混沌(カオス)より生れし始まりの神大地母神ガイア。
ガイアは天の神ウラノス、海の神ポントス、愛の神エロス、暗黒の神エレボスなどを一人で生んだ。
その後、ガイアはエロスのはたらきによりウラノスとの間に子をもうける。
男児が六人、女児が六人。
この十二人こそが後にティターン神族と呼ばれる、いわば第一世代の神々であった。
ガイアは子らを愛したが、ウラノスは違った。その事が、やがて大きな不和となり、ウラノスとティターン神族の争いの切欠となる。
新たな子を生み続けていたガイアは、子らの争いには中立を保っていたが、この時に限ってはティターン神族に加護を与えた。
ティターン神族の末子クロノスはガイアの期待に応え、父であるウラノスを討ち、神々の新たな王となった。
しかし、ウラノスはその最期にクロノスに預言を残していた。「お前も自らの子に王位を奪われるのだ」と。
預言は呪詛となり、ゆっくりと、しかし確実に、クロノスの精神を蝕み、やがて、狂気に堕ちたクロノスは自らの子をその手で次々と封じていく。
その事に悲しんだクロノスの妻レアは、打倒クロノスのために六人目の子であったゼウスをガイアの元へと送る。
ガイアもまた、レアの求めに応じてゼウスに新たな子らの力を貸し与え協力を示した。
後世「ティタノマキア」と呼ばれる神々の戦いの始まりである。
結果はウラノスの予言の通り、クロノスの子であるゼウスらの勝利で終わる。
ゼウスが新たなる王となり、第二世代、いわゆるオリンポスの神々の統治の時代が始まる。
しかし、ティタノマキアは神々に大きな禍根を残していた。
その中でも最も大きなものが、クロノスの死によるガイアの怒りと悲しみであった。
オリンポスの神々は、ゼウスはガイアの想定を超えてやり過ぎたのだ。
ガイアはゼウスに味方したとはいえ、子であるクロノスの死までは望んでいなかったのだから。
クロノスの血とガイアの慟哭から新たな神が生まれる。
オリンポスの神々への憎悪より生れし存在。
ガイアの加護により不死身の肉体を得た存在。
神々の力に対して無敵、との神託を受けた神々の敵対者――ギガス。
神々を滅ぼすモノとしての神託を受けた存在。
炎と嵐を司る最大最強の魔獣。
その名は――Typhon。
セラフィナへと歩み寄る海斗の足取りは決して軽いものではない。
傷付いた身体からは、一滴、また一滴と、紅い雫が流れ落ちている。
それでもなお、その瞳の輝きは、闘志は、小宇宙は、衰える事なく熱く燃え滾っていた。
「……ほう……」
そんな海斗の姿を見て、口元に笑みを浮かべたポルピュリオンから洩れたのは感嘆の声。
たかが人間と侮っていたが、なかなかどうして、と。
「デルピュネを討ち、獣将を退け、トアスを破っただけの事はあるか。しかし――」
王の神域に土足で踏み込むその振る舞い。
聖なる儀式を邪魔したその蛮行。
「血と泥に穢れた身体でこの場に踏み入る事は――許さん」
そう断言したポルピュリオンは、未だ歩みを止めない海斗へと掌を向ける。
「……だったら、どうする?」
すると、ようやくその存在に気が付いたとでも言わんばかりに、ここに来て初めて海斗がポルピュリオンを見た。
神たる自分と対峙してなお微塵の畏れすら見せぬその姿勢。
その全てがポルピュリオンにとって度し難く、許し難い。
「塵一つ残さず四散せよ」
それは、文字通り、正しく“威圧”であった。
質量すら感じさせる程の圧倒的なまでの意思の力が、空間を歪め、巨大な壁となって、周囲の空間ごと海斗を押し潰そうとする。
海斗の身に纏われた半壊したエクレウスの聖衣。衝撃はその崩壊を進め、剥がれ落ちた欠片はまるで陶器のように音を立てて砕け散る。
「海斗さん!!」
ビシリ、グシャリ、と。
聖衣が、大地が、粉砕されて礫と化す音は、セラフィナの声を掻き消してなお止む事はない。
「砕け散れぃ」
その言葉と共に、ポルピュリオンが拳を握る。
その動きに合わせるように“力”が圧縮され、瞬く間に限界を超えて爆発する。
先の宣言の通り、爆発に巻き込まれた海斗の身体はいとも容易く四散した。
光り輝く飛沫となって。
「えっ!?」
「……む!?」
セラフィナとポルピュリオンの口から同時に驚愕の声が漏れた。
だが、その質は違う。
現状を把握できていないセラフィナと、状況を理解できたポルピュリオンとでは。
「水を使う聖闘士か!」
宙を舞う飛沫に映り込む己の姿に、先の海斗が虚像であったと悟る。
「水鏡とは、小賢しい真似をする」
小宇宙によって生み出された等身大の水鏡であった。
いつの間に、どうやってとの疑問はあったが、直ぐにそれらはどうでもいい事となる。
「……どこだ?」
周囲を見渡す視線の先に海斗の姿は見付けられない。
小宇宙を探ろうにも、周囲に飛散した水鏡の飛沫がそれを妨げる。
そこに宿された海斗の小宇宙、その残滓がポルピュリオンの感覚を狂わせていた。
「ふふふっ、面白い!」
姿は見えず、しかし、その存在は周囲のどこからも感じ取れる。
この状況に、ポルピュリオンは僅かな苛立ちと戸惑いを覚えていたが、それ以上に楽しんでもいた。
「さあ、これからどうするアテナの聖闘士? いつまでも隠れたままという訳にもいくまい?」
「――そうかいっ!」
背後から聞こえた声にポルピュリオンが反応する。
拳を握り込み、背後へと振り返る勢いのままに全力で振り抜いた。
その手に伝わる確かな手応え。
ポルピュリオンの視界には、己の右拳を右腕で防ごうとしていた海斗の姿があった。
既に亀裂だらけであったライトアームはその衝撃で完全に砕け散り、血と共に聖衣の破片が舞う。
馬鹿め、と。
我を相手に力で勝てると思っていたのか、と。
ポルピュリオンがその口元を歪めたその時であった。
「がッ!?」
視界が闇に覆われ、次いでドンッと、頭部から頸椎へと凄まじい衝撃が走り、ポルピュリオンの足下から大地の感触が消失したのだ。
「す、すごい……」
ハッキリとは見えないまでも、どうにか海斗の姿を感じ取ろうとしていたセラフィナは、偶然にもその瞬間を捉える事ができた。
繰り出されたバックブローの勢いを利用して突き出された海斗の左の掌底が、ポルピュリオンの頭部を打ち、そのまま鷲掴みにしたのを。
何が起こったのかと、ポルピュリオンがそれを思考する余裕は無い。
ドゴン、と大地を砕く轟音が広間に響き渡る。
「~~ッツ!?」
後頭部への衝撃と、耳鼻に響き渡る轟音がその暇を与えない。
赤く染まる視界、バラバラと舞う飛礫、その中で見下している海斗の姿に、ポルピュリオンは己が大地に叩きつけられた事を知る。
「タルタロスの深淵で、もう千年寝てろ」
声は聞こえずとも、海斗がそう言った事は理解ができた。
海斗の左手を中心として、高められた小宇宙が螺旋の渦を描き始める。
周囲を巻き込み、徐々に勢いを増していくそれは、ポルピュリオンの身体を包み込むと天井を打ち貫かんばかりに立ち昇る。
それは破壊の尖塔。
全てを飲み込む破壊の渦。
シードラゴン最大の拳――ホーリーピラー。
その尖塔が消えた後に残るのは、螺旋の渦を描き抉られた大地と、穿たれた天井だけであった。
第21話
こっちを見ちゃだめですからね、と。
顔を羞恥で真っ赤に染め、涙目で睨みつけてくるセラフィナを、今さらだろうと思いはしたが口には出さず。
海斗は「ハイハイ」と軽くいなしながら、彼女の身体を拘束していた黒い鎖を破壊する。
「あっ……」
それにより、祭壇に磔となっていたセラフィナの身体は戒めを解かれて宙を舞う。
長い銀色の髪がふわりと広がり、
「よっと」
待ち構えていた海斗の元へ、その両手の中に抱き止められていた。
安堵の溜息をつく海斗。
すると、まわされたセラフィナの手が海斗の右手に、背中に触れる。
「っ、……セラフィナ?」
そこは傷だらけの海斗の身体、その中でも特に酷い部分である。
焼けるような、刺すような痛みに海斗は眉を顰めたが、直後にすうっと、何かが沁み込むような感覚とともに痛みが薄れていく事で、その意図を察した。
「……今のわたしにはこれぐらいの事しかできませんけど」
癒しの力。
本来は“杯座の聖衣に備えられた”能力。
セラフィナは、それを行使する事に“聖衣を”必要としない。
「ありがとう。……海斗……さん」
「……いや、別に呼び捨てて貰ってもいいんだけどな」
「え、いえ、あの……その……」
海斗の胸元に顔をうずめたまま、セラフィナはぼそぼそと何やら呟いている。
圧しかかる重さと抱き止めた両手に、胸元に感じる確かな温かさに、海斗の内から様々な感情が湧き上がる。
知らず、セラフィナを抱きしめる両手に力がこもっていた。
記憶の残滓に感情が引きずられている。その事は分っていたが、
(……まあいいか)
海斗は気にしない事にした。
自然に、互いに抱きしめ合う形となっている事を意識してしまったセラフィナは、首筋までも赤く染めていた。
そのまま膠着状態になるかと思われた二人。
それを防いだのは、
「……気にするな、続けてくれ」
壁にもたれ掛りながら、その声に僅かばかりの呆れと疲れを含ませたシュラであった。
二度三度、シュラは確かめるように己の右拳を握っては開きを繰り返す。
「まだ少し、引っ張られるような感じは残っているが……。大したものだな、正直これほどとは思わなかった」
「できれば、あまり使わせたくはないんだけどな。ムウも言っていたよ、あの力は負担が大き過ぎる、と。まあ、一番その力を使わせた俺が言えた事じゃないが」
そう話す海斗とシュラの視線の先では、セラフィナがエキドナの傷を癒しているところであった。
一糸纏わぬ姿であったセラフィナであったが、今は玉座の周囲にあった布を使い、即席の貫頭衣として身に纏っている。
シュラの外套は先の戦いで失われており、男二人の上着は貸し出そうにも血で汚れ、戦いで破れ、とても着せられるような物ではなかったためである。
「そう思うなら、その力を使わせる事がないようにお前が上手く立ち回れ」
「……無茶振り過ぎる、それ」
「フッ」
血溜まりの中に倒れていたエキドナの事は海斗も気が付いていたが、正直言って既に息絶えていると思っていた。
それについてはシュラも同様であったが、セラフィナは「せめて傷だけでも」とエキドナの元へ向かい、そこで彼女の命の炎がまだ消えていない事に気が付けた。
その後、セラフィナどのような行動を取ったのかは語るまでもない。
「……笑うな。意外と性格悪いんだな」
「なに、微笑ましいものだ、と思ってな」
「~~ああッ、ったく!」
海斗はそう言うと、がしがしと頭を掻きながら、話は終わりだと言わんばかりにその場を離れ、セラフィナの元へと向かう。
その姿を暫く眺めていたシュラであったが、やがてその視線を穿たれた大地へと向け、そして消し飛ばされた“門であった”場所へと向けた。
「海斗の師はアルデバランただ一人。だが、他の技はともかく、あれはあまりにも性質が違い過ぎる。……あの一撃は、紛れもなくジェミニのギャラクシアンエクスプロージョン」
シュラの視線は再び海斗の元へ。
先程、海斗は癒しの力は負担が大きいと言っていたが、その言葉の通りふらりと倒れかかったセラフィナの身体を抱き止めていた。
しばらく動きを止めていた二人であったが、やがて顔を赤くしたセラフィナと触れただの何だのと、何やら言い争いを始めている。
とはいえ、二人の様子から大した事では無さそうだ、という事は分る。
「……オレが気にするような事ではないな」
やれやれと思いつつ、二人の元へ向かうシュラ。
その口元が僅かに笑みを浮かべていた事に、彼は気がついてはいなかった。
「エリカ?」
「いえ、レイカ、セーラ……だったのかも……」
「日本人、いや、見た感じは少なくとも東洋人だろうからセーラはないと……聖良ってのもある、か?」
横たわるエキドナの頭を膝の上に乗せたセラフィナと、身を乗り出してまじまじとエキドナの素顔を見ている海斗。
エキドナの青白かった肌には血色が戻り、今は静かに寝息を立てていた。
「何の話だ?」
顔を突き合わせてああでもない、こうでもないと何やら熱心に話し合っている。
そんな二人の様子に、内心では「やはり大した事では無かったな」と思いつつ、シュラは声をかけた。
「この娘の名前。ギガスとは関係がなく、どうやら操られていただけらしい、って事で。
本当の名前を名乗ったそうなんだけど、生憎セラフィナは意識が混濁していてハッキリとは覚えていない、と。だったらエキドナと呼ぶワケにもいかないな、とね」
「……直接対峙したのはお前だ。そうだったのか?」
「……倒す気でエンドセンテンスを」
「海斗さん!?」
「あの時点では敵だったからな。時効だ時効」
「気付かなかった、と。なら、セラフィナの言う事を信じるか、信じないか、だ。もっとも、その娘が目を覚ませばはっきりする事だ」
そのシュラの言葉を合図とするように、三人の視線が眠り続けるエキドナ――少女へと注がれる。
頭上で行われた海斗とセラフィナのやり取りの最中にも、少女に目覚めの気配はなかった。
「目を覚ませば、か」
「……外傷は、どうにか治療はできました。でも……」
「操られていた、という事は、精神面に何らかの異常が認められる可能性もある。お前が気に病む必要はない」
「……はい……」
理屈では分っていても、感情は別。
自分を攫った相手ではあったが、その身を呈して護ろうとしてくれた相手でもある。
こんな時にこそ役立てなければならない力、であるはずが。その思いがセラフィナ自身を責める。
「何にせよ――」
それを見かねたのかどうなのか。
沈み込むセラフィナの肩に、そっと海斗の手が置かれた。
「俺の目的は達したからな。これ以上この場所に留まる意味はなくなった。とっとと地上に戻って、病院なり何なり、然るべき場所にその娘を――」
励ましてくれているのだろうか、と見上げたセラフィナであったが、海斗はそこで一度言葉を切ると、視線を広間の入口へと向けていた。
その表情が、安堵から困惑へと変化する。額を抑えたその様子は、傍目にも、悩んでいる、というのがよく分る。
「……まさか、そっちから接触をしてくるとは。ここにいるのは俺一人だけじゃないんだぜ?」
シュラが僅かに身を動かした事を感じ取り、セラフィナは何事かと海斗の視線を追う。
破壊された青銅の扉の前に、二つの人影があった。
「そこにいるのはカプリコーンの黄金聖闘士か。このような場所でかの聖剣の使い手と出会えるとはな」
黄金の槍を持った海将軍クリシュナ。
「抑えろクリシュナ、今の我らの敵は彼らではない」
そして、強敵を前に逸るクリシュナを制すソレントである。
「……一応、そう言う事らしいから、シュラも抑えてくれるとありがたい」
「説明は?」
「後でするよ」
そう言って海斗が前に出た。
成り行きを見守る事にしたのか、シュラはそれ以上は何も言わずにセラフィナの傍へと下がる。
「さて、無事を喜びたいところだが、場合によっては素直に喜べなくなりそうだ」
口調こそ何気ないものであったが、その視線は鋭くソレントを射抜いていた。
「……どういうつもりだ?」
地底湖での別れ際のやり取りにより、この場においては互いに不干渉というのが暗黙の了解であったはず、と。
その事はソレントも分っていたのだろう。
敵意がない事を示すようにクリシュナを一歩下がらせると、手にしたフルートを鱗衣にしまってみせた。
「失念していた事があってね。きみの想い人に少々確認せねばならない事がある」
そう言ってソレントの視線がセラフィナへと向けられた。
「え? 想い……人? え? え、えぇえええ!?」
「誰が想い人だ、誰が。そこ、勘違いするな、聞き流せ」
「違うのかい? それは失礼。では単刀直入に聞こう。きみは宿したのか? ギガスの王にして神、大地母神ガイアの産んだギリシア最大の魔獣――」
――Typhonを、と。
その名をソレントが口にしたのと同時であった。
「!? この揺れは!」
「地震か!?」
何の前触れもなく、誰もがまともに立ってはいられない程の凄まじい振動が広間を襲う。
「伏せてろ!」
いたる所で天井が崩れ、無数の岩石が広間へと降り注ぐ。
海斗の声に従い、セラフィナが少女の身体を抱き寄せて身を伏せる。
「海斗! 跳べ!!」
それとは逆の事を、セラフィナと少女を落石から守っていたシュラが叫んだ。
「くっ!」
跳躍した海斗の足下の地面が裂け、そこから巨大な火柱が噴出する。
炎だけではない。
隆起する大地は刻々とその姿を変え、拡大し、拡散していく大地の亀裂から、鉄を溶かした溶鉱炉の中身のように、溶岩までもが溢れ始めていた。
「こんなタイミングで噴火か!?」
「いや、これは……」
退避した先で、背中合わせとなった海斗とソレント。
そこに、噴き上がった溶岩が、まるで意思を持っているかのように、弧を描いて襲い掛かる。
「こいつは!?」
「やはり、明らかに何者かの意思が介入している!」
肩を並べたのは一瞬。
お互いに逆方向へと跳びこれを避ける。
「海斗さん!」
悲鳴じみたセラフィナの声に海斗が視線を動かす。
偶然か、それとも。
海斗の周囲は炎と熔岩によって囲まれ、ただ一人孤立する形となっていた。
「そっちは!」
「あの娘とセラフィナは無事だ!」
シュラの言葉の通り、炎の壁の向こう側にはセラフィナ達の影が見えていた。
少女はシュラの腕の中にあったようだが、この騒ぎでも目を覚ましていないとすれば、少々面倒な事になるかもしれない。
「他人の心配をしている余裕はないか。そっちからは外に出れそうなのか!?」
「――大丈夫です。こっちはシュラ様が! そっちは大丈夫なんですか!?」
周囲を見渡す。
揺れや落石は大分マシにはなっていたが、目に映る光景は変わらない。
これがただの噴火、ただの炎であるならば問題はないのだが、
「そんなワケはないよなぁ……」
奇妙な事に、海斗を囲む炎はある一定距離からはそれ以上内側へと迫って来る事がない。
拳圧で吹き飛ばしても、瞬く間に新たな炎が更なる勢いを持って壁となる。
明らかに不自然であり作為的。
恐らく、いや、確実に二人の海将軍も“この場”から排除されているだろう。
事実、先程まで確かに感じていた小宇宙が急速に遠退いていた。
セラフィナが狙われなくなった事は喜ばしいが、今度は自分が目をつけられたらしい。
心当たりは――ある。
「こっちの事は気にするな! ただ、コイツを吹っ飛ばすのはちょっと派手な事になる!」
嘘は言っていない。穏便には済まないだろう。
「シュラ、二人が巻き込まれない内に早く脱出してくれ!!」
元々、シュラはムウがジャミールを留守にする間、セラフィナの護衛をするためにやって来たと言っていた。
ならば、答えは一つのはず。
「……」
海斗が僅かな逡巡の間を感じた後、
「先に行く」
短く、はっきりとシュラが答えた。
正直、手を貸して貰えるとありがたかったが、そうするとセラフィナ達の安全が保障できなくなる。
それでは、一体何をしに来たのかが分らなくなってしまう。
(とりあえず、心配事が一つ減ったな)
優先順位として正しく、そして期待通りの言葉を受け、海斗は安堵の溜息をついた。
その瞬間、シュラ達と海斗を遮っていた炎の壁が“斬り”開かれた。
(――エクスカリバー!?)
何を、と。海斗が咄嗟に顔を上げる。
炎の隙間から、右手を振り下ろしたシュラと、その手に抱きかかえられた少女、そして、真っ直ぐな視線を向けているセラフィナの姿があった。
炎の壁が閉じるその刹那、セラフィナと海斗の視線が交差する。
そして、炎の壁がその勢いを増して再び壁となって立ち塞がる。
セラフィナ達の小宇宙が遠ざかって行くのを感じ取ると、どうにも濃い一日だ、と海斗は思わず天を仰いでいた。
「――別れの挨拶は済んだのか?」
「……縁起でもない」
予想はしていた。
呆気なさ過ぎが故に。
自分の中の何かが変わったとはいえ、ああも圧倒できたのはおかしいと。
振り返った海斗の前に、赤い闇が蠢いていた。
そこから最初に具現したのは百の蛇の頭。
次いで鳥の翼と何本もの巨大な手足。
蛇の眼窩から炎が吹き荒れ、暴風とともに大蛇の胴が這いずり出す。
「ぐっ、こ、こいつは……!?」
周囲には腐臭が立ち込め、目に見えぬ力が海斗の身体へと圧し掛かり、それに弾かれるように海斗は飛び退き距離を求めた。
そうして、片膝をついた海斗の目の前で魔獣が、赤い闇が――爆ぜる。
熱気と重圧を撒き散らし、そこに現れたのは赤と青、炎と風、二つの色を宿した左右非対称の闇色の金剛衣。
「これが我が金剛衣。我らが神Typhonの力を宿した最強の金剛衣よ」
その言葉とともに現れたのは、ギガスの王――ポルピュリオン。
その肉体には、掠り傷一つ見付ける事が出来なかった。
「チッ! “エンドセンテンス”!!」
舌打ちを一つ。思い浮かべた予測を振り払うように、即座に海斗が仕掛けた。
放たれた無数の光弾が、次々とポルピュリオンの身体を撃ち貫く。
鮮血が舞い散り、ポルピュリオンの身体がぐらりと揺れた。
それだけであった。
「思惑通りとはいかなかったが、結果だけで言えば概ね順調なのでな。神の復活までは行かずとも、こうして我は力に満ちている」
口元を歪めてポルピュリオンが笑う。
「あの娘を母体とできればそれで良し。それが叶わねば、新たな母体を探すだけよ。その程度の事に過ぎん」
海斗の目の前で、穿たれた肉体が、鮮血を噴き出した傷口が、瞬く間に治癒し、再生される。
「デルピュネが聖域を落とせればそれで良し。仮に返り討ちにあったところで、その血肉と魂は我が神の力となる」
そう語るポルピュリオンの手には、いつしかあの真紅のルビーが握られていた。
「その点では貴様らに感謝をしているのだ。我の代りに多くの力ある魂を神に捧げてくれたのだからな」
Typhonの金剛衣が姿を変え、瞬く間にポルピュリオンの身に纏われる。
「おかげで、こうして我は神代の力を、ガイアの加護を取り戻せた。礼を言うぞ聖闘士よ」
「……そう言う事か。つまり、お前は同胞の命も贄としていたんだな。自分以外のギガスが勝とうが負けようが、どうでもよかったワケだ」
返答はなかった。
ただ、にやりと、ポルピュリオンは笑みを浮かべた。
ポルピュリオンが一歩進む。
風を纏った右半身により踏み込まれた一歩。
「くっ、これは!?」
その動きだけで、嵐の如き暴風が巻き起こり、風は刃となって海斗の身に迫る。
破損により、プロテクターとしての機能を失っている今の聖衣ではそれを防ぐ事はできない。浅くはない傷が、次々と刻まれていく。
ポルピュリオンが一歩進む。
炎を纏った左半身により踏み込まれた一歩。
「っ、だったら!」
デルピュネの炎を打ち消した時のように、海斗は目の前に水の障壁を展開する。
果たして、予想通り風の勢いを受けた炎が、熱波が、海斗へと迫り――
「――やっぱりかよ、くそっ!!」
跳び退いた海斗の目の前では、易々と障壁が消し飛ばされていた。
(肉体を破壊できない訳じゃない。なら、ギャラクシアンエクスプロージョンで吹き飛ばせば……いや、多分それだけじゃあ――一手が足りない)
事実、一度はホーリーピラーによってその肉体を消し飛ばしていたはずだった。しかし、こうして目の前にポルピュリオンは存在している。
ギャラクシアンエクスプロージョンを放つだけでは、時間稼ぎ程度にしかならないとの確信があった。
構えを解き、海斗は油断なくポルピュリオンの動きを見る。
決して戦えない相手ではない。万全であるならば、だが。
「せめて、聖衣だけでもまともな状態だったらな……」
聖衣はただ身を守るためのプロテクターではない。
むしろ装着者の小宇宙を高め、その力を十二分に発揮させるための増幅器的な役割の方が大きい。
その効果は、白銀、黄金と、上位の聖衣であるほど顕著になる。
無論、それを発揮させるためには天才的なセンスと確たる実力が必要であり、資格の伴わない者が黄金聖衣を身に纏ったところで青銅聖闘士はおろか下手をすれば雑兵にすら勝利を得る事はできない。
ふと、そう言えばガルーダの冥衣はどうなった、と海斗は視線を動かす。
視線の先、炎と熔岩の向こうに、魔鳥へとその身を戻したガルーダの冥衣があった。
力の余波ですらダメージを負ってしまうこの状況では、四の五の言ってはいられない。
「……俺は俺だと言っておきながら……」
メフィストフェレスは海斗に囁いた。歴史は繰り返す、と。
その言葉に、海斗は自身の行動によって否を突き付けた。
しかし、細部を変えども、再び繰り返そうとしている。
割り切らねばならない、受け入れなければならない。
つくづく、自分は半端だなとは思うが、座して死を待つつもりはない。
「来い――」
どこかで、カチリと、時の歯車が“回る”音が響く。
赤に染まった世界を一条の閃光が貫いた。
その眩さに、僅かではあったがポルピュリオンが眉を顰める。
「何だ、この黄金の光は? なにい、あれは、あの聖衣は!?」
光の中から姿を現したのは、一つの身体でありながら互いに向き合う事のない双子を象った黄金の聖衣。
「……カストルの遺志……なのか?」
目の前の光景に、どこか呆然とした様子で海斗が呟いた。
ジェミニの黄金聖衣が天を貫き、この大地の底に出現していた。
「は、ははは。はははははっ! 師弟揃ってお節介なんだな。だが、今は素直に感謝するよ! ありがたく借りるぞ、来い――ジェミニ!!」
海斗の声に応えるように、ジェミニの黄金聖衣がその姿を変える。
後は託したとばかりに、エクレウスの聖衣が海斗の身体から分離し、替わるようにジェミニの聖衣が纏われていく。
薄れゆく千年前の記憶とジェミニの聖衣が、海斗の求めた一手をその手に与えていた。
ガイアの加護がポルピュリオンを不死とするのならば、その加護を絶ち切ればよいだけの事。
それを成すための力を、ここに得た。
ジェミニの聖衣を纏った海斗と、ポルピュリオンが対峙する。
吹き荒れる風も、炎も。すでに余波程度の力では、海斗の身に何ら影響を与える事はできない。
「待たせたな。さあ決着の時だ。この下らない因縁を――」
「――ここで俺が終わらせる」