毎日毎日嫌な事ばっかり。もう、うんざりだ……この言葉が言えなくなったのは一体どれくらい前からだろうか。悔しい、悲しい、虚しい。そんな感情が心を揺す振らなくなったのは果たしてどれだけ昔の事だろう。数えてみればそう多くは無い時間。だけど体感している人間からすれば永遠のように遠く、嘗ての自分が霞んで見れてしまうほど心は荒む。人から嫌われる事に慣れてしまったら、そこでもうその人間は死んだも同然だ。何時だか体育の先生がそんな事を言っていたけど、それなら私はきっと生きた死人だろう。嬲られるだけ嬲られて、いらなくなったらゴミのように捨てられる……そんな人間。それがきっと私という存在なのだろう。「……………」宝石を拾った日の朝の事、それは突然目の前に何事も無かったように存在していた。眼前にあるのは私の机と椅子、そしてその椅子の上に在るのは……売店で売っている溶け出したアイスクレープ。ベトベトに垂れて床に白い水溜りを作っている、もう食べ物ですらないゴミだ。そして机の上にはカッターナイフか何かで切裂かれた昔の写真。馬鹿みたいに笑っていた頃の懐かしくも忌々しい顔がバラバラに引き裂かれていた。辺りからはクスクスと笑う誰かの笑い声、誰かは分らない。そしてこれは明らかな嫌がらせ……最近ぶり返してきていたとは思っていたけど、どうやらこのクラスでの『高町イジメ』はまだ終わっていなかったらしい。私はそれを黙って見つめる……まるで昔の自分の姿を見るように。「お~い、高町ぃ。どうしたんだよぉ、そんなに席ベトベトにしちゃってさ~」「怖ぁい。高町さんって根暗な所あったけど~自分の写真引き裂く趣味とかあったんだ~。自傷癖ってやつ? きゃはは」何処の誰とも知らない男女の冷やかしの言葉、そしてまた誰かからの笑い声。綺麗な宝石も拾ったし、今日はちょっとはマシになるかもとかそんな淡い期待を抱いていた事自体が間違いだったんだ。おかしいとは思っていた……過激な事を平気でやらかすウチのクラスの人間にしては最近は妙に大人しいってずっと疑問に思っていた。しかし、私は直感した。私が最近保健室の先生とつるんでいるのは周知の事実、どうやら彼らからしてみれば私が先生に取り入って面前なら虐められないとたかを括っているように見えたのだろう。でも今日はその邪魔な先生もいない……こういう事は耳が早く、チクっただの告げ口しただの様々な尾鰭をつけて廻り廻って生徒中に駆け回る。なるほど、小学生御得意のずるい手口に狡猾な考え……そんなに私に泣いてほしいのだろうか。そんな所を見て優越感を感じた処でなにも得る物など無いというのに。「高町さぁ~ん、とっとと片付けてくんないかなぁ? 臭いんですけど~」「それってもしかして高町の臭いじゃね? おい、高町ぃ~風呂くらい毎日入れよ、汚ぇなぁ。あっ、汚ぇのは元々か」本当に下種な奴らだと思う。強い存在にはどんな事をしてでも取り入ろうとするくせに、自分より格下だと思った人間には容赦の無い罵声と暴力。まるで言葉という手段を覚えただけの猿、だけど私はそんな彼らに怯えている。だから今だって声を出さず、ジッと堪える事に精一杯。元々私だってそんなに心が強い人間ではない。こんなにも必要に何かされれば否が応でも悲しくなるし、泣きたくだってなる。だけど私は泣きもしないし、何の反応も返さない。この手の連中を極力楽しませない事、それが私に出来る唯一の抵抗だから。でも、今日はこれだけでは終わらなかったようだった。爪が掌に食い込むほど手を握り締めて堪えていた私を、次の瞬間とんでもない質量が襲ってきた。「ごめぇん、当たっちゃった~。そんな所に突っ立ってるなよ高町ぃ」「あ~!? お前高町触った手でこっち来るなよ! 高町菌がうつるだろ、この馬鹿!」白い水溜りの中に突き飛ばされる私、服やら何やらどろどろして気持ちが悪い。ふと顔を上げて自体を確認すると、どうやらクラスでも肥満体に入る太った男子が私にタックルをかまして来たようだった。そしておまけに私は菌類扱い、今日は何時も以上に仕打ちが酷かった。もっとも全盛期の酷い時に比べればこれでも大分マシになった方だった。酷い時なんか上級生を呼び出して殴るわ蹴るわ……挙句の果てには財布の中身を根こそぎ取られて、傷ついたまま夜まで放置させられた事だってある。あの頃は冬場だったから傷が何時も以上に疼いて痛かったのをよく憶えている。そういえばそのままプールの中に突き落とされた事もあったっけ、まあなんでもいいけどその頃よりはずっとマシ……そうでも思っていないとやっていられなかった。「あぁ、汚ぇ。っていうかさ、お前なんで学校来てるの?」来たくて来たいわけじゃないよ、反論したかった。でも、怖くて出来ない。倒れた状態から何とか起き上がろうとして床に手をつく。だけど、アイスクレープの中身の所為で上手く重心を捉える事が出来ずに私はその場にまた転んだ。痛い、汚い、惨めだ……そう思っているはずなのに怒りも悲しみも沸いてこない。そしてクラスの皆はそんな私の心情を他所に、ゲラゲラと笑っていた。「本当高町ってキモいよなぁ。なぁ、バニングスもそう思うだろ?」「あ……え、えぇ。そうね……」何とか片膝をついて立ち上がる事に成功した私は声だけを頼りに視線で見知った人間の方を見た。其処には名前も知らない男子に同意を求められるアリサちゃんと、そんなアリサちゃんの様子を苦々しげに見つめるすずかちゃんの姿があった。きっとすずかちゃんは何時ものように内心では止めてほしいと思っているのだろう、でも行動が気持ちに追いつかない。アリサちゃんはアリサちゃんで同意はしているけど変に負い目なんか感じてしまっているのだろう、その視線だけは本当はこんな事したくないって顔をしている。だけど私はそれでいいのだろうと思っている。すずかちゃんにしろアリサちゃんにしろ真正面から皆に切り込んでいって異議を申し立てるような勇気は無い。だってそうしたが最後、自分も彼らの標的に成り下がるだけだからだ。誰だって自分の身が一番可愛い、きっと親友や家族よりも己が一番大事なんだ。だから二人の取っている行動を私は責められない、何せ人間として何も間違った事をしていないんだから。悪いのは……零れ出てしまった私なんだから。「おい! 先生ぇ来たぞ。皆席着いとけ!」教室の外から息を切らした男子生徒が入ってきた。どうやら担任の教師が職員室から出てくるのをずっと監視していたらしい、変なところにばかり頭の回る人達だ。別に私だって今更先生に言ったりしないのに、言ったって無駄だから。普段熱血勤勉教師を気取っている大人なんて特にそうだ。昔私が泣いて頼んだ時も「証拠はあるの?」とか「高町さんの思い違いじゃない?」とか言ってその場を誤魔化してばっかり、挙句の果てには私が全部悪い事にして「学校のルールが守れないようなら学校に来ないで」とまで言う人もいた。そしてその先生は今も尚のうのうとこの学校で金持ちの生徒ばかり贔屓して、みすぼらしい身なりの子を蹴落とすのに躍起になっている事だろう。この学校に私の居場所なんかない……せめて先生が保健室に居てくれればとも思うけど、先生は今日は居ない。僅かな安らぎすら許されないこの学校は私にとっての牢獄だった。「は~い、皆~席について―――――あら、高町さんどうしたの?」私の事を見た途端、突然刺々しくなる口調。またこの子か、そうとでも言いたいような明らかに敵意のある声色だった。態々聞かなくても本当は全部知ってるくせに、私はそう言いたくて堪らない。だけど私はベトベトに汚れた自分の惨めさに耐えるのと、先ほどのタックルの時に打ち付けた肩の痛みを堪えるのでいっぱいいっぱいだった。もしかしたら打撲くらいにはなっているかもしれない、結構……いやかなり痛い。周りからはそれでも尚私を嘲笑うクスクスという声。毎日毎日最低最悪な日ばっかりだと思っていたけど今日ばかりは違うと思った。何も無かった日があんなにも安らかだったなんて、そう思わずにはいられず私はずっと押し黙ったままだった。「先生ぇ、高町さんが購買で買った私のクレープをふんずけて転んでああなったんです~」「そうそう~、弁償しろよなぁ。高町ぃ」そして湧き上がる笑い声、私には舌打ちすらも許されない。震えた身体が止まらない、昔の事がフラッシュバックするようにどんどん頭の中を駆け巡ってくる。それは嘗て自分が受けた仕打ちの数々、何時だって其処には悪意に満ちた笑い声があった。それは一種のデジャヴ、記憶の統一化。その笑い声を聞くだけで嘗ての記憶が津波のように押し寄せて指先の震えが止まらなくなり、呼吸が乱れてしまう。頭に段々と靄の掛かる感覚……いけない、このままではまた倒れてしまう。私はなるべく表面上の冷静を装うと、心の中で早くしてよと何度も何度も呟きながら先生の反応を待った。「はぁ~、そうなの高町さん?」「……そ……す……」「どうなのッ!?」「そうです、私が転んでしまっただけです」先生はか細い私の返答に苛立ちを隠せなかったらしく、二度目には殆ど怒鳴り気味の口調だった。そんなに私が嫌いなのだろうか……いや、嫌いなんだろう。先生からすれば周りの皆は何の問題も起さない良い子ちゃんで、唯一私だけがその輪を引っ掻き回す問題児。そういう認識なんだろうから、もう私にはどうしようもない。私は顎でドアの方を癪って暗に着替えて来いという事を示している先生のジェスチャーに従って、肩を押さえながら教室を後にする。その時感じた視線、視線、視線。動悸が余計に激しくなるのを私は感じた。きっと授業が始まってもあの机には誰にも触れられる事はなく、私が片付けるまでそのままになっている事だろう。何せ触れば彼らの言う『高町菌』がうつるらしいから、結局私が片付けるしかないんだ。「はづッ……はぁ、はぁ……」いざ廊下に出たものの、呼吸が上手く出来ない。まともに息をしようにも途中途中何度もつっかえ、胸が苦しくなる。結局私は“先生”のいない無人の保健室に向かうまでの間、甘ったるい臭いと身体に張り付くべたべたした感覚……そして胸が張り裂けそうになるような苦しみに耐えながら壁伝いに一歩一歩進んでいくしかなかった。幸いだったのは今が何処のクラスもホームルーム中で外に誰も居なかった事、そしてこんな私を見てもあの下卑た笑い声がもうこれ以上聞こえてこない事だ。これ以上追い討ちをかけられたら意識を保てなくなる、現状でもかなり厳しいけど今度こそ全部崩落するという感覚が私の中に確かにあった。「にゃはは……厳しいなぁ、どうにも」なけなしの根性を出して乾いた笑いを漏らしてみる。階段を半分くらいまで降りた頃には何とか減らず口が叩けるくらいまでは呼吸も安定した。こんな事に慣れたくは無いのだが、こんな症状に見舞われたのは一度や二度ではない。今まで何かの拍子に突発的にフラッシュバックが起きて、指先が震えて呼吸が荒くなる事は度々在ったのだ。前に先生に診断して貰った時は神経的なストレスからくる過呼吸と言われたが、言い換えてしまえば何かの拍子に突発的に起こる一種の発作のような物らしかった。普通小学校三年生がなるような物ではないとも言われたが、なってしまったものは仕方が無いのだからどうしようもない。そもそも解決の仕様が無いのだ、こんな問題は。被害者は私なのに先生は大人数の方の意見を信じて私を目の敵にする、おまけに廻り廻ってそれは親に行って私はまた其処でも居場所を失くす。所詮奪われるだけの人生なのだ、私の一生なんて……第一あの先生も何を見ていたのだろうか。私の机の上に切り刻まれた写真があったじゃないか、普通どんな根暗な人間だって好き好んで自分の写真をカッターで切りつけるような人間はいないって大人なら少し考えれば分るだろうに。「あ~ぁ、最近大人しいと思った矢先がこれか。本当……大概馬鹿だよね、私も」そんなに嫌ならやり返してやればいいだろ、時々そんな無責任な事を言う大人がいるけど私にはとてもそんな事はできない。だってそんな事を一度でもしたら、倍々式に私に掛かる圧力が増すだけじゃないか。それに私はこの学校でなくとも家からも社会からも孤立した存在だ、味方なんていない。だからやり返そうにも出来ない、そもそもそんな事を思いつく事も出来ない。だって……私は心底皆の事を蔑みながら……人一倍恐れているから。「もう……いやぁ……」泣かない、絶対に学校じゃ泣かない。そう決めていたはずなのに、気が付いたら私は泣いていた。まるで捨てられた子犬みたいに、泣き声を押し殺して誰にも聞かれないように……私は泣いた。結局、べたべたした身体を拭いたり着替えを探したりしている内に時間が過ぎてしまい、保健室に備蓄してある予備の制服に着替えて教室に戻る頃にはもう二限の終わり頃になってしまっていた。何時もだったら何気なく先生が何があったのか聞いてくれたり、そういう時だけは何の見返りもなしにコーヒーを入れてくれたりしてくれるのだが今日に限ってはそれもない。誰も寄り付かない保健室の中を一人でちょこまか動き回って、青痣の出来た肩に湿布を貼ったり着替えを探したりするしかなかったのだ。御蔭で教室に戻ってきた時に国語の先生に思いっきり睨まれた、別に私が悪いんじゃないよと言いたかったが言ったって無駄だって事は私が良く知っているからあえて何も言わずに謝罪だけを口にして自分の机と椅子を雑巾でふき取って途中から授業に参加した。ポケットの中身の物は幸いどれも汚れたり壊れたりしている物はなく、凡そ全部の物が無事だった。もしかしたら死んじゃった子が持っていたかもしれない宝石が祟っているのかもとか思ってあの宝石だけは最後まで持っていくかどうか渋ったけど、やっぱり持っていく事にした。何というか……女々しい話だが私だって一応女の子、宝石に願いをなんて迷信は柄じゃないけど縋れるものになら何でも縋っていたかった。つまり、それ程私は参っていたということだ。「で~あるからして、こういった人で無い物が人のように動く様を表す表現は擬人法と言って―――――」授業の内容も碌に耳に入ってこない。その原因は私の机の上にあった一枚の紙切れだ。保健室から教室に帰ってくるとき、机の中に忍ばされていた一枚のメモ用紙。内容はなんて事は無い、『チクッたら殺す』唯それだけがその紙には書かれていた。字からして恐らくは女子、しかもご丁重な事に机の中には先ほど片付けた切裂かれた写真と同じ写真の私の顔だけが刳り出されたもう一枚の写真が同封されていた。どうやらこれを送ってきた送り主は相当私の事が嫌いらしい。もっとも私からしてみればウチのクラスで碌に名前を覚えている人間なんてすずかちゃんとアリサちゃん位のものなんだけど。一体全体私が何をしたのか、私にはもう想像する余地すらも無かった。「つまりこの詩の中にはそのような表現が多用されている訳です。……っと、そろそろ終礼だな。少し早いが授業は此処までだ、日直!」偉そうに指図する老齢の教師が声を荒げて授業の終わりを日直に告げる。そして皆はその合図を待ってましたかと言わんばかりに立ち上がってテンプレート通りの挨拶をして授業を終える。仕方が無いから私もそれに合わせる、此処で変に目立ってありもしない噂に拍車をかけるのは嫌だったからだ。何せその教師は三年生の学年主任で、教員歴もそろそろ20年目に突入しようとしている名実共にウチの学年の長なのだ。しかしこの先生、少々考え方に難があって時代錯誤の教育理論を未だに現場に持ち込もうとする偏屈な人なのだ。彼曰く『全てにおいて統一された問題のない学校』というのが理想の教育現場であるらしく、それを実現する為には不要な者を少々強引にでも他の生徒から引き剥がしてしまおうというのが彼のもっぱらの主張だった。昔のドラマで「腐った蜜柑」というフレーズがあるけど、恐らく彼から見たら私のような生徒こそ他の生徒を堕落させる腐った蜜柑なのだろう。「あぁ、そうだ……高町! お前後で職員室に来るように、いいな!」まただ、煩い声と共にまた私の名前が教室の中に飛び交う。あの教師からの呼び出しの内容なんて何時も一緒だから呼ばれる理由も何となく見当がつく。「俺の授業に何遅刻してるんだよ!」という説教を薄すぎるオブラートに包んだ、ネチネチとした小言を言う為だ。あの先生は私が知っている中でも妙にプライドの高い大人の筆頭であったりする、特に自分の顔に少しでも泥を塗られるのが我慢なら無いって言う感じの手合だ。そして私はそんな人間に目を付けられている、この学校の汚点として。汚い物は排除しようって言うのは合理的な大人のやり方なんだと思うけど、彼の場合は単純に私の事を毛嫌いした結果そうした結論にたどり着いただけの感情論だと言うことを私は知っている。以前“先生”から聞かせてもらったことがある、あの先生の最近の口癖は「まったくあの高町という生徒は~」から始まるのだと。影でこそこそ隠れて物を言うのは大人も子供も変わらない、まったく嫌な世の中だと私は思った。「返事は!?」「……わかりました」先生はブツブツものを言いながら教室を出て行った。そしてその後再び沸き起こる下卑た笑い。男子、女子問わずに大小様々な蔑みの笑いが色んな罵倒の言葉と一緒に教室の中に木霊した。私はそんな声に耐えることが出来ず、フラフラと教室を後にしようと後ろのドアから逃げるようにこの場から去ろうと行動を起した。頭が痛い、また動悸が激しくなってきた、呼吸が上手くいかない。元々ただでさえ不健康なのだ、こうも症状が一気に上乗せされると私なんか何時倒れたっておかしくない。だけど、倒れる訳には行かないのだ……倒れた後何をされるか分らない事を考えると、私は意地でも正気を保っていなくてはならない。何処に行くわけでもない、少しトイレにでも篭って体調を落ち着けよう。そんな淡い希望を抱いた私はドアに手を掛けようとして―――――すばやくその場に倒れ付した。「きゃはは、危ないわよぉ高町さん。そんなにフラフラ歩いていたら転んじゃうじゃない」倒れる際に腕で受身を取った私はその瞬間声にならないほどの激痛が肩口に走るのを感じた。さっき湿布を貼ったばかりの青痣の部分から諸に倒れてしまったからだ。ふと顔を上げてみると其処には髪をクルクルと巻いた女の子の姿があった、しかし名前は知らない。その子は何だか凄く楽しそうな顔で私の事を見下していた、そしてそんな私と女の子のやり取りを見ていたクラスメイトの人達は口笛を吹いたり囃し立てたりして冷やかす事を止めない。だけど、怒る元気も気力も今の私には無い……今は何とか全身の力を振り絞って立ち上がる事に精一杯だった。そして私は何とか壁に寄り添うようにしてその場に立ち上がると一度だけその女の子を一瞥してから今度こそ教室を出て行った。後方からは「なに眼付けてんだよ、高町のくせに!」という怒鳴り声が聞こえていた。しかし一々反応を返していると相手は図に乗って面白がるだけ、此処は引くのが一番良い選択だった。「痛ッ……湿布、貼りなおさなきゃ駄目かも」何とか壁伝いで移動し、今度は階段を上がっていく。次の授業の事なんか今はもうどうなったっていい、今は少しでも彼らから距離を置きたい。そんな切実な願いと、安息を求める欲望だけが私の傷ついた身体を前へ前へと推し進めていた。先生がいない学校がこんなにもキツかったなんて思っても見なかった。やっぱり大人と言う存在はそれだけ抑止力になっていたということなのだろう、彼らの勢いはもう決壊したダムのそれだった。仕切りが壊れて凄い勢いで流れっぱなしになる濁流、そしてそんな勢いにただ飲まれて溺れるだけの私。久々に私は自身の生命の危機をこの空間から感じていた。「ほんッ、とう……いづッ……最低。皆……最悪……」此処で「死ねばいい」とか「殺してやりたい」とかそんな言葉が出てこないのは弱虫の人間が幾ら強がった所で本質的には何も変わらないって事の所以だろう。どれだけ傷付けられても、どれだけ踏み躙られても私は悪態こそつけども同じ目に合わせてやろうとはどうしても思えないのだ。出来る事なら許してほしい、そうでなければいっそ私の事なんて忘れてほしい。私が常々彼らに求めている事なんて実際の所は酷く消極的な事でしかないのだ。昔ならこう思った事だろう、「どうして私なの?」と。言っては悪いけど悪い所なんて粗を探せば人間誰だって持っているものな筈だし、疎まれるような行為に身を染めたような人間だって居ないとも限らない。そんな中でなんで私だけが……きっとそう考えた事だろう。だけど、結局の所真相はそんなに難しいものではない事を私はこの生活を始めて知った。イジメに明確な理由なんか必要ない、環境と条件と人さえいればそれは誰にだって起こりえる事で……この学校では偶々私にその白羽の矢が立ってしまったというだけの話し。「そうだよ……結局全部、誰が悪いって訳でもないんだもん」後はそのスイッチさえ入ってしまえば其処でその人間の居場所は失われる、そんな至って単純な答えを口にした私は目的地で在る場所のドアをゆっくりと開けてその中をフラフラと進んでいく。青い空、靡く風、そして一面フェンスで囲まれた奥に見える輝く海と街。私がたどり着いた場所、そこは薄暗いトイレでも無ければ煙草臭い職員室でもなく……学校にある階段の終点である屋上だった。本当はトイレで時間を潰すだけの予定だったが、何と言うかもう授業に出るのも億劫になってきた。と言うよりも寧ろ教室に戻るのが怖い、今日は先生は居ないけど授業サボってしまおう……そんな風に考えた末の結果だった。私はフラフラとフェンスの近くに設置してあるベンチに腰を降ろすと、ダラリと手の力を抜いて自分の身体の全てを背凭れに預けた。硬い木の感触、それでも僅かな時間の間でも一人静かになれるという感覚が其処には確かにあった。「はぁ……ようやく、落ち着けるや」全身の力を抜いて虚ろな目だけを空へと移した私は何となくそう呟いた。この学校に私の居場所はない、その筈なのに今は何となく楽な気分だったからだ。そして私がそう思った途端、授業の始まりを伝える鐘が屋上に設置してあるスピーカーから流れ出す。直にその近くにいた私にとっては煩い事この上ないのだが、どうせ授業の合間の休みなんて高々10分かそこ等しかないのだからある意味仕方が無いのかもしれないと諦めた。寧ろこれで当分の間はこの場所に近寄ってくる人間も居ない。束縛された牢獄の中で、私は束の間の自由を手に入れたのだ。「なんかもうさぁ……疲れたなぁ」最近口癖になりつつあるフレーズを私は口から漏らした。視線はやっぱり空から離しはしなかったけど、私の感覚は殆ど視覚には回っていなかった。ただ全身のダルさがあまりにも厳しすぎて、少々参ってしまっているのだ。しかし疲れたからといって眠気は一向に訪れない。肩の痛みが邪魔をして、結局寝るに寝れないのだ。もっとも、そうでなくても私は此処最近はあまりぐっすりと眠れてはいないのだが。以前これはもう相当ヤバいって状況になった際に一度だけ昔よりももっと早くベットの中へと潜り込んだ日があった。身体も精神もぼろぼろでもう指先一本動かすのさえ億劫、確かそんな日の夜だ。瞼を閉じて私は眠ろうとした……しかし直ぐに目が醒めてしまう。寝ないと拙いと頭では理解しているのに、瞼を閉じるたびに魘されて寝ようと思っても寝苦しい感覚がどうしても身体から出て行ってくれない。少々度の強いストレス性の不眠症、私の目の隈の原因は凡そ其処から来ているものなのだ。「家に帰ってお薬飲めば少しはマシになるんだろうけど……前みたいな事があったら嫌だしなぁ」これもまたそんな症状が長らく続いた日の事なのだが、いい加減そんな感覚に耐えかねてしまった私は一日の食事代を全て犠牲にして薬局で市販の睡眠促進薬を買って飲んでいた。とは言っても処方箋とか書いてもらって出されるようなきっちりとしたものではなく、アロマだとかハーブだとかそうした精神を落ち着かせるような類の物を調合して作られた一種の気休めのようなカプセルだ。しかし、これがまた値段が張っただけあって豪く効果があった。買ってきた当日、私は三食何も食べていないという空腹の状態にも関わらず久しぶりにゆっくりと眠る事が出来た。だけど所詮そんな物が利くのは初めの内だけ、段々と日数が経過するにつれて呑む量も段々と増えていくのが道理だ。そうした中で偶々部屋に無断で入ってきたお兄ちゃんに呑んでいる所を目撃され、自殺未遂なんじゃないかとあれやこれや騒がれたりしたのだ。当然これにはお父さんもお母さんも、そしてお姉ちゃんも泣いて私に死なないでと懇願してきた。当然そのお薬は没収、私は元の眠れない生活に逆戻り。そして今ではもう……眠ると言う事にすら私は安らぎをあまり感じなくなってしまっていた。「みんな……昼休み戻ったらまた何かしてくるのかなぁ。もう私駄目かもしれないな私、ちょっと……キツいもん」いっそ自殺でもしてしまえればこんな生活ともおさらば出来るだろうか、私は少しだけ真面目に考えてみる。私は死ぬ事が開放とも安らぎとも思っていないし、それが復讐に繋がるとも思っていない。人の死なんてものは大袈裟なようで結構周りからしてみればどうでもいいもので、余程その人間に近い人間か其処まで追い詰めた加害者でもない限りは心に残るなんて事にはならない事を知っているからだ。だけどそれじゃあ自殺と言う行為が全て駄目なのかと言えば、そうでもないと私は思っている。人はどうしようもなく辛い時、無性にその事から逃げたくなる。莫大な借金、学校内でのイジメ、地域住民からの圧力や恋人の裏切り……いっそこの後生きていたって辛いだけだと思った時やっぱり人間は首を括る、私はそう思っている。だからその理論に照らし合わせるならば、私も此処から逃げ出してしまいたいとは思っている。けれど、死にたいとはどうしても思う事が出来ずなし崩し的に今を生きる事に妥協してしまう。なんというか……私ってやっぱり相当な臆病者、もしくは卑怯な人間なのかもしれないと何となく思った。「今日は朝から少しだけ良い事があったから少しは期待してたんだけどなぁ。やっぱり……そうそう都合良くはいかないよねぇ、現実」今日は朝から嬉しい事があった、だから今日という一日はハッピーな物になる。子供とかそういったこと以前に気持ちの悪い考えだと私は思った。そんな考え方で生きられたなら人間みんな幸福、お手繋いで和気藹々。人類皆兄弟、仲良くしようぜマイフレンド……そんな風に生きられればどれだけ幸せな物だろうか。きっと世界中で起きてる戦争や組織間での恨み辛みは全部消えて、世の中問題と言うような問題は何も起きなくなるだろう。だけど、そんな事は現実にはありえはしない。優しく触れあい互いに愛するのが人間ならば、憎しみ合って互いを傷付けるのもまた人間なのだから。そう、今日に関してもそれと同じ。非現実的な願望が、少しだけキツ目の現実として戻ってきた。そんな事に一々悲壮感を感じているなんて、やっぱり私は未だに縋れる何かに甘えたいと言う感情を捨て切れていないと言う事なのだろう。「それでもさ、ちょっと位期待しちゃってもいいじゃん……生きてるんだもん、私だって」徐にポケットの中からあの不思議な菱形の宝石を手にした私はそれを二本指で上下に支えるようにして空と比較するように視線の先にと突き出してみる。其処に映るのは何の前兆も無く頬に流れる涙を拭いもしないで目元を真っ赤に泣き腫らした少女の顔と、透き通るように奥に光る空の色。凡そ比べてみればそれ程色合いに大差の無いその宝石と空との交わりは、何だか酷く幻想的で綺麗なように私には思えた。まるで日に照らしたプリズムのように虹色に輝き、それで尚鏡のような光沢を持った宝石は何だか私の心を慰めてくれているようだった。「……そっか。まだ、生きていていいんだよね。私でも」ポチャンッ、と地面に滴が落ちるのを私は感じた。しかしその水の正体を私は知らない。もしかしたら一粒だけ降った雨なのかもしれないし、それとももっと別の不思議な現象だったのかもしれない。そういう風にしておいた方が、まだ夢があって素敵だと思うから。黴菌扱いでも良い。嫌われても良い。嬲られても構わない。私が今此処で私として生きる意味を……高町なのはとして生きている意味を私はまだ求めていたいから。こんな屑な私でも精一杯生きているんだって証拠を何時の日かこの掌に掴めるのだと信じたいから。私は、あえてその滴の生温さの意味を深く考えはしない。少なくとも今は、たった一人孤独になっても生きていたい……そう思う事が出来たから。私は少しだけ、この宝石に感謝する事にした。「よっし、ちょっとだけだけど……元気でた。ありがとね、宝石さん」どういたしまして、一瞬だけ宝石がそう返答でもしたかのように煌いた……気がした。そんなメルヘンな事はありえない、夢なんて抱くだけ無駄な物。そうは思っていても、この宝石に御蔭で元気が出たっていう現実に私は嘘を付きたくは無かった。私はポケットに宝石を入れて、もう少しだけ休んだら今日一日という日を乗り切ろうと思い直し―――――そこで全ての感慨を消し去った。屋上の入り口、頑丈な鋼鉄製のドアがはめ込まれたこの空間と学校を繋ぐ場所に人影が見えたからだ。授業はもう始まっている、なのにこの場に人がいる。それは異常な事、そして下手をしたら……さっき培った感情の全てが奪い去られるかもしれないと言う事に直結すらしてしまう。私は一瞬だけ身構え、内心ビクビクと怯えながら誰が入ってくるのか様子を見守る事にした。「……やっぱり、此処にいたんだ」「ッ!?」一瞬だけ喉に空気が詰まって声にならないような素っ頓狂な素振りをしてしまう私。自意識過剰な上にビビり過ぎ、傍から見れば殆どもう挙動不審な危ない人にしか私は見えていなかったに違いない。だけどその声は少しだけ何処か懐かしく、そして恨めしい者の声であると言う事に私は即座に気が付く事になった。身構えるのを止めて目元を吊り上げて入ってくる人間を睨みつける私。そしてその場所から私の前に現れた人物は、風に靡く金髪の髪を手で押さえながら、少しだけばつの悪そうな顔を浮かべてこの場に足を下ろした。「ちょっと探しちゃったわよ。何せ此処最近休み時間中のアンタの行動なんて、アタシ全然知らなかったし」「……何をしに此処に来たの?」「別に、アンタと一緒でアタシもサボり。ただそんだけよ」其処に現れたのはアリサちゃんだった。私の元友達にして、一番最初に私の事を見捨てた”親友”と呼ぶはずだった女の子。相変わらず私に目を合わせられないようで、視線は下向きだったが口調ははっきりとしている物だった。さっき同意を求められた際に彼女らしくも無い動揺をしながら答えた時よりも、だ。しかし私が解せないのは何で彼女が私なんかを探す為に態々授業をサボったのか、何よりも先に其処に焦点がいく。ただでさえ普段から自分がとばっちりを受けないようにと極力何の関わりも持たないようにしている彼女にしてはどうにも不可解な行動だ。彼女の考えている事が今一つ不透明、何だか私に彼女の背後が少しだけきな臭いような感じがした。「……クラスの人の差し金? 様子見て来いって言われたの?」「違う、あんな奴らは関係ない!」「言うじゃん、私と親しくしていたのがバレて虐められるのが怖いくせに」「―――――ッ!?」アリサちゃんは私の一言に押し黙ると何かもどかしそうに掌をギュッと握って俯き加減を深くした。恐らくは図星を突かれて何も言い出せないのだろう。言葉に詰まったのが何よりの証拠だと私は思った。アリサちゃんは頭がいい、そして悪知恵が良く働く賢い子だ。私がイジメられているという事をいち早く察知していたアリサちゃんは事がでかくなる前から極力私との関係を取らない様にしていたし、すずかちゃんにしてもなるべく距離を置くようにと前もって注意を促していた。もしも今のクラスの人間に仲が良いなんて事がバレたら自分たちにも被害が及ぶって事を恐れたんだろう、幾ら気丈なアリサちゃんでも孤立するのは怖かったんだろう。それを悪いなんて思わない、むしろ迷惑掛けて御免なさいなんていう余計な気遣いが生まれない分だけこっちの方がずっと楽だった。その点では彼女に感謝している。感謝しているが、そんなアリサちゃんに今更何を言われた所で私は何の感情も抱かなかった。「図星でしょ? いいんだよ、別に気にしなくてもさ。誰だって自分の立場が一番大切だもんねぇ。そりゃあ勿論……誰かを見捨ててでも、ね」「……変わったわね、アンタ」「変わったよ、御蔭さまで」アリサちゃんは近くにあったフェンスに背を預けて私との会話を続けた。どうやら今日は誰にも見られないという安心感もあってか彼女は良く喋った。何時もなら二、三言で会話を終えてしまうような関係だったからそれが少し新鮮な気がした。それにアリサちゃんの場合はすずかちゃんにあるようなねちっこい感覚が無い。思った事をストレートに言ってくれるし、気味の悪いオブラートに包んで遠まわしに言ってくるような事も無い。だから会話をするにしても、楽と言えば楽だった。「それで? いい加減何の用なのか教えてくれないかな? 私は一人になりたいんだ……出て行かないなら私が消えるけど」「……もう少しだけ話に付き合いなさい。どうせ暇でしょうに。軽蔑して貰っても構わないし、罵って貰ってもいい。だから後もうちょっとだけ、アタシの質問に答えて」「勝手だね、でもまぁいいよ。今はほんの少しだけ気分がいいんだ。気が変わらないうちに早くしてよ……先に断っとくけど、私貴女の事大っ嫌いだから」またも声を詰まらせるアリサちゃん。そんなに自分が嫌われている事がショックなのだろうか、まぁ無理も無いのだろうけど。凡そ頭良く生きて、お金で買えるものは何でもかって、順風満帆な人生を送っているような人間は何時だって満ち足りてないと気がすまない物なのだ。アリサちゃんは殆どその典型、最近は大分丸くなったみたいだけど根本的な部分はきっと直っていないに違いない。さっき自分で罵っても良いし、軽蔑しても良いと言ったのに。言葉には責任が伴うとはよく言うけど、それを守れて居ない典型的な人がアリサちゃんのような人なのだと私は思った。「じゃあ最初に聞かせて、なのは。なのははさぁ……アタシ達のこと、恨んでる?」「な~んだ、まだそんな事気にしてたの? 案外心配性なんだね、アリサちゃん」「いいから答えなさいよ、イエスかノーか」「……答えはイエス。恨んでるって言ってもそんなに私は気にしてないんだけどね、出来る事なら変わってほしいよ。何処かの誰かさんに」ベンチを立ち上がり、私はポケットに手を入れてその場を後にしようと入り口の方まで歩いていく。またこの手合か、言葉こそはおどけていた物の内心はうんざりしていたのだ私は。こんな質問、今更聞いたところで何が変わるというわけでもない。私の変わりにアリサちゃんがイジメを肩代わりしてくれるっていうのなら話は別だけど、未だに友情ごっこの尾を引いているのだとしたらいい加減私も縁を切りたい。蔑まれても罵られても構わないっていうけど、別にそんな事一々許可なんて貰う必要なんてそもそもあるのだろうか。そういう致命的なことにアリサちゃんは気が付いていないのだ。私は確かに二人を恨んでいる。そして恨んでいるのは……二人が思っているよりも多分ずっと前からなのだから。「質問は終わり? なら、私は出て行くよ。サボるなら一人でサボってね、じゃあ」「ッ!? 待って!」「……何? まだなんか用なの? いい加減私も考え変わるよ、真面目に」「後、一つ。後一つだけ教えて!」アリサちゃんは必死だった。私からしてみれば何をこんなに焦っているんだろうっていうような感じだったけど、取り敢えずその必死さに免じて後一つだけお話を聞いてあげることにした。くだらない質問でも、さっきの問いを重複する質問でも何でもいい。確かに話を聞こうとは思ったけど、まともに答えようとは思っていないからだ。それにアリサちゃんは私の憩いの場所と時間に水を指した。それだけでも、私が彼女に冷たくする理由には十分だろう。「アンタは……アンタは何でまだ、こんな風にされても耐えてられんのよ!?」「……なんだ、そんなこと? それはね―――――」瞬間、大きな風が吹き抜ける。答えが私の口から漏れたのと殆ど同時に、唸る様な風だった。当然私の言った答えがアリサちゃんに届いたのかどうかは定かではない。だけど彼女は、私が立ち去った後涙を流した……様な気がした。私自身も真面目に答えたつもりはなかったけど、どうやら私の答えでアリサちゃんは満足したらしい。結局私はこうしてまた居場所を失くす。屋上という居場所を失くした私はまた時間が潰せる場所を求めて学校中を彷徨うのだった。