“―――*―――”
『……すげえな。俺、双子ってものを甘く見ていた』
『だから言ったじゃない』
『どんな奴なんだ? って訊くたびにお前が自分の顔見せてきた理由がよく分かったよ』
姉が、得意げに笑う。
姉が連れてきた男が、感心し切ったように自分たちの顔を見比べる。
初対面で、いきなり顔をじろじろと見られるのは、慣れているとはいえ、苦手だった。
自分たちにとって、瓜二つと言われるのは誉め言葉だ。
知り合いの兄弟に聞いた話によると、家族と似ているといわれるのは、どこか自分の個性を否定されている気がして、あまり嬉しくないらしいけど、自分は違う。
姉の方がどうかは知らないが、自分は、嬉しくなる。
今でこそ自分は特別な扱いを受ける存在となっているが、昔から、いや、今でもなお、輝いて見える姉と同じと言われることが、自分にとって足りないものを隠してくれている気がして。
とはいえ、いや、それだからこそ、慎重に見比べられたら、自分の欠点が浮き彫りになってしまう気がして、見られるのは苦手だった。
『これ、あれだな。めっちゃ失礼かもしれないけど、あれだ、2Pカラーってやつだ』
『また訳分かんないことを言い出したわね』
『格ゲー……って、ああ、えっと。イオリなら分かるかなぁ。どうすりゃ伝わるんだろう、この感動』
『またイオリさん……。あたしにも教えてよ』
自分の半分の世界で、ふたりは他愛のない会話をしている。
そこで少しだけ気づいた。
見られるのは苦手だけど、あまり、不快になっていない自分に気づく。
それが何故かは、このときは分からなかった。
『……、あ、そういや忘れてた。俺はヒダマリ=アキラ』
昨今世界を賑わせている、勇者様。
噂や、姉からの手紙で、それとなく人となりが分かっていたつもりだったが、思ったよりは、冷静そうにも見えた。
『マリサス=アーティ。マリーっす』
『マリ……ス? か。よろしくマリス』
『……いや、』
『じゃあ、みんな起こすか?』
『明日でいいでしょ。もうこんな時間だし』
彼の瞳の奥を見ようとしていて、つい反応が遅れてしまう。
呼び名を訂正する機会は失われたようだった。
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
その出逢いが終わった翌日、マリサス=アーティは、高い塔をぼんやりと見上げていた。
休暇ということで訪れた故郷を模したらしいこの町は、存外に広かった。
だが残念ながら、この『初代勇者様が現れたとされる高い塔』を模造した建造物以外この町に特徴と言える特徴は無く、それも自分の故郷が本家本元ともなれば、この町でマリスの関心を引くものは無くなってしまう。
マリス自身は別に休暇を取ろうとは思わなかったのだが、所属している隊そのものが休業ではどうしようもない。
自分の部隊は特殊で、“あの場所”の調査が主な職務内容だ。
そうした試みはこれまで幾度か行われていたようだが、自分の部隊は探索範囲、生存率共に高水準で、魔導士隊の上層部が味を占めたのか頻繁に出入りすることになってしまっている。
そんな事情もあり、優遇されているのか、都度都度長い休暇が与えられる。
マリスにとってはその休暇を潰す方が難題で、今回の休暇は、めぼしいものを読み潰してしまった魔導士隊の図書館を離れ、噂には聞いていたこの町に訪れたのだった。
この塔を見上げ、到着してすぐに有意義な休暇は諦める羽目になったが、まさか昨夜姉と再会できるとは。
職場とはまるで違う平穏な街並みを眺めながら、マリスは故郷を思い起こし、大きく息を吸った。
「ねーさん。散歩っすか?」
「マリーを探してたの」
手を振りながら現れたのは、姉のエリサス=アーティだった。
こうしてぼんやりとしていると、いつも姉が声をかけてくるような気がする。
少し困ったような、少し怒ったような、心配そうな優しい声色だ。
久しぶりの感覚を味わっていると、エリーは塔から離れたベンチまで自分の手を引いた。
「!」
「久しぶり」
座ろうとしたら、いきなり抱き着かれた。
もがくが、腕力は姉の方が上だ。
されるがままにしていると、彼女はようやく拘束を解き、自分の顔を、本当の真正面から覗き込んでくる。
「昨日はあんまり話せなかったから。無事で良かった……。良かったよ、マリー」
思い出したように涙ぐみ、夢ではないと確かめるように何度も自分の眼を擦り、姉は全身震えていた。
マリスも姉との再会は何度も願っていた。だが姉のように、感情的にはなれなかった。
「手紙はぷっつり来なくなるし、そうかと思えばいきなり会えるし、もう、ああ、ダメだあたし、立ってらんないや」
ゆっくりとベンチに座る姉に倣って自分も腰を下ろす。
手紙は何度も出してはいたが、どうやらヨーテンガースの関所を通れなかったらしい。最近の手紙は、今頃あの港町のどこかにでも重ねられているのだろう。
姉は未だに、寒さに耐えるかのように震えている。
随分と心労をかけていたようだ。
不遜な言い方かもしれないが、事実として、姉はマリサス=アーティを心の底から心配してくれる数少ない人物だ。
朝から自分のことを探し回っていたのだろう。
昨夜、ろくに話もせずに去った自分は、姉の心労をさらに増やしたのかもしれない。
姉は最後に自分の顔をじっと見つめてきて、息の塊を吐き出した。
優しく笑う姉を、自分の気持ちをまっすぐに出せる姉を見て、少しだけ自分の心が痛んだ。
「ねえマリー、後どれくらい一緒にいられるの?」
「細かく考えてはないっすけど、しばらくはいると思うっすよ」
そう言った途端、姉の表情がぱっと明るくなった。
姉は本当に表情がころころ変わる。
姉と再会しなければ明日にはここを出ていただろうが、わざわざ言うこともないだろう。宿に話を通さなければならないが。
「今日は時間ある? みんなに紹介したいんだけど」
ひとしきり喜びの笑みを浮かべたあと、姉は思い出したように切り出した。
そういえば、とマリスも思い出す。
姉、というより“彼ら”は今、七曜の魔術師として比喩なく世界を救う旅をしている。
姉からの手紙には、幾度か自分に月輪の魔術師として力を貸して欲しいと書いてあったのだ。
そこまで姉が意図したかは分からないが、そのみんなとやらに会うのは、面通しにもなるのかもしれない。
自分は、といえば。
満更でもない、というのが答えになるだろう。
姉の頼みというのが一番大きいし、やることも今所属している魔導士隊の職務内容と大まかには同じなのだから大きな問題なく彼らの旅に加わることができるはずだ。
流石に報告要るだろうが。
「それならねーさん。一応話をしておかなきゃいけない人がいるんすけど」
「……え、なに」
姉の表情が強張り、そしてしばらくすると、ほっとしたように手を打った。
「……あ、そういうこと。違うわよ。勧誘とかじゃなくて、今日はただの紹介ってつもりだったの。あたしの自慢の妹のね。びっくりした……、同じ魔導士隊の方々に話、ってことね。……恋人でもいるのかと思ったわ」
久々に見る姉の早とちりは相変わらずだった。発想が飛躍しやすい。いつも反応に困ることを言う。
昔からそうした慌てふためく姉の姿をよく見てきた。
そしてそのたび、姉が大切そうに抱きしめてきてくれる気がする。
そうした自分たちを見て、大人たちはよく、妹想いの姉のことを記憶に刻んでいるようだった。されるがままにしているだけの妹を、彼らはどう記憶していたのだろうか。
自分も姉のことをよく想っている、と思う。
同じ顔で、同じ身体で、きっと同じように想っていると思うのだが、姉の様子を見ていると自信が無くなってくる。
「恋人……、って。いないっすけど、それ、どちらかと言えばねーさんの話じゃないっすか」
手紙で知ったことを口に出して、少し後悔した。
昨夜会った、“百代目勇者様候補”のヒダマリ=アキラ。異世界来訪者である彼は、来訪した途端、我が姉の憧れの魔術師隊の入隊式を台無しにし、あまつさえ婚約する羽目になったとか。
自分の知る姉なら、それこそ人生の終わりを思わすかのような絶望の表情を浮かべるほどの大事件だ。
姉にとって苦い記憶だろう。
だがふと思い出す。
その話を知ったとき、マリスは怒りとも悲哀とも形容しがたい気持ちになり、同時に、わめき散らすように書かれた姉の手紙の言い訳で、思ったほどは姉が傷ついていないことも知ったのだった。
その人物の存在を知ったのはそれが最初で、それからの姉の手紙にも、必ずと言っていいほど登場している。
ヒダマリ=アキラは、マリスにとっては想像の中の存在で、しかし想像できるほど知った人物だ。
だが、昨夜会った彼からは、妙な感覚を覚えた。
姉が手紙から思い描いた彼と、自分が直接会った彼の人物像が、妙に重ならない。
単純で、思慮に欠け、しかし仲間想いで、柔和な勇者様。
マリスはそんな想像をしていて、確かにそんな印象は受けた。
だが、柔らかく暖かな光に包まれている中、マリスの頬に冷たい何かが触れたような小さな違和感が心の片隅に残っている。
マリスは姉の言葉を待ちながら、ふと高い塔を見上げた。彼は“初代勇者様”と同じく、塔の上から落ちてきたらしい。
「……ね、ねえ、マリー」
「?」
「そ、そういう風に……、見えた、かな?」
「…………」
姉は表情がころころ変わる。そんな姉が、初めて見る表情を浮かべていた。
下唇を噛んで俯き、自分の膝をじっと見つめた姉の身体は、心なしか少し震えていた。
顔は全く同じなのに、自分が決して浮かべられない表情をする我が姉が、妙に遠くに感じた。
「え。ねーさん。え」
「や、ちょっと待って。えっと、違うの。そうじゃない、……こともないけど」
「い、いや、そういう意味で言ったんじゃなくて、ヒダマリ=アキラさ……、にーさんとは婚約していることになってるんすよね、って意味で」
「なんで今言い直したの……。まあ……、その、いいけどさ」
ぷくりと膨れたエリーの様子を見て、幼い頃に見た遠くに飛んでいく赤い風船を思い出した。
これはますます反応に困る。
きっと喜ばしいことなのかもしれないが、相手はあの、自分が違和感を覚えた人物なのだ。
彼を見る目は、もちろん長らく共に旅をしてきた姉の方が優れているはずなのだが、やはり気になる。
マリスとて馬に蹴られたくはない。だが盲目とも言う。
肉親として、もう少しくらい彼を探っておきたくなってきた。
「……ねーさん。月輪の魔術師、探してるんすよね?」
「……そう、だけど。いいの?」
「駄目っすか?」
「ううん、もちろんいいよ。でも、魔導士隊のこととか」
「大丈夫っす」
話は通す必要があるが、マリスにとってある意味“あの地”より興味深いことが現れたのだ。
そもそも魔導士隊に対してもそこまで強い興味があるわけでもないのだから、最悪退職したって構わないと思っている。
姉と共にいたいというのもあるが、直接会って話をして、この姉から目を離すのは危険なような気もしてきたのだ。
そう思って可能な限り明るく言ってみると、エリーは小さく頷いてくれた。
「……うん。あたしもマリーが来てくれるなら嬉しいよ」
ただ、最後に姉が浮かべた表情は、今度こそ生まれて初めて見たものかもしれない。
「でもさ、今はあんまり言わないであげてね。月輪の魔術師って言葉」
―――*―――
彼ら彼女らと共に過ごす日々に、マリサス=アーティは、頭を悩ませていた。
人が最も多く抱える問題は、人間関係だという。
どんな悩みでも、煎じ詰めればほとんどの場合、人間関係に行きつくのだから当たり前なのだが。
マリスはそうした問題を、酷く面倒なものだと認識している。人とは、適度な距離感を保っておくのが心労を減らすコツだ。気質としてもひとりが好きなのかもしれない。
一方姉は、そうした問題によく巻き込まれるというか首を突っ込むというか、色々な人間関係の悩みに囲まれがちで、昔も今も、マリスは心の底から感心していた。
馬鹿にしているつもりはない。きっと姉の方が正常なのだろう。
だが、いや、だから、だろう。双子の姉がそうなのだから、関わってしまえば、自分もきっと、そうした面倒事に巻き込まれるようになる。
元を立つとでも言うべきか、マリスはそうした人間関係から一歩引いた位置にい続けた。
そして昨今はというと、マリスは本当に珍しく、だが案の定、特定の人物を頭痛の種としていた。
彼らと出逢ってから数日が経ち、現在は故郷を模したカーバックルから南東に位置する小さな村を拠点に活動していた。
小さい、とは言っても、ヨーテンガースの南部の町や村はごく例外の地域を除き、それなりに重要な拠点であり、規模もアイルークの田舎町とは比較にならない。
ここに住んでいるのも、魔導士隊の関係者や何らかの技術開発に携わっている者が少なくはないだろう。
この町に腰を据えても、ヨーテンガースを旅する上での情報収集くらいは十分にできそうだった。
マリスにとっての初めての旅が始まり、ここ数日ドタバタとしていたが、本日は定期的に定められているらしい休業日とのこと。
皆思い思いに過ごしているのだろう。
この村では時折ヨーテンガースとは思えないほど呑気な牧畜業の鳴き声が耳に届く。
マリスにとってはこの村の方がカーバックルよりも故郷の情景を思い起こさせ、そして同時にそれはやることが無いことを意味していた。
ここ数日を振り返る。
旅は、思ったより楽しかった、と思う。
たった数日で何を言っているのかと言われるかもしれないが、依頼所へ向かい、依頼主と話しをし、やるべきことを自分で考えるというのは、実は思ったよりも性に合っていたのかもしれない。
大して気にはしていなかったが、魔導士隊と違い、そういう制限が無いのはなかなかに開放感がある。気づかないうちに仕事のストレスというものが溜まっていたのかもしれない。
勇者の旅に同行する旨の手紙を送ったときはどう転んでもいいと思っていたのに、昨日許可された返信を受け取ったときは喜びの感情が浮かんだので、やはり自分は、こちらの生活の方が好きのようだ。
きっと旅の魔術師も旅の魔術師でいろいろと悩みや不満があるのかもしれないが、最初に思いつく金銭面の問題は貯えがあるおかげで頭を悩ます必要はなさそうだった。
だから、今、マリスは頭を悩ましていた。
ここ数日を通して分かったことがある。
この面々と、“ヒダマリ=アキラ”という存在だ。
姉のように皆の感情を尊重し、旅を円滑にしようとする者。
己も他者も律し、誤った道に進ませない者。
他者との繋がりを大切にし、親密な関係を築き続ける者。
思慮に長け、全体の不足を補えるように立ち回れる者。
単なる馴れ合いを許さず、適宜警鐘を鳴らす者。
そして。
飄々としているようで、流石に勇者様と言うべきか、この面々を率いているのは彼だ。
その軸とも言うべきヒダマリ=アキラという存在が、マリスの悩みの種だった。
彼に対する感想を、端的な言葉で表すと、何になるだろう。
初めて浮かんだ感情かもしれないが、最もしっくりくるのはこれだ。
『怖い』
姉が好意を寄せる男を見定めようと、ここ数日目を光らせていたのだが、マリスが得られた情報はほとんどない。
具体的に何が問題なのかは分からない。だが、車輪の中央に歪が入っている馬車に乗せられているのに、変わらず道を進み続けているような、浮遊感のような悪寒が脳裏を支配して離れない。
彼には妙な現実感の無さがある。どうしても、彼を信じ切れないのだ。
そんなことを考えながら宿から出ると、通りの向こうに、まさしくその悩みの種が歩いていた。
「……マリス。お前もなんか用あるのか?」
「……。いや、にーさんを見かけて。何してるんすか?」
「俺? 俺はほら、身体動かそうと思ってさ」
件の人物、ヒダマリ=アキラは、直接話してみると、軽薄そうであり、人畜無害そうでもあるような人物だ。
ここがヨーテンガースということを考えると、道行く民間人の方がもう少ししっかりしているような気もするのが益々彼の現実感の無さを思わせる。
彼がのんびりと指をさしているのは、遠目に見えるこの町の出口だろうか。外に出るつもりらしい。
ヨーテンガースの魔物は一切侮れない。そんな理由なら村の中の公園でも駆け回っていろと言いたくなったが、アキラはそんなマリスの様子に気づかず呑気に肩を回している。
こちらの毒気も抜かれるほどの緊張感の無さだった。
「依頼でも請けたんすか?」
「ん? あ、そうか。依頼でも請けりゃよかったのか。……まあ、今日はいいか。じゃあそういうわけだから」
「……一応自分、魔導士なんすよ」
「? ……、あ。一緒に来るのか?」
休職中とはいえ、相手が勇者様だとはいえ、軽装備でヨーテンガースの町の外へ向かおうとする人間を魔導士が見過ごしたら色々と問題になる気がする。
少し困ったように頬を描いた彼は、それでも同行を許してくれたらしい。
「旅には慣れたか?」
町の外への歩みを進めながら、彼は気軽に聞いてきた。
自分は無口な法で、世間話をすることはほとんどないのだが、何故か彼の問いかけには答えを返さなければならないような気がしてくる。
マリスはこくりと頷いた。
「困ったことがあったら言ってくれよ。みんな頼りになるからな」
困ったことはまさに今あるのだが、それ以外の問題ごとはほぼ解決している気がした。
その言葉をここ数日で何度聞いたことか。
というのも、ここ数日、自分が困り出す前に、彼らの仲間のひとりがそれこそ四六時中一緒にいてくれて、あれやこれやと世話を焼いてくれたからだ。
今日はと言えば、いよいよ頼みごとのネタが無くなって、宿屋に潜んでいたほどだった。
「……ティアにも悪気はないんだ。許してやってくれ」
きっと同じ人物を頭に浮かべたのだろう。
彼は頭痛を抑えるように額に手を当てていた。
自分にとっても頭痛のタネになりつつあることではあったが、一方で、彼女にはそれ以上の感謝はしている。
この面々の内情をこの短期間で詳しく知れたのは彼女のおかげだ。
だが、その彼女を介しても、ヒダマリ=アキラという存在の違和感は拭えていない。
今日は意味いい機会だ。彼と直接話せば、何かが分かるかもしれない。
「旅のことなら、そうだな。サクとはもう話したか? あいつずっと旅してるから色々知ってるし」
「にーさんも長く旅してるっすよね?」
「俺なんかサクと比べたら短いよ。あいつこの前、方向も分からないような樹海の中で、獣道とか見つけて道案内してくれたんだぜ? 俺ひとりじゃ今でも迷ってたね」
自信満々に情けないことを言う。
だが彼はこの場にいない人物にも心から感心しているような表情を浮かべていた。
「旅慣れていると言えば……エレナもか。長く旅しているの。まあ、ティアと同じで初めて着いた町とかならあいつに聞くと色々教えてもらえるよ。……本当に色々な」
「じゃあこの町のこと、にーさんも教えてもらったんすか?」
「少しな。……真似するなよ。さっきの道入っていくと、呼び出さないと店員が奥から出てこない店があるらしい」
「……」
反応に困ることを言う。
マリスの職業を思い出したのか、アキラはすでに謝りに行っていると慌てて弁明してきた。
すでに彼女の様子は聞いていた話だったので、今更どうこう言うつもりもないが、それよりも、自分がしたい話を有耶無耶にされている方が気になった。
「ま、あとはイオリか。魔導士同士だし、話合うんじゃないか? 分からないけど。あいついつも大変そうだからな……。手伝おうとすると断られるし」
彼女たちの様子は、彼から聞いても、知っていた情報と相違はなかった。
だからこそ、どちらかというと、ヒダマリ=アキラの話を聞きたかったのだ。
彼と話をして分かったのは、彼は仲間の話をよくするということだった。
それは同時に、彼自身の話はあまりしないということになる。
もしかしたら、上手くはぐらかされているのだろうか。
そう邪推したが、それ以上に、彼女たちの話を表情豊かに語る彼の邪魔をすることは憚られた。
「……みんな、凄そうな人ばっかりっすよね」
「ん? ああ、そうなんだよ。みんな凄いんだ」
マリスがポツリと呟くと、彼は嬉しそうに笑ってみせた。
捉えどころのない、ともすれば不気味に感じる彼だが、時折こうした様子を見せる。
ひとつだけ分かったのは、どうやら彼は彼女たちのことを本当に好きなようだった。
「……」
姉の言いつけを守ることにした。
彼から覚える違和感を探るために、自分が用意してきた話題がある。
だが、これだけ仲間想いの彼に、その話を振るつもりはとっくに失せていた。
少し調べたら、すぐに分かったことがある―――ヒダマリ=アキラは旅の途中、月輪の魔術師を失ったらしい。
「でも、お前もやばいんだろ?」
「え?」
「聞いたんだけど、魔王の牙城を襲撃してたってんだから」
「なんか色々表現が気になるんすけど」
「あんな地獄で魔族や魔物を根絶やしにしてるなんてぶっとんでんな」
「足りないって意味じゃなくて」
精一杯睨んでみたが、彼は軽く笑っていた。
つい口を滑らしてしまい、姉が大騒ぎした数日前の出来事で、彼の中に自分はどういう存在で刻まれたのだろうか。
自分がやってきたことは事実そうなのかもしれないが、何かよからぬ印象を与えている気がする。
だが、目を輝かせ明るく笑う彼を見ていると、訂正する気も起きなかった。
「それにさ、魔導士の仕事って戦闘だけじゃないんだろ? 調査とか報告とかの雑務も山積みで、休暇だって呼び出されるって聞いたぜ? 滅茶苦茶忙しいだろうに、悪かったな、付いてきてもらって」
「……。……大丈夫っすよ」
言えない。
仲間の魔導士から直接聞いたのか、それとも姉から聞いたのか、彼も魔導士という職については理解があるようだ。
彼の言う通り、魔導士の仕事はただ戦っていればいいというものではない。
一時の勝利など魔導士隊にとっては些末なことで、それを常勝にするためには、調査分析報告が非常に重要だ。
だが自分はといえば、ほとんどそちらには携わらず、もっぱら少年少女が思い描く戦闘ばかりに明け暮れる魔導士生活を送っていた。
戦闘ばかりしていた自分は、雑務について他の面々の多大なサポートを受けていたりしたのだ。
しかも今は休暇から休職にシフトし、あまつさえ魔導士隊から離れられた今を楽しんでいる。
姉や仲間の魔導士が守ってくれたであろう魔導士隊のイメージを崩すわけにはいかなかった。
それに。
「まあ、お前から見ればのんびりした旅だろうけどさ。手伝ってくれて助かるよ」
彼の、自分にも向けられた、仲間に対する明るい表情を、少しでも崩したくないと思った。
「……あ」
「ん?」
「……いや、何でもないっす」
「そうか。……そろそろ魔物とか気を付けないとな」
ヨーテンガースは僅かな油断が命取り。知り尽くしていたはずの自分がポカをした。
気づけば村の出口に辿り着いていた。
彼との会話に気を取られ、いつの間にかここまで来てしまっていたらしい。
本当は魔導士としてここまで来たら彼を止めようと思っていたのだが、今言い出したら気づいていなかったと思われるだろう。小さなプライドが邪魔をして、自分も同行して外に出ることにした。
ここから先は流石に油断禁物だ。
例え魔力が高くとも、不意を突かれたらひとたまりもないのは誰でも同じだ。
感覚的に魔力を広げ、索敵する。
村の近くとなると防衛機能が働き、流石に魔物の気配はないが、しばらく歩いた先の樹海は別だ。
一定以上の魔力を持った集団を感じる。向こうもこちらの様子を伺っているようなので、“知恵持ち”でもいるのだろう。
彼はといえば、感じ取っているのかいないのか、そちらに向かって真っすぐ歩き続けていた。
一応自分は周囲を警戒し、何が起きてもすぐに対応できるように気を張っているのだが、彼は村の中と変わらぬ様子でいる。
勇者様とはいえ民間人である。職業的にその道のプロである自分の方が緊張しているようで、これもまた面白くなかった。
「……」
「……」
特に会話が無い。
自分はよく無口だと言われるが、こうした気まずさを覚えたのは初めてかもしれなかった。
村の中と外は違うのだから当然と言えば当然。
しかし、彼との会話を続けたいと思ってしまう。
姉のためにも、彼を探らなければならないのだから。
沈黙を自ら破りたいと思ったのは、もしかしたら初めてかもしれない。
それゆえに、どう切り出せばいいのか分からなかった。
「……そういえばさ」
救われたような気がした。
彼は村の中と変わらぬ声色で呟いた。
「どうしたんすか?」
「いや、聞いてなかったと思ってさ」
縋るような気持で言葉を待つと、彼は、やはり変わらぬ声色で、言った。
「マリスは、月輪属性の魔術師になってくれるのか?」
「ふえあ?」
変な音が出た。今のはなんだ。自分の口から出たのか。だとしたら今日という日が人生で一番の奇声を上げた日となってしまう。
慌てて口を押えると、彼はぽかんとして足を止めていた。
こちらが気を使っていたというのに、当の本人はさほど気にもしていないかのような、のんびりとした声だったのにも面食らってしまう。
こういうところだ。
自分がおよそ想像した行動を彼は取らない。それなのに、表面上はまるで人畜無害な様子なのだ。
それが彼の妙な現実さの無さに、そして、怖さにもつながっているのだろう。
「……ど、どうしたんすか、急に」
「……」
彼は僅かに笑いながら、動揺が落ち着かない自分をじっと見つめてくる。
彼の瞳の色が濃いような気がした。
マリスはジリと後ずさった。
おかしい。今まで彼から感じなかった、顔を覗かれることの苦手意識が昇ってくる。
「いや。双子だなって思ってさ。……よく似ているよ」
不思議と、初めて彼の声を聞いた気がした。
誉め言葉のはずだった。
「……」
頭を軽く振り、気を取り直して歩き始める。
もう町からは出ているのだ。気を落ち着かせようと深く息を吸う。
先ほどから妙に自分のペースを保てない。
もしかしたらと思いついたのは、月輪属性は日輪属性の影響を受けやすいという眉唾物の噂だった。
「笑って悪かったよ。まあそんなに気にすんなって、面白かったし」
機嫌を損ねたと思ったらしく、多少は笑いを抑えながら彼もついてくる。
彼の推測通り自分の機嫌は悪くなっているし、謝ってくれているのだが、今まで以上に機嫌が悪くなった。怒りに近づいているかもしれない。
また彼を睨んでみると、軽薄そうな表情のまま、首をかしげるだけだった。自分も怒った表情を作るのが苦手なのかもしれない。件の彼女とは違い、自覚したが。
「月輪の魔術師」
「ん? ああ、そうそう」
「自分でいいんすか?」
話を戻すと、彼は、自分が言わんとしていることを察したようだった。
しかし悩む素振りも見せず、微笑みながら頷いた。
「ああ、勿論。ありがたいよ。……前の月輪の魔術師のことは、知ってるのか?」
「少し調べた程度っすけど」
「……そう、か。でも、今度はなんとかなると思う」
また意外だった。
彼はもっと仲間に執着するタイプの人物だと思っていた。
それなのに、他人任せのようないい加減な言葉を吐き出し、その上で、声色からは正の感情も負の感情も感じ取れない。
ぞっとするような、何でもない何かが、マリスの耳から入って抜けた。
「勇者様なんすよね。そんな適当でいいんすか?」
背筋がひりひりと冷えながらも、彼に応答する。
触れてはならない何かが、目の前にあるような気がする。
それでも逃してはならない。それが彼の違和感の正体だという確信だけはあった。
「ああ悪い。また怒らせたか? でも、しょうがない」
流石にここまで近づけば嫌でも気づいた。
目指していた樹海の入り口。
この辺りに巣を作ろうとでもしていたのか、襲い掛かるというより追い返そうと身構える魔物が木々の隙間に数体見える。
マリスは構えようとしたが、彼はそれを制すように、ゆったりと抜いた剣でマリスの前を塞ぐ。
「どうなるかなんて……―――“俺が知るわけないだろう”」
そして。
その日は、マリスが人生で一番の大声を出す日となった。
―――*―――
その日々が終わりに近づいてきたとき、マリサス=アーティは、ベッドで蹲っていた。
数日前までいた町からやや南東に位置するこの村は、いよいよ“あの地”に近づいているということもあり、住居はほとんどない商業都市だった。
ヨーテンガースによく見られる物々しい外壁のようなものは無く、むしろアイルークにあるような町々のように開放的な外観をしている。
この大陸の“入口”である港町ほどではないが、日用品から趣向品、あるいは各地の名産までひと通り取り揃えられており、金の巡りを証明するように積み荷を乗せた馬車の出入りが頻繁に行われていた。
やや騒がしいが、もしここに住むことが出来るのであれば快適な都市なのであろう。
演劇や酒場などの娯楽施設も整っており、退屈さを感じさせないところはシリスティアの大都市に似ていた。
華やかな街並みではあるが、しかし、町を訪れる客の服装が影を落とす。
マリスは、この町のことも、この町が何故ここまで賑わうのかも、この町の外壁が薄い理由も知っている。
ここは、“あの地”に携わる魔導士隊のためにある都市なのだ。
気が狂いそうになるあの激務の合間に、少しでも現実を忘れられるように設けられた娯楽の都市だ。
ここから先の都市は、外壁のような防衛策をほとんどしていないだろう。
ヨーテンガースの魔物だとしても、並みの魔物はそもそも出現しないし、仮に“あの地”から何かが流れてきたら、そんなものは何の役にも立たないのだから。
ちらりと窓から外を見る。
共に旅する仲間たちは、相変わらず思い思いに町を散策しているのだろう。
「マリー? 具合でも悪いの?」
「そういうわけじゃ……、ええと、知り合いに会うかもしれないから大人しくしていようと思って」
ドアから心配そうに顔を覗かせる姉に、取り繕うように言葉を返す。
姉は自分の部屋でもあるのに入りもせず、じっとこちらの様子を伺ってくる。
返した言葉は本当だ。
この町には魔導士隊の仲間に案内されて来たことがある。
我を忘れたように遊ぶ彼ら彼女らのようには自分は楽しめず、いつも以上に距離感を覚えたのは苦い記憶だ。
そんな彼ら彼女らと出くわしたら、またあの何とも言えない、自分の居場所を拒絶されたような虚無感を味わうことになるだろう。
だが、正確な言葉だったこと言われると、マリスは自信を持って違うと言える。
そんな気分ではないのだ。数日前から。
そしてそんな表面だけの理由は、当然のように姉に看破された。
少し怒ったように、そしてやはり優しそうな表情で、姉はゆっくりと部屋に入ってくる。
「あいつと何かあった?」
「……そう見えるっすか?」
「それもあるけど……、変なことになるときは大体あいつが原因よ」
彼女たちの長い旅の中では今の自分のような光景は頻繁にあったようだ。
そしてそのたびに、世話焼きの我が姉は首を突っ込んできたのかもしれない。
「……。にーさんから何か聞いたんすか?」
これ以上言葉を濁しても姉の心労を増やすだけだ。
渋々、しかしそれでも最後の抵抗で回りくどく聞いてみると、姉は肩を落とし、頭を抱えた。
「ここ最近マリーの様子が変だったから聞いてみたら……、なんか、怒られた、とか言ってた」
彼らしい言葉選びだと思った。
だがしかし、そう言われて、自分の感情が怒りに似ていたことも自覚した。
姉は少し困ったように顔を覗き込んでくる。
昔から、自分が部屋に籠っているとやってくる姉は、いつもこんな表情を浮かべている気がする。
自覚はしている。大体こういうとき、自分は機嫌が悪いというか、へそを曲げているときだ。我ながら恥ずかしい記憶だが、姉とお揃いの髪飾りを壊したときや楽しみにしていた祭りが雨で中止になったときなど、幼い頃の思い出は今でも鮮明に覚えている。
そしてそんな姉に気持ちを吐き出すと、不思議と気持ちが楽になることも覚えていた。
「……何日か前、にーさんと町の外に行ったんすよ。なんか身体を動かすとかなんとか言っていて」
話し始めると、またか、と言わんばかりに姉は頭を押さえた。
「それで魔物を見つけて戦闘になったんすけど……、あれは、何なんすか」
整理して、数日前のことを話してみようとしたが、失敗した。
上手く言語化できない。
数日前のことを説明できないとは、自分の事務能力はここまで低いのか。
自惚れなく魔力関連の才能は優れていると認識しているが、それ以外はどうも振るわないようだ。
一方姉は、それだけの説明で今度は深刻そうに頭を抱えていた。
姉の方がその辺りの能力を持っていってしまったのかもしれない。
姉はベッドに座り、顔の高さを合わせてきた。
「……マリーから見てどうだった? あいつ」
素直な感想を求められ、マリスは冷静に数日前の様子を思い出す。
魔物を見つけ、彼が剣を抜いた後の出来事だ。
「……暴走」
発した言葉は、彼にも言ったかもしれない。
そして同時に、それがすべてを表していないことを、あのときも思った。
マリスを制し、魔物に向かったヒダマリ=アキラは、見事にすべての魔物を撃破して見せた。
だが、その先頭を遠巻きに見ていた自分は、本当の意味での恐怖を覚えた。
魔導士隊に、というより一般的に広く普及している戦闘方法は遠距離戦だ。離脱という選択肢を常に残すのは危機管理能力の証明である。
勿論近接戦が得意な者もいる。
だが、そうした者に要求されるのは立ち回りの能力だ。
敵の位置には常に気を配って一定の距離を保ち、背後には細心の注意を払い、決められると思ったとき以外は接近しない。
離脱の選択肢を常に残し続けられるかが生存に、そして勝利に直結する。
だが、彼の戦い方は、それと真逆だ。
ヨーテンガースの魔物だというのになんの抵抗もなく集団に飛び込み、囲まれても退路を探さず、より危険な地点へ向かい続ける。
一見、この面々の中にもそうした戦い方をしているように見える者もいるが、彼女たちはそうではない。
金曜の魔術師はどの位置にいても離脱可能な速力を持つし、一番強引に見える木曜の魔術師はある意味誰よりも離脱手段に敏感だ。
彼女らは“知恵持ち”のような魔物たちが退路を塞ごうとした瞬間に察し、即座に次の手を打つ瞬発力と危機管理能力を持っている。
だが彼は、そこまでの速度も状況判断能力も持っていない。
ただ単純に、最も近い敵に向かって突撃していくだけのように見えた。
結果として彼は無事ではあったのだが、ここまで旅を続けてこられたのが不思議なほど、運任せの戦闘だった。
だから自分は、思わず危険だと思わず叫んだ。
だが彼は、何も変わらず、すべての敵を倒したあと、冷めた瞳で見返してきただけだった。魔物の牙か何かで割かれたのか、血を流す腕を庇うこともなく。
人生で一番の大声を出す直前のことだ。
「あんなの、死にに行っているようなものっすよ。魔物に飛び込んで、怪我までして、運よく生き残って……、それなのに、にーさん別に気にしていないような顔をしていて」
だから怖かった。
あんなのは最早素人だ。戦場で一番先に命を落とすような人間だ。
それなのに前線に立ち、自己を顧みることもなく暴れ回り、生き続けている。
戦闘狂のようなタイプなのかと思えばそうでもないようだ。
身体を動かしたいと言っていただけなのに、あの狂人は、打倒した魔物についても、血を流す腕についても、何も思っていないようだった。
自己の身も戦果も無関心ともなれば、いよいよ彼のことが不信を通り越して不気味に思えてくる。
まさに何事もなかったように、怒鳴りつける自分に対し、大丈夫だったかと言ってきたのも怒りに拍車をかけたような気がする。
やはりあまり怒り慣れていないから、伝わらなかったのだろうか。それが悔しく感じるほど、マリスは胸の底からカッと熱くなったのを感じていた。
なんとか話してみると、目の前に、自分の顔が怒ったときにどういう表情を浮かべるべきなのかのお手本があった。
姉はまず、自分の顔をじっと見てきた。
「それ、あたしがマリーにも思ってることよ」
「え……、いや自分は、」
言いかけて、口淀んだ。
魔物の群れに飛び込んで、特に気にした様子もなく返ってくる。
自分の行動もそんな風に見えるらしい。
あれはいつのことだろう。昔姉に強く怒られた。
言い訳をさせてもらえれば、彼ほど酷くないし、自分は自分なりに考えているつもりだったのだ。
だが、姉にそう言って、そういうことじゃないとさらに怒られた。
力いっぱい抱き締められながら、姉の体が震えていたこともよく覚えている。
双子の片割れだと思っていたこの人が、姉なのだと強く認識したのは、そのときからかもしれない。
「マリーも分かった? 見てる方は不安なの。本人がどれだけ平然としてても、ううん、平然としている方が心配なのよ」
「……心配なわけじゃないっすけど」
話を逸らすように否定した。だが、嘘ではない。
あのとき彼の行動に対して覚えた感情が心配だったかと聞かれると、おそらく違う。
期待を損なわれたような、予想を外されたような、形容しがたい何かだ。
「それでもさ、無茶なことしてると、止めて欲しくなるの。分かるでしょ?」
姉の言っていることは、よく分かる。
たまに不安になるが、何せ双子だ、姉も、自分も、感じているものは同じなのだと思いたかった。それを表に出せるか出せないかだけが違うだけなのだと。
上手く感情が表情や言葉に出てこない自分に対して、姉はお手本のように表現してくれる。
「だからマリーも無茶しないでね」
釘を刺すように姉は言う。
それを素直に受け取ったつもりだった。今も、昔も。
だがそれでも、姉は変わっていないと思っているらしい。
事実そうだった。
今も、素直に聞く自分と、それを冷静に捉える自分がいる。
姉は優しすぎる。
無茶をしなければいけないときだってあるのだ。それがヨーテンガースともなればなおさらだ。
彼らの旅のように世界を救うなどという大義は持ち合わせていないが、自分は姉に、平穏無事に暮らしてもらいたい。
だから降りかかる厄災は、可能な限り払いたいのだ。
その姿が周囲から無茶な様子に捉えられても、自分が優先すべきことはそれだ。
昔は再三注意する姉を不遜にも疎ましく思っていた。皆のために奔走していたというのに怒られるのではやっていられない。だが、それが心配してくれているからだと気づくと、逆に、自分を奮い立たせる言葉に聞こえている。
逆効果だと冷静な自分は捉えていた。余計に被害に遭わせるわけにはいかないと強く思ってしまう。その結果姉が悲しんだとしても、自分がやるべきことは変わらないのだ。
だが自分は、それを上手く伝える術を持たない。
ただ静かに頷くだけを返すと、姉は心配そうにしながらも、優しく微笑んでくれた。
感情を表現できる姉が羨ましかった。
「でも、そうね。……あいつもね」
今度の姉は複雑な表情を浮かべた。
怒りとも悲しみとも表現できない、複数の感情が混ざり込んだ、マリスでは決して浮かべられそうにない表情だった。
「あいつさ、今ちょっと大変なんだ」
「前の月輪の魔術師のことっすか?」
姉は頷く。悲哀の色が強くなった。
「今までも似たようなことあったんだけどさ。……今回はちょっと根が深いの。そっとしておこうって思ってて……、ここまで来ちゃったけど」
姉は彼に対して、自分に接するようにできていないらしかった。
感情を、表情や言葉に出そうとして、失敗しているような姉の息苦しさが伝わってくる。
多分自分がいつも持ち合わせている感情だ。
「ねえマリー。お願いがあるの。あいつがさ、またそうやって危ないことしようとしたら止めてあげてくれない?」
「……自分が、っすか」
「目を光らせてくれているだけでいいから。ね」
魔王に挑もうとしている身で危ないことも何も無いのだが、姉の言わんとしていることが分かった。
だが、分かったからこそ、マリスは言い渋った。
姉は、あのヒダマリ=アキラを心から案じている。
昔からその庇護の対象は自分だったように思う。だが姉は、その自分に彼を守るように願ってきたのだ。
誇らしさと一抹の寂しさを覚え、一方で、冷静な自分は判断を下す。
暴走しているようにしか見えないヒダマリ=アキラだが、その力は流石に勇者を名乗るだけはある。いざというときに力ずくでも止められるのは、この面々の中ですら数えるほどしかいない。
静かに考える。
彼は、果たして姉に身を案じてもらうに値する人物だろうか。
姉からすれば同じように見えるらしい自分は、姉のためにその身を危険にさらすことをいとわない。
だが彼からは何も感じない。
言ってしまえば暴れたいから暴れているだけのように見えるのだ。
長らく共に旅をしていた姉や、あるいは彼女たちには、あの彼の冷えた瞳すら違って見えるのだろうか。
感じるものは同じはずの双子の片割れは、自分と違うものを感じ取っている。
自分もそれを感じ取る必要があると思って彼と行動を共にしてみた矢先に見たのがあの光景だ。
それでも姉は、彼を案じている。
「……にーさんの様子は気にしておくっすよ、ねーさんために」
「何か悪意のある言い方ね」
姉が睨み、そして笑った。
姉がどう思おうが、昔も今も、自分は姉を案じ続ける。
だから、自分の確信に近い黒い感情を隠して同じように微笑んだ。
やはり自分は、感情を表に出すのは下手だと思った。
引き続き彼を探る必要がある。
―――*―――
間もなくすべてが終わるそのときに、マリサス=アーティは。
現在、彼ら彼女らにとってはいよいよ、マリスにとってはまたまた、となる場所に到着している。
にぎやかな街を後にし、気が遠くなるほど何もない道で馬車を飛ばして進むこと半日。
草木も、虫も、人も、動物も、魔物すら見当たらない虚無の空間の先、外界の存在全てが距離を取る地域がある。
他の大陸と別格と言われるヨーテンガースの魔導士や魔物、あるいは魔族ですら恐れおののく禁断の地。
異次元とすら評される―――最後の地。
ファクトル。
ヒダマリ=アキラ一行が訪れたのは、ファクトルに隣接するように設置された魔導士隊の支部のひとつだ。
それこそ魔族に対抗すら可能な戦力を有するこの支部ですら、明日消滅していても誰も驚きはしないだろう。
そんな場所でも、あの悩みの種は、緊張感のかけらもなく、機嫌よさげに階段を下っていく。
「……マリス。お前もなんか用あるのか?」
「……。いや、にーさんを見かけて。何してるんすか?」
「俺は……、あれ、前もあったな、こんなやり取り」
勇者と言ってもこうした支部は特別な対応をしない。
だが、自分や仲間の魔導士の存在もあり、ある程度融通を利かせてもらったのだ。幸運にも宿舎を借りられ、馬車も提供してくれるらしい。今は各自、この地に入るにあたっての準備を進めつつ、天候に恵まれる日を待っているのだ。
決してここは宿屋でもないし、外は繁華街という訳でももちろんない。
当たり前のように支部の玄関に降りた彼は、特に気構えることもなく外に出ようとしたところで、マリスの咳払いに気づいたらしい。
「まあいいか。そっと外行こうと思ってさ。……それじゃ後でな」
扉で待機している魔導士のひとりが驚き半分怒り半分の視線をアキラに送っていた。
当の本人は気づかずそのまま外に出ていってしまう。
この魔導士隊の支部が勇者を、というより来訪者を特別扱いしないのは、当然わけがある。
怖いもの見たさと言うべきか。どれほど危険を訴えようとも、ファクトルの危険さは外で聞いている分には魅力に感じる者もいるのだ。
過去にどれほどの人間が自分を勇者と偽って訪れたことか。酷い例では、魔導士隊の支部の中で好きなように暮らし、結局そのまま帰っていった者すらいたそうだ。
勇者には最大限の敬意をと神の教えにもあるが、物資も乏しい中、この禁断の地の最前線でそんなことをしていては神の裁きなどより前に命を落とす。
かといって、関所のように封じていてはそもそも魔王を本当に倒せる者すら拒絶してしまう。
ゆえにこの支部はそのしきたりを大きく損なわない程度に止め、基本的には傍観者を貫いているのだ。
だからこそ、そこの門兵の気持ちも分かる。
魔王を倒せる勇者はそれこそひとり。“外れ”の可能性が高い男がこの場所で気ままに外に出ていこうとすれば、自分たちが命懸けで守っているこの地の危険をまるで分っていない阿呆にしか見えないのだろう。
マリスも気づかなかったふりをしてアキラを追った。
ギリギリ入っていないとはいえ、十分何が起こるか分からないこの場所で、あの男はまた外に行くらしい。
それこそファクトルに入りかねない。
姉の頼み通り、自分が目を光らせておかなければ。
「……この辺はもう魔物はいないのか」
「馬車で説明したと思うんすけど」
「いや、とはいえ多少はいるのかな、って思ってさ」
申し訳なさ半分、落胆半分の声色で彼は言う。やはり体を動かそうとしたなどという理由で外に出たようだ。
一応この地の足場や空気に慣れるという意味は多分にあるのだが、それは朝、全員で済ませたことだ。
勤勉なのは結構だが、彼がそうした行動をとると考え無しに行動しているようにしか見えない。
彼は、朝そうしていたように、軽く肩を回すと、おもむろに剣を振り始めた。
ビュッ、と鋭い風切り音が聞こえるたび、ファクトルが遠くに感じてくる。
姿勢もよく、剣の先はぴたりと止まる。身体は揺るがず、しなやかのようで力強い。
彼らと共に旅をするようになってよく見るその光景は、この地に来ても、何も変わらない。
剣のことなど分からないが、あの戦闘中の光景と違い、今目の前の光景は、彼が積み重ねてきたものが感じられる。
だがあの戦闘を実際に見たマリスは、酷く裏切られた気持ちになっていた。
鍛錬でこれだけの動きが出来るのであれば、戦闘でも当然のようにその力を発揮できるであろう。
あのときよりもずっと安全に、確実に、魔物を見事に撃破して見せただろう。
それなのに、彼はこの今の力からあっさりと目を背け、まさしく型破りの戦いを演じた。
この光景を見るたびに、マリスの中で、彼の不気味さが際立っていくのだ。
どれほどそうしていただろう。
彼も自分も一言も発さず、ファクトルの砂風をその身に受け続けた。
マリスはやはり面白くなかった。
彼といると、普段はむしろ好む沈黙が、大層居心地の悪いものに感じてくるのだ。
「いつまで続けるつもりっすか?」
「……ん。ああ、悪いな付き合わせて。俺なら大丈夫だ」
だからそういう訳にはいかないのだ。
まさに今自分に気づいたように事も無げに返す彼に憤りを覚える。
自分がなおもじっと見ていると、彼はようやく素振りを止め、額の汗を袖で拭うと剣を仕舞った。
「……そういや、この前悪かったな。なんか怒らせたみたいで」
そういうことなら今もまさに怒りを覚えつつあるのだが、彼は普段と変わらぬ表情で、いい加減に言葉を紡ぎ、自分の目を捉えてくる。
彼に顔を見られることの嫌悪感は、やはり上ってこない。
だが漠然と思った。というより、彼と数日過ごしていて覚えた違和感が、徐々に形を成していき、その先の結論がぼんやりと見えてきた。
これはきっと、好意的な意味なんかじゃない。
「悪いと思っているなら中に戻って欲しいんすけど」
「まだ日も高い。大丈夫だって」
軽くかわされ、彼は今度は足首を伸ばし始めた。
このまま会話が止まれば走り出しかねない。
ともすればファクトルに足を踏み入れかねない。
目の前の男の軽率な行動がいつか命に係わる事態を起こすと思っていたマリスは、まさにその決定的な瞬間に居合わせているように思えた。
「もう充分っすよ。これ以上するくらいなら出発に備えて休んでいた方がむしろ勝つ確率が上がるっす」
とりあえず彼を止めようとして、思わず上司のような言い回しをしてしまった。
言ったことは、半分嘘で、そして半分本当だった。
ファクトルはいくら準備してもし足りない。十全という限界など存在しないのだ。それこそ死に物狂いで鍛錬を積み続けるのは、つまりは彼の行動は、正しくもある。
だがその一方で、彼が現在持つ力というものもある。
若干トラウマになりかけているあの光景―――彼の戦闘は、過程こそどうあれ、ヨーテンガースの魔物を蹂躙して見せたのだ。
少なくとも戦闘力という点においては、マリスの目から見ても、仲間の魔導士の誰よりも高い。それはすなわち、ファクトルに入る資格を十分に持ち合わせているということになる。
正解というものが存在しないファクトルに対しては、数度入ったマリスとは言え、すべてを語ることはできない。所詮は結果論なのだから。
「……無駄かな、やっぱ」
「?」
走り出すのは思い留まってくれたらしい。
自嘲気味に彼は笑い、目を閉じる。
無駄、とは。彼の言葉の意味が分からない。
「まあ、いいんだけどさ。……そうだ、マリスはここによく来てたんだよな。改めて見ると酷い場所だな、大変だったろ」
「……なにが」
砂の音に紛らわせるようにマリスは毒づいた。
のんびりとファクトルを眺めるアキラはマリスにとって謎だらけだった。
友好的なようで自分のことは語らず。
柔和のようで人の話は聞かず。
温厚のようで激しい。
そんな矛盾だらけの彼に対して、マリスは確信に近いひとつの答えに辿り着いた。
今の自分の言葉も、彼には聞こえていて、そしてきっと聞こえないふりをしている。
「何も見てないっすよね」
聞き取れなかったと言い訳できないほどはっきりと言った。
彼は表情ひとつ変えずこちらに乾いた瞳を向けてくる。
やはり苦手意識は上ってこない。
それはそうだ。自分は姉との差を見つけられるのを嫌っている。
だから彼に、何も見ようとしていない彼に見られても、何も感じない。
「にーさんは何のために魔王を倒そうとしてるんすか?」
「ん? それはほら、俺は勇者だからな。世界平和のためだよ」
自分が言わんとしていることを分かっていて、彼は正しい不正解を返してきた。
彼は勇者で魔王を倒す使命を持つ。
そして彼の行動は、遠く離れた人々にはキラキラと輝いて見えるだろう。
先日の戦闘すら、自らの危険を省みず魔物を倒したという美談に変わる。
だが彼は。今ここにいる彼は、自分たちにとって遠く離れた存在ではない。
だから彼が発する言葉が、行動が、何の熱も持っていないことに容易に気づける。
「じゃあ、仮に魔王を倒した後はどうするんすか?」
「は、今は魔王を倒すことで頭いっぱいだ。それから先のことは世界が平和になってから考えればいいんだよ」
模範回答だった。
だからこそ、マリスは目の前の存在が気持ち悪くて仕方がなかった。
そんな作ったような表情で、そんな作られたような言葉を吐き出す目の前の存在が、異質に思えて仕方がなかった。
埒が明かない。この異常な人間に、自分の姉は好意を寄せているという。
今ほど、感情を表に出すことが苦手な自分が恨めしかった。
殴り付けたくなるほどの激情を、冷静な自分は止めてしまう。
「……マリスはさ、なんで魔導士になったんだ?」
どうしたものかと、とりあえず彼を精一杯睨みつけていると、彼はぽつりと呟くように聞いてきた。
声色が少しだけ変わっていることにすぐに気づいた。
ようやく本当のことを言うつもりなのだろうか。
「何でって……、別に理由はないっすけど」
思わず適当に答えてしまった。多分、訊かれたことはなかった質問だ。
自分には才能があり、その才能を活かせる職があり、その職は世界に貢献が出来るものだった。
目指したわけでもないが、他にやりたいことも特になかった。多くの人が憧れ、羨む自分の処遇は、マリスにとって、自分の人生の延長線上であるだけだった。
そしてそれは他者から見ても、当然のことで、当然過ぎて、誰にも訊かれたことはない。
「昔からなりたかったとか、誰かを守りたいから、とか、そういう感じでもないのか?」
「……深く考えたことはないっす」
彼の静かな声に、急にいたたまれない気持ちになった。
今の彼の声には、自分に対する妬みも羨望も含まれていない。純粋に、マリサス=アーティ個人の気持ちを求めている。
だからこそ、大した意思もなく歩く自分の道が、途端に小さく思えてきた。
最初から自分には才能があり、大した努力や代償を払わず、世界中の数多の人々が目指す魔導士の頂点の力を自分は有している。
ゆえに、そこに自分の意思はない。
意思が無いなら、“魔導士マリサス=アーティ”は、果たして―――“自分”なのだろうか。
「……そうか。なら、多分、俺とは違うよ」
「……悪かったっすね」
「いや、そういう意味じゃない。比較にならないほど……、凄いってことだよ」
散々言われてきたことで、今更何も思わないはずの言葉だ。
だが、彼の自嘲気味な物言いに、眉をひそめた。
「それなら伝わらないかもしれないけど、俺はさ、……勇者になりたかったんだ」
「なってるじゃないっすか」
「……ああ、そうかもな。でもそうだな、いや、勇者とまで言わないけど、なんか特別になりたかった」
要領の得ないことを言う。
だが彼は気にせず、その声色のまま言葉を続けた。
「これでも結構頑張ったつもりだったんだぜ? 失神するほど走ったり、剣なんて握ったこともなかったのに豆が破けるほど毎日振り続けたり。知ってるか? 豆潰れると何にも掴めなくなるほど痛いんだぜ。やっぱり止めた、何てことできないしさ、リセットなんて不可能だ」
血の滲むような努力という言葉はよく聞くが、それをしたことのある人はどれほどいるだろう。
それをした本人にとって、それは、言葉にするには軽すぎる。
「いや、甘かったよ。異世界ってもうちょい優しいもんだと思ってた。いや、優しかったのか。だけど俺は優しくしてもらってもこの様だ」
「……何を言いたいんすか?」
分からない。
彼が何を考えているのか分からない。
だが、彼が苦しんでいるように見えるのは、きっと気のせいじゃない。
彼は強い勇者だとはっきり言える。
だが不気味に見えるのは、彼の戦闘を見たからだ。そしてその一方で、普段鍛錬をしている彼を見たからだ。
その両立しえないふたつの面を持つ彼は、今、どちらの存在なのか。
その彼が、その瞳でこちら向いてきた。
ジリとマリスは後ずさる。顔を見られるのは苦手だ。
「なあマリス。魔導士としてどう思う。俺は強いか?」
答えはあるはずなのに言い淀んだ。
「……前にひとりで戦えていたじゃないっすか」
彼は何も返さなかった。
自分もそれは彼が聞きたい答えではないことが分かった。
自分も同じだ。不正解と分かっていて、正しく間違えた。
彼は、今目の前のヒダマリ=アキラという存在に対しての評価を求めている。
そして。
マリスはようやく、彼の真意が分かった。
彼は、勇者になりたかったと、特別な存在になりたかったと言った。
今の自分は、過去の自分の延長線上にいる。
だがもし、自分に他になりたいものがあったとしたら、自分はどうしていただろう。
当たり前のように前に進んできただけで、ありとあらゆる者から多くの期待と羨望を受けている自分は、その答えに辿り着けないことも知っていた。
暴走しているように見えた彼は、遠くから見ればきっとキラキラと輝いているのだろう。
だが、今目の前の、無心で剣を振り続けていた彼は果たしてどうか。その愚直なまでの研鑽の延長線上に、彼のなりたい自分は存在しているのだろうか。
少なくとも、彼はその答えが分かってしまっているように見えた。
答えに窮していると、アキラは笑った。とても、悲しげに。
「そういうことだ。俺はさ、“勇者にならなきゃ勇者じゃない”。勇者は魔王を倒すだろ? だから魔王を倒すんだよ。そしてそれをみんな望んでいる」
そのみんなとは、彼を遠くから見る世界中の人を指しているのか。それとも近くから見る彼女たちを指しているのか。
どちらとも取れ、どちらとも取れないような表情だった。
「だけどマリスは、マリスのままで、世界中の希望になれている。だから凄いと思うんだ。そんなの、俺とは比較にならないよ」
自己否定の究極系を見ているのかもしれない。初めて聞く言い回しで羨望を受けたようだった。
だが、違うと言いたかった。
なりたい自分がいて、それに自分のままで届かない彼。
なりたい自分もおらず、ただ日々を過ごした先にいる自分。
羨ましがるのは果たしてどちらだろう。
「……変なこと聞いて悪かった。マリスの言う通り、俺も変な欲出してないで、とっとと戻るか。風が出てきた」
答えていない。
きっと彼が欲しかった言葉を、自分は答えられていない。
戻ろうとしたアキラの前に回り、正面から彼を捉える。
少なくともここで話が終わったら、後悔するような気がした。
「もう少し、ここで」
「……ああ、いいぞ」
多分今、矛盾だらけの彼を紐解くことはできないだろう。
だが今、目の前にいる彼は、姉や彼女たちが見てきた彼なのかもしれない。
なろうとしたものを目指し、それがどれほど遠くても、あがこうとする人間だ。そしてそれは、マリスの目には影も形も映らない、遠い何かなのだろう。
そしてそんな彼は、心の底から、素直に、その遠くにいる存在に憧れている。
それは戦闘狂でもなく自殺志願者でもなく、どこにでもいそうな普通の人間だった。
もし仮に、彼と、マリスが顔を見られることが苦手に感じる今の彼と、もっと長く共に旅をしていたら、お互いに何かを見つけ合うことができただろうか。
そしてその彼は今きっと、ほんの少しだけ疲れている。それだけのことだ。
彼がいい加減なのは本来の気質のようで、マリスもつられて適当に受け答えで話し込んでいたら、いつの間にか夕日が出てきてしまった。
やはり彼と話していると他のことがおろそかになる。
ふたりして慌てて戻ると、姉に烈火の如く叱られたが、彼が変わらずいい加減に受け答えをして、集中砲火を浴びてくれた。
少し離れてふたりを見ると、彼から感じたあの痛烈な違和感は覚えなかった。
きっと、少しずつ、彼は自分の知らない元の彼に戻っていくのだろう。
姉が好意を寄せた彼のことを、自分はほんの一握りしか知らない。
入念な準備や天候の様子を見続けた出発までの数週間。
マリスは他の面々の監視をかいくぐって外へ足を運ぶアキラを追い、外に足を運ぶことが日課になった。姉の言いつけ通りなのだから仕方がない。
ひたすらに剣を振り続ける彼をのんびりと眺めるのは、存外退屈ではなかった。
その後に外でそのまま話すようになったのも、数日経てば当たり前の生活の一部になっていた。
世間話はあまりしない方だが、話自体はありふれたものだったと思う。彼らの旅の話や、自分の魔導士隊の話などにはなるが、話題が無いこの地では過去の話をするしかない。
彼らの旅の話は他の仲間にも何度か聞いていたが、彼の話は良い意味でも悪い意味で主観性と客観性が混ざり合い、それがむしろマリスの関心を引いた。
マリスの魔導士隊の話では、適当に驚いたり感心したりしていた彼だが、時折顔を見られたときの苦手意識を感じることがあり、マリスは逆に、その日は勝ったような気分になっていた。
ほんの少しずつだ。
ほんの少しずつ、彼は戻りつつある。
姉はそっとしておこうと言っていたが、もし自分との会話が彼を安らげているのなら、姉に背くのも悪くない。
特別なことを話しているわけじゃない。
こうしたありふれた、きっと彼らが今までの旅で積み重ねてきた日々が、今の彼にとって必要なことなのだろう。
自分が知らないその時間の中で、きっと姉は彼を見続けてきたのだろう。
話していると、色々と分かってきた。
仲間内では共通認識だったらしいが、彼は、勇者というものにまったく向いていない。
世界の使命を背負って、胸を張り、勇猛果敢に戦うような人間ではない。
剣を握るには温厚で、争いに身を置くには優しく、栄誉あることであっても自分のためには動けない。それでいて、何もしないのは物寂しさを覚える、ごく普通の人。
それでも彼がここまで勇者を続けてきたのはきっと、彼が見捨てるということが苦手だからだ。彼自身、流されやすいと自分を卑下していたが、それはきっと普通のことで、誰もがそうだ。
何かを成し遂げても、流された先にあったもののように思えて完全には満足できないという、当たり前の悩みを彼も持っているだけだ。
だけど彼は、流されるままでもここまで辿り着いたことに、全く後悔はしていないと笑う。その意思もその笑みも、マリスは羨ましいと思ってしまった。
彼について分かったような気がしたことを、夜に姉に話すと、姉はさも知っていたかのように微笑んだ。
そんな日は、マリスは負けたような気分になっていた。
話していると、分かる。
姉が好きになるのは、きっとこういう人だ。
外に出るたび、強い砂風が頬を打つ。
日に日に治まりつつあるが、もう少し、強くなったりしてくれないだろうか。
聞くべきことはあった。彼は我が姉のことをどう思っているのか。
姉の好意を、彼を知っているのだろうか。
時折感じる、勇者ではない、勇者に憧れる彼に聞かなければ意味が無いことを知っていたが、その貴重な機会はつい自分たちの話で埋めてしまった。
聞きたいことはあった。彼にとって、自分はどういう存在なのだろう。
前の月輪属性の魔術師を失ってから現れた自分は、彼にとってはどういう風に見えているのだろう。
都合のいい後釜だろうか。それとも単に、自分の婚約者の妹だろうか。
聞けば済むと思っていることではあるが、それは同時に聞きたくないことでもあった。
聞かれたいことはあった。自分は強いかと。もう一度だけ聞いてみて欲しい。
答えはないが、聞かれたら、もう少しまともな答えが浮かぶような気がした。
感覚的に、彼が探すことを諦めている魔王を倒す理由が、今目の前の彼自身の延長線上にあると願うようになっていたからだ。
だが、それは違った。
その理由を、延長線上どころか、彼はすでに持っていた。
―――それを知ったのは、世界が終わったその日だった。
強い風が吹く。
高く舞い上がってきた砂は、目も開けていられないほど強く身体を打つ。
だが何も感じられないほど、目の前の光景はあり得なかった。
マリスが願った光景と、絶対に避けたい光景が、混ざり合っていた。
「……俺は、何を、やってんだ……!!」
彼の声は、熱を帯び、本来の彼自身のものだった。
「こうしないために……、こうならないために、勇者やってんじゃなかったのかよ……!!」
彼は偉業を成し遂げた。
世界を脅かす百代目魔王をその手で下し、百代目勇者となったのだ。
ありとあらゆる者の希望でもあり、世界中から羨望を浴びる奇跡の存在に到達して見せた。
だがそんなものには目もくれず、彼は、払った代償を強く抱きかかえていた。
それは、マリスが加減もなく放った治癒魔術すら受け付けなかった、双子の片割れ。
魔王の攻撃をその身で防いだエリサス=アーティの亡骸だった。
どれほどの偉業でも、どれほど多くの者を救っても、彼が持っていた魔王を倒す理由は、果たされなかった。
マリス自身、ショックで頭が回らない。
あの姉が、自分と同じ存在が、目の前で息を引き取っている。
到底受け止めきれない現実に、視界が白黒になったように思えた。
そして、よりショックだったのは、その光景と同じくらい、ヒダマリ=アキラの絶望が自分の心を蝕んだことだった。
折角、少しずつ、彼は自分を取り戻し始めていたのに。
ようやく取り戻せたのに。
ようやく辛く長い旅の終点に辿り着いたのに。
待っていたのがこの結末なんて、信じられない。
元々信心深い方ではないが、マリスは運命の神を呪った。
許さない。許容できない。
これだけ前に進んできた彼と、それを支えてきた姉が、こんな最悪の結末を迎えるなんてありえない。
ほとんどパニックになった自分を、しかし冷静な自分が止めてくれた。
疎ましく思ったが、その自分は口を借りていった。
「にーさん。すぐに他のみんなを探さないと」
この魔王の牙城に訪れるまで、他の面々とは離れ離れになってしまっているのだ。
魔王は彼女たちの状況を把握していたようで、全滅したと言っていたが、こちらを挑発するための嘘かもしれない。だが、少なくとも危険であるのは変わらないのだ。
アキラから、ギリと歯が砕けるほどの音が聞こえた。
「……ああ、そうだ。けど……、は、やっぱ駄目じゃねぇか、こんな俺は」
止めて欲しい。
今目の前にいる自分自身を否定しないで欲しい。
姉が恋をしたヒダマリ=アキラを、否定しないで欲しい。
今ここで、やっと知れた。
自分の前の月輪属性の魔術師のとき、どういうことが起こったのか。
知って初めて、知りたくはなかったと思った。
彼はきっと、自分と同じことをしていた。
どれほど危険だと注意されようが、自分がやることが、結果として周りを救うと考えていた。
いや、自分などよりよっぽど強く自分を抑えて、自らの身を危険にさらしていたのだ。
時折垣間見えた本当の彼は、絶望的なほどそんなことには向いていないのに。
自分は、そんな彼をつかまえて、不気味だと言っていたのか。
「…………悪いな。お前も辛いだろうが、行こう」
静かに姉の身を降ろし、乾いた声色と共にアキラは立ち上がった。
駄目だ。
このまま彼を行かせられない。
このまま行かせたら、きっと彼は今度こそ、二度と自分を認めなくなる。
それは、姉の死と同じくらい、マリスには許せないものだった。
「……」
「マリス?」
彼の前に立ちはだかった。
考えろ。
自分は全知の月輪属性だ。
絶対に何か方法がある。
考えろ。
幸い、魔王がため込んでいた膨大な魔力は、その召喚獣と共に自分の支配下にある。
世界を滅ぼすと言うだけはあり、何ら比喩なくすべてを滅ぼせるほどの膨大な魔力だ。
考えろ。
魔力が無限なら不可能なことなど存在しない。
それが自分の属性なのだから。
「……大丈夫っすよ、にーさん」
考えろ。
ここで行かせるわけにはいかない。
「マリス?」
考えろ。
「自分に考えがあるっす」
いやむしろ―――考えるな、か。
「……逆行魔法」
探し出せれば、辿り着ける。
辿り着ければ、操れる。
成功するとは限らない。しかし失敗するとも限らない。
世界の裏側から、頭を鷲掴みにされるような違和感を覚えた。
自分の頭には存在しない何かが、自分の脳に入り込んでくる。
だがそれに、嫌悪感は無かった。
「逆行……って」
「……時間を巻き戻す。死者を蘇らせることはできないっすけど、この出来事をなかったことにできる」
ほとんど適当に捲し立てた。
死者を蘇らせる方法もあるかもしれないし、無いかもしれない。
魔法は論理ではないのだ。
だが少なくとも、今は自信満々に言わなければならない。
「それじゃあ……、こいつは、」
マリスはこくりと頷いた。
あまり身体を動かせない。
魔王の召喚獣を抑え込んでいるということもあるが、何より今少しでも動けば、やっとの思いで掴まえた感覚を手放してしまいそうだった。
そんなこともおくびにも出さずに、マリスはじっと彼を見つめた。
「じゃあ、もっと準備して、慎重に、」
アキラは捲し立てるように言った。
自分だって、目の前で横たわっている姉を1秒だって長く見たくはない。
認められないこの現実から離れられるなら、どんなことだってしてみせる。
「……ファクトルに入り直せるのか」
多くのものを失い続けた死地をやり直せるのか。
マリスは頷こうとし、ピリと刺激を感じた。
自分の頭と繋がる何かから、異臭のような感覚が届いた。
「記憶は許されない。時間を戻すとは、そういうことになる」
自分でない何かがこの口を借りていった。余計なことを口走ってくれる。それが必要であれば、彼が求めるのであれば、自分は辿り着いてみせるというのに。
これ以上この感覚に身を委ねれば、自分が自分でなくなるような気がしてくる。
だがその自分ではない自分は、何かを知っているようだった。
記憶を有した逆行は、許されざることらしい。
「それに、あの魔王が相手じゃ、どこからが既定路線だったかすら分からないっす」
先ほど相まみえた諸悪の根源である魔王。
撃破したとはいえ、マリスは未だに背筋が冷えている。
ヒダマリ=アキラを不気味と感じていたとき以上に、あの魔王の思考はまったく捉えられなかった。
多くの人が言う魔族に対する印象を軽んじてきたわけではないが、あの魔王は出遭ってきた他の魔族とすら違う。
延長線上に存在しない、異次元の存在のように思えた。
自分たちはあの魔族が想定する道のひとつを垣間見ただけのような気さえしてくる。仮に記憶を持っていたとしても、回避できる自信が無い。
「……それならいっそ、最初から。にーさんがこの異世界に来たばかりのときからなら、流石に何も縛られていないはずっす」
言いたくない提案だったが、冷静な自分が後押しした。
本当にすべてをなかったことにさえすれば、魔王の罠を買わせる可能性が僅かには上がると思えた。
だがそれは、と考えて、マリスは思考を止めた。危険な思考だ。
「……それこそあり得ねぇよ。ここに立っているのが奇跡みたいなもんだ。こんな馬鹿に、世界なんか救えない」
彼の声色は冷えていた。
彼の思考だとそうなってしまうと思っていたから、別段驚きはしなかった。ただ、悲しさだけが身体を支配した。
「それに、マリス。お前もここに来るまでいないんだろ。せっかく仲間になれたのにさ」
多分、それは彼なりの冗談だったのだと思う。
だけど、言わないで欲しかった。考えないようにしていたのに。
「…………、だけど。そうだ、記憶は無理でも、……何か、……これは、どうなるんだ?」
彼が目を向けたのは、先ほど現れたばかりの“奇跡”だった。
“具現化”。
それが彼に現れたのは、偶然か、この世界の優しさか、それとも彼自身によるものか。
実際に同等の力を持つマリスでさえも、その条件は分からない。
分からないからこそ、時間という概念に縛られるものなのかすら分からない。
そしてその力は、たった1度見ただけだが、マリスの理外に座していた魔王ですら瞬時に滅ぼしてみせたのだ。
もしこの力が最初からあれば、魔王の思惑どころか歴史すら徹底的に改変して見せるだろう。
「……出来るっすよ」
危険すぎる。世界の異物になる。そう冷静な自分が口を挟んだが、無視をした。
現状それくらいでなければあの魔王を超えられないとも思うし、何より今、彼の求めに対して否定することはしたくない。
だから、自信満々に答えてみせた。彼は顔を輝かせたのを見て、心の底から嬉しくなった。
世界の裏側からの感覚は、特に感じない。
それはつまり、出来ないかもしれないが、出来るかもしれないということだ。
彼が自分を諦めないためならば、自分は何度でも彼に応じよう。
「不可能を可能にするのが、自分の役割だから」
マリスは、魔力を発動させた。
吹き荒れる砂嵐の中、ひんやりとした銀の流れが生まれる。
その風を、掴んだ。
「なら……、頼む。……今すぐに」
マリサス=アーティの“具現化”が現出する。
姉から目を背けることしかできない彼を見て、現出した銀の杖を力強く掴んだ。
「―――、―――、―――」
どれほど魔力を消費するか分からない。
だがもし足りなければ自分が許せない。
論理的に用意できる最大の魔力を、非論理の力で用意して、未知の領域に足を踏み入れる。
だがそこに恐怖は無かった。
「―――、―――、―――」
湧き出すように口から零れていく旋律は、知っている唄だった。
ふいに口から出てくる唄だ。
彼と出逢ったときもこの唄を口ずさんでいたときだった。
「―――、―――、―――」
ありとあらゆる技術を総動員しながら、未知の感覚に身を任せ、マリスはアキラを見つめた。
よくこんな口から出まかせばかりを言った自分を信じてくれたものだ。
結果として真実だったからよかったものの、自分は、いつからこんないい加減なことを言うようになったのか。きっと彼の影響だ。
彼とよく話すようになって、彼を知るようになって、そのせいだ。
絶対に失敗できない。
「―――、―――、―――」
進むにつれて、白黒だった世界が徐々に銀一色に染まっていく。
目の前の彼は、ただじっと、自分を見てくれていた。
「なあマリス。そのままでいいから聞いてくれ。もうすぐ全部忘れちまうんだろ?」
片手間で成功するような魔法じゃない。論理では計れない魔法には、何が影響するか分かったものではない。
そう思ったが、咎めようとは思わなかった。
それどころか彼の声を聞くと、成功するイメージが強くなった。
「ありがとう。助かった。……はは、駄目だな、いくら言っても言葉が足りない」
彼は、情けなさそうに頭を抱えた。
ここまで術式が進んでも、自分は成功するか不安で不安で仕方が無いのに、彼は自分に絶対の信頼を寄せているようだ。
愚直だと思うが、それが自分の力にもなるのだから不思議で仕方がない。
「―――、―――、―――」
まもなく行ける。
知らない力が世界を包み、知らない何かを潜り抜け、知っているどこかへ向かっていく。
そこで彼らは、また旅をする。
自分の知らない物語がまた、自分の知らないところで始まる。
自分の記憶も消えるだろう。
だから今だけだ、こんな気持ちになっているのは。すぐに忘れる。
今は、何も考えないように、何も想わないように、この術式を完成させよう。
「―――、―――、―――」
果たして彼の“具現化”をきちんと届けられるだろうか。
彼には問題ないと言ったが、依然としてどうなるか分からない。
だが、大丈夫だ。
自分に自信が無いことの裏返しだろうが何だろうが、愚直なまでに剣を振るい続けた彼の姿は見飽きたほどだ。
もし逆行が成功して、もし具現化を持ち運べなかったとしても、彼はきっとこの地まで辿り着いて見せる。
彼が彼自身を信用しない分、自分は彼を信用しよう。
「マリス」
唄を紡ぎ終える直前、言いたいことがまとまったのか、彼は、あの優しい声色で自分の名を呼んだ。
「俺にとって、お前―――」
世界を銀が包み込んだ。
その刹那。術式が完成する直前、マリスは一瞬思った。思ってしまった。
その続きを聞きたい―――と。
―――*―――
そのすべてが終わったあとに、マリサス=アーティは、苦しみと出遭った。
ぼんやりと、高い塔を見上げていた。
日も沈みかけ、この高い塔の向こうには薄っすらと月が浮かんでいる。
気づくと、いつもこうしている気がした。
このリビリスアークにある塔は初代勇者様が現れたとされ、周知されている通り、村の唯一の名所だ。
他所から稀に訪れる権威者などを迎えるのもこの場所で、この村の冠婚葬祭も必ずと言っていいほどこの場所で執り行われる。
とはいえ、実際にこの村で育ったマリサス=アーティにとってはこの場所は特別なものではない。
季節に合わせて店先の色が変わる近所の花屋や、路地裏を通ると聞こえてくる声の大きい家族の笑い声の方が自分にとっては特別だ。
“東の大陸“アイルークの象徴するものは“平和”。
今日も無事に、この村は順守した。
夕食の時間も迫っている。読みかけになってしまった本をパタンと閉じ、もう一度塔を見上げた。
本当に高い。
「ねーさん。散歩っすか?」
「マリーを探してたの」
こうしてぼんやりとしていると、いつも姉が声をかけてくるような気がする。
少し困ったような、少し怒ったような、心配そうな優しい声色だ。
「そろそろご飯よ。手伝って」
姉に頷き、とぼとぼと歩み寄っていく。
夕暮れ時だが天気は良く、風も暖かだ。明日も晴れるだろう。
「マリー、最近ここによくいるけど、何してるのよ?」
「読書っすよ。……それと、」
マリスは最後に、もう一度高い塔を見上げた。
「あの塔の上から人が落ちたら、危ないな、って思って」
「……もう。怖いこと言わないでよ」
マリスが明確にこの世界に“合流”したのは、姉と共に迎えた二度目の11歳の誕生日の夜だった。
やはりというべきか、どうやら魔法とやらはかなり適当な存在だったらしい。戻った時期でさえ、自分の意図したものよりずっと前に戻ってしまっている。
だがそれ以上に、“到着”したばかりの瞬間に、マリスは決定的な違和感を覚えた。
それは―――“自分が逆行してきたという自覚があること”。
―――記憶は許されない。
自分の口を借りた誰かは確かにそう言った。
だが事実、自分は“事態”を認識している。
人の思考や論理などでは説明できない魔法という存在の中、あの言葉だけには確信めいた何かがあった。それだけに、自分の記憶が存在していることに漠然とした恐怖を覚える。
もしや失敗したのではと訝しんだが、ベッドで目覚め、悲鳴を上げた自分を心配した姉が部屋に飛び込んできたとき、冷たくなっていった姉の顔を思い起こし、多大な安堵と共にマリスは大声で泣いた。
手段はどうあれ、姉を救うことができた。
それ自体はまさに奇跡と言うにふさわしい魔法の結果だ。ケチをつけるつもりはない。
事実、姉の顔を見たとき、マリスは身体が打ち震えるほど喜んだ。
だがしばらくして、ようやく頭の整理が追い付いたとき、マリスは、自分にとって地獄のような日々が始まったことに気づいてしまった。
記憶を保有して逆行するということは、理想的なように思えていざ身に降りかかってみると、存外に厄介なことだと分かった。
根本的なところでは、記憶とこの身体の年齢のギャップだ。
未来の自分と当時の自分は、精神的にも肉体的にも当然変化していた。
身体の動きは数週間もすれば違和感は薄れていったが、感情のコントロールが思った以上にできない。
将来の自分ならば顔色ひとつ変えなかったであろう出来事でも、怒ったり、涙が流れそうになったりすることがある。
それも、誤って花瓶を割ってしまったときや長時間仕込んだ料理を焦がしてしまったときなどの、ごくありふれた下らないことでもだ。
思考や記憶は未来のものだが、肉体年齢だけでなく、精神年齢も当時のものになっているのだろう。
下手に思考だけが成長しているから、当時は思いつきもしなかったことも想像するようになり、そのリアルさにこの身体はついていけないのだろう。
大人が言葉を尽くして子供を脅しているようなものだ。特に自分自身が相手では、自分が最も恐ろしいと思う想像を容易に探り当てられる。ネガティブな思考に陥ると、それだけで、簡単に自分を泣かせられた。
特に“今”の年齢は、世間一般で言う多感な時期だ。
感受性は当時のままで、それを増長させる想像力は未来のものともなれば、自分自身のことながらまるで制御できる気がしなかった。
分かっているのにできないという経験は、マリスの人生で初めて遭遇した難題だ。
また、自分のそんな歪な苦しみを僅かながらに感じてしまったのか、姉が過保護になっているように感じる。
未来の思考は“年下の姉”に面倒をみられるのは恥ずかしさや情けなさが支配し、当時の自分の身体は喜んだり疎ましく思ったりしてしまう。
それもまた情けなくて、何度癇癪を起しかけたか分からない。
そうした身体の問題以外にも、苦悩はあった。
例えば、そう。孤児院の向かいの花屋の御主人は、来年亡くなる。
その翌年には連れ立つようにその妻も亡くなり、遠方で働いていた息子夫婦が戻ってくる2年先ほどまで、廃墟同然になることを知っていた。
花屋の前を通るたびに明るく声をかけてきてくれる彼らに、自分はなんと返せばいいか分からず、また何度も泣きそうになった。
自分はこんな子供だったらしい。
自分は自分のままで、ずっと同じようにしていたと思っていたのに、当時の自分は笑うし、泣くし、ちゃんと怒る人物だったようだ。
人と話すのはあまり得意ではないと未来の自分は思っていたが、今この時点の自分の可能性はどうやら無限なのかもしれない。
だが記憶を持つがゆえに、自分の可能性は大幅に削り取られていることに気づいた。
自分は1年先、2年先、もっと先の出来事も知っている。
例えば、向かいの花屋に未来の出来事を伝えたらどうなるだろう。
自分が死ぬなどと伝えられたらマリスを非難するかもしれないし、そもそも信じてもらえない。だが、もし信じられた場合はどうなるか。
今の内から息子夫婦に連絡を取り、共に暮らすようになるかもしれない。そうなった場合、息子夫婦がいた遠方の町での仕事はどうなるのか。
例え小さなことでも、どれだけの影響が出るのか分からないのだ。それがどれほど未来を書き換えてしまうのか、マリスには想像もできなかった。
そう考えると、身体中が金縛りにあっているような感覚に襲われた。
自分の一挙手一投足が未来にどんな影響を与えるかを想像するだけで、身も心も震えるほどの恐怖を覚える。
ほとんど覚えていないようなことですら必死になって思い起こし、“マリサス=アーティ”が取った行動を実直になぞろうとした。
ちょっとしたボヤ騒ぎになる母が消し忘れた料理の火を見ても、翌日崩れてきて姉の頭に大きなこぶを作る棚の上の辞典を見ても、翌日近所の子供に踏み荒らされる花壇を整える村長宅の庭師を見ても、過去の自分は何もしていなかったはずだ。
そして、そうなるたびに、制御できないこの身体は泣くのだ。
自分のことも管理できない、周りの人を助けることもできない。
しかし、“マリサス=アーティ”を演じ続ける必要がある。
自分は、いや“この人”は最早―――誰だ。
そんな苦悩すら、表に出すことも許されない。
だがそれでも、様子がおかしいことには気づかれているのか、姉はやや過保護になっているように感じた。あの夜、ほんの少し泣いたのが切っ掛けか、姉の性格にも僅かながら影響を与えてしまうのだ。
出来ることはと言えば、極力人に関わらないように、孤児院の図書室に自分のスペースを作ることだけだった。過去の自分もこうしていたはずだ。こんな風に逃避のためのものではなかったが。
一方で、姉の方はと言えば、そんな自分とは逆に、つまりは未来とあまり変わっていないように見えた。
同じにように笑うし、同じように怒るし、同じように面倒見がいい。
今のマリスに可能性としてはあるその姿を、姉はそのまま未来へ持っていったようだった。
そうした自分の半身を見ていて、マリスはようやく気が付いた。
自覚は無かったが、自分が戻されたのは多分、自分が顔を見られるのが苦手になり始める頃だ。
いつのことか覚えておらず、それほど特別なことだと思ったこともなかった。
だけどきっと、あの誕生日の日だったのだ。
ふたりで出かけて村を歩いていたときに、誕生日祝いだとふたり分の髪飾りか何かをくれた雑貨屋の店主が、目を輝かせて喜ぶ姉を見て言ったのだ。
『エリーちゃんは元気だね』
自分もその場にいて、じっと髪飾りを見つめていた。
何の悪気もない。むしろ大げさに喜ぶ姉を見た率直な感想だったのだと思う。
自分も別段気にはしなかった。
ただ、同じように成長してきた自分の半身だけにかけられた言葉は、当然、自分のための言葉ではないと感じた覚えがある。
多分、それだけで思考を止めていれば、別だったのだろう。だが自分は思ってしまった―――それなら自分はどう見えたのだろう、と。
この頃から自分はマリサス=アーティで、自分の半身はエリサス=アーティだったのだろう。
姉が未来に持っていけたそれは、マリスにとって、キラキラと輝いて見えた。
だから、か。
マリスはあのとき起こったことを理解した。
魔法は論理ではない。完成寸前まで進んでも、次の瞬間、無に帰すこともあれば全く違う何かになることもある。
そんな確率をかいくぐって、達成するあの奇跡の瞬間、マリスは自分の意思が介入したことには気づいていた。
だから、“自分がこの時期を選んだのだ”。
あの魔法は、唄は、言っているのだから―――“いつこうなってしまったのだろう”、と。
それでもマリスは、結局マリサス=アーティとしての道を選ばざるを得なかった。
制御もできない自分の心と身体を持て余し、些細なことが起こるだけでも必死に思考を凝らして自分の行動を検討する羽目になるような、こんな地獄のような日々を過ごしていても。
たったひとつだけ、希望があった。
いつもの読書スペースで、窓の外の日が沈むのを見て、そろそろ夕食の準備だと立ち上がったマリスは、いつものように1冊の本に目を止めた。
本棚のそこは、あまり読んだことのない、孤児院の子供たち用に用意されたおとぎ話のような本がまとめられている場所だ。
それは、子供用に簡略化されているとはいえ、史実に基づいている教養も兼ねた絵本―――初代勇者と魔王の話。
―――*―――
その日々の中で、マリサス=アーティは、たったひとつに縋っていた。
「え? そうなの?」
「興味ないっすからね」
思った以上に自然に言葉が出てしまったが、自分に戸惑いが無いことに驚いた。
あれだけ過去の出来事に沿うように生きてきたのに、姉はポカンとしているから、取り消すならば今だ。
だが、答えを取り消すことができなかった。いや、考える時間はあるのだから、しなかった、が正しいか。
今日は自分たちの誕生日。
地獄のような日々を過ごし続け、自分は、そして姉も、今日で16才になる。
他の町ではどうかは知らないが、この村ではとっくに働き出している者が多い。
自分たちは孤児院に務めていることになってはいるが、育ての母から自分のなりたいものになりなさいとは言われている。
姉はなりたいものを定めていた。
「ええと、……ううん、いいの。むしろその、ちょっと安心した、かも?」
自分と姉は、ずっと同じ道を歩いてきた。
だから姉も、きっと自分も同じものを目指すのだと思っていたのかもしれない。
自分にもその感覚はあったので、姉が考えていることは何となく分かった。一応危険なことではあるが、それ以上に自分の半身が違う道を歩くことの違和感が勝るのだろう。
マリスは、姉に誘われた魔術師への道を―――断った。
「なんだろう、ほらマリー。よく手紙とか届いてるし、偉そうな人も来てるじゃない? てっきりそういうつもりなのかと思ってた」
その道は、もともとは昔受けた魔術適正試験に由来している。
何かのイベントで、姉はその道に興味を持ったのだ。
姉はその頃から魔術の勉強を合間合間にしており、一方自分はと言えば、付き合いで一緒に勉強することもあったがそれ以上に、その適正試験とやらの結果が騒ぎになり、国から勧誘目的の手紙やら人やらの対応に追われていた。
そんな勧誘を受けていても、自分はそんな幼い頃からこの家を離れるつもりはなかったし、何よりそんな試験で何が分かると話半分程度に聞いていた。
子供の自分はやはり単純なのか、もてはやされるのも悪い気はせず、明確に断ることもしなかったのも悪かったのだろう。
“未来”の自分の姿を考えると、どうやらあの適正試験とやらはある程度信頼がおけ、毎度毎度こんな辺鄙な村に魔導士が足しげく通ったのも正しい判断だったらしい。
姉は勉強の傍ら、そんな自分の姿を見ていたからだろう。
この年齢になった今、自分も同じ道に進むのだと漠然と思っていたのかもしれない。
「ああいう勧誘は話半分っぽいんすよ。それほど熱心ってわけでもないっすし」
「ふうん……。でもそれでこの村にわざわざ来るかな……?」
思った以上にすらすら言葉が出てきてマリスは自分の愚かさを痛感した。
歴史の改ざんを可能な限り避けて生き続けてきて、この“分岐”でさえも自分は正しい道を選ぶと決めていたのに、正史に反することを心の中であらかじめ決めてしまっていたようだ。
姉は不審に思いながらもマリスを見てきた。
同じ顔で、同じ姿で、同じ存在の、しかし姉である彼女は、片割れの自分の様子には敏感で、その疑念を払拭することはできないだろうとマリスは思った。
だが多少怪しまれても、マリスは自分の答えを変えるつもりはなかった。
「……まあ、いいわ。でも、もし分からないこと出てきたら教えてもらうかも。マリーは教えるの上手いもんね。将来先生とかになるのかな?」
姉は冗談めかして笑って許してくれた。
教師とは。魔術師と比べると随分と安全な職業だ。
だが、残念ながら、こんな平和な大陸の魔術師なんかより、ずっと危険な目に遭う日々が―――大冒険の日々が控えている。
この数年を過ごし続け。
最近では、日々“マリサス=アーティ”として過ごすことに慣れ、身体の成長につれて身も心も制御できるようになっていた。出来事に対して必要以上に思考を凝らす必要も薄れてきて、当初に比べれば格段に安定した生活を送れていた。
だがそれは、軸となる自分の希望があったからなのだろう。
成長期に、成熟する前の精神で、何をしてよく、何をしてはならないのかを考えながら行動する日々は、確実に自分の精神を蝕んだと思われる。
自分の家族と共に自分の村にいるのに、異国の地の見知らぬ街で知らない人々とその日暮らしをしているかのように、心休まる日など一切訪れなかった。
村の皆にも、育ての母にも、そして自分の半身にすら、何も打ち明けられない自分はいったい誰なのか。
思春期だったのも手伝ったのだろう、そんな薄黒い思考に蝕まれ、いつどこで何をしていても、息も詰まるような圧迫感が身体中を支配され続けていた。
それを唯一軽減することができたのは、毎日身も心も疲れ果て倒れ込んだベッドで思い起こす、今の年齢からすれば遠い昔の、未来の記憶だった。
それでも何度も思い越したせいで、未だに鮮明に覚えている。
あの死地の手前で、とりとめもない話をしていたときを思い出すと、気が楽になった。
彼も―――ヒダマリ=アキラも今頃、彼の世界で、自分と同じように悩み苦しんでいるのだろうか。だとしたら彼は自分を恨んでいるだろうか。
そんな黒い思考に支配されたこともあったが、それよりも、彼はむしろ自分よりこの状況に適応しているか、それこそ歴史の改ざんなどお構いなしに好き勝手している姿の方が容易に想像できた。そう考えるだけで、胸の奥がすっと軽くなる。
そして、あのとき彼は、最後に何かを言おうとしていた。
彼にとって、自分がどういう存在なのかを示そうとしていた。
それは今、いや、多分ずっと、自分が何者であるかを見失っている自分にとって、最も聞きたい言葉だった。
それを目前にこの村を去ることは、マリスにはできなかった。
そう。まもなく彼は、この異世界に訪れる。
聞いたその“刻”は、姉の魔術師の入隊式だ。
この大きな分岐を間違えたことで、冷静な自分の声は警鐘を鳴らす。
いや、冷静にならずとも、自分はきっと、やってはならないことをやったと確信している。
それでも、彼に、会いたい。
彼は自分を見たらなんというだろう。
今の自分も、可能な限り“マリサス=アーティ”として振る舞い生きてきた。
だから何も変わっていないかもしれない。
だけど、自分に宿る“もうひとつの自分”があるマリサス=アーティは、彼から見たらどう見えるだろう。
振る舞いは過去をなぞったつもりだが、多少はきっと姉のように、明るくなれている、と思う。
彼と話していたときのように、口数も多くなっていると信じたい。
そしてそんな自分で彼ともう1度会って、胸を張って彼と正面から向かい合えれば、ようやく自分は自分を好きになれると思う。
―――姉が、魔術師試験に落ちた。
深刻に落ち込む姉を見て、マリスは色々な意味で心が強く痛んだ。
未来の情報として、その事実を知ってはいたマリスは、朝試験に出かける姉に顔を合わせることもできなかった。
むしろ受かっていた場合はどうなるのだろうと不謹慎なことも同時に考えていたのがさらに心の痛みを強くする。
最初は慰めの声もかけられなかったが、流石に姉。すぐに立ち直って翌年の試験を目指し始めていた。魔術師試験も魔導士試験も突破したマリスはせめてもの償いとして、本格的に教師役を買って出た。
大いに未来の情報が活かされることになってしまうが、自分が好きに日々を過ごしているのに、姉だけが同じ苦しみを味わっているのは見過ごせなかった。
やはり、自分の歴史の改ざんに繋がるかどうかの判定は、どんどん緩くなっていってしまっているらしい。
だが、姉には来年絶対に合格してもらわなければならないのだ。
そこまで来てしまえば、いっそという気持ちで、かなり忙しくなった。
来年こそはとひたすらに勉学にいそしむ姉を尻目に、あまり興味のなかった世界の情勢を追うようになった。
最初はしばらくこのアイルークを旅することになるだろうから、ひっそりと大陸の地図を買ったりして、“未来”の知識を総動員して旅のルートを考えた。
より確実に力を付けられ、あまりに危険な場所は避け、順調に旅を進められるように計画を練っている時間は、楽しいというか、落ち着かないというか、すごくわくわくした。
書き込みが増えすぎて見辛くなってしまったかもしれないが、それでもまだまだ書き足りないほどだった。
彼との旅はどうなるだろう。姉も共にいるのに、自分と彼は、こそこそと、旅の相談をしたりするようになるのだろうか。
色々考えて、また今日も寝不足だ。
―――姉が、魔術師試験を突破した。
その合格通知が届いたとき、マリスは心の底から喜んだ。
力いっぱい姉に抱きしめられながら、同じ顔で同じ涙を流した。
“その日”が近づき、今まで以上に忙しくなった。
下手に初代勇者様が現れた高い塔があるせいで、この近隣の村の者たちの魔術師隊の入隊式はこの村でやることになっている。
大した人数は集まらないが、それでもその準備をするのは村長で、そしてそのお目付け役ともいえる自分たちの母で、ひいては自分たちだ。
去年は姉には辛いだろうと準備をさせないようにしようとしたが、姉は歯を食いしばって手伝ってくれたのを覚えている。
今年も一緒に準備を進める姉は、やはり去年よりもずっと輝いて見えた。
そんな準備を進めながら、心の底から姉に謝った。
今姉が想像している未来の光景は、まさにこの魔導士隊の入隊式の日に大きく塗り替えられることになる。
そう思うと不憫で、しかし、きっとそれ以上の何かが待っているのだと、心の中で姉を慰めた。
自分が話の中でしか聞いたことのない、キラキラと輝いた冒険は、すぐそこだ。
―――*―――
そして、そのすべてが始まるときに、マリサス=アーティは。
青空の下。
この村のシンボルでもある、高く高く天を突くような塔の元。
そこでは、今、“結婚式”が行われていた。
サラサラと風が流れ、若草の匂いが舞うその草原は、村の中にそのまま自然を残したような教会の庭であったりする。
周囲は、それ自体が敷居のように背の高い木々で囲まれ、その中心の芝生には、正方形に整えられた大理石の白く大きな足場。
そこには、純白で木製のベンチが2列。一糸乱れず整列している。
その、青の下、白と緑の世界。
そこに集まった者の一部は、正装、とでもいうべきスーツやドレスを着て、優雅に腰を下ろしている。
最前列というなかなかの特等席に腰を下ろしたマリスは、自分たちの仕事ぶりに我ながら感心していた。
一応式場としての場所ではあるが、この村に住む自分たちにとっては日ごろ子供たちが走り回っていたりする空地同然のような場所だ。
近隣の村々から人が集まるこの時期だけ、立派な協会に姿を変える。一応は管理者ということになっている牧師のような初老の男は副業で、本業は隣町の酒屋の主人だ。
この場に集まった人々は今、漆黒のフードを被った怪しげな人々が囲う、塔の真下の台座に注目している。
その中央には、花嫁の姿を模したドレスに身を包んだ我が姉が立っていた。
今日は―――魔術師隊の入隊式だ。
念願かなってこの日を迎えた姉は、相当緊張しているようだった。
双子でなくても、幼い頃からエリーを知っている近所の面々にはしっかり我が姉の心境が手に取るように分かるようだ。
注視するとプルプルと震え、今にも膝から崩れ落ちそうになっているのがこの距離からでも分かる。
容姿を褒めると自画自賛になりかねないが、それでも今の姉は、息をのむほど美しく、輝いて見えた。
控室で着替えを手伝ったとき、緊張と感激で泣き始めていた姉は、自分を取り戻せただろうか。
「いよいよね」
ひっそりと、隣に座る育ての母が手を握ってきた。
自分も強く握り返す。
母の手に触れて、やっと気づいた。
身体中が震えているのは、自分もだった。
いよいよ、だ。
身体中が震えてくる。
やっと、やっとここまで辿り着いた。辿り着けた。
零れそうになる涙を拾いながら、マリスは空を見上げた。
高い高い塔の上。
間もなくこの地に奇跡が起こる。
姉が定められた婚姻の言葉を紡ぎ出す。
合わせるように、マリスの緊張も最高潮に達してきた。
彼は自分と同じように過去に戻ってどう過ごしていたのだろう。
そもそも彼は記憶があるのだろうか。
もし、“彼”が現れなかったらどうしよう。
そんな期待や不安が膨らんでは萎み、腰が抜けたのか足に力が入らなかった。
今必死に儀式を進める姉には申し訳ないが、この儀式は失敗する。
入隊式は決まった台詞を言うだけなのだから関係はないはずだが、姉が立つのは“しきたり”として嘘が禁じられている場所だ。
間もなくそこに乱入者が現れる。
そしてそれは、姉にとって忘れられない出来事になるだろう。
だが、ふと、マリスは思い至る。
もし自分が手を出せば、そもそもそんな事態にすらならない自信がある。
不意を突かれたとしてもその程度なら対処できるというのに、今は事前に知ってしまってすらいるのだ。
どうやっても好きなように彼の落下地点をコントロールできてしまう。
そうなれば、彼は、姉と婚約しなくても済む、ということになるのではないだろうか。
未だ現れぬ彼を見上げ、はっと我に返って必死に頭を振った。
いつまで経っても彼は現れない。そんな邪なことを考えていたからだろうかと自分を戒め、何度も何度も目を凝らす。
だがそのとき、塔の上に、何らかの気配を拾った。
身体中がガチガチに固まっていく。
彼が、来る。
最初になんて声をかけようか。それだけは、何度考えてもいいアイディアが浮かばなかった。
何年も思考を費やしてきたというのに、考えがまとまらない。
いや、下手に考えるな。彼と話していたとき、そんなことを考えなくても自然に話せていたではないか。
だから自分は大丈夫。
この先ようやく、自分が願った世界が訪れる。
ようやく、自分の意思で、長い旅を始めるのだ。
太陽が照らす塔の上、光が、何かの気配が、世界の裏側からの気配が、強くなっていく―――
「……ぁ……」
そこで。
マリサス=アーティは、理解した。
気づかぬうちに、頬に、涙が伝っていた。周囲からは、姉を見送る、感動的な妹の涙に見えているだろうか。
隣の母にも聴き取れぬほど、掠れるように小さく呟いた。
「もうすぐ……、だったのに」
―――この意思は、間もなく、消える。
すべて。すべて理解した。
記憶を有する逆行は、許されない。
ゆえに自分は罰を受ける。
自分が見ないようにしていたこの魔法の代償を、この魔法の神髄を、今この瞬間に理解してしまった。
そうだ。そんな都合のいい話はない。
自分は知っていたはずだ、魔法にも立派に対価があるのだと。
そんなものに自分の意思を介入して大きく過去に戻ったり、歴史の流れを変えたりしたのだ。そんな自分が、見逃されるはずがなかった。
この日のためだけに生きてきた。
必死に自分を殺して。
たったひとつに縋って。
願い続けてきたその瞬間、自分はすべてを失うのだ。
見事なものだ。自分にとって最も辛いことを、代償として支払うことにしてくるとは。
もうすぐ自分は、自分の知らない“マリサス=アーティ”になる。
そのマリサス=アーティは、いったいどういう人物だろう。身体中が震えるほどの恐怖を覚えた。
いやだ。
どうしても、いやだ。
自分の意思が、逃れようとうごめくが、どうしようもない何かがそれを容易く抑え込んでくる。
逆らう気力が起きないほど絶対的なその気配に、しかしマリスは辛うじてしがみついてみた。
誰も気づいていない塔の上の光が、強くなる。
もう“自分”には何もできない。
今の“自分”は、最後の最後、消えかける残滓のような、ちっぽけな存在でしかなかった。
だけど、想う。
自分は、彼のことをどう思っていたのだろう。
姉の婚約者。この地獄のような日々の唯一の救い。いや、それよりも、自然に話せる相手というのが今はしっくりくる。
これは恋なのだろうか。それとも友情なのだろうか。
自分の気持ちは、始まってもいないことに今更ながらに気づいた。
その答えを見つけられるかもしれなかった旅に、どうやら自分は付いていくことはできないらしい。
姉は、“未来”のように、きちんと旅立つことになるのだろうか。
最初は喧嘩ばかりだったと聞くが、ちょっとでも拗れると旅自体が無くなってしまうかもしれない。
念を押すように、姉に願った。
大丈夫。彼は、立派に勇者として、魔王を撃破して見せたから。
“マリサス=アーティ”は、ちゃんと旅に出ることを選択してくれるだろうか。
自分のことながら分からない。
興味ないの一言で、彼と姉の旅立ちをこの村で見送ったりしないだろうか。
そうなったらすぐにでもこの意思は蘇って殴り付けてやると自分を脅してみる。
彼との旅は、多分後悔だけはしない旅だろうから。
彼は、具現化を持ち込んでいるのだろうか。
自分自身を信頼しない彼。どこにでもいる、ありふれた彼。
突出した力を持った彼は、きっと、当たり前のように堕落しそうだ。
ああ駄目だ。彼のことを少しでも思い起こすと、自分は笑ってしまいそうになる。
それでも彼は、少しくらい、足掻こうとしてみるだろうと思えた。
消える。
意識が、遠くなっていく。いや、はっきりしてくる、が正しいのだろう。
“マリサス=アーティ”が、目を覚ますのだから。
ようやく思えた。自分自身が、羨ましいと。
このまま消えるのも面白くない。
この絶対的な“何か”に、最後の最後に、挑戦しよう。
自分が、意思が、消えてしまう。
だけど何かは残せないか。
もし自分が、たったひとつだけを選ぶとしたら。
「想いだけでも……残るといいな」
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後書き
読んでいただいてありがとうございます。
どんどん更新頻度が下がっているうえに番外編ですみません……。
コロナ禍で、身の回りの生活が一変しており、なかなかまとまった作成時間が取れていませんが、少しずつでも完結に向けて頑張っていきます。
(次から大掛かりなお話になる予定です……)
では…