重ねて言うが、ここは猫喫茶である。 都合十八匹ものお猫さまたちが転がったりよじ登ったりぶら下がったり丸まったり引っかいたり目標に対して猫パンチを繰り出したりしているわけであり、猫好きにとってここは天国に等しい。 逆に言えば、猫嫌いにとって、ここはこの世の地獄に等しいわけだ。 お猫さまたちは、どこぞに挟まったりクッションで丸まったり尻尾だけを見せていたりと、愛くるしさだけを存在価値として、ここの主役に収まっている。お猫さまたちの存在価値はかわいさであり、可愛さを追求するために存在がある。ボードレール万歳。人に飼い慣らされまくって、野生の誇りなどどこぞに置いてきているようなお猫さまたちだが、自分たちを拒絶する空気の震えみたいなものは感じ取れるらしい。 萩原雪歩は、立ち尽くしたままで震えていた。 竦み。怯え、顔色は信号機よりも青くなって、立っているのすら辛いように見えた。白い陶器みたいな肌と相まって、病的な美しさとして彼女の存在をふちどらせている。 「ま、まこと、ちゃんは、どこ、ですか?」 それでも翳ることのない強烈な意思の光が、俺を串刺しにしている。 ナイフみたいな研ぎ澄ました敵意。 いいな。素晴らしくいい。なにかに目覚めそうだった。こういう、本来虫も殺せないような娘に、心の底から憎まれるのは男の本能を刺激してくれる。「無理するな」 真からは、萩原雪歩の弱点を聞いていた。 動物全般がダメで、チワワ相手に足が竦むほどだという(なぜか虫は平気らしい)が、流石にここまでだとは思わなかった。 こちらとしては、有利なフィールドに足を突っ込ませたい、ぐらいの軽い気持ちだったのだが。思いの外、急所にクリティカルヒットしてしまった。ああ困る。凄く困る。どれだけ気を張っていようが、アイドルというのは普通の中高生だ。 こういう繊細なガラス細工のような娘が、一番取り扱いに困る。さてと。俺は萩原雪歩の菊地真への拒絶がどこから来るものなのか、ここで見極めなければいけない。真から聞いたことを繋ぎ合わせた限りでは、ただ全力で後ろへと逃げているように見えるのだが、それだと『YUKINO』の説明がつかない。 「なにか飲むか」「冷たいお茶をお願いします」 萩原雪歩を促す。『猫立ち入り禁止』の注意書きがついた飲食ルームに移動する。あまり広くはない。もとはキッチンだったようでシンクがついていた。流し台にはヤカンが置いてある。三秒に一回ぐらいビクつきながら、お茶の入った紙コップを手にとったころには、彼女はようやく落ち着いたようだった。 なお飲食ルームといっても、売ってあるお菓子とカップ麺のほかに、ジュースの自販機があるだけだ。猫喫茶は生き物を扱う以上、衛生上の問題から食べ物の持ち込みは禁止されている。 「あと、菊地真はいないぞ。連れてきてほしかったか?」「どういうことですか?」「俺なりに気を利かせてやったつもりだ。本人を連れてきたりすると、話が進展しないと思ったんだがな」「真ちゃんに、危害を加えるつもりはないんですね?」「それは、君のこれからの態度次第かな」 萩原雪歩は警戒を解かない。 それでいい。彼女の出方によっては、菊地真にとっても萩原雪歩にとっても、不本意な結果が待っている。「おにーさん。悪役だ。完全に悪役のセリフだ」 呆れたような声だった。 腰まで届くような金髪をテーブルに垂らして、美希が背中をまるめていた。猫にあてられて、少しばかり野生にかえったような気がしてくる。「おにーさん。脅迫文にどういうこと書いたの?」「いや、脅迫文としてはテンプレートな文章だぞ。菊地真のアイドル生命が惜しければなんたらかんたらで、ここの住所と今日の日付と時間をを書いておいただけだ」「アイドル生命ってのが微妙だよね。監禁して顔に傷つける、なんて風にも読み取れるし」「そうか。脅迫文に解釈の生じる余地なんてあったらダメか。でもいろいろ想像させたほうがよかったかもしれないな」「よくないから。ぜったい」 美希に全否定された。 それはそうだ。脅迫文という手段をとった段階で、全否定されて然るべきである。なにやら納得感があった。「そんな実力行使の手段をとるまでもない。菊地真を終わらせるぐらい、俺のプロデューサーとしての仕事の範疇でおさまる」「どういうこと?」「今回のやよい祭りを、次は菊地真でやってみるだけだ。Aランクアイドルのうち、高槻やよいと天海春香と、俺が元担当していた如月千早に働きかけて、菊地真包囲網を敷く。やよいと天海春香と千早の三人に狙いうちされて、果たして真はAランクアイドルの座を死守できるかな」 なにせ、菊地真はAランク六位。 プラチナリーグにおいては、ポイントを毟るよりは毟られる立場にいる。 千早のところはデタラメだったりするが、それでも萩原雪歩には確かめるすべはないだろう。きちんと明確な脅しとして機能するはずである。 事実、雪歩の表情に力が入った。必死に感情を表に出さない努力は認めるが、それでもいちいちリアルタイムで反応している以上、いろいろと筒抜けになっている。 「実に素晴らしいな。なにが素晴らしいかって、実行してもしなくても、どちらでも俺にメリットしかないのが素晴らしい」 打ち解けたとはいえ、真は敵である。 ここで息の根を止められるなら、デメリットよりもメリットが上回る。また昇ってきたのなら、昇ってきた回数だけまた叩き落とす。ファンが諦め、かつて見た栄光が紙屑と同じ価値に変わるまで。「まあ、俺は親切で言ってやってるわけだ。今俺が語ったのはプラチナリーグにおけるただの定石だ。誰に非難されることでもないからな。菊地真は、実に微妙な位置にいたのはわかってただろう。美希、菊地真の最大の武器はなんだかわかるか?」「えーと、おにーさん前言ってたよね。ファンのほとんどが女の子で、他のアイドルとファンが被らないこと」「ああ、そのとおりだ」 俺の独演会はとどまることを知らない。 観客が二人しかいないのがもったいない。特に俺に死ねと言ってくれるお嬢様とか、一言一言に過敏極まりない反応を返してくれる欠食児童とかが足りない。「ファンが被らないことで得られるメリットは、細かくみっつに分けられる」「――それは?」 長い話の間に、少々ペースを戻してきた萩原雪歩が、先を促す。「ひとつは熱狂的なファンがつくこと。ひとつは代用品が存在しないことで、需要を一手に集められること。そして、最後に一番大きいのが、他のアイドルを敵に回さずにすむこと」「え?」 最後のひとつがわからなかったのだろう。 美希が疑問の声をあげた。「言ってしまえば菊地真を潰しても、ファンが流れ込んでくるわけでもない。菊地真のファンではあってもプラチナリーグはどうでもいい、なんてファンがたくさんいるわけだからな。むしろ、主婦層とか、つなぎ止めていたファンが離れていってしまう危険すらある」「ふんふん」「まあ、つまり菊地真は、――他のアイドルから、見逃されていたわけだ。 天海春香は弱いものを狙う必要はなかったし、千早と俺は天海春香へのリベンジに燃えていたわけだし、当てはまらないのはリファ・ガーランドぐらいだったものな。そして当時のAランクアイドル一位であり、優先権を行使して最初に菊地真を潰すべきだったはずの『YUKINO』は、なぜか一度も彼女を指名することはなかった」「……………」 萩原雪歩は、うつむいていた。 無気力でそうしているわけではない。膝上で両拳を握り締め、歯を食いしばって感情を押さえ込むのに全力を尽くしている。「とまあ、俺が言うべきことは以上だ。まどろっこしく言うつもりはない。いや、そこまでしなくても、次のやよい祭り第二戦で高槻やよいが菊地真をがっぷりと一呑みにするだろう。天海春香みたいにエース曲を温存したなんて言い訳は通じない。完全に、立ち直れないぐらいの差をつけて、菊地真は高槻やよいに負ける。プライドも夢も約束も、なにもかもがコナゴナに砕けて終わる。プラチナリーグでは珍しくもない。日常の出来事だ」 話を切り上げる。 今までの話は、これからの『予定』だ。脅したつもりはない。フェイクでもない。ここまでが、俺が示せる好意のボーダーラインだ。彼女が今までどおりに手をこまねいているのなら、俺は容赦なく菊地真に引導を渡すだけだ。「人が人にしてやれることなんて、いくつもあるわけじゃない。『なにもしない』か、『それ以外か』だ。まあ、俺にはどうでもいいことだが」 萩原雪歩は、千円札を一枚置いて去っていった。 俺と美希はまだ時間になっていなかったので、もう少しの間、猫の肉球を堪能することにした。 ――ケジメなんです。 ――きっと、雪歩を待つのも、これが最後だと思います。 昨日の別れ際に、菊地真がぽつりと漏らした言葉だった。あと十日ほどで、次のステージに挑む必要がある。きっと菊地真は、そこで雪歩を諦めるつもりだ。 ――そして。 俺にだってわかる。雪歩を諦めるということは、菊地真のアイドルとしての終焉を意味する。きっと目的もなく、菊地真はプラチナリーグに残ることを望まないだろう。 「それで、まとめると雪歩が『YUKINO』なんだよね」「ほぼ間違いなくな。『YUKIHO』の、『H』の真ん中の棒をナナメにすると『YUKINO』になるし、声もそのまんま萩原雪歩のものだしな。他に解釈の余地なんてないだろ」「でも、おかしくない? 分かり易すぎるよ」 美希の言うことはもっともだった。 萩原雪歩と菊地真の間になにがあったかは知らない。ただ、正体不明のアイドルを演じているとはいえ、美希の言うとおり分かり易すぎる。隠す気がまったくないとすら思えてくる。「どういうことだろ、これ?」「不慮の事態だったとかな。たとえばランクアップがかかっているような大事なステージが始まる十分前ぐらいに、相棒が来れなくなって、急遽ひとりで歌うことになった。本当は『YUKIHO』と書いたはずが、殴り書きしたせいでステージ担当者が見間違えた、とか」「あれ? でも、それだと」 美希の台詞が、一瞬だけこちらの思考を止めた。「――それだと、裏切ったのは真くんって話になるよ」 おかしな話だ。いや、決めつけることはない。なにせこちらはなにも情報がない。ふたりへの、これ以上の干渉は逆効果にしかならないだろう。 残すは箱を開くばかり。あとは仕上げを御覧じろ。 ――そして、混沌と激動の第二戦がはじまる。