美希の顔つきが変わっている。 初夏の駐車場は、ギラつく太陽の恩恵を、最大限に受けていた。地面のコンクリートが熱を吸って、うだるような暑さになっている。美希の癖のある金髪が風になびいて、肌にはりつく珠の汗が、キラキラと光り輝いていた。 そして、美希の強烈な意思と、まっすぐな視線を、伊織は正面から受け止めていた。「おでこちゃん。言ったよね。大会がはじまるまで、ミキの意思を聞かせてくれって」「言ったわね。でも、もうタイムオーバーよ」「ごめん。でも、その返事、この大会がはじまるまでじゃなくて」 美希は、ひるむことなく言葉を続けた。 本来、美希にはなにを抗弁する資格もない。 伸ばした手をつかみとれなかった時点で、参加する資格も、アイドルとしてのチャンスも、すべては失われている。 それでも。 それでも、だ。 彼女に迷いはない。 進むべき道を見定めて、そのための努力をしている。 誰にでも、それがわかる。俺がアイドルのプロデューサーをやっているのは、こうやって、伸び悩んでいたアイドルが、突然に爆発する瞬間があるからだ。 変身。 羽化。 脱皮。 それはアイドルとしてか。星井美希としてか。「いっしょにユニットを組む。その返事だけど、この大会が終わるまで待ってほしいの」「虫のいい話ね」「うん。でも、ミキがこれからアイドルをやっていく上で、必要なことだと思うから」「それ以前に、美希。アンタ、決勝ファイナルには、出られるの?」「うん。美心とユニットを組んでもらって、藪下さんにプロデューサーをやってもらうことになったの。あ、でも、これは別におでこちゃんややよいと組むのが嫌ってわけじゃなくて」 懸命に、言葉を搾り出そうとする美希に、「弁解はいいわ」 伊織は肩をすくめて台詞を中断させた。「え?」「いまさら、逃げたとか裏切ったとか、そんなつまらないことは言わないわよ。つまり、こういうことでしょ? この大会で、アンタは私とやよいに、新しいなにかを見せてくれるんだって」「う、うん」「でも、私はここで約束なんてしないからね。あとは全部、アンタのステージ上でのパフォーマンスを見て、決めるわ」「…………………」 美希が、息を呑んで、言葉の先を紡げないでいる。 伊織の気迫に負けたわけでもないだろう。ここで押されるようなら、最初から使い物にならない。やよい伊織とユニットを組むとしたら、これから先、こんなことはいくらでもある。 むしろ、逆。胸がいっぱいで、全身が痺れているといった感じだった。 不気味なぐらいの煌くほどの笑み。 美希のなかの、からっぽだったものが、ようやく埋まった。そんなように見える。己を燃え立たせるもの。一度つかんだなら、どんなことがあっても捨てられないものが、ようやく見つかったようだ。「プロデューサー。星井美希を叩き潰せって言ってた命令。まだ有効よね?」 視線を美希に固定したままで、背後の俺に話しかけてくる伊織。 この質問が出るということはつまり、今、この時点をもって、正式に伊織は美希を敵と認識したようだった。 というか、ギンギンに冷えた社内から直射日光に晒されて、ちょっと一瞬意識が飛んだ。「ああ、あれはそういう意味じゃなかったけどな。やることはかわらない。敵は潰す。それだけだ」「ということよ。必ず勝ち上がって、石にかじりついてでも、私たちの前に立ちなさい。ただし、私はそんなに気が長くない。二度はあっても、三度目はないわよ。これが正真正銘、最後のチャンス。組み合わせなんて言い訳にさせない。もし、私たちと当たるまえに負けるようなら、それはそのままの、事実だけが残るわ」「ええと、伊織ちゃん。事実って、なに?」 やよいが、伊織の台詞に、不穏なものを感じ取ったのだろう。「だから、そのままよ」 伊織は、視線で美希の全身を舐めつけた。「星井美希は、私たちのところまで、たどり着けなかった」 美希の表情が変わった。 歯を食いしばって、飲み込まれそうな不安に耐えている。自分自身の周りが、断崖絶壁だということを、あらためて認識したようだった。誰が先導してくれるわけでもない。いろいろな人に背中を押されて、いくつかの運が絡んだにしても、今、美希がこの瞬間、ここに立っているのは、積み重ねてきた選択の結果である。 しかし、今までの選択が正しいかなんて、誰も証明してはくれない。 ほんの些細な逆風や、イレギュラーで、一歩、足を踏み外した瞬間、星井美希というアイドルは即死する。 勝敗に絶対はない。なににつまづくかわからない。 それは、美希だけの問題ではない。伊織もやよいも、そして決勝ファイナルに挑むすべてのアイドルに、同じ重さが降りかかっている。 もうはっきりと見える距離にある栄光が、一度つかみ損ねただけで、永遠に手の届かないものになる。 その重圧のなかで、夢とリスクを天秤にかけて、どちらを傾けるかを選ばなければならない。 美希は、見ていて気の毒なほど、蒼白になっていた。 過剰なまでのプレッシャーが、全身を縛っている。 ただでさえ灼熱の太陽がじりじりと体力を奪っていくのだ。 すーはー、と、深呼吸している。これまでの選択を後悔するようなら、この時点で美希の負けだ。なにせ、水瀬伊織も高槻やよいも、そんな後悔とは無縁である。ふたりとも、アイドルユニットとして、互いがもっとも互いの能力を引き出せると信じている。 この信仰を突き崩すには、それ相応のものが必要である。「うん。がんばる。そのために美心に頼み込んで、藪下さんにプロデューサーになってもらったんだから。きっと、どうにかなる。あと、ほかにもいろいろあるし。それより、おにーさん。美心の対策できてるの?」「んー、秘密」「それより、プロデューサー。組み合わせっていつ決まるの?」「ファイナルのオープニングがはじまってからだ。準備期間の有利不利がでないように、一試合ごとにマッチングが組まれる。つまり、あらかじめに対策することは不可能。美希と緒戦であたる確率は、十五分の一だな」「いきなり十五分の一を期待するのは後ろ向きね」「ん、互いに二回ぐらい勝ち抜かないとあたらないだろうな。確率としては」「だ、そうよ。負けるなら、私たちにしときなさい」「やだ」 美希が言った。「おでこちゃんとやよいだけには、絶対負けない。負けないから」「へえ、言うじゃないの。取りこぼしないようにね」「でも、おでこちゃんこそ、大丈夫? 美心みたいな地味なのに全部さらわれるのなんて、二度もやったらすごく情けないよ」「余計なお世話よっ!! 相変わらず一言多いわねアンタ」 伊織が吼えた。 それから、美希の背中を見送ると、傍らのやよいが唇を噛んでいるのが見える。「あの、プロデューサー。これ、上手くまとまるんですよね」「さぁて、どーだろうな。よくわからん」「そんな、無責任な」「いやでも、美希と伊織って、いつもあんな感じだったろ」「たしかに、いつもどおりですけど」「それはそれとして」 俺は手をたたいた。 いいところでカンフル剤がうてた。 そろそろ、本戦の方針を伝えないといけない。「さて、オーダーを出す」「おーだー? なにか、食べられるんですか?」「注文ってことよ。またふざけたようなことを言いだすんでしょ?」「そう思うか?」「思うわよ。美希が成長してる中、私たちが立ち止まっているわけにはいかない。重りを巻きつけてステージに立てとか、いきなりテニスとかバレエとかの特訓させるとかそんなんでしょ」「なぁ、伊織。おまえな、俺のことをなんだと思ってる?」「変態極悪プロデューサー」 一拍の空白もない。 間髪いれずに、答えが返ってきた。「おまえな、敵をナメてるだろ。十五組いる相手のうち、おまえらより格下なんていないぞ。そんなハンデ背負って勝負になるわけないだろうが」「もう、じゃあオーダーって結局なんなのよ」「うん。引きずり降ろせ」「ん?」「別に、特別なことをするわけじゃあない。いつもの自分たちのステージを演じろ。自分の理想のステージを見せてこい。必ず、最後まで自分を全うしろ。それだけやってはじめて、負けることに意味ができる。たとえ、夢がかなわないとしても、な」「なにその前向きだか後ろ向きだかわからない訓示」「もうちょっとシンプルに褒めてくださいー」「あー、じゃあ、な。最近の、プラチナリーグでの傾向を、知っているか?」「なにそれ。知るわけないじゃない」 伊織が頬杖をついた。「プラチナリーグが対戦である以上、勝者と敗者が生まれる。それは絶対だ。けど、最近はどいつもこいつも、勝敗にこだわりすぎるきらいがある。そりゃあ、相手の長所を消して勝つなら、ある程度のまとまった勝率をあげることだってできるだろう。けれど、俺がおまえらに求めているのは、そんな小さな勝ちかたじゃない」 一息つく。 魅入られたみたいに、ふたりは俺を見ていた。「負けないための戦い方が一番楽で、手が届きやすくて、それでいて退屈だ。けれど、ほとんどのアイドルは、その道を選んでしまう。水は低きに流れる。相手を真正面から叩きのめすことができるのは、ひとにぎりの強者だけだからな。ランクだとか新人だとか関係はない。これは、AランクからFランクまで、すべてに当てはまる真理だ」「それで?」「ああ、それを踏まえたうえの結論だ。自分のスタイルを、良さを生かせ。そして、勝て。それができるやつが一番強い」「へえ」「敵をだ。おまえらの虜にしてみせろ。対戦相手に、そして観客に、圧倒的な実力差を魅せつけろ。歌も、踊りも、パフォーマンスも、すべての面で、だれひとり間違えようのない圧勝を挙げてこい。この会場にいるすべての人間に、ここにいるのがいったい誰なのかを教えてみせろ。さあ、訊くが、おまえらは、いったいだれだ?」「水瀬伊織と」 伊織は前髪をかき上げ、「高槻やよいです」 やよいは舌ったらずに答えた。「うん。なら、それだけで負ける要素はないな」「あー、プロデューサー。こんな気持ち、はじめてかも。すごく、試合が待ち遠しいんです」 両腕をめいっぱいに広げて、高槻やよいはそう宣言した。