第31話
「ここだ。この場所で小宇宙が完全に途絶えている」
港で働く人々の目に留まらぬよう、死角から死角へ、時にはクレーンや倉庫の屋根に上るなどして移動していた瞬が足を止めた。
鎖が指示す先にはコンクリートで固められた足場と海へと伸びる桟橋が見える。
周辺には大小様々なコンテナ、無人のフォークリフトや積み重ねられたバレットの山もある。
「おかしなところは……無い、ね。でも、何だろうこの感じは」
一見すると何の変哲も無い。なのに、漠然とした不安のような物を感じている。
瞬の感覚だけではない。アンドロメダの鎖もまた戸惑いのような反応を見せていた。
周囲を見渡しながら慎重に進む。
近くで大きな貨物の荷降ろしでもしているのか、人気のないこの場所にまで喧騒が聞こえて来る。
「そうか!」
何か思い当たる事でもあったのか。立ち止まった瞬は、注意深く観察するように周囲の様子を窺った。
「静か過ぎるんだ、この場所は。人の気配がまるで無い。不自然な程に」
瞬が指摘した通り、ざっと周囲を見渡しても人の姿はどこにも無い。少し離れた場所では確かに働いている人達がいるのにも関わらず。
違和感の正体を認識した事で瞬の思考の幅が広がり、鎖もまた何をすべきかを判断して動き出す。
「何かがある。ここには」
左手のサークルチェーンが防御のための陣を敷き、右手のスクエアチェーンがいかなる行動にも対処できるように待機状態に入る。
精神を研ぎ澄まし、感覚を広げるイメージを持って鎖を操る。
“ホーリーピラー”
「!?」
声が聞こえた。瞬がそう感じた瞬間、大気が、空間が爆発した。
それはあくまでも比喩であり、実際に周囲に破壊を撒き散らすような爆発が起きた訳ではない。
それでも、瞬の感覚はそれを爆発だと告げていた。
「あっちだ、海の方!」
防御陣を解除して駆ける。右手のスクエアチェーンは待機させたままで。
そうして目的の場所へと瞬が辿り着けば、そこには仰向けになって倒れている聖闘士の姿があった。
「だ……」
その姿を見て敵か味方かを、何があったのかを問うよりも先に『大丈夫ですか』と駆け寄ろうとする事ができる。
それが瞬の美点であり優しさであり、戦士としては致命的とも言える弱点。
しかし、この時だけは瞬は思わずその足を止めてしまった。
目の前の人物は大の字に倒れた状態から一瞬の内に飛び上がると、自分の纏った聖衣をペタペタと触り始め、
「だあーーーーっ!! ク、聖衣に亀裂が!? ヤ、ヤ、ヤ、ヤバイヤバイヤバイ、こ、ころ、殺される!? いや、こ、この程度なら自然修復で何とかッ!?」
頭を抱えて絶叫したのだ。
瞬の張り詰めていた緊張の糸は、この瞬間にぷっつりと切れた。
「だ、大丈夫そう、だね」
確かに、彼の纏っている聖衣のマスクと右肩に亀裂らしきものが見えたが、瞬としてはそれよりもその全体像に目が行ってしまう。
瞬の師は白銀聖闘士であり、その聖衣を見続けていた瞬は必然的に自身の纏う青銅聖衣と白銀聖衣の違いを知る事となった。
しかし、目の前の聖闘士が纏う聖衣は一見白銀聖衣のようにも見えるが、放たれる純白の輝きが白銀聖衣のそれとは明らかに異なる。
だからと言って、青銅聖衣にしてはその身を覆うパーツが多過ぎるように見える。
「いや、いくらムウでも命までは……って。ん? お前、瞬か? どうしてこんな所に?」
「えっと、君は……ひょっとして海斗? 君がエクレウスの青銅聖闘士?」
「ん? ああ。星矢か氷河辺りから聞いてなかったか?」
それがどうかしたか、と。瞬の緊張など知った事か、と言わんばかりの自然体。
幼少時、兄一輝の背に隠れてあまり他者とは関わらなかった瞬であったが、同年代の者が大半を占めていた孤児達の中でも数少ない年長者であった海斗の事は、おぼろげながらではあったがどうにか覚えていた。
少なくとも、瞬の記憶の中ではこうして気さくに話し掛けて来るような社交的な人物ではなかったのだが。
「あ、うん。皆とは……まだそんなに話をしてはいないからね」
だからであろうか。返答にぎこちなさが表れてしまうのは。
「ま、そりゃそうか。一応は敵同士だからな」
対する海斗はそんな瞬の様子を気にした風も無く、エクレウスの聖衣箱を開きその中へ纏っていた聖衣を収め始めた。
「うん。そうだね。ぼく達は戦う事になるかもしれない相手だから、ね」
敵、という言葉に瞬の気が少し重くなる。本当は敵対する様な関係など望んではいないのだ。
「……嫌なら辞めればいい」
「え?」
思考の内に沈み込もうとしていた瞬の意識が、海斗の言葉によって引き戻される。
瞬に背を向けたまま海斗が続ける。
「ギャラクシアンウォーズの出場を辞退すればいい。そもそも、何だって出場しようなんて思ったんだ? 聖闘士の掟を知らない訳でもないだろうに」
「……それは……」
「聖衣を私欲や私闘のために纏ってはならない、ってな。まあ、俺も偉そうに人の事をとやかく言えた立場じゃないんでこれ以上は言わないが」
「……そう、だね……」
海斗の問いに、瞬は俯く。
皆に、兄に会えると期待を持って日本へと帰国した瞬。彼に告げられたのは、一輝の消息が不明であるという報であった。
瞬が大会への参加を決意した理由は星矢と同じ。優勝し、グラード財団の協力を得て消息不明となった兄一輝を探すため。
でも、と。あの時は動揺のまま参加を受け入れてしまったが、数日を経て冷静になった今となってはそれが本当に正しかったのか、と考えてしまう。
自然と手が胸元へと、聖衣の下にあるペンダントに触れようとするように伸びていた。
一輝から母の形見と言われて預けられたそれは、今や瞬と一輝を繋ぐただ一つの証でもある。
「……君は、海斗はどうして?」
思わず口を出た問い掛けであったが、聞いておきたいという思いは確かにあった。
聖闘士の掟を持ち出して話してきたという事は、海斗自身もこの大会に思うところがあるのだろうか、と。
「ん? 俺か? あ~~、成り行きというか、お仕事――!?」
そこまで言い掛けて海斗が市街の方へと視線を向けた。
「!?」
瞬もまたはっとした様子で振り返る。
アンドロメダの鎖が瞬を中心として方陣を敷き、臨戦態勢となる。
二人が視線を向けた方向から飛び出してくる黒い人影。
「黒い……聖衣?」
瞬が呟く。
それは、黒い聖衣のような物を纏った男達であった。十人近い集団である。
「まさか、彼らは暗黒聖闘士!?」
瞬の言葉に海斗はなるほどと納得した。鎧も黒ければその下のインナーも黒い。
黒ずくめの姿に一瞬冥闘士かと、またかよと。ザル過ぎるぞアテナの結界と、内心ウンザリしかけた海斗であったが、目の前の男達が纏う鎧の意匠は色こそ違えども聖衣のそれである。
「ブラックセイント? ああ、黒いな、確かに。しかも聖衣モドキまでお揃いだ。羽っぽい物をぶら下げているが、あれが聖衣だとすれば……さしずめ孔雀か鳳凰か?」
「彼らは正しかるべき聖闘士の拳を自らの欲望のためだけに振るい、修羅界の中で未来永劫まで殺戮を繰り広げられると言われている。悪魔に魂を売り邪悪に染まった暗黒の聖闘士だよ」
どこか的を外れた海斗の言葉に何を呑気な、と瞬が諌める。
「でも、どうして彼らがこんな所に?」
「さて? まあ、分らない事なら当人に聞けばいい。向こうさんはやる気みたいだし……」
海斗達がこうして話している間でも、黒い男達は動きを止める事は無い。
そして、彼らも海斗と瞬の存在に気付いたのだろう。様子を窺う様に立ち止まると、彼らは身振りで何かを伝え合い二手に分かれて動き出す。
一方は海斗達から離れ、そしてもう一方は
「チッ、まさかこんな所に聖闘士がいるとはな」
「先回りされたのか? だが所詮は二人だ。一人は聖衣すら身に着けていない」
「障害は排除するのみよ」
「行くぞ! 我らブラックフェニックスの恐ろしさを教えてやれ」
「所詮は青銅如き我ら暗黒聖闘士に敵うはずもない」
敵意をむき出しにして襲い来る。
「……休む暇も無い」
「海斗構えて! 来るよ!! “星雲鎖(ネビュラチェーン)”!」
瞬の意思にアンドロメダの鎖が応じる。
「な、何だ!? く、鎖が迫――ぐああああああ!!」
スクエアチェーンが螺旋を描き、先頭を走るブラックフェニックスへと襲い掛かり
「何だ、まるで鎖が防壁のように!?」
「うわあぁああああ!?」
まるで生物の様にうねるサークルチェーンの敷いた円陣に踏み込んだ二人は、波濤の如き勢いを持った鎖の迎撃を受けて吹き飛ばされる。
「クッ、ならば奴を!」
仲間の倒れる様を見て、瞬を脅威だと判断した残る二人が海斗へと狙いを定める。
対する海斗は動いていない。聖衣を纏おうともしていない。
「馬鹿め! 竦んだか!!」
二人は好機とばかりに左右から襲い掛かる。
「ッ!? しまった、海斗!」
背後から聞こえたドン、という重い音に瞬が慌てて振り返る。
「……え?」
そこにはコンクリートに上半身を埋めた二人の暗黒聖闘士と、その間で眉を顰めて立っている海斗の姿。
「しまったな。さっきのテンションをまだ引き摺ってたか。ちとやり過ぎたか? さすがに死んではいないだろうが……これじゃあ話は聞けそうにないな。瞬、そっちはどうだ?」
「あ、ああ、うん。こっちは……大丈夫かな」
そう言いながらも、暗黒聖衣を砕かれて横たわる彼らのどこが大丈夫なのかと思いはしたが、目の前の二人よりは“大丈夫”だろうと瞬は思う事にする。手加減はしている。
「ん。それじゃあ、そいつらからお話を――」
聞かせてもらおうか、そう続けようとした海斗の表情が変わった。
「……何だと?」
倒れた暗黒聖闘士に慌てて駆け寄る海斗の様子に、瞬も何が起きたのかを悟る。
重傷ではあろうが急所は外していた。命までは取るつもりは無かった。
「そんな……自ら命を絶つなんて!?」
しかし、彼らは自らその命を絶っていた。敵とはいえ、その事実が瞬の心へ重く圧し掛かる。
「後味の悪くなる様な真似を……。状況が分らなかったとはいえミスったな、見付けた時点で叩いておくべきだった。チッ、上手く気配を消したか。逃げた奴等の跡を辿るのはキツイか?」
しくじった、と海斗が舌打ちをする。
どれだけ強くなろうとも、出来る事と出来ない事はある。
やがて訪れる強敵との決着に備える事を優先したせいで、今の海斗は自身の強大な小宇宙も相まって戦闘面のレベルは突出させていたが、それに比べて捜索や探知といった繊細さを要求する様な、補助的な技能は並より上といったレベルでしかない。
ならば、と瞬の方を見てみれば、
「駄目だね。というよりも、この辺り一帯が、上手く言えないけどおかしいんだ。ねえ海斗、ぼくが来るまでに一体ここで何があったの?」
「ただの喧嘩だ。まあ、また後でな。今はこいつらの事を優先だ。奴等が来た方角にはコロッセオがある。偶然ならいいんだけどな」
まだ息のある暗黒聖闘士の身体を抱えながら、海斗は溜息交じりに呟いた。
「嫌な勘ほど良く当たるからな」
「さてさて、ここから先はオレにも見通せない未知の世界」
海斗と瞬、二人が立ち去り無人となったその場所に、場違いとさえ思えるような、陽気で楽しげな声が響く。
「踊る舞台は用意した。後は役者のアドリブ次第」
何もない空間がぐにゃりと歪み、そこから渦を巻いて闇が滲み出す。
あふれ出た闇は人の形となり――メフィストフェレスの姿となって具現した。
「さあ、今度こそ見せてくれよ、神と人との乱痴気騒ぎを」
その手には傷一つ無いガルーダのマスクがあり、かつて自分のシルクハットそうしていた様に指先でクルクルと回し始める。
「おンやぁ? どうしたい、大将?」
ピンと指先で弾かれたマスクが宙に舞う。
陽の光を浴びて、ガルーダの三つの瞳がギラリと光る。
その瞳には二つの人影が映り込んでいた。
「やっぱり気が変わったか?」
重力に引かれて落下するマスクをメフィストが人差し指で受け止め、また回す。
高速で回転するマスクは、まるで球状の鏡のように周囲の光景を映し込む。メフィストとその背後に現れた男の姿を。
「フン、確かにオレが相手をするだけの価値はあるようだが」
「言ったろ? アイツは、エクレウスは強い、ってさ。なあ“アイアコス”の大将」
二ィっと笑みを浮かべてメフィストが振り返る。
そこに立つのは黒づくめの外套を纏った、先程海斗と激闘を繰り広げ敗れたはずのアイアコスの姿があった。
その顔には傷一つ無く、疲労の影すら見えない。
ほら、とメフィストがガルーダのマスクを投げ渡す。アイアコスはそれを受け取ると、自害した暗黒聖闘士達を一瞥し、再びメフィストへと視線を戻す。
「だが、木偶を相手にあのザマだ。お前の言った全力の姿とやらには遠いな」
「そいつは仕方ねぇさ。聖闘士ってヤツは相手が強ければ強い程、言い換えれば自分が追い詰められれば追い詰められた分だけ、いやそれ以上に力を増すんだ。
あの器じゃあ、エクレウスの全力を出させるには小さ過ぎたって事さ。実際、二年前に見たアイツは化物染みてやがったからなァ。封じられて弱体化していたとはいえ、仮にも神族を殺したんだぜ?」
そう言ってメフィストは思い出す。
二年前、ギガスの聖域で肉体的にも精神的にも追い詰められた海斗が見せた一撃を。
「で、どうするの? 今から追い駆けてやり合うのかい?」
「フンッ。仮にオレがそう言ったところで、お前はそれをさせる気などまるで無いクセに。むしろ、先のお前の言葉で思い止まったわ」
アイアコスは苦笑を浮かべながら続ける。
「ハーデス様の封印が解けるには今暫くの時を必要とするが、今の地上は煩わしい騒乱の種に満ちている。それ程の力をエクレウスが秘めているのならば好都合よ。
オレが記憶にあるかつての力を取り戻すまで、奴にはいずれハーデス様の物となるこの地上の掃除でもしておいてもらおう」
そう言うと、アイアコスは手にしたガルーダのマスクを暗黒聖闘士の遺体へと向けた。
アイアコスの身体から闇色の小宇宙が立ち昇り、それに反応するかの様にガルーダの瞳が妖しく輝く。
すると、暗黒聖闘士の遺体から白い靄のような何かが浮かび上がりガルーダの瞳へと吸い込まれていく。
靄の抜けた遺体はまるでミイラのように干乾び、やがてボロボロと崩れ去り灰と化した。
「奴とは全力の状態でまみえる事としよう。我が片翼の目覚めと共に、オレの全ての“力”を持って奴を――エクレウスを仕留めてくれる」
この日を境としてアイアコスは冥王軍の表舞台から姿を消す。
アイアコスだけではない。各地では時折冥王軍の雑兵(スケルトン)クラスの活動こそ見受けられたものの、復活を確認されていた数名の冥闘士もその姿を消していた。
「海斗、君の嫌な予感が当たったね。コロッセオの周りが随分と騒がしいよ。きっと何かがあったんだ!」
十万人規模を収容できると謳うだけあって、グラード・コロッセオの威容は遠目からでもよく見えた。
報道関係であろうか。空にはヘリが飛び交い、道路にはサイレンを鳴らした緊急車両が大量に集まっている。
(皆は無事だろうか?)
早く速く、と。逸る瞬の気持ちを、しかし背負った重みが抑え込む。
襲い掛かって来た敵とは言え、ここまで来て置いて行く事など瞬に出来ようはずも無い。
ままならないもどかしさを感じていた瞬であったが、ふと視線を向ければ先を行っていたはずの海斗が足を止めていた。
険しい表情で元来た方向を見つめている。
「海斗? どうしたの?」
「……いや、誰かに呼ばれたような気がしただけだ。悪い、急ごう」
頭を振って何でもないと言い、再び海斗が走り出す。
「あ、うん」
頷き、瞬も走る。
――だが
「え?」
今度は瞬が足を止めた。
辺りを見渡し、鎖を見て、もう一度周囲を見渡す。
「声? 誰かに呼ばれたような気がしたんだけど……。気のせい、かな。チェーンも反応はしていないし」
「瞬!」
「ごめん、行くよ!」
少し考えたところで海斗に名を呼ばれ、気のせいだと思う事にして瞬もまた走り出した。