その時は何も言えず悲しいのを気取られないように笑うしかない僕の代わりにマリーが怒ってくれたんだけど。
その後二人が喧嘩に発展して止めるのが大変だった・・・色んな所が燃えたり青痣が出来たり。
それはともかく。
僕には雨宮さんにかける言葉が見つからなかった。
同情するのも違う、自分なんか親が最初からいない、なんて言うのはもっと違う。
僕には分からない。だからただ、その言葉に耳を傾けるしかなかった。
「パパは今新しい女と一緒に住んでるから・・・この方が都合がいいの。・・・パパも、私も。
ママは、パパと沢山喧嘩して・・・もうずっと前に出てっちゃった」
人はそんな簡単なものじゃない。
そうかもしれませんね、アロハさん。
たった今目の前で悲しそうな顔をする雨宮さんに、僕は何もする事が出来ないんですから。
人は支え合うことが出来るかもしれない。けど、それはお互いに支えを望んだ時だけ。
支えを望まないのに支えようとしたら、それは単なる押しつけだ。
「結局、ママにも恋人が居たのよ。最後の日・・・これから買い物行くみたいに私に"じゃあね"って・・・」
「雨宮・・・」
「"じゃあね"じゃ、すまないよ。
二人とも・・・あんなに私にキョーミないとは思わなかったなぁ・・・」
でも・・・
人は何か出来ると思う。いや、そう信じたい。そうじゃなきゃ、悲しすぎるから。
横を歩く雨宮さんの手をそっと握った。
身長差の関係で手を上げる形になってしまった。これじゃどっちが手を握られてるのか分かったもんじゃない。
「・・・どうしたの?」
雨宮さんが驚いた顔をした。それから子供を見るような、いや実際子供だけど、そんな柔らかい表情になった。
自分からやっておいてアレだけど、気恥ずかしい。それを悟られないように全神経を注いだ。
「なんとなく、こうしたいんです。ダメ、ですか?」
「・・・そんな風に言われたら、ダメって言える訳無いじゃない」
「・・・すみません」
雨宮さんの手は、暖かかった。
一見冷めているように、冷たそうに見える雨宮さんだけれど、そんな事はないらしい。
「ん?」
ふと視線を感じて振り返って見ると、夜科さんが凄い形相で睨んでいた。僕を。
目があった僕に対して、親指で自分の喉の前に一文字を描く。
「・・・・・・」
・・・どうやら、本当に僕のやった事はお節介だったらしい。
雨宮さんには、もう支えようとしてくれる人がいるみたいだから。
・・・いや、そうならそうで僕なんかがしゃしゃり出る前に行動起こして下さいよ。夜科さん。
続く