ロイ・エントリオとシェル・ファイムの生まれた都市は、まさに平和そのものの都市だった。
汚染獣の襲来はロイ達の生まれる前、何十年も前から一度もなく、都市間の戦争だってある年とない年があるほどだ。
それは他の都市と、自分達の都市がかなり離れた場所にあると言うことを意味している。故に放浪バスなどは年に数度しか訪れず、外界の刺激に乏しくはあったが、平和であることが誇りであるような都市だった。
そこでロイとシェルは育った。汚染獣との実戦経験はロイの祖父の代しか持っておらず、汚染獣との戦いなど、既に老人が若者に語る懐古話、武勇伝のようなものへとなっていた。
だが、そんな平和な都市に汚染獣はやってきた。
武芸者達は驚きながらも臨戦態勢を取った。都市外装備に身を包み、都市に近づけないために必死に戦った。
武芸者の誇りとして、大切なものを護るために。
動員された武芸者は100名。死亡者は10名を越えた。
実戦に耐えられない老人達は、戦闘経験を元に作戦を立案し、戦闘経験のない若い武芸者だけで作戦は実行された。
それを考慮すれば、10人の犠牲で汚染獣を撃退できたのは、考えれば軌跡のような、望みうる最大級の戦果だった。
だが、ただひとつ汚点があった。
動員された武芸者は100名。死亡者は10名を越えた。
そして、敵前逃亡者はたった1名、ロイ・エントリオ。
誰もが未経験の脅威の中、全身全霊をかけた。ロイを除いた全員が。
望みうる最大級の戦果であろうとも、都市の防衛を行う大切な武芸者が10名も死んだのは見過ごせない数である。また、死んだ武芸者にも家族がいる。
その中でロイ・エントリオは逃げた。逃げ場のない、生まれた都市へ。他の者達が都市外で汚染獣と戦っていると言うのに。
同年代の中では優秀な部類に入るロイ。彼が普段嘲っていた程度の実力しかない訓練仲間が、必死の特攻で汚染獣の翼に穴を開けて地面に引き摺り下ろした結果、落下した汚染獣の体重を全身に受けて持ち帰ることもできない無残な死に様を見せた横で、ロイは逃げた。
誰からの許しも請うことができないような逃亡を計ったのだ。
それまでロイのことを優秀だ、立派だと称えていた大人達、そんな彼のことを尊敬の眼差しで見ていた訓練仲間達、都市の住民達。
その悉くが掌を返したようにロイを軽蔑した。罵られ、罵倒された。
都市民の殆どの者達に見放されたロイ。そんな彼のことを見放さず、唯一何時までも見ていた少女。
シェルは周りの視線など気にせずロイに接触し、声をかけ、彼を支えようとしていた。周囲の反対も押し切り、故郷である都市を出て、修行と称して都市から追い出されたロイを追ってマイアスを訪れた。
だが、ロイからすればそんなものは余計なお世話だった。慰めにもならず、むしろ自分の都市での失態をばらされるのではないかとびくびくしていた。
彼女が内心で自分のことを嘲っているのではないかと思っていた。
何故ならシェルは最後まで勇敢に汚染獣を戦い、両足を食い千切られながらも衝剄を汚染獣の頭部に放ち、粉砕し、実質的に止めを刺したのだから。
英雄と呼ばれ、都市の者達に称えられた。逃げ出したロイとは違う。立場の違う2人。だからこそ、ロイはシェルのことを正面から見れず、気持ちに気づかず、彼女の本音を知ることができなかった。
ただ、シェルは大好きだった、ロイ・エントリオのことが。
幼馴染であり、家が近所であり、幼いころからいつも一緒だったロイ。
子供のころは気弱だったシェルを色々と気遣ってくれて、同じ武芸者として切磋琢磨してきた仲。切磋琢磨とは言え、ロイが優秀だったからシェルは一方的にアドバイスをされていたが。
飲み込みが悪かったシェルに、ロイは呆れ、嘲ったように馬鹿にしたこともあった。それでもわかりやすく、できるまで指導してくれた。
口は悪く、多少自信家な性格ではあったが、それでもシェルはロイのことが大好きだった。
ロイが汚染獣から逃げ出し、都市の人達から罵られた。武芸者としての恥だと言われた。それでもシェルの気持ちは変わらない。
シェルは信じていたのだ、ロイのことを。
ずっと傍にいたからこそ、近くで見ていたからこそ理解している。ロイの実力を。
未熟者が集まる学園都市とはいえ、そこで都市警察の隊長を務めるほどの実力を持つロイだ。純粋な実力のみの話なら、都市の者達はロイのことを認めている。
だから、汚染獣から逃げたことが武芸者の恥だとしても、ロイならば立ち直ることができると。口が悪く、自信家な彼ならば、その自信を取り戻せばまた戦場に立てると。少なくとも、シェルはそう信じていた。
失敗は何度だってしたっていい。また汚染獣から逃げ出したとしても、その次の機会を頑張ればいい。逃げたことが原因で再び都市にいられなくなったとしても、シェルはそんなロイを支えるために再び後を追うだろう。いつかは彼が立ち直ってくれることを信じて。
それほどまでロイのことを想い、信じていた。
大好きで、ずっと傍で見ていて、これからもそうしていたかった存在。
だけど……
「ロイ君の……馬鹿」
ロイはシェルを裏切った。いや、彼女だけではない。この都市に住む者達全てを裏切り、取り返しのつかないことをしようとしていた。
汚染獣から逃げ出すのならまだいい。別にシェルは今更咎めたりしないし、汚染獣のことがトラウマとして根付いているロイに無理やり戦えと言うのが酷な話だ。
問題なのはロイが電子精霊を強奪した犯人の一味であり、この都市に住む住民達を危険に晒したと言うことだ。
もはや弁解のしようもない裏切りであり、許されざる行為だ。
ロイの言ったイグナシスの夢想。そして、もう汚染獣に怯える必要はないと言う言葉。その言葉の意味が、シェルには理解できない。
汚染獣に怯える必要がない。そんなことが実現できれば、確かにロイからすればとてもよいことだろう。彼だけではなく、汚染獣の脅威に怯えるこの世界そのものを救えるはずだ。
だが、だからと言って、この都市を、マイアスを、そこに住む者達を犠牲にしていい理由にはならない。
どんな理由や詭弁があろうとも、ロイは犯罪者であり、自分はその犯罪者を取り締まるべき立場にいるのだ。
「……馬鹿」
もう一度シェルはつぶやく。
憂鬱、この言葉以外に彼女の気持ちを的確に表す言葉はあるのだろうか?
ロイが犯罪者とはいえ、大好きだった彼を取り締まらなければならないシェルはやりきれない気持ちで一杯だ。
ロイを拘束して放置してきたが、やはりこのことは上層部にちゃんと報告しなければならない。
ロイは犯罪者。ならばこの都市にはいられない。学園都市とは言え、もはや停学で済む問題ではないのだ。
都市の足が止まり、ここに住む住民を危険に陥れた。現に汚染獣が襲撃し、それの対応で武芸者達は戦場に借り出されている。
良くて都市外退去。悪ければ都市外『強制』退去だ。
放浪バスが受け入れなかったり、またすぐに来なかったりすれば、汚染物質の舞う荒れ果てた世界に強制的に放り出される。それは都市外強制退去と言う名で誤魔化された死刑なのだ。
そんなことなど、シェルはしたくない。
「はぁ……」
ため息が漏れる。憂鬱で、やりきれないため息だ。
気分が沈み、やるせない気持ちで一杯になる。自分はどうすればいいのだろうか?
報告はしなければならない。だが、それでも、ロイを死なせたくはない。
いっそのこと事実を隠蔽するか、匿うかと思い悩んでしまう。
『ロイ君……大好きだったよ……』
自分がロイに向けて言った、彼を拒絶する言葉。
それでも完全には拒絶しきることができず、今も心の奥で引き摺っている。
「あの……」
「え……?」
シェルがまたもため息を付こうとしたところで、背後から声がかかった。
機関部へ向かう道中。その背後には、マイアスを抱えたリーリンの姿があった。
それを見て、シェルは自分が仕事中だと言う事を思い出す。
「あ、ごめんなさい。気に障っちゃいました?機関部はもう少し先ですが、少しペースを上げてもいいですか?」
「あ、はい」
シェルは我に返り、それを誤魔化すように今までリーリンに合わせていた速度を少しだけ上げる。リーリンは早足でその後を追う。
気落ちしたシェル。その呟きを聞いたリーリンはなんともいえない表情をしており、なんと言えばいいのかもわからない。
だけど今は声をかけるべきだと思い、捻りも何もないが、素直に自分の気持ちを伝えた。
「あの……元気出してください」
「……………」
励ましの言葉。おそらくはロイのことで思い悩んでいるだろうシェルに対して、リーリンは元気付けるように声をかける。
誰かを想い、好きになると言う気持ちはリーリンにもわかるから。
その気持ちが踏み躙られ、拒絶されると言うのがどんなにショックかと言うのある程度想像がつく。
あくまで想像だが、それでもリーリンはシェルを勇気付けるように言った。
「……ありがとうございます、リーリンさん」
その言葉に僅かだがシェルの気持ちは軽くなり、目的の場所、機関部へと急いだ。
「はっ……!?」
ロイが気絶から目を覚ますと、そこはどこかの建物の屋上だった。
「目が覚めましたか?」
「お、お前は!?」
そんなロイにかけられる声。その声のする方向に寝たまま、首だけで視線を向けると、そこには2人の男がいた。
長い銀髪の、鍛え上げられた肉体を持つ男と、マイアスの制服とは違う、ボロボロの学生服を着た茶髪の少年。
1人はリーリンやクラリーベルと一緒にこの都市を訪れた武芸者だ。確か、サヴァリス・ルッケンスと言った。
もう1人はリーリンとクラリーベルが、レイフォンと呼んでいるのを聞いた。
彼らは狼面衆達をものともせず、壮絶な戦いを繰り広げていたのだ。その光景はリーリン達と接触する前に嫌と言うほど見せ付けられた。
現在、2人の出で立ちはボロボロだ。だが、それがどうした?
制服の上着がボロボロとは言え、レイフォンはその姿でサヴァリスを圧倒し、サヴァリスはレイフォンとの戦闘で怪我を負いながらも狼面衆を圧倒した。
勝てない、そう断言する。ならば逃げよう。一瞬でそう決めた。
「っ!?」
だが、体が動かない。起き上がり、今すぐ走り出そうとしたロイだが、彼の体はまるで何かに縛られているように動かない。
それどころか手足までも拘束されており、指の1本すら動かせない状況だ。
「あまり動かないでくださいね。下手に抵抗すると、あなたの体が細切れになりますよ」
ロイに向け、レイフォンがサラリと恐ろしいことを言う。
彼の体を拘束しているのはレイフォンの鋼糸だ。
並みの武芸者、学生レベルの武芸者にはまず視認が不可能なほどまでに細く、強靭な糸。この糸は汚染獣の肉体を切り裂くほどであり、本家のリンテンスは老生体の汚染獣相手でもスパスパと体を切り裂く。
もっとも廃貴族憑き、剄が強化されたレイフォンならば技術はともかく切れ味は負けないだろう。
そう確信できるほどに、彼の体は強大な剄で満ち溢れていた。
「……………」
「それでいいんですよ。もう少ししたら解放しますから、それまで大人しくしていてください」
レイフォンの脅しに従い、抵抗をやめるロイ。
冷や汗が垂れてくるのを感じながら、地面に横になったまま辺りを見渡す。
現在地は先ほども言ったが、どこかの建物の屋上。だが、そのどこかは地に伏しているためにわからない。
鋼糸で拘束され、ロイにはここがどこだか知る術がなかった。
「ここは外縁部近くの建物ですよ。彼らはここで汚染獣を迎え撃つようですから」
「ひっ!?」
拘束されているロイの服の襟首をつかみ、サヴァリスはぐいっと引き寄せる。
ロイを起き上がらせ、汚染獣迎撃のために控えている学生武芸者達を見せ付ける。
「あなたを教導する義務など、僕にはまるでないのですけどね。あなたのような社会制度を悪用するしか能のない人間がどういう反応をするのか、見てみたい気がします」
サヴァリスの言葉の途中、レイフォンの鋼糸の拘束が解かれた。
それに気づかないほどにロイは体を震わせ、冷や汗が脂汗へと変化する。
「敵前逃亡の罪は戦うことによって償うのが武芸者としてのやり方だと思いますが、さて、あなたはどうします?」
サヴァリスがロイに言う。サヴァリスとレイフォンの瞳は既に接近している汚染獣の姿を捉えていた。
かなりの速度で近づいてきているので、そろそろ外縁部に控えている未熟な学生武芸者でも肉眼で捉えられる距離だろう。
「到着まで、もうそれほど時間がありませんね」
「う、うわぁ……」
「おっと」
暴れだすロイの襟首を放し、支えを失ったロイは地に落ちる。
そのまま、すぐにでも逃げ出そうとしたロイだが、それよりも早くその背中をサヴァリスが踏みつけ、動きを止めた。
「見せてくださいよ。僕に、心の折れた武芸者が再び立ち上がることができるのか否かを。そこにいるレイフォンを見てください。彼は失敗して、心が折れた。だけど見事に立ち上がり、ここまで僕を楽しませてくれた」
凶悪な笑みを浮かべ、サヴァリスはロイに語りかける。
だがロイは、サヴァリスの足の下でガタガタと怯え続け、話を聞く余裕などなかった。
「別に僕は、サヴァリスさんを楽しませるつもりなんて微塵もないんですけどね」
「まぁ、そんなことはどうでもいいんですよ。さて、あなたはこの都市の武芸者なのでしょう?人生をやり直した武芸者が同じ失敗を繰り返すのか?そして、失敗してもなお、やり直すために立ち上がることができるのか?」
勝手な言い分だと言うことは、サヴァリス自身わかっている。
だが、どうしても気になる。ロイはどうするのか?
レイフォンは立ち上がった。ならば彼も立ち上がるのか?
それとも無様に失敗を繰り返すのか?
「あなたはついてるんですよ。グレンダンの天剣授受者と、元天剣授受者が同時に後見として付いてるんです。さぁ、恐れずに戦ってください」
「僕ならこんな後見、死んでも嫌ですけどね」
サヴァリスの言葉に呆れつつ、レイフォンは汚染獣へと視線を向けた。
近い。学生武芸者の誰もがもう気づいているだろう。
汚染獣はその翼を羽ばたかせ、高速で接近してくる。
「そろそろ準備を始めないと、間に合いませんね」
ポツリとレイフォンがつぶやく。それに呼応するように、学生武芸者達は慌ただしく準備を始めた。
射撃部隊が剄羅砲に剄の充填を開始した。格闘戦を担当する部隊が緊張で青ざめている。
そこに汚染獣がやってきた。爬虫類のような強大な体躯に、昆虫のような翅を羽ばたかせてやってくる
悲鳴のような号令と共に剄羅砲が火を噴き、凝縮された剄弾が放たれた。汚染獣の表面で凝縮剄弾は弾け、鱗がいくつか弾け飛んだ。
汚染獣が咆哮を上げ、それがマイアス中に響き渡る。
怒りと痛みで目を血走らせながら、汚染獣はマイアスに向かって直進してくる。剄羅砲の剄弾がそれを迎撃する。
砲撃の雨に晒されながらも、汚染獣は突っ込む速度を下げない。血の霧を振りまきながら、汚染獣がエア・フィルターを突き破って侵入してきた。
「ひあ、あ、ああああ……」
ロイが声を上げる。
既にサヴァリスの足はどけられていたが、体が動かない。
彼は情けなく、みっともなく震え、恐怖の声を上げることしかできなかった。
「行かないんですか?あなたはここでは優秀な部類だと思うのですけど?」
「い、いやだ。いやだいやだいやだ!あんなのと戦うなんてごめんだ!」
ロイは手足をばたつかせ、屋上を這うようにして少しでも汚染獣から距離を取ろうと移動する。
その取り乱しっぷりを見るに、もしかしたらサヴァリスが足をどけたことに気づいていないかもしれない。
「やれやれ」
その醜態をサヴァリスはそれ以上見る気をなくした。
レイフォンもそのようであり、鋼糸の先端を針化粧の要領で尖らせ、針と化したその先端をロイの右肩に撃ち込んだ。
「ぎゃっ!?」
ロイがその姿勢と同じくらいに情けない悲鳴を上げる。
レイフォンの撃ち込んだ鋼糸の針はそのまま肩を貫通し、骨を砕いたのだ。
「ぎゃっ!あ、がっ、あああああ!!?」
続けざまに右腕に針が撃ち込まれ、一瞬で針山のような光景が出来上がる。
右腕を数十、数百にも及ぶ鋼糸の糸が貫き、ロイの右腕は完全に死んだ。治療を施せば治るだろうが、現状ではまったく動かない。
ぴくりとも動かず、ロイは脂汗を大量に掻きながら痛みに悶える。
「僕の場合、別に汚染獣から逃げたって何も言わないんですよ。あなたの姿を見て情けないとは思いますが、僕も一度武芸で失敗していますので」
確かにロイの姿は見ていて情けない。
だが、理由や経緯は違っても、レイフォンだって一度武芸で失敗している。だから他人のことをとやかく言うつもりはないし、偉そうに説教する資格もない。
もとよりそんなつもりはなく、レイフォンはロイの醜態とは別に怒りを感じており、その怒りのままに今度は鋼糸の針で左足を撃ち抜く。
「あっ、ああ!?ぐああああああっ!?」
今度は左足が死んだ。
足の骨が砕け、アキレス腱に穴が開く。右手と同じようにぴくりとも動かすことができず、ロイは激痛によって意識を手放しそうになった。
そんなロイのことなどお構いなしに、レイフォンは言葉を続ける。
「ただ、あなたは僕の身内に手を出した。リーリンに手をかけようとし、顔見知り程度ではありますが、リーリンを護ろうとしてくれたクラリーベル様を殺そうとした。そこまでされて黙っていられるほど、僕はできた人間じゃないんですよ」
レイフォンに正義感なんてものはない。良心だったら存在はするが、レイフォンには武芸者の誇りや威厳は存在しないのだ。
だからロイが何をしようが構わないし、自分に関係がないのなら放っておく。
だけど彼はレイフォンの身内、幼馴染であるリーリンに手を出そうとし、面識があり、リーリンを護ってくれていたクラリーベルを殺そうとしていた。ならばロイはレイフォンの敵だ。
レイフォン自ら手を下し、打破する相手である。
「僕は縁を使ってやってきた、仮初めの旅人らしいんですよ。同じ位相にいる狼面衆は倒せましたが、最初からここにいるあなたに手を出せるかどうか心配でしてね。結果はこの通り、何の問題もなかったみたいです。よくよく考えてみれば、そうでもない限りサヴァリスさんと戦えるわけないんですけど」
「はぎゃっ!?」
今度は左手が死んだ。これで残るロイの四肢は右足のみ。
レイフォンは感情を感じさせない冷え切った声で、言葉を続ける。
「流石に殺せはしないでしょうね。殺される夢を見たって、起きれば生き返るのと同じなんですから。ですが、地獄のような夢を見せることなら可能です。あの世の一歩手前を見てみますか?」
「ひっ……」
最後に残った右足。それをレイフォンは砕こうとした。だが、不意にその行為をやめ、視線をサヴァリスへと向ける。
「終わったんですか?」
「ええ、第一期の、しかも成り立てでした。すっかり興が削がれてしまいましたよ」
相変わらず冷めた言葉を投げかけるレイフォンと、つまらなそうに言うサヴァリス。
彼はレイフォンがロイの相手をしているうちに、汚染獣の方の相手をしていた。
跳躍し、汚染獣の頭部へと飛び乗る。そして一瞬で外力系衝剄の変化、流滴を叩き込んで汚染獣を沈め、誰にも気づかれないように素早く退避してきたのだ。
サヴァリスの放った流滴は汚染獣の鱗の隙間を縫って細胞内に浸透し、内部から汚染獣を破壊したはずだ。学生武芸者達は誰もサヴァリスの存在に気づけず、突然汚染獣の動きが鈍ったように見えたことだろう。
その隙を逃さず、剄羅砲の一斉射撃が行われた。剄の爆発が汚染獣の巨体を飲み込む。
轟音が響き渡り、爆煙が汚染獣を包み込む。
その煙が晴れ、轟音の余波がなくなった時には、汚染獣は手足や翅を崩壊させながら地へと落ちていた。
あまりにも呆気無い最後。その呆気無さに疑問を抱く者がいた。
だけど汚染獣を倒したと言う事実に、現実に、爆発したような歓喜が巻き起こる。
その歓声に押しやられるように、その者達の疑問は彼方へと飛んでいった。
「……さて」
レイフォンは激痛と恐怖でのたうっているロイから視線を外し、歓喜を上げる学生武芸者達を眺めていた。
もはやロイに興味は無い。いや、興味なんて最初から存在しなかった。
汚染獣は打破し、これでこの都市への危機、つまりはこの都市にいるリーリンの危機は去ったのだ。
ロイの教導云々はそのついでであり、彼が汚染獣に突っ込もうが逃げようが、レイフォンにはそんなことどうでもよかった。
サヴァリスは暇つぶしではあっただろうが、ロイのあまりものみっともなさにそんな気は失せている。
もはや、これ以上彼のために使う時間がもったい。その考えは、レイフォンとサヴァリス共に一致している。
「機関部に行きますか。場所は調べてありますし、都市警の人がいるとはいえ安心できません」
「そうですね」
四肢の3本を破壊され、のたうっているロイ。
レイフォンとサヴァリスはそんな彼に背を向け、リーリン達が向かった機関部へと急いだ。
エレベーターで地下へと下り、機関部の中心部へと向かう。
所々にパイプがあり、混雑した複雑な通路を抜け、そこに辿り着いた。
「これが……」
リーリンが声を上げる。
分厚い板のようなものに包まれた小山。あの中に普段、電子精霊はいるのだ。
「そうです。リーリンさん、マイアスは無事ですか?」
「弱っています」
シェルの問いかけに、リーリンは掌のマイアスを見て言う。
マイアスはもはや自力で立ち上がることすらできず、リーリンの手の上で横たわっていた。
一見死んだようにも見えるが、嘴を僅かに動かしているので、生きてはいるのだろう。
だが、嘴以外はぴくりとも動かず、何時死んでもおかしくない状況だった。
「やはりセルニウムの供給を絶たれたからでしょうね。急がないと」
「はい」
リーリンとシェルは急ぎ、中心部のプレートの小山へと向かった。
だが、その瞬間、その時、シェルは嫌な予感を感じる。
それはもはや第六感、勘のようなもの。
「リーリンさん!」
「え!?」
シェルは叫び、リーリンの服の裾をつかんで思いっ切り引っ張る。
いきなり服を引っ張られたリーリンは踏ん張ることすらできず、その勢いで地面へと転がってしまった。
「いたた……」
転び、地面に叩きつけられるリーリン。
状況を理解することができず、転んだ原因となったシェルに何をするのかと怒鳴ろうとしたら……
「え……?」
「ぐっ……」
襲い掛かる刃。それをシェルは、足で受け止めていた。
「良い反応をする」
「それは、どうも!」
刃を向けてきたのは獣の面をかぶった者、狼面衆。
シェルは足に力を入れ、狼面衆の刃を押し返した。
活剄の密度によって筋力の度合いは変わるが、基本的に足は腕の3倍の筋力を持つ。その上、シェルの足は錬金鋼製。力比べで早々負ける気はなく、弾くように狼面衆を吹き飛ばした。
「話は聞いています。あなたが狼面衆ですね?」
「如何にも」
シェルは正体を確認し、剣帯から錬金鋼を抜いて復元する。
それは刀だった。リーリンは一瞬、没収された錬金鋼のことを思い出すが、今はそんなこと関係ないとばかりに距離をとる。
武芸者同士の戦いに、一般人であるリーリンが関われるわけがない。むしろ、近くにいればシェルはリーリンに気を使わなければならないため、不利になってしまう。
クラリーベルのように足を引っ張りたくないので、リーリンはすぐにその場から離れた。
それをシェルは横目で確認し、戦闘態勢を取る。
「あなた達がそそのかしたから、ロイ君があんなことを……」
「あれは本人の意思だ」
シェルの怒りが混じった言葉に、狼面衆は淡々と答える。
そう、淡々と答えた。なんだか、地上で見た狼面衆と雰囲気が違う。
リーリンが見た狼面衆はサヴァリスに瞬殺されていたが、あそこで見た狼面衆には生きた感じがしなかった。
すぐさまどこかに還されていたが、ここにいる狼面衆とは雰囲気が違った。
明白な目的意識を、感情を持っているようで、何かしらの意思を秘めたような仕草でシェルと話をしている。
「そうなんでしょうね。結局、こうなることを選んだのはロイ君。だから、ロイ君が一番悪いのかもしれません。ですが、それじゃあ私が納得できないんですよ」
シェルからも意思が、感情が流れ出す。
溢れるように、元から止めるつもりはなく、感情をむき出しにして狼面衆に言う。
「もしあなた達がいなかったら、ロイ君に接触しなかったら、ロイ君はロイ君のままでいられたんじゃないかって?あんなこと、しなかったんじゃないかって?」
「我らの存在を根本から否定する気か?傲慢だな」
「ええ、私は傲慢なんでしょうね。だから私はあなた達が許せません」
自分は、ロイのことが好きだ。だから、彼が道を外す切欠となった狼面衆を憎む。
傲慢だ、理不尽だ、自分でもそう思わなくもない。だが、感情が納得できずに、理性が利かずに、シェルは冷静ではいられなかった。
ロイが最終的にこの道を選んだ以上、狼面衆を憎むのは間違いかも知れない。それでもシェルは狼面衆が憎く、この衝動を抑えることができない。
「ですので、あなたは消えてください」
「愚かな」
ただ感情に任せ、シェルは狼面衆に飛び掛る。
本当の足ではなく、戦闘のために改造され、改良された錬金鋼製の足で全力で地面を踏み抜く。
シェルの出身都市は外界からくる刺激が乏しく、その分情報や他所の都市から入ってくる技術も少なかった。
故に本来なら、失われた手足も再生することが可能となる現代医学だが、シェルの生まれた都市では医療のレベルが低く、汚染獣に食い千切られた足を再生することができなかった。
そこで、錬金鋼技師である親戚の叔父が、その技術全てを総動員して作ってくれたのがこの錬金鋼製の義足。
シェルが武芸者であることから戦闘面に特化し、頑丈で、超人的なまでの身体能力を手に入れることができた。
叔父の腕は世界でもトップクラスではないのかと思いつつ、戦闘では役に立ち、シェル自身も気に入っているためにこの錬金鋼を使い続けている。
情報が交じり合う学園都市を訪れ、その医療技術を持ってすれば足を再生することも可能だ。だが、それでも叔父の作ってくれた錬金鋼を愛用し続け、シェルはその足で狼面衆へと向かう。
その速度はまさに風の如し。一瞬で狼面衆との距離を詰め、高速の蹴りを放った。
「ぐっ!?」
狼面衆はその蹴りを、カタールと呼ばれる剣で受け止める。だが、シェルの蹴りはそんなもので防ぎきれるほど柔ではなく、狼面衆の防御を押し切り、カタールに皹を入れるほどに強力だった。
「まさかここまで強力になるとは……あの戦闘狂のアドバイスも役に立ちますね。むしろ、戦闘狂だからこそ役に立つのでしょうか?」
錬金鋼を強奪に来たサヴァリスのことを思い出す余裕がありながら、シェルはそのまま宙に飛び上がる。
超人的な身体能力を活かし、獣のように身軽な動きで狼面衆の上を取り、そのまま蹴りを振り下ろした。
蹴りの威力、重力、自分の体重を加えた強烈な蹴り。狼面衆は再びカタールでそれを受け止めようとするが、それよりも速く脳天に蹴りが決まった。
「ぐっ……がっ……」
意識が飛びかける。視界が揺れ、朦朧となる意識。
シェルはその間に地面に着地し、次の攻撃の動作に入っていた。
「まだまだぁ!」
左腕1本での着地。そのまま腕を支えにし、またも蹴りを放つ。
回転の要領で、遠心力を込めた蹴り。それが狼面衆の左肩に決まり、態勢が崩れる。
そこを好機と見たのか、シェルはすぐさま起き上がって右手に持っていた刀で斬りつける。
脳天へと蹴りが決まり、肩にも直撃して態勢が崩れたのだ。誰もが好機とみるだろう。
「舐めるな!」
だが、甘かった。態勢が崩れたのは誘いであり、シェルはその誘いに乗ってしまった。
ましてやシェルの下半身は超人的な能力を持っていても、刀を振るう上半身、腕力は並みのもの。
学生武芸者が相手ならば蹴りと刀のこのコンビネーションは通用しただろうが、狼面衆には通用しなかった。
カタールを構え直し、狼面衆はシェルの刀を弾き飛ばす。
「え……」
弾かれたシェルの刀。右腕1本で握っていたためにあっさりと刀は弾き飛ばされ、くるくると刀は宙を舞う。
狼面衆のカタールもシェルの蹴りで皹が入っており、刀を弾き飛ばすために無理やり振るったのが良くなかったのか、根元から折れてしまっていた。
だが、シェルの気を引くことには成功し、刀を飛ばされて呆気に取られていた彼女の虚を突き、カタールを捨てた腕を彼女の首へと伸ばした。
「がはっ……」
首をつかまれ、シェルの体が宙に浮く。それと同時に刀が地へと落ち、カラカラと転がっていった。
「油断したな」
「シェルさん!」
狼面衆のにやりとしたつぶやきと、リーリンの悲痛な叫びが同時に響く。
シェルは宙に浮いた足をじたばたとさせ、首を押さえつけられた息苦しさにもがいていた。
「このっ……」
「抵抗は無駄だ。楽になれ」
じたばたと暴れるシェルに向け、狼面衆は首を握る力を強める。
もはや呼吸すら困難であり、剄息をすることができず、肉体すら強化できずにいた。
シェルの危機。だが、リーリンにはどうすればいいかなんてわからない。自分が何をできるかなんてわからない。
一般人であるリーリンが、隙を突いたからと言って武芸者を打倒することなんてできない。
ならば隙を突き、マイアスを中心部へ戻すかと考えるが、そんなことをすれば狼面衆はリーリンを襲ってくるだろう。そんなことをされれば、リーリンに抗う手段などなかった。
どうすればいい?
小鳥の姿をした電子精霊、マイアスからは徐々に温かみが失われてきている。
このままここにいれば、時間が過ぎるだけで勝手にマイアスが死んでしまう。それが狼面衆の狙いなのだろうか?
この場で時間を稼ぎ、先に行かせないことでマイアスの自滅を計る。もしそうだとすれば、自分に打つ手などない。
狼面衆を倒すなんて事は不可能。隙を突いて先に行くなんてことも不可能。だが、可能性があるとすれば先に行く方が成功率が高いだろう。
「だめ……」
走り出しそうとする足を無理やり止めて、リーリンは深呼吸した。
その程度のこと、狼面衆も予想しているはずだ。しかも相手は武芸者。
隙を突いたからと言って、一般人の運動能力で逃げ切れるはずがない。相手の思う壺だ。
「でも、急がないといけないのに……」
それならば自分はどうすればいい?どうしたらいい?
解決案が浮かばない。どうすればいいのかなんてわからない。
苦しむシェルの姿。弱っていくマイアス。どうすればいいかなんてわからないリーリン。
そんな彼女の思考を撃ち砕くように、轟音が響いた。
「がっ……」
「きゃっ……」
狼面衆が崩れ落ちる。シェルは解放され、地面へと尻餅をつくように落ちた。
リーリンには状況がいまいち理解できない。それでも情報を整理し、考える暇すら与えられずに、状況は動き続ける。新たな人物の登場と言う形で。
その人物は男だった。身長が高く、モデルのように足が長い。少し手入れをサボっているような癖のある赤髪の、整った容姿をしている男性。
その肩には巨大な鉄鞭が担がれていた。巨大な、もはや金棒の領域に届きそうな打撃武器。おそらくはこの男性が狼面衆に衝剄を放ち、シェルを解放したのだろう。
「また貴様か」
「また俺だ」
起き上がった狼面衆の言葉に、男性が笑みを浮かべて答える。
知り合いなのかと一瞬思ったリーリンだが、とても良好そうには見えない関係。
それもそうだ。そもそも敵対していないのなら、いきなり衝剄を放つなんて事はしないだろう。
間違いなく敵同士。だが、彼が狼面衆の敵だとしても、自分達の味方だとは限らない。
三つ巴なんて言葉があるが、まさにその可能性もある。故に警戒心を緩めず、リーリンは距離をとりながら慎重に状況を見守った。
「また、邪魔をするか」
「また、するのさ」
ピリピリとした雰囲気が辺りを包み込む。肌が痛いほどにピリピリしていた。思わず背筋が震える。
自分には何もできない。この状況を、黙ってみていること以外は。
「お前達がイグナシスとつながっている限り、いくらでも邪魔してやるさ」
「愚かな」
まただ。また、『イグナシス』と言う単語を聞いた。
サヴァリスがイグナシスの下っ端と狼面衆達の事を呼び、ロイもイグナシスの夢想などと言っていた。
それが何なのか、リーリンにはまるでわからない。だけど何かが、何かが引っ掛かっていた。
「我らは無数にして無限。その我らと、ただの個でしかないお前がどう対峙するというのか?」
「どうとでもするさ」
男性は狼面衆へと向け、足を進める。
1歩ずつ、ゆっくりと歩み寄っている。狼面衆は強がってこそいたが、シェルに錬金鋼を破壊されたために、非常に不利な状況だ。
男性は弱者を甚振るような、まるでどちらが悪人かわからないような笑みを浮かべ、狼面衆に向けて宣言する。
「正直な話、俺はこの都市がどうなろうが関係ない。だが、お前達の思い通りになるのが気に入らねぇ」
何が起きているかなんてリーリンにはわからない。
気がつけば男性の姿が掻き消え、一筋の雷光が走っていた。
「それまで、お前達は俺に殺され続けろ」
そして轟音。まるで稲妻でも落ちたかのよう轟音が期間部内で鳴り響き、音が反響する。
鼓膜が破れてしまったのではないかと一瞬思いながら、音と光によって何時の間にか閉じてしまった瞳を恐る恐る開く。
そこには狼面衆の姿はなく、鉄鞭を担いだ男性の姿だけがあった。
「……あなたは?」
とりあえずの危機、狼面衆が去り、残ったのはこの男性だけ。
リーリンは警戒心を緩めずに、ポツリとつぶやくように男性に問いかけた。
シェルも警戒しているようで、男性が狼面衆と会話、戦闘をしている隙に刀を拾ってきて構えている。
敵意とまでは行かないが、油断はせず、慎重に男性を見つめていた。
「名乗ったって意味はないな。どうせ忘れる」
「え……?」
リーリンには、男性のいっている言葉の意味がわからない。ただ気がつけば、男性の右手がリーリンの額に当てられていた。
そしてそのまま、リーリンの意識は闇へと落ちる。
「リーリンさん!?」
シェルがリーリンへと駆け寄る。この瞬間に、男性を敵として認識したのだろう。
完全な敵意を向け、男性へと挑みかかろうとした。
だが、
「知ってても、ロクなことにはならないからな。それに、お前も忘れていたほうが幸せだろ?」
今度はシェルの額に男性の右手が伸びる。
右手を伸ばす男性の姿。その光景を最後に、シェルの意識も闇へと落ちた。
「………………………………………………………………………………………え?」
今、何が起こったのか?
「あれ?ええと……」
思い出そうとしても、うまくいかない。
何かあったはずだ。何か、何かがあったはずなのに、それがまったく思い出せない。
「そういえば……あれ?私、ここに何しに来てるんだっけ?」
リーリンは、なんで自分が機関部にいるのかわからない。
呆然と、唖然としていて、状況が理解できない。
「私は……」
「あ……」
リーリンが混乱していると、少女の声が聞こえた。
シェルだ。彼女の姿を確認し、リーリンは彼女なら何か知っているのではないかと思った。
淡い期待を抱き、そして……
「私は……ここでなにをしているんですか?」
期待は儚く崩れ去った。
「私は、私達は……」
「一体……何を?」
2人揃っての記憶喪失。その事実に薄ら寒いものを感じつつ、リーリンとシェルは辺りを見渡す。
場所は機関部。辺りに広がるパイプの光景を冷静に眺めるが、やはり、何故自分達がここにいるのかわからなかった。
「あ……」
その瞬間、振動音が響く。
視線を上げると、目の前にそびえる小山のようなプレートの下部から伸びたパイプが、青く光りながら震えていた。
その震動は、まるで血液を循環させるようにリーリンとシェルの周囲に広がり、オレンジ色の照明に照らされた地下全体に行き渡っていく。
機関部が機能しだしたのだ。
「機関部が動き出した」
「やりましたね!」
これで足を止めていた都市が動き出す。汚染獣から逃れるため、再び大地を歩み始める。
マイアスの危機は去った。
「あれ……?」
「でも……」
そのはずなのにすっきりとせず、呆然としながら、リーリンとシェルは動き出した機関部を見つめていた。
「面白い剄技ですね」
「遅かったな」
機関部を訪れ、レイフォンは男性、ディクセリオ・マスケインと名乗った人物、通称ディックへと語りかける。
声をかけられたディックは嫌味を言うようにレイフォンへと視線を向け、そんな彼の隣に立つサヴァリスの存在に気づいた。
サヴァリスは無言で、ニヤニヤと凶悪そうな笑みを浮かべている。
「先ほどからいましたが、正直リーリンと顔を合わせたくないんですよ。対面してすぐに逃げ出してしまったから、どうにも気まずくて」
レイフォンがポリポリと頬を掻きながら、苦笑交じりで言う。
いざとなれば鋼糸で狼面衆を切り刻もうと考えていたが、ディックが出てきたためにためらった。
レイフォンは途中から殆ど何もしてないが、なんだかんだでこの都市の問題が片付いたのでよしとする。
「記憶を消す剄技ですか。便利そうですね」
「一応俺の一族に伝わる秘伝の技だ。だから本来なら、おいそれと人様に見せるわけにはいかないんだがな」
リーリンとシェルの記憶を奪ったディックの剄技は、マスケイン家に極秘に伝わる隠密行動のための技だ。
指先にほんのかすかに剄を集中させ、その剄を脳へと叩き込む。物理的に衝撃を与えるような技ではなく、記憶を奪うための技。
脳の記憶を担当する部位に剄を流し込み、直近の記憶を奪い去る。
この剄技が作られた経緯は、盗みに入った家で発見された時、発見者の記憶を消すためと言うしょうもない理由だったりもする。
だが、しょうもない理由で作られた剄技でも、この技が面白く、凄いと言う事実には変わらない。
記憶を操り、消す。そんなことができればどれほど便利だろうか?
「えっと……こんな感じですか?」
そしてレイフォンは、その剄技を二度も目撃した。
リーリンとシェルに使うところを、しっかりとその目で目撃したのだ。
レイフォンは剄技の仕組みを使用者の剄の流れから理解して模倣する特技を持ち、天剣授受者達の剄技を習得し、自分の技としている。
つまり、一度剄技を見れば、技をある程度コピーし、真似ることができると言うことだ。
リンテンスの鋼糸や、化錬剄使いであるトロイアットの剄技は複雑故に完全に真似るのは難しいが、ディックの使用した剄技はもはや完璧に真似ていた。
レイフォンの指の先に集中した僅かな剄。それはマスケイン家に伝わる秘伝の剄技だ。
「おぃおぃ……」
その現状に、流石のディックも目を見開く。
レイフォンはレイフォンで、先ほど見たディックの剄の流れと、自分の指先の剄の流れを見比べながら、
「おっと」
サヴァリスへと手を伸ばした。
サヴァリスはそれに気づき、すぐさま距離を取る。
「ちっ……」
レイフォンは舌打ちを打ち、忌々しそうにサヴァリスを見ていた。
「僕を実験台にするのはやめてくれないかい?こんな面白そうなことを忘れるなんてもったいなさすぎる」
「あなたはそればっかりですね」
凶暴な笑みのまま、楽しそうに言うサヴァリスの言葉に呆れつつ、レイフォンは指先の剄を解いた。
実際に試してはいないが、やり方はこれで間違っていないはずだ。機会があれば適当な人物で試そうと思った。
「一応忠告だが、その技は無闇に使うんじゃねえぞ。記憶障害が起こる可能性もあるからな」
ディックは未だに呆れつつ、レイフォンに忠告を施した。
消せるのは最近の記憶のみであり、無理やりに消そうとするとその相手に記憶障害が起こり廃人にしてしまう可能性すらある。
例えば狼面衆と接触し、戦う程度ならば問題ないが、深く関わり、あちら側を覗いてしまった者には通用しない。
レイフォンもまた然り。廃貴族に憑り付かれ、こちら側に引き込まれてしまった。忘れさせようにもあの錬金鋼まで手渡され、引き剥がすに引き剥がせない状況だ。
もっともディックにはそこまでする義理は存在しない。
「僕としては、あの剄技の方が気になるね。あれはどういった技なんだい?」
サヴァリスは凶暴すぎる笑みをディックへと向け、強大な剄を隠そうとせずに向けてくる。
その歪んだ表情が、楽しそうな笑みがディックに警戒心を抱かせる。そして理解した。
(こいつは、厄介だ)
ディックは内心で舌打ちを打つ。実力差と言うのが、比べるまでもなくハッキリとわかったからだ。
(勝てないな)
少なくとも、今のままでは。
だが、ディックはだからと言って媚を売ったり、下手に出たりするタイプではない。
平然を装い、何事も感じなかったように口を開く。
「面白い技だろ?祖父さんの教えを元に俺が作った技だ。雷迅(らいじん)と名付けた」
「それはそれは。その名に相応しい、雷鳴のような技でしたよ。それで提案なんですが、僕とやりませんか?」
拳を突き出し、サヴァリスが問いかけてくる。
この現状にディックは『やはりか』と、盛大に舌打ちを打つ。
サヴァリスの瞳は狂気に染まっている。戦闘と言う狂気。戦闘狂と言う言葉は彼のためにあるのではないかと思うほどに。
サヴァリスは問いかけるようにディックに尋ねてきたが、ディックに拒否権はない。
例え断ろうとサヴァリスは襲い掛かってくるだろうし、逃げたら追いかけてくるだろう。当然、戦ったからと言って勝てるわけがない。
ならばどうするか?
ディックが、そう思考していたところで……
「あの、ちょっといいですか?」
レイフォンがおずおずと手を挙げ、楽しそうなサヴァリスと、冷や汗を流すディックの間に入ってきた。
「確か、あなたは僕が呼ばれたのには理由があり、その理由を、僕がなすべきことを成せばツェルニに帰れると言いましたよね?」
そして疑問。ディックの使っていた剄技を面白そうだと思い、はたまたこれまでのトラブルで考える暇がなかったが、レイフォンの第一の目的はツェルニへの帰還。
サヴァリスに邪魔をされたのが原因で殆ど何もできなかったとはいえ、そのためにレイフォンは色々と奮闘していたのだ。
「ああ、そういやそんなこと言ったな」
ディックはサヴァリスから視線を外せずに、どこか曖昧に答える。
それも仕方がないことだろう。今のサヴァリスはまさに獣だ。
何時仕掛けてくるか、襲い掛かってくるかなんてわからない。凶暴で凶悪な猛獣であり、油断のできない相手なのだ。
「機関部の問題は解決したようですし、汚染獣もサヴァリスさんが倒しました。それで……僕は何時になったらツェルニに帰れるんです?」
淡々とした、感情を感じさせない声。猛獣がまた1人増えたのだ。
ディックはレイフォンに殺意に近い威圧感を向けられ、ごくりと唾を飲む。
サヴァリスだけでも厄介だと言うのに、それに廃貴族で強化されたレイフォンが加わる。まさに絶望的な状況。
そもそも彼の言うとおり、本来ならこの都市の問題は解決したはずだ。
なのにどうして、レイフォンは未だにこの場所にいるのか?
ディック自身も、未だにレイフォンが帰還しないことに疑問を抱いていると……
「これ、は……?」
急にレイフォンが疼いた。
ドクンと、一際大きな鼓動が鳴り響く。レイフォンは思わず胸元を押さえ、その場に蹲った。
その変化にディックはおろか、サヴァリスすらどうかしたのかとレイフォンの様子を覗き込む。
体中から疼く何か。その正体を知るよりも早く、レイフォンやサヴァリス、ディックの武芸者としての聴覚は、機関部の奥から聞こえた声を拾った。
「え、汚染獣が!?」
通信機越しに、地上と会話をするシェル。
汚染獣に付いての問題は未だに解決しておらず、焦りの混じった声が聞こえる。
そしてこの疼きの正体は、都市を滅ぼされ、汚染獣に狂おしいほどの憎悪を抱く廃貴族によるもの。
マイアスの危機は、未だに去ってなどいなかった。
あとがき
今回もなんだかんだで大変でした(汗
オリジナル要素入れてみたり、ディックを出してみたりと。
ロイに関してはとりあえずこれにて制裁完了。ですが救済がまだです。今回で終わるはずだったマイアス編ですが、もう1話やっちゃうことになりました(滝汗
リーリンの記憶はディックにより消去ですね。レイフォン、なんだかんだで廃貴族を飼いならしてると言うか、気に入られてるんで特に暴走はせず、そもそもヘタレイフォンはリーリンから逃げてるので、ディック先輩に頑張っていただきましたw
それからあの剄技の習得イベントでもあります。今後、レイフォンがこの剄技をどう活用するのかw
そして何気に、今回の話がニーナの雷迅フラグだったりもするんですよ。バンアレン・デイの日は、フォンフォンフェリとちょめちょめしてましたからw
さて、次回はどうなることやら?
オリジナル汚染獣に挑戦してみようと思う、無謀な作者でした。