夜の街っていうのは皆が思っているほど寂しい物じゃない。街道はお店の明かりと夜を歩く人達のざわめきで絶えず賑わい、また夜だからこそ出歩くような人も居るからある意味昼間よりも人通りが多いと言ってもいいのかもしれない。ただ其処に明確な違いを求めるとするならば精々道路を走る車にライトが点滅しているかどうかとか、街頭の蛍光灯に虫が群がっているかどうかというような微細な違いしかない。少なくともそんな夜を歩く人間の私にとってはそれ以外の変化なんて所詮は心の片隅にも留まらない、人が言うにして“どうでもいい”事ばかりでしかないのだから。「まぁ、そんな夜だから……ちょっとは居心地が良かったりするんだけどね」駅前の商店街通りを抜けたデパートの前の街道、其処に私こと高町なのはの姿はあった。珍しくその日は制服ではなく最近めっきり着ることの無くなった私服を着用しており、夜の八時過ぎという微妙な時間帯に居る小学生にしてはほんの少し周りから浮かない格好をしていた。別に今日に限って何か特別だとかそんな理屈ではない。今日という一日があまりにも辛すぎて家に留まること自体が億劫になってしまったからだ。結局あの後、まる一日授業をサボり切った私は終礼も待たずに一人だけ勝手に家に帰り、何時ものように何の感情も抱かぬままなし崩し的にゲームに没頭していた。ちょっとでも何か気を紛らわせる事をやって全部忘れてしまおうと思ったからだ、でも何のゲームをやっても特に楽しくも無い。この所めっきり宿題も復習も縁が無くなった私にとっては勉強をするという選択肢も取る事は出来ず、結局思い当たった端からばっさり切り捨てた。だから私は暇で暇でどうしようもなくなってしまい、家に居ても何にも面白くないからと言うたったそれだけの理由で夕方から今までずっとそこら辺を徘徊していたという訳だ。「なんだか寂しがり屋のお爺さんみたいだよなぁ、今の私。まぁ……当たらずとも遠からずなんだけどさ」何の装飾もない鼠色のパーカーと地味なタイトスカートに黒のニーソックスという年頃の少女にしてはあまりにも華の無い服装に身を包んだ私は、誰に語るわけでもなく何時ものように独り言を呟いた。幾ら暇だからってこんな明らかに小学生が歩いていてはいけないような時間と場所に私という人間が存在しているのは確かに私自身結構違和感を感じてしまっている部分が大きい。第一その動機があまりにも脈絡がないし、そもそもやる事もないのに適当に歩き回る小学生ってどれだけ寂しいんだろうとも心なしか感じてしまったりもするからだ。だけどそれでも何の抵抗も無くこうして一人で居ようと思えるのは、やっぱりこの人が沢山いるのに誰も私に視線を向けてこない無機質な人混みが私にとっては心地いいからなのだろう。「人が恋しいったわけじゃないけどなぁ、別に。何処もかしこも面倒なだけでさ……」スカートのポケットに手を突っ込み、周りに何の興味もないと言わんばかりに通り過ぎていく群集の中を掻き分けるように闊歩していた私は本当に何となくそう思うのだった。初めの内は古本屋とかデパートの中とか健全とはあまり言えないけど、まあ私もそれなりに子供らしい場所で時間を潰していた。家を出たのが夕方の5時過ぎ位だったから、店内に居るような人の殆どはようやく学校から開放されて帰ってきた中学生や高校生のお兄さんやお姉さんばかりだったけど、それでも私のような年頃の子も居ないでもなくそれ程溶け込むのが難しい訳ではなかった。しかし時間を潰すといってもやっぱり限界があるもので、やっぱり時間が経つ毎に人も減って段々と大人からの目線が厳しいものになってくる。そしたらやっぱり居心地が悪くなって出て行く他無くなってしまう、しかし補導とかされる事も考えると出て行かない訳にもいかないからどうしようもない。でも家に帰っても特別やる事が生まれるわけでもないし、タイミングによってはお兄ちゃんからまた何時もの小言を聞かされる羽目になる恐れだってある。大体小学生の門限が基本夕方五時って方が間違っているのだ、こっちは夕食だって一々外に買いに行かなければいけないんだから文句を言われる筋合いなんか何処にもない。子供の安全が云々とか言っているけど、今の世の中は私にとってはあまり優しくのないものだった。「しかもお弁当売り切れてるし……もしかして私って何か呪われてるのかな?」いっその事「シャナク!」とでも唱えれば少しはマシな方向に運が向くかとも一瞬思ったのだが、まともにそんな事をしていたら流石に別の意味で視線を集めそうなので私は直ぐにその場かな考えを頭の中から削除した。しかし、この所全然運がついて回らないと言う事に関しては否定しようが無いのだからどうしようもない。今日にしたって昼間に引き続きアンラッキーな事が続く運命にあったのか、先ほど寄ったスーパーで買おうと思っていた幕の内弁当が今日に限ってどういう訳か売り切れていた。何時もだったら360円という微妙な値段なことに加えてそれ程需要があると言うわけでもないくせにいざ買おうと思えば売り切れましたなんていう札が出ているのだから居た堪れないにも程があると言う物だろう。折角夜になってタイムセールでお弁当は40%オフなるから買い時だと思ったのに、態々其処まで出向いた労力を返してほしいくらいだ。とは言え幾ら此処で私が騒いだ所で過ぎてしまった事は取り返しがつかない訳で、今の私はブラブラとで歩きながらそれと平行して晩御飯を探している訳でもあったのでした。「はぁ……そろそろ限界かも。お腹空いたし、疲れたし良い事なんか一つも無いよぉ。やっぱり家で無難にレベル上げでもしてればよかったなぁ」今更になって自分がしでかした軽率な行動に後悔する私、しかし時既に遅しとは正にこの事である。最初はほんの少しの暇つぶしにと思って始めたこの歩き回りだったが、元々運動不足気味で普段碌に出歩くことも無い私にとっては3時間という時間はあまりにも長すぎた。御蔭で時間は潰れたものの腹は空くわ、お弁当は買い損ねるわで散々足る結果がついて回る羽目になった。おまけに肩の傷は家に帰って詳しく見たところ結構大きな痕になってしまっているから、完全に治癒するまでにはそれなりに時間が掛かりそうだと言うことをそれに付け加えると余計に憂鬱な気分が加速しそうだった。ゲームをする時に痛いのだ、肩の傷と言うのは……今は大分痛みも引いたからマシと言えば幾分マシなのかもしれないけど。ともかく、今の私は相当疲れている上にまだ晩御飯も買えてない訳でして……もうしばらくはこの夜の街を歩くことを神様に運命付けられているようだった。「せめて何か手軽に買える物でも……って駄目駄目ッ! もう今日は480円しか使えないんだから無駄遣い厳禁だよ、うん」一瞬だけ浮かんだ邪な欲望を私は即座に振り捨てる。ある意味これは妥協と言うか諦めに近い感情だという事に何となく気が付いたからだ。何かに満たされていないと途端に心に隙間が出来て、それをだらだらと引きずっていると無用な物に手を出してしまいがちになる。これは限られた資金の中で物事を遣り繰りする人間にとっては大敵なのだ。嘗ては気付いていなかった事だが、お金って言うのは何も水道を捻れば出て来る水と違って無限に存在する訳じゃない。寧ろあまりにも有限過ぎて、それで人生を狂わせて自殺する人さえ出てくるほど使い方によっては恐ろしい結果を弾きだす事もある物なのだ。だから私は御金を賢く使う事をいち早く憶えた、その日その日を生きる為にどうしても覚えざるを得なかった。その為か私は必然的にあまり無駄遣いと言う物をしなくなった。毎月毎月何気なく使ってお小遣いの使い道がどれほどまでに無駄な物かって言う事を身体が憶えてしまったからだろう。缶コーヒー一本、特売のパン一つ取っても私にとっては死活問題……少なくとも後で餓えるよりはよっぽどマシだった。「とは言っても……あっ―――――」理屈では解っているつもりだし、一時の気持ちに流されちゃあいけないって言うのも分別が付いている。だけど、それでもお腹が空いている事に変わりは無い……そんな矢先に私の目の前に飛び込んできたのはワゴン車を改造して作られた移動式のクレープ屋さんだった。人が良く集まる広場の前、ピンク色の車から漂う甘い匂い、そしてそれに吊られる様に歩み寄って駄々を捏ねる小さな子供。きっと外食か何かをした後だったのだろう、クレープ屋の前には仲の良さそうな子連れの家族が仕方が無いなと苦笑顔で子供の我儘を快く受け入れている最中だった。そんな風景が嘗ての私の姿とダブって見える様な気がしたのは、果たして私の見間違いだったのだろうか。その家族の仲睦まじい光景が自分が経験した遠い遠い過去を再現している様な感じがして、私は人知れず言葉に言い表す事の出来ないデジャヴを感じていた。「そういえばそんな事もあったっけな……前は」ふと漏れた独り言に私は自嘲気味に頬が緩むのを何となく感じていた。そう、あれはもう何時になるだろうか……ちょうどまだお父さんが事故の怪我から復帰して直の頃だっただろうか。ようやく家族間でのピリピリとした空気が緩んで、次第に皆が私を構いだす様になった位の頃。私もあんな風に美味しい焼き立てのクレープを買って貰って、無邪気な笑顔をお父さんやお母さんに向けたものだ。それだけでは無い、今まで構って上げられなかった代償とでも言わんばかりにお父さんもお母さんも私の我儘を聞きいれてくれて……時には遊園地や動物園にも無理して連れて行ったくれた。今思えばあの当時御店もバタバタしていて忙しかっただろうし、お兄ちゃんもお姉ちゃんもいざ環境が改善された事に戸惑って上手く自分の生活を取り戻せていなかった筈だろう。それでも誰一人として辛いとも厳しいとも言わず、笑っていられたのは……恐らく幼かった私に対する責任を全うしようと躍起になっていたんだと私は思う。今更どうしようもないとは解っているのだが家族の人達には随分と迷惑を掛けたと思う。悪かったとも思うし、出来うる事なら時を戻してこう言ってあげたいとも思う……「私なんかにそんな価値ないんだよ」と。「懐かしいなぁ……ちょっとだけデジャヴ感じちゃったよ。まいったなぁ、あんまり自虐的な事は考えない様にしてたのに」これじゃあ何時まで経っても嫌な気分から抜けられないじゃん、そう呟きながら私は少し早足になってその場から離れる。温かい家庭、仲睦まじい親子、孤独を知らない無垢な笑顔……そのどれもがまるで鋭利なナイフのように胸に突き刺さっていく。その度に古傷が痛む、誰にも見えない心の傷が。痛みはずっと前に引いたと思っていた、だけど今だってふとした拍子に疼きだす事もある。ほんのちょっと前に先生にどうにか出来ないものかと訊ねて見たことがある。結果はその人間が完全に忘れるか死ぬかのどちらかしか特効薬は無いとの事だった。私は恐らくこれから一生この傷と向き合いながら上手く賢く生きていかねばならない、寂しいがそれが私の現状なのだからどうしようもない。死ぬのは嫌だし、どうせ何時まで経っても私は今の私を忘れられそうに無いから……。「……おかしいなぁ、これじゃあ私。……まるで逃げてるみたいだ」早足はどんどん早くなって、気が付いた頃には私は結構な速度でその場から駆け出していた。率直な感想としてはその場に居るのが辛くなった、理由はたったそれだけのこと。だけどきっとあのままあの家族の事を見続けていたら私は醜い嫉妬をしてしまう、そんな卑しい自分が嫌だったのだ。逃げ出すって事は何も悪い事じゃないと私は個人的に思っている。同じくして諦める、投げ出してしまうという事に関しても私は否定するつもりはない。それも選択肢の一つだった、そう割り切ってしまえばそんな普通だったら誰からも嫌がられそうな行動も人間らしいと思えるからだ。そりゃあ私も人並みに感性って物を持ち合わせてはいるからそれらの事がいけないことだとは理解している。だけど、本当に正しい選択肢を選ぶ事ばかりが正解と言えるのだろうか……そう深く考えてしまうと少しだけ心が揺らいでしまう。人間生きていれば辛いことだってあるし、苦しい事だってある。そんな物に立ち向かっていくっていうのは言うだけなら凄くカッコいい事なのかも知れないが……実行するのは凄く大変で疲れそうだ。だから時には辛い事から逃げ出してしまうのも一つの手……そんな言い訳を自然と出してしまうほど私の性根は腐り果ててしまったらしかった。「素直に羨ましいって言えたら……楽になれるのに」繁華街の通りを過ぎたところで、再び元の速度に走るのを戻した私はそんな風な悪態を付きながら少しだけ燻りかけた気持ちを静めた。嘗ての素直な自分に比べると今の自分は相当嫉妬深くて、それでいて誰よりも臆病な存在になってしまった。誰かが笑っているのが凄く羨ましいくせに、自分もそうなろうという勇気が持てない……そんな悪循環が廻り廻って今の高町なのはという人間を作ったしまったのだろう。傍から見れば相当嫌な奴の典型だって思われても仕方が無い、それが分っていても自分を変えようとも思えない臆病な自分。結局私はそんな風に他人を羨みつつも嫌いながらでしか、自分で自分を守れない。そんな私は……やっぱり嫌われても仕方が無い。諦めるしかないのだ、その原因が私の中に蔓延る限りは。「思えばさぁ……こんな私にも一応友達はいたんだもん……世の中物好きも多いって感じちゃうよね」気分を紛らわせる為にあえて私は何の脈絡も無い独り言を入れて思考を区切る。何時までも何時までも解決しない独り善がりな考えを論じていた所で結局は解決策など出ないのだ、それならもう少し位は建設的な事を考えよう……そう思ったわけだ。だけど如何にも私は考える事がネガティブな方向に傾きすぎているようで、話題を切り替えようとしても切り替えきれない事が度々ある。今回もまあそんな感じで何を考えていたのか藪に棒を突っ込んで蛇を出すような独り言を行ってしまった訳で、やっぱり私は気落ちする以外なかったのだった。「友達……かぁ……」チラリと横目で道行く人達を見てみると其処には塾帰りなのだろうリュックを背負った学生服の男の子達が二人並んで談笑している所や、ゲームセンターに置いてあるプリクラの機械に二、三人群がってキャイキャイはしゃいでいる女子高生くらいのお姉さんたちの姿があった。それ以外にもこんな夜だと言うのに楽しそうにしている人達は後を絶たず、寧ろ私のように年がら年中人生に疲れているような人の方が稀なくらいだった。私は友達同士で楽しそうにしている人達に共感する事は出来ない、だって私は一人だから。だけど少しだけなら思い返す事はできた、ほんの少しだけ昔の事を。今はもう隣に並ぶ事の無くなった元友人二人と共に笑ってお話して、時には話題のドーナツ屋さんに行ったりファンシーショップに小物を見に行ったり……。楽しかった、でも今はもう二度と体感する事の出来ない日々達は今はもう虚しい思い出に成り果てた。友達なんかいない……必要ない……人を信用できなくなった私が悪いのか、それともそうさせた周りの皆が悪かったのか。今の私にはもう、その答えを求めるだけの器量は無かった。「あの人達も何時か裏切られる日がくるのかな、私みたいに? だとしたら悲しいよね……信用してた人から見捨てられる以上に辛い事なんてないんだからさ」そんな捨て台詞のような独り言を漏らした私はいい加減何でもいいから静かな場所へと行こうと思い当たり、鬱陶しいまでに人で込み合っている通りから端の人手の無い通りの方に抜けて暗闇の中をゆっくりと進んでいった。ネガティブな事は極力考えない、そう思い当たった矢先にこれなんだから私も相当救えない人間だろう事にまず間違いはない。幸せな時間や関係は言い換えれば砂の器か御伽噺の泥の船と思っている、そんな風に考えている人間なら尚更だ。見た目だけは立派に取り繕っていても所詮は友達なんていうのは不安定な関係であり、ちょっとの刺激、ちょっとの亀裂で糸も簡単に崩壊してしまう。金銭面でのトラブル、恋愛間での縺れ、勉強やスポーツなどの成績の開きから来る劣等感……そんな不安定な関係を崩す要素なんて世の中には幾らだって溢れかえっている。私の時もそうだった、きっかけは私がイジメを受けているというたったそれだけの事。たったそれだけの事でアリサちゃんは私を見捨て、すずかちゃんもそれと同じように距離を置くようになった。あんなに仲が良かったのに……所詮あの友情も見た目だけの幻想に過ぎなかったのかと思うと私は少し悲しい気分になった。「本当、嫌な奴だな私……昔の私にまで嫉妬しちゃってる……。幾ら悔やんでも時計の針は元には戻らないのにさ」暗い夜の闇に閉ざされ、街灯の僅かな明かりだけで照らされた薄暗い横道を歩きながら私はふとそこで夜空を見上げてそんな事を考えた。雲一つ無い晴天だったから空には何も遮るものが無く星がとっても綺麗だった。まるで光る雨が夜の街に降り注いでいくような錯覚を受けるほどの満天の星、何時か誰かと見上げた事のある夜空だった。昔ならこんな星を見上げる夜には誰かが傍にいて口々に勝手な感想を述べていた物だ。夏の星座が云々とか、なんで昔の羊飼いさんはあんな星と星を繋いだだけの線が動物や物品に見えたのだろうかなどそれはもう勝手な言い分ばかりだった。だけど最終的に行き着くのは文句なしにその夜空が綺麗だと言う率直な想いと、何時かまたこんな空を一緒に見上げられたらいいなって儚い願望だけが其処には残る。なのに私は今は一人、共に見上げてくれるような人もいない寂しい人間だ。一人消え、二人消え……どんどん周りから人を遠ざけて離れていって、挙句残ったのが今の私。此処でこうして寂しいのに素直に寂しいとも言う事の出来ない、歪んだ性格の臆病者だ。「失う物は大抵失ったと思ってたのにね。案外私も未練がましいなぁ、まったく」何処まで昔の事を思い出せば気が済むんだ、心の中でそう自分を叱咤し直した私は何時もの私に戻ろうとポケットの中へと手を伸ばして思考を打ち切った。手を入れると其処には僅かながらの小銭が数枚ぶつかり合って音を立てている、今日の私の全財産だ。家に帰って貯金箱を開ければ一日の内に使わなかったお金も貯めてあるから厳密にはこれだけが私の所持金という訳ではないのだけれど、中古でもいいから暇の潰せるゲームが欲しい私としては其方の方を使うわけにも行かない。つまり本当ならこのお金だって大切に使って、残った額を貯金しなければならない物の筈だった。しかし私がふと足を止めて見つけたものの誘惑に私は負けてしまったのだ。薄暗い道を照らす有名な清涼飲料水の会社が出している赤い色の自販機、私はまるで光に集まる虫にように其処へと吸い寄せられていったのだった。「本当はいけないんだけど……気つけ、欲しいからさ。今日くらいはちょっと贅沢してもいいよね」分っている、此れは言い訳だ。どれだけ理屈をつけた所で使えばお金は減るし、それが普段の自分なら絶対にしないような愚かな行いだとは最早言葉に出すまでも無い。間食というのは無意味にお金が掛かるばかりか量が少ないのに三本買えば一食分に相当するほど割に合わない物ばかり。本当はこんな事したいわけじゃない、だけど少しでも気分を変えられる物が無いと少々キツい状況になりつつある。別に私は自己嫌悪がしたいわけでも過去に縋って夢を見ていたいわけでもないのだ、だからとっとと自分の目を覚ましてやる気つけ薬が欲しい、そう思ったのだ。なけなしのお金を二、三枚取り出してお金の入れる口にそれを放り込んでやる。幾つも並べられたボタンが緑によく似た青に点滅するのを確認した私は、炎のイラストが缶に印刷してある微糖のブラックコーヒーの所のボタンを押して出てくるのを待つ。その僅か数秒後、ガコンという音が響いて取り出し口に缶コーヒーが落とされる。自販機の良い所は誰とも会話をせずに物を買えることだ、そんな奇妙な満足感を得ながら取り出し口を弄って缶コーヒーをとった私は徐にプルタブを開けて口元に運んでそっと傾けた。「ふぅ……美味しい。やっぱり缶コーヒーは『ファイア』に限るよ」他の缶コーヒーよりも少々缶の形が異なる、ずんぐりむっくりな金属色丸出しの缶を両手でしっかりと握り締めた私はそんな当たり障りの無い台詞を吐きながら自販機へと寄りかかり、もう一口コーヒーを飲んだ。私は嫌な事を考え過ぎたりしている時やブルーな気分の時は何時もコーヒーを口にする様にしている。別段大した意味がある訳でもなく、他の嗜好品に手が出せないからというどうでもいいような理由から来る物なのだが飲んでいる時は本当に気持ちが安らぐのは偽りようの無い事実だった。きっかけはなんて事は無い、夜中までゲームのやるのが少々辛くなった時に眠気覚ましとして飲んでいただけのことだ。初めの内は凄く苦いと思った、何で大人はこんな物を好んで飲むのだろうとも思った。だけど数を重ねる内に私も自然と味の違いが分るようになって、香りやコクを楽しむようになった。そしていつの間にかその楽しみが気つけになって、今ではどうしても気持ちが切り替えられない時の非常手段となってしまった。いや……言い換えればこんな事でしか私は気持ちを切り替える事すら出来ないとも言える。それくらいしか、今では楽しみも無くなってしまったから。「ちょっと……冷えてきたかなぁ……」前よりかは幾分か温かくなったとはいえ、まだまだ夜の寒さは厳しい季節。温かいコーヒーを口に運ぶ度に身震いにも似た震えが私の全身に走っていった。しかし、家に買えるのも何だか癪……だけどもう一度人気のある場所に戻りたいとも思わない。星はこんなに綺麗なのに、空はこんなに綺麗なのに……私の心は晴れないまま。きっと私には夜の街にも居場所はない、今更になってなんとなくそんな事に気が付いた気がした。ボーっとしながらもう一口、プルタブを開けた飲み口から漂う白い湯気が宙に溶ける。これを飲み干した後私は一体何処へと向かえばいいのか、そんな事すらも私には分らなくなっていた。「家に……帰ろうかなぁ」何となくそんな答えが私の頭の中に浮かぶ。家に帰る、そして何時ものようにゲームをやって寝不足な日常生活に没頭する。何でと言うわけではないが今は無性にその選択が正しいようにも私は思った。どの道家に帰った所で誰が私を心配する訳でもないし、最悪誰かが説教をしてきても無視し続ければいいだけの話だ。そうして部屋に篭って鍵をかければ入ってこられる心配もないし、何ならテレビにヘッドホンを繋いで耳に入ってくる雑音を遮断してやってもいい。そうすれば自然と皆諦めてくれる、私に関わりさえしなければ誰の心も痛まないのだ。ぼちぼちと帰り始めるか、私がほんのちょっとした異変に気が付いたのはその時だった。こんな人気の無い路地を一台の車が通過しようとして来たのだ。暗いからという理由で基本的に車の出入りが嫌がられているこの道で珍しい事も合った物だ、初めの内はその程度の関心しか私はなかった。しかしその車が近づくに連れてライトの光が大きくなり、車の形が大体把握できるようになった頃には私の関心は驚きに変わっていた。見慣れた形、見慣れた色、見慣れたナンバー、そしてこの海鳴では珍しい外車……確か名前はフォルクスワーゲンのイオスとかいう車だ。ナンバーは2、色は眩しいまでのクロームシルバー……間違い無い。見慣れた人間の車が其処にはあって、それは唐突に私の目の前で止まった。「はぁい、こんな夜に一人で御散歩? 何時から健康マニアになったのかしら?」「先生……」「あら、意外そうな顔ね。先生に見つかったら何かまずい事でもしてたの?」「はぁ~、いいえ。流石に其処まで不良さんじゃないです」何時もの変わらない、皮肉の言い合い。実質10歳以上離れている筈なのにお互いに減らず口が後を絶たなくて、ふと気が付いた時には自然と言葉を交わし合っている……そんな微妙な関係の人。周りからの評価はどちらも低く、毛嫌いする人は後を絶たない様なそんな二人の片割れ。開いた運転席の窓から会って早々そんな言葉を漏らした女性―――――先生は何時ものように何処か悪戯っ子を思わせる顔つきで其処にいた。傍から見たらおかしな光景だ、缶コーヒー片手に自販機に寄りかかる小学生とそんな小学生に夜に何をで歩いているんだと注意もしないで話しかけてくる保健室の先生。本来在るべき姿の生徒と先生では絶対交わされない様な会話も含めて教育委員会の人が見たら苦情が来そうな程だ。だけど、私はそんな何時ものやり取りに何処か安心感にも似た感情を抱いていた。何でこんな処に先生が居るのかは知らないけど、やっぱり先生と居ると落ち着く……そう思ったのだ。「こんな所で会うとは思いませんでした」「それはお互い様よ。もしかしてとは思ったけど本当に貴女だったとはね……。何していたの、こんな夜中に?」「見て分りませんか? コーヒー飲んでるんですよ、星を見ながら」「そうなの。私には家に居るのが嫌でプチ家出しているようにしか見えないのだけど?」当たらずとも遠からず、私は先生の問いに肯定も否定もしなかった。流石に家出をしていた訳じゃないけれど家に居るのが嫌だったって言うのは当たっているし、確かに傍から見ればこんな時間にフラフラしている小学生なんて怪しい事この上ない。最近何だか境が分らなくなってきているけど私は生徒で先生は教師だ。この先生が真面目にお仕事に取り込んでいるなんて初めから思っていないけど、それでも立場的には注意しなければならない立場に居る。また一つ貸しが出来そうだ、私は何となくそう思った。幸いにして今日の先生は非番だ、後々またカフェ・ラテでも奢ってあげれば目を瞑ってくれるだろう。教師相手に何を考えているのだろうと今更になって思うのだが、先生はそういう先生なのだから仕方が無いのだ。私は少しだけため息をつきたい衝動に駆られてしまった。「……そういう先生は何をしてるんですか?」「夜の巡回よ。夜中にフラフラ出歩いて非行に走ろうとしている生徒見つけようと思ってるの。貴女はその栄えある第一号ね」「それ、どうせ嘘です。先生今日は非番でしょう? 先生が休みの時までお仕事するとは思えないです」「何よ~、保険先生って言ったって忙しいのよ実際。……まあ嘘だけどね。本当は夕食を食べに行きがてらドライブでもと思ってね。折角の休日だもの、無駄にするだけ損でしょう?」よく言うよ、私は今度こそ本当にため息をついた。明日は祝日、今日休みを取った先生にとっては明日も休みで実質は二連休なのだ。まあ先生は大人だから一日ゲームをするか、午後まで寝ているかの私と違ってお金もやる事も沢山あるのだから好きな事を好きなように出来るのは仕方が無いとは思う。しかしこの先生の場合、学校に出勤してきても碌に仕事なんかしていないようにしか思えないわけで……生徒から賄賂受け取るような給料泥棒にこうも休日を満喫させるのも何だか生徒として癪な気分だった。先生は大人ってズルイっていうのを体現しているような人だ。私と同じで皆からあまりよく思われていないのにまったく動じもしないし、焦りも慌てもしない。精々時々教頭先生から怒られたっていうのを私に愚痴るくらいが関の山、順風満帆とは思えないけどそれでもそれなりに充実した人生を先生は送っているのだと思う。その性で良い人との出会いを逃しているのかもしれないけど……これを言うと先生は笑いながら怒るのであえて私は寸でまで出掛かった皮肉を心の中に仕舞い込むのだった。「楽しそうでいいですね、先生は」「そういう貴女はつまらなそうね。今日も嫌な事があった、そんな顔してるわ。まぁ……何があったかは聞かないけどね。ちゃんと冷やさないと駄目よ、肩」「……気が付いてたんですか」「これでも養護教諭よ、私。少し肩のバランスが上向きになっている、それって無意識に痛みを避けようとしている証拠なの。でもまあ……聞いて欲しくないでしょう、事情?」聞いてもどうせ答えてくれないだろうしね、先生はそう言葉を続けた。こういう所は相変わらず無意味に鋭い人だ、私はちょっとだけ顔を背けながらそう思った。この先生は私がイジメを受けていることを知らない、あえて私が言っていないから“知らない事になっている”のだ。基本的に私は誰かに干渉されたり、何の事情も理解せずに踏み込んでくる人間が嫌いだ。どうせ何時も比較されて素行の悪い私の言い分なんか信用されないだろうし、実際信用された事なんて一度も無かったから経験上そういう手合の人間は毛嫌いしてしまうのだ。だけど先生はそんな私の事情を知ってか知らずか、唯一まともに話を聞いてくれた。だからって何かをしようとする訳じゃないし、私が話したことにただ相槌を打つだけだけど先生だけは私の話を信用してくれている……と、思う。実際その審議の程は不明だし、聞くのもちょっと躊躇われるからこれからも聞こうとは思わないけど少なくとも私は先生がそう思ってくれていると信じている。そう信じてもいいかなって思える雰囲気を持っているのだ、こんな私が信用してもいいかなって思うくらいに……この先生だけは。そんな先生だからこそ、私は今もこうして真正面から話をすることが出来るのだろうと私は思いながらゆっくりと首を縦に振った。「……御免なさいね、今日は」「先生が謝る事じゃないです。保健室に勝手に入り浸ってるのは元々私の我が侭ですから、在るべきものが在るべき姿に戻っただけです」「でも、貴女は辛そうな顔をしてる。何もかもが元に戻ったって本当に思っているなら、貴女はもう少し笑っていた筈。それが出来ないって事はやっぱり学校で休める場所が欲しい、そう言っているのと一緒よ。だから……今日は御免なさいね、勝手に休んでしまって」「……ずるいです。そう言われると、私……何も言えないですよ……」そう言って私はもう一口缶コーヒーを啜る。ちょっと温い、少しずつ温度が低下してきている証拠なのだろう。先生の謝罪、私はそれでも彼女が悪いとなんてこれっぽっちも思ってはいなかった。先生はよく私に気を掛けてくれている、やり方も言い方も不器用だけど遠回しにしっかりと私の事を見てくれている。だからこそ何もしないのだ、何もしてくれない他の教師とは違って先生は何となく分っている断片的な情報から弾き出した答えを持っていながらもあえて何もしないのだ。それにどういう意味合いが込められているのか、考えれば理解は出来るが多分期待には応えられない。だって私は、誰かに甘えてしまったらそれこそ壊れてしまいそうだから。「それじゃあ私はそろそろ行こうと思うけど……良かったら乗っていく? 家まで送ってあげてもいいわよ、特別に」「何か裏がありそうですね」「普段ならね、だけど今日は見返りなしの大サービス。此処最近物騒な事件が続いているでしょう? 翌日になって貴女が死体で発見されましたっていう様な事になったら目覚めが悪いのよ。ほらニュースで出ていた少年の件もあるでしょう?」「……腐っても教師、ということですか」まあそんな所よ、先生はそう言って口を濁した。なるほど確かに理に適っていると私は思った。今の世の中私のような子供が絶対に安全なんていうことは無い、これはれっきとした事実だ。法治国家ならではの慢性的な危機管理の甘さとでも言うのだろうか、私がこんな事を言えるのも全部先生からの受け売りが殆どなのだが確かにこの国では何処まで行っても物事に完全が求められる事は少ない。所詮他人事、自らが被害に遭わない限りは数字や書類の上でしか物事を判断できないという現実がそんな余所余所しい現状に拍車を掛けているのだろう。怖いとか可哀想だとは思っても後はどうせ他人事だからそれ以上の感情は抱かず、そして忘れられる。この国の危機感なんていうのは所詮はそんな物だ、先生は何時だかこんな事を言っていたが否定はしない。難しい事は良く分らないけど、確かに私の周りの人間の感覚なんてそんな物だと私自身も常々思っているから。そんな中で少しでも私を心配してくれる先生の一言は、例えそれが教師としての業務的な義務感から来る物だったとしても少し嬉しかった。「悪いですけど、遠慮します。私まだ晩御飯も買って帰らないといけないですから」「良かったら奢るわよ?」「……本当に今日はどうしたんですか? 悪い物でも食べたとか?」「馬鹿ねぇ、そんな意外を通り越して異常な物を見るような目で見ないでよ。今日は少しだけ気分がいいの、だから貴女にもその御裾分け。どうする? 私の気分が変わらないうちに決めないと青い鳥も逃げちゃうわよ」誰からでも無用な施しは受けない、それが私の基本スタンスであり心情だ。借りを作って得する事は何も無い、勿論私は先生の提案を断ろうとした。でも人間間の悪い時はとことん間が悪いもので、何の因果がこのタイミングで私のお腹が少しだけ鳴ってしまったのだ。学校をサボった所為でお昼ご飯が早かったのがいけなかったのだろうか、強がりを言おうとしても台詞が見当たらない。先生の顔は意地の悪い物に変わっている、私はどうする事もできず、顔を赤らめながら俯くしかなかった。結果、私は先生の提案に乗るしかなかったのだった。渋々先生の車に乗り込んでから十分と少し。私は先生に連れられて都市部にある一軒のラーメン屋を訪れていた。最近よく在るようなチェーン店ではなく、それなりに店構えの良い個人営業の店だった。先生に手を引かれて中に入ってみるとズラッと横並びになったカウンターにお座敷の席が四つ程あって、店内は美味しそうなラーメンや炒飯の匂いで溢れていた。だけどなんか先生のイメージからは連想できそうにない感じの店で私は初めの内は少し違和感を感じていた。勝手なイメージかもしれないが先生は外人さんだし、外食と言えばフレンチとかイタリアンとかそっちの方がこんなラーメン屋よりも全然自然に思えたのだ。一番手前のカウンター席に横並びに座る事になった私は思わず何でこの店にしたのかと聞いてみたのだが、偶々雑誌に載っていたからという当たり障りのない返答に何も言えなくなってしまった。別にラーメンが嫌いなわけではないし、奢って貰う以上はある程度礼儀を弁えるべきだと思ったからだ。これで一食分のお金が浮くなら安いもんだ、そんな下心と一緒に。「すみません、ラーメン二つ。一つは醤油でもう一つは……」「味噌でいいです」「味噌で。あ、醤油の方は味付け卵をトッピングで」はいよー、とタオルを頭に巻いた店主さんらしい男からの返事が返ってくる。何時も私が行っているコンビニの店員さんの何の感情も篭っていない返事よりかは幾分か人間らしいものだと私は人知れず思った。しかし店主さんの方もこんな金髪の外人さんが日本人よりも流暢な日本語で話しかけてきたのに少し驚いていたから、その所為かもしれないとも思った。先生は外人さんにしてはおかしい位日本語が上手だ。そりゃあ日本の学校で養護教諭なんてしてるくらいなんだからある程度は勉強したのかもしれないが、それでも訛りもないし独特の違和感も無い。自然な事が自然と出来る、何かそんな感じ……水道の蛇口を捻れば水が出てくるのと同じくらいに何の違和感の無いくらい先生は日本語が達者だった。もっとも此れはアリサちゃんやすずかちゃんの家のファリンさんにも言える事なので、もしかしたら昨今の外人さんにとっては之が当たり前なのかもしれないけど。私は何となく、そんな事を人知れず考えていたのだった。「貴女もトッピング欲しかった?」「いえ、別に……。食べられるなら何だっていいです。それに其処まで図々しい真似、私には出来ません」「案外遠慮深いのね、結構な事だわ」「偶には先生も見習って生徒からカフェ・ラテ恵んで貰うのを控えたらどうですか?」そんな風に私が皮肉を言うと先生は、それと此れとは話が別と返してきた。まああの行為はあくまでもお互いの利害の一致があってこそ成り立っている物だから、本来私がこんな風に言うのは間違っているのかもしれないが下手をすれば懲戒免職物の筈だ。最近では自分の子供が勉強しないのが悪いのに先生の所為にして文句を言ってくる親御さんや、過剰な過保護で子供を擁護してちょっと叱っただけでも懲戒免職を要求してくるような人もいる中で生徒と教師間での賄賂なんて発覚すればちょっとした問題になってしまう。モンスターペアレント、『怪物の親』と世の中では言うのだと前にテレビでやっていた事がある。あんな人達が一杯いる所為で先生側も色々と気が立っている、そしてそれが廻り廻って私のようなどうでもいいような生徒へと返ってくる。そんな悪循環の中に先生を巻き込みたくは無い、私なりの不器用な心配な感情がそんな言葉を生んだのだった。「それにしても……大丈夫なんですか?」「んっ、何が?」「生徒にこんな風にご飯奢るのって本当は駄目なんでしょ? ほら、最近は贔屓だ~って騒ぎ立てる人もいるし……もしバレたりなんかしたら―――――」「ストップ、子供は余計な心配なんかしないでいいのよ。それに私は今日は非番。休みの日に私が誰に何をしようが私の自由でしょう? まぁ、バレたら拙い事には拙いんだけどさ」そう言って先生は疲れたような笑みを浮かべていた。もしかしたら過去にも似たような事をして怒られた経験があるのかもしれない、もっとも反省は殆どしていないような気もするのだが。まあ何にしても今時中々いない子供想いの先生だっていう様な事を私は改めて思った。他の学校の事はどうなのか知らないけれど私の学校に居る先生の殆どは子供の事を見てはいない、皆生徒というフィルターを通して見える親御さんのご機嫌を伺ってばかりだ。ウチの学校は私立だし、お金持ちの子や特別頭の良い子達が生徒の大半を占めている。そんな学校だから過剰に子供を可愛がる親は沢山居るし、中には行き過ぎている人も少なくない。中には学校の体育館にエアコンを付けようとか、監視カメラを付けようとか言って学校にお金を持ってくるような人も居るほどだ。そんな風だから先生達にしても生徒よりも親御さんの相手の方に気を回す羽目になってしまう。いかに自分の受け持つ子供が問題を起さないか、きっと今時の先生はそんな問題のとばっちりを喰らう事を恐れて何も出来ない人が多いに違いない。そんな点で言うのなら無理を承知でご飯に誘ってくれた先生には、言葉には出さないけど感謝してもし切れないと私は思った。「大人って大変ですね」「そうよ、大人って子供以上に面倒臭い事ばかりで嫌になるわ。残業手当は出ないし、付き合いで嫌でもお酒飲まなきゃいけない時もあるし、ムカつく相手でも笑ってなきゃいけない。嫌な事ばっかりよ……」「ちょっとだけ、今聞かなきゃ良かったって思っちゃいました」「その反応は間違ってないわ、誰でもそう思うもの。だけどこうしなくちゃお給料貰えないのもまた現実。楽してお金儲け出来る上手い話とかどっかに転がってないもんかしらね……なんて、実際の所心にも思っちゃいないんだけどさ」そんな上手い話あるはず無いもの、先生は苦笑気味にそう言った。確かにその通りだと私も思った、人生そう都合の良い事ばかり起きないって知ってるから。そういった意味では先生の言葉は凄く貴重なご意見だったとも言える。大人は子供が思っているほど楽なもんじゃない、子供以上に色々な物を背負って行かなきゃならないって思うことが出来たから。思い返してみればお父さんにしてもお母さんにしても先生と一緒で大人だ。もしかしたら私の知らない所で色々な物を背負って今に至ったのかもしれないし、その背負っている物の中に私が含まれていたのかもしれない。だけどお父さんもお母さんも私の事を放り出してしまった、私から転げ落ちてしまったのかもしれないが結局拾ってくれはしなかったのだから結果的には捨てられたのと一緒だ。私は絶対に何かを背負っても放り投げたりなんかしない大人になろう、遠い遠い理想像なのかもしれないが私が目標にするならそんな大人になりたかった。そしてそれと同時に、子供でも大変な物は大変だって世の中の知らない人に訴えたかった。「……でも、子供も子供で大変な物は大変です」「知ってるわ。私もそんなに多くを知ってる訳じゃないけど、貴女の様子を見ていれば嫌でも目に付く。勿論貴女だけじゃない、保健室の先生なんていう仕事しているとね……色々と見えてくるのよ。大人の知らない子供の事情って奴が」「子供の事情……ですか?」「そう、イジメとかハブりとか。言葉にすると短調な響きだけど実際の所かなり深刻で繊細な問題なのよね、これが。いけない事ですよって言っても止まらないし、だからって放任すればいいのかって言えばそうじゃない。中にはエスカレートして自殺しちゃう子だっている。貴女にこんな事言ってもどうしようもないのかも知れないけどウチの学校って結構そういう事しちゃう人、多いのよ。勿論虐められる側の子もね。アンケートとか集計してみると泣けてくるわ、普段仲良さそうにしている子たちの間にも金銭面のトラブルとか結構あって……だけど下手に注意できないのよ先生も。そんな問題が表沙汰になったら責任取るのは自分だからね」先生の口から語られた言葉は結構学校側のブラックな面にも触れているような気がした。決して私だけがそういう目に合っているわけではないという現実。それを認知していても保身の為に大々的に行動できない先生たちの現状。そしてやっぱり隠れた部分で進行されているイジメの実態。先生の言葉を信じるなら時々学校で行われているいじめアンケートとかも貴重な情報源となっているにも関わらず、問題が解決されないのはそういう部分が大きいのだろう。そうでなくても子供っていうのは団結力というか結束力が強い、良い意味でも悪い意味でも。だからそうしたアンケートとかでも誰かの裏切りでこの関係に綻びが生じないように皆が集まって事前に打ち合わせなんかをして口を合わせることもザラなのだ。きっともっと人間の心理の根本的な部分が改善されない限りはこの問題にも終わりは無いのだろうと私は思った。「酷いもんですね」「当事者の貴女からしてみればそう思えるでしょうね。だけど悲しいけれど此れが現実なのよ。世の中には何でもかんでも都合よく解決出来る様な”魔法“なんか存在しない。でもだからこそ少しずつ、根気よくやっていくしかないの。正直私も口惜しいんだけどね」「先生は、なんだか他の先生とは違う感じがします。そんな事面と向かって言われたの……初めてです」「……本当は私も面倒は嫌よ。辛いし、面倒だし、他の先生からは変な目で見られるしね。だけど誰かがやらなくちゃいけない。教師っていうのは本来こうあるべきだっていうのを誰かが示さなくちゃいけない。きっと何時か皆変わっていける、そう思えるからこそ私は誰も見捨てたくなんか無いのよ。誰一人としてね」立派ですねって私が言ったら先生は面倒な事を背負ってしまう性分なだけって言ってきた。だけど私はこの時本当の意味で先生の事を尊敬した、此れは本当の事だった。世の中にはまだこんな風に考えてくれている大人もいる、まだ私のような人間を見捨てないで居てくれる大人もいる。その事実が無性に嬉しくて……それでいて私も少しだけ信じてもいいかなって思えたんだ。まだ私は多くの人や物を信用できないで心を閉ざしている。居場所を見つけられないで、泣いて、泣いて、泣きじゃくる子供でしかない。だけどこんな人が近くにいてくれれば私も何時かそんな人を労わって上げられるような人になれる、そんな気がしたんだ。親からも、友達からも、社会からも見離された私だけど……こんな人が隣にいてくれる限り、私は理想を追い求め続けていける。なんだかそんな幻みたいな希望が、急に現実味を帯びてきたような気がした。「そういえば明日は祝日だけど、貴女なにか予定はある?」「えっ……いいえ、何も。また家に篭ってようかと思ってますけど……」「はぁ~やっぱりね。ちょっとだけ予感的中」「先生、私もちょっと頭にきますよ。その言い方は」流石にため息をつかれるのは私も心外だった。そりゃあ確かに私は殆ど休日は家から出ないし、もう何ヶ月も誰かと遊んだりしてないけれど最低限のプライドくらいはある。私だって生まれつき不幸の星の元に生まれ付いたわけじゃないのだ、決め付けられるのは少々腹も立つというものだ。もっとも外れている部分は一つも無いから追求されたらまともに反論できないのが悲しい所なのだけれど。すると先生は携帯電話を持っているかと私に聞いてきた。最初は私は先生の意図が見えず、渋々自分のポケットから殆ど使わないオレンジの携帯電話を先生に差し出すと先生は徐にそれを弄り始めた。もしかしたらメールアドレスでもチェックしているのか、初めはそんな風に思っていた。だけどその数十秒後、先生は唐突に携帯を私の方に放り投げてきた。慌ててキャッチする私、何事かと思って少々立腹気味に先生の方を見やると先生は徐に口を開いた。「私のメールアドレス、登録しておいたわ」「えっ?」「暇な時は連絡しなさいな。私も大概友達は少ない方だから大抵の日は暇だし、コーヒーくらいはご馳走してあげるわよ」受け取った携帯電話を開いてメールアドレスを確認してみる。其処にはキラキラとした絵文字に挟まれた“先生”という文字と共に先生の携帯電話の番号とメールアドレスがきっちりと登録されていた。慌てて先生の方を見やると、先生は何時もよりもほんの少しだけ優しい顔で私のほうに微笑みかけていた。何の裏表も無い、ただただ純粋に誰かを安心させる為に見せる微笑が其処にはあった。全部消したはずの空白に一つだけ登録された名前。それが何だか凄く新鮮な気がして、余計に私は驚いたのだった。こんな私にも居場所が出来た、先生っていう逃げ場が出来た。その事実が無性に嬉しくて、何だか私は泣き出しそうな衝動に駆られてしまった。随分昔に忘れてしまったと思っていた、嬉しさから来る涙を私はぎゅっとかみ締めていた。「ありがとう……ございます……私、私は……」「ほらほら、こんな事で泣かないの。嬉しかったら笑いなさい。たぶんそれが一番幸せなはずだから」「は、はい!」「よろしい。それじゃあラーメン食べよう。おじさん、その二つこっちのね!」ちょうど良くなのか、それとも狙ってなのか。先生の掛け声に合わせて私たちの前に二つのラーメンが運ばれてきた。お手拭で手を拭いて割り箸を割ってそれを食べてみる。凄く美味しい、味がどうとか麺がどうとかそういう訳じゃなくて単純に美味しいと私は感じた。そしたら胸に蔓延っていたもやもやが少しだけ晴れたような、そんな気がした。だからこの時は少しだけ信じてもいいと思ったのだ。明日は何時もの休日よりも、ほんの少しだけいい日になりそうだって……そんな期待を。