案内を任された男は、にこにことしている。 目が切れ長のいかにも強面の男だった。年齢は三十代の半ばぐらいか。庭を掃除している若い連中(それでも俺よりは年上だが)が居るが、明らかに風格からなにから違う。白いスーツの着こなしからして、明らかに小間使いを命じられるような立場ではない。「ふーむ」 上から下まで、男の視線が美希を上から下まで舐めつけた。感情は入っていない。バーコードをスキャンしたような素っ気なさ。「いい女だなぁ。熟れれば旨そうだ」 あけすけに言う。口調に脂っこさが感じられないのは、多分目の前の男の長所なのだろう。「ううっ」 それでも悪寒はするらしい。ブルッと震えて、美希は俺の後ろに隠れてしまった。真の表情が、やや険しくなっている。 板張りの廊下は長い。男の舌はよく動いた。 威圧と懐柔。これはどちらに入るのだろう。 「うちのアイドルをからかわないでください」「いやぁ。悪い悪い。褒めたんだよ。ホントホント」「それはわかりますが」「うらやましいねえ。うちのは俺の浮気がバレたぐらいで、人の懐の拳銃に指をかける有様だよ。ひどいと思わないか?」「ひどいって、なにがですか」 真が、呆然とつぶやいている。ヤクザの女なら、浮気ぐらい多目にみろとでもいうのか。 武家屋敷に住んでいると、感覚も古くなるのか。まさか、男の価値は連れ歩いてる女のランクで決まるとでも言い出すんだろうか? 「奥さんですか? なら、謝るべきでしょう」「いいや。違う違う。ただの女だよ。一番高い維持費を使っている女ではあるけどねえ」 ああ、なるほど。 目の前の中年男のタイプがわかったような気がした。女を車や腕時計と同列に語っている。だったら決まっている。この男は金を、仁義や情や恩を得るためと割り切れるタイプだ。「維持費が月に百万ぐらいかかるにしても、便利だからなあ。クラブで得られる情報やカラダも使えるし、アクセサリ替わりに連れ帰れる」 なかなか、為になる講釈だった。 月百万を、女のために維持費と割り切れる。そこから男のだいたいの年収が想像できる。アクセサリーと割り切った道具に、月収の十分の一以上をつぎ込むことはないだろうから、目の前の男の年収は二億程度か。そのような見極めができる程度には、俺はハナが効く。 立ち振る舞いといい、想定できる年収といい、この男がここのナンバー2らしい。つまりは、若頭だ。ということは、つまり三次団体のトップでもあるはずだ。この国に数万いる若いヤクザが、最終的に目標とするのは、この男の地位。 だいたいそんな感じの役職のはず。「つまり、裏切っても裏切らせるな。浮気してもされるなってことですね」「当然だろう。兄さんは違うのか?」「ええ、俺はアイドルに裏切られるために仕事しているようなものですから」「ほう」「そして、アイドルは俺の想像を越えることをするのが仕事なわけです。これできちんと廻っているわけですね」「なるほど。ためになった」 ふたりほど扉の前に立たせていた。 ひとりは右頬に傷のある男と、もうひとりは痩せた事務系の男。風貌よりもスーツの柄で役割が推測できる。傷のある男なんて、白いスーツの生地に、ハイビスカスの模様が裏打ちされていた。事務系の男は、やり手の営業マンみたいな感じだった。いろいろなのを飼っているようで、実によろしい。「オヤジさんの準備ができました」 分厚いドアの先に現れたのは、そこそこの広さの書斎だった。額縁に飾られた写真が多い。おそらく滑走路で撮った小型飛行機の前に立っている本人の写真。あとは赤ん坊のころの、萩原雪歩の写真なんてものが飾ってある。 本棚に並ぶのは、ほとんどが実用書だった。冠婚葬祭の取り消めからスピーチ、裏稼業全集、ヤクザとして生きる、など、なんとなく神経質な人なのかと思う。娯楽小説といえば、阿佐田哲也のものぐらいだった。 促されて、正面に座る。 ほぼ自動的に相手の底を測ろうとするのは、仕事人間としての悪い癖だった。俺程度に見透かされるような人間ではないし、俺も簡単に手の内を晒すつもりはない。「お久しぶりです。確か、ライブでよく見かけた方ですよね」 口火を切ったのは真だった。 おそらくはトゥルーホワイト時代に、娘の成長を見てきたのだろう。萩原雪歩の父親であるこの萩原組の組長は、真に対してだけは後ろめたさのようなものを感じているかもしれない。 数々の重圧をくぐり抜けてきたものだけに備わる立ち振る舞い。多分、生きるか死ぬかの鉄火場を経験している男に、本来俺が言えることなんてない。「まずはこれだけは言わせてほしい。Aランクアイドル昇格おめでとう。言うのが一年も遅れてしまったが、まだ間に合っていただろうか」「ありがとうございます。ボクも言いたいことがあるんです。大きなライブでは、毎回欠かさずに花を送って頂いたと思います。工務店の名前を使われていたので確信はないのですが、一度、雪歩のことを抜きでも、一度お礼を言いたかったんです」 真の言う花とは、コンサートなどで廊下に飾ってあるスタンド花のことだろう。一万後半から三万ほどまで花の種類にあわせて値段も上下する。「そうか」 義理堅いなぁと思う。 そうでなくては、この地位にいないのだろうが。 人間関係を円滑にするために必要なのは、やはり日頃の付き合いだ。俺だけではどうにもならない。菊池真が、歯を食いしばってひとりで戦ってきた日々は、決して無駄ではない。俺はそう信じているし雪歩の父親の心を動かしているのは、紛れもない彼女が積み重ねてきた日々である。 「そろそろ本題に入りたいのですが、是非、萩原雪歩を、娘さんを俺にプロデュースさせてほしい。もちろん、この菊地真とユニットを組ませるという意味で」 言った。 言ってしまった。俺がやるのは真の補助だ。今回は、相手の格が違いすぎる。俺の弁舌が、相手に影響を与えることは絶対にない。「娘からは、あらかじめ伝言を預かっている。『会うつもりはない』とだけ」 その眼光は、誠実さだけを湛えている。 嘘ではないだろう。きっと真実なのだろう。萩原雪歩の反応としては、まったくブレがない。ドリームフェスタでなにがあったのかは、すでに真から聞いている。「まったくその目がないのなら、萩原雪歩が菊地真とユニットを組むことを、二度とゴメンだと思っているのなら、俺は引き下がりましょう」 美希がお茶請けを摘みながら、視線だけをこちらに向けて動かしたのが見えた。 「ただ、あなたは、そんな娘の本音を見抜けないような間抜けにはみえない」 ――ここからが本番だと、俺は気を引き締めた。 「まいったな。頭を下げられるとは」 粘ったほうだ。 あの書斎で話をしてから、すでに一時間が経過していた。 武家屋敷にふさわしい格の中庭だった。ミニサッカーできるほどの大きさはある。ところで池では錦鯉が泳いでいた。俺は凝り固まった筋肉をほぐした。 納得できないということはわかっている。本人を連れてくるべきだという君たちの意見は、本来正当なものだ。それがわかってはいる。だが、それはできない。だから、何度でも頭を下げ続けるしかない。 あのランクの人間に、そうまで言わせてしまった。 あれだけの謝罪は、こうなったら絶対に覆せない。困った。貫目が高い低い関係なく、雪歩の父親はああやって組を守ってきたのだろう。 ――ともあれ交渉は終わった。 こちらに、なんの利益をもたらすことも、新しい情報が入ってくることもなかった。 「お年玉を貰いました」「美希も貰ったよ」 ふたりとも、なにか微妙な顔をしている。というか手に持っているお年玉袋の厚みがおかしい。賄賂とか交渉が失敗したときの償いとかは、金額に反映されてはいないだろう。娘を溺愛しているだろう雪歩の父親が、同年代の娘に自分たちの世界を垣間見せるはずがない。 ああ、これからどうしよう。予定通りとはいえ、せめてひと目でも萩原雪歩をこの目で見ておきたい。でないとこちらの策がうまくいくかわからない。 ――空を見上げる。 視線が、中庭から見上げられる屋敷の二階部分をさまよう。そこで、視線がぶつかった。 「…………」「おにーさん。どうしたの?」「いや、なんでもない」 強い視線を感じた。姿は見えないが、人影だけは見えた。少女趣味はカーテンから、少女らしきシルエットがのぞく。 「真、ちょっとこっちを向け」 確かめることにした。 『?』を浮かべる真に正面から手を伸ばすと、脇腹のあたりをさわさわとくすぐる。ちゃんと鍛えられていた。やはりこの娘は脇腹のあたりがチャームポイントだ。「ひぁあああっ」 真が、かわいらしいといえるような悲鳴をあげた。 カーテンの隙間からの視線が強まった。どうやら間違いない。 「ぷ、プロデューサーっ。い、いったいなにを」「――真。雪歩が見ている。ちょっとそのままでいろ」 真の表情が固まった。菊地真のカラダにさわさわと指を這わせる。彼女は紅潮した顔で今にも漏れそうな悲鳴を押し殺している。エロい。なにかに目覚めそうだ。 行為自体に、まったくの意味はない。 ここで、これを現時点で萩原雪歩に見せておくことに意味が生じる。 圧倒的なまでの敵意が、二階から降ってくる。ただ戦友がセクハラを受けているというだけでは絶対に説明できない感情が漏れ出していた。なるほどなるほど。 こちらの脅迫文は、きちんと届いていたらしい。 ならばいい。これで第一フェイズと第二フェイズ、さらに第三フェイズまでコンプリートした。 真から離れる。美希は『ああ、やっちゃったよ』『ついにやっちゃったよ』みたいないたたまれないものを見るような視線を俺に向けていた。 「なんだそのガチ犯罪者を見るような目線は」「あのね。最後の一線を越える前に、ミキに相談してほしいの。いろいろ世話になってるから、ちょっとぐらいなら揉ませてあげてもいいよ」 そそられないのは年齢的な枷があるからか。 伊織ややよいや美希みたいな年少組ばかりプロデュースが重なったせいで、年中組みたいな年齢の真は、いじめたくなる魅力が出てきている。「ああ、覚えておく。(目的は達したし)一度出直すか」「待ってくださいプロデューサー。ボクはぜんぜん、納得できてません」 直情的だった。伊織ややよいとは違うまっすぐさに、思わず見惚れるほどだった。 「俺もそうだが、この場合は俺たちが納得できていないことは些細な問題でしかなく、こちらの感情を、相手に見透かされていることそのものが問題だ」 あちらはきちんと筋を通している。 ならば、すべて蹴り飛ばして片付く問題ではない。 「さて、目的は達した」「何したの?」「ふむ。わかりやすく例えるために、身代金誘拐の例でも上げてみよう」「それ、ホントに例え?」 美希が猫にまみれていた。出勤中の猫どもに囲まれて、だらけている猫たちと美希に向けて、売ってあるおやつをちぎってやる。 雪歩の武家屋敷から、ちょっと離れたところにある猫喫茶だった。真とは別れ、後日策を練り直すことを告げている。 翌日になっていた。 俺はここで、萩原雪歩との待ち合わせの約束をしている。菊地真は混じえずに、相手の許可をとらない一方的な約束ではあるが。「身代金誘拐で例えると、金持ちのガキを攫うまでが第一フェイズ、相手にこっちの要求を伝えるのが第二フェイズ、ガキの声を聞かせるなりして相手に身代金の電話をかけるのが第三フェイズ、俺たちはすでに第三フェイズまでクリアしているわけだな。わかったか?」「金持ちの子供っていうか、人質が真くんだってことぐらいは」「それだけわかればいい」 まだ美希は納得していない。だらけた三毛猫とトラ猫と白猫が、美希の体によじ登っている。カーペットに横になって髪を振り乱している美希は、顔に覆いかぶさってくる猫に呼吸をふさがれていた。「え、でもおにーさんは、真くんを使って、説得するっていったよね。真くん、いらなかったんじゃないの?」 美希は上半身を起こした。猫がぽてぽて落ちてくる。猫たちがニャーンと情けない声や恨みがましい声をあげる。安息の地の崩壊といった感じなのか。「考えてみろ。俺はちゃんと、菊地真を『使って』萩原雪歩を説得すると、ちゃんと言ったはずだ。真本人に説得させるなんて、一言も言ってない」「うわぁ」「というわけで、この時期ほぼノーチェックに渡る年賀状に、脅迫文を織り込んでおいた。干支の絵がミクロな文字で出来ていてな。ちゃんと気づいてもらえるか心配だったが、まあ心配なさそうだな」 約束の時間には早い。 入口のベルを鳴らして、待ち人はやってきた。萩原雪歩は凄まじい目でこちらを睨んでいる。