アテネの東南、アポロコーストの海岸沿いを進む事しばらく。
その最南端の場所に俺が目指す場所があった。
地図上ではエーゲ海に突き出たアッティカ半島の突端部――すなわちスニオン岬である。
岬の先端には白い大理石の柱がそびえ立つ神殿の遺跡があり、観光名所として世界中から様々な人々が訪れている。そういう場所だ。
「あそこから見る夕日はまた格別だからねえ。テレビのおかげなのか、最近はあんたみたいな若い人も大勢来るようになったし。
ええと、ソツギョウリョコウってやつかい?」
「まあ……そんなところです。そんなに増えているんですか、若い人」
「ホラさ、最近ニュースでも取り上げられている『若き天才音楽家ソレント』って子がいるだろ?
この前ね、あたしあそこで会っちゃったのよ! サインも貰ったんだよ」
「ははは……いや、俺あまり音楽には興味が無くて。でも……そうですか、増えていますか」
その遺跡はかつて海神を祀る神殿であった。
そう――海皇ポセイドンを。
聖闘士と認められてから四日。
候補生の時とは違い、ある程度行動に自由が認められた俺は、旅行者を装って聖域からここスニオン岬へと足を運んでいた。
道中はカフェのおばさんが言った通り若者の姿が多かったようにも思えたが、その事に関しては常日頃を知らないので気のせいかもしれない。
今の俺は薄手のジャケットにシャツにジーンズというシンプルな服装だ。
聖域を出てすぐ近くの町で買った安物であるが、四年振りの普通の服なので大切にしようと思っている。
なにせ聖域はアテナの結界のおかげで『一般人には立ち入る事も出来なければその存在すら知覚できない』ある種の異界である。
それにより遥か神話の時代からその在り方を変える事無く現在まで引き継げているのだが、衣食住まで引き継ぐのはやり過ぎではないかと思う。
「海闘士も似た様なモンだったか?」
そう考えて思い出そうとするが、そもそも現代の海闘士の事を俺は何も知らない。
海闘士最強である七人の海将軍、その筆頭であるシードラゴンは誰よりも早く海闘士として覚醒を果たし、海皇から全権を委ねられる――はずだった。
生憎と、前世のオレは海皇に会う前に殺されているし、俺は覚醒から四年間聖域というアテナの結界の中で過していたので『外』からの接触も無かった。
「――ああ、聖闘士になったら報告しろ、だったか? 連絡先なんて知らねえぞ」
接触ついでに思い出した。
四年前、俺達を送り出す時に辰巳がそう言っていたが……どうしろと?
「財団の支部ってこの辺りにあったか?」
グラード財団は世界中にその支部を置いているが、まさか受付窓口で「聖闘士になった海斗です」とでも言えと?
「……別にいいか。何かあれば向こうから連絡を取るだろ」
そもそも俺達を送り出したのは財団であり、修行についての話を通したのも財団だ。
居場所や連絡先が分らない、なんて事は無いだろう。
と、そこまで考えて、今更ながらに引っかかる点があった。
「俺達を聖闘士にして財団に、いや、城戸光政に何の利がある?」
あの時、あの爺さんは『聖闘士とするべく俺達孤児を集めた』と、確かに言っていた。
グラード財団の私兵にするのではないか、と思っていたが、聖闘士を従える事が出来るのは女神アテナと教皇のみ。
まさか、世界の平和のために一人でも多くの聖闘士を、とでも考えているのだろうか。
そもそもどうやって聖闘士の事を知ったのか。
確かに要人警護や重要施設の警備などの勅命を受けて『外』へと出る聖闘士はいる。
グラード財団の実質的な最高権力者である爺さんになら、そういったところで繋がりがあってもおかしくは無い。
しかし、聖闘士の存在もそこで起きた事も全て秘匿する事が条件である以上、仮にそうだとすれば爺さんの行動は聖域と交わされた約束に反する事。
「……暇な時にでも調べてみるか」
仮定に仮定を重ねたところで意味はない。
ホテルに戻り、預けていた聖衣箱(パンドラボックス)を受け取った俺は、沈みゆく夕陽を眺めながら人影がまばらになった海岸をのんびりと歩いていた。
夏場、それも週末であれば海水浴に訪れる人で賑わうらしいが、温かくなり始めているとはいえ、四月ではまだ早い。
気が付けば、いつの間にか日は落ち、辺りは夜の闇に包まれようとしていた。
第3話
聖域十二宮。
黄金十二宮とも呼ばれるそれは、聖域の更に奥に存在する教皇の間とアテナ神殿へと続くただ一つの道であり、道中の十二宮は聖闘士最強の黄金聖闘士が守護するまさしく聖域の要とも言える場所である。
白羊宮――牡羊座(アリエス)から始まり黄道十二星座に沿って金牛宮――牡牛座(タウラス)、双児宮――双子座(ジェミニ)と続く。
神話の時代よりこの十二宮を突破した人間は誰一人居ないと伝えられている。
「これはアルデバラン様。お早いお着きですな」
「うむ、教皇はどちらに?」
その十二宮の奥、教皇の間へと続く扉の前に、黄金聖衣を纏い純白のマントを身に着けたアルデバランの姿があった。
聖闘士にとって聖衣は正装であり、聖域の聖闘士の多くは常に聖衣を纏っている。
「先程、瞑想(メディテーション)を終えられて教皇の間へ。アルデバラン様がご到着されましたらお通しする様にと申しつかっております」
「分った」
そう神官に返すと、アルデバランは奥へと進む。
その先には、細やかな意匠が施され、見る者に荘厳な雰囲気を与える巨大な扉がある。
アルデバランの姿を確認した衛兵がゆっくりと扉を開き、中へと促した。
「タウラスのアルデバラン、只今戻りました」
片膝をつき、頭を垂れるアルデバラン。
「おお、戻ったかアルデバラン。ご苦労だったな。面を上げよ」
労いの言葉を掛けるのは、未だ幼い女神アテナの代理として聖域を、聖闘士を統括する教皇。
純白の法衣を纏い、歴代の教皇に代々伝えられる兜とマスクを身に着け玉座に腰掛けていた。
「何か……私が不在の間に良い事でもあったのですかな?」
マスクによって表情は分らないが、それでも雰囲気は分る。
顔を上げたアルデバランの問い掛けに、確かにどこか楽しそうに教皇は答えた。
「フフフッ、そうだな。だが、それはお前も喜ぶべき事なのだぞ」
マスクで素顔を覆っているとはいえ、教皇は女性聖闘士ではない。
それはアテナのため、地上の平和のために己という個を殺し仕えるという覚悟の証とされている。
教皇としての役割を終えるまで、人前でそのマスクを取る事は無い。
アテナの加護により奇跡的な長寿を得て、二百数十年前の前聖戦から生き続けていると噂される教皇の素顔をアルデバランは知らない。
側近すら知らないとされるその素顔を知る者がいるとすれば、それは仕えるべきアテナか、同じく前聖戦の生き残りとされる中国五老峰の老師――天秤座(ライブラ)の黄金聖闘士。
「お前の弟子である海斗は先日の試練を経て見事聖闘士となった。エクレウス(子馬座)の青銅聖闘士としてな」
「おお! それは確かに喜ぶべき事ですな。しかし……青銅ですか? いや、あの者の実力から左程心配はしておりませんでしたが、それでも師としては嬉しい事です」
わははははと、思わず出た失言を誤魔化すかの様に豪快に笑うアルデバラン。
「フッ、本音が出ているぞアルデバラン。弟子が可愛いのは分るが――自重しろ」
八十八の聖闘士。
黄金、白銀、青銅と続く聖闘士の位としては最下層とはいえ聖闘士は聖闘士。
その事に釘を刺したのは、この教皇の間に静かに現れた一人の黄金聖闘士であった。
「ははは……。いや、いやいや、そんな事は無いぞ!?」
「なら、そう言う事にしておこうか」
そう言ってアルデバランの横を通り過ぎた男は、教皇の前で静かに片膝をつく。
「水瓶座(アクエリアス)のカミュ、只今参上致しました」
アクエリアスのカミュ。
氷の闘法、凍気を極めた十八歳の若き黄金聖闘士である。
偶然か、必然か。はたまた神の意志であるのか。
神話の時代より、アテナを守り共に闘う聖闘士の多くは少年であったとされている。
アテナがこの地に生を受けて十一年。
それに合わせるかの様に、現在聖闘士として認められている者達の多くはアテナと同じく十代の少年少女であった。
「うむ、よく来てくれたなカミュ。そうアルデバランを苛めてやるな。お前とて弟子を持つ身だ、いざその時になればどうなるかは分らんぞ?」
「お戯れを」
「あ~、ゴホンゴホンッ!」
どうやら二人からからかわれていると悟ったアルデバランは、わざとらしく咳をしてこの流れを止めようとする。
その様子にからかい過ぎたかと、カミュは表情を改めると本来の要件に移ろうとした。
「それで教皇、今回シベリアから私を召喚されたのは? 黄金二人をもってして当たらねばならない様な事でも起きたのでしょうか?」
聖闘士としての基本的な存在が青銅とするならば、白銀は聖闘士として完成された存在であり、聖闘士最上位である黄金はそれすらも超越した究極の存在である。
黄金聖闘士一人の前では、青銅聖闘士や白銀聖闘士かどれ程集まったところで掠り傷一つ負わせる事は出来ない。
身に纏う聖衣の能力に圧倒的な差があるのは確かだが、根本的に聖闘士の力の根源である小宇宙の桁が違うのだ。
通常、聖域からの勅命は白銀を中心としてそのサポートに青銅が就く形で行われる。
故に、黄金が勅命を受ける事自体稀有な事であり、この教皇の間に於いて黄金聖闘士同士が顔を合わせる事など聖域の、地上の危機でもない限りまずあり得ない事であった。
「いや、そう緊張する必要は無いカミュよ。アルデバランとお前がこの場で顔を合わせたのは偶然だ。本来、アルデバランが此処に来るのはもう少し後であった」
余程弟子が心配だったのだろう、そう言って笑う教皇に成程と納得するカミュ。
その二人の様子にまだ引っ張るかと、アルデバランは顔を背けムスッとしていた。
「さて、カミュよ。お前に頼みたいのはブルーグラードについてだ」
「永久凍土の氷戦士(ブルーウォリアー)ですか。しかし、今や彼らは力を失い滅んだと」
「杞憂で済めばそれで良い。だが、最近彼の地から良くない気配を感じるのだ。お前を向かわせる程でもないのだが、場所が場所だけに適任者がいなくてな」
雪と氷に覆われ、草木すら育たず命を育む事の無い極寒の地ブルーグラード。
確かに自分以外の適任者はいないとカミュは考え、しかし、ならばと進言を行う事にした。
「畏まりました。しかしながら教皇、ならば以後氷戦士の件はこのカミュに全て一任して頂きたく」
「お、おいカミュよ、何を考えている! 教皇の命に対して……」
カミュの無礼とも言える発言を諌めようとしたアルデバランであったが――
「よい、アルデバランよ」
「は、ハッ」
教皇自身が構わぬと言うのであれば、彼には何も言う事は無い。
「弟子が可愛いのはカミュもまた同じという事だ。与える試練としてふさわしいかどうかは分らんが……。よかろう、カミュよ。教皇の名に於いて、この件はお前に全て一任しよう」
「ハッ」
恭しく頭を下げたカミュの姿に満足そうに頷いた教皇は、次いでアルデバランへと視線を向けた。
その視線に気付き、アルデバランは姿勢を正す。
「ご報告致します。五老峰の老師からのお言葉は『七百十八』との事です」
そう伝えられたものの、アルデバラン自身この言葉の意味は分らない。
自らの高齢と、アテナからの直々の勅命である事を理由としてこの十数年間、教皇からの召喚に一切応じようとしない老師。
また、この様な伝言程度の事を態々黄金聖闘士である自分が行う事に疑問もあったが、教皇や老師のお考えなど自分如きに推し量れるモノではないと考える事を止めていた。
「そうか。いよいよなのだな。ご苦労であったアルデ――」
アルデバラン、そう続けようとした教皇の言葉が止まった。
「教皇?」
何事かと、訝しんだアルデバランが顔を上げれば、玉座から立ち上がり微動だにしない教皇の姿。
カミュを見れば、彼もどうしたのかと分らぬ様子でアルデバランを見た。
教皇と、もう一度声を掛けようとしたアルデバランであったが、突如感じた巨大な小宇宙に思わず周囲を見渡していた。
「……何だ、この異様な小宇宙は」
カミュもそれを感じたのか、普段冷静な彼には珍しくどこか緊張した様子でその出所を探ろうとしていた。
ほんの一瞬であったが、二人が感じた小宇宙は黄金に迫ろうかとする程。
白と青、事なる二色が螺旋を描き混ざり合う様なイメージ。
この特徴的な小宇宙の持主をアルデバランは知っていた。
「海斗……か? しかし、どこから? それにこの小宇宙の感じは、まるで戦いの場であった様な……」
「……ふむ。やはり興味深い」
その呟きに、落ち着きを取り戻したアルデバランが視線を向ければ、教皇は再び玉座に腰を掛けようとしていた。
「気にする事は無い。二人は知らぬであろうが、この教皇の間は秘術により小宇宙を感じ取り易くなっているのでな」
そう言って教皇は続ける。
「海斗が聖闘士となって四日。そろそろ己の小宇宙が聖衣によってどれ程高められるのかを知りたくなる頃だ。限界を知る事は悪い事ではない」
これは早々に昇格を考えねばならんかと教皇が笑う。
アルデバランとカミュが顔を見合わせた。
二人ともその様には感じていなかったのだが、教皇がそう言うのであればそうなのであろう。
どこか納得できないモノを抱えつつ、二人は片膝を付き頭を下げた。
「教皇、そろそろ……」
そんな二人の背後から、教皇の側近が姿を見せた。
「女神アテナ様に拝謁なされるお時間にございます」
「そうか。では二人とも、下がってよい。お前も下がっていよ」
「ハッ!」
そう言って皆を下がらせた教皇は、しばらく玉座に腰掛けたまま微動だにしなかったが、やがて玉座の後ろ、アテナ神殿へと続く扉を覆う巨大な天蓋を潜るとその向こうへと姿を消した。