祝日、その日は一日学校が休みな皆の休日だ。凡そ定休日が指定されている学生さんにとってはこれほど嬉しい日はない、偶には私のような例外もいるが大体の人はそう思っているはずだろう。朝早く起き出して仕度しなくてもいいし、お望みとあれば朝の10時位までゆっくりと惰眠を貪れる。何ならちょっとお金を使って何時もは食べられないような物でも食べてみようかとも思うし、友達を呼び集めてカラオケでも行こうかとも考えるのもそう理解に苦しむ物でもない。寧ろそれが普通、この日をあまり喜ばない私こと高町なのはのような人間が異常なのだ。私は休日が嫌いだ、確かに学校に行かなくて済むけれど結局一人な事に変わりはない。時間を得た所で私は孤独、何処にもいく宛も安息を得られる居場所もない……と普段なら思うところだが今日は少し違っていた。私は携帯電話をギュッと握り締めながら久しぶりに浮かべる自然な笑顔を顔に貼り付けて少々曇り気味な空の下を一生懸命走り抜けていたのでした。「こんな気持ち……何ヶ月ぶりかな、えへへ」普段の自分だったら今の私を見て絶対に気持ち悪いと漏らしている所なのだろうが、それほどまでに私は嬉しさをかみ締めていたのだ。休日に誰かの家に行くという喜び、誰かと一緒に居られるという嬉しさ。昔ではなんて事はないと思っていたような些細な当たり前が今は言葉に言い表せない位私には嬉しいわけでして……そう思うとやっぱり笑みがぶり返してくるわけです。こんな気持ち、本当に久しぶりだったから。そう思いながら私は再び携帯電話を開いてもう一度自分に寄せられたメールの文面をもう一度読み直すのでした。「お近づきの印に私の家に遊びに来ませんか、かぁ。そういえば私、先生の家に行くの初めてだ」携帯電話の画面には女性らしい絵文字をふんだんに使った文面が浮かんでいた。勿論差出人は先生から、内容はまあ簡単に言ってしまえば暇だったら私の家で遊ばないかというお誘いだった。当然私にはそれを断る理由なんて何処にもなく、有無を言わせず数秒で承諾。だから休日だというのにこんなに朝早くから私は全然使わなくて埃を被っていたバックを引っ張り出して、その中にありったけのゲームを詰め込んで運送屋さんの真似事のような事をしているわけだ。先生は以前からゲームをすると私に度々話してくれていた、聞けばそれなりに映画にも精通しているらしい。歳は結構離れてしまっているけど話題は合うから盛り上がる話題には事欠かないはず、先生と生徒という関係を無しにしても私は先生と上手く付き合っていける……殆どは私の一方的な期待なのだが、私には何となくそんな自信があった。「家は……確かこっちだっけ? これならあの公園を通った方が早いな……。ちょっとまだ怖いけど、封鎖とかされてないよね?」先生の家への道のりは行くと宣言した後に直ぐに画像で送られてきたから何処にあるのか私は知っていた。商店街を通り越した先にある新築の高級マンション、其処に先生の家はあるとの事だ。私も生まれてこの方この街を離れたことはないから、この辺の地理には少々明るかった。だからその地図が送られてきた時も「あぁ、ここなんだ」って直ぐに納得する事が出来たのだ。そしてそのルートを照らし合わせてみると、其処へ行くには件の事件のあった公園を抜けるのが近道になってしまうのだ。今も私のポケットの中にお守り代わりとして入っている綺麗な宝石を拾った場所、そしてそれ以前に一人の子供が散々な殺され方で死んでいたとされる不吉なのか何なのかよく分らない場所だ。私はあんまり迷信だとかそういうのは気にしないタイプだけど、それでもちょっとは気後れという物を憶えてしまったりもする。だからちょっとだけ、近道の為にそんな場所を横切るのは不謹慎かとも思ったのだ。「大丈夫……。うん、大丈夫。どうせ罰が当たったってこれ以上私……不幸になれるとは思えないもんね」さりげなく自虐的な独り言を言いながら私は目の前に見えた公園の入り口へと向かって歩く速度を少しだけ速めた。もしも不謹慎な事で罰が当たったとしてもこれ以上悪い事なんて早々起こりはしない、少なくとも私はそう考えている。自分がこの世で一番不幸なんだって思っている訳じゃないけど、それでも社会の底辺くらいに自分は居るのだという自覚はしっかり私も持っている。誰にだって見放されたし、誰にだって信用されなかった……つまり今の私は皆からしてみれば態の良いストレスの吐き出し口みたいな物だ。綺麗な言葉を借りるなら必要悪、悪く言えば単なるゴミ箱と一緒だ。だけど今日はそんな私でも必要としてくれる人間からの誘いがある、こんな私でも受け入れようとしてくれている人間がちゃんと居てくれる。だったらこの先どれだけ悪い事が起きるのだとしてもせめて今日だけは幸福という物を噛み締めていたい、そんな気持ちがよっぽど心に蔓延っていたのだろう。私は公園の入り口に封鎖テープや見回りの警官さんが居ない事を確認すると、急いでその門の中へと入っていった。「やっぱりこんな事があった後だから誰もいないなぁ……何時もなら結構人がいるのに」公園は休日の昼間だというのに人影は殆ど見受けられなかった。まあ当然といえば当然なのかもしれないが、普段なら例え平日であっても子連れの親子や暇を持て余したお爺さんお婆さんがよくお散歩をしている姿をよく見かけるのだけど今日に限ってはそういった手合の人間も見当たらない。殺人事件、あくまでも断定は出来ないけれどこれがどれだけこの国では重い物なのかということの表れなのだろうと私は人知れず思った。人が死んでしまうというのは多かれ少なかれ世間にインパクトを残す。例えその規模が小さいか大きいかは別としても、時には他の人間の人生を狂わせる事だってあるし、それに連なるように一生消えない傷を負ってしまう人だっている。そりゃあまあ当事者でもその関係者でもない他の人には二、三日もすれば記憶から消えてしまうようなちっぽけな物ではあるのだろうけど……それでも人が死ぬというのは悲しいものだ。生きている価値がない、生きていてもどうしようもない……こう思う人を私は責めようとは思わないし、あぁこの人はそんな風に思って死んでいくんだなって納得出来てしまう。だけど何の落ち度もないのに突発的に命を奪われる事以上に理不尽な物はないと私は同時に思っていた。死ぬのと殺されるのでは終着点は一緒でも意味合いが全然違うのだ。もっと生きたかった、明日を誰かと一緒に過ごしたかった、大事な人に大事な事を告げられなかった。そんな人が死んでしまうのは間違いだと思う……こんな私が偉そうに言える様な事じゃないのかも知れないけど、こんな私のようになってからでは遅いのだ。だから私は此処で死んでしまった少年の事を考えて、少しだけ名も知らないその子の事を慈しんであげたいような気持ちになったのだった。「……可哀想って思うのは簡単だけど、たぶんそんな言葉で片付けてしまったらそれまでなんだろうね。どんな子かは知らないけど、やっぱり死んじゃうのは良くない。うん、よくないよ……」それはある意味自分自身への叱咤でもあったのかもしれない。私自身こんな風に言って他人事のように受け流してしまってはいるけど、決して他人事ではないのだという事を忘れてはいない。死にたい、死んだら楽になれる……今までの人生で一度もそんな事を思わなかったかと聞かれればやっぱり嘘になるからだ。クラスの皆にリンチされている時や、そんなボロボロな私を見ても何も気付いてくれないでもっともらしい説教だけを掛けてくるお母さんやお父さんの前で私は何度もこう思った。「何で私は生まれてきたの?」そんな疑問は尽きる事はなかった。私だって生まれつき嫌われていたわけじゃない、お母さんやお父さんだって最初からそんな風に怒ってばっかりではなかった。だけど今の私はこんな風になってしまった、最低最悪の、偉い人曰く社会の屑になってしまった。もう限界だった、そうでもしなければきっと私の心は木の枝みたいにポッキリ折れてしまっていたことだろう。皆が向けてくる目が、掛けて来る言葉が、暴力を振るう接触が高町なのはという存在を壊して「自殺」という選択肢を生み出していた筈だ。だけど今の私がこんな風になってまだ生きたいと思えるのは、こんな私を受け入れてくれる人は零じゃないって希望がまだ心の中に残っていたからだ。初めは諦めから生まれた切ない願望だと思っていた、だけど現に先生のように私を受け入れてくれる人だっていた。だから私はまだ生きていられる、「死ね」と言われても死んでやるもんかって気持ちを忘れずに抱き続けていられるのだ。「そうだよ。私は……絶対に死んだりなんかしない。絶対に……」どんなに嫌な事があってもそれが人生の全てじゃない、先生からの受け売りの中で私が最も大事にしている言葉を心の中でもう一度復唱しながら私は歩を進める。人には生きる権利はあるけど、生き続ける義務は何処にもないと先生は言った。生きる事は誰かに保障されているけど、生きていたいという気持ちを縛り付けられる人間なんて自分以外には存在しない……なるほどその通りなのだろうと私は思った。だけど先生はこうも言った、確かにこの道理はその通りなのかもしれないけどだったら責めて死のうと思う前に自分の抱ける希望全部を使い果たしてみろって。死ぬ事は確かに楽、自分が苦しいと思える環境にいるのなら尚更楽になれる。でもそれは決して「救い」にはならない、結局は救いがあるかもしれない世界からの「逃げ」にしかならない。だから命を絶つ前に精一杯抗ってみろ、例え行動出来なかったとしてもいいから「こんな私でも幸せになってやったよ、ざまあみろ」って物を一つでも得てから死んでやれ。そうすればナイフを自分の胸に突き立てるよりも早く笑いが込上げて来て、死ぬのすらもなんだか馬鹿馬鹿しくなるはずだから……。まだ私にはこの言葉の真の意味を理解する事は出来ないでいる、けど何時か理解できればいいなって言うのは常々思っている。私も結局そんな言葉に救われたかもしれない人間の一人なのだから。「私は……んっ、あれ?」不意に私はそこで彼是考えていた自分の思考を打ち切った。自分以外の存在を視野の中に捉えた所為で少々びっくりしてしまったからだ。その人物は私よりもずっと年上の黒髪の男の子で、だけど決定的に肌の色とか雰囲気とかが日本人とは異なっていた。歳は大体中学生くらいだろうか、手にはそれなりに値の張りそうな花束を抱えている。そしてその表情は何処か悲しげで、その年頃の男には似合わない哀愁を漂わせていた。私はその様子を見ながら思わず早めた足を緩めて、ジッとその人の事を観察していた。やがてその男の子はテープで覆われた木の傍に花束を置くと目を閉じて手を合わせて黙祷を始めた。その瞬間、私は理解した……この人はこの前の子を弔っている。きっと何処の誰が見たってそうなのかもしれないけど、ニュースでは身元不明だって言っていたからてっきり親族だとか友人とかはいないのだとばかり私は思っていた。そして私は……殆ど何も考えずに、そんな男の子の様子につられてフラフラとその花束が置かれた物へと歩み寄ってその人と一緒に手を合わせた。何で自分でもこんな事をしたのかは正直よく分らない、だけどこうしなくちゃいけないのではないかって訳の分らない衝動が私の身体を駆り立てたのだ。男の子はそんなの私の様子に一瞬だけ気が付いたようだけど、またゆっくりと黙祷をしなおしていた。そんな時間が数十秒、殆ど同時に黙祷を止めた私は男の子に何か話しかけようと思ったのだけれど、相手がこれまた外人さんである為上手く話しかけることが出来なかった。でも、男の子は幸いにも日本語がこれまた達者だったようで何の気兼ねもなく初対面の私に対して優しい言葉遣いのまま話しかけてくれたのでした。「君は……此処の近所の子?」「あっ、はい。ちょっと家は離れちゃってますけど……。お兄さんは?」「あぁ僕はこの人の関係者……になるのかなぁ。別に友達って訳でもないし、そもそも面識がある訳でもないんだけどね。この国の言葉で言うなら社交辞令って奴かな」「そうなんですか……」その割には何だかとっても悲しそうに見えたけど、私は何となくそう思った。現にその男の子―――――なんだかこんな風に言うのも何だから便宜上“お兄さん”って呼ぶ事にするけれど、お兄さんはとっても悲しそうな顔をしていた。まるで無力な自分を叱咤しているような、そしてそれでいて何だかやり切れないって気持ちを隠しきれない……そんな感じだった。私はこんな顔をしている人物を知人に知っている、この人の今の表情は私の元友人であるすずかちゃんが私に対して浮かべてくる表情にそっくりなのだ。だけどすずかちゃんには感じられる抵抗感がこのお兄さんから感じないのは、本当に一切の偽り無くこの死んでしまった子の事を想ってあげているからなのだろう。お兄さんとこの死んでしまった子の関係を私は知らない、面識もないって言ってたから多分会ったこともなかったに違いないけどあえて私はそんな風には考えなかった。だってそんな何の関係もない人が、こんな本当に心の其処から死を慈しむような顔が出来る筈ないのだから。「……どうして、君はこの子に手を合わせようって思ったんだい?」「あの、えっと……正直自分でもよく分らないんです。だけどお兄さんの様子を見てたら何だか一緒に手を合わせた方がいいような気がしたんです。変ですよね、私?」「いや、おかしくなんかないよ。優しいんだな、君は」「い、いえ……そんな……」そんな風に言われたのはもう何ヶ月ぶりだ、だから私は自然に喜ぶ事が出来なかった。私は優しくなんかない、ただその場の雰囲気に流されやすいだけなのだ。お兄さんがいなかったら多分私はそのまま此処を素通りして先生のマンションへと急いでいただろうし、ちょっと気味が悪いなと思う程度でそれ以上の感情を抱く事もなかったに違いない。それに私は元々誰かに優しくして貰う事は出来ても、自分から誰かに優しくは出来ない人間だ。散々私の事を分ってくれないとは周りに言えても、結局私自身も周りの人間の気持ちになんて察してあげられもしない……つまり独り善がりなのだ。だから正直お兄さんの言葉には戸惑いしか生まれなかった、嬉しいとか照れるとかそんな気持ちよりも何よりも戸惑いだけが私の心の中に渦巻いていた。「それを言うのならお兄さんも優しい人だと思います。見ず知らずの人の為に花束まで添えてあげるなんて……私には出来ません」「僕は別に優しいわけじゃないさ。ただこんな風になってしまう前にどうにか出来なかった自分が悔しかった、そんな自分の気持ちを戒めたいだけなんだ。もしかしたらこの子は助かっていたかもしれない……そう思うと辛くてね。単なる自己満足だよ、僕の場合は」「それでも、こんな事普通は出来ないと思います。理由はどうであれ、しないよりはよっぽどマシです。だからあんまり自分を責めない方がいいですよ?」「……そうかもね。ありがとう、そう言ってくれると気が楽になるよ」そう言ってお兄さんは苦笑を浮かべてジーンズのポケットに手を突っ込んだ。身長差も結構あるもんだから私がお兄さんを見上げる形になってしまうのだけど、お兄さんはちょっとだけ吹っ切れたような顔を浮かべていた。だから私はちょっとだけこう思った、お兄さんは一人で背負ってしまうタイプの人間なんだって。この手のタイプは人生において損をする、私もそうだったからよく分る。何時も何時も何をされたって強くあろう、自分がしっかりしてなきゃ周りに心配を掛けるって思い込んで自分が壊れるまで無理をする。しかも壊れた後ですらも本当の事を自分の中に仕舞い込んだまま、本当の事を主張できないと来ているのだから私も案外筋金入りなのかもしれない。そしてお兄さんも、たぶんそのタイプの人間なのだろう……その証拠にお兄さんは自分が何とかしなければっていう使命感を感じている様子だった。見ず知らずの人間にも自分を犠牲に出来る人間、それが私がこのお兄さんに抱いた印象だった。「それじゃあ僕は行くけど、君も何処かに行くなら気をつけた方がいい。この辺りは何かと最近物騒だからね」「そうですね……じゃあ、お兄さんも気をつけて」「あぁ、君も達者でな」そんな当たり障りのないやり取りを残して私とお兄さんはすれ違うように別れた。お兄さんは入り口の方へ、私は出口の方へとそれぞれ別々の道のりを歩いていく。お互い名前も歳も住んでいる場所も知らない赤の他人同士だったけど、知らないからお互いに語り合う事も出来るというのを私は感じた。きっとあのお兄さんが私の本性を知ったら失望する、だから勘違いなんだとしてもこんな風に別れるのが一番だと思ったのだ。あのお兄さんは凄く生真面目そうな人だ、少し不器用な感じがしたけど悪い人じゃない。そんな風に思いながら私は一人、先生のマンションへと足を進めるのだった。先生の家に着いたのは家を出てから大体40分くらい経ってからの事だった。その場所まで行くまでの時間は確かにそれ程掛からなかったけど、なんとも間抜けな事に私は先生の住んでいる部屋の番号を聞いていなかったのだ。だから着いたのはいいけれど何処に誰が住んでいるのかまったく検討が着かず、結局私は最終的に先生に外まで迎えに来て貰うことにしてようやく先生の家に入ることが出来たのだった。先生の部屋は凄く綺麗な場所だった、生活観に溢れているけど決して不潔ではなく寧ろ細かい所まで掃除が行き届いていて棚やキッチンもきっちりと整頓されていた。それに先生が事前に予告していたようにゲームや映画のDVDも沢山あった、その数も結構馬鹿に出来ない物でちょっとしたネットカフェみたいに豊富な品揃えだった。端的に言えば先生の部屋は居心地がよかった、まったくその一言に尽きるといっていい。部屋に着いた私は何時もの自分も忘れて歳相応の子供として存分に振舞った、無理をしていた自分も、何も察してくれない家族も、行くのが嫌になる学校も全部忘れてはしゃぎ回った。先生がお勧めしてくれた人気の格闘ゲームとRPGを組み合わせたゲームである「テイルズオブシンフォニア」を二人で一緒になって攻略したり、「いただきストリート」なんかで対戦したり、飽きたら原点に返って「スマッシュブラザーズ」何かをして盛り上がった。時間はどんどん過ぎた、昼前からいた筈なのにもう時間は夕方の四時を回ろうとしていた。ご飯は先生が作ってくれた、何処の家庭でも簡単に作れるようなミートソースのスパゲッティだったけど此れが凄く絶品だったのが印象深かった。本当に何でも出来る、そして何でもよく知っている……何時もは皮肉ばっかり言っていて素直になれなかったけど今ならちゃんといえるような気がした。この人は私の自慢の先生だって、昔の私のように。『生徒は腐った蜜柑なんかじゃないんです!』「本当、こんな先生が実際に居たら問題も減りそうよねぇ」「ですね~」今私たちは一緒にソファーに座りながら二人並んでテレビを眺めていた。画面では先生が持っていたDVDの中の一作である「三年B組金八先生」のファーストシーズンの映像が映し出されたいた。何でこんな渋い物を見始めたのかといいますと、実際にはそんなに深い意味もなくただなし崩し的に此れにしようと私が言い出したのだ。他にも「ダイ・ハード」だったり「ラストマン・スタンディング」だったり面白そうな外国の映画も沢山あったけど、何と言うかそういう物を見る気にはなれなかったのだ。別にアクション映画が嫌いって言うわけじゃないけど、今の雰囲気で見る物ではないと思ったのだ。しかし、幾ら適当に決めてしまったとは言えども金八先生は少々的外れだったのではと思ってしまわないでもないのが今の現状だったりするのだ。そりゃあそんな雰囲気だったって言うのもあるかもしれないけど、ちょっとだけ二人してブルーな気分になってしまったような……ほんの少しだけど祝日の午後の明るい関係を崩してしまったような気がしたのだ。先生は特に気にしていないようで愚痴にも似た感想を漏らしてなんかいたけれど、そんな先生に対して私はやっぱり相槌を打つしかなかったのだった。「熱血教師って今じゃ冷めるとか何とか言われてるけど、それってこんな風に真直ぐなわけじゃなくて単に向ける情熱が空回りしているだけなように私は思うのよ。まったく、今の教師って子供を見てるのか数字を見ているのか分った物じゃないわ」「先生もその“今時の教師”なんじゃないんですか?」「ははは、まぁそうなのかもね。だけど私はほら……養護教諭でしょう? こんな風に身体張る事なんて皆無なわけだし、そもそも健康診断の日でもない限りは殆ど仕事もないから実際に生徒の成績とか気にしてるわけじゃないのよ。数字を決めるのは担任と教科の先生だけで私は言わば“教師であって教師じゃない”のよ」「なんかちょっと変ですね。言い方は皆“先生”なのに」まったくね、そう言って先生は寂しそうに笑った。画面の向こうではまだまだ若い頃の金八先生が身体を張って不良生徒を元居た学校の先生から守っている姿があった。このシリーズも既に何作も作られている人気シリーズな訳だけど、最近では麻薬や引籠もりといった現実的な問題を取り上げている所為か勢いが衰えてきている印象もある。それでも面白いには面白いのだけれど、今の金八先生はこの頃の金八先生とは違って熱血教師というよりも人徳のある生徒想いの先生というように変わってきている気がするのだ。それが嫌いって訳じゃないけど、私はどちらかといえばこんな風に身体を張って誰かを必死で助けようとする金八先生が好きだった。私自身も「あぁ、こんな先生が居たら私だって~」と思ってしまう部分が大きいのが原因なのかもしれないけど、私も先生と同じようにこんな先生が現実に居てくれればと思っている人間の一人だ。でも、こんな都合のいい先生はこの世には存在しない……そんな風にも私は思っている。だって私の横に居るこんなに優しい先生でも“社会での立場”と“周りからの目線”という重たい鎖を背負って今を生きているのだ。子供の社会も大人の社会も根本的には変わりはしない、先生が表立って活動できないのを未だに歯痒いと思っているのもそれが原因なのだろうと私は考えている。だってこんなドラマの人みたいに現実の人間は強くはないのだから。「何を思って教師になったのかっていうのは様々だけど、まぁ理想の高い人ほど数字に固執するものよ。自分の受け持つ生徒こそは~っていうプライドがあるからね。その分まだ私は楽な方よ。同じ“先生”でもね」「じゃあ、先生はなんで教師になろうと思ったんですか?」「……さぁね、忘れちゃった。周りに流されるまま流されて、なし崩し的に教員免許取って……気が付いたら今の自分になってたのよ。こんな事を言うと周りの先生に失礼かもしれないけど特別子供が好きだったって訳でもないし、教育に対する信念があった訳でもない。皆就職するから自分も何とか手に職つけよう、所詮は動機なんてそれだけよ」「なんか……ちょっと意外です。だけど多分他の先生よりも誰よりも私は先生が一番好きです。たぶん、誰よりも……」先生はそんな私の一言が少しだけ恥ずかしかったようで、照れたようにありがとうと言いながら煙草を吸い始めていた。カチン、と鳴るライター……そして煙草に火が付けられるちょっと焦げたような匂い。私はこの匂いが好きだった、何時も自分が居る場所にはない匂いが凄く気持ちを安らかにしてくれるのだ。巷では副流煙とか言われて騒がれているけれど、どうせ私は健康の事なんて気にする性分じゃない。元々限りなく不健康な人間なのだ、今更これに病気のカテゴリーが一つや二つ追加された所でどうと言う事はない。だから私はそんな先生の様子を咎めるでもなく、自然と足をぶらぶらさせながらその様子を眺めていたのだった。先生は私の憧れだ、一つ一つの動作が凄く大人びていて尚且つ其処には一切の無理がない。余裕があって、何でも出来て、そして博識……きっとこんな女性をクールビューティと呼ぶのだろう。出来れば私も将来はこんな風になりたい、私の目標は何時も直ぐ傍にあった。「煙草って……美味しいですか?」「んっ~? そうねぇ、美味しいといえばそうとも言えるし、そうでないと言えばそうじゃないかもしれない。まぁ、私にも正直味なんて分らないわ。だけど吸うとちょっとだけ気持ちが楽なる気がするのよ。こんな職業でしょう? ストレスも溜まるのよ、色々と」「私も大人になったら吸ってみたいです、煙草。何だかカッコいい気がしますから……」「止めておきなさい、身体に毒なだけよ。それに煙草臭い女は嫌われるわ。もっとも、それでも吸うんなら止めないけどね。誰もいない静かな場所でこっそりと、生徒にこんな風に言うのもアレなんだけど吸うならバレないようにね。今の世の中煙草一本吸ってるだけで大騒ぎだから」気をつけようと思います、心にもないことを私は先生に返した。言葉で言ってみたのはいいものの、私は別段そんなに煙草に魅力を感じては居なかった。私が好きなのは煙草を吸っている先生であって、煙草その物ではない。それにまだ私は9歳、吸っていい年齢になるまでには後11年もの歳月が必要になる。どんな風になるのか、また吸っている時はどんな気持ちがするのか……幼心に単純な興味は湧かないでもなかったけど、所詮はそれだけだった。だけど先生の言い分だと、あんまり煙草を吸っている人間は世間からは好ましく思われないらしい。もしかしたら先生自身もそうなのかもしれないけれど、確かにそんな風なイメージはある。煙草を吸わない人間にとって喫煙者というのは百害あって一利なし、つまりは害でしかないからだ。私のように時々変わった人間も居るには居るのだけれど、殆どの人は健康やら環境やらの事を考えてそういった人を目の敵にする。煙草っていう存在そのものが不良の象徴みたいな、何だか変わった感じだった。何時か私もそんな事を理解する日が来るのだろうか……先の長い話だと私は思った。「さぁて、と……あら?」「どうしたんですか?」「外、雨降っちゃってるわ。しかも結構強いわね……貴女傘は持ってる?」「あ、その……持ってないです。天気予報とか私見てきませんでしたから」そう言って私は先生が見ている窓の外と、壁に掛かっている時計を交互に見回してみる。外の様子はさーっという静かな音が漏れていて、一発でそれなりに強い雨が降っているのが見て取れた。きっと時間が経てばもっと強くなる、そんなような気分を憂鬱にさせる雨だった。そして時間の方はそろそろ夕方の五時を示しだそうとしていた。本当なら何時までだって先生の家に居たいのだけれど休日の日は何時もよりも少し早く帰らないとお兄ちゃんがかなり煩い。休日の日に私が何処で何をしていようと勝手だとは思うのだけれど、必要以上に絡みがウザったくなるので出来ればそういったような事態は避けたかった。つまり私はもうそろそろ帰宅しなくてはいけないようだった、楽しい時間はすぐ過ぎるとはよく言ったものだけどそれにしたってあまりにも早すぎるのではないかと私は思った。やっぱり時間って言うのは何処までも残酷だ、そんな風な気持ちを浮かべながら。「そう……本当は家まで送っていってあげたいのは山々なんだけど、私この後お客さんを家に呼んでいるのよ。ごめんね、傘はちゃんと貸すから」「先生が気にする事じゃないですよ、私は大丈夫ですから。ただ……もうちょっとだけ先生の家に居たかったです。家に帰っても、どうせ……」「はいはい、湿っぽいのは無しよ。それにこれからだって好きな時に遊びに来れるんだから、此れで最後だって言うような気持ちにならないの。じゃないともっと楽しい事が起こった時に素直に楽しめないじゃない。私は……何時だって歓迎するわよ」「ありがとう……ございます……」私は先生にしっかりとお礼を言いながら自分の荷物を纏め始めた。持って来たゲームやコントローラーを入れたバックは来る時よりもずっと重さが増しているような気がした。先生はこう言ってくれているけど、やっぱり本心を言えば私は家に帰りたくはない。どうせ家に帰ったって私は一人だ、こんな風に自然に話せる相手もいなければ笑いかけるような人間も居ない。煩くて、煩わしくて、そして無関心な家族と呼ぶのも嫌になる人間があそこには居るだけだ。だから出来うる事なら帰りたくはない、無理だと分っていても私はそう思わずにはいられなかった。だから咄嗟にこんな事を漏らしてしまったのだろう、何時もの私らしからない言葉は本当に息を吐き出すかのように私の口から漏れ出したのだった。「私……先生の子供だったらよかったのに。そうすれば、先生とずっとずっと一緒に居られるのに……」「止めときなさいな。私のような女を母親に持ったって絶対碌な事にはならないわ。それにね……私は貴女が思ってるほど善人じゃないわ。ただ自分に甘いだけ、こんな自分に酔ってるだけなのよ」背を向けながら吐き出した言葉の返答に私は少しだけ虚しさを憶えた。分っている、どれだけ望んでもそんな結果はありえないのだと私だって分っているのだ。どんなに嘆いても喚いても私の家族はあの人達であって先生ではない。どれだけあの人達よりも先生の方が良くったって、そう運命付けられてしまったのだから覆しようがないのだ。弱った心が漏らした唯の妄言だった、私は自分が漏らした言葉を静かに胸の奥にしまいこんでおくことにした。叶わぬ望みなら思い描くだけ虚しいだけだとちゃんと知っているから。それに、私は今のままでも十分幸せ……そう信じなければ次の幸せは永遠に訪れそうにはないと何となく悟っていたから。「じゃあ、あの……傘はお借りしていきます。さようなら、先生」「……あ~、ちょっと違うかもね。何時もだったらそれでいいのかもしれないけど、此処に来た時はこう言いなさい」玄関まで歩いて靴をはいた私は、先生に手渡された大人用の赤い蝙蝠傘を手に持ちながら先生に向かって挨拶をしてそのまま去ろうとした。しかし其処で私は先生にまたもや呼び止められる、振り向くと其処には苦笑気味に煙草を咥える先生の姿だあった。それは何処までも寂しげで、そして何処までも照れくさそうなそんな複雑な表情。多分先生自身もどう返していいのか決めかねている、そんな風な表情だった。先生でもこんな風な顔を浮かべるんだ、そう考えると結構意外な感じがした。でも先生はやっぱり一人の人間だった、普段あれだけ飄々としているのにこういう時ばかりは自分がこれから吐こうとしている言葉に恥ずかしさや戸惑いを憶えたりしているようだった。そんな普段とのギャップに私はちょっとだけ笑いそうになった、あまりにも何時もと勝手が違うのだ。そんな風に私が思っていると先生は意を決したのか、煙草を指に挟んで一度ゆっくりと宙へ紫煙を吐き出しながら私に対して精一杯の優しい言葉を掛けてくれた。「また明日。これが最初で最後じゃないんだもの、さようなら何て寂しすぎるじゃない? だから、また明日……こういう時はこう言うのよ」「なんか、ちょっと照れくさいですね」「言わないでよ、私も言ってて結構恥ずかしいんだから」「にゃはは、何だか先生らしいや。それじゃあ先生……また、明日」後ろで手を振る先生に背を向けながら私は玄関のドアを潜って外に出た。マンションの外は雨が降っている所為か少し肌寒い、だけど私の気持ちは何時もよりか少しだけ暖かかった。月並みな台詞だったし、今時誰も使わない子供染みた言葉だったと思う。今時教育ドラマでもまともに使いそうもない、言葉にすればたった五文字の陳腐な言葉だ。だけど……少なくとも昔の自分は自然と誰かにこの言葉を掛けていたような気がした。そんな何気ない一言、誰もが当たり前のように使っているそんな言葉。そんな言葉に酔いしれていたのだろうか……下へと降りようと重ったらしいバックを抱えながらエレベーターの方へとふらふら歩もうとした私は向こうから歩いてくる人間の存在に気が付かなくて、そのままぶつかってしまった。直ぐに謝ろうと思って顔を上げてみるとその人は濡れた雨合羽を着込んだ長身の女の人だった。すずかちゃんの髪と似ている濃い紫のようにも見える短めの髪に、金色にも見る琥珀色の瞳。そしてかなり背の高い、モデルさんのような体型……しかも何の因果かまた外人さんだった。この海鳴市は外人さんの遭遇率が極端に高い、そんなどうでもいいような事を私が考えてしまっていると、その外人さんもやっぱり日本語が達者だったのか私が謝るよりも前に直ぐに私に言葉を掛けてきてくれた。「おっと、すまない。怪我はないか?」「あ、はい。大丈夫です。こちらこそ御免なさい」「なに、気にする事はない。それよりも今から何処かへ行くなら気をつけた方がいい。私だったから良かったかもしれないが、不注意で車にでもぶつかったら事だからな」「あっ、はい。ありがとうございます」何だか今日は良い人にばっかり会っている気がする、そんな風に思いながらその女の人に私が頭を下げると女の人は優しく微笑みかけてくれた。ちょっとだけ目つきがキツい人だったから怖い人なのかもと一瞬思ったのだけれど、心優しい人で本当に助かった。心配してくれた事にお礼を言って私がその場から立ち去ろうとすると女の人は「気をつけるんだぞ」と再度声を掛けてくれた。何だか見ず知らずの人のほうが知り合いの人間よりも優しいんじゃないか、って思い始めた今日この頃だった。しかしちょっと考えれば先生が言っていたのはこういう事だったんじゃないかって思う自分も居た。世の中悪い人ばっかりではない、それは決して誤りではないのだろう。「また、明日か……。こんな風に言われたの、凄く久しぶりだ」私は嬉しさを噛み締めながら帰路についた。エレベーターを降りて、傘を広げ、そして元来た道を戻っていく。何時もだったらあっちへふらふら、こっちへふらふらといった具合に足取りも覚束ない事が多いのだけれど今日はちゃんと足取りもしっかりしていた。後、ちょっとだけ世界が明るく見えた……そんな気がしないでもなかった。確かに明日からはまた憂鬱な学校生活が始まるだろうし、辛い事も一杯待ち受けている。でも、こんな風な楽しみが少しでもあるならまだ私は頑張れる。本当に単純な理論なのかもしれないけれど、今の私にはそれで十分だった。「よし、ちょっとだけ……明日は―――――」もう少しだけ、頑張ろう。本当は私はこう言おうと思った、だけど言葉がそれ以上続かなかった。唐突に途切れてしまった、そう言い直す事も出来るのかもしれない。それは商店街の道と先生のマンションを繋ぐ通りに在る踏み切りの近くでの事だった。明日への決意と週末への期待を込めて少しだけ頑張ろうかと思った矢先、それは唐突に目の前に現れたのだった。それは……雨に濡れたまままるで亡霊のように歩く私と同い年くらいの女の子の姿だった。後ろ姿だったから表情はよく分らなかったけど、長い金髪をツインテールに纏め上げていたから多分外人さんである事は何となく察しがついた。しかしそれだけではなかった、その少女の格好は明らかに異常だと思う他ないような醜態を晒していたからだ。傍から見ていてもその子の纏っている服は所々破けていて、破けている部分には生々しい傷跡が幾つもあった。そしてその子はそんな自分の身体を引きずるようにして私の目の前を歩いていたのだ。「あれって……えっ!?」一体なんだろう、そう思ったのも束の間だった。カタンコトン、という周期的な車輪が線路をなぞる端的な音が私の耳に飛び込んでくる。そしてカンカンっていう踏み切り独特の警告音もそれに続いた。なのにその女の子は……気が付いていないのか一向に止まる気が見えない。それどころか歩くスピードがどんどん加速していっている様にすら見受けられた。傷を負っている所為か足取りは重いけれど、雨に濡れた身体は凄く冷たいけど、身体中に負った傷は痛むけど……この先に行けば楽になれる。途端そんな嫌な言葉が私の中で過ぎるような気がしたのだ。信じたくはない、だけどその子の足取りは間違いなく線路の中心を目指していた。開放されたい、楽になりたい、いっそこのまま死んでしまいたい……大きな傷の在る背中にはそんな言葉が踊っているような気がした。いけない、私はとっさに蝙蝠傘を投げ出して駆け出した。自分はこんな誰かを如何にかしようとするようなキャラじゃない、そんな事は百も承知だった。だけど動かずにはいられなかった、動かなかったら私は多分一生後悔する……そんな自信が私の中で蔓延っていたからだ。踏み切りを乗り越えようとする女の子、直ぐ其処まで来てしまっている電車、そして駆ける私。そんな幾つかの要素が、きっとほんの小さな偶然を起したのだろう。普段運動不足な筈の私は自分でも信じられないような速度で雨の中を走り抜け、一気にその子の腕を掴むと……踏み切りの向こう側からこちら側に引き上げた。「駄目ッ!?」「……えっ?」それは私の悲痛な叫びと、女の子の呆けた一言だった。そして直後に猛スピードでかけていく三連車両の高速電車、轢かれていたら原型すら留めなかったに違いない。女の子は綺麗な子だった、まるで外国のお人形さんみたいに整った可愛らしい顔立ちで同姓の私が見てもかなり可愛い子だった。でも、それと比例するようにその女の子は本当の意味で魂の抜けた抜け殻のような目をしていた。生気がない、焦点があってない、瞳が虚ろ……なんでもいいけどともかくそんな感じだった。私はそんな顔を見たことがあった、鏡で見た自分自身……つまりは私の姿だ。ほんの少し前に見た鏡写しの私の姿が、そこにはあった様な気がしたのだ。「えっとあの……その……」「……………」何か言葉を掛けようとするけど上手い言葉が見つからない。女の子の顔はどうして助けたの、とでも言いたげな顔だったけどそれに返答するような答えを私は持ち合わせていなかった。だけど女の子は直ぐに我に帰ったのか、はっとしたような顔立ちになって立ち上がると私に一礼してまたふらふらと雨の街の中へと消えていった。傷だらけの身体を引きずるように歩いて、やっぱり覚束ない足取りのまま。そんな光景を私は一人ずぶ濡れになりながら見届けるしかなかったのだった。一方、高町なのはという存在が消えたとある女性の部屋では二人の女性が久しぶりに顔を合わせていた。その二人は外見的にはあまり似つかなかった、でも姉妹だった。それ故なのか二人には共通点もあった、まるで誰かに作られたのではないかと錯覚するほどの美しい容姿だった。だがそれも当然と言えば当然なのかもしれない。読んで字の如く、彼女たちは造られた存在なのだから。「久しいな、ドゥーエ。元気そうで何よりだ」「貴女もね、トーレ。ドクターが直接出向くと仰られていたから本人が来るのかと思っていたけれど……貴女だったとはね」「ドクターは老人たちから呼び出されたらしいので私が出向いたのだ。クアットロにしろチンクにしろ忙しいらしいのでな、だから私が来た。サンプルの方は?」「これよ。珍しいタイプのインテリジェントデバイス、名前はレイジングハートって言うらしいわ。残念だけどジュエルシードの方は手に入らなかったわ、今のところの成果はそれだけよ」琥珀のような色の髪と瞳を持つ……とある少女からは“先生”と呼ばれている女性“ドゥーエ”は同じくそんな彼女に呆れ顔で対応するボーイッシュな長身の女性“トーレ”に向かってそんな言葉を投げかけながら手の内に在った紅い宝石のついたストラップを投げ渡す。彼女たちはこう見えても姉妹だった、あまりにも似つかないがそれでも姉妹だ。ただ少々生まれが特殊なのと、色々と事情があって秘密を人よりも多く持ち合わせている。今回の久々の対面もそんな“秘密”の一つから生まれた物だった。「ふん……この世界での職務に力を入れる事は結構だが、やるべき事はしっかりしてもらわんとな。そうは思わないか、ドゥーエ?」「煩いわねぇ、私は元々貴女みたいに戦闘は得意じゃないのよ。それにそれが久々にあった姉に対して掛ける言葉なのかしらね? お姉ちゃんちょっと悲しいわ」「なに、生まれも育ちもそう差が開いているという訳でもあるまい。クアットロならいざ知らず、私はそれほどお前との関係を気にしたりなどはせぬさ。なぁ、愚姉殿」「……大分意地が悪くなったわね、貴女も」ドゥーエは久々に会って口も上手くなった実の妹に対して盛大なため息を吐いた。昔はもう少し素直な子だったのにと思わずにはいられない、そんな気分から出るため息だった。しかし、トーレの言っている事も間違ってはいないというのも彼女は重々承知していた。幾ら居心地がいいからって本来の自分の職務を忘れてはいけない。説教を受けても仕方が無い、心の中では覚悟は決まっていたような何処か諦めた様子だった。「それで? それを回収する為だけに貴女がこの世界に来たって言うわけではないでしょう? 本当の所……何かドクターに言われたんじゃなくて?」「察しがいいな、実を言うとその通りだ。ドゥーエが手こずっている様ならサポートしてやれとのお達しだ。まぁ、現状は言うまでもないのかもしれんがな」「ぐっ……あぁ、そうですか。分ったわよ、分りましたとも。どーせ私は役立たずですよーだ」「子供のように拗ねるなドゥーエ。一応二番目の姉だろうに」駄々っ子のように拗ねるドゥーエ、そしてそれに呆れるトーレ。殆どどっちが上でどっちが下なのか判断に困る様子だった。そもそもドゥーエに比べればトーレの方が身長も大きいし、違った意味で大人っぽさもトーレの方が勝っている。大人というよりは、物静かさとか余裕とかそういったものの大きさの違いなのかもしれないが……総合的に見ればあまり変わる物でもなかった。「それで? そんなに自信満々のトーレさんは私よりもジュエルシードの在り処にさぞや明るいのでございましょうねぇ?」「だから拗ねるなと言っているのに……。返答に関しては肯定する。少々この世界で私たち意外にジュエルシードを集めている人間がこの街に潜伏しているという情報を掴んでな。そちらに探りを入れてみようと思っている。なに、お前の生活の邪魔はせんさ」「私たち以外に、ねぇ。……これは一嵐起きそうね」「かもしれぬし、そうでないかもしれない。運任せは性に合わんが気長にやってみるさ。お前も抜かり無くやれよ、ドゥーエ」無論よ、ドゥーエはそう言ってトーレとの会話を打ち切った。しかし彼女は迷っている部分があった、自分を“先生”と呼ぶ少女の存在だ。自分自身は彼女を受け止めたいと思っている、しかしこんな事に彼女を巻き込めばそれこそ命に関わる可能性もある。果てさてどうしたものか、その答えは誰が知る物でもない。その日はただ雨だけが強く強く降り注ぐ一日になる、その事実を除いては。