それからの美希と美心は、神が憑いたようだった。 ステージを縦横無尽に使った三次元的な踊りと、完璧なパフォーマンスを最後まで力尽きることなくやりとげ、サザンクロスは、ハニーキャッツを大差で下した。 そしてサザンクロスは、結局、決勝で敗れた。 もうひとつの準決勝。ナナクサは、準決勝でクララララスに破れることになった。勢いがクララララスにあったとはいえ、ステージ上の完成度や、全体の質の高さは、歴然としてナナクサに分があった。 けれど、それは時として勝敗と直結しない。 ステージの外にあったものが、結果として明暗を分ける結果になった。 誰にでもわかるぐらいの実力差があってなお、環境次第で敗者に転落するのが、ドリームフェスタの、ひいては一発勝負の怖いところなのだろう。 ナナクサがヘマをしたわけでもなく、クララララスがなにかをしたわけでもない。強いていうのなら、敗れ去ってなお権威を失わない菊地真の執念のようなものだった。 菊地真のステージが壊れたことによる観客の不満が、すべてナナクサに流れ込むことになった。 ステージの外で、彼女が、秋月律子が関与できない場所で、すでに勝敗はついていた。因果応報、なのだろうか、これは? こういうことがあるから、Aランクアイドルは、別格だといわれる。Aランクアイドルが、所属するプロダクションの色を決めるし、大会にAランクアイドルが出るというだけで、洪水に見舞われたかのように、環境が激変する。地球全部が温室効果で寒冷化し、全土が氷河期に突入してしまっているみたいに、生存するための方法を、ゼロから見直さなければならない。 律子も、罠を仕掛けるのなら、ここまでを見据える必要があったのだろう。いくらなんでも、あまりに酷な話なのだが。 ともかく、これがドリームフェスタだ。 私たちは、常に、先の見えない勝敗の世界にいる。 ドリームフェスタでは、一番強いものが勝ち残ることはない、というジンクスがある。強いものは、実力を発揮できなかったり、アクシデントがあったりする。一番、運のいいアイドルユニットが勝ち残るといわれているし、過去二回の優勝ユニットは、二組ともそうだった。 誰が勝っても、おかしくない激戦のなかで、クララララスが、栄冠を手にすることになった。 準決勝と、あと決勝は、どちらも、相手側に勝利を譲ってもらった、みたいな形だったのだが。 それで、私たちサザンクロスなのだが。 ボロ負けした。火の通っていない料理みたいな、勝敗以前の問題だった。彼女たちのパフォーマンスは、モチベーション次第なのだろう。 星井美希と、佐野美心。まるで共通点が見つからないと思っていたふたりだが、本質的にはかなり似通っていたらしい。ハニーキャッツに勝って切れた集中力を、本人は取り戻そうと努力していたようだったが、それもかなわなかったように見えた。「もうやることないわね。ああ、のんべんだらりとできるってのは素晴らしいわ」 藪下さんは、空気の抜けた風船のようになっていた。 この先のボーナスの査定が、満足できる結果に収まりそうらしい。 そして、ステージでは、すでに閉会式が始まっている。 三位までの表彰と、抜き打ちで発表される審査員特別賞やMVPが発表され、実行委員長の挨拶がさきほどから続いている。 この時間は、大多数のアイドルたちにとって、多重の意味で苦痛だった。全校集会を思い出す。どうして、仕事でまでこんなことをやらなければならないのか、と思っているアイドルが圧倒的だろう。 けれど、閉会式にこそ、アイドルの背骨がみえる。私は、プロデューサーに、そう教わった。 予定調和の閉会式前には、観客が、ごそっといなくなる。退出時の混雑や、満員電車にすし詰めにされるのを嫌ってほかの客より早めに出ようとするためだった。見ていても、なにかサプライズがあるわけでもない。見ている観客でさえそうだ。 私と同年代の少女たちにとって、立ったままで、主に自分以外の表彰式を見ているのはかなりの負担だろう。MVPや審査員特別賞がなければ、みんな帰ってしまっているはずだ。 けれど。 プロデューサーが、私を見定めたのは、とあるオーディションの閉会式の時だった、らしい。誰かを祝福できないものは、誰からも祝福されない。そういうことを言うわけではないが、誰だって経験があるし、知っているだろう。 高校などの全校集会で、数十分の間、微動だにせず最初から最後まで集中を切らさず、そこに立っていることが、どれほどの困難を伴うものか。 最後のほうになると、頭が動いていたり、体が傾いていて、あまり美しい光景だとはいえない。けれど、ほとんどのアイドルは、わかっていない。これは、中学や高校の全校集会ではない。死闘が繰り広げられた一日を締めくくる大切な儀式で、決して、軽視していいものではないはずだ。 そんななかで、彫像のように動かず、祈りを捧げているように見えた私は、すいぶんな実力者に映ったらしい。まるで順風とはいえない『ギガス』プロダクションに舞い降りた、女神みたいだった、というのはどこまで信じていいかわからないプロデューサーの談だった。 プログラム通りに、表彰式はすすんでいく。 祭りの終わりが、すこしずつ近づいている。 浴びせかけられるフラッシュと、スポットライトのひかりのなかで、様々な感情を見せるアイドルたちを、私はただ客席から見ていた。影絵のような観客たちが、それに彩りを添えている。どんな理屈をつけようと、その輝きは、今ここにいる彼女たちにしか出せないようなものだった。「うむ三人ともよくやった。このEランク昇格を祝う意味で、寿司につれてってやろう」「え、えええーっ。ホントですかっ!!」「あっはっはっは。メロンはひとり一皿までだぞー」「はーい。うれしいなぁ。ねえ伊織ちゃん。お寿司だって」「メロン、ねぇ、美希。寿司屋で、メロンなんで出たかしら」「あふぅ。おでこちゃん勘違いしてると思うの。おにーさんが言ってるのは、近くにある、一皿80円のあそこだよ」 プロデューサーと、水瀬伊織と高槻やよい。そして、星井美希が、わいわいと騒いでいた。 つわものどもが、ゆめのあと。 観客がすべていなくなった体育館には、ホタルノヒカリが流れていた。黒い関係者用のシャツを着たスタッフが、撤収の準備をはじめている。輝くようなアイドルたちの時間にかえて、彼らの仕事はここからはじまるのだろう。 代々木第一体育館では、明日も別のイベントがある。地面に縫い付けたケーブルひとつ回収するのも一苦労のはずだ。ドリームフェスタというゆめのざんがいを、今日中に撤去しなければならない。 ほとんどの関係者は、もう退場したあとだった。すでにステージの熱は、ほとんど醒めていた。暗い観客席で、ステージに視線を送ったまま、椅子に腰掛ける佐野美心は、まだ終わらない夢に浸っているみたいだった。「あなたは、あそこに混じらなくていいの?」「はい。ええ。とくにお呼びではないようですし。それに」 ステージ横で、ハニーキャッツのふたりと一緒にいる美希は、随分と生き生きとしていた。彼女の本来いるべき場所に、すっぽりとはまったようだった。「私の居場所は、あそこではありませんから」 美心は、サバサバしていた。 さっきまでと違って、なにかふっきれたように見える。 それはあくまで私の印象で。 美心の眼鏡の奥の瞳から、特定の感情を伺うことはできなかった。 さきほどまでの光景を、思い出す。 鼻水を垂らして、表情をくしゃくしゃにして、美希は水瀬伊織と高槻やよいに抱きついていた。あの光景を見るだけでわかる。美希が、どれだけの覚悟で、このドリームフェスタに臨んだのか。どれだけのものを賭けたのかが、よくわかった。 彼女は、仲間に恵まれていて、それをすべて受け取れるぐらいの器の大きさも備えている。器量もある。運も、不運も、降りかかってくるすべてを、自らの試練だと開き直れるぐらいの、強さがある。 最初から、あの三人には、ほかの誰かが入る隙間なんて、なかったのかもしれない。「強がりとかではないんですよ。別に、星井さんは素晴らしい素質があると思ってますけど、ユニットを組もうと思ったのは、実は、直感ではないんです」「なにか、別の理由が?」 佐野美心。 これほどの素材が、未だに無名でいるのは奇妙というしかない。とはいえ、これは本人の性格が影響しているようだった。 隠していた力の、器の底までを曝け出したことで、限界が見えるどころか、一回り成長したように見える。近いうちに、美希と違ったかたちで、私の前に立ちふさがるかもしれない。「あるユニットから、誘われているんです。そこは、あまり評判はよろしくはないんですけど、本人たちの実力だけは一級のようで、迷っていたんですよ。コインの裏表を占う意味で、美希さんの誘いに乗ったんです。そういう意味では、あの誘いは、実は渡りに船だったんですよ」「それが、どうつながるの?」「誘ってくれたそのユニットは、Bランクでも指折りですから。ハイステージで戦うまえの予習というところです。直接Bランクアイドルと対決する機会にも恵まれましたし、思っていたよりずっと収穫は多かったと思います」「そう」 彼女は、彼女なりに、前に進もうとしている。そういうことなのだろう。そして、駆け寄ってくる彼女もそういうことらしい。「千早さん。お世話になりました」 美希だった。誰も連れだたせずに、たったひとりで、最後の別れを言いにきたのだろう。「日数も、充分とはいえなかったし、教えられたことは、そんなになかったわ。それでも、なにかひとつでも、私はあなたに、あげられたものはあったかしら?」「うーん。よくわからないけど、でも、ひとつだけわかったことがあると思うよ」「それは?」「歌って踊って、自分を表現するのって、すごく楽しいよね。どんなことがあっても、ミキ、それだけは絶対に忘れない」 美希は、真剣だった。 それは、あまりに意外な答えだった。 そして、 私は誰かに、 そんなことを教えられたのか、教えることができたという、自分の可能性に、たった今、気づくことができた。 そうだ。なにかを教えるということは、そういうことだ。それも、可能性。自分の可能性だ。 腹の底が、鉛を呑んだように重くなった。 プロデューサーと別れたときと、同じような喪失感。知っている。私はその感情を、身体で知っている。これは、大事なものに、手が届かなくなる悲しみだ。 これは、ひとつの可能性の話だけれど、ひとつ選択を違えれば、私と美希のどちらかの進む曲がり角がひとつでも違えば、私は、美希と、ユニットを組む選択肢も、あったかもしれない。 けれど。 どんな道程を辿っても。 彼女は、自分の道は自分で選んで、たったひとりで、自分を魅せることができる。「そうね。誰に学んでも、どんなステージを経たとしても、ここで、どんな選択を辿ったとしても」 美希はただ黙って、虫の音を聴くように、私の声に耳を傾けている。「あなたには最初から、私の助けなんて、いらなかったのよね」 美希は、私に甘えることだけは、決してないだろう。それだけは、揺るがない。「千早さんは、プロデューサーさんに、逢わなくていいの?」「いまはまだ、逢わせる顔がないわ。それに、私だって、限界に近い。顔を合わせたら、泣き出してしまうかも。無事で、彼が彼らしくそこにいる。とりあえず、いまはそれだけでじゅうぶんだから。それまで、ひとまず、美希。あなたに預けておくわ」「うん。でも、早く迎えにこないと、その約束、踏み倒すかもしれないよ?」「そうね。そうなるんだから、もう、この瞬間から、美希は私の敵になるわね。私らしくなかったって、そう思うわ。立ち上がることは、赤ん坊にだってできる。あなたに教えるべきだったのは、挫折して転んだときに、口に入る砂利の味だけだったのに」 彼女は、すでに私と対等の位置にいる。 そう思おう。どれだけ時間がかかったとしても、いつか、この少女は私の前に立つだろう。「負けのくやしさなんて、もう二度といらない。気の抜けたステージなんて、一度だけでたくさんなの。次の目標はね、今、決めたよ。うん、近いうちに、おでこちゃんとやよいのふたりと一緒に、誰も否定できないぐらい、立派なアイドルになって、千早さんに勝てたらなって思うの」「あなたのやるべきことが、ようやく見えたみたいね。じゃあ、私が教えられることは、あとひとつだけ」 そして、最後だ。 これが終わったなら、私たちは、完全にオセロの黒と白に分かれる。結局、彼女は、じっと私の目を見つめて、一度も、私から視線をはずさなかった。「いい兆候よ。もっと焦りなさい。アイドルが輝ける時期なんて、ほんの一瞬。胸に灯った火を消さないように」「うん。それじゃあ」「また、いつか、どこかで逢いましょう。できれば、今日のドリームフェスタより多くの観客の前で。落ち合う先は、きっと天のかなたね。できれば、より大きな、煌めくようなステージで」 (第一部、完)