「ふむ。驕りや増長と笑う事は出来んな。お前の強さにはそれを言うだけの資格がある」
そして、私と戦う資格も。
そう言ってアルキュオネウスがシュラへと向かい歩を進める。
「お前の聖剣程ではないが、私もこの右拳には少々自信があってな」
一歩一歩、その歩みが進む毎に増す威圧感。
「……どうやら、貴様は今まで見たギガス達とは違う様だな」
このギガスは違う。
感じる小宇宙は自分と同等かそれ以上。
己の感覚に従い身構えるシュラ。
あと一歩で互いの間合いに入る。
そんな危うい場所でアルキュオネウスがその歩みを止めた。
「我が名はアルキュオネウス、我らが王ポルピュリオン様に仕える神将アルキュオネウス」
先程放った拳撃の様に、右拳を腰だめに構える。
「黄金聖闘士、カプリコーンのシュラ」
右腕を掲げ、手は手刀の型に。
「いざ――」
「――参る」
互いの間合いへと踏み込み、両者は同時に必殺の拳を放った。
「エクスカリバー!!」
「神屠槍(カタストロフ)!!」
剣撃と拳撃。
打ち合わされた剣と拳。
微動だにしない二人。
互いの視線が相手を射抜かんとばかりに交差する。
「むっ!?」
苦悶の声。そして、ピシリと亀裂の走る音が鳴った。
声の主は――シュラ。
振り下ろした右手――最強の黄金聖衣に亀裂が生じていた。
拮抗が崩れる。
「どうやら私の拳の方が上であったようだな」
アルキュオネウスの右拳を中心として生まれる衝撃。
円状に広がるそれはシュラの身体を包み込み、
「がっ!?」
抵抗する間もなく、まるで撃鉄に撃ち出された弾丸のように、シュラはその場から弾き飛ばされていた。
洞窟の壁面へと叩きつけられたシュラ。その身体を覆い尽くすように砕かれた土砂が降り注ぐ。
「ぐっ……むぅ……ッ!?」
「さすがは黄金聖衣。威力が削がれていたとは言え、カタストロフを受けて亀裂で止まるか。しかし――」
――ヒトの身体で耐え切れはすまい。
「ぐ……がぁああああっ!?」
土砂を払いのけて立ち上がろうとしたシュラ。
その直後、“肉体の内側から爆ぜる様な衝撃”を受けて、その口から、全身から鮮血を撒き散らす。
「それが神ならぬヒトの器の限界よ」
そう呟いてアルキュオネウスは踵を返した。
背後では、黄金聖衣を自らの血で赤く染めその場に崩れるシュラの姿があるのだろう。それは予測では無く確信であった。
カタストロフを受けて立ち上がって来た者はいないのだから。
「……む?」
数歩進んだところで、ふと覚えた違和感からアルキュオネウスはその足を止めた。
右腕に感じる微かな何か。
「痺れ……か? いや、これは……金剛衣に亀裂……だと!?」
カタストロフを放った右腕。エクスカリバーと打ち合った金剛衣の拳に一筋の亀裂が奔っていた。
「奴の一撃は確かに私に届いていたと言うのか!?」
その事実に至った瞬間、アルキュオネウスは背後から巨大な小宇宙が立ち昇るのを感じた。
「……この傷は戒めだ。十将を統べる神将の力を見誤った……このシュラの迂闊」
アルキュオネウスが振り返れば、そこには全身を赤く染めたカプリコーンの姿。
その身の傷など意に介した様子も無く。瞳に映る闘志には欠片の翳りも無く、全身から立ち昇る小宇宙は鮮烈。
両の脚でしっかりと大地を踏み締め、亀裂の入った聖剣を掲げる。
「……カプリコーン……」
半死半生、罅割れた剣。
馬鹿な、と。アルキュオネウスは内心で浮かんだ愚考を振り払う。
目の前の敵から感じる小宇宙は、傷を負って衰えるどころか、むしろより苛烈に燃え上がっている。
「く、くくくっ。ハハハハハ!!」
右拳を腰だめに構えながら、面白い、とアルキュオネウスは己が高揚している事を感じていた。
「誇れ。この私に二度放たせた事を――カタストロフ!」
「エクスカリバー!」
神足の踏み込みが互いの距離を零にする。
再びぶつかり合う剣と拳。
決着は一瞬。
砕け散るエクスカリバー。カプリコーンの右腕(ライトアーム)が弾け飛ぶ。
両断されたカタストロフ。金剛衣ごとアルキュオネウスの右拳が切り裂かれる。
「相――」
相打ち。眼前の光景にそう結論付けようとしたアルキュオネウス。
しかし、まだ終わってはいなかった。
結論を付けるにはまだ早かった。
視界に奔る一筋の閃光。
「な――に!?」
見誤った、とカプリコーンは言った。
同じだ。
自分もまたこの男を見誤っていた。
「聖剣は――折れぬ。このシュラの小宇宙が燃え続ける限り!」
振り上げられるカプリコーンの“左腕”。
もう一振りの聖剣。
(この男は私と同じ“使い手”では無い。聖剣そのも――)
「エクス……カリバー!!」
振り下ろされた一撃は空を断ち、大地を断ち、金剛衣を断ち。
「ふ……ふは、ははは……。見、事だシュラ。……お前は……神に勝……」
アルキュオネウスの意識共々その肉体を両断した。
塵と化して崩れていくアルキュオネウス。
その光景を横目で見ながらシュラは膝をついていた。
「ハァ……ハァ……」
カタストロフによる肉体的なダメージとそれに伴った夥しい出血。
己の全身全霊を込めて放つエクスカリバー。それを連続した事もシュラの小宇宙に著しい消耗を強いていた。
生命の、意思の、全ての根源であり源でもある小宇宙。
それを消耗すると言う事は、己という存在そのものを消耗するに等しい。
「まだ……立ち止まる……訳には……」
朦朧とする意識の中で、どうにかして立ち上がるべく手を伸ばそうとしたシュラであったが、右腕は意に反して動かず逆にバランスを崩してしまう。
「……」
まるで力尽きたかのように倒れ込むと、シュラの意識は闇の中へと沈んで行った。
第17話
違和感は一瞬。
身体に感じる重力と、硫黄の臭い。そして周囲の景色が洞窟へと一変した事で、海斗は転移を終えた事を理解する。
「チッ!」
舌打ち。
デルピュネの転移に強引に割り込んだためか。その時、海斗の感覚に異常が起こっていた。
「小僧ッ!!」
デルピュネのヒステリックな甲高い声。
僅かに開いた間合いから繰り出されたのは蹴り。
それを分っていても身体が動かない。反応が――遅れる。
ガッ、と胸に受けた衝撃に、デルピュネの肩を掴んでいた海斗の手が離れた。
「ぐっ!?」
蹴り穿たれたエクレウスのチェスト(胸部)に亀裂が奔り、海斗はそのまま洞窟の底へと叩き落とされる。
「あああああああああっ!! 消え去れ!! 塵一つ残さず燃え尽きよ!!」
獣の咆哮の様な叫びを上げて、デルピュネが球状に纏め上げた炎の塊を海斗目掛けて解き放つ。
「――ッ!? なめるなぁあ!!」
自ら高めた小宇宙によって土砂を吹き飛ばした海斗が叫ぶ。
目前に迫る炎を前に、両手を腰だめに構えて不動の姿勢で迎え撃つ。
彼の者を知る者ならば、大地を踏みしめて立つ海斗の姿にタウラスのアルデバランを見たであろう。
螺旋を描いて立ち昇る小宇宙。黄金に輝く聖衣。
「聖闘士として過ごした日々が今、ダイダルウェイブを昇華させた。受けろデルピュネ!」
吹き荒れる小宇宙は海斗の意思に従い流水へと変質し、天駆ける天馬の姿を経て大海の魔物――海龍の姿となった。
「ハイドロプレッシャー!!」
突き出された両手から、溜め込まれた力が、海龍が全てを呑み込み喰らうべく解き放たれた。
炎を呑み込み瀑布の如き爆発的な勢いを持って、圧倒的な質量を持った水がデルピュネへと襲い掛かる。
「……永遠が……我の……。あの娘の力と――」
圧壊する金剛衣。砕け散る仮面。
破壊の意思に満たされた小宇宙によって生み出された水。それは規模こそ違えども、神話の時代に神々が地上を破壊するために起こした大洪水のそれであった。
「――う……ぁ……」
ハイドロプレッシャーを消し去った海斗の耳に呻き声が聞こえたのはそのすぐ後の事。
声の下へと向かえば、そこには無残に転がるデルピュネであった物の姿。
「エキドナ、だったか。あいつとは気配が違い過ぎるからもしや、とは思っていたが。本物の神様――いや、化物だった、って事か」
仮面を失い露わになったのは窪んだ眼窩に剥き出しの歯茎。ひしゃげた鼻に骨と皮。
例えるならば老婆のミイラ。
妖艶な色気も艶に満ちた声も全てが偽り。
それが、神話の時代より現代まで封じられていたデルピュネの真の姿であった。
「まだ息があるな。ここがどこか、何て事はどうでもいい。答えろ、セラフィナはどこにいる? この奥か?」
膝をつきデルピュネの身体を抱える。
まるで枯れ枝のようなその軽さに、これが本当に先程まであれ程荒々しい姿を見せていた者かと、海斗はその不気味さに息をのむ。
「……お……れ、ゆ……るさ……」
「おい!」
「……若……を……」
海斗の事を認識しているのか、それとも既に正気を失っているのか。
デルピュネの口から洩れる言葉は酷く断片的で一向に要領を得ない。
時間の無駄か、と諦めて立ち上がろうとしたその時、死に体であった筈のデルピュネが何かを掴もうとするようにその手を伸ばす。
何事かと海斗がその手を掴もうとした瞬間、
「――ドルバルッ!!」
口から血を吐き出しながら、怨嗟に、呪いに満ちた声でデルピュネが叫んだ。
そして――
「ガハッ!」
大きくせき込み吐血すると、そのまま力無く腕を下ろしてその動きを止めた。
程なくしてその身体が灰と化して崩れていく。
「……ドルバル? 何だ?」
意味は分らなかったが、少なくとも自分に向けられた言葉では無い事は理解できた。
呪いの言葉を向けられるならばまだ分るのだが。
気にはなったが、その事をこれ以上考える事は無かった。
「――!? この感じ。この奥からかすかに……小宇宙を感じた」
大地の奥深くから微かに感じた小宇宙。
海斗の向けた視線の先には先程の戦闘の影響か岩肌が崩れた場所があり、そこから奥へと続く通路の様な物が見える。
岩肌が淡く発光している事もあり、視界に関しての問題は無さそうだった。
「坑道か? 隠し通路ってわけでもなさそうだな。それなりにでかい洞穴だが、あの巨人どもが複数で動くには狭すぎて廃れた道、ってところか」
どれ程の距離を進んだのか。
数キロか、それとも数十キロか。
どれ程の時間を歩いたのか。
数時間か、それとも数分でしかないのか。
「この臭いは……やはり硫黄か。それにこの暑さ」
流れる汗をぬぐいながら、変わり映えのしない洞窟内を延々と歩き続ける。
進む程に増す暑さと、奥から感じ取れる小宇宙だけが前に進めている事を海斗に実感させる。
「探索中に噴火、って事だけは勘弁してもらいたいな」
時折り洞窟内が震えて岩肌に亀裂が奔り、天井からはパラパラと破片が降り注ぐ。
周囲の様子に気を配りながら歩みを進めると、やがて大きく開けた場所へと辿り着く。
「火山洞に地底湖かよ」
周囲の熱気とは正反対の涼を感じさせる巨大な地底湖がそこにあった。
ザバンと大きな音が鳴り響き、湖面に巨大な波紋が浮かぶ。
そうして次々と、天井から崩れ落ちた破片が大小様々な波紋を生みだしていた。
「……あれは“門”か?」
舞い散る水飛沫の向こうにぽっかりと空いた黒い穴。
丸みを帯びた洞窟の中で、その穴の周囲だけが“切り取られたかのように”四角い形状をしていた。
微かな小宇宙はその闇の奥から感じ取れる。
「あの奥か」
『――そうだ、あの奥に我らが王のおわすパレスがある』
ぞくりと、背筋に冷たいものを感じて海斗はその場から跳んだ。
「アクスクラックス!!」
熱波が背中に纏わり付き、次いで圧しかかるような圧力が加わる。
ビュオウと風を切り裂く音が聞こえた時には、海斗の身体は衝撃と共に地底湖へと叩き付けられていた。
「ッ……!!」
幸いにも地底湖の水深はそれほど深くは無く、腰まで水に浸かりながらも海斗は直ぐさま立ち上がり敵の姿を探す。
すると、先程まで立っていた場所に奇妙な影があった。
それは、蝙蝠の様な翼を広げたギガスであった。
灼熱の炎を纏った大蛇にも似た剣を右手に、悪魔の頭部を思わせる山羊の顔を模した盾を左手に持ち、赤黒い輝きを放つ金剛衣を纏っている。
振り切られたように構えられた右手から、海斗は斬撃を受けたのだと理解した。
「オレの名はキマイラ。合成獣のキマイラ」
「キマイラ、だと? 神話の化物か。……づぅ!?」
背中から感じる灼熱の痛みに思わず苦痛の声を上げる。
水面には背中の方から赤い色が広がっていた。
痛みと背後からパシャパシャと続く音で海斗は聖衣が砕かれた事を理解する。
『――だが、それを知ったところで無駄な事』
響いたのは先程とは違う声。
「二人いた!? いつの間――ぐあっ!!」
音も気配も無く。
意識の外から叩きつけられた衝撃に、成す術も無く海斗の身体が吹き飛ばされ再び地底湖へと叩きつけられた。
完全なる不可視の一撃。
重圧により聖衣が軋みを上げ、衝撃に耐え切れずにヘッドギアが額から弾け飛ぶ。
「がはっ!!」
気管に入った水を吐き出しつつも、追撃に備えて直ぐさま身構える。
キマイラの対面、海斗からすれば正面にそのギガスは立っていた。
頭部、胸部、両手足。その全てが魔竜の頭部を模した漆黒の金剛衣を身に纏っている。
その輝きは闇夜に流れる雲のように黒と白が流動していた。
「吾は百頭龍のラドン」
「……また神話の化物か。それも龍、だと……」
『――あの娘と共に、お前はここで王の贄となる』
気配も無く聞こえる声。
この声もまた、キマイラともラドンとも違う。
「何度も何度も……いい加減に――」
不意に海斗の周囲に闇が落ちた。
「ッ!? 上か!!」
闇の正体は巨大な影。
天井から、巨大な顎を開いた三つ首の魔獣が海斗目掛けて迫る。
地底湖に凄まじい水飛沫が上がり、まるで爆発でも起こったかのような轟音が鳴り響き、洞窟内が振動する。
天井からは大小無数の欠片が地底湖へと降り注ぎ、それがまた音と飛沫を上げ続ける。
「オレの名はオルトロス。魔双犬のオルトロスよ!」
飛沫を撒き散らしながら立ち上がった魔獣が名乗りを上げる。
両肩に獰猛な魔犬の頭部を模した金剛衣を纏ったギガスであった。青い輝きは暗く濁っている。
「忌々しい封印の地なれど、もはやここは我らギガスの領域! 気配を消し去る事など造作も無いわ!!」
顎を開き得物を睨みつける、そんな魔獣の顔を思わせる兜の存在もあって、その姿は三つ首の魔獣にしか見えない。
「そして! 我らがいる限り、お前のような虫けらがあの門をくぐる事など叶わぬと思い知れ!」
「上等だ。俺の邪魔をするのなら――叩き潰す!!」
オルトロスが天井へと視線を向ければ、そこには一瞬の内に跳躍していた海斗がいた。
先程とは真逆の状況。
仕掛けるのは海斗、迎え撃つのはオルトロス。
オルトロスは両手を広げ、海斗は空中にあって器用に体勢を変えると右脚に小宇宙を集中する。
互いの視線が真っ向からぶつかり、その刹那、互いに必殺の技を解き放った。
「レイジングブースト!!」
放たれた蹴りは、夜空に流れる流星のように光の尾を引いてオルトロスへと。
「サフィロス・エネドラー!」
交差された両手から獰猛な唸りを上げた二頭の魔犬が現れる。
魔獣は巨大な顎を開き、涎にまみれた鋭い牙と口腔を剥き出しにして、左右から海斗の身体を喰い千切ろうと襲い掛かる。
一瞬の交差。
再び地底湖に轟音と巨大な水飛沫が巻き上がった。
「ぐうっ!」
「むおおおおお!?」
弾かれるように吹き飛ぶ海斗とオルトロス。
しかし、先に体勢を立て直したのはオルトロスであった。
「く、くくっ。多少はやるようだが、オレを後退させるのが精一杯だったようだな」
その言葉には嘲りを含み、眼差しには侮蔑が込められている。
「……そうかな?」
オルトロスの視線の先では、右足から血を流し聖衣の左肩を破壊された海斗がゆっくりと立ち上がろうとしていた。
「虚勢を張るな。デルピュネとの戦いは知っているぞ。小宇宙を消耗し、今またこうして手傷を負ったその身でオレたちを相手に出来ると本気で思っているのか?」
そう言ってキマイラがオルトロスの横に立つ。
ラドンもまた無言のまま並び立っている。
「思っちゃいないさ。相手に――するんだからな!」
額から流れる血を拭いながら、しかし、言葉とは裏腹に海斗の闘志に衰えは無い。
ダメージは確かにある。想像していたよりも右脚の裂傷が酷い。
背中の傷も無視出来無い。
長期戦は無理だろうと判断するが、それについての問題は無い。
海斗には元より長期戦などするつもりは無いのだ。
海斗の身体から立ち昇る小宇宙に衰えが無い事を感じ取り、ラドンが一歩前に進んだ。
キマイラもまた剣と楯を構えて身構える。
まさに一色即発。
僅かな動きも見逃すまいと、対峙する者達の間の空気が張り詰める。
『――手負いの相手が不満であると言うのならば、わたし達が相手をしようか』
洞窟内に響き渡るフルートの音色。
澄んだ音色と共に、力ある声がその場にいた者達の動きを止める。
「何者だ!」
「聖闘士か?」
「――聖闘士では無いよ」
キマイラとラドンの問いに応えるように、洞窟の奥から人影が二つ現れる。
それは黄金聖衣とはまた違う、黄金の輝きを放つ鎧を身に纏った闘士であった。
「海闘士だ。海将軍セイレーンのソレント」
口元からフルートを離し、ソレントが名乗る。
地中海に於いて、その美しい歌声で船人たちを誘い喰らったとされる神話の魔物セイレーン。
「同じく、海将軍クリュサオルのクリシュナ」
そう名乗ったのは黄金の槍を持った浅黒い肌の男であった。
海皇ポセイドンの子であるクリュサオル。その名には、黄金の槍を持つ者という意味を持つ。その姿を模した鱗衣を纏った男。
「……海闘士、それも海将軍が二人だと」
キマイラ達へと向けた構えは崩す事無く、海斗はちらりと背後の様子を窺った。その内心の驚愕は新たなる侵入者に驚きを隠せないキマイラ達の比では無い。
万全の態勢であればまだしも、この状況下で海将軍までも相手に出来ると考えられる程自惚れてはいない。
ソレントとクリシュナが一歩一歩近付いて来る。
背後に感じる二つの巨大な小宇宙に海斗の緊張がいやにも高まる。
(――来るか?)
海斗が意識を切り替えようとしたその時、スッと二人は海斗の横を通り過ぎた。
そして、次いでソレントの口から出た言葉に、海斗はここが戦場である事も忘れて呆けてしまう。
「行きたまえエクレウス」
「……な、に?」
「ギガスは――」
呆けた海斗の様子など気にした風も無く、クリシュナが口を開く。
「ギガスは我らが神ポセイドン様にとっても討ち滅ぼさねばならぬ敵よ。邪魔をすると言うのならば、手負いの身であっても容赦はせんぞ、アテナの聖闘士」
「……いや、言っている事が分っているのか?」
「心配せずとも時が来れば我々海闘士と聖闘士は戦う事になる。今はまだその時ではないという事です」
そう言ってソレントは手にしたフルートをギガス達へと突き付ける。
「シードラゴンは手出し無用と言いましたが……今、最も優先すべきは――ギガスの排除」
「俺たちは“出会わなかった”。そういう事か」
ソレントの真意を測りかねる海斗であったが、時間が惜しいのは事実。
「……海斗だ。借りが出来たな」
自ら名乗り、海斗は門へと向かい駆け出した。
「むぅ!? 行かせんぞ!」
その動きを察知したキマイラが飛び出そうとするが、その前にクリシュナが立ち塞がる。
ラドンの前にはソレントが立ち、その行く手を阻む。
「吾の邪魔をするか。よかろう。聖闘士も海闘士も敵である事に変わりない。しかし、それでも三対二だ」
「違うな。二対二だ」
「何?」
いぶかしむラドン。
その耳にキマイラの急かす様な声が聞こえた。
「何をしているオルトロス! あの聖闘士を――な、オルトロス!!」
驚愕の声にラドンが視線を動かす。
その先ではオルトロスが微動だにせず、ただその場に立ち尽くしていた。
「気付いていなかったようだな。エクレウスとあのギガスが繰り出した技は相打ちでは無かったのだ」
ソレントが告げる言葉の正しさを証明するように、オルトロスの纏った金剛衣に亀裂が奔り――四散した。
「エクレウスの一撃は、既にあのギガスを破壊していたのだ」
悲鳴すら上げる事無く、オルトロスは全身から血を吹き出して地底湖へとその身を沈めた。
(恐るべき聖闘士だな。カノンがあれ程までに危険視した理由が分る。だからこそ、次に会う時は同胞として合いたいものだが)
内心に浮かぶその想いを押し止め、ソレントはラドンへと向き直った。
「さあ、始めようかギガスよ。お前達のその魂、再び冥府の底へと送り返して見せよう」
大陽の光が届かぬ地の底にあって、妖しい光に灯されたパレスの最深部。
円形に形取られたその広間はまるで古代の闘技場を思わせる。
例えるならば支配者の座す場所。
全てが見渡せるその場所に――王がいた。
巨大な岩石をそのまま加工して創り上げた玉座。形容するならばそうなる。
そこに腰掛けるのは煌びやかな装飾が施された外套を纏ったギガスの王ポルピュリオン。
外套越しにも分る屈強な体躯。ぎょろりと見開かれた瞳、炎のように逆立った髪、無造作に蓄えられた髭。
その容貌は、伝承に伝えられる巨人族そのものであった。
「ふむ。アルキュオネウスが敗れデルピュネも逝ったか。僅かの間に随分と多くの鼠を紛れ込ませたものだ」
そう言って、ポルピュリオンは手にしたグラスを傾ける。
「紛れ込むもなにも、元より迎え入れるつもりであったのでしょうに」
ポルピュリオンの横に控えていた純白の外套を身に纏った男が、そう言ってグラスに紅い液体を注ぎ入れる。
それは穏やかな物腰と、僅かな動きにすら優雅さを感じさせる美しい男。
細身の身体、真っ直ぐで長い黒髪、色白にも見える肌は隣に座るポルピュリオンとの対比もあってあまりにもギガスらしからぬ存在であった。
「聡いな、お前は」
「――では、そろそろわたしが出向きましょう」
「随分と楽しそうではないかトアス」
「……分りますか?」
「だが、どうやら相手は黄金聖闘士ではないぞ」
「構いませんよ。聖衣の優劣が強さの全てではない、かつて我等と戦ったアテナの聖闘士達がそう言っていたではありませんか」
柔らかな笑みを浮かべながらそう言うと、トアスは手にした水差しをテーブルに置きポルピュリオンの前に進む。
そして、その場に片膝をついて告げた。
「全ては――我らが王の御心のままに」
「期待しているぞ迅雷のトアス。我が右手。最強の神将よ」
「ハッ」
外套を翻して立ち上がるトアス。
その身に纏われた金剛衣には、まるで孔雀の羽根を思わせる優雅な装飾が施され、曲線を多用されたそのフォルムは聖衣に近いものがあった。
ポルピュリオンに恭しく一礼すると、トアスは踵を返して歩き始める。
己が待ち焦がれた戦場へと。
頬杖をつきながら、去り行くトアスをしばし眺めていたポルピュリオン。
その背中が見えなくなったところでゆっくりと口を開く。
「そう、実に多くの鼠が紛れ込んだ。それは聖闘士の事だけでは無い。お前の事でもある。なあ――ドルバルよ」
「……これはこれは。手厳しいですな」
玉座の背後からゆらりと影が蠢いた。
現れたのは、ぼろ布の様なローブで全身を包み込んだ男。
目深にかぶったフードによってその容貌を窺い知る事は出来ない。
ただ、僅かに窺える口元には笑みを浮かべていた。
「上手くデルピュネをかどわかしたものだ」
「肉体と魂を切り離されて封じられた貴方がたギガスとは違ったのです。デルピュネが封じられたのは魂のみであり、その肉体は時の流れと共に無残にも老いていた。
女としては……耐えられなかったのでしょうな」
「老い、か。若さに執着する、その感覚は我には分らんな」
クククッと喉を鳴らして笑うポルピュリオン。
可笑しそうに、愉しそうに笑う。
「目論見通りか? おかげで我らギガスと聖闘士共は消耗した。フッ、アスガルドだけで満足しておればよいものを」
「……さて」
ドルバルはそれ以上を語らない。
口元に笑みを浮かべたままじっとその場に立つのみ。
「アテナに施された我らの封印。効力が弱まっていたとはいえ、それを解いた事には感謝しよう。戦えと望むのであれば言われずとも戦おう。
だが、覚えておくが良い。我らギガスにとって我ら以外の全ては討ち滅ぼすべき敵よ。その事を、ゆめゆめ忘れるなよ、ドルバル」
「結構。その時には……我らアスガルドの神闘士(ゴッドウォリアー)が存分にお相手致しましょう」
その言葉を最後に、まるで初めからその存在など無かったかのように、周囲からドルバルの気配が消えた。
「フン。我ら、か。我が、の間違いであろうに」
そう呟いたポルピュリオンは、グラスに残った紅い雫を飲み干すと玉座から立ち上がった。
投げ捨てられたグラスが音を立てて砕け散ったが、それを気にした様子も無く、ゆっくりと広間へ向かい歩を進める。
そこには岩で造られた祭壇があり、手足を漆黒の鎖によって拘束されたセラフィナが一糸まとわぬ姿でまるで咎人のように括り付けられていた。
微かに上下する胸がセラフィナの生を伝えている。
それを一瞥すると、ポルピュリオンはその視線を祭壇の下、血溜まりに倒れる少女――エキドナへと向けた。
纏われていた金剛衣は無残に砕け、仮面は真っ二つに割れて転がっていた。
海斗の想像していた通り、仮面の下にあった素顔は東洋人風の少女のもの。
しかし、美しいと形容出来たその素顔も今は赤く血に染まっている。
ポルピュリオンは無言のままエキドナの右腕を掴み上げると、真紅のルビーが填められた腕輪を力任せに引き剥がした。
「う……あっ……」
その痛みで意識が戻ったのか、エキドナの口から苦悶の声が上がったがポルピュリオンは意に介さず、そのままエキドナの身体を投げ捨てる。
「あがっ!」
祭壇に叩き付けられたエキドナは、セラフィナの身体に覆い被さるようにして力無く崩れ落ちた。
「聖闘士の資質を持った者をエキドナの器とし、その者にこのルビーを与えるとはな。ドルバルめ、下らぬ事を考える」
エキドナは――その名を与えられたのは人間の少女であった。
ドルバルによって精神を支配された少女は己をギガスと信じて行動していた。
その綻びはジャミールの地で生じ、そして、この場で少女はアテナの聖闘士として覚醒を果たす。
聖闘士とギガスが対峙して行われる事は一つしかない。
「……無謀にも我に挑んで見せた蛮勇は好ましいが、如何せん実力が伴わぬ。聖衣の無い聖闘士に何が出来るものか」
そこでふと、ポルピュリオンは彼らしからぬ愚にもつかぬ事を考えた。
「神話の時代、我と対峙した聖闘士が言っていたな。聖闘士はその魂に星座の定めを刻み込んでいる、と。
セイカと言ったか。その定めがこうして傀儡と化して果てる事であれば――実に哀れなものよ」
腕輪からルビーを外したポルピュリオンは、それをセラフィナの胸へと押し当てる。
途端にルビーから赤い闇――そうとしか形容の出来ない何かが溢れ出し、セラフィナの周囲を覆い尽くすように広がり始めた。
「ク、クククッ。フハハハハハハハハ」
赤い闇が、哄笑を上げるポルピュリオンに迫る。
「いま暫くの御辛抱を。間もなく全ての準備が整います」
全てが赤い闇に呑み込まれる中、ポルピュリオンの声だけが広間に響き渡った。
「全ては我らが――王のために」