サウスタウンへ向かう道は幾つかある。
陸、海、空。全てといっていいだろう。列車もあれば港もある。巨大な道路もあるし、何と空港までもある。
その中で、地下鉄ではなく、古き良き大陸鉄道の趣を残す列車の荷台に、一人の男が眠っていた。
くすんだ金髪に、茶色い革のジャケット。一見ホームレスかのようにみえる薄汚れた姿だが、しかしこの男は全米格闘技チャンプであるケン・マスターズにも劣らぬほどの有名人である。
事によれば、サウスタウンにおいて合衆国大統領よりも有名人かもしれない。
サウスタウン・ヒーロー。テリー・ボガードである。
この男こそ、十年前に――望む望まないは別にせよ――サウスタウンを支配していたギースを倒し、サウスタウンを犯罪組織から開放した英雄であった。
普段テリーは根無し草のごとく、全米をふらふらと放浪している。
全米格闘技選手権などといった大きな大会には滅多に出ないが、しかし路上格闘技大会や、たまに出る大きな格闘大会などにでれば必ずと言っていいほど優勝をかっさらう為に、今でもテリーの知名度は高い。
時折連絡があって講演やら映画出演やらをこなしているために生活費に問題はないが、定住している場所がないため、連絡先にされている場所にとっては困り物ではあった。
しかしそのテリーが一週間前にサウスタウンを出た後、まるでとんぼ返りするかのように舞い戻ってきたと言うことは珍しい。
テリーをサウスタウンへと舞い戻らせた理由はただ一つである。
(……ナイトメア・ギース、か)
つい三日ほど前、サウスタウンの高級ホテルで、かの高名なケン・マスターズが何者かに襲撃され、重傷を負う事件が発生した。
ケンとホテル、両者が事件を公にしたくなかったために新聞などには嗅ぎつけられなかったが、それでも格闘家の世界では話が駆け巡る。
テリーの連絡先にもその事が伝わってきた。その事件が格闘家の間で何と呼ばれているかも、だ。
『ナイトメア・ギース』
ギース・ハワードの亡霊が蘇り、サウスタウンを再び支配しようとしている。
そういう、話であった。
すぐさまテリーは予定だったニューヨーク見物を切り上げ、サウスタウン行きの列車に乗り込んだという訳である。
「おい、テリー」
そんな荷台にかけられる声があった。男性だが、まだまだ高めの、爽やかな声である。
かけた声は返答がないのを不思議に思ったのか、二度三度と声をかける。
「聞こえてるよ、ロック。言いたいことはわかってるさ。なんで楽しみにしていたネイサンズのホットドッグを諦めたのか、だろう?」
「……あってるけどちげぇよ。なんでわざわざニューヨークから引き返すんだ?」
「どうせいくなら独立記念日にいって早食い選手権でも見物にしようかと思ってな。
……怒るなよ、冗談だ」
声をかけてきたのは、赤と白で彩られたジャケットを着込んだ青年であった。
どちらかといえば中性的な顔立ちをしており、着飾ってダンスパーティーにでも放りこめばさぞや声がかかるだろうと予想される優男だ。
だが、彼の素性を知る人間はそのような甘い想像をしたりはしない。
彼の名はロック・ハワード。
ファミリーネームからわかるように、かのギース・ハワードの忘れ形見にして、義父にテリー・ボガードを持つ青年である。
(……俺が殺してしまう羽目になったお前の親父が蘇った。だから、それを確かめにサウスタウンにいく、なんてのは。言えるこっちゃないよな)
テリーが心中で呟く。
かつてテリーは、ジェフ・ボガードという義父をギースの手によって殺害されている。
その復讐のためにテリーは拳を磨き上げ、サウスタウンで復讐の戦いに身を投じた。
三度に渡る戦い。そして、その内、二度がテリーの勝利に終わった。
そして、ギースは二度死ぬ。
一度目の戦いは復讐心のままにテリーがギースをビルからたたき落として。
二度目は、しかし生きていたギースと、その理由であった秦の秘伝書なる存在の騒動の最中、ギースがその秘伝書に操られた兄弟を倒すも、テリーがそこに駆けつけたために、勝利とも敗北ともつかぬ決着。
そして、三度目。復讐心ではない、何かに突き動かされたテリーが戦いの末に、ギースがよろけてビルから転落して。
その最期は、テリーの差し出した手すらも振り払って、テリーには意味のわからぬ、笑みを浮かべて、自ら落ちていった。
因果か、己の手で己と同じ境遇――父親を失わせる結果となってしまったロックを拾い、ここ十年ほどテリーは全米を放浪し続けていた。
自らの技をロックに教え込む内、ロックが何時の間にやら烈風拳やレイジングストームといった実父の技を扱っているのに気がついた。
狼の血は死に絶えてはいない。それをテリーがどう思ったかは定かではないが、テリーはその技を封印しろと言った事は一切ない。
むしろ、穏やかな目でそれを見守ってきたほどだった。
だがそれでも、自分が殺した本当の父親が、亡霊となって現れたなどは言えるはずがない。
それはテリーに十年の間に芽生えた父性というものから来ていた。
「アンディが、さ」
「ああ……日本にいるっていう?」
「弟子を取ったんだとよ。不知火流の」
アンディとはテリーの弟である。ただし、血は繋がってはいない。
現在は日本に残る忍者、不知火流のくノ一と一緒に日本に在住している。
元々アンディの流派、骨法を学んだ師匠が不知火流の忍者であったのだが、その孫娘といい仲になったらしく、籍こそ未だにいれてはいないが、既に内縁の妻の状態であるという。
「自分の骨法も、不知火の忍術も教え込んだ自慢の弟子だそうだ。
それが突如、サウスタウンに行ってくると書置きを残して家出……保護してくれ、ってさ。
それなら俺が適任じゃないかって事で、サウスタウンに向かうことにしたんだ」
これは半分事実であった。
パオパオカフェというテリーの連絡先にしているカフェから一週間ほど前に連絡があったのだ。
だがその時点でテリーは保護になど向かう気がなかった。
自分もかつて幼少の頃に復讐のための力をつけようと放浪したものだ。
男ならば旅の一つや二つしなくてはならない。
そう考えていたので、無視をするつもりだったのだが、ロックに対する言い訳としては最適なように思えたのだ。
「へぇー……でもだったら最初から俺にも言えばよかったのに。黙ってるなんてひどいぜ、テリー」
「身内の恥だから黙っておきたかったんだよ、勘弁してくれ」
苦笑いを浮かべながらテリーが起き上がる。
三十半ば、既にピークを過ぎ、下り坂にあるはずの肉体は、しかし尚荒々しい力強さを放っている。
(…………タン先生の話じゃ、既にギースの噂は駆け巡っている。
なんでも、あの極限流まで動いたって話だ。こりゃ……サウスタウンがキナ臭くなるな)
東丈という男がいる。漢字で書くとわからずとも、ジョー・東、ハリケーンアッパーのジョーといえば、今でも熱く語ってくれる人は多いだろう。
元大阪出身のボクサーであるが、日本人でありながら単身タイに渡り、あっという間に連戦連勝の伝説を築き上げ、初の日本人ムエタイチャンプにまで成り上がった男である。
アメリカンドリームではないが、タイドリームをつかみとり、己の拳だけで成り上がったという、その道の人物にはまるで理想像のように崇められる男であった。
気功を用いず、己の拳の風圧だけで竜巻を起こし、ハリケーンアッパーという必殺技を扱うというから、何とも凄まじい男である。
今現在は妻を娶り、タイで後進の育成に務めているが、そんなジョーが珍しく長電話をしていた。
正装することをあまり好まず、さっぱりした竹を割ったような性格のジョーは、電話も基本的に短い。
恋人時代であった妻にはなんだかんだと長く話していたのだが、それでも友人と話すときはえらく短い電話に驚いたと妻に語られている。
「……ああ、アンディ。気をつけろよ、タイが騒がしい」
アンディ・ボガード。ジョー・東。この二人とテリーを合わせた三人は、十年以上前のサウスタウンで開かれた格闘大会よりの腐れ縁である。
その格闘大会こそが、初めてテリーがギースを倒したザ・キング・オブ・ファイターズであるのだが、以来三人は時折連絡を取り合う仲になっていた。
『君もか。先日山田先生からも電話があったよ。柔道界の上のほうでざわついてるってさ』
「鬼の山田が?」
電話口の向こうからアンディの声が帰ってくる。
鬼の山田。第二次大戦前から柔道界に在籍し、引退して久しい今でも、山田十平衛の名を聞けばその恐ろしさに震え上がる柔道関係者は多いという。
かつてアンディが不知火流に師事する前に、短期間教えを乞うたことがあった。
『ああ、なんでもアメリカ遠征に出かける予定だった金メダリストに、アメリカ側からサウスタウンにだけは近づくなとお達しがあったみたいだ』
「……そうか。こっちはな、帝王が動いたよ」
ジョーの声音が少し厳しくなる。
『帝王? それって、もしかして君が唯一勝ち星をあげれなかったっていう?』
「俺と帝王の全盛期は被ってなかったからな。順々に帝王の座はヌアカン、サガット、ホア・ジャイ、そして俺だ。
とはいえ、俺は無論のこと、他のチャンプがムエタイチャンプとして君臨してた時も、帝王の仇名だけは絶対につけられなかった。
それだけサガットの影響力は絶大だったんだよ」
かつてジョーが全盛期の折、サガットに勝負を挑んだことがあるのだという。
最初にテリーがギースを倒した直後だというから、ハリケーンアッパーを更に強化した、スクリューアッパーを会得した絶頂期だろう。
だがハリケーンアッパーもスクリューアッパーも通用せず、挙句の果てには黄金のカカトと名付けた、切り札であるかかと落としですら難なくさばかれてしまったらしい。
しかしムエタイチャンプの意地か、己の持つ全ての技量を叩きつけて来たとジョーは語った。
「二メートルを超える巨人だ。そいつが全力でアッパーカットをしてみろ。
ヘビー級チャンプのストレートを顔面に受けてもこらえた俺だが、一瞬で意識が銀河の彼方まですっ飛んでった」
『…………ジョー。じゃあ僕も言うか言うまいか迷っていた話をするよ』
「んぁ? なんだよ、今更水くせぇな。なんだなんだ、舞ちゃんと喧嘩でもしたってか?
いい加減お前も子供でも作れよな、良い年なんだからよ」
『クラウザーが、動いた』
ジョーの表情から、一切の全てが消え去っていた。
同時刻、ヨーロッパで一つの喜劇が起こっていた。
ドイツにあるシュトロハイム城という場所に、あるボクサーが招かれたのだ。
男の名はダッドリー。そして招待した男の名はヴォルフガング・クラウザー・フォン・シュトロハイム。
アンディが電話口でその名を告げた瞬間、ジョーの表情から全てが消え去った男である。
フォン、と名に付くことから分かるとおり、シュトロハイム家はドイツの古い貴族である。
無論、貴族制度が大手を振っていた時代からは違い、領地も何も持つ訳ではないが、シュトロハイム家はある種、現代でも領地を所持していたのである。
ヨーロッパの闇。そう揶揄されるほど、シュトロハイム家は古くから裏社会を牛耳ってきた。
麻薬や人身売買といった、格を下げるような犯罪をする訳ではないが、シュトロハイム家が関与する事業や裏のしきたりに一歩でも足を踏み入れた瞬間、その人間はその一歩を地獄の底まで後悔しながらこの世から消え去るといわれている。
そして何よりも恐ろしいのは、そのシュトロハイム家当主自らが持つ武力である。
最終的に物事を決めるのは腕力であると言わんばかりに、理知的でありながら、この世全ての格闘技を超えるとまで言われた独自の格闘術を、当主は必ず修めているのである。
そして招待されたダッドリーとは、イギリス王室からサーの称号を賜り、没落した家を己の拳だけで盛り返したパーフェクトボクサーである。
ヴォルフガング・クラウザー・フォン・シュトロハイム。その名を、ダッドリーも聞き及んではいた。
しかしダッドリーが主に知るのは表の顔である。
芸術と音楽を愛する理想的な紳士であり武術や馬術も嗜む古きよき貴族。
裏の顔を知る者も極々僅かであり、謎めいた家柄の噂話程度が聞こえる程度である。
当然、イギリスにおける紳士社交界にもクラウザーは度々顔を出すし、サーの称号を賜るダッドリーも幾度か顔をあわせたことがある。
だがそのたびにダッドリーは
(二度と会いたくない)
そう感じてしまうのだ。
「どうした、Mr.ダッドリー。食が進んでいないようだが……」
「失礼。クラシックの荘厳さに聞き惚れていた模様で」
言いながらダッドリーはボクシンググローブをつけたまま、器用にナイフとフォークを使っていた。
当然彼の装いは紳士的ではない。ともすれば、ファッションに厳しいイギリス社交界では出入り禁止を申し付けられかねない程だ。
だが彼はそのたびに丁寧に説明している。
「私は恐れ多くも女王陛下よりサーの称号を賜りしボクサーだ。その騎士が、自らの武器であるグローブを常に身につけずして如何に騎士を名乗れようか」
まさにパーフェクトボクサーと名乗るほどのことはある。これには女王陛下も痛快に思ったのか、特別にパーティーでグローブをつけたままの参上を許した。
英国格闘技界の至宝といっても間違いではないのだ。
かつて英米の親善試合として、全米キックボクシングのチャンプ、フランコ・バッシュと対戦した時も華麗な戦いを見せ、紳士的に勝利を収めた。
しかし、そのダッドリーでも、自分の城にクラシックの楽団を常に抱えているクラウザーの経済力と感性には少し首を傾げる部分があった。
食事をしているこの場でも、楽団という訳ではないが、数人のバイオリニストやピアニストが常に音楽を流しているのだ。
「ふふ……女王陛下もずいぶんと君を大事にしているようだ。
私が君を招待したと知られた瞬間、MI6が飛んできたよ」
「それはそれは、何かの手違いでしょう。クイーンが取られては勝負はお終いですが、ナイトが取られても投了はしない」
クラウザーが微笑をたたえながら、しかし眼光鋭くダッドリーに話しかけると、一見涼やかにダッドリーは切り返した。
だがその背中は冷や汗が伝っている。
クラウザーとダッドリーは長テーブルを挟んで五メートルほど離れている。
本来はもっと豪華なテーブルなのだが、今回は会話を楽しむということで短めのテーブルを用意されたらしい。
ここから椅子を蹴って立ち上がり、自分の右ストレートをクラウザーの顔面に叩き込むまでに何秒かかるか。
そしてその秒をコンマ単位でどれだけ削れるか。ダッドリーはこのテーブルについた時からその事ばかりを考えていた。
しかしそれでも一糸乱れぬテーブルマナーは流石のパーフェクトボクサーといえるだろう。
「そう固くならないでくれ。私は確かに芸術的な戦いを好むが、それでも野蛮で好戦的という訳ではない。
今日は純粋に英国紳士との語らいを楽しみたいだけなのだよ」
さも愉快そうにクラウザーが笑う。
カチャリと仔牛のステーキを口に運び、優雅に口元を拭いて傍らに控える執事にワインを注ぐように命じる。
「最近シュトロハイム家の領地に不遜にも土足で踏み入る愚か者が多くてね。
そういった品のない戦いばかりをしていると、君のような紳士と語らいたくもなるのだ」
「……ほう」
シュトロハイム家の領地――つまりは裏社会の権益ということだ。
シュトロハイム家の何が怖いかといえば、その圧倒的なまでの実力主義にある。
元々ヨーロッパでは血族というものが重視され、家柄というものが日本人の考える以上に重要な代物であるのだが、シュトロハイム家は家柄に加え、世界最高峰の格闘術、財力、そして武力まで持ち合わせている。
その領域に足を踏み入れなければ君臨する帝王のごとく不動であるが、一歩足を踏み入れれば、翌日にはその組織が瓦解していたなどということは珍しくもない。
だがそのシュトロハイム家に楯突き、未だ生きながらえる組織があるという。
裏社会にはあまり関わりたくないと思っているダッドリーも、それは興味深い話だった。
「シャドルーという組織と、天帝と名乗る男なのだがね。理想社会実現の為に世界征服を成し遂げるなどという、馬鹿げた誇大妄想を掲げている」
「……シャドルー。随分と手広くしたものですな。ボクシング界でも品のない連中がスカウトされて迷惑したと聞いております。そして天帝ギル。聞いた覚えがありますな。父のジャガーを持つ男だ」
「ふむ。パーフェクトボクサーの唯一取り戻していないものか。
…………シャドルーといい、その組織といい、我がシュトロハイム家の威光を大きく示さねばならぬとは、世界は手狭になったものだな」
「それは同感です。表社会と裏社会が混ざり合うのは勘弁願いたいものですな」
ダッドリーがピシャリと、今後呼びつけるのはやめてくれとクラウザーに伝える。
普段、クラウザーがこのような物言いをされれば、すぐさま相手は壁のオブジェへと変貌してしまうだろう。
だがクラウザーは敢えてソレをしない。
ダッドリーが自分に対して如何にパンチを叩き込むかを考えているか、などとクラウザーにはお見通しである。
如何に頭の中だけで考えていようと、ボクシングで生きてきた男の体は、その想像を的確に筋肉の反応として示していた。
そしてクラウザーにはその動きを全て封じ込め、相手をたたきのめすことも容易ではあったのだ。
「女王陛下の御尊顔をこれ以上悲しみに曇らせたくはない。私も紳士だ……これからは私がパーティーに参上することにしよう」
ダッドリーは一瞬だけ苦悶の表情を浮かべた。勘弁してくれ。
この後、確かにダッドリーが裏社会に関わることはなかった。
しかし、クラウザーより天帝ギルの名を聞き及び、意識しはじめ、因縁として成り立つのはこの時を境だというのも、実に皮肉な話ではあった。