見上げた先には、どこまでも広がる深い青。
それは水の天蓋。この海の世界の空。
周りを見れば、古代ギリシア時代の神殿を思わせる建造物が建ち並ぶ。
「――アトランティス……神殿? ここは、幾多の……そうか、海底神殿の一つ、か」
知らない場所だ。
そもそも海の底など、生身の人間が訪れる事ができるような場所ではない。
それがどうだ。たった今、自分の口からこぼれた言葉が正しいという確信がある。
――此方へ
脳裏に浮かぶ声に従い、コツ、コツ、と俺の足音だけが響く無人の神殿を進む。
やがて、目の前に現れる巨大な壁。それは、三又の矛の紋章が刻まれた巨大な扉だった。
ゆっくりと手を伸ばし扉に触れる。
すると、紋章が淡く光り地響きのような重い音を立て扉が開いた。
「……機能が生きている。いや、動き始めたのか?」
頭の中に知らない知識が流れ込んでくる。
こちらの都合などお構いなしに詰め込まれるソレによって、俺は激しい頭痛と嘔吐感に襲われる。
「チッ、くそ……ッ」
ふらつきながらもどうにか室内へと足を踏み入れた俺の目に、幾つもの眩い輝きが飛び込んできた。
「これは……鱗衣(スケイル)!」
金色に輝く輝き。
それは神話の魔獣や英雄の姿を模した七つの鱗衣。
初めて見るはずのそれらに、俺は何とも言えぬ奇妙な懐かしさを感じた。
これが、脳裏に刻まれた知識によるものではない事だけは感覚が理解していた。
「シーホース、セイレーン、クリュサオル、スキュラ、リュムナデス、クラーケン、ポセイドン」
口から出たのは八つの台座に置かれた鱗衣の名前。
永きに渡る眠りから目覚めたのか、鱗衣は俺の目の前で静かに輝きを放ち続けている。
「……シードラゴン」
海龍、大海の魔獣。その名が鍵であったのか。
その言葉を口に出した瞬間、激しい頭痛や嘔吐感が嘘のように消え去り、俺は自分が海皇ポセイドンを守護する海闘士(マリーナ)として選ばれた事を理解した。
海皇とは何か、海闘士とは何か。
海闘士として知らねばならない事が、次々と脳裏に浮かび上がる。
「シードラゴン、海将軍(ジェネラル)シードラゴン。それが俺の役割、か」
呟きと共に、自分の内側、奥底から沸き上がる未知なる力を感じる。
地上の守護者たる女神アテナの聖闘士(セイント)は、過酷な修行により聖闘士としての資格を得るが――海闘士は違う。
鱗衣に選ばれ、自分が海闘士であると自覚する事で覚醒を果たす。
超常の力の覚醒。
全身を包み込むのは、まるで世界の全てが己の物になったとさえ錯覚するような高揚感。
しかし、同時に決定的な何かが足りていない。そんな漠然とした不安感に襲われる。それが何なのか。
そこで、ふと違和感を覚えた俺は、もう一度光り輝く鱗衣と安置された台座を見た。
台座は八つ。しかし、その上に安置された鱗衣は七つ。
「シードラゴンだ。俺の鱗衣が――無い? そんな馬鹿な!?」
どういうことだと、周囲を見渡す。どこにもシードラゴンの鱗衣は見当たらない。
しかし、近くにある事は間違いない。存在は感じている。
覚醒した俺が、自分の纏うべき鱗衣の気配を間違えるはずがない。
確実に近くにある。
感覚を研ぎ澄まし、場所を特定しようとした――その時だった。
「探し物はコレかな?」
「誰だ!?」
それは若い男の声だった。
その声に振り向けば、いつからそこに居たのか、柱の影から人影が現れる。
シードラゴンの鱗衣を身に纏った男が、悠然とこちらを見つめていた。
「答えろ、お前は何者だ? なぜ、俺の鱗衣を身に纏っている!?」
「俺の鱗衣、だと? ほう、そうか貴様が今世のシードラゴンだった男か。その問いの答えは見ての通りよ。このオレこそがシードラゴンだからだ」
「ふざけるな!」
構える男に対して俺も素早く身構えた。
力の奔流をイメージして両の掌に力を集中する。
目の前の男を倒すために何をどうすればいいのかが分る。
例え鱗衣が無くとも繰り出す技の威力は変わらない。
広げた両腕を目の前で交差させた瞬間、溜めこんだ力を解き放つ。
「大海嘯に呑み込まれて消え去れ“ダイダルウェイブ”!!」
「むっ!? これはっ!」
荒れ狂う大海の津波の如く、全てを呑み込み粉砕する破壊のエネルギーがシードラゴンを騙る男へと放たれる。
ドゴォンン!!
波濤の余波を受けた石畳が砕け、舞い上がり、進路上の柱や壁が次々と崩壊する。
しかし、その様子に俺は眉をしかめていた。
破壊は一瞬の内に終える、そのはずが終わらない。
見れば、男の立っていた場所で破壊のエネルギーが押し止められていた。
「ク、クククッ。流石は海将軍。覚醒直後でありながら……これ程までの力を見せるとは思いもしなかったぞ」
「な!? 馬鹿な! 受け止めただと!?」
「そうら、返すぞ!!」
そう言うと、男はダイダルウェイブの破壊エネルギーを両手で受け止めて見せただけではなく、その威力の全てを俺へと目掛けて跳ね返して見せた。
「そして消し飛べ!」
「ぐぅ!! “ダイダルウェイブ”!」
どうにか相殺出来たものの、その余波で俺と男は吹き飛ばされる。
「ガハァ――あッうぐぅう……」
柱をへし折り、壁をぶち抜き。
神殿の壁を突き破り外へと放り出された俺は、そのまま受け身も取れずに石畳に叩き付けられ、全身を襲うダメージに身動きが取れなくなってしまう。
必殺の技を放ち無防備となった状態。鱗衣のない生身の俺には余波ですら致命傷となっていた。
「咄嗟に切り返して見せたのは見事。だが……鱗衣もなく生身で俺に勝とうなどは思い上がりも甚だしい」
「……ぐッ、うぅ……」
たちまち飛びそうになる意識をどうにか繋ぎ止め、どうにか立ち上がろうと足掻くが、それよりも相手の動きの方が早かった。
「この鱗衣と海将軍としての立場は俺が有効に使わせてもらう。その為にはお前の存在は邪魔なのだ」
何を言っているのか分らない。
霞がかる視界の中で、男の手が三角の軌跡を描いたのが分った。
そこから感じる異様な力。脳裏に警鐘が鳴り響く。
「……な、何だ? く、空間が?」
「お前の存在をこの世界に残しておくわけにはいかん。本来のものとは形が違うが――消えろ、時の狭間、次元の歪、時空の彼方へと」
『ゴールデントライアングル!!』
その声を最後に、俺の意識は闇へと沈んだ。
聖闘士せいや!~シードラゴン(仮)の憂鬱~
遥か神話の時代より、邪悪から女神アテナと地上の平和を守るために戦う戦士。
繰り出す拳は空を切り裂き、放たれた蹴りは大地を割る。
そんなトンデモ人間――聖闘士となるべく、おれたち孤児を各地から集めたのだと目の前の爺さんは語る。
「ふわぁっ……」
その爺さんの横ではお嬢様が退屈そうに欠伸をしていた。
それに気が付いているのかいないのか。
爺さんは世界の平和だの正義だのと、ご大層な事を語り終えると、飛び付いてきたお嬢様の手を引いて屋敷へと戻って行った。
去り際の、お嬢様が見せたやっと終わったとでも言いたそうな表情が印象深い。
こっちも退屈で仕方がなかったんだから、恨めしそうに睨まれても困る。
ここにいる誰も、お嬢様の大好きなお爺様を取ったりなんかしないってのに。
「なあ海斗(カイト)、あいつが何を言っていたのか分ったか?」
「孤児院から拾い上げてやったんだから、お前らは強くなってグラード財団の兵隊になれ、って事だろ」
「ああ、そう言う事か」
何せ、あの爺さんは世界に名だたる“グラード財団”の実質的な支配者である城戸光政。
日本全国から『見どころがありそう』というだけで、手段を問わずに百人近い孤児を集めた超の付く変人だ。
中には人攫い同然の手段を取った、って話も聞いている。
普通、そんな事をすれば警察やらなにやらから色々と問題にされそうなものだが、少なくともそんな話は一度も耳にした事がない。
そんな馬鹿げた相手の言う事。
どんな大層なお題目を語られたところで、おれからすれば金持ちの道楽がまた始まった、その程度の事としか思えなかった。
「那智! 海斗! 誰が私語を許可したかっ!!」
「す、すいません!」
「……」
お嬢様の護衛兼おれたちの教育係でもあるハゲ――辰巳の一喝に、周りのやつらが身体を縮こまらせたのが分った。
無理もないと思う。
ここにいる百人は『お優しい城戸光政様によって城戸家に引き取られた身』として、特に『沙織お嬢様には絶対服従せよ』は骨身に叩き込まれている。逆らえば体罰だ。
なのに、お嬢様の我が儘に従えば犬や馬として扱われる。まるで家畜か奴隷だ。そんな仕打ちを受けても邪武だけは嬉々としてお嬢様に従っていたが……。
おれとしては、そのあまりの理不尽さにお嬢様を何度ぶっ飛ばしてやろうと思った事か。
もっとも、まだ六歳だか七歳だかのお嬢様を殴るわけにもいかなかったので、その矛先を良心の痛まないオッサンである辰巳に向けた事もあった。
それでも、連帯責任だと言って関係のない奴らまで罰を受けさせられては我慢するしかなくなる。
日々、訳も分らず繰り返されるしごきと言う名のトレーニングに戦闘訓練のおかげで身体だけは丈夫になったが。
「だんまりか海斗? フン、お前といい星矢といい一輝といい。まあ、今日は特別に許してやろう。こうして顔を合わせるのも、これが最後になるかも知れんのだからな」
そう言って、壇上に上がった辰巳が取り出したのは、くじ引きで使うような穴の開いた大きな箱だった。
「順番にくじを引け。それに書かれた場所がお前達の向かう修行の地だ。そうだな……海斗、お前から引かせてやるぞ」
この時の辰巳の嬉しそうな顔は、きっと一生忘れる事はできないだろう。
「ギリシア……聖闘士発祥の地か。お前ならデスクィーン島を引くと思ったんだがな。フン、つまらん」
こうして日本からギリシア・聖域(サンクチュアリ)に送られたおれは、かの地で牡牛座(タウラス)の黄金聖闘士(ゴールドセイント)と名乗る男アルデバランに出会った。
「ほう、お前が日本から聖闘士になるべくやって来た少年か。黒髪に黒い瞳に眼つきが悪い、と。資料の通りだな。確か――星矢と言ったかな?」
「……海斗です」
「ん? ははは、スマンスマン」
気さくに笑うアルデバランはその巨体もあって確かに強そうには見えたが、城戸の爺さんが言っていた『空を切り裂き岩をも砕く』程には見えない。
いや、確かに岩なら砕きそうなんだが。
おれの向けた微妙な視線、その意図に気が付いたのか、アルデバランはフムと頷くと「ついて来るといい」と俺の手を取って歩き出した。
「聖闘士についてのおおまかな説明は受けていると聞いたが、口で言われただけでは信じる事ができないのも分る。やはり実際に見て体験しなければ本質は分らんものだ」
着いた場所は朽ち果てた古代の神殿跡地。
聖闘士の存在に半信半疑だったおれの目の前で、アルデバランは直径三メートルはあろうかという巨大な石柱を何気ない腕の一振りで――粉砕して見せた。
「……嘘……」
「聖闘士とは――原子を砕くという究極の破壊の術を身に付けた者よ。己の内に眠る小宇宙(コスモ)を感じ、それを燃やして爆発させる事ができれば……お前もこれと同じ事ができるようになる」
唖然とするおれの肩に手を置いてアルデバランは続ける
「もっとも、こんな表面的な力を会得しただけでは聖闘士となる事はできんぞ。アテナと地上の平和を守る。正しき心と正義の意思があって初めて真の聖闘士となる事ができるのだ」
「……なれますか、おれは?」
「それは分らん。全てはお前次第だ。修行は辛く日々が命懸けのものとなる。それでも望むのであれば、一歩でも聖闘士に近づけるよう、このアルデバランが全力でお前を鍛えあげる事を約束しよう」
正直、聖闘士になる事に興味は無かった。ただ城戸邸から外の世界に出られればそれでよかった。
おれの目を正面から見据えるアルデバラン。
その目には子供だからと侮る様子はなく、思い上がりかもしれないが『対等の人間』として接してくれたように思えて。
「――よろしくお願いします」
この日から、おれはアルデバランを師と呼ぶようになった。
「むぅ、師匠か。悪い気はせんが……まだ若輩の身ではこそばゆい感じがするな」
「え? 若輩って、師匠はお幾つなんですか?」
「十四だが?」
「……」
――俺と四つしか違わないの? どう見ても高校生以上ですよね!?
俺は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「海斗、お前の歳は?」
「十歳です」
「……嘘はいかん、嘘は」
「――お互い様、と言う事で」
「……ああ、そうだな」
城戸邸では、集められた孤児達の中でも年長という事で、おれは一輝と共に何かに付けて目の敵にされていた。
年齢の割に可愛げがないだの生意気だのと散々言われて育てばこうもなろう。
はははははと乾いた笑いを浮かべる師匠とおれ。
師匠とは分かり合えそうだと心の底から思った。
この時は。
翌日、与えられた部屋で目を覚ましたおれは愕然としたよ?
「なんてリアルな夢……じゃない。分る。小宇宙が分る」
自分が海皇ポセイドンの海闘士、海将軍シードラゴンだったと知ってしまったのだから。