都心の一等地に構えられた全面ガラス張りのビルが、五百人近いアイドルを抱える『ギガス』プロの本部だった。 完成してたった半年のそれは、社長であるジョセフ・真月の全面的な趣味で、カフェルームと、和室が完備されている。 地下には、最新音響を積んである専用のスタジオを備えていて、業界広しといえど、ここまでの設備を揃えた芸能プロは珍しいだろう。 丁度、昼食の時間。 社員食堂を利用するスタッフやアイドルたちで、四階は埋まっている。 真昼の喧噪の中、なにごとかと振り向く社員たちをすり抜けて、私は前に体を蹴りだす。 エレベーターの扉が閉まる直前に、彼の後ろ姿がわずかに見えた。あのエレベーターは、一階までの直通だ。 それを理解する前に、私は横の階段を二段飛ばしで駆け下りる。 視界が縦に揺れる。 清掃員のおばさんが驚く顔が、一瞬、視界の端に焼き付いた。 一階の床を踏む。 視界が開けた。 ホールに、彼の後ろ姿が見える。「プロデューサー……」 叫ぶつもりだった。 息を切らしていたわけではない。 けれど── こみ上げるモノがあって、ひどく擦れた声にしかならない。「千早──?」 それでも── 喧噪の中で、その声はたしかに彼に届いていた。「どうして、辞めるなんて……」「誰か。しゃべったのか。──ああ、社長か、仕方ないな」 いつも通りの、彼だった。 傍で厳しくも笑いかけてくれるまま、このまま外回りにでも出かけるサラリーマンのように見える。 あまりに平然としているのが、信じられなかった。 だから──「嘘、ですよね。プロデューサーが、この会社を辞めるだなんて」「あー」 困ったように頭を掻く。「こうなると思ったから、千早のロッカーに別れの手紙を差し込んでおいたんだけどな。ムダになったか」「プロデューサー………」 ──引き抜き、だろうか? まさか。 そんなこと、あるはずがない。 ──業界で並ぶものどころか、比べることすらおこがましい。 彼が座しているのは、アイドルプロダクション業界で四強のひとつとされる『ギガス』プロダクションの、五百人を越えるアイドルたちの頂点である、如月千早の専属プロデューサーの席。 ──年収なんて、軽く億を超えるだろう。 どこかのプロダクションが、これ以上の条件を重ねることなど、不可能に近い。 疑問は洪水のように頭を埋め尽くして、声になってくれない。親から見捨てられた雛鳥のように、私はただ、かぶりを振るしかない。 「喫茶店にでも、入るか」 困ったようなプロデューサーの視線が、自分の袖の辺りに注がれる。「プロデューサー。どこを見ているんですか?」「いや、な……」 彼が、口を濁す。 プロデューサーの視線を追うと、いつのまにか、私の手が彼の袖を掴んでいた。無意識、だった。「あ──」 まるで、親を探し泣く、迷い子のようで。 恥ずかしかったけれど。 それでも、一度掴んだ手を離すなんて、できるわけがなかった。 促されるまま、一番奥の席に座る。 一階の、エントランスルームの外側。主に、来客が利用するために作られたその喫茶店は、昼時なのに客付きは五割程度だった。「すまないな千早。こんな場所で」「それはかまいません。それで、早く本題に入ってください」「やっぱり、怒ってるか?」「怒っていないように見えますか?」「引継ぎはやっておいた。朔なら、能力的にも人格的にも問題ないだろう。 朔響(さくひびき) 彼の大学での、二年先輩だった、らしい。この『ギガス』プロの創業期からのメンバーで、彼からの誘いで、プロデューサーはこの仕事についたはずだった。 社長の片腕であり、実質、この会社を動かしているのは彼だった。イメージとしては、ダーティーで、陰謀とか策謀とかが似合いそうな顔をしている。 「だから、一人前だよ。──千早ならきっと、ひとりでもやっていける」 それは。 ずっと恋がれていた言葉だった。 いつか、この言葉を言われることを願って、きっと、私は血の滲むような努力を重ねてきたから。 他人からの賞賛も、 ファンからの声援も、 通帳からゼロがはみ出るかと思うほどの、目も眩むような大金も、 手が届かないと思われていた天上の歌手の人からの言葉も、 ──きっと、この一言には及ばないと思って、今まで頑張ってきた。 だから── それがなにを意味するかなんて、一度も考えたことはなかったのだ。「これで、終わり……?」「ああ」 静かな言葉だった。 感情を押し殺した様子も、なにかを堪えている様子もない。「行かないでください」「できない」「傍にいてください」「それは、できないんだ」「……私を、見捨てないでください」「……千早」「プロデューサー。最初の、私の質問に答えてないです。どうして、辞めるなんて。ここまで、三年、一緒にやってきたじゃないですか。私の勘違いだったんですか? 今が充実してるんだって。プロデューサーに、出逢えてよかったって、ずっと、私はずっとそう思っていたのに── どうして──」 どうして── どうしてッ──!! 「ここに、なにがあるんだ──?」「え?」 「とある、有名なコピーライターの人の言葉だ。『今、一番売れている』というフレーズが、もっとも消費者を訴求できる言葉になった今、自分がこれ以上、この仕事をしている意味はない──。 この一年、覚えてるか? プロダクションも軌道に乗って、ランクBからランクAまでに昇りつめて、二枚組みのアルバムを出して、コンサートツアーを組んだ」 飛躍。 その一年を表すなら、そういうだろう。 すべてが良い方向に廻り始めていた。テレビ出演も、数万人規模のコンサートをめまぐるしくこなし、たくさんの人々に自分の歌を届けているという実感がもてた。「単純な理由。どうしようもなく単純な理由だ。 俺にとって、千早と過ごしたこの一年が──」 私にとって。 忘れられない。 輝きに満ちた一年が──「どうしようもなく、苦痛だったからだ」 「え?」 それは、思いもかけない言葉だった。 四肢が震えて、体の温度が二℃ほど下がったような気がした。自分がどこにいるのかもわからなくなって、歯と歯の擦れるガチガチといった音が、自分の耳だけに届いている。 「ああ、そうだ── この一年間は、苦痛でしかなかった。 ただ『ギガス』という事務所の名前を言うだけで、他社を押しのけてセールスを確保できる。この会社で『アイドルを育てる』仕事をしているプロデューサーなんて、十人もいない。他の弱小プロダクションから法外な金にモノを言わせて、引き抜いてくるだけだ。 この会社で、俺がこれ以上、いったいなにをすることがある──?」 彼の苛立ったような言葉も、ぼやけた層を通してしか耳に入らない。「きっと、千早の言うことは正しいんだろうな。実のところ、辞める理由なんてないんだ。ただ、これからも、続けていく理由がないだけで」 彼は、続けた。「身勝手な理由だって事はわかってる。でもな──俺はきっと、これ以上自分が、生きたまま腐っていくことに耐えられない」 彼の言葉が、わからない。 彼の思考が、わからない。 「わからない、だろうな。それでいい。分かる必要もない。千早が自分だけの世界を持っているように、俺にもあるんだよ。ただ、それだけのことなんだ」 彼は、目を閉じた。「それでも、俺と同じように、なにもかもを捨てられるなら、一緒に、来るか。千早?」 唐突に、差し伸べられた手。 いや、違う。今までだって、ずっと、彼の腕を捕まえていて。 ただ、それが目に見えにくかっただけ。「違約金ぐらいなら、ふたりの貯金を合わせればなんとかなる。ちょうど、大きなコンサートをやりとげて、これから仕事を選んでいこうとしていた時期だ。頑なにドラマや映画の仕事を断ってきたから、不幸中の幸いってやつかな。バラエティのレギュラーも二本失うことになるが、五週先までは収録済みだし。これに関しては、犯罪を犯したわけでもなし。そのテープそのものが使えなくなるわけじゃあないから、たいして損害もないだろう。バラエティは、層の厚さが強みだな。いくらでも、代わりが雨後の竹の子みたく出てくるんだから」 如月千早は、アイドルか、歌手か。 それは、私のホームページの掲示板で、当たり前のように議論される話題であり、 CDの売り上げを最優先に、タイアップを中心に活動を広げてきた、ひとつの副産物だった。「なら、最初から私に言ってくれれば──」 ──私の想いは、プロデューサーに届いた。 彼の持ち出した妥協点を聞いて、 そんな勘違いができるぐらいに、私は動転していたのだろう。「そうだ。千早。お前が決めていい」「はい。だから」「言っておくと、こういった例で、事務所を移籍して、そこから一流に返り咲いた例は、ひとつもない。それを、わかってるか?」「それは」「それを踏まえて、決めてくれ。もし、ついてくるのなら、引退しかない」 その言葉に、心臓が跳ねた。 目の前が、揺らいだ。 視界の隅で、影が揺れている。『あなたが決めて良いのよ。父さんと、母さんのどちらについてくるか』 それは、私が今まで生きてきた中で、最悪の日の記憶。 今になって。 今になって、どうして、こんなことを思い出すんだろう?『知っているでしょう? お父さんとお母さんは、もう一緒に暮らせなくなったの。わたしたちは、あなたに強制はしたくない。だから、千早。あなたが決めなさい。お父さんとお母さんの、どちらを選ぶのか』 デビューして、すぐ。 私は、自分の家庭が壊れる瞬間に立ち会った。 離婚届と、それに押された判子。 そして、最後まで互いを見ようともしなかった両親。 思い出したくもない。 少しだけあった期待。 いつかの、家族三人が、たしかに幸せに暮らしていた時間が、たしかにあった。 歌は、今とは比べ物にならないほどに下手だった。 それでもよかった。 あのとき、までは。きっと。 私は、無意識のうちに、上着のポケットの中に指を差し込んでいた。 人差し指に触れたのは、木製の、ミツドリのキーホルダーだった。 母についていくことに決めたときに、父からもらったもの。 別れの際に、あの人も、きっとなにをプレゼントすればいいのかもわからなかったのだろう。 無理もない。 私だって、あの人に、贈り物をしようなんて思わない。捨てるに捨てられず、ずっとポケットの中で眠っていた。見れば思い出すのは悲しいことだけで、つらいことだけで、存在すらも黙殺していたのだ。 なにができるわけでもない。 なにをどうしても、壊れた食卓は、もう二度と戻らない。 希望を失って。 明日が見えなくて。 それでも、歌うことだけはやめられなかった。 それで、なにが変わったわけではない。 なにもない欠陥品が、歌うことしかできない欠陥品に変わっただけ。 それでも、歌わなければ、生きている実感さえ得られない。「──そう、なんですか」 そこで、 ようやく、 プロデューサーが、私になにも言わずに去ろうとしていた理由が、理解できてしまった。 私は、 私は、今の立場を捨てられない。 たとえ、なにを、天秤にかけたとしても。 今の立場に換えられるものなどない。自分自身の心臓でさえ、天秤の片側とするには軽すぎる。 歌は、私のすべてだった。 だから、切り離した瞬間に、如月千早は生きていられない。 彼の言葉を借りるならば、私は、歌を失って、緩慢に、生きたままで腐っていく私自身を認めないだろう。 このまま、彼についていくとする。 彼の提案を蹴って、再デビュー。 そして、またFランクアイドルから? あまりに、致命的だ。 それだけで、この三年間を、全否定するにも等しい。 ようやく、基盤を安定させて、ちょくちょく音楽番組で歌えるようになった。長かった下積み時代が終わって、これからが如月千早のスタートなのだ。 アイドルにとっての旬は、今しかない。 一部のコアなファンを除き、大多数の視聴者は、旬を逃したアイドルなど見向きもしない。 アイドルの価値を決められるのは、視聴者だけだ。 どれだけ歌が優れていても、どれだけの強運に恵まれても、ファンはいつか醒める。 今から、これからの三年間がおそらく、如月千早というアイドルの旬、つまりはピークだろう。 移籍してしまえば、 『ギガス』プロの全面バックアップによる、万全の体制も望めない。 そして、それはアイドルとして生きる少女たちの九九パーセントが、望んだって得られないものだ。 プロデューサーは、生え抜きを見つける才能も、無茶を通す能力も、おそらくは業界で並ぶものもないレベルだった。 しかし、 それはつまり、危機にならなければ使いようがない。 使わなければ使わないほうがいいような能力であり、『ギガス』プロダクションが、業界の十パーセントを握ったという安定期には、もはや不要な能力だった。 ならば、彼の後任を継いだ朔響の方が優れている。 彼が育てている、いくつかの若手のグループがあるという。その中の優れたグループのひとつに、なんの問題もなく、彼の仕事は委任されるだろう。 なんの問題も、ない。 なんの問題もないのだ。 彼が、私の前からいなくなってしまうということ以外は。 認めるしかない。 思ってしまった。 どうして、こんな選択があるのだろう? これならいっそ。 全部夢だったことにしてくれたら。 ある日突然、彼がいなくて、全部夢だったということにしてくれたらいいのに、と。「私、は──」 彼と、担当プロデューサーとアイドルとしての関係で。 羽を寄り添って、これまでを過ごしてきた。 その関係が霞んでいく。 結論は、変わらない。 私は、自分自身を売り渡すことはできる。 でも── 歌を、捨てることはできない。 彼が立ち上がる。 行ってしまう。「千早。まだ荷物の整理だとか、いくつか時間を作るようにする。 四日後だ。 四日後の午後八時に、このビルの正面玄関で三十分だけ待っている。もし、俺の夢に協力できるのなら、その日、その場所で答えを聞かせてくれ」「待って、ください。その日は!」「ああ、歌番組の生放送とかぶるな。だから、言ってる。中途半端な覚悟でついてこられても迷惑だ」 明らかに、突き放すような言葉。「今、夢と言いましたけど、プロデューサーは、ここをやめてなにをするつもりなんですか?」「言ってなかったか。『ギガス』プロを超えるプロダクションを作る。ゼロからの出直しだ」「…………………」 言葉がない。 無謀という言葉すら生温い。 それは神話にある、巨人(ギガス)に立ち向かうような、奇跡だけを輩に立ち向かう、愚かな行為。「だから、 決めてくれ。 ここで、俺なんかと心中するのか── それとも、これを乗り越えて、一流のアイドルを目指すのか──」 そして、彼は付け足した。 助けなんていらない。 これは俺の、たったひとりの、ジャイアントキリングだからだ。