「なんて、言ったのかしら?」「──断るって言った。二度も、言う必要があるか?」 ──空気が、軋むような音がした。 息を呑む。 どちらも、譲るつもりはないのだろう。「それは、宣戦布告ととっていいのかしら」 春香の意志の見通せない瞳に、初めて感情が宿った。 研ぎ澄まされた、──殺意。「──いや? ただの忠告だよ。 その勘違いを、わざわざ訂正してやろうとしてるわけだ。お前さん、少しばかり過保護すぎる。飼い犬なら飼い犬の分を外れるな。飼い主が迷惑するだろう」 金田城一郎が、天海春香の正面に対峙する。「プロダクション社長の役割なんてたったひとつ。自分が盾になって、自社のアイドルを守ることだ。 アイドルに守られるようじゃあ、筋が通らない。 それにどっちみち、あの嬢ちゃんは、一度どん底まで突き落としておかなければならない。──負けても、失うものの少ない今のうちにな。 今、焼き直しておけば、ちょっとは使えるようになるだろうし」「………偉そうね。いきなり押しかけてきて、何様のつもりかしら?」 冷え冷えとした春香の声が、シンとした室内に響く。「それだけだが。まだ不満そうだな」「いいえ、確信しただけよ。 あなたは、どう使っても会社のプラスにはならないし、美神お姉ちゃんの味方にもならない。そうね。あなたのセリフをそのまま返してあげる。あなたは、今のうちに私がたたき潰しておかないといけない。お姉ちゃんに、害を成すその前にね」 春香は、手にもった扇子で、テーブルの上のバスケットからリンゴをひとつ手に取ると、 ──そのまま扇子の上に乗せた。 横回転したリンゴを乗せると、扇子に内蔵された刃が滑るようにリンゴの皮だけを削っていった。 で。 ──なんの曲芸なのよ、これ。「あ、春香さん。食べ物を粗末にしたらダメですよ。というわけで、これは私が有効利用しときますねー」「やよいズルい。ミキにも半分ちょーだい」「むー。半分だけですよー」 こ、こいつらは。 続けて、やよいと美希は、リンゴ一玉を、ミキサーでリンゴジュースにするか、そのまま直接口に入れるかで揉めていた。「あなたに、選ばせてあげるわ」「春香ってば。なにを選ぶの? リンゴジュース?」 美希が、あまりにも自然に春香を呼び捨てた。「ううん。春香さんはきっと、素材の味を生かす方向を選びますよ」「あんたら、本当に空気読めないわね」 私は、それだけを言うのが精一杯だった。「さあ、選ばせてあげるわ。 このリンゴのように、顔の皮を剥かれるのがいいかしら? それとも、素材の悲鳴(あじ)を生かす方向で、爪の間につまようじを差し込まれるのがいい?」「………どっちも嫌だな」「まあいいわ。 一週間後には、ワークスプロダクションの総力を挙げて、貴方たちを迎え撃ってあげる。 私がいる限りは、油断も、慢心もない。 それを覚えておくことね」「ああ、さっきまではあんなに仲がよかったのに」 シリアスな空気は、あずさの泣き崩れる演技で、一応格好がつく形になった。「ええと、こいつら、もしかして全員ボケなのかしら? ──ってちょっと春香。 待って。 待ってってば。 このボケどもの中に、私をおいてかないでよ」「で、春香ってば結局なにしに来たのかしら?」「ああ、伊織はいなかったな。一週間後の対決の日取りを決めにきたんだろう。 さて、日時は一週間切ったわけだ。 もう一時間も無駄にできないからな、さっさとレッスンを始めるぞ」「いつの間に、人の名前を呼び捨てにしてるのよ。アンタは。やらないって言ってるでしょうが。 やよいも、こんなのに騙されちゃだめよ。コイツらは、私たちを利用しようとしてるに決まってるんだから」「わかってるよ。そんなこと──」「え?」「言われなくても、わかってるもの。 伊織ちゃんが心配してる理由も。 でも。 私が、プロデューサーさんのことを信じたいと思ったの。 私、知ってるよ。 誰でも良かったんだって。 社長が、プロデューサーさんを負けさせるために、私を指名したっていうのも知ってる。 私が勝つことなんて、誰も期待してないんだよね。それもわかってる」「やよい──?」「でも── それでも、 夢をみたいの。 諦められないの。 私は、もう一度だけ、自分の可能性に賭けてみたいの」 ──澄んだ瞳だった。 私がいつか憧れた、そのままの高槻やよいの姿だった。「伊織ちゃん。私、まちがってるかなぁ?」 彼女はもう、不安そうな顔はしていない。 ただ、前だけを見ていた。「………やよい」 ああ。 ──私の、負けか。一度、こうなってしまえば、やよいは絶対に自分の言葉を翻したりはしない。 まだ一年にも満たない付き合いだけれど、それぐらいは、私にだってわかる。 ううん、違うんだ。 誓ったじゃないか。 どこの誰が否定しても、たとえ、世界中の誰がそっぽを剥いても、私だけは、やよいの味方でいる。 それを── 水瀬伊織が、水瀬伊織自身に誓ったのだ。 だから。 本来なら。 言葉なんて、交わさなくても。 私が、最初にやよいの気持ちをわかってあげなければならないはずだった。「話は纏まったか?」「まとまったわよ。 まとまっちゃったわよ。 まとまっちゃったのよ」 私は、正面を向いて、前髪をかきまぜた。 ──ってわけで、私はまったく全然納得できてないけど、やよいの頼みだから、仕方なく認めてあげるわ。──ビシバシいくからね。 じゃあ、よろしくねプロデューサー。私のかわいさを損ねたりなんかしたら、承知しないんだから」 不満を残した私の態度が、ほほえましいものとでも映ったのだろうか? 金田城一郎、もといプロデューサーは、笑いをかみ殺したようだった。「上手くまとまったところで悪いが、俺は別に誰でもいいから高槻やよいを選んだわけじゃない」「え?」「弱い奴を勝たせるのが好きなんだ。強いアイドルじゃあ、あのひりつくような緊張感は得られない」「根っからのギャンブラーってこと?」「強い奴につくなんて、そんなみっともないことができるか。と言った昔の偉いひとがいるらしいが、名言だよな」 私の質問には答えずに、プロデューサーはそう返す。「それで、これからどうするの? レッスンなら、さっさと進めてほしいんだけど」「それはやるが、その前にとりあえず、天海春香が気にかかるな。どんな手段に出てくるやら」 プロデューサーが、難しい顔をして黙り込む。 たしかに、相手の出方が不気味すぎた。 相手は、まがりなりにも天海春香。 最悪の一歩先ぐらい想定していて、まだ足りないぐらいだ。 けど、 わかってしまえば、なんの問題もないってことだろう。「なんだ。そんなこと? ならまかせといて。水瀬財閥所有の、戦略監視衛星があるわ。人一人をストーキングするぐらい楽勝よ。にひひっ」「──俺は今、お前だけは敵に回さないことを誓った」 プロデューサーが、すごく複雑な顔をしていた。 やられっぱなしだったのが、ようやく一本返せたといったところだろうか。 こんなことで一本とっても、うれしくもないけど。「新堂。ってわけで、『IMBER(インベル)』の情報。こっちに廻して。リアルタイムのね」「かしこまりました」 控えていた新堂が、ノートパソコンを持ってくる。 画面が起動する。専用ソフトが立ち上がり、いくつかのウィンドウが、リアルタイムの映像を映す。 戦略監視衛星、インベルは、正常に起動していた。「どう? いくら拡大しても、全然ラグもないし、画質もハイビジョン並みでしょ。新聞の見出しだって読めるわよ」「こ、これがあれば、私でも迷わずに目的地につけるかも」 背後で、あずさがカルチャーショックをうけているようだった。「ああ、たしかにすごい、けど。天海春香の居場所なんて割り出せるのか?」「うちの会社の携帯電話には、ナイショでGPSが埋めこんでるわ。春香の携帯電話のコードはっと──」 天海春香で検索すると、一件がヒット。「ほら、出たわ。これは、喫茶店に入ってるわね」「ってことは、待ち合わせでしょうか?」「うーん。ってことはだ。伊織、入り口にカメラを固定してくれ。待ち合わせ相手が入って行くにしろ、出て行くにしろ、必ず入り口を通るからな。 さて、あとは大物が釣れることを願うだけだな」「春香さんが、本気を出すって、あまり想像がつかなくて。うーん」 やよいが悩んでいる。 同感だった。「あ、歩いてくる怪しい人がいるよ」 美希の言葉に、画面に食い入るように飛びつく。「馬鹿な」 プロデューサーの、声。 そこに存在していたのは純粋な、驚愕。 西園寺美神を前にしても、天海春香を前にしても揺らがなかった鉄面皮に、ヒビが入っていた。 私には、彼がなにを恐れているのかもわからない。「なるほどな。たしかに、相手にするには最悪の相手か」 ずいぶんと、含みを持たせた言い方だった。 その口調に混じるのは、懐かしさに似たようなものだろうか? モニターに映るのは、ロングカーディガンとスキニーデニムを着こなした、背の高い女性。歳は、おそらく二十代の後半。 一級の女優としても通用するであろうルックス。 しきりに、腕時計の時間を気にしている様子だった。待ち合わせ、というふうに見える。相手は、やはり天海春香なのだろうか。「で、プロデューサー。ダレ、これ?」「尾崎玲子。無所属の、フリープロデューサーだよ。天海春香が、彼女にプロデュースを依頼した、というカタチだろうな」「フリープロデューサーって、普通のプロデューサーと、なにか違うんですか?」 やよいが、首をかしげた。 それは、違うんだと思う。いろいろと。 具体的に、なにがと言われると、答えられないけれど。「普通のプロデューサーは、会社から給料が出るが、フリーのプロデューサーの場合は、アイドルに雇われるカタチになる。まあ、給料の出所が違う、ぐらいの認識でいいんじゃないか?」「はー」「それで、なんでこの人が天海春香と会っているのか、だが」 びりっ、と。 画面にノイズが走った。 ざざざ、と画面が砂嵐に変わる。「おい。伊織。カメラの調子が悪いぞ」「馬鹿言わないでよ。そう簡単に故障したりするようなものじゃないはずよ」 私は、手元のパソコンを覗き込む。 再起動をかけるが、操作を受けつけない。あれ、なにこれ?「え?」 画面が回復する。 さきほどまでの画面はどこかに取り払われて、モニターには、ひとりの少女が映し出されていた。「フッフッフー。ジャッジャーン。可愛さパラマックス、電子の妖精サイネリア。あなたのお宅にただいま参上デス」「………………」 画面に映し出されたのは、まるで妖精を思わせるような少女だった。ゴスロリ衣装が、よく似合っていた。 左手を交差させて、なぜだか仮面ライダーの変身ポーズを決めているあたり、普通と言う概念からはかなりズレている気がするが。「あー、うん。そうか。尾崎さんが出てくる時点で、お前も出てくるよな。サンアントニオさんじゃないか。元気か?」「チガーウッ!! 私の名前はサイネリアっ。っていうか、なんですかカネゴン。そのプロレスラーみたいナ名前はっ!」「お前、アントニオにだけ反応したろ」 やはり、というかプロデューサーの知り合いらしい。 ちなみに、サンアントニオっていうのは、テキサスかどこかの都市の名前だったはず。いや、そんなのどうでもいいのだろうが。「ええと、サンダーバードさん、でいいんですか?」「いいわけないでショーっ!!」「落ち着け、サの字。ハッキングしてまで人の話に割り込んできたからには、なにか話があるんだろ? っていうか、こんなことができるあたり、お前本当に、電子世界の妖精だったのか?」「用なんかないデス。ただ、運悪くロンゲこと、悪の怪人ダークオザキラー(尾崎玲子)に捕まってこきつかわれてるだけで。 だから、これからはサイネリアバージョン2。もしくは、ダークサイドに落ちて黒くなった、ダークサイネリアと呼んでクダサイ」 画面の中の少女は、よよよ、と泣き崩れていた。「それでダークサイドクロニクルズさんは、なにしてるんだ?」「相変わらず、人の話を聞かないデスね」「それより、尾崎さんと一緒にいるんだな。なら、口裏をあわせておいてくれ」「ナニをですか?」「今、尾崎さんと会わせたら、絵理は壊れる」「………………」 モニターの中の少女の表情が、目に見えて曇った。「それが、お前の目的にも適うはずだろう。ネット活動とアイドル活動は両立しない。お前も、いまのままの絵理が好きなのなら、このままを望むはずだ」「そうやって、彼女を腐らせるつもり?」「ちょ、このロンゲ。いきなり割り込んでこないでよっ」 サイネリアと呼ばれた少女をどけて、モニターの画面に姿を映したのは、先程から話に出ていた、尾崎玲子だった。「こんにちは金田くん。ひさしぶりね」 言葉とは裏腹に、そこに再会を喜ぶような甘さはない。 口調からも、内面の芯の強さが垣間見えた。もっとも、天海春香がわざわざ呼び寄せるほどなのだ。生半可な相手であるはずがない。「約束どおり、絵理を迎えにきたわ」 NEXT→『遠い約束』