「真ちゃん。ごめんなさい」「雪歩、来て、来てくれたのか」 二戦目のステージが終わった、その空白の時間だった。姿を現した雪歩に真が駆け寄っていく。 彼女は舞台裏に立っていた。 息を弾ませ、両目に溢れんばかりの涙を溜めている。 よかった。警備員には無条件で中に入れるように頼んでおいたのだが、問題なかったらしい。首から下げられたバックステージパスが、きちんと効力を発揮した結果だった。 「ごめんなさい。真ちゃん。今さらだけれど、私、真ちゃんの隣で、ステージに立ちたい」「うん。もういい。もういいんだよ。こうやって、雪歩がここにいてくれるなら、それだけでいいんだ」 雪歩は、お姫様が着るようなステージ衣装に袖を通している。真と雪歩で、ふたりだけの世界をつくっていた。少女漫画みたいな世界なのか、百合小説みたいなのか判断に困るところではある。 正直、俺は話についていけなくてさっぱり事情がわからないのだが、おそらく当面の問題は解決したことはわかった。萩原雪歩にのしかかる重荷がなくなったこと。彼女がようやく泣けたのだということ。 それだけはわかった。「あ、あの、ごめんなさい律子さん。謝っても謝りきれないのに、また、嫌な役を押し付けてしまって」「いいわよ。私の選んだ道に対して、あなたたちの進む道が、別段楽というわけでもないでしょうし」 壁に体重をあずけて両手を組みながら、『YUKINO』は雪歩の全身を視界に収めたようだった。ん、待て。今なぜかよくわからん名前が雪歩の口から出た気がするのだが。というか、脳がほんの一瞬だけ、理解を拒んだぞ。 「――律子?」「人の名前を気軽に呼ばないで」 おい、マジで秋月律子かこれ。 眼鏡を外すとマジで美人とかいうネタよりなにより、異様なまでのエロさに驚いた。プロデューサーの仕事をしている際には、一人前にスーツを着こなしているように見えたのだが、赤のレザースーツに身を包むだけでガラっと印象が変わる。実に扇情的だ。PVではへそ出しでビキニぐらいの面積をおおっただけなんて衣装も多かった。 今も、胸の谷間がよくわかるような、襟のついた厚めのレザースーツで肌を覆い隠していた。 真冬であることが実に残念だった。 控え室なんて使えるわけがないから、胸元を締めればそのまま外を歩けるような衣装を選んできたのだろう。「『YUKINO』に対する引継ぎとか。ファンへの対応以外は全部、私が面倒をみるわ。ただファンの気持ちだけは、どうにもならないわよ」「うん。これは、私のわがままだから」 かすれそうな、それでいて力強い声で、雪歩がいった。「雪歩、大丈夫か?」「ううん。そうでもないかも。でも、やっとこうやって真ちゃんと一緒に悩めるのが、嬉しくて」「ゆ、雪歩」 うわ、マジでラブラブだこいつら。 いちいち独自の空間を発生させている。 ともかく、律子の言ったことは真理だ。ファンの炎上騒動を、どこまで押さえ込めるのか。高槻やよいとハニーキャッツの関係に通じるところがある。 「いいわよ。誰が誰でも」 伊織だけが、三人に冷ややかな視線を向けている。 このままハッピーエンドなんて、世界はそんな優しくはない。 音楽は、国境を越える。 だが、万能ではありえない。そんなことができるのなら、私がこんな境遇に甘んじている道理はない。水瀬伊織は、無言でそう表現していた。 俺はステージに目を移す。 すでに三戦目は始まっていた。ルール上、引き分けはない。高槻やよいとトゥルーホワイトの対決は、どうやってもあと数十分の間に決着がつく。 まるで暴虐のような、混沌の極みみたいなステージが巡り巡っている。 高槻やよいの『スマイル体操』だった。 会場の子供たちを巻き込み、アリーナそのものを自分のステージにしながら、世界をやよい色に塗り替えている。 やよいは一戦目、二戦目とガラッと様子も変わって、ステージ床に白と黒の鍵盤を描いていた。跳ね回るたびに、鍵盤を踏んづけているように見える。LEDスクリーンには、やよいの個人番組で幼稚園にお邪魔したときの様子が流れていた。画面に入りきらないほどの幼児たちが、やよいの動きに合わせてスマイル体操を踊るさまは、一種言葉にできないものがある。 客席では、ファンの利き腕が音楽のリズムに合わせて、左右に揺れている。それは突風に撫でられる一面のライ麦畑を見ているみたいだった。オレンジのサイリウムが、その光景に独自の色彩を添えている。 高槻やよいは、自らの本日最後のステージを、これ以上ない最高のカタチで締めくくった。 やよいが帰ってきた。 ファンの視線から開放されて、三戦目は終わった。 あとは『高槻やよいのやよい式WEBテレビ』の美希メインの企画がワンコーナーあるが、やよいに関しては今日の山場は超えたといえる。 膨大な熱量を放出しつつ、しっかりと床を踏みしめてたっているやよいに、美希が甘いジュースとお菓子を分けていた。 一旦、照明が落ちて、スタッフがしきりにセットを組み替えている。ここらへんも、スタッフが各々の作業で忙しそうに動き回っていた。「そういえば、伊織。Bランク昇格おめでとう。『READY!!』が売れて、だいぶプラチナムポイントを荒稼ぎしたみたいじゃない」 『YUKINO』兼、秋月律子の台詞は、無遠慮なまでの皮肉に満ちていた。 あまりに直接的すぎて情緒もなにもないが、きちんと伊織を激怒させる程度の効果は見込めたらしい。美希は、横でやよいに今までの経緯を説明していた。 真実だった。 前回から『高槻やよいのやよい式WEBテレビ』オープニングになった『READY!!」は、現時点で八万ほど売れている。 よって、『ハニーキャッツ』はAランクに昇格となり、水瀬伊織と星井美希個人としても、Bランクまで繰り上がっている。まあ、その売上のうちの何パーセントが伊織美希の実力なのか、あえて語ることはしない。テストでゼロ点はあまりだから、なんやかんや理由をつけて二点ぐらいあげる教師の気持ちでも想像してくれればいい。「なによ。どうやら、含みがありそうな感じだけど」「いえ、高槻やよいにおんぶにだっこで、あなたにはプライドの欠片もないのかと思って」 伊織の瞳の奥に、殺気が滲んだ。 ふと、思う。一度別れ、また結びつくふたり、とトゥルーホワイトとの類似性ばかりに気をとられてきたが、やよい伊織の関係は、むしろ『YUKINO』の方が近いのだろうか。「なによそれ」 伊織の表情が崩れた。 戦闘態勢に入る。秋月律子も、改めて身構えるのがわかった。彼女にとってはジャブに近い。鉄壁に近い伊織の精神力は、この程度ではキズひとつつかない。それがわかっていているための、ただの軽口だったのかもしれない。 だが――「アンタに、そんなことまで干渉される云われはないわ。ルールで認められてるなら、それでいいでしょ? 方法がどんなに汚くたって、誰に認められなくたって、三人で、歌えるのならッ!」 やよいが目を剥いた。 美希が、手にしたドリンクを取り落とした。 俺は、あまりの衝撃に心臓が止まるのかと思った。 「――おでこちゃん?」「なによ律子。慰めてでもくれるわけ? そこにいるだけの『置物』同士、傷でも舐めてあげましょうか?」 耳をほじくり返したくなる。 なんだ、この、妙に生々しいもっとも水瀬伊織らしくない返答は。 これは、本当に水瀬伊織なのか。覗き込んだ表情は、暗い影を落としたままで小刻みに震えている。 「アンタには、絶対、なにもできない。今選んだ選択肢を、絶対に後悔する」 伊織の、律子を呪うような苛立った言葉が、ひどく耳に残った。 そして、俺は伊織が人知れず抱えたものを、理解した。理解してしまった。 ――俺はなにを見落とした? ――どうして、これに気付かなかった? ――水瀬伊織は、いつから『こう』だった?『ちょっと待ちなさいよ。私たちが認められるための戦いでしょ? だったら、私と美希がAランクアイドルと戦わないと意味がないでしょ。これ以上、やよいにぶらさがってどうするのよ?』 伊織は、たしかにこう言った。 そして伊織がこの言葉をすべて忘れて、絶望に全身を浸して、まわりのすべてを呪えるぐらい弱かったなら―― ――きっと、そこまで狂えたのなら、伊織は幸せだっただろう。「あはははは」 乾いた笑いだった。 世界は変わらない。自分自身の強さと弱さに全身を斬り刻まれながら、伊織は無力感に全身を絡め取られていた。 「伊織、ちゃん」 支えた自重に耐え切れずに膝をつく。擦り切れたような嗚咽が伊織の喉から漏れた。声にならない叫びが虚空に溶けていく。やよいは、伊織にかける言葉も見つけられず、手も差し伸べられずに、呆然として立ち尽くしていた。「行くよ。雪歩」「うん。真ちゃん」 愁嘆場にいつまでも気を取られている暇はない。真と雪歩には、やよいと伊織と同等以上の、果たさなければならない仕事が残っている。「ボクと雪歩がふたり揃っているんだから、きっとできないことはない」 信念と力強さに彩られた、トゥルーホワイトとしての決意。ひとりでは無力な自分も、ふたり揃えばなんだってできる。夢と互いへの信頼をガソリンにして、ふたりは握った手から伝わる温かさを、もう一度確かめていた。『――私のかわいさとやよいの笑顔があれば、私たちは無敵でしょ?』 壊れてしまった約束に、胸が疼く。 第三戦目、トゥルーホワイトとして生きる以上、再生か破滅かの二通りしか用意されていない。組み変わったステージの前で、菊地真はマイクを握り締めた。「最後の曲の前に、ここにいるみんなと、そしてボクたちを応援してくれたすべてのファンのみんなに、伝えなければいけないことがあります」『はぁ? 萩原雪歩、誰それ?』『なんで真サマと手をつないでるの? マジありえなくない?』『っていうか、空気読めよ』『え、なんで今さら萩原雪歩がしゃしゃり出てくんの?』 そこからは、ほぼ伊織の予言したとおりだった。真と雪歩は、ファンに対して限界まで誠実であろうとした。だから、ファンの反応も、すべてそのまま受け止めなければならない。 非難。 困惑。 敵意。 菊地真のファンたちは、彼女に勝ってほしいと、全身で祈りに身を捧げている。 菊地真は、このままだと高槻やよいに負けてしまう。エース曲を無惨に打ち破られた以上、それが菊地真の最後のステージになりかねないということも。そして、高槻やよいに勝つために、今までにないなにかが必要なのもわかっている。 けれど、断言できる。 ファンの求める偶像(アイドル)としてのカタチは、決して萩原雪歩と重ならない。 それをファンの身勝手さと呼ぶべきか。それともファンの正当な要求なのか。最初からソレが許容できるのなら、彼女たちは菊地真のファンになることは決してなかっただろう。人の嗜好など、そんなものだ。「――もし、許してくれるのなら、これからのふたりのステージを見守っていてください」 滑っている。 真の言葉は、雪歩の謝罪は、いたずらに空気を揺らすだけだった。 まばらな拍手が起こったことすら、奇跡だったのかもしれない。これが、トゥルーホワイトを認めた人間、そして菊地真ファンの総意なのだろう。ふたりの付き合いの理由など、なんの理由にもならない。いきなり出てきたとしてもそんなものが認められるはずもない。 なぜなら―― 萩原雪歩がいない間、菊地真を支え続けてきたのは、ここにいる彼女たちだからだ。 終わっても、悔いは、いやここで終わると悔いしか残らない。そんなステージである。笑っていた。もうどうでもいい。どうにでもなれと、伊織は笑っていた。 俺はそれに、得体のしれない寒気がはい上がってくるのを感じていた。『Tear』 トゥルーホワイトの、エース曲。 別れの曲。未練の曲。想い出の曲。 そして、失ってしまった恋の曲。 ライブで何度か歌われただけで、CDにすらなっていない。 疾走感あふれるイントロを抜けて、ふたりのステージははじまる。 「――何よ、これ?」 伊織の驚愕は、ここにいるすべての観客の言葉を、代弁するものだった。 声の伸びが違う。今までの菊地真のステージはすばらしい美辞麗句とともにあった。ハスキーな低音。力強く踊るリズム。数々の専門誌に書かれたその記事が、すべて間違いだったことに気づかされる。 目の前にある、これは何だ? 腹の底から絞り上げた声に、透明感のある高音が絡む。 交じり合ったふたつの二重奏。菊地真が萩原雪歩を引き立て、萩原雪歩が菊池真を引き立てる。さきほどの菊地真と『YUKINO』のステージと次元が違う。一緒に歌っているとか、息を合わせているとか、そんな些細なことではない。 ブランクから明けた。 ビブラートがきいている。 カンが戻った。 ふたりはステージに輪を描きながら、吐き息がかかるほどの距離にいる。理解させられる。菊地真のファンは、理解のプロセスを飛び越えて、直接感情を揺り動かされている。菊地真は、いつもの王子様の仮面を脱ぎ捨てている。 真は、大切な人を想う年頃の少女の魅力を、全面に出しきっていた。秋月律子が、この曲を最終戦に持ってきた意図が、ようやくわかった。 二曲目の『Inferno』ではこうはならない。誰も、知らない。これほどの可能性が、菊地真の中に眠っていたなんて、大半の菊地真ファンが知らなかっただろう。 ふたり、手を繋いでどこまでも駆け上がっていく。 菊地真の低音には、たいていの歌は押し負ける。 萩原雪歩の高音は、生半可な歌では壊れてしまう。 個性の極みのようなふたつの声が、奇跡的なバランスで調和している。他のアイドルには絶対に真似できない。 全身が痺れている。 胸がいっぱいだった。心が満ち満ちたこの気持ちを感動と呼ぶのだと、今の今まで忘れていた。「せーのっ!!」 ステージは、万雷の拍手で迎えられた。たった一曲からはじまる再生の物語。トゥルーホワイトはその場に、決して消えない存在を刻みつけてみせた。「本当に、ありがとうございましたぁっ!!」 23対77 高槻やよいを、完全復活したトゥルーホワイトが叩き潰す。 奇跡は起こらず、祈りも通じず、ありとあらゆるものを敵に回したうえで、ふたりは降りかかる疑念も悪意をも、なにもかもをねじ伏せた。 伊織は、ステージの煌きの余波を浴びながら、自分が失ったものを噛み締めていた。 「そっか。気づいたわ。私は、こんなステージがやりたかったのよね。力強く、自信に溢れて、そして最後はきっとこんな風に、観客を納得させるようなステージを」 それは決別の言葉だった。 終わってしまった夢と、潰れてしまった自分に対しての。 煌めき、まだ熱の残っているステージを遠いものとしながら、伊織は直視できないぐらいに輝く場所を見つめていた。