「わあっ」 やよいは、ステージを見て感嘆の声をあげた。 それはなにか凄いものを見たという風ではない。ごく身近な、見慣れたものが予想もしないところに出現したという光景だった。 目の前で組み上げられているのは、見慣れたスタジオだった。『高槻やよいのやよい式WEBテレビ出張版』と書かれた横断幕が吊り下げられている。 いつものスタジオ。 壁に穴が空いていて、わびしささえ感じさせるふすまなど職人芸といえるほどだ。わざと汚したベニヤで直線が構成されている。 ボロ長屋以外の何者でもない。当然のようにやよいの実家をモデルにしたのだが、それをやよいに打ち明けると、うちはここまでボロくないですー、と怒られた。「もしかして、あれが明日のセットなんですか?」「言っただろ。こちらの土俵に引きずりこむって」「いつも通りだよ。伊織ちゃん」「『高槻やよいのやよい式WEBテレビ』で使ってるスタジオそのままね。っていうか、これいつものハコから、バラして持ってきてるわよね」 下にはローラーがついており、本番で歌を歌う際には、黒子たちがステージの下手に滑らせる手筈だった。 ともあれ、 ここで、やよいたち三人が、Aランクアイドルを迎え入れて感歎する、という段取りになる。「手回しがよすぎない?」 「かなりサービスしてみた。もとより、アイドルのプロデューサーなんてこんなもんだ。娘たちのわがままを叶えるために生きているどこにでもいる父親みたいなものだな」「親父臭いわね。アンタまだ22でしょうが」「実際、おまえと美希のふたりをぶちこむ算段が、これしか思いつかなかったんだから、仕方ないだろう」 これ自体、スレスレの綱渡りといえる。 あえて語ってこなかったが、完成した素材に異分子を入れるのは、極めて難しい。 アイドルならごり押しでセンターに抜擢された新人が、あっという間にファンの不評を買って潰されるような展開は、何度も見てきた。 ロックバンドでも、四人でずっと活動してきたメンバーが、五人目、六人目のメンバーを入れようとしても、まず通らない。新メンバーが実力が過不足なくとも、ファンがそれを認めなかったりする。アイドルだと、その割合はより強い。 「ちゃんと効果は出ている。告知してからすでに、『高槻やよいのやよい式WEBテレビ』のアーカイブ(過去の動画ログ)のアクセスが十倍になって万々歳だ。これだけで目的の半分は達成したといえる」 来月には、『高槻やよいのやよい式WEBテレビ』もDVD、ブルーレイ化する。これの販売枚数で、これからの戦略を決定することになっている。「効果あるの、これ?」 美希が、俺に向けて首を傾けた。「なに言ってるんだ。名前を覚えてもらうまでが一番たいへんなんだぞ」「あのー。プロデューサー。これってどうなんですか? これが、春香さんと最初に戦う理由とどうつながるんですか?」「おお、そういえばそういう話だったな。今の話は関係ない。周りにいる、働いている人たちを見てみろ」 ローディーが、楽器にコードを繋いでいる。 やよいのエース曲である『キラメキラリ』で不可欠な、担当スタッフによるギターソロは、やよいのライブの目玉のひとつだった。サウンドチェック。ギターの音を確かめて、スピーカーの音と合わせていた。音響はスピーカーの客席への響き具合をチェックし、ステージの天井に十六基設置されたムービングライトが、ステージをどう照らすかチェックし、舞台監督がそのすべてを総括している。「全員が、ワークスのスタッフだ。Aランクアイドルがここで戦うためだけに集められている。当然、現在進行形で天海春香の担当スタッフだ。この一戦目は合同だが、二戦目からは相手プロダクションのスタッフも入り混じる。というわけで、天海春香のスタッフをそのまま借り受けることになる。その面通しが必要だった」「何人いるのよ?」「三十人強だな。警備員や当日のスタッフとかバイトを含めれば、もっと増える」 伊織も美希も、圧倒されているようだった。 やよいは、特に動揺していない。この三ヶ月でこういったことを話したのは一度だけ。そして、やよいには、その一度だけで十分なはずだった。「ツアーなら、これの数倍の人数が動くことになる。宣伝も照明も音響も、衣装担当もヘアメイクもどこの担当が欠けても、ステージは成り立たない。俺や、ファンだけじゃない。警備員も八トントラックのドライバーも、やよい、お前のために動いてくれている人々の想いそのものが、『高槻やよい』を構成するパーツなわけだな」「はい」「珍しく正統派な感じで仕事してるよね。おにーさん、もうなにもしなくていいんじゃないの?」「それが理想的だな。まあ、完璧な仕事は舞台監督に任せて、俺がやらなければならないのは個人的な嗜好の問題だ。照明の当て方ひとつとっても、アイドルごとに変えなければならないし。天海春香のスタッフなんだ。こっちでどうしてもらいたいか、演出意図をきちんと伝えておく必要がある」 たとえば、照明ひとつにしても。 千早は青のシャープを好んだが、やよいはオレンジのフラットを多用する。 シャープは線の光。 フラットは面の光だと理解すればいい。 これを十六基あるムービングライトで組み上げると、『高槻やよい』らしい柔らかでポップなステージが出来上がる。「というわけで、明日の『高槻やよいのやよい式WEBテレビ』は、アリーナの中心からお送りする予定だ。いつもの司会進行のお姉さんは呼んでないから、伊織、お前が司会進行やるんだぞ。美希はラウンドガールな」 俺は両手を広げてみせた。 決戦は近い。太陽が沈み、もう一度顔を見せたころに、これからの『ハニーキャッツ』の命運を左右する死闘の幕が開ける。 天海春香特設親衛隊、通称、『愚民』。 揃いの黒シャツに身を染めた、天海春香を『閣下』として崇拝する危なそうな連中だった。姫君を天に戴くように天海春香個人に忠誠を誓う、俺には理解不能の生き物たち。 狂想的なまでに彼女を崇め奉るさまは、王国の女王とその労働力として死ぬまで搾取され続ける兵隊たちを思わせる。 自らの女王への忠誠のみを合言葉として、日本全国に散らばっており、その総数は万に届くといわれる。ライブでの一体感を共有し、彼女のために命銭を捧げる様は、まさしく『愚民』というに相応しい。 天海春香への忠誠をぐずぐずになるまで煮詰めた、ある意味究極のファンの鑑みたいな連中だった。 これが、天海春香の下。 絶大なカリスマの元に、一致団結している。 どう考えてもCランクアイドル並みの歌唱力しかない天海春香を、Aランクアイドルの地位に押し上げているのは、この連中である。 西園寺美神が天海春香の半身とするのなら、この『愚民』部隊は、彼女の振るう死神の鎌に相当する。 そして、東京ビューイングアリーナは、すでに『愚民』たちの闊歩するところだった。おそらく、いつもは腐った魚みたいな目をしている男たちは、その瞳に燻るものを炎と変えている。 生きている、そう感じられる瞬間なのだろう。 期待と乾坤一擲の勝負に臨む心意気は、武士道に通ずるものがあるはずだ。 その逆をゆくのが、やよいのファンや家族連れや子供たち、老人や昔からやよいを見守っているファンたち、テレビを見てやよいに可愛らしさにあてられた成人男性たちなど、ファンは真っ二つに縦断されている。 その中に少なからず、『伊織様万歳!!』だとか、『美希たんハァハァ』だとかいう連中がいるのは救いといっていい。まあ『高槻やよいのやよい式WEBテレビ』は、ネットにばら撒いて、ワンクール務め上げた番組である。 今日、ビューイングアリーナでの放送で、第二クールに突入する。通して見てくれているなら、伊織と美希のファンも増えただろう。あとは今日のステージで、仕上げをするだけだった。 いつも収録しているステージ上のボロ長屋では、客の入りは五割といったところか。なにせ開演時間までは、まだ三十分以上を残している。 『美希画伯のクレヨンキャンバス』というコーナーで、今回で第十四回を迎える。完全なサービスみたいなもので、現在進行形で美希と伊織が好き放題している。主役の天海春香と高槻やよいの姿は、まだステージ上にはない。 やよいが天海春香を招待するという進行に準じて、今回の絵のモデルは『天海春香』ということだった。「プラチナリーグで無敗なんだって。でも、春香なんて今更描けって言われても困るんだよね」「どうしてよ?」「だって、話したことないんだもの」「……え、そうだった?」「うん。やよいとおでこちゃんとプロデューサーばっかり喋って、きっとあっちも、ミキのこと覚えてないんじゃないかな」 そういえばそうだった。 美希ほどの出来合いなら、天海春香が唾をつけてもいいと思うが、春香本人はやよいや伊織や、西園寺社長の頭痛の種である俺に関わっているのだけでお腹いっぱいというところなのか。 俺はステージ下手横から、美希と伊織のふたりを見ていた。緊張はしていない。美希と伊織は、『愚民』や、やよいのファンたちに概ね好意的に受け止められているようにみえる。 「今回は、どうやっても楽よね。黒と赤しか使わなさそうだし」「まず、火は噴くよね」「当然ね」「きっと、全身が鱗で覆われてたりするよね」「斧とかで打ちかかっても、傷ひとつつかなそうね」 美希は白い画用紙を、緑のクレヨンで描きこんでいた。 この時点で、髪はあちこちに乱れ飛び、目は赤のクレヨンだけで塗りつぶされていた。両目から怪光線を発射する禍々しい赤に染められており、口からは火炎のようなものを吐き出している。 これが『天海春香』だと言われて、果たして信じられるものがいるだろうか。いそうなのが困る。美希と伊織は、数千の視線に晒されて、完全に自分たちのペースを保っていられるのが凄い。 だが。 いい加減、やよいを投入する必要があるだろう。 美希の天然っぷりと伊織のツッコミが冴え渡るコーナーなのだが、よく考えたら天海春香に大して、伊織が悪乗りしない道理がない。