スタジオの外の調整室の壁に、その週のセールス・ランキングとリクエストの順位が張り出されている。使い方もわからないような最新機器の隙間を縫うようにして、私はそこの扉を閉めた。 ギガスプロダクション地下一階の、エリアDスタジオは、何時のころからか、実質、私──如月千早の専用ルームとなっている。 誰が言い出したわけではない。 それでも、この一年。 決まって五時から八時まで。 この時間に、このスタジオが予約で埋まっていることは、ただの一度もなかった。 まるで、穴倉に住み着くモグラのようだな、と自嘲する。 家に帰れば母がいる。 嫌でも母と顔を合わせねばならない気の重さに比べれば、このスタジオの方が、よほどくつろげる。 それをわかってくれていて、息の長いスタッフたちは、各々の仕事に取り掛かっている。 ふと、休憩室から戻ると、ドアの隙間にポートレイトが差し込まれていた。 題名は、『ピュアハート』 この間の全国ツアーのタイトル。 その一瞬一瞬を切り取った写真が、瞬間を永遠のものとしている。 私は、ソファーに座って、そのアルバムのページをめくる。 まだ、このツアーを終えて、半月もたっていない。 熱気と、曲の静けさ、そして客席との一体感は、まだ記憶に生々しく残っている。 私のデビュー曲である『神様のBirthday』から、カバー曲である『鳥の詩』。そして、メインの『蒼い鳥』に移る、コンサートの最大の見せ場。驚くほどに狭い、半径二メートルもない円形のステージは、鳥篭を意識したらしい。 曲の盛り上がりに合わせて、赤、青、黄、緑、白、橙、若草色、水色、色とりどりの数千個の風船が舞い落ちてくる。 写真は、その見せ場のすべてを、ひとつひとつ丁寧に切り取っているのがわかる。 次々と現れるステージゲスト。 ステージ・プロデューサーの組み上げた三次元的なステージ。 バックダンサーとして、ステージを盛り上げる『ギガス』プロの後輩たち。 楽屋での私の姿。 スタッフに指示を出しているプロデューサー。 観客席を埋め尽くすファンの姿と、 私のツアーの記事を一面にしている、各地のスポーツ新聞を写真に収めた一ショット。 ファンの広げる手製の横断幕を写すシーンから、 リハーサルの風景。 プロデューサーの書いた手書きの日程表。 ぱたん、とアルバムを閉じる。 見れば見るほどに、今の生活が充実しているのがわかってしまった。 私が掴んだものは、きっと輝けるもので。 足りないものは、なにもなくて。 だから。 胸が壊れそうなのも気のせいで。 心が軋んでいるのもなにかの錯覚で。 夢が遠ざかっていくのは、きっとなにかの間違いなんだ。 そのはずだ。 ない、はず、 なんだ。 そうだ。 そう、ですよね。 教えてください。 ──プロデューサー。「すみません如月さん。そろそろ、移動の時間です」「──わかりました。準備をします」 マネージャーが、時間を知らせる。 プロデューサーとの約束は、今夜だった。 時計は、午後の五時を指し示している。『千早。まだ荷物の整理だとか、いくつか時間を作るようにする。 四日後だ。 四日後の午後八時に、このビルの正面玄関で三十分だけ待っている。もし、俺の夢に協力できるのなら、その日、その場所で答えを聞かせてくれ』 生放送である『ミュージックセレクション』は、朝九時から夕方の四時ぐらいまでに、出演予定であるすべてのアーティストのリハーサルを終える。 その後に、場当たり(立ち位置の確認)や、音あわせ、カメラリハーサル、ランスルー(最終チェック)を終えて、本番に臨む。 こんな仕事をしていると、生放送の、本番五分前に滑り込んでくるアーティストというものが、フィクションだけのものでないとわかる。 ちなみに、その場合は代役を立てることになるのだが。 一度だけ、 私が、ほかの仕事との兼ね合いで、どうしてもランスルーに間に合わず。 プロデューサーが代役として、ステージに立ったことがあった。 私の歌のメロディが流れる中で、ただ立ったままのプロデューサーの姿が、ほかの共演者の笑いを誘ったらしい。 後日、彼は蒼い顔になって、二度とステージになんて上がるものか、と愚痴っていた。 午後の、七時三十分。 放送の開始まで、あと三十分。 ステージメイクとランスルーを終えて、あとは座して本番を待つだけ。 いつもならば、楽譜のチェックをしているところだった。 ただ、今は、なにも、手につかない。 そんな私の意識を呼び戻したのは、携帯の着信だった。 ニュルンベルグのマイスタージンガー。 携帯の通知欄は、ひとつの名前を知らせている。 『三浦あずさ』「──え」 なぜ、このタイミングで? 三浦あずさ。 『ギガス』プロダクションの創成期を支えた、今の私と同じAランクアイドル。 一年前。 人気の絶頂期に、突然の引退を表明した、私のもっとも尊敬するアーティスト。(ここは、あえてアイドルという表現を使わない) 最後のベストアルバム、『MY BEST ONE』は、296万枚のセールスを記録し、ミュージックシーンに、ひとつの伝説を打ち立てた。 今の私の技量をもってしても、全盛期の彼女には遠く及ばない。 間違いなく、今世紀を代表するアーティストのひとり。 今は、第一線を退き、家事手伝いとして、日々を過ごしている。 悩んだときや、歌で行き詰ったときに、よく相談に乗ってもらったり、家に招かれて、プロデューサーと一緒に料理をご馳走になったりしている。 ──それでも、 このタイミングでの電話は、なんらかの意思が透けてみえた。「もしもし、あずささんですか?」「ええ、千早ちゃん。今、どこかしら?」 受話器を通して、彼女の柔らかな口調に、鉄の色があった。「ミュージックセレクションの、楽屋です。あの、あと三十分で本番なので」「プロデューサーさんとのこと、聞いたわ」 わずかな、沈黙。「もう、私には関係ないことですから」 ぽつりと、言った。 電話なら、嘘を嘘と見通される心配はない。「あらあら。千早ちゃん。わかってるでしょう。貴方に、嘘なんて似合わないわ」 息が、詰まる。あずささんは、どこまで知っているのだろう。 なにもかも、見透かされているようだった。「だったら、どうすればいいんですか?」「え?」「だったら、どうすればいいんですか。 結構前に、この番組をボイコットしたロシアのデュオユニットがいましたよね。 ワイドショーで散々に取り上げられて、コンサートはがらがらで、数千円のチケットが、数百円で投げ売りされたっていうじゃないですか」 しまったと思った。 けれど、一度口火を切ってしまえば、あふれそうな思いは止まらない。「本物でも、一度落ちたら、二度と這い上がってこれないのがこの世界です。 だから、老害だとかなんだとか言われても、しがみついている歌手たちがたくさんいる」「まあ、あれは本物というよりは、イロモノだったような気もするけど。 ──千早ちゃん。変わったのね」 責めるような声音ではない。 静かな声が、夜の静寂に吸い込まれるように、私の心に吸い込まれていった。「──私の知っている千早ちゃんは、もっとまっすぐに夢を語る子だったわ。 時には、無茶なことや無謀なことを言っていたけど、その一点だけは、誰にも負けていなかったと思うわ。ただ純粋に、歌の精度と質だけを見てたはず」「あの頃は、なにも知らない子供だったからです。 知っていますか? ──私、もう一八歳ですよ。 三年前とは、なにもかもが違うんです。 私は、誰の庇護も必要としていない。 自分の出番に穴なんて空けられない。 私の代わりは、誰もいない。 ──誰もできない。 それだけの自信がないなら、アイドルなんて務まりません。 シンデレラが幸せになれるのは、童話の中の世界だけです。なにもかもを犠牲にして逃げた先に、幸せなんてないっ!!」 「──だけど、行きたいんでしょう?」 「──私は」 そんなことはない。 そのたった一言が、言い返せない。 その一言の重さは、わかっているつもりだ。 それでも、わからないのだ。 プロデューサーと歌と、私にとってどちらが重いのか。 その片方が、私が今、考えているよりもずっと重かったら? 「大丈夫よ。千早ちゃん。 自分のしたいようにすればいい。追いかけたいなら、追いかければいい。だって、千早ちゃんはまだなににもなれていないんだから」「…………………………………」「一〇人いれば一〇人分の個性があるわ。たとえ、どん底に落ちてしまったら、童話ならバッドエンドよね。それでも、人生は続くの。人生に、バッドエンドなんてないんだから。 そうしたら、そこから、どうもう一度はじめるかを考えればいいじゃない」「そんな、綺麗事を」「綺麗事じゃないわ。 だって── これは、 今までの千早ちゃんとプロデューサーさんを見てきて、感じたことだもの。 この三年、 千早ちゃんは、二人三脚で、そうやって歩いてきたでしょう? ねぇ、千早ちゃん。知ってる? 歌は、どこでも歌えるって。国境を越えるって。 だからね。千早ちゃん。この世の中にはね。 数学と違って、絶対に答えの出せない問題というのがあるのよ」 知っている。 そんなことは言われるまでもない。『ねえ。千早はパパとママの、どっちが好き?』 選ぶことで、必ず誰かを傷つけなければいけない選択というものがある。 時には、選んだ本人さえ。「だから、答えを出したくないのなら、どちらも選ばなければいいの」「………え」『わたしたちは、あなたに強制はしたくない。だから、千早。あなたが決めなさい。お父さんとお母さんの、どちらを選ぶのか』 ずっと、自分の人生は袋小路だと思っていた。 でも、違ったのだ。 先の見えない暗闇なのだと。 選択の余地もなにもなかったと。 私に、幸せなんて掴めないのだと。 思えば、そんなはずはない。 あそこで、どちらの選択も選ばなかったら。 泣いても、縋ってもいい。 離婚なんてやめようって。 家族三人で一緒に暮らしたいって。 私は、最初からあきらめて。 そんなことは、口に出したこともなかった。 選べなかった暗闇の先には、きっと光があったのだ。 それに、ずっと気づくことができなかった。 ううん。 現実は優しくなくても。 そう信じることぐらい、私にも許されますよね? 「──あ」 それでも、 まだ遅くないなら。 だから、今度こそ、如月千早らしく。 まっすぐに、 物怖じせずに、 自分の意見を通す。 五分か、 一〇分か、 気の遠くなるような沈黙の後で。「あずささん。ひとつだけ、お願いをしてもいいですか────?」 私は、自分の答えを告げた。「朔か。どうした?」「ああ、二年ぐらいまえに、麻雀の賭け分、二万四千円取りっぱぐれてたのを忘れていてな」 俺は財布から万札を三枚取り出すと、旧友に向けて放ってやった。「……………………………それだけか?」 俺は、ジト目で朔を睨む。「それだけだ」 朔は、そう言うとタバコにライターで火をつけた。 朔響。24歳。 この若さで、副社長と営業本部長を兼任している。 俺の大学時代の先輩だった。俺をこの業界に引きずりこんだのも、この男だった。 時間は、七時五七分。 約束の期限まで、あと三三分。 さすがにこの時間になると、各セクションの明かりはほとんど消えている。 かろうじて、受付けだけは明かりを保っているが。 しかし、ここの印象は、昼間と変わらない。 このあたり一帯が華やかさを失わないのは、社屋の玄関の横に取り付けられた超大型の街頭ビジョンのためだった。 横が五メートル、高さもそれぐらいあるその巨大テレビは、アイドルはいつも見られている、ということを忘れないために、ということで、社長の鶴の一声で決まったものだった。 場所が工夫されており、食堂から見られるようになっている。 あと、相当の熱意か特別な理由がなければ、アイドルもアーティストも、いちいち自分の出ている番組なんてチェックしないという、当たり前といえば、当たり前の要素も絡んでいた。「一本くれ」「ああ。なんだタバコ辞めたんじゃなかったのか」「別に。ただ、もう我慢する必要もないからな」 俺は、勝手に朔の胸ポケットから、メンソールを取り出すと、火をつけた。 久しぶりに煙を吸い込んだせいか、派手にむせる。「千早ちゃんか。随分と干渉されてたな。まるで、恋女房みたいだったじゃないか」「まったくだ」「金田。お前、千早ちゃん無しで生きていけるのか? またカップラーメンの生活に逆戻りじゃないか?」「それは、まあなんとかなるだろう」 多分、なんともならない。 花壇の植え込みに腰を下ろす。「待ち合わせ場所は、ここでいいのか?」「ここでいい。ここからなら、玄関まで丸見えだからな。それに──」 俺が、そこまで言いかけたところだった。 ──近づく、靴音。 月明かりも、雲に隠れて届かない。 ただ、彼女を照らし出すのは、人工的な液晶の光だけ。 八時、ジャスト。 待ち合わせ、時間には、ぴったりだった。 珍しく、息が弾んでいる。 三年近く、一緒に仕事をしてきて、そういえばこんな彼女を見たのは、はじめてだった。 そういえば、彼女が迷わずに、待ち合わせ場所に到着できること自体、奇跡に等しい。 「プロデューサー、さん。お待たせしました」「どうし、て──? どうして、貴方がここにいるんですか? あずささんj「千早ちゃんに泣きつかれまして。 プロデューサーさんをひとりで放っておくのは心配だから、ついていってくれと。私も同意見です。こんな役回りは、なにも失うもののない私の方が適任でしょう」「 そこで、 街頭ビジョンの光景が切り替わる。 午前八時。 ミュージックセレクションの、時間が始まる。 最初の登場シーン、最初に如月千早が階段から降りてくる。 一目でわかる。 動作に、なんの迷いもない。 正真正銘の、ベストの彼女だった。 司会でのトークのあとで、歌に突入する。 生放送。 失敗は許されない。 そんな、 極限の状況下で、 ──彼女の、ステージが始まる。 やわらかな声だった。 雑味もケレンも一切なくただ純粋に透き通った声。どれだけの苦難も受け止めて、ここにいることを決めた、千早の決意の歌。「ああ、そうか。千早。ちゃんと──選べたじゃないか」 最初の一音で、すべて理解できた。 なんの気負いもない。 それは、誰のコピーでもない。 自分を掴み取ったものだけが出せる音。 ──如月千早の歌。「あずささんは、プロデューサーについていてあげてください。 私は、無理だから。 あずささんの言ったとおり、私は一度答えを棚上げにします。 いつか、日本で一番の歌姫になって、もう一度、プロデューサーに仕事を申し込みに行きます。答えを出すのは、それからでも遅くはないですよね」「千早ちゃんは、それで辛くはないの?」「──いいんです。辛くても」「え?」「だから、それでいいんです。 これからは、この痛みに耐えていくだけでいい。 この痛みが、ずっと続くのなら、 ずっと彼のことを想っていける。 私は、まだ囀りつづけることができる。 この胸の痛みが、いつか、砂の城のように、波に洗い流される日までずっと──」「そういう顛末か。しかし、この三人で集まるのも、久しぶりだな」「あら、響さん。ご無沙汰してます」「ええ、私がまだ貴方のプロデュースしていたころからだから、もう一年にもなりますか」 朔は、昔を懐かしむようだった。 歳の順からいって、朔が計画を立て、あずささんが周りを説得し、俺がそれを実行する。 いまだに、このチームに勝る充実感を味わったことがない。 無敵だった。 この三人で、後に千早も加わって四人になるが、なんでも、できる気がしたものだった。 けれど──人はいつまでも、同じ場所にはいられない。 歌が終わる。 そうなれば、幻想は拭い去られる。 夢は終わり、子供は寝る時間。大人は明日に備えて、英気を養う時間。 「さて、解散するか。次に会うときは、敵同士だな」「あらー。響さん。久しぶりに会ったことですし、一緒にお茶でもどうですか?」「有難い申し出ですが。あまり敵と馴れ合うのも問題があるでしょう。それはそうとあずささん。復帰の意思はありませんか? そこの甲斐性なしについていくよりも、ずっと有意義だと思いますが」「おい、誰が甲斐性なしだ。この悪人顔」「黙れロリキラー」「口を閉じろ。ビビリ野郎」「あらー。ふたりとも、久しぶりに会ったのに、息がぴったりですね」「誰がだ」「どこがですか?」 ふたりで、あずささんに抗議を入れる。「あとは、千早を頼む」「ああ、めんどくさいことは。俺に押しつけて──か?」 自分の女の後始末を、ほかの男に頼むなんて、甲斐性なしといわれても仕方ないな、と朔が言う。「今だから、言ってやる。 俺は、お前のそういうところが、殺したいほどに大嫌いだった」 息が詰まる。 明らかな、敵意。 その理由まではわからない。「けれど──な。それ以外の部分は悪くなかった。 ヒマな大学生みたいに、ファミレスで会社の舵取りについて、朝まで議論したことを覚えているか? ──良かったと思う。あの頃は」「朔。それは、当時、暇な大学生だった、俺への皮肉か?」「そんなつもりはない。千早ちゃんを入れても、二十人いなかったな、創業メンバーは。今思えば、ああやって、会社を廻している時が、一番楽しかった。 信じられるか? 今じゃあ神様みたいに崇められてる社長自ら、クレーム対応に追われてたんだぞ。あの頃は」「三年前か。俺たちも、いっちょ前に昔話ができる歳になったんだな」「ああ、そういうことだ。大学時代を合わせれば四年も付き合ったんだ。もう十分だろう」 距離が離れる。 目指すところは、同じ。 しかし、これからの立場は真逆に裏返る。「千早ちゃんだって、覚悟を決めて、あんな別れ方をしたんだ。 俺たちに別れの言葉なんていらない。 三年前は、ほんとにテンパってて、一時は、全員首を吊るしかないって状況になったな。 そのときは、笑えない状況だと思ってたが、今では、それすら笑い話にできる」 俺とあずささんは、朔の背中を見送るしかない。 それが、彼の別れの言葉だった。「だから── 数年後には、千早ちゃんも酒ぐらい呑める歳になっているだろう。 この光景がもし笑い話になっていたら、 また四人で。 一緒に酒でも呑み交わそうじゃないか」