需要と供給、これら二つは商売における絶対の要素である。
これら二つの要素が寄り添う流通バランスのクロスポイント……その前後において必ず発生するかすかな、ずれ。
その僅かな領域に生きる者たちがいる。
己の資金、生活、そして誇りを懸けてカオスと化す極狭(ごっきょう)領域を狩場とする者たち。
──人は彼らを《狼》と呼んだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「……ん……むう……朝、か」
八神家の一角にある寝室に、小さな呟きが生まれた。声の主は背中に眠る幼女二人の頭を乗せた大きな狼、ザフィーラだ。
(六時半か。少々早く起きてしまったな)
ザフィーラは起き抜けの寝ぼけ眼をパチパチさせると、無言で背中に乗っている二つの頭を布団の上に優しく降ろし、その場で四肢を伸ばして体の凝りをほぐす。むふー、と小さく鼻息が漏れるが、誰も聞いていないのでよしとする。
一月初頭とはいえ、寒さに強い体を持つザフィーラはひんやりと冷えた廊下に出ることにためらいを見せず、ドアを抜けてつめたい床をぺたりぺたりと静かに歩く。向かう先は玄関。いまだ覚醒しきれていない意識に外の冷気で活を入れるためだ。
「……む?」
そうして玄関の前まで移動したザフィーラは、狼の前足で器用に扉を開けようとしたところでピタリとその動きを止める。なぜ動きを止めたのか、それは扉の奥から人の気配を感じ取ったからだ。気のせいではない。確かにすぐ目の前に人間がいる。それも二人。
こんな早朝に家を訪れる人間など新聞配達人か牛乳屋くらいなものだが、扉の先にいるのは二人。その可能性は限りなく低い。ならばこの二人は一体何なのか。不審に思ったザフィーラは、相手が物取りである可能性も考慮していつでも撃退できるように四肢に力を込め、扉の先にいる人物にシブイ声で話し掛ける。
「貴様ら、何者だ。事と次第によっては我の牙の餌食になってもらうぞ」
脅しとも取れる発言に、扉の奥から狼狽した気配が伝わってきた。その反応にザフィーラは警戒心を跳ね上げる。誰だって今の言葉を聞けば狼狽するものだが、ザフィーラは扉の奥にいる人間が害悪な存在だと強引に決め付けた。狼の勘はいつだって正しいと信じて疑わないのである。
「父様どうしよう、ばれちゃったよ。このままじゃはやての寝顔が見れないよ。盗撮できないよ」
「ううむ、遺憾ながらここは撤退するしかないか。強行突入という手もあるが、それでははやて君やヴィータ君が起きてしまうかもしれんしなぁ」
事実、相手は害悪そのものであった。やはり狼の勘はいつだって正しいようだ。
「……五秒以内に去れ。でなければ命の保障はせんぞ」
「あ、ちょっと待ってよ。ねえねえ、取引しない? 中に入れてくれたら高級ササミとジャーキーをプレゼント──」
「ガアゥッ!」
迫力満点の狼の一喝に、二人の犯罪者はうひゃーと悲鳴を上げてダバダバと退散するしかないのであった。
かくして、ザフィーラの活躍により八神家の平穏は今日も保たれた。だが忘れてはいけない。この平穏は一時のものなのだ。またすぐに先ほどのような出来事は起きる。なぜなら……さっきの犯罪者達はすぐ隣に住んでいるのだから。
「フウ……」
その暗澹(あんたん)たる事実にザフィーラはため息をこぼさざるを得ない。が、慣れなければこれからやっていけないのも事実。毎日馬鹿げた騒動に付き合わされるのは勘弁してほしいとも思うが、自分の主はそういった騒動が嫌いではないようなので、主に仕える身分の自分としては付き合うほかないのだ。
(……主達を起こしに行くか)
鬱々とした思考を眠気と共に外の冷気で弾き飛ばしたザフィーラは、再び皆が眠る寝室へと足を向ける。そして、その途中でもう一度ため息を吐く。ザフィーラの頭には先ほどの犯罪者の言葉がこびり付いていた。
(高級ササミとジャーキー……惜しいことをしたかもしれん)
ザフィーラはホネッコを主な嗜好品としていたが、そこは狼。時には浮気もしてみたくなるというもの。勿体ないことをしたか、と微妙に後悔しながら寝室に向かう守護獣であった。
ヴォルケンリッターが盾の守護獣、ザフィーラ。
例外もあるが、彼の一日は散歩に始まり散歩に終わる。朝起きて、軽く家の周りを散歩してきて朝食。食後はのんびりゴロゴロし、昼食の時間が近くなったらもう一度散歩に出掛ける。戻ってきて昼食を食べ終えたらまたゴロゴロし、夕方頃にまた散歩。夕食後は毎日ではないが気分しだいで散歩に出ることもある。これが彼の最近の一日。まさに犬の生活である。まあ、同居人達も似たような生活を送っているが。
ザフィーラが散歩に出る時は大抵は同居人の誰かが共に外に出る。なぜなら彼が狼の姿で一人で外に出るとあっという間に保健所の人間がやって来るからだ。それで以前に三回ほど保健所の人間と追いかけっこをした経験がある。そのため、今はリードを引く人間を連れて外に出るようになったのだ。
だが、最近は気温が下がってきたせいで同居人達が一緒に外に出ることをしぶるようになってしまった。軟弱な、とザフィーラが同居人達に吐き捨てたことがあったが、その時は体中の毛をむしられてえらい目にあってしまった。
そんなことがあったため、ザフィーラは冬になってからは一人で外に出ても大丈夫なように人間形態で散歩することが多くなった。狼形態の時のように四肢をフルに使って疾走できないことにやや不満があったが、保健所の人間に追いかけられるよりはマシなので我慢している。
「主、それでは出掛けてくるぞ。夕食までには戻る」
「あ、はーい。お気を付けて」
今日も今日とてザフィーラは散歩に出掛ける。夕方になって日が沈んできたのを見た彼は、自らの主に出掛ける旨を伝えるとリビングから玄関に向かいつつ人間形態に変身する。狼形態の時のように毛皮が無いので、ザフィーラは人間に変身するときは常に防寒性能のある騎士甲冑を身に付けるようにしていた。ちなみに今回彼が選んだ騎士甲冑は革ジャンに黒のパンツと、どこぞのターミネーターそっくりの格好である。というか、まんまそのデザインであった。主が精魂込めてデザインした入魂の一品だとか。
(今日は少し遠出してみるか)
変身を終えたザフィーラは玄関の扉を抜けて外の空気を吸い込むと、いつものように早歩きで見慣れた道を歩き出す。一定のペースを保って道を進む彼だったが、なんとなく遠出したい気分になったので歩くペースを上げることにした。狼の気分はうつろいやすいのだ。今は人間形態だけども。
ザフィーラは道を進む。何も考えずにひたすらに歩く。歩くだけだ。他には何もしない。周りの景色を眺めながら歩みを進めるだけ。こんな事に意味があるのか? と他の人間は思うのであろうが、ザフィーラにとってはただ歩くだけでも楽しいのだ。いや、嬉しいのだ。
平和な時間。戦わずにすむ時間。争いの無い時間。今まで転生を繰り返してきて、こんなに平穏な時を過ごせたことがあっただろうか。いや、無かった。常に戦場に立ち、魔導師達と戦ってきたのだ。心休まる時など無かった。
だが、今回の主の下では戦いなど無縁。闇の書の呪いが解かれてからはまさに平穏そのものの時間を過ごすことが出来ている。少し前に管理局とのトラブルがあったが、それも丸く収まった。これからは主たちと共にゆっくりと余生を送れる。
自分達が平和な時を過ごせている。それの証明となっているのだ。ただ静かに、何者にも邪魔されずに歩くという行為は。だからザフィーラは歩く。歩いて、平和を享受している。
散歩をする理由はそれだけではない。街中で見られる景色はザフィーラの目や心を楽しませてくれることもあるのだ。
右を向けば子供達が楽しそうに戯れている姿が見られ、
「木ィィィ原くゥゥゥゥゥゥゥゥン! パス、パス!」
「こっちにパスして、木ィィィ原くゥゥゥゥゥゥゥゥン!」
「誰か! 木ィィィ原くゥゥゥゥゥゥゥゥンを止めろ! 奴からボールを奪い取れ!」
「ここは通さねえ。一方通行だぜ、木ィィィ原くゥゥゥゥゥゥゥゥン!」
「もう! その呼び方やめてって言ってるでしょ! なんかすごい不愉快になるんだってば!」
左を向けば、学生らしき十数人の男女が何かの出し物のためか広場で懸命にダンスの練習をしている。
「皆、もってけセー〇ー服はいい感じだね! じゃ、次はハレハレユ〇イいってみようか!」
「待ってました! あたしこれ超好き!」
「先頭は俺ね。目立ちたいし」
「バッカ、俺にやらせろよ」
「先頭は団長たる私に譲りなさい。これは団長命令です」
『ひゃあい』
こんなありふれた光景であっても、ザフィーラの目を楽しませるには充分なものとなる。平穏で平凡、それがザフィーラにとっての幸せなのだから。
しかし、その実ザフィーラは心の奥底でこんなことも思っていた。『刺激が欲しい』と。口に出しはしないが、いつしかそんな事を願うようになったのだ。
確かに平穏な毎日は望んだものだったが、どこか物足りなさも感じてしまっていた。自分が欲しているものの正体は分からないが、とにかく何かが物足りない。ザフィーラは意識していないが、彼が毎日のように散歩に出掛けるのもその何かを見つけるためなのかもしれない。
(……ふむ、そろそろ戻るか)
散歩を開始してから四十分。気付けば日はすでに完全に沈んでおり、辺りは暗闇が支配する時間となっていた。無心になってひたすら歩き続けたため、それに気付くのが少し遅れた。
(む、そういえばホネッコが切れそうだったな)
その場できびすを返したザフィーラは、お口の友達であるホネッコのストックが切れる寸前だったことを思い出し、帰り道の近くにあるスーパーに寄ろうと足を早める。ヘビースモーカーがタバコが無いと生きていけないように、ホネッコが無いとザフィーラはえらいことになってしまう。ホネッコが切れる事は絶望を意味するのだ。
はやる気持ちを抑えて帰り道を進むこと少し、ようやくスーパーの明かりが見えてきた。と、そこでザフィーラは見知った顔を発見する。スーパーの入り口近くに佇むその人物も彼に気付いたようで、ザフィーラの顔を見た途端にトタトタと子犬のように近付いてきた。
近付いてきた人物、それは少し前にザフィーラと壮絶な殴り合いを繰り広げた使い魔、アルフであった。人間形態の彼女は笑顔を浮かべながらザフィーラのすぐそばまで来ると、ピョーンと彼目掛けて勢いよく飛び付いてきた。
「ダーリン! 会いたかった……わふ!?」
が、その行動は予測済みだったので、ザフィーラは片手を前に出して彼女の顔面を掴んでその動きを封じる。そして、そのまま万力のようにギリギリと力を込めていく。
「ギ、ギブ、ギブ。放しておくれよ」
「……ふん」
降参のポーズをするアルフを見たザフィーラは、慣れた仕草でポイッと彼女を放り投げる。投げられた彼女も慣れたように体勢を整えて綺麗に地面に着地し、ごめんごめんと笑顔で謝る。このやり取り、実はこの一週間ほどで何度も繰り返されているのだ。それは慣れるというもの。
「貴様、気安く抱き付くなと何度言えば分かる。あとダーリンて呼ぶな」
「いいじゃないか、減るもんでもないし。あ、ひょっとして照れてる?」
「……どうやら貴様にはキツイ灸(きゅう)を据えねばならんようだな」
「あ、ごめん。ホントごめんよ」
ザフィーラのプレッシャーに負けたのか、平謝りに謝るアルフ。ただ、目は笑っているので反省しているとはとても思えない。
そんな彼女を見て、ザフィーラはまたフンっと鼻息を吐く。どうせまた同じことを繰り返すだろうからこれ以上強く言っても無駄だと思ったのだ。
ザフィーラとアルフ。こうして見ると二人は旧知の仲のように見えるが、付き合いはそれほど長くはない。初めて会ったのが二ヶ月ほど前で、それから一月まで会うことはほとんどなく、まともに会話するようになったのがほんの一週間ほど前なのだ。しかし、二人の仲は(客観的に見て)良いように見える。
それもこれも、全てはアルフの頑張りによるものだ。彼女はここ一週間、毎日のようにザフィーラの元を訪れ、(強引に)一緒に散歩に出掛けては彼と仲良くなろうと必死に話しかけた。その甲斐あって、二人はさっきの夫婦漫才のようなやり取りが出来るような関係になったのだ。まあ、ザフィーラは望んでそんな関係になったわけではないが。
ザフィーラはギャルゲ主人公のように鈍感ではないので彼女が自分に好意を向けてきていることに気付いているが、それに応える気は無かった。なぜなら、ロンリーウルフでいたかったから。というか、ぶっちゃけ相手をするのが面倒くさいからだった。
だからザフィーラは今日までのらりくらりとアルフのアタックを避け続けてきた。そしてこれからも避け続ける気満々であった。ハッキリと拒絶すればそれで済むのだろうが、ザフィーラは割と女の涙に弱いので相手が諦めるのを待つことにしたのだ。そういった態度にアルフは気付いていたが、それでも果敢にアタックを続けている。
二人はお互いの気持ちを理解していた。そう、これは我慢比べなのだ。どちらが先に折れるかの。ザフィーラが折れてアルフを受け入れるか、アルフが諦めてアタックを止めるか。まさに、期限無制限のデスゲーム、いや、ラブゲーム?
「……で、貴様は何の用でこんな所にいるのだ。まさか我のあとを付けて来たなどと言うまいな?」
延々とゲームを繰り広げる未来を想像して鬱々とした気分になりかけたザフィーラは、痛くなる頭を振りつつ目の前のアルフにそう問い掛ける。実際、あとを付けて来た可能性も無きにしもあらずなのだ。過去に尾行されていたことがあったし。
が、どうやら今回は偶然出会っただけのようで、アルフはパタパタと手を振ってそれを否定する。
「違うって、今日は偶然。アタシ、たまにこのスーパーに弁当買いに来るんだよ。アンタは何しに来たのさ?」
「そんなもの決まっているだろう。ホネッコをゲット&ゴーホームだ」
「ああ、アンタホネッコ好きだもんね。アタシも好きだけど……って、ちょっと待ってよ、アタシを置いて行かないでってば」
会話に付き合う時間も勿体ないと思ったザフィーラは、アルフを置いてスーパーに入ろうとする。それを見たアルフは慌ててザフィーラの横に移動して腕を取ると、あたかも一緒に買い物に来たカップルのように寄り添って共に歩こうとする。
「ふんっ」
「あうっ」
だが、そのたくらみはザフィーラの腕の一振りでアッサリと瓦解。弾き飛ばされたアルフはたたらを踏むと、舌打ちを一つしてザフィーラの後ろを付いていく。
「絶対アタシのものにしてやる」
後ろから聞こえる怨嗟(えんさ)のような声にザフィーラは身震いし、やはりハッキリと拒絶すべきかと今さらながらに検討を始める。ただ、拒絶しようが殴り倒そうが後ろにいる女は諦めないような気がしてならなかった。
「……む?」
後ろから感じる視線を意図的に無視しつつ、ザフィーラはスーパーの自動ドアを抜けて暖房のかかった店内に入る。そこで、入店と同時にザフィーラは後ろのアルフとは違う幾つもの視線を感じ取った。
見られている、確実に。店内のあちこちから視線がザフィーラに注がれているのが分かる。幾多の戦場を駆け巡った戦士であるザフィーラは他人の視線には敏感だ。勘違いなどではない。だが、なぜ? なぜ自分が複数の人間に観察されるように見られているのか、それがザフィーラには分からなかった。
疑問に思うザフィーラは、一番近くにいて横目でチラチラと自分を見ている男性客に目を向けた。すると、その男性客は視線をザフィーラから外して正面の商品が並んだ棚を見つめる。別の視線の主の下にも目を向けてみたが、いずれも一般客で、顔を向けた途端にザフィーラを見るのを止める。話しかけてくる気配も無い。
「……なんなんだ、これは」
思わず呟くザフィーラだったが、その呟きに答える人物が現れた。後ろを付いてきていたアルフだ。彼女はザフィーラの隣にやってくると、面白そうに彼の顔を見上げる。
「《狼》と間違われたんだよ。もうそろそろ半値印証時刻(ハーフプライスラベリングタイム)だからね」
「……なに?」
「知らないか、やっぱり。まあ、知ってたらこのスーパーで頻繁に会うはずだからねぇ。アンタ、ああいうの結構好きそうだし」
ザフィーラはアルフの言っていることがサッパリ分からず首をひねる。そんな彼を見たアルフはケタケタと笑うと、
「もう五分くらいしてから弁当コーナーに行ってみな。面白いもんが見られるからさ」
そう言ってザフィーラの肩をポンと叩き、ウキウキとした足取りで彼から離れていった。入り口近くに残されたザフィーラはしばし彼女の言葉の意味を考えていたが、彼女が言っていたように弁当コーナーに行けば分かるかと思い、とりあえず先にホネッコを購入すべくペット用品コーナーに足を運ぶことにした。
そうしてペット用品コーナーに到着したザフィーラは、缶詰やドッグフードなどには目もくれずホネッコに跳び付き、『お徳用 ワンちゃん大好きホネッコ』を十パック買い物カゴに詰め、レジへと直行。レジを打つ女性に見えないようにシッポをパタパタさせつつ会計を済ませる。
ホクホク顔でホネッコを袋に詰め終えたザフィーラは思わずそのままゴーホームしようとするが、面白いものが見られるというアルフのセリフを思い出して弁当コーナーに足を向ける。
(……特に何も無いではないか)
店内の右奥にひっそりと設置された弁当コーナーまで足を運んだザフィーラは、何か変わった物でもあるのかと周りを見渡すが、特にこれといった物は無かった。しいて挙げるとするならば、棚に置かれた弁当に半額シールを貼っていくエプロン姿の店員がいるくらいか。
興ざめしたザフィーラはアルフに文句を言おうと店内を見回して彼女を探そうとするが、そこで、ふと半額になった弁当に意識が向いた。見下ろす先にある弁当にはどれも丸い形の半額シールが貼られていて、そのどれもが売れ残って古くなった物だ。だが、なぜだかザフィーラの目にはそれらがものすごく美味しそうに感じられた。消費期限ギリギリの、最大まで値引きされた弁当がだ。
ごくり、と我知らずノドを鳴らした。家に帰れば食事が用意されているので買う気は無いが、目が自然と弁当の中身に引き寄せられる。
(ほう、サバの味噌煮弁当、ちらし寿司弁当、ザンギ弁当とな。……ザンギって何だ?)
一つ一つどんな弁当があるのか確認していく。普段弁当など買うことがないザフィーラにとって、こうして色々な種類の弁当を眺めるだけでもそれなりに興味が引かれる。見たことも聞いたこともない名前の弁当を見つけた時は、どんな味がするのかと想像を膨らませたりもした。
そんな風に弁当をなんとはなしに眺めていた、その時。
『あ、やば! ザフィーラ、そこから離れて! 早く!』
「む?」
アルフからやたら切羽詰った念話が飛んできた。なぜ念話? いや、それより離れろとはどういうことだ? 何がやばい? そういった疑問が頭の中で渦巻く。が、アルフに問う時間はザフィーラには無かった。
バタン、とどこからか扉の閉まる音が耳に届いた瞬間、
「邪魔だ、《犬》」
ザフィーラのすぐ隣、何も無かったはずの空間に突如黒髪の男が出現し、神速の拳をザフィーラの顔面に放ってきたからだ。
「っ!? ぐっ!」
不意打ちにも等しいその一撃、ザフィーラは避けることが出来ずにモロに喰らってしまう。仰け反り、たたらを踏む、が、根性でもって倒れることだけは防げた。しかし、男はザフィーラを休ませず、追撃の蹴りを足がかすむ速度で放つ。体勢を崩していたザフィーラは二撃目もまともに腹に受けてしまい、カハ、と息を漏らす。
ザフィーラは訳が分からなかった。騎士甲冑を纏っている状態でなぜ素手でここまでダメージを受けるのか、この動きが恐ろしく速い男は何者なのか、そしてなぜ自分が襲われているのか。
一瞬の内に思考を巡らし、一瞬の内に結論が出た。結論、分かるわけがない。
ならば、答えを知っている人間に聞けばいいだけのこと。具体的には目の前で弁当に手を伸ばす男に、肉体言語で。
バチッ! と、深く考えずに弁当に伸ばされた黒髪の男の手を払いのけ、ザフィーラは男に一喝する。
「我は犬ではない! 狼だ!」
咆哮のごとき一喝を受けた男は、払われた手を見て、次いでザフィーラの顔を見ると、嬉しそうな笑みを浮かべる。
「新米か。ならば先ほどの違反行為は大目に見よう」
よく分からないセリフを口にした男は、笑みをそのままに再びザフィーラに攻撃を放とうと腕を上げた。ザフィーラもやられっぱなしになるわけにもいかないので、応戦しようと構える。両者が睨み合い、ぶつかり合うかと思われたその瞬間、
「恭ちゃん、隙あり!」
「俺に隙など無い!」
そこに今度は黒髪の眼鏡をかけた女が現れたかと思うと、男に肉薄し、これまた肉眼で捉えることが難しいほどの速度の手刀を首筋に打ち込んだ。男はそれに即座に反応し、手刀を手刀で弾くという離れ技でもって回避することに成功する。二人は打ち合わせた手に受けた衝撃など気にもせず、相手の顔を見ながら楽しそうに拳や蹴りの応酬を始める。その動きはとてもではないが常人が視認出来る速さではない。
「腕を上げたな、美由希」
「恭ちゃんこそ!」
笑みを浮かべて凄まじい攻防を繰り広げる二人を前にして、ザフィーラはますます今の状況が分からなくなっていた。しかし、悠長に考えを巡らせている暇などザフィーラには与えられなかった。新手が現れたのだ。
「邪魔なんだよ、犬っころ!」
弁当棚のすぐ前にいるザフィーラに、茶髪の軽薄そうな男が叫びを上げて飛び掛ってきた。今度の男はすぐそばで眼鏡の女と戦っている黒髪の男よりは動きは遅いが、それでも充分に常人の域を超えている。超人のオンパレードか、と訳が分からぬままにザフィーラは迎撃しようと昇竜拳の構えを取る。上空から飛び掛ってくる相手に昇竜拳は常套手段なのだ。
だが、ザフィーラが飛び蹴り見てから昇竜拳余裕でした、を決める前に、その茶髪の男は横から現れたアルフのジャンピング・ニー・バット(真空飛び膝蹴り)を顔面に喰らってきりもみしながら鮮魚コーナー脇の通路に吹き飛ぶこととなった。ズガガガッ! と地面を転がる茶髪の男を一瞥(いちべつ)したアルフはザフィーラに振り返ると、バツが悪そうな顔で謝ってくる。
「ごめんよ、ダーリン。警告が遅れちまって」
「ダーリンて呼ぶな。いや、それよりこいつらは一体なんなん……!」
説明を求めるザフィーラだったが、天井の壁を蹴って死角からアルフに襲い掛かる茶髪の女を発見したことでその言葉を飲み込むことになる。警告を発していては遅いと判断したザフィーラはアルフを押しのける形で前に出ると、拳を前に出して天井から降ってくる女にカウンターの昇竜拳(ただのアッパー)を叩き込んだ。アゴにいいものを喰らった女は巻き上げられるように吹き飛び、ズシャアッ! と車田落ちで墜落する。やりすぎたかとザフィーラは思ったが、大事は無いようなのでとりあえずよしとした。
「サンキュー、ザフィーラ。助かったよ」
「礼などいらん。そんなことより説明を──」
「どけぇ!」
「く、またか!」
ザフィーラが口を開いたところでまたもや新手が出現。今度はサラリーマン風の男性。いい加減にしろ、とそちらに怒りを含んだ目を向けたザフィーラは、今さらながらにその事実に気付く。
いつの間にか辺りには十数人の人間がひしめいており、いずれもザフィーラ達がいる弁当棚を目指して周りにいる人間と拳を交えながら突き進んできているのだ。子ども、大人、老若男女様々な人間がギラギラと目を光らせて押し寄せてくる様に、流石のザフィーラも冷や汗を流さずにはいられない。
「なんなんだ、これ、はぁ!」
体勢を低くしてタックルをかましてくるサラリーマン風の男を殴り飛ばしたザフィーラは、事態の異常さに思わず叫んでしまう。いくら普段クールぶっているザフィーラでも、この状況では叫んでも仕方がないというもの。なんせ、ただのスーパーで客同士の乱闘が行われているのだ。しかも、ただの喧嘩ではない。拳と拳がぶつかれば衝撃波が生まれ、まともに攻撃を喰らったものは天井を転がるように吹っ飛んでいく。中にはクモのように天井をシャカシャカと移動する輩までいる。お前ら本当に人間かと。
「ザフィーラ、弁当だよ!」
「……なに?」
ライダーキックのように上方から蹴りを放ってくる小太りの男をサマーソルトで迎撃したザフィーラは、横から発せられたアルフの言葉にそちらを振り向く。アルフは奇声を上げて襲い来る老人を裏拳で吹き飛ばすと、すぐそばにある弁当棚を指差す。
「弁当を取ればこいつらは手出し出来ない! 隙を見て取るんだ!」
「いや、言っている意味が分からな──」
「いいから! 取るんだよ!」
「う、うむ」
勢いに押されたのか、ザフィーラはややたじろぎながら弁当棚に視線を落とすと、一番手近にあった『柔らかアナゴちらし弁当』という名前の弁当に手を伸ばす。手が弁当に近づき、容器に触れるか触れないかといった、その瞬間。
「やらせるかぁ!」
周りの人間が一斉にザフィーラに狙いを定め、上下左右から攻撃を仕掛けてきた。それに気付いたザフィーラは、視線を弁当から襲い来る刺客達に向け直すと迎撃行動に移る。左右から迫る拳をそれぞれの手で掴み取り、勢い任せに掴んだ二人を振り回して上下の敵にブチ当ててもろともに吹き飛ばす。ちょっとスカッとした。
「そんな奴ら無視していいって! とにかく弁当を!」
そんなザフィーラに、弁当棚を背にして二人の幼女の猛攻をしのいでいるアルフが一喝する。絵的に色々とおかしいが、最初から何もかもがおかしいので突っ込むのはやめておくことにした。
やれやれと息を吐いたザフィーラは、上空から降ってくる女子高生をタイガーアッパーカットで星にすると、くるっと一回転して弁当棚のすぐ前に華麗に着地。そして、先ほど取ろうとした弁当に手を伸ばし、ついにその容器を手にすることに成功した。
「よし、これでアタシも安心して取れる!」
ザフィーラが弁当を手にしたのを確認したアルフは目の前にいた二人の幼女の顔面を掴むと、横から襲い掛かってきた大男に投擲(とうてき)し、その動きを阻害。その隙に、ザフィーラに続いて棚から残り少ない弁当を奪取する。投げられた二人の幼女は大男に殴り飛ばされて通路をゴロゴロ転がったが、ザフィーラはやはり突っ込むのはやめておいた。
「む?」
弁当を手にした直後、ザフィーラは先ほどまで全身に浴びていた殺気が霧散していくのを感じ取った。事実、攻撃を加えようといていた周りの人間も今はザフィーラには目もくれず、彼を迂回して弁当棚に群がっている。
「サバの味噌煮は渡さん!」
「あたしの物よ!」
弁当に手を伸ばしては弾き弾かれを繰り返し、お互いに頬に拳をめり込ませる客達のその姿を見て、ザフィーラはようやくこの場で何が行われていたのかを悟った。なんとも非常に馬鹿馬鹿しいことなのだが、この現状を鑑みるにそうとしか思えない。
つまりは……
「半額弁当の奪い合い、か」
そういうことである。半額弁当を手にするためだけにこの客達は殴りあい、蹴り合い、潰し合っている。恐るべき身体能力を駆使して。
「馬鹿かこいつら……」
思わず本音が漏れてしまう。が、その呟きに言葉を返す人物が現れた。
「そう、俺達は皆馬鹿だ」
横からのその声にザフィーラは反射的に振り向く。ザフィーラに声を掛けた人物は、最初に彼に攻撃を仕掛けた黒髪の男だった。その男の隣には眼鏡を掛けた女もいる。両者の手には半額シールが貼られた弁当がしっかりと握られていた。おそらく最初の攻防の時点で早々に手に入れていたのだろう。いつの間にかいなくなっていたことにもそれで納得がいく。
「しょせん俺達が獲得せんとするのは半額弁当でしかない。真っ当な人間からすればみすぼらしい行為だろう。無様だとあざ笑う者もいるだろう」
黒髪の男はザフィーラを見る目に笑いを含ませながら言葉を続ける。
「しかし、だからこそ、俺達は誇りを持ってここにいる。みすぼらしい行為だからこそ、誇りを持って全力でこれに当たる。たとえいかなる者であれ、人が一生懸命に頑張っているものを非難する権利は誰にも無い」
「む、むう……」
その黒髪の男の言葉に、ザフィーラはなぜだか感銘を受けてしまった。やっていることは弁当の奪い合い、誇りも何も無いとは思う。だが、男の言葉には有無を言わせぬ何かがあった。
「なにはともあれ、弁当奪取おめでとう。見事な戦いっぷりだった。これでお前も立派な《狼》だな」
そう言った黒髪の男は眼鏡の女と共にきびすを返すと、
「礼儀を持ちて、誇りを懸けよ。では、また会おう」
去り際に一言呟いてレジへと歩いていった。そんな男のセリフにザフィーラは首をかしげる。《狼》とはなんなのか、それに礼儀とは。他にも疑問があったが、男は去ってしまったので聞くことは出来ない。……いや、ザフィーラの疑問に答えられる人物がすぐそばにいた。
「ザフィーラ、色々聞きたいって顔してるねぇ。教えてあげようか?」
アルフだ。彼女はザフィーラの近くにすり寄って来ると、ニヤニヤ笑いながら提案をしてくる。
「ただし、夕飯を一緒に食べるって条件が付くけどね」
「む……」
彼女の出した条件を呑むかどうか、ザフィーラはしばし迷った。主達には家で食事を取るとすでに伝えているので、断りを入れなければならない。ザフィーラは誇り高い狼なので前言を撤回することが嫌いだ。しかし、疑問は残しておきたくない。ザフィーラは数秒ほど迷い、結局アルフの条件を呑むことにした。
「いいだろう。ではその旨を念話で主に伝えるので少し待て」
やりぃ、と小躍りするアルフを横目に、ザフィーラは主に念話を飛ばす。間違えて別の人物のところに飛ばした、なんてこともなく、一瞬で主に繋がった。
『主、聞こえるか、我だ』
『おや、この渋い声はザフィーラさんですか。念話なんて飛ばしてどうしたんですか?』
『今日の夕飯なんだが、外で食べることになった。シャマルにも伝えてくれるか』
『へえ、珍しい。どなたかとご一緒するんですか?』
『む、うむ。あの金髪の魔導師の使い魔とな』
『おや! おやおや! ほうほう、なるほど。そういうことでしたか。お二人はそこまでの関係に……』
『いや、何か勘違いをしていると──』
『え、なになに、犬ってあの女と付き合ってんの? ヒューヒュー、妬けるねコンチクショー』
『マジか。そんな感じはしてたけど進展早いな』
『ザフィーラにも春がやって来たのね。応援してあげるわよ』
『今まで突き放していたように見えたのだが、なるほど。ザフィーラはツンデレだったというわけか。デレるのが少々早い気もするが』
『貴様ら、割り込んできて好き勝手なことを言うな。……あとリイン、お前、後で、絶対、殴る』
『まあまあ。とりあえず、夕飯は外で済ませてくるんですよね。帰るのはどれくらいになりますか?』
『なに、一時間もせずに帰ると──』
『おいおい、朝帰りに決まってるじゃないっすか、主。言わせるなよ』
『あっと、こりゃ失礼。それもそうですね』
『明日の朝、帰ってきたザフィーラを皆で出迎えてこう言ってやろうぜ。「昨夜はお楽しみでしたね」』
『あら、ナイスアイデアね。お赤飯炊いちゃおうかしら』
『なにか違う気もするが。まあ、なんだ、ザフィーラ。責任はちゃんと取──』
『貴様ら後で絶対殴る』
そこで念話を強制的にカットし、ザフィーラはフゥと大きく息を吐く。全員悪乗りしすぎだ。
会話をするだけで疲れてしまったザフィーラは隣で嬉しそうに念話を終えるのを待っていたアルフに向き直ると、とりあえず弁当の会計を済ませようとレジに促す。
レジにて弁当を買ったザフィーラとアルフは、話をするために入り口近くのベンチまで移動して二人揃って座る。アルフが密着してくるが、引き剥がそうとしてもスライムのように粘着して離れないのでザフィーラは諦めてそのまま話を聞くことにした。
「さて、話してもらうぞ、洗いざらい全てな」
「せっかちだねぇ。もうちょっと雰囲気を大事にしようとは思わないのかい」
「半額弁当片手にスーパーのベンチで雰囲気も何もあったもんではないだろう。なにより我は貴様の恋人ではない」
「むう、こりゃ難敵だねぇ」
「ごたくはいい、早くしろ。主達に邪推されかねん」
へーい、とやる気なさげに答えたアルフは、ゆっくりと語りだした。このスーパーで行われていた弁当の奪い合い、それに誇りと命と青春を懸ける《狼》達の話を。
《狼》
誰が言い出したかは分からないが、スーパーで半額弁当を求め、争う者達を総称してそう言う。《狼》達の半額弁当を巡る戦いは全国のスーパーで行われているらしく、毎夜、弁当が半額になる時刻に《狼》達はスーパーに集う。
《狼》達は普段は一般人だが、スーパーで半額弁当を前にした時だけはあり得ないほどの身体能力を得る。《狼》達の戦いはフリーダムなようで、その実、皆が暗黙のルールに従って戦闘行為に及んでいる。
半額シールを貼った店員が扉の奥に消えるまでは弁当の下に駆けてはいけない。弁当を取った者を攻撃してはいけない。店に迷惑をかけてはいけない、等々。
これらのルールを守れない者は《豚》と呼ばれ、《狼》達に駆除されてしまう。また、そういったことをよく分からないであの場に訪れた弁当を欲する者、未熟な者を《犬》と言う。
《狼》達にも格というものがあるらしく、実力のある《狼》には自然と二つ名が付き、周りの《狼》から一目置かれるようになる。
最初にザフィーラを襲った男の《狼》と次に現れた女の《狼》はその二つ名付きで、このスーパーでも一、二を争うほどの強者であった。男の二つ名は魔導士《ウィザード》。まるで魔法を使ったように姿が掻き消えることから付けられたそうだ。女の二つ名は《流血の魔女》。争いのドサクサに紛れてお尻を触った《狼》を返り血を浴びながらボコボコにしたことから付けられたそうだ。
「他にもこのスーパーには二つ名持ちがたくさんいるよ。最近流星のように現れて瞬く間に二つ名を取得した双子の《狼》の《ケルベロス》に、剣道少年達を引き連れて群れで狩りを行っている謎の仮面女、《ミス・キシドーと猟犬群》、二人のメイドにサポートさせて毎回弁当をかっさらっていく幼女、《ロリメイド》。タンク(買い物カート)を自由自在に操り進行方向にいる者をひき潰していくパーマの主婦、《大猪(おおじし)エンペラー》とか。このスーパーは日本でも有数の激戦区だろうねぇ」
「……そ、そうか」
アルフの口から語られる馬鹿馬鹿しくも壮大な話に、ザフィーラはちょっと引き気味に頷く。まさか弁当の奪い合いをしている連中に二つ名が付いてたり、ルールが定められたりしているとは思わなかったのだ。しかも全国で行われているとか。日本は広いのだな、とザフィーラは遠い目をして彼方を見やる。
しかし、これでようやく疑問が全て解けた。知って得するような情報ではなかったが。
「説明、ご苦労だった。では我はこれで失礼させてもらうぞ」
「待った。夕飯一緒に食べる約束したじゃないか」
「チィ」
話を聞き終えたザフィーラは何食わぬ顔で去ろうとするが、そうは問屋がおろさなかったようだ。ガッチリと腕をロックされてしまい、逃げ出すこと叶わず。ザフィーラは諦めて食事を共にすることにした。
「分かった。だが食べるのはこの弁当だぞ。レストランなどには行かんからな」
「充分、充分。むしろ弁当の方がいいから」
そういうものなのか? とザフィーラは自分の価値観に疑問を持つが、相手がそう言っているのならいいかと深く考えず、食事が出来る場所に移動しようとベンチから立ち上がる。アルフも続いて立ち上がると、いい場所があるんだ、とザフィーラの腕を引っ張って出口まで引っ張っていく。抵抗するのも馬鹿らしいのでザフィーラはされるがままだ。
──リア充爆発しろ。
どこからかそんな恨みがましい声が聞こえた気がした。
上機嫌なアルフに連れられて来たのは大きな公園だった。海鳴臨海公園という名前らしい。
「どうだい? 星がよく見えるだろう」
「ほう……悪くはないな」
人気の無い公園に入った二人は大きめのベンチに座ると、夜空にきらめく星を見上げる。遮る物が何も無いため、広大な空の海を漂う星々を余すことなく視界に収めることが出来る。いわゆるロマンチックな光景というやつであった。
(はっ、いかん)
夜のベンチに男女が二人きり、空には綺麗な星がたくさん。このシチュエーションはマズイと狼の直感が告げている。隣のアルフなんか様子を窺うようにチラチラと見てきている。ザフィーラは雰囲気に流されるような軟弱な男ではなかったが、今の雰囲気はなんだかよろしくないと危機感を抱いたため、さっさと食事を済ませてこの場からオサラバしようと弁当の蓋に手を掛けた。その瞬間、隣から小さな舌打ちが聞こえたがザフィーラは気にせず蓋を外した。
それと同時に、なんとも言えない香ばしい香りがザフィーラの鼻孔をくすぐり、その良い匂いに思わずよだれを垂らすところであった。
「へえ、柔らかアナゴちらしか。それ美味しいんだよねぇ」
匂いに釣られてか、隣のアルフがザフィーラの持つ弁当を覗き込んでくる。
「やらんぞ。自分の弁当を食え」
「ケチ」
「ケチで結構」
「くぅ」
軽い言葉の応酬をした二人は割り箸を袋から取り出して綺麗に割ると、それぞれの弁当のおかずに突き刺す。掴むのでなく、突き刺した。二人とも普段は狼の姿で食事を取っているので、実は箸の扱いが下手なのだった。
「……む?」
薄く切られたアナゴを箸で突き刺し口に運ぼうとしたところで、アルフがじっと自分を見ていることにザフィーラは気付く。アルフは何かを期待した目で隣のザフィーラの顔を見つめていた。
「何を見ている」
「ん? ああ、アンタがその弁当食べた瞬間どんな顔するかなーって」
「なんだそれは。弁当を食べたところで表情など簡単に変わらん」
「それはどうかな~?」
面白そうに笑いながら自分の顔を見つめるアルフが気に食わなかったが、空腹だったザフィーラは気にせず箸を動かし、ぱくっとアナゴと少量の白米を口に含む。そして、咀嚼(そしゃく)し、じっくりと最初の一口を味わい、ごくりと嚥下(えんか)する。
「……これは」
美味い、と単純にそう思った。もしかしたら頬が緩んでいるのかもしれない。この弁当は、掛け値なしに美味い。シャマルには悪いが、今まで食べたどの料理よりも美味いと、そうザフィーラは思った。
「良い顔してるじゃないか」
隣のアルフが自分の弁当をパクつきながらそう言ってきた。アルフが言うように、ザフィーラの表情は弁当の一口で変化していた。喜怒哀楽で言う、喜の表情に。ザフィーラは少々気恥ずかしさを感じながらも、それを誤魔化すように箸を動かして弁当の中身を胃に収めていく。
「むぐ……これは、あれだな。きっと最高級のアナゴを使用した弁当なのだな」
「アッハハ、そんなわけないじゃないか。定価五百円の弁当だよ?」
「で、では調理した人間の腕が最高級なのだ。でなければここまで美味いはずがない」
「まあ、腕は悪くないと思うけど。でも、その弁当が美味い本当の理由はそんなんじゃないよ」
「む? ではなんだと言うのだ」
アルフはそう言うと、待ってましたとばかりに用意していたセリフを口にする。
「その弁当が美味い理由、それはね、幾多の《狼》達と奪い合い、艱難辛苦(かんなんしんく)の末に自らの手で掴み取ったからだよ。いわゆる、勝利の味ってのがトッピングされてんのさ」
「勝利の、味……」
「《狼》達が殴り合ってまで弁当を奪取しようとするのは、この美味い弁当を食いたいからなんだよ。金を出せばいくらでも買えるただの弁当じゃ、ここまで美味いもんは食えないからね」
普段のザフィーラだったならば馬鹿らしいと切って捨てただろうが、ここまで美味い弁当を口にした今ではそんなことは言えなかった。確かに、弁当を食べる時はさっきの戦いを自然と思い起こしながら食べていたし、今口に含んでいるこれも、四人同時に叩き伏せた手の感触を思い浮かべながら食べるとさらに美味く感じる。これは、まさしく勝利の味と言っても過言ではないかもしれない。
そう思った瞬間。カチリ、と外れていたパズルのピースがはまったかのように、ザフィーラは唐突に理解した。
これが、これこそが自分が求めていたもの。
戦い、奪い合い、捻じ伏せ、そして、食す。まさに、狼の生き様。これこそが足りないと感じていたもの。ぬくぬくとしているだけでは得られない緊迫感、高揚感、充実感。
「見つけた。やっと」
そう、見つけたのだ。どこか物足りなかった日常を一変させるものを。ザフィーラは歓喜した。自分でもそれと分かる盛大な笑みを浮かべ、アナゴちらしを口に含みながら声を上げて笑う。
「く、くくく、はははははははっ!……げほ! げほ!」
むせた。
「ちょ、大丈夫かい」
アルフからペットボトルのお茶を手渡されたザフィーラはそれをごきゅごきゅとノドを鳴らして飲み下すと、アルフに向き直って彼女にワイルドな笑みを向ける。これがザフィーラが初めてアルフに向けた笑みであった。
「アルフよ、礼を言うぞ」
「え、何がさ?」
「お前のおかげで我は狼に戻れる、そういうことだ」
アルフからすれば急に笑い出して変なことを言い出した男、という風に見えるが、彼女は細かいことは考えない主義だったので、素直に礼を受け取ることにした。
「よく分かんないけど、アンタが喜んでくれてアタシも嬉しいよ。……あと、出来ればお礼は言葉じゃなくてもっと別の、例えばキスとかだったりすると鼻血が出るほど嬉しいんだけど……」
「む、そろそろいい時間だ。家に帰るとしよう」
「聞けよ、おい」
やはりロンリーウルフでいたいザフィーラだった。
「さて」
よっこいしょういち、とベンチから立ち上がったザフィーラは、空になった弁当の容器を脇にあったゴミ箱に捨て、公園の出口に足を向ける。それを見たアルフは急いで残った自分の弁当の中身を口にかき入れると、容器をゴミ箱に投げ入れザフィーラの後を追う。
「待ちなってば。アタシ、亭主関白ってあんまり好きじゃないんだけど。やっぱり男は女の尻に敷かれてなんぼだと思うんだよねぇ」
「見解の相違だな。我は女は男に静々と付き従うべきだと思うのだが」
「あれ? それって、アタシがダーリンに付き従ってれば恋人になってくれるってこと?」
「……言葉のあやだ。あとダーリンて言うな」
「ダーリン」
「黙れ」
「ダーリン」
「だま……ええい、勝手にしろ」
「ふへへ、勝った」
「く、いらつく女だ」
その夜、海鳴市の夜道を仲むつまじく歩くカップルらしき男女が見られたとか、見られてないとか。
一人の男が半額弁当を巡る戦いに巻き込まれてから数日後。一軒のスーパーにて、とある《狼》に二つ名が付けられた。
その二つ名は《盾の守護獣》。一人の女性の《狼》を他の《狼》の攻撃から守る姿が印象的だったために付けられたそうだ。
あとがき
今回の話の元ネタ、とあるラノベから拝借させていただきました。楽しんでいただけたら幸いです。