「困ったわね。直すところがないわ」 これっぽっちも困ってないような表情のままで、あずささんが言う。左手に頬を当てて、思案するような、いつものポーズだった。 仮組みされたステージの上では、伊織とやよいが弾んだ息を整えている。 たった今、指定された会場での、ステージリハーサルを終えたところだった。 この会場は『ワークス』プロダクションの持ち物らしく、本日は俺たちの他には、観客一人いない。 水瀬伊織が動員したスタッフが、撤収を告げていた。 いつの間にか、日が落ちている。 三階席の後ろに設置された壁掛け時計は、すでに夜の八時を指していた。 仕上がりは、まったく問題ない。 『ミラーズ』との対決まで、あと五日を残した上で、やよいと伊織のプロデュースは、順調すぎるほどに順調だった。「どうしたのプロデューサー? なんか湿気(しけ)た顔してるわよ」「なあ、お前ら。 伊織はアイドルじゃないからいいとして、やよい。 どうしてこれだけ歌えて踊れて、Fランクなんだ?」 課題曲である『GO MY WAY』は、二年ほど前の大ヒット曲であり、アイドル候補生の練習曲としてや、合唱コンクールでの品目としてよく使われる。 舌っ足らずな子供が、『ごまえー』、『ごまえー』と歌うところが好評で、お遊戯会用、小学生用、中学生用、プロ用、と振り付けが四種類もある。 アイドルの端くれならば、踊れて当然の曲ではあるのだが、だからといって、難度が低いわけでもない。 いや、 相当に見栄えを重視した振り付け構成は、どちらかといえば、かなり高度な部類に入る。 片足立ちでバランスをとったり、かなりトリッキーな振り付けまである上、全身を使ってこれでもかと動きまくる。 歌いながら振り付けを完全に再現するとなると、けっこうな努力が必要となる。 伊織とやよい。 実のところ、まったく期待していなかった。 ここからハッタリを駆使しての、条件闘争こそが唯一戦える手段だと思っていたのだが、思いの外、出来が良い。 うれしい誤算という奴だろう。 デュオとしての完成度は、即戦力として通用するほどだった。よほどの努力か、よほどの才能を積み込まなければ、これほどのステージは再現できない。「いいな。 きっと、実力以上のものが出てるんだろうな」「アンタ、こんなときぐらい素直に褒めなさいよ」「そーですよー」 伊織とやよいがぶーたれる。「ああ、悪い。そんな意味じゃない。単純に、褒めてるんだ。 互いに、パートナーを大事にしろよ。実力以上のものを引き出しあえるパートナーなんて、そう簡単に巡り逢えるものじゃないからな」「まあ、私とやよいなら当然ね」「がんばりますよー。 伊織ちゃんも、プロデューサーさんも、あずささんも、ハイ・ターッチッ!!」 ぱぁん、と四人で、右手を打ち鳴らす。 「で、やよいはこれだけ踊れて、なんでFランクなんだ? 歌唱力も、味があるし、プラスに働くことはあっても、マイナスにはならないだろ。けっこうかわいいし」「あ、あうっ………」 ここまで直接的に褒められたことがないのだろう。 やよいが両手で顔を隠した。 両手でも完全に隠れていない顔が、真っ赤になっている。「え、えーと。人がいっぱいいると、緊張して………」「ああ、よくある人前で十割の力が出せないタイプか。わりと深刻な問題だな」「あらあらー、どうしましょう?」 そこらへんは、あずささんのカウンセリング能力に期待しよう。あがり症といっても、重度のものから軽度なものまでいろいろある。 アイドルを目指すぐらいだし、俺やスタッフ十人ぐらいに見られるぐらいなら、なんの問題もないことから察するに、それほど重傷ではないはず。 だが。 ──場合によっては、これが致命傷になることもあり得る。「それで、聞きたいことはひとつよ。『ミラーズ』に、勝てると思う? 変なお世辞はいらないわよ」「今聞いたろ。 あずささん評価だと、 『いいけど、ここをこうしたほうが』でDランク。 『困ったわね。直すところがないわ』でCランク。 『素敵な音楽ね』で、Bランク。 『思わず聞き惚れていた』、でAランクだ」「私たちはCランク? ていうか、違いがわかんないわよ」「安心しろ。俺にもよくわかってないから。 まあ、いい勝負するんじゃないか? まだ相手の仕上がりを確認していないが、ただ、Cランクは並みのアイドルにとっての最終到達点だからな。 このクラスになると、雑魚なんてひとりもいない。なににしろ、ファンを惹き付けるだけのなにかを持ってる」 化け物(タレント)揃いのBとAランクなど、むしろ最初から除外していいほどだ。「稼ぐ気になれば、Cランクなら、一日で一流企業のサラリーマンの月収ぐらいは稼げるからな。そこに残ってる連中は、強い上に、しぶとさまで加わっている」「え、ええと、サラリーマンの月収って、五万円ぐらいですかー」「馬鹿ね。やよい。五百万よ」「五十万だ馬鹿どもっ!」 互いに、変な方向に金銭感覚がズレてやがる。 「やよいを見る限り、アイドル業界がそんな儲かるなんて考えられないけど──」「ん、それができるんだ。ひとり九千円で、握手会とサイン会、あとミニライブを行う。──定員は、三十人だ。 全部捌くのに、一時間半といったところか。 ──これを、一日五回廻しでやる。場所を変えてな。 九〇〇〇×三〇×五=一三五〇〇〇〇ってところだ。 事務所と折半して、アイドルの取り分は五割。移動代やらスタッフの人件費をさっ引いても、五〇万を切ることはないだろ。 な、ボロ儲けだろ。この恩恵に与れるのは、アイドル一〇〇人いて、五、六人てところだけどな。Dランクなら、ようやくレッスン料を取り返せるぐらい。EとFならまったくの赤字だ」「それ──客が集まるわけ?」 伊織が、懐疑的な視線を向けてくる。「基本的に、サイン会と握手会なんて、やるのはCランクまでだからな。ここからBランクやAランクまで行くと、サインを入手する機会は、倍率が、何百何千倍の抽選ぐらいだ。 Aランクまで行くと、そのアイドルのサイン色紙なんて、百万近くで売れる。──ヤフオクで。 百人のサインを貰って、その全部に九千円払っても、その中のアイドルがひとりでもAランクに昇格すれば、黒字になるって皮算用だ。 現実としては、そんな上手くいかないけどな。 客だって、伸びそうなアイドルを厳選する。金とって握手会だけやってるようなアイドルは、最初から昇格の意志なんてない、と見なされ、即、ブラックリスト入り。 そのままファンを手放して降格するだけだ。──自業自得だが。ファンも馬鹿じゃないし」「あうあうあうあうあう」「で、やよいはなにしてる?」「天文学的な金額が頭の中で踊ってるんでしょ。いつものことよ」「ごじゅうまんえんあったら、もやしが千個、二千個………商店街中のもやしを買い占めても、おつりがきちゃいますよっ!!」「そりゃあ、来るに決まってるじゃない」「まあ、そういうわけだ。 『ミラーズ』は手強い。お前らと、同じぐらいにはな」「じゃあ問題ないですね。足りない分は、笑顔でカバーです」「うん、やよい。良いことを言ったな」「えへへ」「すると──やっぱり、プロデューサーの勝負になるか」 意識を、切り替える。 尾崎玲子。 プロデューサーとして、ブランクがあるにしろ、舐めてかかれる相手ではない。 いくつか清算しなければならないこともあった。「やはり、会いに行ってみるか。これから出かけるが、おまえらはどうする?」「私は遠慮しておくわ。帰ってシャワー浴びたいし、偵察なんてセコいこと、私に似合わないしね。そもそも、これはアンタの領分でしょ?」 水瀬伊織は、さすがというか、行動指針にブレがなかった。 椅子に腰掛けて、すらりと長い手足を伸ばす姿が、さまになっている。「やよいはどうする?」「うう、できれば行きたいんですけど、もうすぐ行きつけのスーパーで、50%引きのシールが貼られる時間なんですよ」 やよいは申し訳なさそうだった。 さっきから、チラチラと壁掛けの時計を気にしてたのは、そのせいか。「そうか。やよいもダメだとすると、美希は?」「え、行ってもいいよ? おにーさんって、フラれてばっかりでかわいそうだから、ミキがつきあってあげるね」「ああ、ありがとな。なんか涙がこぼれそうだ」「うん、ひいよ。ふぐぐぐぐぐぐぐぐ」 俺はとりあえず、美希のほっぺたを引っ張っておくことにした。 そして。 公共バスを乗り継いで、目的地まで到着するまで。 美希が買い食いすること二回。 ナンパされること三回。 同業者らしき人間にスカウトされること二回。 そんな難関を経て、ようやく地図の場所までついた。 さびれたプロダクションだった。 『やきとり』とだけ書かれた居酒屋。平時に営業しているのかと疑問符がつく写真屋などが詰め込まれている土地に、やや目立つようにその建物はある。 一階は、ただの雑貨屋らしい。 二階には、大きく看板がかかっていた。『876プロダクション』 最近出来た、新興のプロダクション。 尾崎玲子は、どうやらここの外部スタッフであるらしい。 えーと、資料によると、登録されているアイドルは、三人だけか。 日高愛。(13歳) 秋月涼。(15歳) 鈴木彩音。(18歳) ──待て、日高? いや、きっと、ただの偶然だろう。 「うわー。ボロいかも」「そういうな。四大プロダクション以外は、だいたいこんなんだ」 俺は、統一感のない自販機が並ぶ、すでにシャッターが降りた店の横の、階段に足をかけた。うわ、ボロくて体重をあずけるたびに、ぎしぎしといっている。「ん、どうした。美希?」「ねえ、ミキ、アイドルなんてやらないよ。たとえ、おにーさんが負けても」 西園寺美神との賭けの話だった。 ああ、次々と変わる状況に振り回されて、忘れていた。「なんだ。急に」「わかんない。遠くまできて、急に不安になったのかも」「そうか。そうだな。それはなんとかする。 ──誓うよ。 決闘なら代理人が認められるが、今回のこれはちょっと非道いからな。まあ、仮に俺が負けたとしても、俺のタダ働きぐらいで、契約はまとまるだろう」 事実、星井美希を『ワークス』プロダクションが囲い込んでいる以上、俺が手を出さなければ、誰も手を出しはしないはずだ。「だから、なにも心配する必要もない。ただ、楽しんでいればいいと思うぞ」「そう、かな?」 虚ろな瞳。 一度だけ、こんな彼女を見たことがある。 たしか── そうだ。 彼女と初めて会った時、別れ際に姉を見る、感情のこもらない酷薄な瞳の光。 ──それが、まるで泣いているように思えた。「ねぇ。なにかに夢中になるって、どんな気持ちなのかな」 美希は── 笑った、のだと思う。「楽しかったり、胸が熱くなったりするの?」 疑問。 子供が、母親に聞くようなものだ。「悔しかったり、そのせいで夜眠れなかったり、泣いちゃったりするのかな」 意外だった。 星井美希に、悩みなど似合わない。 短い付き合いだとしても、ずっとそう思ってきた。「ミキは、きっと幸せなんだと思う。 練習してないのに、運動会で一等以外とったことないし、ラブレターやラブメだって、少ない日でも一日十通はもらうよ。勉強はニガテだけど、それで困ったことなんて、今までで一度もないし。 ……これって、幸せなことだよね。 家族もみんな仲良しで、ミキの言うことはなんでも聞いてくれて、友達だっていっぱいいて、きっと足りないものはなにもないの」 思春期という奴か。 行き場のない悩み。 彼女は──自身に芽生えた、まだまっしろな気持ちに、どんな名前をつけるのだろう? ──贅沢な悩みだと、切り捨てるのは簡単だ。 お前が一生をかけてでも出さなければならない答えだと、正論を言うことなら、誰だってできる。 きっと。 彼女が求めているのは、そんな答えじゃないから。「それは、たしかに許せないな」「だよね。この話すると、みんな引いちゃって。だから、うん。忘れていいよ」「違う。 俺の前で、そんなつまらなそうな顔してることが許せないって言ってる」「え?」「そういう奴には、ちょっと無茶をしてでも笑顔になってもらわないとな」 俺の言葉を、美希は本気にはしなかった。「だって、おにーさんにはなんの関係もないよ。ミキ的には、ちょっとした悩みだし」「たしかにまあ、なんの関係もない──あれ、あるな」 俺は首を傾げた。「──あるの?」「ああ、あるな。 俺はプロデューサーである前に、エンターテイナーだ。あいにく、俺の選んだ生き方だからな。こればっかりはどうしようもない。つまらない顔をしている奴が許せないんだ」「その生き方、疲れない?」 ちょっと本気で心配された。「そんなことは、考えたこともないな。 ──美希。 つまらなくなったら、俺の隣にいろ。 それなら、手の届く範囲で笑わせてやる」「………………………」 美希は、呆然としていた。 その後で、「あは」と、小悪魔じみた表情で、こちらの顔を覗き込んでくる。「………もしかして、口説いてる?」「そういうセリフは、あと数年してから行ってくれ。じゃあ、行くか」「そうだね」 いつまでも、話しているわけにはいかない。 876プロダクション。 ──さて、なにが出てくるか。