876プロダクション隣の居酒屋のメニューは、手羽先が一級品だった。 辛みと塩のバランスが絶妙で、これを酒の肴に、ビールがいくらでも飲めそうだ。チェーン店とは違う、個人経営の居酒屋である。壁もボロボロと剥げかけているし、畳にも汚れが目立つ。 まあ、落ち着くといえば落ち着く。 街に必ず数件はある、昭和の匂いを色濃く残した居酒屋である。 尾崎玲子との一年ぶりの再開を祝う意味で、876プロダクションに残っていたアイドルを連れて、ここで一杯ひっかけることになった。 美希といえば、テーブルの上のカセットコンロの火を調節して、鍋が煮えるのを待っている。豆腐やら水菜やらキャベツやらもやしやら肉団子やらが、辛味噌と一緒に、ぐつぐつと食欲をそそる匂いを放っている。 辛味噌鍋は、ビールと合う。 いくつか年齢を重ねなければ分からない、世界の真理である。「はっ、カネゴンは年寄り臭いデスねっ」 そんな俺に、横から茶々をいれてくる声がひとつ。「……ああ、一気に酒がまずくなった。なんで仕事でまで、お前の顔を見なきゃいけないんだ」「ふぎぎぎぎっ!! 痛い痛いッ!!」 俺はテーブル越しにサイネリアのおさげを引っ張ってやる。 彼女はいつものムービーチャットの画面越しではなく、ちゃんと俺の目の前に座っていた。 この娘、電子生命体の一種かと思っていたが、ちゃんと実体もあるらしい。 なお、昭和の雰囲気漂うこのボロっちい居酒屋に、彼女のゴスロリ姿が浮きまくっているが、そんなことは別に言わなくてもわかるだろう。「髪を引っ張らないでクダサイよっ」 876プロダクションに、鈴木彩音(すずきあやね)の名前で登録されている彼女は、そう呟いた。 ──本名がマトモだ。 たしかにサイネリアなんて名前でデビューするアイドルなんていない。ユニット名じゃああるまいし。 まあ、こいつの歳が、18歳だったのは意外だったけれど。 まさか絵理より3つも歳上だとは思わなかった。 俺より4つ下なだけか。 年齢を排したつきあいができるのもネットのいいところなので、まあいいか。「こんな時間に未成年を連れ回すのは、労働基準法に違反してると言おうとしたが、18歳ならいいのか別に」「むしろ。そちらの方が問題じゃない?」 尾崎さんが、美希を示して見せる。「いや、美希はアイドルじゃあないからいいんだ」「え、そう。じゃあ、なんなの?」「釣り餌。ワークスプロダクションを食いつかせるための」「あなたは、またロクでもないことを」「あー、おにーさんは、みんなにロクでもないことをしてるって言われてるね」 鍋が食べ時になった。 辛みで、ほどよく赤く染まった鍋から、よく煮えた具を取り出す。「あと、鈴木さん。夜遅いんだから、脂っこいものは控えなさい」「鈴木ってゆーなっ!! 言われなくても、手羽先は全部ロン毛にあげマスよ。はっ。ロン毛の体重が、マッハでやばげデスね?」「う」「酒ばっかり呑んでるから、肝臓がフォアグラになるんデスよ。ほらほら、注いであげるからビールをタプーリ呑むとイイデス」 サイネリアが尾崎さんのグラスにビールを注ぐ。あ、尾崎さんが落ち込んでいる。相変わらずこの人のメンタルは豆腐同然だなぁ。 このふたり、仲がいいのか悪いのか。 美希の方を見てみると、他の876プロダクションのアイドルと話し込んでいた。日高愛。それに秋月涼。あちらはあちらで仲良くできるのはいいことだった。「インターネットって、なにかしら?」「なんなんだか、急に?」「絵理と、それに鈴木さんとの距離の取り方が、どうもわからなくて」「……インターネットってのいうのは、ただの場所だろう。それ以上でもそれ以下でもない」「デスね。遊び場デス」「そうなの?」「それは尾崎さんのほうが、よくわかっていると思う。想いが伝わりにくいとか、誤解が生じやすいとかあるけど、そんなのはあると思うけど」「そう」「天海春香の提案に、どんな話をされたんだ?」「──ただの取引よ。あなたとの対決に勝てば、ワークスの専属プロデューサーにしてくれるって。そう、すれば、もう一度やりなおせる。胸を張って、絵理を迎えにいけるわ」 重い。 ── 一気に、話が重くなった。 彼女は、死にものぐるいで、この条件を勝ち取ってきたのだろう。 昔から、この人は、仕事のない絵理を助けるために、一社一社に営業周りを欠かさなかった。才能でも人脈でもなく、地道に足で仕事を稼いでいた。「サの字も、同じ意見か?」「当然デス。センパイを引き戻した暁には、センパイと新ユニット『Viola』を結成するんデスよ。むしろ、最初からそういう約束だったのに、このロン毛がやるやる詐欺を」「だったら、いまは絵理よりもあの『ミラーズ』のふたりのことに注目したほうがいいだろう。当面、プロデュースするのは彼女たちなんだから」「心配ないわ。彼女は彼女たちなりの目的があるらしくてね。レッスンは真剣よ。あなたこそ、水瀬伊織と高槻やよいはいいのかしら。素人をそのまま出したって、『ミラーズ』のふたりには勝てないわよ」「そうだな。考えておく」 終電の時間前に、酒盛りは終わった。 尾崎さんは代行を使って帰るらしい。俺は俺で美希を送っていかなければならない。帰りの駅のホームで、酔った身体を醒ます。「大丈夫? 負けたほうが、絵理ちゃんのためになるんだよね?」「そうだな。けど、馴れ合うつもりなんてない。いまさらそんなことで悩むぐらいなら、この仕事そのものをやっていないからな」 アルコールのせいなのか、自分が饒舌になっているのがわかった。「しかし、やっかいな相手だ。いくらか手の内は割れているし、プロデューサーとしての力量も確かだ。勝たないといけない理由を抱えているやつは、恐い」「うん」「勝つことだけなら、できるはずだけどな」「そうなの?」 美希が首をかしげた。 「いくら強敵だといっても、水谷絵理を抱えていない尾崎玲子なんて、そこいらの凡百プロデューサーと変わらない。あとは、如月千早を抱えていない金田城一郎が、どこまでやれるかの話だ」 それよりも── 問題は他のところにあった。なぜ、天海春香が絶対に負けられないような勝負で、尾崎玲子を引っ張り出してきたのか。「それより、天海春香に、こちらのアドバンテージを即座に消されたのが痛いな」「あふ。どういうこと?」「そうだな。美希。おまえの中学校が、都内でも最大級の不良高だとしよう。そこらの生徒がヒャッハーと奇声を上げながら暴れ回っていて、まったく教師の言うことを聞かないような」「いきなり、すごい例えだよね」 そもそも中学校なの、高校なの、と美希は言う。「クラスごとにガキ大将が闊歩しているような感じだ。さて、おまえがこのクラスを牛耳ろうと思ったら、どうする?」「えーと、どうするって言われても。ひとりひとり番長を倒していく、とか?」「それで、だいたいあってる。喧嘩を売ったからには、強いヤツを引きずり出さないと意味がない。俺がやりたいのは、素人同然のアイドルをプロデュースして、恵まれている環境のアイドルを打ち倒す。 ──その図式だ。外様に勝っても、何の自慢にもならないのが辛いところだ」「骨折り損のくたびれもーけ?」「ああ、ワークスで一番のプロデューサーは、藪下幸恵だ。あれが出てくるのが理想だったんだが、うまくいかないな」 ──と、ここまでの記憶はあった。 飲み会での記憶があっても、どうやって帰ったのか記憶がない、というのはよく聞く話だったが、俺もたしかにそれに倣っている。 気づいたら、アパートの一室だった。「金田さん、お酒くさい?」 絵理がいた。 そういえば、深夜は彼女の活動時間だった。 この娘、一日の半分を寝て過ごし、夕方に起き出し、深夜に散歩に出かけて、朝方寝始める。彼女はネットの世界を探索し、気に入ったものをアマゾンでポチッっている。 なんか、どっかで見たような生活スタイルだと思ったら、思い出した。 実家で飼ってた犬がこんな感じだった。 今から、半年前に。 水谷絵理というアイドルがいた。 才能は、破格だったといっていい。 Aランクは無理でも、Bランクまでは到達できただろう。アイドルクラシックトーナメントの優勝を目標としていて、それだけの実力はあったと断言できる。ビジュアルや歌だけでなく、クリエイターとして広範囲に展開される才能は、ファンの間で、今でも語りぐさになるほどだ。 だが、ある日、突然に、彼女の担当プロデューサーである尾崎玲子は、彼女の目の前から消えた。 そうして、同時に、水谷絵理は終わった。 俺が彼女に会ったのは、そのすべての出来事が終わってからだった。 俺も、事態を全部把握しているわけではない。 いや、むしろ、ネットで話題になっている表面的な噂程度しか知らない。尾崎玲子に会わせるべきなのか、それさえもわからない。 けれど──『行かないでください』『傍にいてください』『……私を、見捨てないでください』 今なら、ほんのすこしだけ、尾崎さんの気持ちもわかる気もする。俺は俺の夢のために、千早を切り捨てざるを得なかった。 尾崎玲子の場合、いったいどんな葛藤があったのか。「……金田さん。なにか、隠してる?」「ん、そんなことはないぞ」 危ない。 絵理の勘の鋭さを、甘く見るべきじゃあない。 ああもう、こういうの苦手なんだよなぁ。 ──勝つ、俺にはそれしかできない。 あまり多くのことを抱え込むと、パンクしてしまう。 ひとまずは、高槻やよいと水瀬伊織。 今は、このふたりの夢を叶えるのに、精一杯だった。