グラスを合わせる。 なみなみと注がれたビールが、透き通るような透明度を見せていた。子供の相手、という、とんでもない激務で疲れた身体に、冷えたビールはなによりの清涼剤だった。「それで、この子が、坊やが目をつけたアイドルかい?」 遅れてきた『ギガス』プロダクションの引率者は、宴会に一番乗り気だった。 安原蛍。 女性。 26歳。 既婚。 いつでも白衣を纏っている、ギガスプロの常駐医だった。 なんだかんだで、アイドルたちからの信頼は厚い。 いやまあ、蛍さんは創業メンバーの中で、社長を除けば最年長のため、発言力だけならば社長に次ぐ。 朔も、自分も、この人には頭が上がらない。 人に話すと驚かれることではあるが、『巨人(ギガス)』という社名も、この人がつけたものだった。 アイドル業界の巨人たれ、という意味でつけられたと内外的に吹聴されてはいるが、実は単にこの人がジャイアンツファンなだけである。 マイペース。 マイペース。 マイペース。 そんな人だ。 で、 そんな安原女史が、右腕に抱え込んでいるのが美希だった。酔っぱらっているのか、顔を赤くして、はぬー、な状態になっている。 ああ、捕まったか。 美希は、その容姿のせいか。 とにかく目立つからなぁ。 他のアイドルたちはすでに、海岸近くの合宿所に入っている。 合宿所といえば聞こえはいいが、その内容は、ぼろぼろの、廃校になった学校だった。 これが、そのまま市の預かりになっているらしい。 当然、そのままだと使えないため、海で遊んだ後に、すぐさまアイドルたちによる掃除が開始された。 蜘蛛の巣が張っている場所を、どうにか見違えるぐらいに綺麗にできたころには、午後七時を廻っていた。 ちなみに、夕食はお弁当。 寝る場所は体育館。 これで、布団だけ業者からレンタルすれば、120人でも200人でも収容できる。 ──今頃は、アイドルによる枕投げ大会が始まっている頃だろう。 それで──、アイドルの交流は果たしたが、それで終わりというわけでもない。 時間も、午後八時を廻った。 夜も更けて、これから──大人同士の話がある。 席についているのは。 『ギガス』プロ、安原蛍。 『ワークス』プロ、自分こと金田城一郎。あと、美希。 『エッジ』プロ、羽住正栄。 『ブルーライン』プロ、烏丸棗(からすまなつめ)。 安原さんは、立場はただの常駐医だから、数に入れないとしても。 日本に五人しかいないA級プロデューサーのうち、この場に三人も揃って、積もる話がないわけがないのだった。「ううー、ミキはどうすればいいのかな?」 美希は蛍さんに抱き枕代わりにされていた。 まあ、それはそれだ。「そのまま料理でも食べてていい。これからしばらく退屈な大人の話が続くからな」 大人の話。 近くの料亭にまで、場所を移したのはそのためだった。ちなみに、海の近くだけあって、無駄なほどメニューに海産物が多くなっている。 その半分ぐらいが時価なのは、店と、店の名前にそれほどの格があるのだろう。 無駄に贅沢をしているわけではない。 これからが、プロデューサーとしての仕事の始まりだった。 いや、まあ、勘違いしないで欲しい。 別に、男三人と、酔っぱらい一人(安原さん)が追い出されたわけではないのである。 秋月律子、遅れて到着した藪下幸恵に、年頃の娘たちと同じ場所で寝させるのはまずいと、速攻でたたき出されたことは、なかったことにしておきたい。 ──まあ、ともかく。「僕としては、いつかこんな機会があればと思っていたのですよ。あとは、朔響さんと武田さんがいれば、A級プロデューサーが全員揃うところだったのですが──」 口火を切ったのが、烏丸棗。 たった一年で三十ものユニットをプロデュースした、『ブルーライン』プロダクションのA級プロデューサー。 切れ長の瞳の、美青年だった。 歳は、23だったか。 いつも黒ずくめの恰好をしていることからか、名字からとって、愛称は、『カラス』──となっているらしい。 直属のA級アイドルをもたず、この位置まで上り詰めるのは、並大抵のことではない。 ──逆に言えば、 羽住社長などは、直属のA級アイドルふたり。 菊池真と、リファ・ガーランドを手元に置いているからこその、この地位である。 で。 カラスさんが切り出してきた議題は、俺の予想を裏切らなかった。「みなさんは、今のアイドル業界をどう思います?」 ──問いかけ。「順調」と、蛍さん。「アツさが足りん」と、羽住社長。「安定期に入り始めたかな? それがいいことなのかは別にして」と、俺。「びっくり箱みたいだよね」と、美希。「──ふうん」 カラスさんが、少し、考える。「まあ、そうですね。これまでは客とブームの上方修正に助けられていたような気もしますが、やがて──このアイドルブームも安定すれば、我々四大プロダクション同士のつぶし合いが始まる。 ──そうでしょう?」 カラスさんが、唇を皮肉げに歪ませた。「そうかい? 四大少年誌とかは上手く棲み分けているようだけど?」 蛍さんは、美希を抱いたままでジョッキにビールをつぎ足している。「──あれは、全部買っても、週に千円ですみますからね。しかし、アイドルグッズやCDはそうはいかないでしょう。なにしろ、──高い」「ああ、アイドルグッズの価格を引き下げろって話ですか。たしかに、まあ──あれは買う人は絶対買うから、高くてもいいんだけどなー」 俺は言う。 プラチナリーグの躍進により、廃れつつあるテレビに、大量のM1層(二十代から三十四歳までの男性)を引き戻した功績は、かなり高く評価されているらしい。 今のところ、スポンサーは引く手あまただった。「いえ、問題にしたいはそれではなく── 互いにシェアを奪い合うにしても、目指すべきアイドルのイメージを、統一しておいたほうが効率的ではないかと思いまして」「今のアイドル業界に不満でもあると──?」「ええ、ただし──アイドル業界ではなく、芸能界のほうですが」 カラスさんが言う。 ちなみに、何度も何度も繰り返すが、アイドル業界と、音楽業界と、芸能界は、まったくの別物である。プロレスと空手ぐらい違う。 漫画と小説ぐらい違う。 野球とオリンピックぐらい違う。 主に、プラチナリーグと、その周辺をまとめて、アイドル業界と呼ぶ。「プラチナリーグなら、輝ける舞台がある。 けれど──普通の、バラエティアイドルたちは、もうだめだ。偽りの笑顔を貼り付けて、数年後にはスキャンダルをまき散らしている。 仕事そのものではなく、私生活や暴露話にばかり注目をもっていかれては、視聴者も騙されることすら苦痛になるでしょう。 今や、そんなアイドルは、視聴者に──珍獣やペットを見るような目で扱われているのが現状です」「カラスくんの言ってることはわからないでもない。たしかに私の若い頃は、アイドルによって恋人の話などタブーだった。恋人ができても、その時点で別れさせるのが当然だったように思う」 記憶を掘り起こす羽住社長。 ──、といっても、昔の話である。知識では知っているのだが、どうにもピンとこないところだった。アイドルというのは、その時代の背景が如実に反映される。 そもそも、年代から逆算するに、羽住社長の記憶も、アイドルに携わるものではなく、少年時代の、ただの一ファンとしてのそれだろう。「つまりアレかい。アイドルはトイレにいかない。羽住社長から上の年代には、そんな冗談みたいな議論を、大まじめに語る人間がいたらしいね」 蛍さんが笑う。 ただし、 話している話題は、笑い話ではない。「ええ──僕の求めるのは、アイドルの──『神格化』です」 無言。 うーん、と皆、唸っている。 美希は、言いつけ通り、メニューに載っているものを勝手に注文して食べていた。 おにぎりぐらいは、たいていどこの居酒屋にもある。まあ、サイドメニューというやつだった。 まあ、とにかく。 カラスさんの言うところには、考えさせられるところもあった。条件付きで賛成、といったところだろう。 が── ひとつ、訂正が必要だった。 「……むしろ、逆だと思いますけれどね。 あなたのところの『YUKINO』は、ある意味その、『神格化』路線の、ひとつの完成系だし、うちの、天海春香も、いや、Aランクアイドルの全員がそうだ。 それぐらいの格がなければ、A級に止まり続けることなんてできない。 ──それに。 神格化というのなら、すでに──三浦あずさがいるでしょう?」 アイドル業界において、元Aランクアイドル──三浦あずさの壁は恐ろしく高い。 引退して一年以上たつアイドルから、未だ『アイドルマスター』の称号が移動しないのは、それなりの理由がある。「アイドルそのものの神格化。それは正しいことだし、それしかないのかなとも思う。ただ──その『路線』だと、三浦あずさは超えられない」 ──俺は、言い切った。 あずささんのラストシングル、『思い出をありがとう』のセールスランキングは、178万枚。 アイドル業界において、未だこの記録は破られていない。 しかも、それだけではない。 二位『まっすぐ』、三位『YES♪』、四位『9:02PM(ナインオーツーピーエム)』と、四位までにあずささんの曲が続き、五位にようやく千早の『蒼い鳥』が入る有様なのが、今のプラチナリーグだった。 しかも、『蒼い鳥』のセールスは、現時点で81万枚。 他のアイドルと隔絶するぐらいの技量を持つ千早ですら、そのCDセールスはあずささんの半分にも届かない。 そして──六位以下は、もっとひどい。 論外だ。 六位である天海春香の『洗脳・搾取・虎の巻』は47万枚。七位になると、39万枚にまで落ちる。 まあ、アイドル業界のCD売り上げなど、大半はインディーズ並みであるので(アイドルの絶対数が多い分、ファンがばらける)、上に挙げた例は、たしかに大ヒットと言わしめるだけはある。 ──話は単純だ。 三浦あずさは、アイドルとして規格外すぎた。 それが、アイドル業界にとって、よかったのか悪かったのかは、今の時点で、結論を出すことはできない。 現在のAランクアイドル全員が、それぞれ一番得意な特技で挑むという仮定でさえ、三浦あずさに、黒星のひとつもつけられないだろう。「では、なにか代案が?」「なにも考えてない。と思われる答えだが、真っ正面から、三浦あずさの伝説を書き換えてくれるアイドルを育てる。王道だろう?」「馬鹿な──」「坊やは馬鹿っぽいね。相変わらず。まあ、馬鹿じゃなかったら、うちの会社をほっぽり出してかないか」「熱い男だな。今からでも、私の右腕として欲しいぐらいだ」 とりあえず、そういうスタンスで。「俺は、いろいろあって、『ギガス』プロをやめることになった。今までのやり方には先はないと思ったからだ。 少なくとも『至高のアイドル(アイドルマスター)』の座が、そんな人真似で転がり込んでくるとも思えない。そう──でしょう?」 あずさは、最初の一撃で沈んでいた。 へろへろの軌道をとって投げられる枕が、ぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺし──と、おもしろいように当たっていく。 命中。 命中。 命中。 本人も躱そうとはしているようだったが、まったく効果はあがっていない。 トロい。 ト、トロすぎる。 身体の中に、鉛でも入ってるんじゃないかと思うぐらい。「あーもう、役に立たないわねっ」 私の輝きの百分の一ぐらいはあるせいか、アイドルにとって、あずさは神様みたいな存在らしい。だからまあ、盾代わりにはなるかなと前面に押し立ててみたんだけど、結果はさんざんだった。 ──また命中。「あずさ。一応、今のうちに謝っておくわね」 だから、あずさも私の役に立てなかったことを謝りなさい。 このままカウントを稼がせるわけにはいかないので、私はあずさを布団の海へと蹴り倒した。「あ、あらー? ひ、ひどいわ、伊織ちゃん」 抗議は無視。 今ので七ポイント近くはマイナスになったか。「うちの旗頭(フラッグ)は隠しておこうかしら」「伊織ちゃん、さすがに今のはひどいよ」「わかってるわよ。でも仕方ないじゃない」 私は、やよいの苦言にそう答えた。 想像以上だった。 部隊の練度が、『ワークス』と、まったく違う。 軍隊のような統一した動きをする『エッジ』の連中は、機動防御を選択していた。 はじまってから、一分もかかっていない。 先駆けの四人に、こちらの防衛戦がズタズタにされていた。反撃しようと、こっちの陣形を崩したところで、主力がなだれ込んでくる形になった。 最終到達点のあずさに、ここまで攻撃が集中するぐらいだ。 『ブルーライン』と『ギガス』の合同チームは、布団でバリケードを作って、陣地防御を選択していた。斜線を確保されると同時に、十字砲火のかたちで枕が降り注いでくる。 あちらはあちらで、すべての連絡をハンドサイン──つまりは手信号だけでやっていた。 こっちは、怒鳴る時点で相手に作戦がばれるっていうのに。「ああもう、突撃突撃突撃ー!!」 私は、叫んだ。 当然、誰も聞いていない。 やよいが、数歩先で、布団の凹凸に足をとられて転んでいた。 結果は、言うまでもない。 私たちの惨敗。 無惨だった。 みじめすぎる。 ああもう──、布団の上で両足を叩き付けたい衝動を、懸命に抑えつけた。 いつもならストレス発散に、プロデューサーを怒鳴りつけて、精神崩壊寸前までに追い込むところなのだが、居て欲しい時にいないのだ。 あの下僕は。 いつの間にか、美希もいないし。「よければ──握手を」 差し出された手。 呼びかけられて、振り向くと──『ブルーライン』プロダクションで、命令を出していた女が、こちらに右手を差し出していた。 思わず、手を握る。「ずいぶんと、アナクロなのね」 しげしげと、眺めてみた。 プロデューサーという肩書きがありながら、うちの社長(22歳)よりも、随分若いみたいだった。「古いかどうかなんて、関係はないわ。必要なのは実用的か、どうかだと思うけど」 偉そうな、眼鏡の女は、そう言ってきた。「実用的。握手が?」「ああ、あなたたちには馴染みがなかったかしらね。うちのプロダクションでは、一般的な慣習なんだけど。 効果は見えにくいけれど、握手は、アイドルを演じる上で、欠かせない技術のひとつよ。 ──教えられた時には、私も半信半疑だったんだけど」 思い出す。 正直、私の脳味噌に、このたぐいの端役をストックしておく余裕はないのだが、なんとか記憶の底から引っ張り出す。 たしか、名前は、秋月律子だったはず。 Aランク一位、『YUKINO』のプロデューサー。 なるほど、忘れるわけがない。「よくわかんないけど、話したいなら聞いてあげるわよ」「ねぇ、なんとかならないの? この子」 律子は、隣のやよいに話を振った。「伊織ちゃんは、いつもこうだから。代わりに私が謝ります。こめんなさい」「い、いえ、正直、あなたに謝られても──まあ、いいわ。気を取り直して、と」 律子が、ずり落ちた眼鏡をかけ直す。「何度か同僚と握手を交わすうちに、いっしょに仕事している実感が持てるようになったの。仲間でも、対戦相手でも、まずはこれが踏み出す最初の一歩になれればいいなって。ただの理想論って、鼻で笑われそうだけど」 覚えのある理屈だった。 昨日だ。 プロデューサーが言っていた。ワークスのアイドルたちは、勝った後でも、喜ぶタイミングがバラバラだって。 そもそも、これを克服するための、今回の合宿であるはずだった。 なら── これをそのまま、うちのプロダクションに当てはめればいい、のだろうか? いや、 ダメだ。できるわけがない。 他人のパクリなんて、私の流儀に合わない。 このまま問題を放置する? それだって、自分の器の小ささを自覚するようでしっくりこなかった。 なら、「にひひっ。じゃあ、もっといい方法を教えてあげるわ。耳の穴かっぽじって、ありがたく拝聴しなさい」「え、ええと──」 律子は、あからさまに引いているようだった。 顔に疑問が張り付いている。 なんで、この子はこんなに偉そうなんだろう──と。 おまけ。 起きると、伊織によるハイタッチ講座が開設されていた。ギガスもワークスもブルーラインも、それぞれのアイドルが、はいたーっちと、手のひらを打ち合わせている。 寝ている間に人類が、やよいだけになったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。「伊織、なんだこれ?」 騒ぎの元凶に聞いてみる。「てっとりばやく、アイドル間のコミュニケーション方法を考えてみたのよ。握手ほど野暮ったくもないし、なによりステージで映えるじゃない。 まあ、やよいの両手ハイタッチは、かっこ悪いから、私が改良した片手ハイタッチだけど」「ええっ、かっこ悪くなんてないよっ」「まあ、これで合宿の第一目標は達成よね」