ある日。
いつも通りの朝。
澄み渡り、そして水気を含んだ空気。時折遠くで聞こえる電車がレールの継ぎ目を踏み鳴らす音。
ガタンゴトン、と街中に木霊する。
紺色の紗幕が次第に薄れて行き、星達もその姿を隠す。
夜明けを象徴する一際明るい星が傾き、月が白く薄くなり出す頃。
いつも通りのPSIの訓練を、僕はしていた。
集中――・・・
自分の奥の深く深くに潜って行き、自らの内側を感じ取る。
淡く、そして白く濁った光。それが僕のPSIだと気付いたのは、結構前の事。
意識を傾けたのに呼応して白濁した光が僅かに強まる。
深淵にたゆたいながら、イメージを練り上げていく。
白濁した光がうつろっていった。
空色の柔らかな光が白濁に広がる。
胸に仄かな熱を感じながら、練り上げたイメージを昇華させる。
せきどめられたかのように僕の中で膨れ上がったPSIを更に凝縮。
少しの衝撃で破裂してしまいそうになるのを堪えて、堪えて、堪える。
緩く五指が閉じられた掌を持ち上げた。
指先に触れる皮膚からも鼓動が感じ取れる。
きゅっと五指を握り、拳を作る。
ざわめいているPSIの方向性を決め、それにPSIを従わせる。
ゆっくりと拳を解き、掌を前に翳した。それと共に閉じられた双眸を開く。
――・・・投影。
その瞬間、出口を見つけたPSIが勢いよく体の外へ溢れ出す、かと思われたがそうはならなかった。
一度僕の中のPSIがぐにゃりと揺らぎ、ラグを挟んでから体外へと放たれた。
そして目の前に大気を固めて作られたブロックが現れた。
「・・・・・・」
それを尻目に再び投影。
もう一つ横に別のブロックを作り出した。
二つのブロック。
「"固定解除 フォールダウン"」
両の掌にどっしりとした重みが伝わる。
しかし伝わる重みはどちらの掌のも同じだった。
いつだったか、PSIのブレの事を指摘されてから注意してみたが、PSIの行使の際に
確かにブレ、歪みのようなものがあった。
特に大きな力を使おうとした時にそれは顕著であった。
練り上げられたイメージを元にPSIを放とうとする瞬間、いつも揺らぎを覚える。
その揺らぎの為かPSIが目的地を見失ったかのように明後日の方向に飛んで行き、そして霧散する。
先程のブロック、前者は僕の出せる最大のPSI出力かつ高密度をイメージして放った全力のマテリアル・ハイで、
後者はあまり気負わずに作り出したマテリアル・ハイ通常版。
両者にさしたる差は無かった。
大きな力を使おうとする。その時にPSIが結実し、具現化するのはおよそ五割程度。
普通の力だと余りロスはない。
と、言うことはマテリアル・ハイ通常版が今の僕が行使できる限界だと言うことだ。
「なーんでかなぁ・・・」
ブロックの一つを空に放り投げ、力を解除。ブロックが淡い欠片となって大気に溶けてゆく。
ブレに関しては少しだけ思い当たる部分があった。
白濁に異なる色が広がっていくとき、完全に混ざり合っておらず、斑になっている箇所が見られた。
それが『親和出来ていない』と言うことなのだろうか。
「でもなあ・・・親和出来てないっていったって、いったいどうしろと・・・」
そう、親和出来ていないと言うことは認知できたが、じゃあどうすれば親和性が上がるのか、
なんて言うことはさっぱりなのだ。要するにお手上げ。
テレキネシスにしたって、心羅万招にしたってどれもブレはついてまわった。
「・・・疲れた」
もう一つのブロックに腰掛け、首を軽く回す。
まだ朝だと言うのに一日の終りの時点のような疲労感が肩に圧し掛かっていた。
「毎日毎日飽きもせずによくやるぜ」
傍観していたアロハさんが声を掛けてくる。
胡坐をかいて新聞を読む姿が妙に様になっているのはどういうことだろう。
「ああ、おっさんくさいってことかな」
「あんだよいきなり。まだ二十台だボケ」
「聞こえましたか。いやまあPSIトレーニングは日課みたいなもんですし」
小声で呟いたつもりが聞こえてしまったようだ。
今更そんな事で気まずくなるような間柄ではないので問題はなし。アロハさんも特に気にしてない。
「・・・そういや、いままで気にしてこなかったが、何でお前トレーニングなんかしてんだ?
力使いこなしてどうすんだ?」
アロハさんが新聞を畳みながら尋ねてきた。同時にお婆さんの言葉が蘇ってくる。
・・・これは、話してもいいのだろうか。
「・・・明日世界が終わるとしたら、どうします?」
「あ?急に何の話だ?」
「いいからいいから。どうします?」
「そうだな、なんか旨いモンでも食って、風呂入って、そんで寝る」
アロハさんは割と真面目な表情で答えた。
「あんましいつもと変わらないじゃないですか。まあ、そんなもんですよね。
・・・僕は、多分抵抗します。世界が終わるって言われたって、そんなの認めたくないですから。
終わらせようとする奴と戦って、駄目ならそれで納得して終わりを受け入れます」
苦笑しながら返す。
途中からは真剣な顔になっていたと思うけれど。
「おいおいなんだ、ホントに世界の終わりが来るみたいな言い方だな」
「いやまあ戯れ言ですよ。気にしないで下さい」
よっこらせと、口に出しながら腰を上げる。
ブロックの表面を軽く叩き、ブロックを消した。
「で、鍛える理由は?」
「まあいいじゃないですか。筋トレが趣味の人だっていますよ。そんなもんです」
腰を反らし、背骨を伸ばす。ポキポキと軽い音がした。
逆さまになった世界を眺める。
太陽が顔を覗かせ、空は燃えるような色に色づき始めていた。
曙光が目に突き刺さる。
柔らかな日差しで疲れが体外に滲み出ていくような気がした。
世界は、逆さまになっても何も変わらないままだった。
いつか世界が変わらなければならなくなるその日まで、それが続けばいいと思う。
◆◆◆
別の日。
「人と人って分かりあえると思いますよ」
「・・・なんだ藪から棒に」
「だって、同情とか感情移入って言葉とかあるじゃないですか。
人の気持ちを理解できるようにできてるんですよ。人間って」
「・・・・・・」
「今アロハさんに同情してますよ。僕は」
そう言って買ったばかりの、一口しか食べていないアイスを落として
盛大に落ち込んでいるアロハさんに声を掛けた。
「人間はそんなに簡単じゃねぇよ」
公園のベンチに座り斜め45°の虚空を見つめながらアロハさんは言った。
横でアイスを食べる僕。子供がはしゃぐ声。
「他人が何考えてるか分かったモンじゃねえ。例えば、今俺が何考えてるか分かるか?」
「アイス落とした後悔でしょ?」
「ぐ・・・今のナシだ。じゃあその辺にいる人間が何を思っているか分かるか」
「それは分かりませんけど・・・」
視線をアイスから公園で遊ぶ子供達に向けた。楽しそうな笑顔で駆け回っている。
ふとカイルを思い出し、少し寂しくなった。
「でも、大体の推測なら出来ますよ。遊ぶのが楽しくて仕方が無いって感じですね」
「どうだか。今あそこのガキは、実はもう一人のガキが憎くて仕方ねえかもしれねえぞ。
分かんねえモンなんだよ。推測ってったって所詮は自分の中で完結してるモンじゃねえか。
証明できねえモンは信じれねえな」
もう一度遊んでいた子供達を見ると、なんだか雰囲気が険悪になっていた。
どうやらボールの取り合いだか何だかで、喧嘩になりつつあるらしい。
片方の子が泣き出した。
それを見つめるもう片方の子も何かを堪えるかのような顔をしている。
「お前は理解できねえ奴が存在するってことを知らねえからそんな事が言えんだ。
感情持ってる人間なんてのは絶対に理解出来ないんだよ」
感情、と言ったところでアロハさんの顔が曇った気がした。
「難しいですね。みんなが分かり合えるなら争いとかも無くなると思うんですけど」
堪えるような顔をしていた子供が手を振りかぶった。
その周りの子供達もおろおろしている。
「そりゃ自分を理解してくれるヤツしかいらないって言ってるのと同義だな。
ま、それは悪いことじゃねーさ。ただエゴってだけだ」
「・・・じゃ、分かり合おうとお互いにし合える、って事で手を打ちましょうか」
「・・・・・・」
アロハさんは少し驚いたような顔をした。
手を振りかぶった子供は、そのまま手を差し出していた。
泣いていた子供もポカンとした顔をしている。
「理解出来ないからって関わろうしないって事も無いんですし。
誰だってホントは仲良くしたいのかもしれませんよ」
「それなら、まあ・・・」
泣いていた子が差し出された手を握っていた。
アロハさんもどこか納得しきれないような表情だったが、とりあえず頷いていた。
「という訳でこれどうぞ。アロハさんの気持ちを理解しようと努力した結果です」
食べていたダブルソーダアイスの二本の持ち手を握り、そのまま引っ張った。
食べかけのと、まだ口を付けていない方の二本のアイスが出来た。
まだ新しい方を差し出す。
「・・・・・・。めんどくせーヤツ」
「文句あるんなら食べなくてもいいんですよ」
「いや!もらうから!!おい!くれよ!!」
何事も無かったかのように再び走り回る子供達や、隣で苦笑いしているアロハさんを見て思う。
人を完璧に理解しようという事は、おこがましい事なのかもしれない。
それでも僕は――・・・
◆◆◆
最後の日。
「どうだ、この街は見覚えあるか?」
人通りの多い道を歩きながら、大柄な男が尋ねた。
白く、陽炎のように揺らいでいたあの夏の日、僕がこの人に出逢った日からどれくらい経ったのだろうか。
「いいえ、全く記憶に引っ掛かりませんね。
もしかしたら僕が思い出せてないだけかもしれませんけど」
大気に満ち満ち、全身に絡みつかんばかりだったあの生温い夏の生気も随分前に影を潜めた。
僕が自分を探し出せていなくても、季節は巡る。
探し出せない事に焦って、必死にもがくけれど、何も変わらない。
変わって行くのは季節だけだった。
夏が南風と共に去っていき、秋が落ち葉と共に吹かれ、冷たい北風が冬を運んできた。
アロハさんは寒くなっても下に着込んだその上に相変わらずアロハシャツを纏っている。
譲れない何かがあるのだろうか。
アロハシャツを着てくれないとなんと呼んだらいいか分からなくなるので助かってはいるが。
「・・・なかなかみつかんねーモンだな」
「ま、初めからそう簡単に見つかるとは思ってませんよ。
それに、探し物が見つからないのはお互い様でしょう?」
「まあ、な」
こちらをチラリと見てくる。
アロハさんとも大分長い付き合いになる。もう半年は過ぎただろうか。
初めて逢った時には一緒に旅をするなんて思ってもみなかった。
だけど、今は逢えて良かったと思う。
色んな経験をした。色んな思い出が出来た。
それに、一人だったら絶対に寂しかった。この事と感謝の言葉は恥ずかしいから言わないけど。
はらり、と視界に入る物があった。
掌の上に一つ乗せると、すぐに体温で溶けて消えた。
「雪ですよ。ホラ」
「ああホントだな。どうりでさみーわけだ。もうそんな季節か」
二人して空を見上げる。
顔に雪がかかり冷たいが、その冷たさも忘れるほど雪が舞い降りてくる光景に見とれていた。
しばらく二人の間に沈黙が満ちた。
「・・・どうします、これから」
ふと我に返った。
別に急いでいる訳でもないけれど、何となくそんな疑問が口をつく。
「・・・さてな。とりあえず、さみーから何か温けえモンでもちょっと買ってくるわ」
「あ、じゃあ僕のもお願いします。適当に温かくて甘いので」
「おう。じゃ、ちょっと待ってろよ」
そう言ってアロハさんはどこかへ向かって行った。
コンビニか自販機でも探してくるのだろう。
雪が頭の上に積もるのは避けたいし、僕はその辺の建物の軒下に入った。
はあ、と息を吐く。
最近白く見えるようになった溜息は、少し宙に留まってすぐにまた見えなくなる。
「はあ・・・」
再び溜息が洩れる。
胸の中で焦げ付いている焦燥感を吐きだすかのような重たい溜息だった。
先程アロハさんにああは言ったけれども、実のところ僕はかなり焦っていた。
半年だ。
半年もの間旅を続けたが、自分はおろかその手掛かりさえも見つけられていないのだ。
もし知っている風景に出会わなかったとしても、時間の経過と共に思い出す物があるかもしれないと思っていたが、
それはどうやら甘かったようだ。
この旅が無駄だったとは思わない。思わないけれど、目的は果たされていない。
だから、やっぱり不安になる。
でも、
「へたれるなー僕ー」
不安がってばかりいても仕方ない。
自分に言い聞かせる。溜息は手を暖める為の物にした。
諦めたらそこで試合終了なんだそうだ。
じゃあさっさと先取点とって試合を終わらせたいものだけれど、そういう訳にもいかない。
「がんばれー僕ー」
そう一人で呟いていると、なんだか焦るのが馬鹿馬鹿しくなって少しだけ気が晴れた。
「・・・よっし、もう大丈夫。
・・・それにしても遅いなあ、あの人。どこまで行ってんだろ」
待つ側というのは何故かいつも心細くなるものだ。
アロハさんが歩いてきていないか喧騒の中を見渡す。
――・・・その時、騒がしかった人ごみが一瞬凍りついた。
そしてその僅か後には弾かれたように更に喧騒が強まった。
それまで決まった方向に流れていた人の流れがぐちゃぐちゃに乱れる。
歩行者で溢れるこの道に、一台の大型の車が突っ込んできていた。
「え?」
横断歩道を渡っていた数人の人達が跳ね飛ばされた。
ドサリ、と近くで音がした方を見ると跳ね飛ばされた人だった。
頭が割れ、首が変な方向に捻じれていて、顔が血まみれだった。
「きゃああああああああああああああ!!!!???」
喧騒が悲鳴に変わる。
そしてそのまま車は別の人を跳ねた。
最初は事故かと思ったけど、違うようだ。明らかに殺意をもって車を動かしている。
「あ・・・」
車の前に茫然とした小さな子供が立っているのを見た時、弾かれたように頭が働いた。
テレキネシスを超高速展開し、見えない手を子供に伸ばす。
「っく!」
間一髪で子供に届き、車の走行方向から押し出した。
小さな女の子は状況に頭がついていって無いようで、ただ震えていた。
車が止まった。続いて中から男が出てくる。
手には銀色に鈍く輝く大きめのナイフが握られていた。
「・・・・・・ろ・・・く」
男が何かをブツブツと呟いている。泥水のように濁った目の焦点は合っていない。
クスリか何かをきめたかのような…明らかに普通でない雰囲気だった。
「・・・・・・マギ・・・クに・・・われ、命をささげ・・・・・・」
男がナイフに両手を添える。そしてそれを水平に構えた。
構えたナイフの先に居るのは…さっきの女の子!
男が走り出す。
今度は、考えるよりも早く、体が動いていた。
走り出してから、テレキネシスで女の子を突き飛しても刺されるのは逃れられないだろうし、
男の方を狙ったとしても男を抑えつけられる程の力は多分僕にはないだろう。
だから、今僕が走っているのは正しいんだろうな、とどこか他人事のようにぼんやり思った。
「・・・はっ、・・・」
肺から湿った息が漏れる。
女の子を抱き締めるような形で覆った。
その子はやっと状況に頭が追いついたようでパニックになりかけていた。
背中に刺さったナイフが引き抜かれる。
流れ出る血が朱い。積もり始めた雪を染めるその朱が、綺麗だと思ってしまった。
――・・・ああ、痛いってこういう事だったっけ。久しく忘れていた気がする。
・・・忘れて、いた?
なにか、おもいだし・・・・・・
暗転。
◆◆◆
(なんだ?騒がしいな。事故でもあったのか?)
帰ってくる途中、人の流れが一斉にこちらへと向かって来ている事に疑問を感じた。
それに先刻の何かが衝突したような大きな音。何かが壊れる音であった。
それらを考えて、事故でも発生したのだろうかと、01号は推測した。
(アイツ、巻き込まれてなきゃいいいんだが)
妙な胸騒ぎを覚え、進める歩みが僅かに早くなる。
白い髪の少年が待っているであろう場所へ、人ごみを抜けて辿り着いた時、
目に飛び込んできたのは、朱く染まった地面と、それと同じ色に染まったナイフを掲げる男だった。
「な・・・」
己の目に映った風景が理解できない。
目を凝らしてよく見ると、地に伏せ泉のように血を湧かせているのは、あの白い髪の少年。
そして今正に男が掲げたナイフを再び振り下ろさんとする所であった。
「な、にしてんだああああ!!テメェえええええええええええ!!!!」
瞬時にテレキネシスを展開。
男を見えざる拳で殴り飛ばした。男がきりもみ回転しながら後方へ飛ばされる。顔が陥没しているのが見えた。
急いで少年の元へ駆け寄る。
「おい!!何こんなとこで寝てんだお前!!起きろ!!」
少年を揺さぶる。
すると、少年の瞼が薄く開かれた。
「・・・ぁ・・・・・・おそい、じゃ、ないですか・・・どこまで、いってた、んですか・・・」
「喋んじゃねえ!!クソっ!」
そして自分が着ていたアロハシャツを、血が溢れだしていた傷口に押し当てた。
シャツに少年の血が染み込んでいき、シャツが朱に染め上げられる。
「ア・・・ギ・・・ロク・・・に・・・・・・ささげん・・・」
男がゆっくりと立ちあがり、ナイフを構える。
辺りに人は既におらず、再び倒れている少年達に狙いを付けた。
「アマギ、ミロクにわれ…」
男は最後まで言う事が出来なかった。
何故なら、その体が浮かび上がり、言うのを妨げられたから。
「・・・・・・」
男の体が二m程まで持ち上がったかと思うと、急に男の右肩から先が千切れた。
千切れた断面から血が噴水のように噴出し、そこから白い骨を覗かせていた。
「・・・ギ・・・クに・・・」
左の肩が消失した。
捩じ切られた左腕は、血を吹かせながら地に向かって落ちてゆく。
「アマギ・・・ロクに・・・」
ぐぐっと男の頭が首から下と違った向きを向き始める。
バキバキと骨が鳴る音が、人の居なくなった通りに響いた。
「・・・命、捧げん」
ブチっという音と共に、首から先が無くなった。
浮いていた体がもの凄い速度で地面に叩きつけられる。
液体を地面に零したかのような、パシャッという聞こえた。
「・・・テメエは・・・絶対に許さん・・・!」
01号は気付いていた。
少年が死にかけていてひどく悲しい筈なのに、感じるのは、どうしようもない程の怒りだけだという事に。
やはり、自分の感情は壊れている。
そう改めて実感させられた瞬間だった。
そして、その怒りに任せて人間を殺してしまったこと。
人間を殺すのはこれが初めてな訳ではない。
十六年前に脱走する際、刺客と対峙した際、幾人もの命をその手で奪った。
あの時は必死だった。
何も考えずに、降りかかる火の粉を払うように殺した。
ただ、今は違う。
世界を知り、絶望しても、それでもこの世界で生きようとする想いがあった。やり直そうとしていたのだ。自分の人生を。
過去に犯した事実は覆らない。だから、それを受け入れた上で生きようとしていた。
けれど、また犯してしまった。自分がこの世界で生きる権利を、少年と共に在る権利を捨ててしまったかのように、01号は感じていた。
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。誰かが警察や救急車を呼んだのであろうか。
「ア、ロハさん・・・」
少年が呼ぶ声が聞こえた。少年の傍に寄る。
「・・・なんだ」
「ありが、とう・・・ございます・・・」
少年の口から漏れたのは感謝の言葉だった。
それが何に対しての言葉かは分からない。ただ感謝しているという想いは伝わった。
「・・・馬鹿野郎。
一瞬でも、ほんの僅かな間でも俺は獣なんかじゃないと思わせて貰ったんだよ・・・感謝するのはこっちの方だ」
そして少年は再びその重たそうな瞼を閉じた。
サイレンの音が近づいてくる。
ここにいてはいけないのだろうと、01号は思った。
「・・・死ぬなよ」
そう言い残して、01号はその場を去った。
◆◆◆
「フン、死んだか」
赤みがかかった茶髪の青年、天戯弥勒は呟いた。
世間の目を誤魔化すための傀儡としていた男が死んだという感覚が伝わってきたのだ。
「やはりもっと念入りに洗脳する必要があるな…」
天戯弥勒は、男の意識を僅かに残した状態で男を傀儡としていた。
完全に自意識を失わせるよりは、意識を残して半自動で操った方が良いかと思っていたのだった。
しかし、その男に残った自意識が傀儡とするのに妨げとなった。
その為に天戯弥勒の存在が世間に露見しそうになったことがあったのだ。
だから、男を始末して新たな傀儡を手に入れることにした。
男を見限り、男に命令を送るのを止めると、その僅かな自意識で男は行動し始めた。
天戯弥勒の預かり知らぬ所ではあるが、それが悲劇を呼んだ。
男に残る殺人を求める欲望が無差別の殺人をもたらしたのだった。
「さあ、やることはまだ山程ある。次の傀儡は、コイツだな」
そう呟き、次の傀儡の標的の男の写真を眺めた。
続く