ギガス達の襲撃――現代におけるギガントマキアの終結より二週間。
多くの人的、物的被害を受けた聖域であったが、懸念されていた混乱も少なく、この頃には――少なくとも居住区に住まう人々は――普段通りの日常を取り戻しつつあった。
それも、ひとえに教皇の存在によるものが大きい。
サガは襲撃の中で家族を失った者や傷を負った者、恐怖に怯える人々の元へ足しげく通い、その不安を取り除くべく献身的に動いていた。
死者を蘇らせたわけではない。傷を癒せたわけではない。恐怖を取り除けたわけではない。
それでも、サガの行為は、人々に手を差し伸べる教皇という存在は、救いを求める人々の心に安らぎを与えていたのだ。
「教皇様!」
「あ、教皇様だ」
「教皇様」
「おお、教皇様!」
今も、こうして道を歩いているだけで老若男女問わず教皇に声をかけてくる。その表情は皆明るく親しみに満ちている。
「きょうこうさま! きのうはおかあさんの――」
「ふふっ、それは良かった。それならば――」
話しかけてくる子供達一人一人に穏やかに接している教皇の背中を眺めながら、海斗はアルデバランから聞かされていた教皇の人柄を思い出していた。
(……人々に愛と安らぎを与え、その徳は全ての人に崇め慕われている、か)
それはいくらなんでも、と。過大評価だろうと海斗は話半分に聞いていた。聞いていたのだが。
生い立ちやら何やらによって、自分が年齢の割に捻くれた物の見方をするという自覚はあったが、少なくともここ数日の間に見てきた教皇からは嘘偽りは感じられない。
海斗としては、エクレウスの聖衣を与えられた時の印象が強過ぎ、正直に言ってあまり良い印象は持ってはいなかった。
むしろ敵視していた、とも言える。
(認識を改める必要があるか?)
思考にふけっていたせいか、気付けば教皇が仮面越しに自分を見ている事に気が付いた。
「ふむ、どうした海斗? 傷がまだ痛むのか?」
「あ、いえ。少し考え事を……」
本人を前に「貴方を疑っていました」と言える程図太い神経はしていない。
そう言う海斗はシャツとズボンといった簡素な服装であるが、身体中の至る所に包帯を巻いている。
見るからに痛々しい姿であり、普通の感性を持つ者ならばまず心配をする。そのぐらいの酷いレベルであった。
「それに、見た目ほど酷い怪我をしているわけではありませんので」
これは嘘ではない。
実際、海斗としてはこの姿は大袈裟すぎると思っている。ならば何故、となるのだが。
「そうか。無理をする必要はないぞ? お前に何かあれば私は皆に叱られてしまうのでな」
ポルピュリオンを倒した後、教皇の命により捜索に来たシャカの手を借りて異次元空間より脱出した海斗。彼を待っていたのはセラフィナによる説教であった。
また大怪我をしている、無茶をするな、心配させるな、命を大切にしろ等々。
海斗自身は蓄積されたダメージや疲労、ようやく終わった、という安堵から早々に気を失っておりほとんど聞いてはいなかったのだが。
その剣幕は凄まじいものがあり、海斗がジェミニの黄金聖衣を纏っている事について問いかけようとしたシュラが一歩引いて黙り込んでいた、とはシャカの弁である。
そして、聖域に戻れば……。どう見ても重傷な海斗の姿を見たアルデバランが「これは一体どういう事だ!」と、遂に――切れた。
色々と溜まっていたストレスが爆発してしまったようだ。
シャカを除く黄金聖闘士達は皆心当たりがあるためか早々にその場を立ち去ったらしい。これもシャカの弁である。
そんな心温まるやり取りの果て、処々諸々あってが……この過剰ともいえる包帯姿。
道行く人々からのちらちらとこちらを窺う視線が微妙に痛い。
大人しく寝とけ、と無言で責め立てられているような。
(心配してくれるのはありがたい。本当にありがたいんだが……)
心配をかけた、無茶をしたという自覚はあるので文句も言えない。あの鬼二人を前に反論する勇気が無かっただけだが。
アルデバランからリハビリを兼ねた軽い運動だと勧められれば、何故かこうして教皇の付き人のような事をしている。
女神アテナの代行者とも言える教皇と、片や一介の聖闘士に過ぎない自分。接点などロクに無かったはずが。
ハハハッ、と楽しそうに笑いながら先へと進む教皇の後を、海斗は溜息を一つ吐きゆっくりと追って行く。
(……どうしてこうなった?)
第23話 シードラゴン(仮)の憂鬱2
「いや~。ムウ様のところでさ、色々と壊れた聖衣を見てきたけど……これは……スゴイね。ヒドイ意味で」
白羊宮内の広間。
日当たりの良いその場所でパンドラボックスを開き、回収された聖衣を、オブジェ形態のエクレウスの聖衣を取り出して見せた海斗に向けての貴鬼の第一声がこれであった。
「……だな。あらためて見ると……。うん。これはムウに殺されるかも知れん」
多少は自然修復されているようだったが、ハッキリ言って、これでどうやってオブジェ形態を維持できているのかが不思議に思える破損状況である。
なまじマスクのパーツに傷が無い分、それ以外の破損個所が余計に目立つ。
「そんな事はないと思いますけど……」
海斗曰く“過剰過ぎる”包帯を取り変えながら、どこか困った様子でセラフィナが答える。
ギガトマキアの事後処理が終わるまで、二人は教皇の勧めもあってムウ不在により無人と化していたここ白羊宮に、少なくともあと数日は留まる事になっていた。
「精神的にな。こうネチネチと、胃がキリキリするような感じで延々と責め立てられそうな気がする」
「……ああ……」
「……かもねー……。ムウ様よく夜中に呟いていたもんね。終わらない、終わらない、って」
薄暗い闇の中、無数の破損した聖衣に囲まれて、ただ一人、何やらブツブツと呟きながらカツンカツンと槌を振るうムウの姿を思い浮かべる。
「怖いな、ソレ。……いや、冗談で言ったんだが。お前ら否定しろよ! え、マジなの!? ヤバいな」
さっと目を逸らす二人の様子から海斗は“マジ”であると判断。矛先をかわすため、この際黄金聖衣を破損させていたシュラも連れて行こう、と生贄の羊、もとい山羊をどうやって捕まえるかと思案する。
「ああ、そうだ。ねえお姉ちゃん、あのお姉ちゃんは元気?」
「え? ああ、聖良さんね。うん、まだ歩き回ったりはできないけれど、身体を起こすぐらいは」
聖良とは、エキドナと呼ばれた少女の事である。
肉体的なダメージはともかく、精神的なダメージが酷かったらしく、彼女は自分の名だけではなくこれまでの生活の、過去の全ての記憶を失っていた。
現代医療での治療が疑問視された事もあって、今はアルデバランの勧めもあり金牛宮にて療養をしている。
「聖良? ああ、あの子の名前か。分ったのか?」
海斗の問いにセラフィナは首を振る。
「そう、か。まあ、会話ができる状態である事を考えれば、それほど深刻にならなくてもいいかもしれない、と思いたいが……」
「……あの……」
そんな何とも微妙な空気を纏った三人に声をかける者がいた。
「ん? ああ、ユーリか。どうした?」
海斗が振り返ると、そこには銀のマスクによって素顔を隠した銀色の髪の少女、六分儀座(セクスタンス)の青銅聖闘士ユーリが立っていた。
助祭を務める目の前の彼女は白い貫頭衣に緋色の外套という、聖域の女性の普段着とも言える服装をしている。
「……やっぱりシャイナや魔鈴のセンスがおかしいのか?」
そう呟いた海斗の声は幸いにして誰にも気に留められる事はなかった。
ちなみにセラフィナもユーリと同じ服装だがマスクはしていない。
これは彼女が聖闘士として秘匿された存在であるが故である。表向きはジャミールにてギガス達の戦いに巻き込まれた少女を海斗が保護した、と言う事になっていたためでもある。
本来であれば、立場的にもムウはともかくとして、その場に居合わせたシュラが保護役を担うべきだという海斗の言葉を、シュラは「フッ」と鼻で笑って一蹴し、全てを海斗に押し付けたのだった。
教皇の間にて、海斗対シュラ戦勃発。
一体どこから嗅ぎつけたのか、やんややんやと囃し立てるデスマスク、本を片手に観戦モードに入るカミュ、興味深そうに眺めるだけで止めようとしないミロ、口では止めろと言いつつも血が騒ぐのかうずうずとしているアイオリア、我関せずのシャカ。
アフロディーテは「美しくない、馬鹿馬鹿しい」と溜息を吐きその場から離れたが、ちらちらと二人の戦いを気にしていた事をシャカだけは知っていた。
結局、あまりの騒ぎ――試合とはいえ黄金聖闘士クラスの戦いである――に、「なにをやっているか! この馬鹿者共が!!」と怒鳴り込んできたアルデバランにより仲裁されたが、結果的には海斗の黒星で終戦。
この戦いで海斗の力を目の当たりにしたアイオリア達は、先に教皇が語った“ジェミニの海斗”を好意的に受け止める事となる。
それがシュラの狙いであったのか、この騒ぎを黙認していた教皇の狙いであったのかは、当人たち以外は知る由もなかった。
皆逃げ出したのだから。教皇ですら。
「あ、あの、海斗様? カミュ様とニコル様が図書館でお待ちですが……」
まさかあの恰好が自発的なものだと、などとブツブツと呟き始めた海斗に遠慮がちに声をかけるユーリ。
ニコルとは教皇を補佐する助祭長を務める若き白銀聖闘士である。祭壇星座(アルター)のニコル。ブルネットの髪の穏やかな眼差しをした海斗と同年代の知性的な若者である。
「ああ、そう言えば……そうだった。忘れていたよ、助かったユーリ。カミュはともかく、ニコルはそういう所がうるさいからな」
二人の用とは海斗の持つ千年前の記憶にあった。
聖域の史書や文献を統括するカミュやニコルにとって海斗の記憶とは――例え多くが薄れ思い起こす事ができなくなっていたとしても――途方もない価値があったのだ。
聖域に帰還した後。
一通りの治療を終えた海斗は、教皇や他の黄金聖闘士達が集められた中でこれまでの行動とそれに至る経緯の説明を求められ、所々――自分の魂が海将軍に関わる事――をぼかしながらも、それ以外の己の知るほぼ全てを答えた。
ポルピュリオンとの戦いで、なぜジェミニの黄金聖衣が海斗の元へ向かったのか。どうしてジェミニの奥義を放てたのか。
そして、二人の海将軍と冥王軍と名乗ったタキシードの男との接触についても。
ジェミニについては戦いの中、死の淵にあって偶然にも思い出した魂の記憶や、聖衣に過去の聖闘士の記憶が蓄積される事――聖域では実証されている事実――で、海斗の説明に異を唱える者はいなかった。
海将軍との接触については、この時代に海闘士が覚醒していた事に驚愕の声が上がったものの、聖闘士と海闘士共通の敵であるギガスの本拠地での遭遇であった事で、今回の接触には何ら意図するものは無い、と認められた。
一時的とはいえ、協力体勢を取った事についても同様であった。過去はともかく、現代においては聖闘士と海闘士はまだ敵対しておらず、彼らも地上に対して特に何かをしたという訳でもない。争いを起こさないのであればそれでよく、来るべき冥王との聖戦を前に避けられるべき戦いは避けるべきである、というのが教皇の――サガの結論であった。無論、警戒はすると含めたが。
サガのこの決定には、自らを冥王軍であると名乗った男の存在が大きい。
その男はギガス共々海斗によって倒されたとシュラが証言したが、問題はそこではなく、あと数年は封じられているはずの冥王軍がこの時期に動いた、という事であった。
アテナの、神の施した封印とはいえ完璧ではない。そうであるならば、五老峰の老師が二百数十年もの長きにわたり大滝の前に坐したまま封印を監視する必要などないのだから。
自分の件、カノンの件、聖域の件、冥王軍に海闘士と問題が山積みである。
次々に起こる想定外の出来事にサガは人知れず溜息を吐いていた。
『老師に連絡を取らねばらんな。皆、状況が分るまではしばし聖域に留まって貰う』
結局は新たに生じた大き過ぎる問題への対応こそが優先される事となり、海斗への細々な追求といったものが行われる事はなかった。
……なかったのだが。
『ん? て事は、だ。アルデバランの弟子、お前さんの魂の記憶、ああ面倒だな、名前で呼ぶぜ。海斗よ、お前は当時の事を“知って”いるんだな? なら他の聖闘士の事も知っているんじゃないのか?
どんな戦い方をしていたかとか、どんな技を使っていたか、とかだ。その中には……失われた秘拳なんかもあるんじゃないか? 俺の積尸気の奥義、とかな』
このデスマスクの言葉が、その場にいた皆の関心を集めたのは言うまでもない。特に、カミュの熱の入れようは尋常ではなかった。言い出したデスマスクが思わず引くほどに。
「……海斗さんってそういう所がだらしないですからね~」
流れに任せる、と言えば聞こえはいいが、なるようになれと開き直った最近の海斗は、これまでの張り詰めていた糸が切れたのか……駄目人間街道を順調に歩み始めていた。
ルーズになったと言うか、根が真面目なニコルからすれば今の気の抜けた海斗は次期黄金聖闘士にあるまじき、との事。出会えば必ず一言二言は飛んで来る。
「……なあ貴鬼、気のせいか最近セラフィナがキツくないか?」
「兄ちゃんが悪いんじゃないの? 多分。絶対」
絶対は多分とは言わんだろ、とぼやきながら「怒ってたか?」と海斗はユーリに問い掛ける。
「はい!」
ユーリはハッキリと言い切った。仮面越しではあったが、きっといい笑顔をしているのだろうと察し、海斗はげんなりとした。
本人は隠しているつもりなのであろうが、ユーリがニコルにどのような感情を持っているのかは、そういう事にうとい海斗にも分る。あえて言うつもりもないが。
これからの事を思い、やれやれと海斗が首に手を当てて動かすとコキコキと音が鳴る。
椅子に座って質問に答えるだけ。それだけなのだが、ハッキリ言って海斗にとっては苦行であった。
一時間程度であればまだいい。しかし、本の虫、知識の虫であるあの二人は誰かが止めねば延々と続けるのだ。終わらないのだ。
クールであれと言っているカミュが一番熱く喰いついてくるのは心の底から勘弁してもらいたい。寒いのだ、冷えるのだ。
カミュがアルデバランのように弟子を取っていると聞いていた海斗は、一度その事をネタにして「弟子の事を放っておいて良いのか?」と、この苦行を打ち切ろうとしてみせたが「水晶(クリスタル)聖闘士に任せているから大丈夫だ」とシレっと答えられて終わりであった。
なんでもカミュの弟子は三人おり、その一人は既にエレメントの聖衣を与えられた正規の聖闘士であり、基本的指導は十分に任せられるらしい。
そんな万策尽きた海斗の頼みの綱はミロであった。
自他共に認めるカミュの親友である彼は、毎日毎日憔悴した様子で解放される海斗をさすがに不憫に思ったのか、それともカミュの“悪癖”に被害に遭った者同士として奇妙な連帯感が芽生えたのか。
ここ数日は切りの良い所を見計らい、何のかんの理由を付けては海斗を救出してくれていた。その度に図書館に舌打ちの音が聞こえるのはどうかと思わなくもない。
「はぁ~~。まあ、ここでグダグダしていても仕方がないか」
張り切って歩き始めるユーリとは対照的に、肩を落としてその後に続く海斗。
その姿を笑って見送るセラフィナと貴鬼。
(まあ、平和なのは……良い事だ)
まるで爺さんだ、と。若者の感慨では無いなと苦笑しながら海斗は空を見上げた。
雲一つない澄み渡った青空。
「海斗様! 急ぎますよ!」
「ああ、分ってるよ」
何をしているんですかと急かすユーリ手を振りつつ、きっとニコルは尻に敷かれるぞ、と。愉快な未来図を思い浮かべて苦笑しながら海斗はゆっくりと歩き出した。