堕ちて行く。何処までも、何処までも……まるで混沌の海の中へと沈んでいくように私の心は果ての無い暗闇の底へと堕ちて行く。一体私は何処に向かっているのだろう。泥に呑まれていくような微睡みのなかで、私は不意にそんな疑問を胸に抱いた。身体が─────特に心臓の部分が妙に熱い。そして、その熱は徐々にではあるが、ゆっくりとこの身を包み込まんと身体全体に広がりつつある。だが、その感覚に私は特別不快な印象は抱かなかった。寧ろ、その逆。己の身を焼き滅ぼさんとするこの熱こそが、この奇妙な心の浮遊感を終わらせてくれるのだという想いが、熱が身体に広がっていくのと比例して私の空虚な心はゆっくりと満たされていくのだ。ただそれは決して愉悦や幸福などといった陽の情念に満ち溢れた物ではない。この身を満たしていくのは数多の後悔と抱えきれないほどの濃密な絶望。幾千、幾万ものジレンマの円環を駆けてもまだ望んだ結果に至る事の出来ないという醜悪な既知感がこの心を満たしているのだ。暗い、暗い闇の最底辺。永久の暗黒が支配するその場所で私は不意に意識を取り戻す。しかし、それは普段の自分が眠りから目覚めた時のような生物的な感覚ではない。極限まで落ち込んだ四肢に釣り糸を通され、人形劇の操り人形のように天井から意識を吊り下げられるような無機質な感覚。まるで自分の意思の通わない別の“ワタシ”がこの心を掌握し、思うが侭に心を支配されているような……そんな奇妙な感覚だ。刹那、不意に込上げる吐き気と鈍痛。身体全体に極限まで熱した焼き鏝を押し付けられたかのような強烈な感覚が絶え間なく、そしてじっくりと私の精神を攻め立てる。重く、鈍い感覚が頭の中をかき回し、幾度と無く私の意識をこの身から引き剥がそうと疼き、蠢く毛虫が前進を這い回るような気色の悪い感覚が一気にそれまで感じていた熱に取って代る。それからしばらくの間、私はこの身を貪る不気味で醜悪な感覚に嬲られ続けた。灼熱と感じていた感覚が次の瞬間には絶対零度の冷気に変わり、またその感覚がしばらく続いたかと思えば今度は生暖かい汚泥が被せられたかのような怖気が全身を駆け巡る。精神的にも肉体的にも“私”という存在は執拗に嬲られ続け、その内、空も地面も見分けがつかなくなってしまうような処まで私の意識は衰退していった。だが、そんな拷問のような異次元の感覚の濁流も次の瞬間にはあっけなくこの身から離れ、何処とも知れない真っ暗な虚空へと四散していく。そう、私はこの感覚を知っていた。忘れよう筈も無い。何せ、それはずっと前から─────それこそ、この身が終わらない悪夢を毎夜のように見せられる羽目になってからずっと慣れ親しんできた感覚なのだから。瞬間、それまでの感覚を根こそぎ吹き飛ばすような強大な既知感が私の脳裏を過ぎり、薄れ掛けていた意識をゆっくりと目覚めさせていく。知っている。此処に在る何もかもが私の理解の範疇にあり、そしてこの身に刻み付けられた─────月村すずかという人間に刻み付けられた負の記憶の中にあるのだという事を私は知っている。この先に何があるのかも。この先に何が待ち受けているのかも。此処が……この穢れに塗れた暗黒の世界が己の記憶に際してその姿を変える私自身の悪夢だという事も。私はこの場所の……そして、この身を這う感覚の総てを知っていた。「─────っ! こっ、これは……」この身を包み込んだ凄まじい悪寒の怖気に何度か気を遠くしそうになりながらも、私は何とか自己の意識をその空間の中で確立しながら驚きの念を言葉に乗せて宙に零した。先ほどまで……この悪夢に訪れるまでに肉体を蝕んでいた疲労や苦痛は、今の私からは一切感じられない。否、どちらかと言えば単に感じ取る事が出来なくなったというべきだろうか。夢の中で此処まで明確に自意識を保った事なんて今まで一度も無かったからあまり詳しいことはよく分からないけれど、少なくとも此処が現実でないことくらいは私にだって容易に想像が付く。何せ、此処に……この場所に満ち溢れているのは吐き気を催さんばかりの濃密な既知感だ。何処も彼処も─────この場所で起こり得る何もかも己が知っているようにしか繰り返されず、また私自身もその光景を知っているように見続けなければならない。そうした顛末が最初から分かっていたからこそ、私は直に分かったのだ。また同じ事が繰り返され、私は未だその円環に囚われるがままなのだという事を。この身を貪る悪夢は例えどんな状況になっても私を苦しめ続けるのだという事を。私は……否応も無く、分からされてしまうのだ。今もこうして、終わり無い悪夢を見せ付けられるように。「なっ、なんで……っ!? 一体どうして……ひぃっ─────!」自分が見ているものが悪夢より生まれた産物だと自覚した瞬間、私は凍りついたように顔を強張らせ、怯えたような声を洩らしながらジリジリと歩みを後退させていく。それは刹那の内に起きた歪にして醜悪な風景の移り変わり。何も無いと思われていた暗黒の空間が徐々に捻じ曲がり、私が最も見たくないであろう過去の記憶にこびり付いた情景にその姿を変え始めたのだ。暗雲のような得体の知れない霞は暗く薄暗い夕方の空へとその姿を変え、私の身を包んでいたねっとりとした悪寒は沈みかかった太陽に照らし出される漆黒のアスファルトとなって私の足場を構築する。だが、『世界』の変化はそれだけには止まらない。ふと振り返ってみれば其処には夕焼けに染まった見慣れた校舎が聳え立ち、其処から飛び引こうとして再び正面を向いてみれば其処は昼間でも薄暗い校舎裏へとその風景を移り変わらせる。そして、其処で私が目にしたのは……凡そ、一年ほど前の自分自身の姿だった。路傍に打ち捨てられた子猫のように横たわり、ピクリとも動かずにいる嘗ての自分。否、あれは動かずにいるのではない……動けないのだ。それまで自分の身に起きた変化への驚きのあまり、唖然とした表情のまま固まっていた私は不意にそっと胸部に手を当てて、今もまだ痕として残っている古傷をなぞる様に触る。そう、それは丁度この時……私の人生が最悪な佳境にあった頃に上級生からの私刑によって刻み込まれた物の一つだ。教師からも生徒からもまず目に付かないであろう放課後の校舎裏で、まるでサッカーボールでも弄ぶかのように複数人で執拗に身体を蹴り回された挙句、財布を奪われ、そのまま路傍に転がる塵芥のように容赦なく放置される。その末路に生まれたのがこの痕。消したくても消せない私の忌まわしき記憶の証明。それ故に今になっても時々疼き、身体全体に不快を伝播させる痣の様な傷痕だ。この時─────この痕を作る破目になった時、果たして誰が悪かったのかと言えば……それは無論、私自身に落ち度があったと言う他ない。いや、どちらかと言えば迂闊であったと言うべきだろうか。元より並の人間よりも社交性に欠け、凡そ自己主張という概念を度外視して日常を過ごしていた私は正直自他共にそうだと思ってしまうほど、自分のクラスという集団から酷く浮いた存在だった。ただ別段孤独であったという訳じゃない。この当時はまだ私も“彼女”ともアリサちゃんとも入学した当初から変わらぬ……と、言っても其処に至るまで一悶着も二悶着もあった訳だけど、それでもまだ三人揃って屈託の無い交友関係を築くことが叶っていた。だが、言い換えればそれは私も含めその三人全員が集団その物から外れていたとも言えてしまう。こんな事を言うのは本当は嫌だが、現実問題として実際私達の立場というのは互いが互いに奇妙な腐れ縁を持ってしまった日からずっと……それこそ、その繋がりが途切れてしまった今でも本来正常に教室の中で形成される一般的なコミュニティの埒外に在った。とは言え、それはある意味必然とも言えることだった。何時かも覚えていない昔日に本人から聞いた話では私と同じく幼い頃より同年代の人間と上手く接触する事が出来ず、上手く自分の感情を相手に伝える術を持ちえていなかった“彼女”。同じくして自分の知り得る“世界”の中でしか“他者”という物を知らず、他人との接点が途切れる事を極限の域で忌み嫌いながらも、それとは対極的に自分という物を素直に表に出す事の出来なかったアリサちゃん。そして、生涯自身が望んだものに悉く袖を振られ続け、もはや自身が手を伸ばした物などこの手をすり抜ける幻想にしか為り得ないのだと幼いながらに半ば達観し、諦め掛けていた私こと月村すずか。三者三様。皆、背負った背景こそてんでバラバラだが、そんな物は何も知らぬ第三者からすれば皆須らく同じに見えてしまう。だからなのだろう。私達が互いに惹かれ合い、腐れ縁という陳腐な物から交友という関係まで互いが互いに対する評価を昇華させたのは。今考えてみれば私達三人の会偶、そして其処から生まれた縁というのはあくまで当人としての主観で無く、第三者の視点から語るにしても散々な物であったと言えた。事の発端は些細な事。人との付き合い方をあまり知らなかったアリサちゃんが子供らしい癇癪を起して、年がら年中根暗な感じだった私にちょっかいを掛けてきて……それで彼女がそれを止めようとして、喧嘩になった。本当にただ、それだけ。それまで同じクラスに属していたというだけの三人が偶々至極つまらない事で重なり合い、それの延長線上で顔見知りになっただけの些細な事だ。いや……アリサちゃんと彼女の関係だけに焦点を絞るなら、それこそ交友どころか互いに邪険な念を抱きあっただけに過ぎないとも言える。何せ、双方がお互いの胸倉を掴み合って目元に青痣が出来るほど殴りあった程なのだ。正に犬猿の仲。竜虎の交わりというのが現実にあるのだとすれば、まさにアレがその関係に当て嵌まると言えた事だろう。だけど、そんな二人も時が流れるに連れて次第に打ち解けるようになった。最初は皮肉を言い合ったり、互いに痺れを切らし合いそうになりながらだけど……二年生に進級する頃には一応友人や友達と呼べるような関係になる事が叶っていた。そして、そんな二人の間に私はいた。まるで添え物のように……例えるのならカレーライスの福神漬けとか酢豚の中のパイナップルだ。特別必要という訳ではないけれど、何となくその場に無いとしっくり来ないもの。それが私の本来の立ち位地であり、程よく心地良い月村すずかとしての在り方だった。二人の仲を取り持つ様にあくまでも一歩足を引いた処から彼女達を支える第三者。どっちの側のどんな立ち位置とも言えない中途半端な処から彼女達の“友達”として仲良くなって欲しいと試行錯誤する。そんな場所が私にとっての至上の幸福だったのだ。実際、その関係はこの目の前に広がるこの時まで正常に保たれていた。アリサちゃんとも彼女とも普通の友達でいることが出来、尚且つそれ以上でもなければそれ以下でもない至って平凡な─────あぁ、それこそ最も自分が欲して止まなかった立場でいることが叶っていたのだ。だけど、此処でまた私が生まれ持ってから背負っているジンクスが作用してしまった。欲した物には避けられ、望んだ物には遠ざかられ、手を伸ばした物には袖を振られる。凡そ、私が希った何もかもはそう長く続いてくれはしないのだ。そして、この時が正にそう。此処から何も起こらなければ私は私として─────ただの“月村すずか”でいることが出来たのだ。でも、現実って言うのは思いの外残酷な物で……私が私のままでいる事を許容してはくれなかった。私が其処まで考えた所で、再び目の前の光景に変化が起きる。地面に力なく横たわる昔日の私と、そんな嘗ての自分をただただ傍観するしかない今の私。そんな二人の人間の間に新たな人間の人影が颯爽と割って入ってきたのだ。それは……見覚えのある少女の過去の姿。此処でこうして私と関わる事でそう遠くない未来の果てに散々な目に合うとも知らず、ただ持ち前の善意と優しさを糧に私の友達でいてくれていた“彼女”の昔のままの姿だ。それを見た瞬間、私は思わず「あっ……」という間の抜けた声を口元から洩らし、そのままその人影に向かって歩みだそうとする。だが、私の足はまるで影を地面に縫い付けられたかのようにまったく動いてはくれない。手を伸ばそうと意識をしてみても、その手は彼女にも嘗ての私にも届くことなく虚しく宙を切り続けるばかりだ。止めなくちゃいけない。自分のすべき事は分かっているのに……この場において自分はどうしなければいけないのか知っている筈なのに……それなのに、まったく身体の自由は利いてくれない。何たるジレンマ。何たる無情……。せめて夢の中だけでも良い。これが一夜の夢でも、刹那の幻でも構わない。だから……だから、せめてこの現実を無かった事にしてしまいたい。目を背ける事すら叶わず、ただ只管に目の前で再生され続ける記憶の中の場景を眺めさせられ続ける私は胸元でギュっ、と掌を握り締め、心の底からそう願い続ける。そうだ……元より、この記憶は幸福の象徴であって然るべきもの。散々酷い目に合わされてきたけれど、その御蔭でようやく欲しかった物を手のする事が叶ったというある種の夢が其処にはあった筈なのだ。でも、そうある筈だった記憶は今も尚、最も思い出したくないトラウマとして私を蝕み続けている。何故……? そんな物は今更語るべくも無い。そう在ってしまったからこそ─────私と彼女が密接になってしまったからこそ、何もかもが壊れ、破綻してしまう兆候を生み出してしまったからだ。人の欲望という物には際限というものがない。それは何処の時代のどんな人間、例え生まれや育ち、種族や肌の色が違おうと変わらなく存在し得てしまう。それが例え世に名を残した聖人であれ、処刑台に送られて無残に首を刎ねられる罪人であれ根本は同じ事だ。どんな時代、どんな環境であろうとも、自分の置かれている立場に完全な満足、あるいは諦観を懐き、何も求めない者など皆無であると言う他ない。何故なら、それが人間という存在が生まれつき背負った性なのだから。今よりもあと少し、先へ先へ、前へ前へ……そうした飽くなき探究心、所謂飢餓の心が人の歴史を創ってきたのだ。故にそれは別段悪い事じゃない。欲求という名の飢えが無ければ原動力になっていなければ、人間は未だ猿のまま、一歩も進化していなかっただろう。だから……別段、私はそれを頑なに否定するつもりは無い。人間の営みには不平と不満と恐怖と飢えがへばりついて拭い難く、それなくして人間は人間足り得ないのだから。分かっている。誰よりも深く……身に染みて分かっている。自分も─────月村すずかも、そうした人間そのものである事には何ら変わりないのだから。そんなことは、ちゃんと分かっているつもりなのだ。しかし─────と、ここで一つ考える。より先へ、より前へ、より高く、より上へ……それら人が有する欲望は、向上心として発明を生み出し、翼を創る。言わば飛翔する為の揚力であり、正の属性を帯びた祈りの顕現と言えるだろう。だけど、人間というものは周りの人間が定説しているほど強い物ではない。いや、正しく言うなれば誰しも心の中に闇を内包していると言うべきだろうか。コインに裏表があるのと同じように、正もあれば負も生じる。つまり……現状から進む飛翔もあれば、繋ぎ止める為の停止もある。翼を創造する事に執心する者がいるなら、自己欲の為に他人との楔を持ちたいと躍起になる者もいるのだ。不平や不満は誰もが持つ。ならば自己を高みへ立たせようとするのが人の性だが、別に飛ばさなくてもそれを叶える方法があるだろう。より容易く……それもまた、人の欲望であり、飢餓が生み出す一概念だ。有り体に、自己投影と言えば理解に易い。自分より優れた者、恵まれた者、高みにいる者らの傍らに自分を置いて……その縁から自分をそれらの存在に近づけ、偽装する。自らは高みなど目指す心算は寸分たりとも無いというのに、自身に足りない所を埋めたいからと他人を模倣しては自らの存在を其処に近づけ、その存在と同じである事で満足感を得ようと躍起になるのだ。そうしてしまえばなんて事は無い。人間として未熟な存在である筈の己を彼女達と対等の存在であるのだと錯覚する事が出来るのだから。だが、その先に待っているのは決して状況の好転などという都合のいい物ではない。寧ろ、その逆転の摂理。自分が他人を模倣して、その人間との縁を深めれば深めるほど、模倣の対象となった人間は暗い水底へと引き摺り降ろされていくのだ。それは……別段私が意図してそうなっていく訳じゃない。こんな風に言ってしまえば身も蓋も無いのかもしれないが、要は何事も結果論だ。愛で人が殺せるなら、憎しみで人を救えもするように……誰がどんな意図でどのような行動をとったのか、なんていうような過程よりも重点を置かれるのはやはり最終的にその所為で何が起こり得たのかという所になってしまう。しかし、ならば何も責任が生じないのかと言えば、それは決してそうじゃない。例え結果がどう現れた所で、そうある必要の無かったものを転落させる切っ掛けを生み出してしまったのは他ならぬ私自身なのだから。故、私に確固たる罪があるとすれば其処だ。幾ら自分が意図していないとは言え、目の前の彼女を含めて自分の周りの人間を根こそぎ不幸のどん底に突き落としてしまった。それは紛れも無い事実だ。今更言い逃れようもないし、する心算もない。何せ本当に私が此処で……この記憶と同じ刻、同じ場所、同じ思いのまま、彼女へと手を伸ばさなければ彼女達は正常な時の流れを歩む事が出来たのだから。私の変わりに他者から排斥される事も無く、また周りの人間に恐怖を感じ、自らの人格を内に閉ざしてしまう事も無い。私さえ元のままで居続ければ、それ等の変化は本来起こるはずも無かったのだ。だが、それは現実に起こりえてしまった。他の誰がそうした訳でもなく、私自身が望み得た結果の果てとして……。事実をなぞる様に起こり得た現実と、そうあって欲しくないと希う想いの板挟みに思わず泣き出しそうな衝動に駆られながらも、私は嘗ての自分の姿をその双眸に焼き付ける。白く、穢れの無かった彼女に差し伸べられた手に縋るような想いで手を伸ばす私の始まりの罪を。そう、此処に事の総てを司る切っ掛けが生まれてしまった。そうある筈の無かったことの総てを内包した、理不尽の始まりが……声をあげて芽吹いてしまったのだ。それはもはや、避け様の無い現実……永久の悪夢の開花に他ならない。きっと、私はこれからも……何時までもこの覚めない夢に魘され続けるのだ。この昔日の記憶が、覆されない限りは─────……。「そう。そうやってまた逃げるんだね。本当っ……心の底から呆れちゃうよ。馬っ鹿じゃないの?」刹那、突如として此処にある筈の無い声が私の後方から響き渡る。それは……見知った人間の、それも顔を合わせるたびにはき捨てられるときと同じ、心底嫌そうな重く低い声色だ。言うなれば、それは既知の延長線上に存在し得る代物。つい先ほどまで私の目の前で醜悪劇を繰り広げていた人間の内の片割れが、私の記憶にある姿に追従するような形でその姿を変えただけの事だ。だが、それ以前に私はその声が響いた事に酷く未知を感じていた。あぁ、確かにその声が響いた時に感じた感情は驚愕や恐怖といった物である事には違いない。けれど、その根本にあったのは声が響き渡ったからという直接的な原因の有無ではない。何故そんなものが今此処で聞えてきたのかという、問題が生じえる事柄のもっと深部に当たる疑念が私の心を怯え揺さ振らせたのだ。本来、私の悪夢はこれで終わりである筈だった。己が犯した罪を毎夜のように見せ付けられ、起きて尚、自分が仕出かした過ちの犠牲となってしまった人々を眺め続ける毎日。その円環こそが私の悪夢であり、今まで抱え続けてきた業の正体だ。確かにこの夢の他に嘗て自分が被ってきた排他と暴力が入り混じった記憶を夢としてみる事もあったにはあったが、それにしたってほんの極数回……それも自分がまだ虐めを受けていた当初に見たものでしかない。従って、本来此処で彼女の声が響き渡る事はありえない。何せ……私自身、こんな風に自分の夢を客観視して観た事など生涯ただ一度としてなかったのだから。故に其処にあったのは私はおろか、誰も知る由も無い未知の塊でしかない。それは……私の意識をそれまで見ていた光景から引き剥がし、急いで後ろを振り向かせるには十分過ぎる存在だった。「過去の感傷に浸るのは別に構わないけどさぁ……だからって私まで引っ張り出さないでくれるかな? 気持ち悪いんだよ、正直な所。何時までも何処までもぐだぐだぐだぐだ、と……。そんな事だから性懲りも無く私なんかの背中追っかけるような破目になるんだっての。馬鹿馬鹿しい」「─────っ!?」振り向いた瞬間私の司会に飛び込んできたもの─────それは、見紛う事なき“彼女”の姿だった。気だるそうな様子を隠そうともせず、制服のスカートのポケットに手を突っ込んだまま隈の浮かんだ目元を細めて冷笑する最果ての時の彼女。もはや何もかも取りこぼす破目になり、誰からも拒絶されて心を打ち砕かれ……終には自ら他人との接触を忌むようになってしまった現在の彼女が私を嘲る様に校舎の壁に寄り掛かっている。未知の中に内包された既知。それが圧倒的な存在感をもって、私の目の前に彼女の姿で……“高町なのは”の姿で現れ出たのだ。これで驚愕しない方が酷というもの。現に私は視界にその姿を捉えてからしばしの間、凍ったように息を詰まらせて固まっているしかなかった。頭の中では幾度と無く疑念が波を打ち、私の思考を振るわせる。これは何だ?何故……どうして、こんな場所に彼女がいる?いや、そもそも何故私はこんな物を観ているのだ?この夢は……この彼女は……この私は、何でこんな所に立たされていると言うのか?分からない。永続する疑問の念は痛みにも似た衝動を孕み、次々に記憶の針として私の脳髄を突き回す。頭痛にも似た疼きが幾度と無く響き渡り、まるで頭がそのまま割れてしまうのではないかというような錯覚すら脳裏に過ぎってしまう。それが今の実状の総て。この場で私が彼女と対峙しているという……そんな矛盾した現実を指し示す、今までの感じていたものとはまた別種の悪夢の象徴だった。「痛、い……ぐぅっ、あ゛ぁ……がぁ……」「痛い? そりゃまあ当然だろうね。……報いだよ、それが。すずかちゃんが大好きな罪滅ぼしの成れの果て。感傷に浸りたかったんでしょ? あの頃に戻りたかったんでしょ? 自分が私の変わりになればいいって……あの頃のままであればいいって思ってたんでしょ? だったら今此処で私が与えてあげるよ、苦痛って奴をさ。思う存分気が済むまで……私が味わってきた総てをそのまま叩き返してきてあげるよ」カツンッ、カツンッ、という地面を靴底で鳴らす音が私の鼓膜を通して、更なる衝動を脳へと送り込んでいく。だが、もはや私にはその音にも、彼女が発した言葉にもまともに反応する事が叶わなかった。微細な衝動ですら激痛に変わってしまう頭痛が─────否、この身を這い回る直接的な悪夢が私の意識を疼いて刺激し、再び薄れさせようとしてくるのだ。それも不気味な彼女の言葉と連動して、その度合いを淡々と増していきながら……。刹那、堪らず私はその場に膝をつき、両手で頭を押さえ込みながら声にならない悲鳴をあげる。それは脳に焼きついた記憶が熱を帯び、それが痛みへと代わっていく……そんな妄執と錯覚の円環の果て。まるで彼女が言うように、自分に酔い痴れていた私自身を戒めるような激痛がこの身を蹂躙して止んでくれないのだ。だが、幾ら私がそんな風な挙動を取ろうとも、彼女は淡々と歩みを進め、喘ぎ苦しむ私の姿を眺めたまま歪な嘲笑を浮かべるばかり。その様は正に物語りに登場する悪鬼そのもの。童の姿を借り、その残虐な本性を覆い隠した悪意と害意の具現体だ。それが彼女の姿のまま……私を見下ろし、哂っている。何たる未知……いや、もはやこれは既知の範疇だ。夢と現の境界。幻想とも現実ともつかぬ刻と空間の中で生まれたこの感覚は『知らずして知っている』歪なデジャブそのものだった。「ほらほら、どうしたの? 泣き喚くのが好きなんでしょう? だったら啼いてみせなよ。悲劇役者は観客を愉しませるのが道理なんだからさぁ。ねぇ……自分大好きの自虐主義者さん」「くぅ……痛、ッ……!」「……足りないなぁ。全っ然足りないよ、すずかちゃん。その程度が限界と言う訳でもないんでしょう? だったら心の底から痛みに喘いで見せてよ。この私に跪いて赦しをこいて見せてよ! 万が一……いや、那由他の彼方の果てに私の気が変わる事があるのなら、その嘆きも成就するかもしれないよ? ふふっ、ふふふふふ。あっ、はははははは!!」「っ、ぅ─────がぁッ!?」瞬間、私の目元から火花が散った。何度も何度も視界が点滅し、腹部からはまるで鈍器で思いっきり殴られたような痛みが内臓にまで達する。そして、その痛みは衝撃となって私の身体に降り掛かり……結果、私はまるで昔日のあの日に私刑を受けた時と同じようにゴロゴロと地面を転げ回る破目になり、その場に立ち上がる事すら叶わなくなってしまう。彼女の宣言通り、苦悶と喘ぎ声を入り交えた声にならない言葉を口元から漏れ出させてしまう惨めな私。あの日、彼女に救われた日とまったく同じ形で私は再び地面に倒れ伏した。だが、あの時と今とでは状況も絶望も比較にならないほど違う。私は身体中を駆け巡る痛みに何度か意識を奪われそうになりながらも、必死の思いで視線を彼女の方へと向けながら、そう心の中で呟いた。何せ、あの時は今や名も知らぬ上級生の集団が自分たちの嗜虐心に突き動かされて偶々私という人間に目を付けたに過ぎず、その先の未来には一抹の救いもあった。けれど、現状はどうだ。嘗て私を救い上げてくれた“高町なのは”その人が明確な悪意と敵意を持って私の前に立ちはだかり、あまつには倒れて動けなくなった私を足蹴にして足掻き苦しむ様を傍観し、嘲笑している。しかも、其処には一抹処か微塵すら救いが見えず、あるのは万蔓延る絶望だけ。例えどれだけ私が祈り願っても、もはや誰一人として私を助けようなどと思う人間なんて現れはしないのだ。そんな必然に対する恐怖と自分の知らぬ彼女と言う存在への絶望に私が顔を強張らせる中、彼女はそんな私の姿がさも可笑しいかの様にくつくつと笑い、そしてその双眸に更なる嗜虐の念を宿らせる。私はその目に心当たりがなかった。彼女に対して、という括りではない。生まれてこの方誰からも……例え私に対して理不尽な暴行を行ってきた人間でさえ、あんな残酷な瞳は持ち合わせてはいなかったという記憶が尚更私にそう思わせるのだ。アレは嗜虐に酔い痴れた者が持った瞳でもなければ、他ならぬ彼女自身が宿した目でもない。もっと何か別の……それこそ私なんかでは想像する事すら叶わないような悪意の塊が形を成して“高町なのは”という人型に納まったかのような、そんな理解の埒外の存在だ。そして、そんな私の思いを他所に、彼女は更に言葉を重ねていく。処刑人のように……死刑執行人のように……そして、神に赦しを請うよう諭す告解師のように。彼女は─────“高町なのは”は私への罵倒の言葉を加速させた。「ほぉら、これでお膳立てはしてあげたよ。あの日と同じように……同じ様に、ね。惨めじゃない? 惨めでしょう? 惨めだよね! あぁ……いっそ哀れな位に愚図だよ、すずかちゃんは。でも、自業自得だよね? あなた自身が自分の事を屑だ屑だって思い込んでるから、屑な結果が繰り返される破目になるんだよ。貴女は屑で屑だから、貴女の伸ばした手の先にいる人にまで危害が行っちゃうんだよ。屑だねぇ」「なっ……何、を……?」「そこ疑問視しちゃう所かな? まぁ、いいや。つまる所……貴女要領悪いんだよ、すずかちゃん。自分の事引き合いに出す前に他人が、他人がって言い訳塗り固めて、挙句の果てには自己嫌悪だもん。生産性があるわけでもなければ、自体を進展させる訳でも成長を促す訳でもない。ぶっちゃけた話、無駄な物を無駄なように駄々洩らしてるだけなんだよ。知ってる? それって他人から観たら他人の自慰目の前で曝け出されてるのと同じなんだってさぁ。しかも、すずかちゃんの場合そんな自分に酔ってるから尚更性質が悪い。不愉快とか気持ち悪いとかその辺りの感想すっ飛ばして、もう呆れるしかないよ」「ちっ、違……わた、しは─────」彼女の言葉を否定しようとして二の句を口にしようとする私。だが、何時まで経っても喉元に込みあがった言葉は囁かれる事は無い。だって……だって、彼女の言葉は真実以外の何物でもないのだから。異論を挟む余地すらないとは正にこの事だ。どれだけ自分が頑なに違うと言い張った所で、彼女が紡ぐ言葉は私が過して来た日々と記憶と照らし合わされて、重たく苦しい真実としてこの胸の中に落ちていく。つまり、それは自分自身が何処かで彼女の言い分を受け止めざるを無いと無意識の内に感じてしまっている所為に他ならない訳で……結局の所、私は今までただ自分を責める事で本当に目を向けねばならない事から逃げていただけに過ぎないのだ。認めたくなんて無い。あぁ、絶対に認めたくなんて無い。でも、もはや認めざるを得ないのだ。だって、もう私は彼女によって……目の前の“高町なのは”によって自分の総てを曝け出さされてしまったのだから。今まで自分が必死になって隠してきた汚い部分も穢れた部分も皆総じて、この記憶の虚に刻み込まされてしまったのだから。もはや……認めるほか道は無い。例え、それを認めてしまった結果の果てに自分が自分でいられなくなったとしても。私は、心の奥底に内包していた影の真実に眼を背く事は許されないのだ。「違わないよ、何も……。何一つとして違いはしない。これが現実。これが真実だよ。此処に来てまだ言い訳重ねたいならと目はしないけどさぁ、はっきり言って無様だよ。無意味にして無価値。もうその言葉には何の意味も篭りはしないよ。何せ─────」「ぐぁっ……あ゛っ……あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁあああああああ!!」「その痛みも! その無様な姿も! この腐った夢でさえ、全部貴方が引き起こした事なんだからさぁ!! 泣き叫びなよ……より惨めに、より無様に。せっかくだからバケツ一杯になるまでわんわん泣いてみれば? ジャンプか何かの雑誌からヒーローが飛び出てくるかもしれないよ? まぁ……その腐った性根入れ替えるには啼いた程度じゃ済まないだろうけどね」ニヤニヤと笑いながら、靴の裏で倒れている私の身体を踏み躙る彼女。その顔はもはや残虐を通り越して周忌的にも思えてしまうほど酷く歪んでいた。地獄の淵で笑う悪鬼の類。死者の日の髑髏の如く歪に微笑む彼女の表情はもはや人の物とはかけ離れていたように私には見えた。だが、次の刹那にはそんな視覚的な恐怖も頭の中を疼き回る頭痛と彼女に踏み躙られる事で生じる肉体的な苦痛に上書きされ、一瞬すら経たずに私の意識を痛みで塗り潰す。口元から声にならない獣のような悲鳴が上がる。それは私が意識して発した物ではない。あくまで自然に生まれ出た産物……言うなれば、もはや断末魔に均しい苦痛と怨嗟の叫び声だ。果ての無い頭痛に連動するように、そして彼女が嘲笑いながらその様を見て踏み躙る力を強くするのに連動するようにその叫び声はドンドンと強まって行き……そして段々と弱まって行く。もはや、痛みに反応する気力すら薄れ掛けてきていると言う事なのだろう。身体を駆け巡る苦痛が強まるたびに私は幾度となく意識を奪われそうになり掛けた。だが、それでも私は意識を失い気絶する事は無い。意識を手放す事を、私を足蹴にして嘲笑を浮かべる彼女が許してくれないのだ。凡そ肉に食い込むほど……それこそ骨に罅が入ってしまうのではないかと錯覚してしまうほど強い力で彼女は執拗に私の身体を蹂躙してくるのだ。靴底がずれて皮が削げるほど強く、むき出しになった肉が血飛沫を上げて爆ぜていくほど容赦なく。彼女は私の意識を奪い去ろうとし、そしてまたそれを決して許さない。言わば拷問の常套手段だ。精神的にも肉体的にも苦痛を与え、そして適度に焦らす事で更なる恐怖と絶望を煽ろうとする。そして、それを身に受けた人間は至極ゆっくりと……しかし、確実に壊されていくのだ。内面から……そしてやがては意識や精神を廻って神経に、その猛毒を巡らせ形成された自己を殺す。それはこの場においても決して例外ではなく、案の定私は次第に壊されていった。他ならぬ、彼女の手によって─────高町なのはの手によって……。「あ゛っ……あ゛あ゛、っがっぁ……」「痛いかな? 苦しいかな? 辛いかな? でもさぁ、私はもっと痛かったんだよ? もっと苦しかったし、辛かったんだよ? 一時期はまぁ、屋上から飛び降りようかなって思っちゃうくらいにさ。んで、その時貴方は何をしてたよ? 私が泣いている時……苦しくて蹲ってる時、助けて欲しいって請うている時に何をしてたよ? 何をしてくれたよ!? 結局自分は不幸だ、可愛そうだって悲劇のヒロインぶって遠巻きから眺めてただけでしょうよ! ムカつくんだよぉ、何よりも貴方のそういう所がさぁ……。いっそ、ぶっ殺してあげたくなっちゃうくらいに、ね」「痛、ッ゛……がっ、わた……し、は……そんな……」「ほぉ、まだ口答え出来る気力があるとは驚きだね。正直へばっちゃってたと思ってたけど、感心したよ。ゴキブリ並みのしつこさだ。っても、肝心な時にその根性活かせない様じゃ無用の長物もいい所だけどね。あ~ぁ、まったく……くだらない。何でこんな人間の為に我武者羅になってたのかねぇ、私……。あぁ、そういえば貴女と交わした約束がそうさせてたんだっけ? もう昔過ぎて忘れちゃいそうだけど、なんというかまぁ……自分に都合のいい綺麗な記憶だけは取っておくもんなんだね、すずかちゃんってさ。その妄念、その愚念だけは一応評価してあげるよ。賞賛に値する。いっそ清々しいほどに─────ほんっとぉぉぉおおおに私をイラつかせるよ! 貴方っていう存在はさァ!!」瞬間、そんな怒声と共に今まで私の事を足蹴にしていた彼女の脚が振り子のように振り上げられ、目にも止まらぬ速度で私の身体へと繰り出される。その蹴りの威力と衝撃はもはや人間の物に当て嵌まらない。凡そ、人の身にして人智を超えた存在─────魔人によって繰り出される“ソレ”だ。空を裂き、虚を抉り、無を蹂躙する彼女の脚はまるで鞠でも蹴り上げるかのように私の身体を宙へと踊らせ、間髪入れずに繰り出されたミドルキックによる追撃で背後に聳え立っていた校舎へと私を叩き込む。ミシリッ、ミシリッ、と歪な音を立て拉げながら宙を舞う私の身体。恐らく衝撃で骨や内臓が幾つかやられたのであろう。もはや宙を舞う私にはその衝撃に抗う術も、受身を取ろうと思い立つだけの意識も根こそぎ消え……一切の容赦なく、私の身体は無骨なコンクリートによって形成された校舎へと叩き付けられた。「─────がァっ!?」刹那、私の口元から悲鳴とも嗚咽ともつかない声が自然と漏れ出す。もはや意識や思考など、其処には一切含まれてなどいない。単純にこの身に受けた苦痛から……身体が叩き付けられたコンクリートの壁に罅が出来るほど強い力で蹴り飛ばされた事によって生じた痛みと苦しみから来る物だ。しかし、其処まで理解していても尚、私の身体は駆動する事は無い。逃げる術など無い。その現実が身に染みて分かっているからだ。私は彼女から逃れる事は出来ない。そして、彼女が存在するこの夢からもまた……逃れる事は叶わない。何でこんな事が分かってしまうのかは私も分からない。恐らく何故って何万回自問自答したって寸分たりとも答えを掴めはしないだろう。でも、私には分かってしまう。まるで……それが“初めから仕組まれていたこと”であったとでも予め知っていたかのように。しかし、そんな思考が一瞬以上長く続く事は無い。次の瞬間にはそんな思考も薄暗い意識の中へと解け、代わりに自分の身体が自然の法則に準じて再び地に落ちていくという意識が瞬時に脳の中を駆け巡った。ぽとっ、という音を立てて再び地面に倒れ伏す私。けれど、もうそんな私に悲鳴をあげる力は残されてはいない。嗚咽を洩らすだけの気概も、彼女の顔色を窺おうとするだけの意識も、目の前の害悪に対する恐怖を帯びた感情でさえ……もはや、この身には何一つ残されてはいなかった。けれど、それでも彼女は止まらない。否、初めから止まる気なんて更々無いのだろう。彼女は倒れ伏した私の元へと足早に近寄っていき、その右手で私の髪の毛を鷲掴みにして無理やり私の視線を彼女の顔の方へと向けさせ、そしてまた笑って哂って嗤い……そして尋常ではないほどの怒気を露にする。まるで泣き笑いを浮かべているような複雑怪奇な心情と感情。憤怒とも、憎悪ともつかない表情を浮かべる彼女の姿が確かに私の虚ろな瞳の先にある。それが、私が最後に記憶した視覚情報の総てだった。「何でかな? 何でそんなに恥知らずになれるのかな? えェッ、どうなの! 教えてくんないかな!? ご大層に私が他人から酷い目に合わされるような事になった時はちゃんと駆けつけて手を差し伸べてあげる、なんて誓約自分から立てておいてさぁ……それでいざその時がくれば知らん顔してた訳じゃん。それをなに? 何時までも自分が自分がって悲観的になって勝手に自分の中で業として祭り上げて神格化しちゃったわけ? おめでたいねぇ……結局、そんなの最初っから無理だって分かってた癖に」「──────!?」「あぁ……ごめん、ごめん。もう喋れないっぽいね。でもまぁ、聞きなよ。別に誰も貴女の言い訳染みた戯言聞きたい訳じゃないし、よしんば口が聞けたところで話に水挿されるのが落ちだろうからね。んで……何処まで言ったっけ? えーっと……あぁ、元々貴女にその気はなかったって処か。何でそんな事が言えるかって? 簡単だよ、至極簡単。分かり易すぎるくらい瞭然さ。だってまぁ……すずかちゃんって昔っからさぁ─────」そこで、彼女の言葉は一旦途切れた。恐らく、次に自分が発する言葉のニュアンスをより強固な物にする為の挙動だったのだろう。彼女は含み笑いを浮かべ、ぎらついた瞳を闇夜に浮かぶ三日月のように細めながらそっと私の耳元に顔を近づけてきた。だが、普段なら怖気や恐怖しか感じないそれも、今の私にとっては何の感慨も抱く事は出来なかった。何せ、もう私の身体はボロボロ……反応したくとも、意識を働かせる前にこの身を這い回る苦痛がその感覚を狂わせてしまうのだ。しかし、反面それでもまだ私の精神的な部分は辛じではあるものの、彼女から受ける言葉の意味を近く出来る程度にはまだ保たれていた。彼女がこれから発する言葉……それがその精神すらも崩壊させかねない爆弾を孕んでいると、事前に読み取る事が出来る程度には。けれど、結局それも意味の無いこと。私には……もはや今の月村すずかにこの現実を避ける術など残されてはいない。抗う事も許されず、また逃避する事も閉じこもる事もまた然り。つまる所私は─────月村すずかは、もはや崩壊以外の道を辿る事はあり得ないのだ。そして、それを私が近くした瞬間、彼女の口がゆっくりと開かれ、私の耳元でその言葉をそっと囁く。それは果実のように甘い口調で語られる、氷河のように冷たい感情とニュアンスを含んだ拒絶と崩壊の言霊。月村すずかという人格を完膚なきまで壊す怨嗟の引き金が……今、言葉となって引き絞られた。「─────最初から誰一人、信用なんてしてこなかったじゃない」彼女の言葉が胸に落ちた瞬間、ドクンッ、と一度だけ強く心臓がその鼓動を跳ね上げる。悪寒が全身へと走り、止め処ない冷や汗が身体中の毛穴という毛穴からどっ、と溢れてくる。一体、何がどうなってしまったのかは私もさっぱり窺い知る事が出来ない。だけど、彼女の言葉が囁かれた瞬間……その呪詛のような言霊が響いたその瞬間、何かが私の胸に朝露の滴のごとく垂れ落ち、そして尋常ではない嫌悪感と不快感を全身へと奔らせてきた。気持ちが悪い。この頭痛よりも、全身を蝕む苦痛よりも何よりも、いっそこのまま死に果ててしまうのではないと錯覚してしまうような不快な衝動が胸から込上げて止まらない。一体何故? どうして?そんな疑問が何度も頭の中を反復し、消えかけた意識の中を無理やり弄り始める。答えが無い。見つけなくちゃ駄目だ……だって、その答えは私の記憶の何処かにきっとある筈から。だけど、その答えはずっと昔から─────それこそ物心付いた頃よりこの胸の内に仕舞い込み封印してきた忌避して然るべき真実だ。表に曝け出すなんて持っての外。もしも自覚してしまえば月村すずかとしてのアイデンティティすら崩壊させてしまいかねない物を呼び覚ます訳には絶対にいかないのだ。けれど、そんな論理破綻した自己矛盾はやがて自分の意思とは無関係のところで正され、表面化し─────そして、決して理解してはならない己の業を呼び覚ます。そう、それは彼女が語って聞かせてきたものと同じ何処までも破綻した己の業の記憶。嘗て自分がジレンマだと思い込んでいた数多の空振り……その裏側に隠されたもう一つの壊れた感情だ。最初から……そもそも今まで関ってきた人間誰一人として、私は心から信用していない。それは呪いの言葉であり、月村すずかという人間が自己の存在を正当化させる為に独自に形成し、今の今まで表に出ることなく培われてきた私の真なる想いが形となって生まれた言葉だった。思い出したくなかった。出来うる事ならこのまま死ぬまでずっと、自分自身にすら知られる事なく隠し通しておきたかった。でも、もう駄目だ。あまりにも─────それこそ致命的に忌避するのが遅過ぎたという他ない。私が……月村すずかが、本来知る事のなかった己が念に触れてしまった。もはや、そうなった時点で避ける事など出来なかったのだ。目の前の“高町なのは”によって“月村すずか”が壊されていくという、その現実を……。「─────……ぁ……」「私も! アリサちゃんも! 貴女の家族や使用人も! その他大勢、他ならぬ貴女自身も含めて皆、みんな、みぃぃいいいいんな初めから何とも思っちゃいなかったんだよ、貴女は!! 否定出来る? 出来ないよね! 貴女は何時だってその想いを自分の中で勝手に形成した薄っぺらい繋がりやら絆やらといった上辺だけの感情に覆い被せて無理やり自分を納得させてたんだもの。その鍍金が剥がれ落ちた今、貴女にはもはや何も無い。否定出来る材料なんて毛根一本、血液一滴程度の理屈すら貴女は持ち合わせちゃいないのさ!」「ぁ、ぁあ……あっ、あ゛あ゛ぁぁぁぁぁああああああ嗚呼アアアアア!!」刹那、私は叫んだ。喉が枯れるほど……それも血反吐が嗚咽と共に漏れ出しても意も解さず、ただただ獣のように泣いて、鳴いて、啼き叫び続けた。そうだ……もう自分には何も残されてはいない、彼女の言う通りだ。極限まで破綻しつくした自己理論、そして自己矛盾。正そうとすればするほど襤褸が出て、鍍金が剥がれ落ちるそれに突き動かされて生きてきた私に彼女の言葉を遮る言葉を生み出せよう筈が無い。元より破綻した完成しか持ち合わせていなかった私に、自身への否定を覆す術など持ち合わせよう筈が無いのだ。そう、結局は全部彼女が語り聞かせてきた言葉こそが真実であり、根源だ。思えばずっとそうだった……何時だって私は何かとつけては言い訳を重ねて自分の理屈を己の中で正当化してばかり。其処に致命的な矛盾が蔓延っていようが、常人にはとても納得し難い事柄が孕まれていようが結局己自身すらも信用していないが故にまともな自己否定すらままならなかった。そして、その理屈は飛び火してやがては自己から対人へ。受け止める対象は変わってもやっぱり根本の所は同じだ。他人を信用出来ないからこそ自己の中でその事実を捻じ曲げて、自分の都合の良い様に受け取り……そして決して其処から生じえる矛盾を認めない。例え、その結果自分の周りの人間に余計な負担を強いてしまっていたのだとしても。私は、自分を含めて誰一人として信用出来なかったが故に自己矛盾という妄執に取り付かれて、あらぬ方向にその歩みを進める事を止めてこなかったのだ。そして、これがその慣れの果て。行き着くべくして行き着いた、逃れる事の叶わぬ定めの岬なのだ。もう、私には引く事も戻る事も叶いはしない。それこそ、私という存在が─────月村すずかと言う人間がまったく別の存在へと昇華しない限り、私はもう何処にも行き着く事なんて出来はしないのだ。だって、もう私には進むべき道も戻るべき場所も何一つ残されてはいないのだから。例えこの現実を忘れて嘗ての己のまま過ごしていくにしろ、この悪夢は何処までも私の後を追って付き纏い続けることだろう。そうなったら、もう私は今までの私としては生きていく事は出来ない。だって……もはや其処に行き着くまでに私は、元の私からはかけ離れた存在にならざるを得ないのだろうから。瞬間、私は自分の中の何かが少しずつ移り変わろうとしているのを微かに悟った。「ふふっ、ようやく良い声であげたね。あぁ……実に心地良いよ。その悲鳴、その絶叫! 甘いね……実に甘い。絶望は崩落の華だ。もっと香らせて私を狂わせて欲しい所だけど……仕方が無いから今は此処で止めてあげる。時間も足りないし、まだ貴女も熟しちゃいないしね。果実は色がついてこそ美味足り得る。貴女の魂……そして貴女の抱える渇望が真に芽生えた時に続きをしよう、すずかちゃん」「ぁ……ぁっ、がはッ……ぁァ……」「さてさて……貴女は私を満足させる供物になれるか、否か。その答えが来る時を楽しみに待ってるよ。それでは……また近い内に。それまで好い夢を。私の愛しきノスフェラトゥ……」彼女がそう言葉を紡いだ瞬間、私の意識は其処で途切れた。否、途切れた訳じゃない。此処よりももっと深いところ……もはや天井を見ることすら叶わないほど冥い奈落の底へと意識が堕ちていっているだけだ。しかし、結局の所意味合いとしては同じ事。夢の中から更なる夢へ。悪夢の果てから更なる狂気へ……結局はその繰り返しなのだから。しかし、ほんの少しだけ……本当にそうなる前の一瞬だけだが、私は彼女の姿を─────“高町なのは”の姿を通して誰か別の人間の陰を見た。その姿は彼女の姿に比べると妙に不鮮明で、まるで宙で揺らめく影法師のようにまったくのそのシルエットを捉える事が出来ない。まるで幕越しに写りだす影絵の人型。高町なのはという少女の姿の幕に覆われた歪にして醜悪な霞が人の身をなしているかのようだった。けれど、私はその姿からある種人間が潜在的に持っているような不鮮明な印象を少しだけ感じ取っていた。その様はまるで実験体を愛し子のように愛で観察する科学者。それもある種の禁忌に手を伸ばしてしまっている狂気染みた物を背負い微笑む悪徳者のそれが最後に観た“高町なのは”からは感じられた。それが一体何を意味するのかは私にもよくわからない。だけど、この胸に芽生えた“変化”の感情とあわせてそれが良くない方向に向かって進みだしている事は何となく私にも感じ取れていた。でも……もう、どうだっていい。何処に行き着こうが何処に向かおうが、もはや私には意味の無いことだ。彼女が……いや、その向こう側に見えた“彼”が天使だろうと悪魔だろうと別になんだって構わない。特別理解しようとも思わないし、そもそもアレを掴む事なんて砂漠に落として針を探し出すより無謀な所業だろう。ならば、考えを及ばせる事こそが無意味であり、同時に無価値となる。それならば……もういっそ、私は堕ちて行きたい。この夢も、この現実も……何もかもを根こそぎ塗り潰す“夜”に私は堕ちてしまいたい。そう、私が希った瞬間……私の視界がパッ、と明るみを帯びた。「んっ? あぁ……目が覚めたんだね。よかった……」開かれた視界の先にあったのは空色の髪を揺らして優しげに微笑む見知らぬ女性の顔。そして、そんな彼女と私を覆うように聳え立つ一本の大きな大樹から鬱蒼と広がる数多の枝葉がそこにはあった。寝ていたのだろうか、一瞬そんな疑問が頭を過ぎったが─────私は直に考えるのを止めた。今はもう何も考えたくない。此処でこうして目の前の女性に微笑み掛けられるのがあまりにも心地よさ過ぎるから……。故に私はこの時、しばしの間総てを忘れて女性の微笑を眺め続けた。一切の稀釈もなければ偽りもなく、ただただ純粋な心を抱いているであろう名も知らぬ女性の姿を。ただ、この心が突き動かされるままに……。