完全なる干渉の遮断。それは私の渇望の具現体であり、また己が忌避して止まない事柄の裏返しだ。どうせ何かに触れて傷付くのなら、いっそ総てを遠ざけて壊してしまえばいい。他者が私に無理やり干渉しようとするなら、その事実諸共何もかも吹き飛ばしてしまえ。この世界の誰も……ただ一人として私に温もりを与えてくれないというのなら……私に優しくしてくれないのなら、皆総じて私に触れてくれるな。それが私の願いであり、また求道。深層心理のレベルで他者に触れる事を病的に恐れた私が生み出した“高町なのは”の為だけの究極的な法則の創造だ。この心をそのまま具現させたような障壁の形成はこの世界のありとあらゆるものを持ってしてもこの身を犯すことは許さず、また何もかも無力化してしまう。それが私こと高町なのはの渇望の真髄にして、能力。この世界における何もかもを──────この身に接触する物皆総じて嫌ったが故の果てに生まれた歪なルールの強制だ。想いを抱いて願いを掛ければ如何なる願いも叶えてくれる宝石、ジュエルシード。今の私が得ているこの力の源は総てにおいて此処に繋がっていると言っていい。いや─────寧ろ、この場合はそのジュエルシードの主人格たる“アリシア・テスタロッサ”に繋がっていると言い換えた方が適当だろうか。まぁ、何だって構いはしないけど、要するに根本に至る部分は結局一緒。私は誰かに与えられた力を振るい、また己が本当に望んでいるのかどうなのかも分からない理論破綻した渇望を抱いて今に至っている。その事実だけはどうあっても変えようの無い。覆しようの無い現実が其処には確かに存在し得てしまっているのだ。私という人間の存在が自身の渇望に飲まれ掛かっているというどうしようもない現実が……。そもそも、何故私はこんなにも必死になって戦っているのだろうか。先生やフェイトちゃんみたいな人を護りたいから?私自身に危害が及ぶのが恐ろしいから?アリシアとの約束を何がなんでも果たしてあげたいから?あぁ……確かにどれも皆聞えは良いし、理屈からして嘘ではない。本音を言えばそのどれもが偽りの無い真実であることには違い無いし、実際“高町なのは”はその総てを満たしたいが故に己の身を傷つけてまで闘っているのだ。だが、それは結局の所、私という人間の自己矛盾を覆い隠す為の詭弁でしかない。何故ならば、本来の私という人間は本質的に酷く臆病で矮小的な存在なのだから。誰にも触れられたくないと希うのに、誰かに優しく触れて欲しいと妄執を抱くちっぽけな一小娘に過ぎないのだから……。私は本当は─────本当の“高町なのは”は己が闘っているという理由を求めて暴れ回っているだけの、ただの弱虫でしかないのだ。だからこそ、私は今までの戦いの中で何一つ己の意志を示しては来なかった。何をするにも他人の為に、誰かの為にと他者の存在を持ち上げて自分と言う存在を軽視し、その反面いざ戦いに陥れば何がなんでも今この時を生き抜いてみたいと吼え回る。そして、その挙句が自ら死地に飛び込んで死に掛けるという現状に繋がっているのだから笑おうにも笑えない。正直な所、己の事なのに自分ですら失笑ものだと思えてしまうくらいだ。言うなれば、今の私は通風の罹患者。そよ風が吹いただけで身を裂くような激痛を伴ってしまうという現実から逃避する為に、自己の存在を矛盾だらけに穢し固め、己という存在の定義を曖昧にする事で一時的に自分の自壊衝動を己が生きるのに必要な物だと偽り続ける白痴を抱えた病人の“それ”だ。そしてまた、内に秘めた渇望という名の爆弾もそれに同じ。自己矛盾を徹底的なまでに曖昧にしてしまっているからこそ私の渇望というものは成り立っている訳なのだが、逆転して考えればそれは何れ誰かにその自己矛盾を突かれてしまえば、私の中で“高町なのは”というアイデンティティが崩壊してしまうという事を意味している。そして言うなればそれは、何時爆発するかも分からない時限爆弾を抱えているも同じだ。自己矛盾を追及した果てに一体どんな崩落が待っているのかは窺い知れた事ではないが、何にせよ碌でもないことになるのは目に見えている。肉体の死滅か……それとも精神の崩壊か、或いは……渇望その暴走か。大方の検討としてはこの辺りが妥当な所だろうが、そうなってしまったが最後……多分私は元の渡しに戻る事は出来なくなってしまう事だろう。正に目に見えぬ爆弾。或いはこの身に巣食った自滅因子とでも言えば適当だろうか。まぁ、何れにしても私が患っているのはその究極系である以上、それは自身の崩壊にも繋がりかねない事柄であることには違いない。しかも、それは何時如何なる時にどのような切っ掛けで起こり得るやも知れないのだから、尚更厄介な品物なのだ。だからこそ、私は己が抱えた自己矛盾の定義を曖昧にぼやかす事で己の心の不安定さを糺して安定させ、今の今まで生き抜いてきた。どんな時でも……それこそ闘っている最中でさえ、だ。けれど、裏を返せばそれはまた別の意味での“病気”でしかなく、今尚そのように生きなければ私は自身の言う正常を保てないのだから、ある意味これは着実に自身の肉体が病巣に侵されていると捉えられることには違いない。然るに私はどう転んでも自己矛盾という名の不治の病からは逃げる事は叶わないのだ。決して知覚することの叶わない意識の奥底で己の存在を消したいと猛りながらも、表面上は今の自分のまま状況を補完したいと切に願うというこの不治の病からは……。もはや私には自分の何処から何処までが己の意思で、何処から何処までが自己矛盾から来る自滅因子であるのかも窺い知る事は出来ない。だが、なんにせよ、それ等総ての意思を内包した存在こそがこの“私”である事もまた然るべき事実。もしもこの身に抱いた想いの中に真なる願いが在るというのなら、私は一人の人間として自身の自己矛盾という絡まった糸を一つ一つ解いていく他ないだろう。そして、その果てに……その総ての矛盾が消え去った果てに私が望んだ願いがあってくれるというのなら、少なくとも現状私はそんな“病巣”を抱えたままでもいいと思う。その“病巣”からくる衝動が答えを解く鍵になってくれると言うのなら、今は其処から生まれる苦しみも望むところだ。誰にも接触されたくないのに、誰かに接して欲しいと願う矛盾。今はその破綻した渇望を糧にして、戦いを呼ぶ騒乱へと躍り出ていくことしか私には出来ないのだから。故、今この瞬間、私は瞼を開ける。現実を悲観し、己を蔑む時間は過ぎ去ったが故に、今は私を呼ぶ声に耳を傾けなければいけないから。私の意識の再生を泣いて請う“彼女”を慰めなければいけないから……。誰かのため……そう言い訳を偽りだと断じるのは、少なくとも今この段階で判断を下すべき事ではない。誰かと繋がっているという今この瞬間、私という存在を欲している物がいるのならば……私は独りで死することは叶わないのだろうから。何れ来る終焉を果たして私自身が選択出来るかどうか、ということは定かではない。何せこの身はもはや人の領域より外れた歪な化け物そのものだ。幾ら人の為りを装っていようとも、自分以外の物を拒絶する等と言う馬鹿げた法則を強制してしまうと言う異形の力はとても平凡たる人間のそれからは余りある物である。人の皮を被った獣、それが今の私─────“高町なのは”。そんな私が真っ当に生きられようはずもなければ、真っ当に死に行けるはずもない。この身は既に呪われた……そう、逃れられぬ異形を孕んだ愚物でしかないが故に、私は自らに課せられた枷から逃れる事は出来ないのだ。けれど、私はそんな自分を認めたくは無い。人の一生の選択は常に己が握って然るべき物のはずだ。他者から強制されるものでもなければ、私を取り巻く“世界”に抑制させるものでもない。私は私であるが故に……“高町なのは”は“高町なのは”であるが故に屑星たる己を地星として輝かせ、此処に確固たる“個”を築きたいと願う。自分から逃げない為に……現実から逃げ出さないように……。そして何物を前にしても立ち止まらないよう真実から目を背けない為に、私は確固たる私で居続けるのだ。その想いだけは、決して忘れない……絶対に。そうして、今宵私は─────“高町なのは”はそんな感慨を胸に抱いたまま、これで二度目となる死地から帰還し、意識を取り戻す。暴れ回る獣としてではなく、ただ一人の臆病で矮小的な小娘として。狂い泣く化け物としての“高町なのは”ではなく、ただの人間としての高町なのはとして……。私は今此処に、己が意識を取り戻すのであった。「……うぅ、くっ……。私っ、生き……てるの……?」混濁する思考の中、目を覚ました私が一番最初に呟いたのは自らの安否を確かめるそんな言葉だった。あの草臥れた海岸を血染めの戦場に変え、生死を別けるような闘争劇を繰り広げてから一体どれだけの時間が経ったことだろう。私は自らの肉体がまだ死滅していない事と、ここでこうして何事も無かったかのように五体満足を保っている事を意識を全身に巡らせて確かめながらも、頭の中では何故自分がこの状態に至っているのか、という事を淡々と思考していく。私の記憶に残っている最後の光景は突き刺さったサンダーブレイドを発破した事で爆散する鳥獣の肉体と、意識を薄れさせていく私を涙声で叱咤するアリシアの声。あれから長らく私は意識を失っていたようだが、此処でこうして私が自我を保っている以上、どうやら復活した鳥獣が私に止めを刺しに来ると言うような自体だけは避けることが出来たらしい。それは分かる。今更確認せずとも、凡その見当くらいは私にだって付けられるから。だが、問題なのはそうした事柄の後にあったこと。即ち今に至るまでの経緯と結果、そして現状だ。もはや今の私には身体を起して辺りを確認するだけの気力も体力も殆ど残されてはいないが、少なくとも今この瞬間、自分が横たわっている場所があの砂浜で無い事くらいは分かっている。少々寝心地は悪いとは思うが、現状私の身体は人工的な軟らかさを持った感触に包まれていると判断する事が出来たからだ。ベットか、それともソファーか……まぁ、この際なんだって構いはしないけれど、その事から察するにどうやら私は気絶している間に何処かに運ばれたという事になる。加えて私の視界が映しているのは窓から差し込む月明かりに照らされた薄暗い天井であることから、今私は室内にいるということも何となく私は窺い知る事が出来た。とは言え、その光景がまったく見覚えの無い物であり、誰が私をこんな場所へと運んだのか分からない以上、一概に思考を放棄すると言うのは得策ではない事くらいは分かる。何せよくよく視線を自分の身体の方へと向けてみれば、その身体は気絶する前の物に比べて多少の違和感を孕んではいるものの、未だ漆黒のバリアジャケットに包まれたままだ。もしもこのままの状態で何も知らない一般人に見つかったとなれば事だし、事情を知っている人間だとしても、それはそれで言い逃れをすることは出来ない可能性が高い。こんな言葉は好きではないが前者にせよ後者にせよ、最悪の場合実力行使で突破する事も視野に入れなければならないかもしれない可能性もある。あの闘いから命を繋いだからと言って油断出来る訳も無く、また同様に大人しく寝ていられる訳も無い。私は段々と鮮明になっていく意識の中でそんな風な危機感を胸の内に抱きながら、自身が今ある状況を確かめなければと軋む身体を無理やり動かして、自身の上半身を起すのであった。「うっ……頭痛っ。此処、何処なんだろ? 一体誰が……」気合だの根性だのそうしたスポ根の理屈は本来私のような人間には無縁な物だと言う事は理解しているのだが、案外ほんの少し頑張ってみれば多少の無茶は通るものである。筋肉や関節の痛みを無視して無理やり上半身を起してみると、もう起き上がる気力など残されてはいないだろうと思われていた私の身体は、それほど多くの苦痛を伴うことなく、思いの外すんなりと起き上がってくれた。だが、それはあくまでも先ほどの戦いに身を置いていた自分と比較してのこと。戦いの余波が未だ残留するこの身体は想像の範疇無いではあるものの、結構な苦痛や疲労を伴っていた。上半身を起した瞬間、頭からサーッと血の気が引き、その所為で頭の内側から鈍い痛みが眩暈と共に押し寄せてくる。無論、私は堪らず反射的に額を片手で押さえたものの、ズキズキと響き渡るその疼きはその程度の事では収まってくれはしない。加えて、頭痛から生まれた眩暈の余波は聴覚にまで飛び火し、今度は遅れたように耳鳴りが鼓膜を劈いてくる。まったく持って最悪の目覚めだ。私は寝起きにしてあまりの気分の悪さに顔を顰め、そんな状態に合わせるように相応の愚痴を胸の内に募らせていくのだった。とは言え、何時までも現状を悲観していても何も始まりはしない。次第にネガティブな形相を帯びていく自分の心情に私はそんな風な思いを重ねて区切りを作り、自分の意識をほんの少しだけ前向きな物に塗り替え、更新する。今自分に必要なのは現状の把握と、この事態に対する対処の算段……そして、あの闘争の結末を知る事だ。現状私の身体は確認出来る限りではまだバリアジャケットに包まれたままではあるものの、胸の辺りに装着されていたジュエルシードをはめ込んだ金属パーツは取り外されている事が見て取れた。更に不意に肌寒さを感じて肩口を軽く指先でなぞって見ると、其処には気絶する直前まで装着されていた筈の上着に当たる部分や外套がなくなってもいることが分かった。つまる所、今の自分の格好は外装が取り払われたバリアジャケット─────単純に言えば、四肢の部分が取り張られた漆黒のボディスーツを身の纏っているような身姿だった。一体誰が何の目的でバリアジャケットの外装を取り外したのだろう。私は頭の片隅で「と言うよりもアレは私の任意以外で取り外せる物なのだろうか?」と少しだけ場違いな疑問を感じつつも、ボディスーツから覗く四肢に刻まれた古傷を二度、三度と撫でて冷えた身体に人肌の温もりを取り戻させる。もう春も中頃まで差し掛かっている時期とは言えど、夜になれば暖房が恋しくなる程度には辺りも冷え込む。ましてこんなような格好でこんな碌に温度調整も出来ていそうに無い所に長らく放置されれば、身体が冷え込まない方が嘘と言う物だろう。私は疲れと寒さで疼く古傷を今この時だけは忌々しく感じながらも、ともかく暖を取らなければと必死になって露出した四肢を掌で擦っていく。あまり長いこと身体を冷やしていると反応も鈍るし、血の巡りも悪くなる。このような環境で尾を引くような身体の状態のままでいるのは得策ではない。そう判断したが故の行動だった。五分、十分と同じような作業を繰り返していく内に次第に私の身体に温もりが戻っていく。過去の諸々から多少の寒さには慣れているつもりではいたが、流石に今のような体調のままではそれもただの強がりでしかないと私もこの時改めて思い知らされた。体温が低いとそれだけ思考は鈍るし、意識も濁る。今まではあまり意識してそう感じては来なかったが、手元に見慣れた戦斧の姿が無く、尚且つ腰のベルトに挿してあった筈の拳銃も取り上げられている状況では、流石の私もそう感じざるを得なかったのだ。とりあえず四肢に拘束の跡が無いことや辺りに見張りがいないことから軟禁されている訳ではないとは思うのだが……何れにしても不気味な事この上ない事には違いない。そして、そうした不安な感情は次第に心の中に蔓延して行き、最終的には自壊すら引き起こしてしまいかねない方向に意識を持って行かれかねないのだ。今の現状で恐怖や怯えから混乱に陥るのは非情に拙い。それが分かっているからこそ、今はこの状況を客観視して捉え、自分の感情を押し殺す他ないのだ。私は心の中で幾度となく「大丈夫。大丈夫」と自分に言い聞かせ、自身を取り巻くこの不可解な現状に様々な疑心を抱きながらも、その傍らで自分が此処に回収された後、果たして鳥獣に憑いていたジュエルシードはどうなったのだろうかという事に思いを廻らせていく。此処でこうして私が生きている以上何はともあれ鳥獣を斃すことは出来たようだが、あの後ジュエルシードを無事回収出来たかどうかは別問題だ。あれは適切に封印処理をするか、私のように真なる渇望を内包させて正しく願いを叶えさせてやるほか制御のしようが無い。つまり、あのままジュエルシードを放置したままでいたならば、必然的に第二、第三と被害が拡大してしまう恐れが出てきてしまうという事になる。そうした不安を解消する為にもまずはジュエルシードを─────引いてはその主人格たるアリシアを探し出して話を聞くのが得策だろう。私はとりあえず辺りを見回し、自身の体を撫でる肌寒さに意識を裂きつつも、自身が今いる場所の情報を集めると同時に目線で自身のジュエルシードの在りかを探しながら、心の内でそう判断を下すのだった。「此処は……マンション、なのかな? 随分みたいだけど広いけど……。でもなんと言うか、まぁ……薄汚れちゃってるね……この部屋」窓から差し込む明かりを頼りにざっと部屋の内部を見渡してみると、其処は私が洩らした感想に違わぬ、お世辞にも綺麗とは言いがたい一室であった。部屋の大きさは大体20畳ほど。賃貸住宅であろう筈なのに、何故か二階部分がある事を付け加えて考えれば、何時も私がお邪魔させて貰っている先生のマンションの一室よりも優に倍近くは広いと言うことが出来た。私はあまりその手の住宅情報には詳しくないから何とも言えないけれど、見た感じそれ位の広さの一室なのだろう事は何となく想像がついた。しかし、反面その大きさとは比例してその内部はもう長らく放置されていたのか、どうにも宙に漂う空気は埃っぽく、また白と黒のタイルが交互に敷き詰められた床には所々に点々と何かの染みのようなものがこびり付いているような有様だった。自分の部屋もあまり片付いていない手前、私も他人の家の手入れをとやかく口に出来る立場ではない事は分かっているが、「もう少しちゃんと掃除した方がいいんじゃないの?」と思わざるを得なかった。尤も、普通に考えれば長らく人の出入りが無かったという風に捉えるのが妥当な所なのであろうが……。まぁ、何はともあれ今はとっととジュエルシードを見つけるのが先決であろう。観察すれば観察するほど不安が掻き立てられていく現在の状況に、私は自身の胸に落ちた一抹の不安が次第にネガティブな方へと流れつつある事を感じながらも、必死になってそれ等の感情を押し殺し、本来自分が何をしなければいけないのかと自分自身に言い聞かせて平常心を保たせていく。確かに行き成り自分の知らない場所で目が覚めれば私だって怖いことは怖いが、アルハザードでの前例を考えればそれほど理解し難い状況という訳でもない。それに怪奇現象というだけなら今まで嫌って程私は噛み締めてきたのだ。この程度の事では今更驚きもしないし、そもそも魔法という得体の知れない代物に触れてしまった時点で人としての常識の枠に当て嵌めて考える事の方が間違いというものだろう。私は嘗ての自分と今の自分との状況の認識や物の見方が大分異なってしまっているということにほんの少し呆れを感じながらも、より詳しく内部を捜索する為になけなしの体力と気力を振り絞って自分が寝そべっている場所から起き上がるのであった。「くっ、づぁ……ッ! ったく、随分とガタがきちゃってるみたいだね……私の……うっ、ぐぁォ……身体も……。まっ、まぁ……ぐぅッ!? ッ……生きてただけ、まだマシな方なのかもしれないけどさ……」関節の痛みか神経の痛みか、或いは単純に筋肉痛なだけなのかは定かではないが、ともかく全身を迸る鈍い痛みに私は思わず苦悶の声を混じらせながらも、改めて言葉に出して自分が生きているのだという事を胸の内に刻み込む。死して屍を拾う物なしとはよく言ったものだが、こうして回収されて痛みを感じる事が出来る以上、私は幸いにもその言葉の礎にはならずに済む事が出来た。きっとあの場でむざむざ殺されていようものなら、此処でこうして悪態をつく事も叶いはしなかった事であろう。その事を考えれば……あぁ、まったく癪な話だが私はどうにも運が良い。寧ろ、幸運と評しても何ら差し支えは無いだろう。何せ、一度の戦いで二度も三度も死に掛けたというのにまだこうしてくたばってはいないのだから。悪運が強いにも程があるというものだ。それこそ、いっそ自分で自分の事を呆れちゃうくらいには……。とは言え、痛いのと痛くないの、どっちが良いかと問われれば、そりゃあ勿論私だって後者な訳で……正直今の状況は私もかなり堪えていた。まぁ、当たり前の話と言えば当たり前の話だ。私は別段マゾヒズムに浸って悦を感じるような変態でもなければ、それに準じた特殊な趣向も性癖も一切持ち合わせてはいないのだから。私自身、己が真っ当でない人種の人間である事くらいは理解しているが、それでも譲れない一線くらいはちゃんと存在しているのだ。そしてまだ私は其処を辛じではあるものの、踏み越えてはいない。つまる所何が言いたいのかと言えば……今の私はもはやまともにその場に立っていられないくらい、憔悴し切っていたという事だ。生憎と私はそんな現状を目の当たりにして、この上更に自分に鞭を打てるほどの鋼鉄の魂は持ち合わせが無い。当然その場にふらついて、膝を突く位のことはあっても何らおかしいことではないだろう。だが、それでも私は何とか体制を建て直し、自分がそれまで横たわっていたもの─────大人二人が優に腰を落ち着けられるだけの大きさを誇る革張りのソファーの背もたれの部分に手を掛けて支え代わりにしながらも、一歩一歩と着実に歩みを進めていく。目の前には美容室などに置いてありそうな大きな照明装置が一つ。そして、ふと横目を窓側に向けてみれば其処には前面ガラス張りになった壁から覗く壮大な夜景が一望していることを確認出来た。どうやら此処は街全体を見下ろす事が出来るくらいの高層住宅の一室らしい。私は心の中で改めて自分がとんでもなく場違いな所にいるのではないかと思いつつも、その夜景の光で鈍色に光る照明装置の元までふらふらと歩み寄り、手探りでそれを操作して当たりに明かりを灯していく。確かに前面ガラス張りになった壁から入ってくる光は夜にしては明るく部屋の中を照らしてくれてはいたものの、ジュエルシードのような小さな物を探すには少々心許無い。加えて、外の光が差し込んでいる部分は明るくはあるものの、奥の方はその光が十分に行き届いておらず、見た感じ真っ暗なままだ。そんな場所を外の明かりだけを頼りに歩き回るのは護身などの観点から考えても愚策以外の何物でもないだろう。とは言え、今の私は銃もバルディッシュも身につけてはいない様だから、どの道人がいたら護身もへったくれも無いのだけれど……。私は心の内で何処か徹底しきれていない自分の甘さに呆れながらも、覚束ない手つきで照明装置の台座部分にあるボタンを押してあまり眩しくない程度に光を調節しつつ、改めて明かりのついた部屋の中をざっと見回してみるのだった。「いざ明かりはつけてみたものの……本当に此処は何処なんだろ? もう大分夜も更けちゃってるし、あんまり帰るのが遅くなるのは嫌なんだけどなぁ……。って、そんなこと暢気に言ってられる場合でもないよね……今は」どうにも未だ平和ボケした部分の意識がチラついてしまう自分の思考に私は一体何処まで自分という奴は危機意識が薄いんだと溜息を漏らしそうになりながらも、今更言っていてもどうしようもないとそれ等の心配をばっさりと切り捨てて、先ほどまで暗がりになっていた場所の方へと意識を向けていく。私が身に纏っているバリアジャケットが解除されていない以上、バルディッシュはこの部屋の何処かに……それもそう遠くない場所に置かれていると見てまず間違いは無い。ならば、恐らくジュエルシードも拳銃も同じような所に置かれていると見るのが妥当な推察というものだろう。私は壁に手を突きつつも、何とか身体の体制を維持しながら、そんな風な考えを元に光に照らされた奥の方へとゆっくり足を踏み入れていく。だが─────数歩ほど歩みを進めたところで、私は徐に足を止める事になった。気配……そう、明確な人の気配をはっきりと感じ取ったからだ。誰かがこの先にいる。殆ど直感の域でその事を理解した私は、急いで硬直した身体を身構えさせ、それまで考察に用いていた思考を一気に戦闘用のものへと昇華させる。今の私はジュエルシードによる不干渉の加護もバルディッシュによるサポートの恩恵も無い以上、殆ど丸腰であるも同義。更にその上この身は満身創痍で、恐らくは頑張ってもフォトンスフィアを二、三個形成出来る程度しか魔力も残されてはいないと来ている。もしも戦闘に陥るような事になれば私が圧倒的に不利になると言わざるを得ないし、勝てる勝てない以前にまともにこの身を動かす事が出来るかどうかも微妙な所だ。けれど、相手が相手ならばそんな可能性の有無で戦の裁量を決めてなどいられないのだろうし、私自身考えるだけ無意味な事だと十分理解もしている。やれる、やれないの区分じゃなくて……やるしかないと理解しろ。私は微妙に痛みと恐怖で鳥肌を立たせて痙攣する自分の身体に何度も何度も強くその事を訴えかけながらも、念のため頭の中でフォトンスフィアの術式を構築し、細心の注意を払いながら更に歩を進めていく。カツン、カツンと私が歩くたびに足に装着されたプロテクターの靴底が無機質なタイルを踏み鳴らし、乾いた音を部屋一帯に響き渡らせる。鋼鉄がとタイルが互いに擦れ合う音が鼓膜を打ち振るい、口元から漏れる微かな吐息が白い靄を孕んで宙に解けていく。なんと不気味な事か……私の胸に抱かれたそんな思いは、次第にそれ等の要素を孕んで焦りを生み出し始める。相手からの反応はない。確かに此方に近付いてきているということは分かるのだが、その感覚からは善意も悪意も読み取る事が出来ないのだ。ただただ無機質に─────まるで幽霊の如く、足音の無い足取りで此方に向かってくるそれは……もはや今の私にとっては恐怖以外の何物でもない。故に焦り、故に怯える。自分の理解の範疇外に位置する事柄が迫っていると言う現実に、私は自身が引き起こした事柄さえもまともに捉える事が叶わなくなってしまっているのだ。じわりと額に一筋の脂汗が滲み垂れる。冷静にならねばならないという事は分かっているのに、冷静になれと自分に言い聞かせようとすればするほど自身の内から心の余裕が簒奪され、言いようの無い恐怖が胸の内で募って行く。まずい……不意に私は頭の片隅でそう思った。何を指して“まずい”のかは私にも分からないが、そう思わざるを得なかったのだ。得体の知れ無い物を目の当たりにしているという恐怖に対してなのか。そんなものと対峙している自分が余裕を失い掛けていることに対してなのか。そもそもこんな場所に連れて来られている現状その物に対してなのか。或いは……その総てに対してなのか。分からないし、今更分からなくってもどうでもいい。ただ私の向かっている方向に誰かがいて、その誰かも私の方へと向かってきているという現実が其処にあるだけで、もうそれ以上は語るべくも無いのだ。流石にそろそろ覚悟を決めた方がいいのかもしれない。私は頭の片隅で最悪の事態を想定し、それに対応する心構えを胸の内に刻みつけながらも、その“誰か”がいるであろう照明の光が届かず、薄暗がりになっている処へと足を止めて徐に問いを投げ掛けてみるのだった。「其処にいるのは誰ですか……? この声が聞えているのなら姿を見せてください」返答は……ない。沈黙だけが流れ、物言わぬ静寂がその場一帯を制圧し、支配する。肯定も無ければ否定も無く、また悪意もなければ善意もない。ただその場に私とその“誰か”が存在すると言う事実だけがその場に残り、互いにその場に留まったまま互いの時を止めてしまっているのだ。一体何なのだろう。私は頭の中に浮かぶフォトンランサーの術式に更に意識を裂きながらも、その傍らで暗闇の向こう側にいる人物について少しだけ思考する。薄暗がりの向こうにいるのが彼であるのか彼女であるのかなんて事は知ったことではないが、その意図はどうであれ私がこうして勝手に動き回っているという現状は好ましくは無いはずだ。ならば何故、その人物は私なんかとこうして見えないところで相対なんてしているのだろう。分からない、解らない、判らない……。凡そ、理解の範疇の外にある事柄であるからこそ、私は相手の意図を読み取る事が叶わないのだ。一体、私を焦らして何になると言うのか。次第に胸の内に蔓延る不安が苛々へと変換されていく中、私は不意にそんな言葉を孕んで自身の気持ちが先走ろうとしているのを感じていた。此処で焦ってもどうにもならない。だけど、相手の意図がまったく分からないというこの現状が冷静である事を許してくれないのだ。悪意のあるものならば何故こうまで私を泳がせるのか。善意のあるものならば何故私が目覚めて動き回っている事に反応を示さないのか。どちらも洞察する事は叶わないし、そもそも暗闇の向こうで佇むその人物がどちらの感情を持っているのかも窺い知る事は出来ないのだから判断のし様が無い。それ故に私にはどうしようもなかったのだ。ただこの胸の内に蔓延る感情に身を任せる他、どうとも反応する事は叶わなかったのだ……。「聞えていませんか? だったらもう一度言います。お願いですから姿を見せてください。さもなくばァッ─────」瞬間、私の前方に桜の色の球体が顕現し、薄暗がりの方向へと狙いを定めて飛び回る。フォトンスフィア─────魔力が殆ど空である現状、その数は一つと少ないが、それでも人一人くらいは優に殺してしまえるだけの威力を誇る射撃魔法の媒体だ。私が念じればその身は一瞬にして鏃へと変わり、間髪いれずに数多の悪意を孕んで部屋の一角ごとその人物を粉々にしてしまう事だって不可能ではない。だが、それは同時に私の切り札でもあり─────そして、ただ一発の生命線でも在ったのだ。本来このような駆け引きの場で武力を行使しようとした人間は確実に身を滅ぼす。何故ならばそれは冷静さという点において交渉相手に負けているという事であり、更に言えば相手に自身の実力を示さなければ相手を打ち負かす事が出来ないと暗に語ってしまうような物なのだから。故にこの現状、先に感情的な行動を取ってしまった私はその道理に従っているも同じ。もはや冷静もへったくれも無く……ただ他者に悪意を振り向いて牙を剥く事しか出来ない獣へと成り下がったのだ。ギリギリと歯と歯が擦れ合い、鋭い犬歯が私の口元から露出する。それは明確なる怒りと焦りの象徴。感情に訴え、相手を威嚇する事しか叶わなくなった私の最後の強がりだ。ご大層に相手を威嚇なんかしてはいるものの、その実私の内心は未知なる物への恐怖に塗れ、其処から来る怯えに震えて縮こまってしまっている。その様はさながら虎の身姿を借りる兎のそれだ。どれだけ見せかけの強さを誇示しようともその本質が脆弱な物である事には変わりは無い。にも拘らず、自身が恐れ慄いているという現実を直視したくないが故に私は我武者羅に己の力を振るってしまっているのだ。内心はもう今すぐにでも泣き出したいくらい怯え竦んでしまっているというのに、だ。何たる低落、何たる有様か……。無様にも程がある。と言うか、もはやB級映画に出てくる三下の悪役にも劣る所業であろう。こんな半ば嗚咽を零しそうな気持ちになりながら悪意を振りまいているなんて無様な行いは……。「はやくっ……してくださいよ……。でないと、本当に撃っちゃいますよ……? 冗談とか、ジョークで済む話じゃないんです。私は……本気っ、本気なんですよ? だからほら、何とか言ったらどうなんですか!」瞬間、私の口元から悲痛な感覚を帯びた叫びが漏れ出した。限界だった……もはや、現状その一言に尽きるだろう。知らない間に衝動に掻き立てられた挙句、訳分かんない化け物と殺しあって生き延びて……そして目覚めてみたら何処とも知れないような部屋の中に独り放りこまれて放置プレイ決め込まれる。そんな状況下でまともな精神を保っていられる人間が居よう筈が無い。そして、その例に漏れず、私の精神も“まとも”の臨界点を超えてしまったという事だ。別段珍しい事でもなんでもない。自身を取り巻く異常さや不気味さに耐え切れず、おかしい怖いと呟きながら泣き出す子供がこの場にも生まれてしまっただけ。闘争心や狂心という鍍金が剥がれ落ちた九歳の女の子が一人、獣から少女へと精神を回帰させただけに過ぎないのだ。私自身、自分がまだこんな感情を普通に抱けている事に半ば驚いてはいる。これではまるで何処にでもいるような凡庸な子供のそれでは無いか─────そう思わずにはいられなかった。今まで私は人智を超えた化け物に相対しようと、その化け物と殺し合おうと一切恐怖という物は感じては来なかった。その所為で命を奪われかける事があっても……血が一杯出て、どれだけ怪我を重ねても怯える事一つしなかった。ただ私が怯えていたのは他者からの悪意と廃絶。自身を取り巻く人間達が揃いも揃って私を責め立て、それが寝ても覚めても私の背中を追い回してくるという現実に私は恐怖を抱き続けていたのだ。それだけが私が恐れていた唯一の情念。他者からの害意こそが私の心を蝕む唯一無二の存在であった筈なのだ。それが……そんな私が、これは一体どういうことだ。別に誰かから陰口を叩かれているという訳でもない。冷たい地面に蹴り転がされている訳でもなければ、信頼していた人間から裏切られたと言う訳でも決して無い。なのにどうして……ただ自分の理解が及ばない物が目の前にいるというだけで、私は何で此処まで自分を見失って、見っとも無く取り乱してしまっていると言うのだ。分からない……分かりたくも無い……。こんな……こんな今までの自分の在り方を根こそぎ否定するかのように、ボロボロと涙を流して恐怖する自分なんかを一体どうして認められようか。けれど、そんな気持ちとは裏腹に私の目元から伝う涙は止め処無く流れ落ち、喉元は度々起こる嗚咽に振るえ、正常に呼吸をする事も叶わない。まるでお化け屋敷の真ん中に一人放置された幼子がそう有る様に、私も理屈では測れない畏怖に怯え、意識とは別のところで感情を支配されてしまっている。つまる所、今の私は……ただ何処にでもいる凡庸な子供のソレに何ら違いはなくなってしまっているという事だ。「なんとか……言ってよ……っ。ねぇ、其処にいるんでしょう? だったらどうして─────」私の事を無視するの?そんな言葉が頭の中を過ぎった刹那、私はようやく自身が何に怯えているのかという事を理解した。そう……私はこの場に蔓延る“どうしようもない既知感”に怯えていたのだ。何時か見た昔日の日─────それが何時だったのか、なんていうのはもう思い出すことは叶わないけれど……私はこれと同じ状況を良く見知っている。五年前か、四年前か、三年前か……それとも、もっと最近起こった出来事なのか。分からない……だけど私は知っている。目の前に誰かが居て、そして呼びかけているのに……誰も私の事を見向きもしないという思い出したくも無い場景を。そして私は、その場景の“影”に怯えてしまっているのだ。だってあまりにも似すぎているから。自分が過して来た数多の日に起こった裏切りのソレにこの場景は驚くほど似過ぎてしまっているから……。請い訴えてもその声は誰にも届かず、私の方なんか誰一人として見向きすらしてくれない。何時だって同じだった。助けを求めた訴えも。私を見てと希った祈りも。独りぼっちは嫌だとすすり泣いた絶望も。皆、みんな同じ……。誰も彼も渡しに害意を向けるばかりで、その本質に触れようとすらしてくれない。だからこそ私はそれ等を忌避し、遠ざけた。もう傷付きたくなかったから。もうこれ以上傷付くのが嫌だったから……。私は……誰かから触れられる事を拒絶した……。けれど、その本質は結局昔のまま何一つとして変ってはいなかったのだ。昔日のかの日のまま……ただ独りの凡庸な少女としての”高町なのは“のまま……何一つとして。瞬間、私は両膝をついてその場に崩れ落ちた。宙を舞っていたフォトンスフィアが粒となって辺りに四散し、パラパラと光の粒子が私の身体に降り注いでいく。もうこんな感情を抱えたままでは今までの私を保つ事は出来ない。そんな想いが、深層意識の段階で働いた所為なのだろう。戦意を喪失し、己の恐怖を自覚した私の身体は本当に呆気な崩れ去ってしまったのだ。獣から少女へと、その心を回帰させてしまったが故に。先ほどまでの威勢も消え失せた私は、もはやただの非力な一女児に過ぎなかった。ただの……独りぼっちの女の子である“高町なのは”に……。「大丈夫だよ……」「……ぇ?」刹那、私は思わず素っ頓狂な声をあげた。不意に何かに……凄く温かくて軟らかい“何か”に身体を抱きしめられたからだ。耳に響くのは鈴の音のように凛と響く少女の声。聞き覚えのある……共に信頼し、親愛し合う“彼女”の声だ。そして、この身を抱くのは若い白木のような色白くも温かい二本の細い腕。本来この世界にあるはずの無い小さな彼女の温もりが、私の身体を絡めて交差し、私の冷え切った身体に人肌の温もりを伝えてくるのだ。ありえない……私は今にも何かの衝動に塗り潰されそうな意識の片隅で、不意にそう思った。だって……だって、そうだろう。彼女がこの世界に……私が生きるこの現実に居る筈が無い。それはもはや語るべくも無いことだ。今更確かめる必要も無いはずだし、現に彼女は今まで一度だってあの幻想の世界以外で私の前に姿を現しはしなかった。それが現実……それが真実である筈なのだ。では、一体誰が私の身体を抱きしめているというのだろう。ありえないと断じる傍らで、私の胸の内から溢れ出してくる衝動はそんな疑問を孕んで私の意識を燻っていく。先ほどまであった気配は……もう、ない。私の事を抱きしめる彼女と、そんな彼女に抱きしめられる私以外、もう此処には誰も居なかった。この広い部屋に立った二人だけ……もうそれ以外は立ち入る隙も、狭間もない。私が此処にいて、彼女が今“此処”にいる。普通だったらなんてことは無い当たり前の事柄だが、そもそも存在の定義自体が異なっているというのが私達という存在だ。もうこうなったら視認して確かめる他ない。私は嗚咽が漏れそうになる衝動を何とか抑制し、私の身体を抱きしめている彼女の方へと視線を向けながら、ゆっくりと自身の思ったことを口に出していくのだった。「どう……し、て……?」「大丈夫。もう……大丈夫だから……。だから今はもう、何も言わないで」私が呟いた疑問の声に、彼女はそう語りかけてくれた。優しい声で……まるで遠き日の母の様な自愛に満ちた優しい声で……。間違いは無かった。もはや疑いようも無ければ、否定のし様も無い。此処にいるのは紛れも無く“彼女”だった。流れるようなプラチナブロンドの髪。紅榴石色の潤んだ双眸。そして誤って強く抱きしめてしまえばそのまま砕けてしまうのではないかと思わせる華奢で、小柄な身体。どの要素のどれを取ったってそうだ。彼女は彼女……本来この世界にいるはずの無い、幻のような儚さを帯びた少女に他ならなかった。「なにも……言わないで……」そして彼女はもう一度、私に懇願するかのような弱々しい声色で私に対してそう呟き、私の身体を抱きしめる力を強くする。もう離さない……彼女の非力ながらも必死で私の身体を抱きしめているその力は暗にそう語りかけているかのように私には思えた。だから私は、彼女に言われるがまま、もうそれ以上何も口にする事はなかった。どうして貴女が此処にいるのとか、一体此処は何処なのとか、何で直出てきてくれなかったのとか言いたい事は山ほどあったけど……もう私は何も言わなかった。その代わり、私は強く……強く彼女の身体を抱きしめ返した。どうしてなのか、なんていうような理屈はもうどうでもいい。素直に言ってしまおう。私は……寂しかったのだ……それこそ、もうどうしようもないくらいに……。だから、彼女が此処にいてくれて私は嬉しかったのだ。アリシア・テスタロッサが私の傍に居てくれているっていう、その現実が……。瞬間、私の涙に内包されていた意味が恐怖から安堵に変わっていくのを私は感じた。