1986年9月11日――ギリシア。
アテネ市内――シンタグマ広場。
それはある種異様な光景であった。
広場に面したオープンカフェ、そのテーブルの一つ。
シンプルな無地のシャツ、薄手のジャケットにジーンズといったありふれた恰好をした東洋人の少年と向かい合う二人の黒服。
「……これは一体どういう事だ?」
店内のテレビから流れ聞こえるニュースと手にした新聞。
そこには一面の見出しにこう書かれていた。
――史上最大の戦い始まる!! その名は銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)――
――グラード財団によって開催される世界最大規模の格闘技イベント――
――最強の存在!聖闘士同士による戦い。優勝者には――
それらを交互に見やりながら、海斗は目の前に座る二人の黒服に問いかける。
黒服たちはグラード財団の連絡役である。
城戸光政が世界各地に送り込んだ孤児たちの中から聖闘士となった者を探し出し、彼らを日本へと連れ帰るのが仕事であった。
不機嫌さを隠そうともしない少年を前にして、大の男である二人は自身の動揺を、怯えを隠せないでいる。
例えるならば、両親に叱られる子供、それが一番しっくりとくるのかもしれない。親と子の配役が明らかに逆であったが。
「……やってくれたよ、城戸の爺さんめ。まさか見世物にするために俺たちを聖闘士にさせようとしていたなんてな」
言葉を発した、ただそれだけである。それだけで客で賑わう昼間のカフェから喧騒が消えた。
海斗の発する気配が、雰囲気が、そうさせていた。
「まあ、あんたらに言っても仕方がない事とは分っているんだけどな? 愚痴ぐらい聞いてくれ、ってことだ。ったく……」
青ざめ始めた目の前の二人、そして静まり返った店内の様子を察した海斗はやれやれと大きく息を吐いた。
『――各国のマスコミ、報道関係者はもちろん、聖闘士の戦いを一目見ようとする人たちが続々と日本へと……』
静寂の呪縛が解かれた、とばかりに静まり返っていた店内からは再び音が溢れ始める。
背中に流れる汗の、握り締めた手の中のじっとりとした感覚に気付き、向かい合う二人もまた大きく息を吐いていた。
「で、だ。俺の提示した帰国の条件覚えているよな? 財団本部に問い合わせるから時間をくれ、少しの間待って欲しいと。あんたらはそう言ったよな?」
テレビには興奮冷めやらぬ、といった様子のリポーター。
語られる内容もそうであったが、その捲くし立てるような甲高い声もまた海斗の苛立ちを一層増していた。
少し冷めたコーヒーに砂糖を入れてかき混ぜる。
少し口に含んで、また砂糖を足してかき混ぜる。
それを何度も繰り返す海斗の様子に黒服たちは
(それはもうコーヒーじゃない)
と思いはしたが、口には出さない。
二人にとって目の前の少年は人間とは異なる何かなのだ。
資料として聖闘士の事は知ってはいたが、僅かなやり取りの内に“知ったつもりでしかなかった”という事を彼らは思い知っていた。
火を見れば熱いと解るように、氷を見れば冷たいと解るように。
ほんの一瞬、海斗が見せた凄味に二人は完全に呑まれてしまっていたのだから。
「その答えがこれか。俺が提示した条件は聖域から失われたある聖衣の捜索の手伝い、だったよな。それが――」
空になったカップと中身を半分まで減らしたシュガーポットを除け、海斗が二人の前に新聞を突き付ける。
テーブルの上に広げられる新聞。そこに載せられた一枚の写真を指差し海斗が続ける。
そこに写っているのは一つの箱。
「俺が一番聞きたいのはここだ」
『……最後の勝利者となった者にはこの黄金聖衣が与えられます。八十八の聖闘士の最高位である聖衣が!!』
弓矢を構えた半人半馬のレリーフが施された聖衣箱。
「……」
黒服たちは何も言わない。
テレビからは相変わらず興奮気味のレポーターの声が聞こえて来る。
頬杖をつくと、海斗は面倒臭そうに視線をテレビへと向けた。
『――それがこの射手座(サジタリアス)の黄金聖衣なのです!!』
「まさに灯台下暗し。この十三年間所在が不明だった物がグラード財団の元に在った、って事かよ。成程ね、この時期に俺の要求を聞かされればそりゃ警戒するわ。
目と耳が欲しかっただけなんだけどなぁ。それにしても、優勝者に与える――か」
失われたサジタリアスの黄金聖衣の捜索、それは海斗が教皇から直々に与えられた任務の一つである。
これには他の聖闘士たち、特にアイオリアから異論が上がったが星見の結果であるとして決定された。
エクレウスでありシードラゴンであり等々と、色々とややこしい存在である自分の星とやらが甚だ疑問ではあった海斗であったが、何にせよ“都合がよい”事には違いはなかった。
「ここまで公にされては裏からは……駄目だな。やってやれない事も無いが、現状俺が最有力容疑者だろうしなぁ。なら、やっぱりこれが一番穏便な方法か。私闘には……ならないよな?
まあ、その時はその時か。となると問題は聖衣か。ジャミールに寄って……寄りたくないなぁ……」
やれやれと、溜息をつき海斗は椅子から立ち上がる。
ポケットから取り出したコーヒー代をテーブルに置くと、男達に向けて続けた。
「お嬢様に一つ伝言を頼む」
視線を男たちから外し、海斗はもう一度だけテーブルの上に広げられた新聞に目をやった。
そこには、出場する青銅聖闘士たちを表す星座が、名が書き連ねられている。
「……私闘は厳禁だって教わっているだろうに。どういうつもりだ?」
その名は全て城戸光政によって集められた百人の孤児たちに与えられたそれであった。
第27話
グラード・コロッセオ。
ただ一度のギャラクシアンウォーズのためだけに作り上げられた一夜城。収容人員十万人、グラード財団が総力を結集して作り上げた現代の格闘技場(コロッセオ)。
外観はローマのそれを模しながらも近代的にアレンジされ、場外には無数のモニターが、場内には近代科学の粋を集めた多様な趣向が施されている。
大会開幕の合図とともに天井を巨大なドームが覆い、光源を失った場内を照らすのは星空へと姿を変えたドームの光が照らす。
観客席の奥には星の祭壇とも表現すべき巨大な祭壇が黄金聖衣を安置し、闘技場の中央には周囲をロープで囲まれたリングが用意されていた。
空中に現れた巨大な四枚のクリスタルボードが停止し、モニターとなって場内の観客達に様々な情報を与える。
壁面に備え付けられたサブボードには試合中の聖闘士たちのデータが表示され、一般人には理解できない聖闘士の戦い数字として表現する。
大会開催の報から僅か一週間にして集まった観客は収容人員を大きく超え、入場できなかった観客たちはそれでもと場外にひしめき合っていた。
突如として公にされた聖闘士という存在に対し懐疑的な声も多く、世間の認識としてはいわゆるイロモノ的な格闘技イベントではあったが蓋を開けてみればご覧の通り。
世紀の大イベントとの触れ込みに偽りは無く、興行として大成功を収めるであろう事は、この興奮と熱狂に包まれたコロッセオを前にすれば誰の目に見ても明らかであった。
『皆さま、本日はこのグラード・コロッセオにようこそいらっしゃいました』
アナウンスは告げる。
神話の時代より命をかけた聖闘士たちの戦いには場もルールも存在しない事。しかし、あくまでもこの大会が試合である以上は人命尊重のために一定のルールを設ける事。
戦いはトーナメント方式、無制限三本勝負、コンピューター制御によるテン・カウント制等々。
場内を流れるアナウンスに観客達がいよいよ沸き立つが、次の説明により水をうったように静まり返る。
『反則や禁止行為は定めておりません。仮に一命を落とす事態がおこっても聖闘士は自ら承知の上であります』
その内容を理解したのか徐々に観客達の中からざわめきが目立ち始める。
アナウンスは構わずに優勝者に与えられる黄金聖衣の説明を始めるが観客達のざわめきが消える事は無い。
運営側の財団関係者からも動揺の気配が見え始めた頃であった。
『場内の皆さま天の中央をご覧ください! 本大会の創始者城戸沙織嬢が皆さまにご挨拶を申し上げます』
ドームに浮かび上がる星空がその姿を変え、場内に銀河の橋を作り出す。
そこを渡る少女の姿に、その容姿に、類稀なる美貌に、観客たちは言葉を失い目を奪われ――やがて歓声を上げた。
「皆さま、ようこそいらっしゃいまいた。今は亡き祖父城戸光政に代り御礼申し上げます」
純白のドレスを身に纏い、右手に黄金の杖を持った少女――城戸沙織の姿に。
この時の沙織の姿は辰巳をして神がかっていたと言わせている。
観客たちは城戸沙織という存在に圧倒されていたのだ。
「この場にいらっしゃる皆さまは既にご存知かと思われますが、聖闘士は星座を守り神としてその名を聖衣にいただいております。
それゆえ、わたくしたちはこの戦いを銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)と命名致しました。史上初のギャラクシアンウォーズの勝利者は誰か、黄金聖衣を手に入れるのは誰か」
すっと、沙織が手にした黄金の杖を掲げて見せる。観客たちは誰もがその動きに見とれ、その動きを追った。
「それを今、皆さまと一緒に」
黄金の杖が輝きを放つ。
輝きは幾つもの流星となってリングへと向かい飛び出した。
それに気付いた誰かが叫んだ。
「おい! リングの上だ!! 見ろよ!」
「え!? あ、ああ!!」
「いつの間に!?」
ドラゴン紫龍、アンドロメダ瞬、ユニコーン邪武、ベア檄、ヒドラ市、ライオネット蛮、ウルフ那智、そして――先日カシオスとの戦いを制し、聖闘士となったペガサス星矢が。
「既に聖闘士は闘技場にスタンバイしているぜーー!!」
その手に流星を掴み取った八人の聖闘士が聖衣を纏いリングの上に集結していた。
ギャラクシアンウォーズ開催の報は当然の如く聖域の知るところとなる。
聖衣はアテナを、正義を、地上の平和を護るために使用されるべき物。私欲や私闘のために身に纏う事は固く禁じられている。
故に、ショー紛いの闘いを繰り広げようと日本に集まった青銅聖闘士たちに対して断固とした処分を求める声が上がったのは想像に難くない。
事実、昨年参謀長となったギガース老による即刻制裁すべし、抹殺もやむなしという意見に賛成の意を示す者は議場いる者たちの八割を超えていた。
しかし、ニコルのこの一言がその流れに待ったをかける事となる。
「ですが、参加者である一人ドラゴンの師は“あの”五老峰の老師ですよ」
中国五老峰にある大滝の前に座す事二百四十数年。
前聖戦を戦い抜き、今なお生き続ける伝説の聖闘士である。
「あのお方が何の意図も無く自らの弟子を送り出すとは……」
「ぐぬぅ……しかしだな」
その存在と影響力は教皇に匹敵する。
それ程の人物がなぜ、と。
「老師が何を考えていようとも、こちらは一切の連絡を受けておらんのだ。ならば聖域として動かぬ理由にはならんぞ」
「それだけではない。十三年前“逆賊”アイオロスとともに姿を消した黄金聖衣の事もある」
そして、そう続けた老司祭の言葉に場内の空気がより一層重くなる。
「……教皇様なら……」
誰の言葉かは分らないが、それでもその呟きは静まり返った議場に響いた。
本来、こういった重要な問題は教皇が判断して指示を与えるのだがこの場にその姿はない。
教皇の間の奥にて瞑想を行っているためだ。
人払いをされた上で行われるそれは、代々の教皇も行っている儀式の一つであり誰も邪魔をする事は許されない。
唯一それが行える存在はアテナであるが、そのアテナに拝謁するためには教皇の許可を必要とする。
事実上、瞑想を始めた教皇をこの場に呼び出す方法はないのだ。
しかも、ここ数年の瞑想は十日、半月と長きにわたり行われており、この場に集まった者たちにいつ訪れるかも分らぬ終わりを待っている猶予はない。
事態があまりにも公になり過ぎたため、今更隠蔽工作など行えるはずもなく、下手に動けば民間人を巻き込む可能性もある。
グラード財団の目的が見えないのも問題であるし、黄金聖衣の真贋も問題であった。
仮に本物であるならば、財団は、少なくともその関係者とアイオロスは何かしらの接点があったという事になる。
グラード財団の影響力が“表の世界”において聖域のそれを超えているのはギャラクシアンウォーズの開催やこの十三年間黄金聖衣が秘匿されていた事が証明している。
聖域と敵対をしているわけではないが、この流れではそう捉える者がいても不思議はない。
全世界に対して公にされた聖闘士の存在、その意図は何だ?
何かしらの策謀か、それともどこかで知った聞きかじりの知識を元にした城戸光政の道楽に過ぎないのか?
憶測が憶測を、推測が推測を呼ぶ。
「ん、んんっ」
その沈黙を破ったのはどこか芝居じみた咳払い。ギガース老が発したものであった。
「このような不測の事態を想定されて教皇様はワシを参謀長と命ぜられたのは皆も知っていよう。で、あれば皆の意見が纏まらぬ以上はワシが――」
厄介な事になったな、と。頭を抱えたい思いを隠しながらニコルは静かに息を吐いた。
ギガース老がここぞとばかりに自分の立場をアピールしているが、この時のニコルにとっては些細な事に過ぎなかった。
議場に入る前にユーリから聞かされた話を思い出し、人知れず眉間を押さえる。
それは聖域に戻っていたはずの海斗が消息を絶っており、どうやら既に日本へと向かっているらしい、との事だった。
そこに権力闘争など歯牙にもかけない厄介事の気配を感じていたのだ。
偶然にしろ何にせよ、事実として海斗が消息を絶ったのと同じくして二年前のあの戦いが起こっている。
「……頼むから余計な仕事を増やしてくれるなよ」
三時間以上かけてようやく方針が固まりつつある議場を尻目にニコルは今日何度目かの溜息をついた。
中国廬山――五老峰。
詩仙李白曰く、廬山の瀑布を望む。
飛流直下三千尺疑うらくは銀河の九天より落つるかと。
まさしく天から落ちる如き勢いを見せ続ける廬山の大瀑布を前に、編み笠を目深にかぶったその小柄な老人はただ一人座したまま二百数十年という人の身に余る永き時を過ごしてきた。
名を童虎という。
二百四十三年前の聖戦を生き残った天秤座(ライブラ)の黄金聖闘士にして生ける伝説である。
彼は朝も昼も夜も、春も夏も秋も冬も、晴れの日も雨の日も変わらずそこに在った。
いつしか彼は、彼を知る人々から畏敬の念を込めて“五老峰の老師”と呼ばれるようになっていた。
「老師」
「うむ、案内をさせてすまなんだな春麗」
春麗と呼ばれた少女は「それでは」と言って見知らぬ少年と手を繋ぎその場を離れる。
穏やかな日差しの中、少女と少年の楽しげな声色を聞き、知らず童虎は深い皺の刻まれたその顔に笑みを浮かべていた。
「彼女は……。ああ、あの時の。随分と大きくなったものですね」
春麗に連れられ、ここに残った青年が彼には珍しい優しげな笑みを浮かべてその後姿を見送っている。
「ホッホッホ。子供というものはとんでもない勢いで成長するものじゃからな。お主の連れて来た子もそうではないか」
「貴鬼ですか。あれにはもう少し落ち着きという言葉を教える必要がありますが」
童虎と春麗に血の繋がりはない。
彼女は廬山に捨てられていた子供であり、童虎が拾い育てた少女である。
家族のいない童虎にとっては弟子である紫龍とともに実の子供と言ってもよい存在であった。
「さて。遠路はるばると言うべきかの? 久しぶりじゃのう――ムウよ」
「はい、お久しぶりでございます。老師もお変わりなく」
青年――ムウはそう言って頭を下げると片膝をついて童虎と対面する。
「エクレウスが日本へと発ちました。言葉にはしておりませんでしたが――介入する気でいるのは間違いありません」
「なんと、ここで動かすか? 随分とまた思い切った事をするのう。鬼札にすると思っておったのじゃが」
はて、と童虎が首を傾げ、そして思案する。
「ムウよ、お主の危惧は正しいやもしれんのう。教皇のこの指し方は違う。今の教皇は……少なくともワシらの知るシオンでもワシらの知る教皇とも違うものじゃ」
「ッ!?」
ムウが彼らしからぬ焦りを、感情を表に出し、その身を乗り出す。
教皇シオンとは童虎とともに前聖戦を生き抜いた当時のアリエスの黄金聖闘士であり、ムウの師でもある。
十三年前、まだ若く幼ささえ残していたムウに与えられた勅命。
来たるべき聖戦に備えるため、聖域を離れジャミールの地にて聖衣修復に専念せよ。
その言葉を最後に、以後教皇シオンとしての言葉は伝えられても師シオンとしての言葉を届けられた事は無い。
「エクレウスの独断か、それとも……動かさざるを得ない状況という事か? 教皇の指示であるとするならば……あちらも時間は無いと、そういう事かのう」
ムウは何も言わない。ただじっと童虎の言葉を待つ。
そして待つ事しばらく。やがて童虎は雰囲気を一変させると好々爺然として口を開いた。
「ときにムウよ」
「はい」
「城戸沙織という少女の元にサジタリアスがあり、そして当代のペガサスがおる。お主はこれをどう見る?」
「……老師は……そうお考えなのですか?」
「これこれ、質問に質問で返すではないぞ」
ホッホッホ、とさして気にした様子もなく童虎は笑う。
「まあよい、可能性としては、のう。城戸沙織の元におるペガサスが“その側に”立つ。ならば……」
そう言うと、童虎は目深にかぶった編み笠を僅かに持ち上げ、まるで何か大切なものを想うかのように天を仰いだ。
「ペガサスは常にアテナの側に在る。それが彼の者の運命(さだめ)よ」