履き慣れない靴の感触に戸惑いながら、一歩一歩を確かめる様に階段を下りる。
三日も寝ていたと言われた割には、思った程身体がなまっている様には感じられなかった。
筋肉痛の様な痛みはあったが、耐えられない程でも無い。
「傷の手当てや看病をしてくれた事、それは感謝はしてるんだけどな」
頭を掻きながら海斗は呟く。
タイミングと言うのは重要なもので、先程の馬鹿騒ぎのせいでセラフィナに礼を言う機会を逃してしまっていた。
今更面と向かって礼を言うのも恥ずかしい。
「それでも……どこかで言っておかないとな」
そう独り言ち、階段を下りた海斗は目の前に見えた扉の前に立つ。
古びた木製の扉に手を掛けると、軋んだ音を立ててゆっくりと開く。
「――何だ……これは!?」
無人の室内に海斗の声が響く。
広間へと足を踏み入れた海斗が見た物は、部屋中に散らばった大小様々な無数の欠片。
足下に転がるそれを一つ拾い上げ、海斗は室内を見渡した。
「これは……聖衣、か。そうだ、あそこに見えるのは手甲、あそこにあるのは肩当て。あれも、あれも、ここにある物は全て――破壊された聖衣」
一つや二つでは済まない。
形が残されたパーツの数から推測しても、恐らく十や二十では収まらないだろう。
それが分る。
「しかし、これではまるで聖衣の墓場だな」
「そうですね。そして同時に再生の場でもあります」
「――ッ!?」
背後からの声に海斗が振り向けば、そこには落ち着き払った様子で佇むムウの姿があった。
「……室内に人の気配は無かった。それはここに来るまでも。驚かせるにしても、あまり趣味が良いとは言えませんね、アリエス(牡羊座)のムウ」
「フッ、アルデバランから聞いていましたか? その名で呼ばれるのも久しぶりです」
付いて来なさい、そう言って広間の奥へと進むムウ。
手にした破片を足下に置くと、海斗は無言のままその後に続く。
広間を抜けて館の外へ。
まるで石で出来た五重の塔だなと、背後の館を一瞥する。
「こちらです」
ムウの指示に従い先に進むにつれて、辺りに立ち込める霧がその濃さを増す。
霞がかった視界は方向だけではなく、時間の感覚すら狂わそうとしている様だと海斗は感じていた。
聖域とチベットの時差は五時間程だったかと、おぼろげな記憶を頼りに思いだそうとするが、どうでもいい事かと、先を進むムウの背中を追う。
それからどれ程進んだのか。
二人には会話らしい会話も無く、あるのは精々が指示程度。
その事自体は海斗にとって気にする事では無かったのだが、聞きたい事があると言ったのはムウ。
まさか、あの場から離れるための方便であったわけでもあるまいにと、海斗は自分から話を振る事に決めた。
「止まりなさい」
しかし、話とは、と口を開こうとした海斗よりも先にムウが言葉を発した。
「ここより先に、あなたの聖衣があります。新生したエクレウスの聖衣が」
ムウが指示した方向を海斗はじっと見たが、深い霧のせいでその先がどうなっているのかは分らない。
「俺の聖衣がここに? かなり手酷くやられたと思っていたが……。そうか、あなたが修復してくれたのか。ありがとうムウ」
「修復ではありません。新生と言いました。そう、一度死んだエクレウスの聖衣が新たな命を得て生まれ変わったのです」
「――生まれ変わった」
感慨深く呟いた海斗とは異なり、ムウの言葉にはどこか鋭いものがあった。
海斗へと振り返ったムウ。
その雰囲気こそ『静』であったが、その奥底から感じる気配は激しいまでに『動』。
ジャミールのムウ。聖域との関わりを断ち、だた聖衣の修復を手掛け続ける世捨て人の様な男。
かつて、アルデバランは海斗にそう話した事があった。
だが、と海斗は目の前に立つムウの小宇宙を感じて思う。
一見すると物静かで優雅ささえ感じさせるこの男。
その本質はやはり聖闘士――戦う者なのだと。
「さて、色々と尋ねたい事はありますが、単刀直入に聞きましょう。あなたは――」
スニオン岬でカノンと対峙した時点で、こうなる事は覚悟していた。
だからこそ、海斗に動揺は無い。
来るべき時が来た、その程度の事。
しかし、ムウの口から出た言葉は、その海斗をして驚きを隠せないものだった。
第9話
海斗がジャミールの地で目覚めてから一週間が経っていた。
最初の数日こそ物珍しさも手伝って、海斗は周囲の散策などを行う事で退屈を感じる事は無かったのだが、それも今では過去の事。
ならば、本でも読むかと、ムウの蔵書から何冊か本を借りはしたものの、難解過ぎて三十分もしない内に返していた。内容がでは無く、書かれた文字が理解出来なかった為だ。
「あれは文字じゃない」
こうなってしまっては、途端にする事が無くなってしまう。
聖域からの迎えが来るまでゆっくりすると良いでしょう、ムウはそう言ったが生憎と海斗にとっては聖域以上に娯楽らしい娯楽の無い退屈な場所である。
長くいれば、それなりに楽しみも見い出せるのであろうが、そこまで厄介になるつもりも無かった。
館から少しばかり離れたところにある広場。
広場と言っても、むき出しの岩肌に囲まれた少しばかり開けた場所でしか無いが、この地に住むジャミールの民からすれば十分に広場だとは貴鬼の弁である。
「――暇だ。迎えってのはいつ来るのやら」
手頃な岩を見つけて腰掛けた海斗が、霞がかった空を眺めながらそう呟く。
その横にはエクレウスの聖衣が納められた聖衣箱(パンドラボックス)があった。
『私と貴鬼は今日から数日程ここを離れる事になります。その間は工房を閉めますので、聖衣はあたなが持っていなさい』
ムウからそう告げられたのが二時間程前。
そこで、留守番を任されたセラフィナに捕まりずるずると連れ出されてここにいる。
「だったら一緒に修行しましょう!」
海斗の呟きが聞こえたのだろう。
瞑想を終え、四肢の柔軟をしていたセラフィナが、名案だとばかりに申し出る。
暇を持て余していた海斗にとって、ムウとセラフィナ達の修行を見学する事だけが唯一の日課とも言えたが、その中に加わろうとはしていない。
傷も癒え、身体を動かすには何の支障も無い筈であるのに。
その事がセラフィナや貴鬼にとって疑問であったのだが、ムウはそれについて特に何も言う事は無かったので深く追求する事は無かった。
「ね?」
そう言って、空を見上げる海斗の後ろから覗きこむ様に身を乗り出すセラフィナ。
大きな瞳を輝かせ、何かを期待する様に海斗を見る。
「ふわぁあ……あふっ。いや、止めとくわ」
欠伸を一つ。
そう言って身体を起こし、立ち上がる海斗。
「もうっ、またですか?」
セラフィナにとって、この海斗の答えは予想通り。
今迄であれば、ここで引き下がる所ではあったが、今日は違う。
一人で修業を行う事は珍しい事でも無かったが、それでも一人より二人で行う方が良い。
目の前に普段目にする相手とは異なる存在がいるのだ。海斗がいつここから去るか分らない以上、これを逃す機会は無い。
よしっ、と気合いを入れ、もう一度海斗に言ってみようと顔を上げたセラフィナ。
すると、先に立ち上がっていた海斗がじっと自分を見ている事に気が付いた。
何かを確かめる様に自分の拳を握り、開き。
「海斗さん?」
どうも様子がおかしい。
何かを言いたそうで、しかしそれが言葉にならない、纏まらない。
そんなもどかしさ、とでも言うのか。
迷っている、そうとも感じられる。
「あ、まさか!?」
慌ててセラフィナは自分の身なりを確認する。
何かおかしなところでもあったのかと。
「……何をやってんだ?」
「え? あれ?」
いきなり何をと、その海斗の言葉にでは何なのだろうと考える。
そう言えば、貴鬼が出掛ける前に何か言っていた筈。
二人きりだのなんだのと。
「ハッ!? 駄目ですよ海斗さん!?」
両手で身体を抱きしめる様にして後ずさる。
さすがにそれは早過ぎる、と。
顔を真っ赤にし、涙目で睨み付けるセラフィナであったが、海斗はまるで気にした様子も無く淡々とした口調で話し掛けた。
「お前は、どうして聖闘士になろうとしたんだ?」
城戸光政に集められた孤児たちは、半ば強制にも近い形でそうなる事を命じられた。
その中には、星矢の様に交換条件を提示された者もいれば、海斗の様に力を得る事に目的を見出した者もいるだろう。
ふと、海斗はこの争いとは無縁としか思えない少女が何故と、確かめてみたくなっていた。
セラフィナはぽかんとした様子で海斗を見ている。
理由や目的は人それぞれ。あえて聞く様な事でも無かったかと、海斗は苦笑する。
「悪い、忘れてくれ」
「……陽光(ひかり)です」
しかし、セラフィナは一言一言を確かめる様に答え始めた。
「ムウ様が仰られました。やがて、この地上を闇に包み込もうとする存在が現れると。私達聖闘士は、やがてアテナの下でその闇と戦う事になるのだと」
その言葉に、闇とは海皇の事かと海斗は考えたが、何かが違う様にも感じる。
「この地上に生きる全てにとって陽光は必要なものでしょう? それが無くなるのはとても悲しい事だわ」
セラフィナは真っ直ぐに海斗を見つめた。
「わたしは争いは望みません。でも、そうと分っていながら何もせずにただ見ている、そんな事は出来ないから」
「……」
「わたしにどれ程の事が出来るかは分りません。何の役にも立たないのかもしれない。それでも、こんなわたしでも出来る事があるのなら」
それが理由です。
そう言って、照れくさそうにセラフィナは微笑んだ。
――役には立つさ。
「え?」
「チッ、ここまで近付かれていながら気付かなかっただと!? お前達、何者だ!?」
伏せろセラフィナ、そう言って海斗が拳を放つ。
衝撃がむき出しの岩肌を、大地を穿つ。
――フフフッ、どうやら威勢の良い者がいる様だが。
――お前には用は無い。
「……どこだ?」
瞳を閉じ、小宇宙を探る事だけに意識を、感覚を集中させる。
周囲から揺らぎの様に感じる攻撃的な小宇宙。
聞こえてくる声も一つでは無かった。
「チッ、感覚が、この歪む様な感じは……これでは……」
気配を探ろうにも、この地に張られた結界のせいか海斗にはそれを手く掴む事が出来ない。
小宇宙の感覚に頼る事を諦めて、視覚により相手の姿を探る。
霧のせいで決して良好とは言えなかったが、それでもノイズ交じりの気配を探るよりはマシだと。
「こんな時に……」
ムウが、いやせめて貴鬼がいれば、この場からセラフィナだけでも逃がす事は出来ただろうが二人は不在。
「海斗さん!?」
異様な小宇宙をセラフィナも感じ取ったのだろう。
海斗に背中を預ける様にして周囲を窺う。
「いや、むしろ不在であるからこそ、か。だとすれば、随分と嘗めてくれる」
――甞めてなどいない。
――その価値すらない。
――そら、どこを見ている。足下が留守だぞ。
その言葉と共に、突如として海斗達の足下が激しく隆起した。
「え? きゃああああああぁっ!?」
大地から巨大な影が飛び出したかと思うと、それは海斗とセラフィナの身体を宙へと吹き飛ばす。
「くっ、セラフィナ!?」
「他人の心配をしている余裕があるのか?」
体勢を立て直そうとした海斗の背後から聞こえる声。
振り向く間もなく、轟、という衝撃を受けて、海斗の身体が岩肌へと叩き付けられた。
「海斗さん!」
駆け出そうとするセラフィナであったが、そうはさせぬと無数の人影が立ち塞がる。
「そこをどきなさいっ!!」
それは、二メートルはあろうかと言う大柄な男達であった。
全員がその身に、鈍い輝きを放つ聖衣の様な物を見に纏っている。
「構わんぞ、お前が大人しく我等に従うのであればな」
「我等はギカス。古の時代より蘇ったギガンテス(巨人族)よ」
「我らの王の命により、女、貴様を連れて行く」
ギガス、その言葉をセラフィナは知っていた。
神話の時代、この地上を我がものにせんとしてオリンポスの神々と激しい争いを繰り広げた者達。
その身には、聖衣の素材であるオリハルコンすら凌駕する高度を持つ金剛衣(アダマース)を纏っていたと言う。
「……あなた達は、オリンポスの神々の力によって封じられていた筈……」
「フン、確かに我らの魂は封じられた。しかし――」
セラフィナの呟きに、ギガス達は醜悪な笑みを浮かべて見せた。
「こうして我等は此処にいる」
リーダと思わしき男が手を上げると、その巨体からは信じられぬ速度で散開したギガス達がセラフィナを囲む。
「あの男が心配か? そうだな、ならばこうしよう。お前が抵抗すれば……あの男を殺す」
輪から外れた三人のギガスが、海斗が吹き飛ばされた岩肌へとその足を向けた。
「あなた達は!!」
セラフィナは小宇宙こそ白銀にふさわしい大きさであったが、聖闘士としての戦闘力と言う点に於いては下位である青銅に等しい。
まして、今は聖衣すらない。
自分一人の事であれば、敵わぬとしても立ち向かおう。
しかし、卑劣にも相手は海斗の身を人質にとしている。
その目的が何であるのかは分らないが、セラフィナには選べる選択肢は無かった。
「分り――」
「黙って聞いていれば、お前ら何を好き勝手ぬかしてやがる」
立ち昇る巨大な小宇宙。
白と青の輝きが放たれる。
ドンと、音を立てて岩肌が「内側から」爆発を起こした。
「ぐわぁあああ!?」
「おごぅ!!」
「げわばあぁ!?」
次いで、その場に向かおうとしていたギガス達が叫びを上げて宙を舞う。
「まったく。いくら不意打ちだからと言って、あの程度で俺がどうこうなるとでも思ったのかセラフィナ」
どこか呆れた様子で、その表情に苦笑を受かべながら海斗が姿を現した。
白く輝く新生したエクレウスの聖衣をその身に纏い。
人を心配させておきながら、しかもギガスと言う敵に囲まれたこの状況で。
何食わぬ顔で現れた海斗の様子に、セラフィナは思わず笑ってしまいそうになる。
だったら、せめてこれぐらいは言ってやろうと思った。
「思いましたよ、わたしはボロボロの海斗さんしか見てませんから!」