苦しい。思わず血反吐を吐いてしまうほど─────意識の全てが苦痛と絶望に塗り替えられてしまうほど、私はその一念に強く心を揺さぶられる。視界に映る世界は霞み、傷だらけの身体からは数多の血潮が流れ出して止まらない。既に意識は朦朧とした物へと変わり、もはや立っているのすら億劫という有様だ。息を宙に吐き捨てるたびに肩口の傷が身体の奥底まで疼き、更なる流血が傷口から溢れかえって地面へと滴り落ちる。今この瞬間、私を蝕んでいるのはそんな悪循環。抗えば抗うほど……苦しみから逃れようと抵抗すれば抵抗するほど自身の首を何処までも強く締め付けていくという苦痛と混濁の円環だ。己が身を奔る痛みには際限が無く、また徐々に自身の思考と乖離しつつある意識は時間が経てば経つほど濁って穢れ堕ちる。結局はその繰り返し。何か例を挙げて現状を語るというのなら、今この瞬間起こっている出来事の本質は尾を噛む蛇だ。牙が自身の尾を噛み千切り、蛇の思考が停止するまでこの苦しみは消え失せる事は無い。この肉体が死滅し、名実共にこの心臓が動きを止めなければこの場においてその苦しみは永劫続いて終わる事は無いのだ。だが、それでも私は尚もその運命に抗い続けている。嘴で啄まれそうになれば魔法壁でそれを防ぎ、爪で肉を抉られそうになれば収縮した魔力を爆発させて牽制を図り、強靭な双翼で身を打たれそうになれば損傷覚悟で射撃魔法を行使して無理やり活路をこじ開ける。もう彼是さっきからずっと─────もはや自分が一体どれほどの間こんな不毛なやり取りを繰り返しているのかは定かではないが、回数として記憶している分にはその数もそろそろ二桁から三桁に到達してしまうほど私はこの戦いの連鎖に明け暮れていた。ただ、もう其処に私の意志は殆ど残されていない。痛みも、苦しみも、疼きも……この身を這い回る全ての悪寒すらも今の私にとっては意識すべき対象の埒外に位置するものでしかないのだ。では、一体何がそこまで其処まで私を駆り立てているのか、と言えばその答えは意外過ぎるほどに瞭然だった。そう、私が満身創痍になっても尚この状況に抗うその訳はたった一つ。今この時を生き延びたい、という酷く原始的で動物的な欲求だけがこの身を支配していると言う事実だけだ。故に私は何度も……否、何度でも目の前の敵に食って掛かる。もう自分に勝ち目が無い何ていう事はとっくの昔に理解はしているし、今更奇をてらうとか策をどうなのじゃあ一生標的には届かない事も重々承知してはいる。戦闘が始まって十数分も経っていないとは言え、私が出来る攻撃や防御のパターンは限りがある。となれば、当然目の前の標的─────鳥に寄生した暴走体こと鳥獣には徐々にその傾向を学習され、そう遠くない内に覚えられてしまうのが落ちだろう。しかも、それに加えて今回の暴走体には殆ど瞬間的に受けた外傷を治癒してしまえるだけの自己再生能力が有る。このまま戦闘を続けていてもジリ貧である事は間違いない、何ていうような事はもはや火を見るよりも明らかだ。だが、其処までどうしようも無い現実を突きつけられても尚、私こと高町なのはは自身がこの場を生きぬ事を諦めたりはしない。だって、私は生きたいと……今この時を生きていたいと願っているから。例えこの身が犬畜生に成り果てようと、外道に身を落とそうと、この身を賭して護った人達を笑い合いたいと心から望んでいるから。私は生きたい。故に最後まで……何処までだって足掻き続ける。今この瞬間、この場において私が戦う意思を放棄しない理由なんてそれだけで十分だった。「ぐぅッ─────ヅ、ォ、ォォオオオオォァァ!」もはや人の物とは程遠い獣のような唸り声を上げて、私は目の前に迫り来る爪を身を捻って回避する。その動作に用いられる所要時間は一瞬に満たず、また働いている思考も必要最低限のものに過ぎない。そう、今の私は殆ど動物的な本能から来る直感のみを頼りに先ほどから繰り出されている攻撃の悉くを回避しているのだ。防御が抜かれ、爪が肩口を抉ろうとすれば寸での処で身を捻って腕が持っていかれる前にその衝撃を半減させるよう勤め、嘴が腹を貫こうと迫ればそれ等の動作を予測して当たるか紙一重で避けるかという微妙な境界を見極める。そこら辺の凡人と比べても並以下の体力しか持ちえていない私が今になってもこうして正常に息衝く事が叶っているのは、偏にこれ等の戦法を用いている御蔭で致命傷に繋がる攻撃を受けていない事が幸いしてのことだった。とは言え、だからと言って今の私が優位であるのか、と言えば勿論それは違う。寧ろその逆、今の私は完全に劣勢に追いやられているのだと言ってしまっても過言ではなかった。何せ相手は殆ど体力勝負の肉弾戦であるのにも拘らず、こっちは己の内に流れている魔力を消費して戦闘を継続しているのだ。当然魔法を行使すればするほどこちら側は魔力を消耗するし、このままでは何時枯渇してもまったくおかしくは無い。しかも、現に今の私の魔力は一番の得意技であるはずの防御魔法すらまともに展開出来ないほどに消耗し切ってしまっている。このまま戦闘を続けていても相手に決定的な打撃を与えられない以上、此方は只管に消耗していく魔力の残量に縋りながらただただ不毛な攻防を繰り返すほか無いのだ。加えて、さっきから忙しく動き回っている所為で身体の疲労は相当な物になってしまっているし、肩口の損傷を初め、全身の様々な傷口から流れ出ている血液は余計にその疲労感に拍車を掛けてきてしまっている。今は気合と根性と言う自分の性根に最も似合わないであろう衝動に駆られている御蔭でまだ地に足を着いていることが叶っているが、既に意識が朦朧とし始めてきてしまっている以上は何時気を失ってその場に倒れるかも分かりはしない。心身ともに疲弊し切ってしまっているこの現状、正に背水の陣と呼ぶのが相応しい状態なのだろうと私は思った。「はぁ……はぁ…はぐぅっ、ぁァ……く、ぅぁ……。図にィ……乗るなァッ!!」虚しく空を切った鳥獣の脚を流し目で見届けると、私は即座に身を返して攻撃の来た方向へと即席で組んだ術式を撃ち込む。展開する術式はフォトンランサー、ただし弾数は一発のみ。殆ど単発の直射攻撃魔法と相成った桜色の鏃は瞬く間に私の手の内から発射され、音速を超える速度で標的の方へと突き進んでいく。刹那、グチョッ、という腐ったトマトを潰したような音が鼓膜を霞め、濃厚な血の臭いが新たに鼻腔を通して脳を刺激する。もはや放った攻撃が相手に当たっているかどうかなんて気にする余裕も無かったから私自身あまり意識はしていなかったのだけれど、どうやら今の攻撃は確実に相手を捕らえることが出来たらしい。その証拠に、次の瞬間には胸部から鮮血を撒き散らし、苦悶の咆哮をあげる鳥獣の姿が私の霞んだ視界にはっきりと映し出されていた。だが、当然その程度で鳥獣が怯む訳もなく、一瞬だけ仰け反るように後退した鳥獣は即座に双翼を広げて再び私へと襲い掛かってくる。その強靭な脚に携えた無骨な爪が私の身体を突き砕かんと暇なく繰り出され、無数の風切り音と共に私の身体を蹂躙しようと迫ってくるのだ。その攻撃の速度は機関銃もかくや。もはや避けようと考えてから避けられるような品物ではない。ならば一体この場を切り抜けるにはどうしたらよいと言うのか。そんなものは簡単だ。理論や理屈などではなく、ただ本能が赴くままに……溢れ出る“衝動”だけに身体を任せればいい。苦痛も、恐怖も何もかもかなぐり捨ててもはや自傷すら厭わぬ怪物に自身を変えてしまえばいいのだ。胸の内にあるのはこの場を生き残る事への欲求。頭の内にあるのは敵を殴殺し、縊り殺してやろうと猛る歪んだ殺意。そして、この身の内にあるのは自身の能力を己が持てる限界まで高め、それを支配してやろうと滾る衝動。それ等全ての要素が混ざり合い、噛み合い、組み合わさる事で私は『私』と言う箍から外れた存在へと自身を昇華させる事が出来る。果てない欲求に突き動かされ、ただ目の前の存在を倒そうと猛進する殺戮機械へと己を変えてしまうことが叶うのだ。だから、今の私がこの程度の攻撃で死んでしまう訳が無い。そう思い込めば……幾ら自分が傷付いた所で、それ等が死に繋がる要因にならないと思うことが出来れば私は何処までも自身を加速していく事が出来るのだ。故に、この場においてもそれは同じ。例え目の前で断続的に繰り出される攻撃を全て自身が避けられないのだとしても、それが明確な死を意味していないのなら今の私は臆する事なく前へ前へと突き進められるのだ。例えそんな衝動に駆られている所為で身体が既に襤褸襤褸であったのだとしても。身体中の其処彼処で跳ね飛ぶ流血が確実に自分の命をすり減らし、この心臓を蝕んでいるのだとしても。思考も論理も何もかもが破綻し、建前と行動が……生きたいと願う心と只管に身体を突き動かしては壊れ果てさせる自傷の念との区別がつかなくなり、結果的に自身を崩壊に導きかねない矛盾をこの身が孕んでしまっていたのだとしても。私は止まらないし、止まれない。だからこそ、私は今もこうして只管に前へ前へと自身の身体を推し進めていくのだ。例えその所為で、更なる傷をこの身に刻み付ける事になろうとも……更なる痛みを被る事になろうとも……。私は束の間の狂気と暴力に己を酔わせて恐怖を忘れ、更なる悦楽でこの身を充たす為に自らその攻撃が繰り出される方へとその身を躍らせて行くのだった。「っ、ぅッがぁッ!? はァっ……ぅぐォォオオオッ!!」脚の筋肉をバネに換え、傷付いた腕を交差し、其処に微弱な防御魔法を張りながらも私はその攻撃のど真ん中に突っ込んでいく。身体を動かすたびに脈動する血管が酷く熱を帯びてしまい、傷がほんの少し外気に晒されるたびに猛烈な激痛が全身を弄ってくる。だが、此処で立ち止まっては相手側の思う壷。絶え間なく繰り出される爪の刺突の前に身体をバラバラに引き裂かれ、直視するのも耐えないような無残な死体にこの身が変わり果てるのを待つばかりだ。だからこそ、私は前に足を進め続ける。どうせ退がったところで、躱わせはしないのだ。ならば今此処で生き残るにはほんの少しの可能性に─────連続して繰り出される刺突の軌道を読み、その僅かな間隙へと身を捩って滑り込む事に賭けるしかない。私は喉を枯らさんばかりの獰猛な雄叫びを上げながら、地を蹴って自分の目論見を果たさんと一直線に鳥獣の懐へと突っ込んでいく。しかし、現実は超人的なヒーローが大活躍する漫画のように早々上手くいくものではない。まして相手は人知を超えた化け物で、自分は多少異能の力がほんの少し行使出来る程度の実力しか持たぬ一般人でしかないのだ。そんな圧倒的に此方側が不利な状況下で都合良く転機が廻って来る、なんていうのは本当に一部の熱血少年漫画の世界の中だけだ。現に攻撃の軌道を見極めるなどという私の荒滑稽な目論見は刹那の内に空想の産物へと回帰し、非情な現実だけが私の身体を容赦なく攻め立ててくる。なけなしの魔力で張った防御陣は瞬く間に機関銃の掃射のような鳥獣の攻撃によって引き裂かれ、その攻撃は継続して私の身体を貫かんと幾度と無く腕を、脚を、腹部を、胸部を、そして頭部を嬲っていく。皮膚が裂け、新たに生まれた曲線のような傷から新たな血潮が流れ出す。肉が抉られ、その傷口からゴポゴポと泡を立ててどす黒い体液が身体を湿らす。ゴキッ、と何かが折れるような鈍い音が身体の内から響き渡る。痛い、いたい、イタイイタイイタイイタイイタイ──────────「ぐァッ……ォァオオォッ。ふっ、くふふっ─────うふふっ、うふふふふ……くくッ、あははッ……」度重なる激痛と衝撃の所為で頭がおかしくなりそうになる。今この瞬間にも視界は何度もホワイトアウトとレッドアウト繰り返し、考えた端から思考が頭の中から吹っ飛んで消える。もはや今の私に理性なんてものは存在しない。全身に走る感覚が何であるのかも、身体中から滴り落ちる液体が何なのかも、自身の体温が熱いのか冷たいのかさえ知覚する事が叶わないのだ。代わりに今この瞬間、私を支配しているのは絶え間ない激痛と衝動。生きたいと願うが故に生まれた忌避感と例えこの身が滅び去ろうと目の前の敵を全力で縊り殺そうと猛る想いがぶつかり合い、其処から生まれた決定的な矛盾が内包された狂気だけが今の私を『高町なのは』として確立させているのだ。故に……そう、だからこそ私は笑い、嗤い、哂う。この身を蹂躙する激痛すらも愉悦に変えて、ただ只管に私は今この刹那を雷鳴の如く駆けるのだ。ただこの瞬間、暴れ狂う為だけに生まれた狂乱する災厄として。何を願い、何を想い、何を望もうと片端から忘れて暴れ回れる様な血煙のハリケーンとして。私はただ只管に……痛みも忘れて、突き進むのだ。何処にでもなく、真直ぐに……一直線に。「─────おおおおおぉぉォォァァァァァァ!!」数多の鮮血を撒き散らし、既に百を超える傷の疼きに駆られながら私はただ目の前の標的に自分の持てる全ての殺意と悪意をぶつける事のみに全神経を集中させる。もはや魔力が枯渇しかかっている事など知った事ではない。この身から流れ出した血潮が既に致死量に達しようとしている事も、目の前に映る世界が色濃い真紅に染め上げられている事もこの身にとってはどうだっていい事だ。私はただ、生きたい。もう今更こんな自分が人並みに真っ当なんて物を求めること事態どうかしているとは思うし、実際他人に聞いてみたところで十中八九今の私は目の前の暴走体と変わらない狂気を孕んだ化け物だと罵ってくるだろう事は何となく想像も付くというものだ。だが、そんな私でも─────怪物を屠る事だけに駆動し続ける化け物にも一筋の安息が与えてくれる場所と人があるというのなら、私は今この時を生きていたいのだ。辛い事も沢山あったし、消えて無くなってしまいたいと思う事だって百や千では利かないくらい幾度と無く在った。時には自ら命を絶つことを夢想した事だって無いという訳ではなし、実際に先生と出会うまでは半ば自殺願望にも似た思いを抱いていた時期だって在った。だけど誰からも嫌われ、蔑まれ、疎まれ続けていた私を……親友からも両親からも兄妹からも見捨てられ、孤独になった私を救い上げてくれたこの『高町なのは』を救い上げてくれた人だってこの世界にはちゃんと存在しているのだという事を私は知っている。確かにこの世界は何処までも私に厳しく、残酷な世界だけど……それでも一筋の希望の光を抱かせてくれる程度には温もりも在るのだと私は信じ続けたい。信じ続けて……いたいのだ。だから、今は束の間の安らぎと温もりを求める少女である『高町なのは』と言う存在は捨ててしまおう。この瞬間、この先もずっとこの世界で生きたいと望み続けるのなら、今はただこの身を刹那を駆け抜ける暴れ狂った嵐に変えて目の前の標的を殴殺してしまおう。私は望む。強く強く……狂獣である自分の姿を望む。この身は確かに貧弱で、その内に秘める心もまた底なしに脆弱な物なのかもしれない。だけど、この身に猛る想いは─────今この瞬間を生き抜こうと駆けるこの想いだけは黄金の輝きに均しい輝きを帯びている筈だ。だったら、もう私は痛みなんか怖くない。血がこの身から流れ出す事も、骨が折れて砕ける事も、内臓が潰れて息が出来なくなる事だってちっとも恐ろしく感じたりなんかしない。だって私は嵐だから。この身は刹那を吹き抜ける災厄であり、自然災害に意思など存在する筈が無いのだから。私は全身を蝕む全ての負の感覚を忘れて地面を駆け、自身の片腕に己が今持てる有りっ丈の魔力を込めながら勢いに任せて真っ赤に染まった視界の内で捉えた鳥獣の胸部へとその腕を突き出して言霊を放つのだった。「フォトンッ、バァァアアアストォォオオオッ!!」刹那、私の掌の内で桜色の魔力が爆発し、その閃光は空間を蹂躙する圧倒的な暴力となって鳥獣へと叩き込まれていく。羽毛を毟り、肉を剥ぎ取り、骨の髄まで苦痛を染み込ませた上で微塵に砕け散らす。ほんの一瞬、桜色の閃光が瞬く間に起こった無数の災厄はその光が掻き消えるのと同時に悲惨な実状を次々と露にし、その身が引き裂かれてるような痛みを鳥獣へと齎していく。絶叫、もはや悲鳴とも嗚咽ともつかない甲高い咆哮が私の鼓膜を振るわせる。その瞬間、私は瞬時に悟った。目の前の敵は苦しんでいるのだと……自分が放った攻撃によって耐えがたい苦痛を被ったのだと。それは当然と言えば至極当然の事。何せ、鳥獣は今の攻撃で胸部から下を根こそぎ喰い千切られたのだ。これを苦痛に感じないと言うのならそれは生物としての根本から間違っているのだろうし、その程度の事を自分自身が理解出来ないという訳でもない。だが、それはあくまでこの身が普段通りの私であったらの話であり、今の私は少なくとも“まとも”ではない。この身は一匹の手負いの獣。この身は一陣を駆ける暴れ狂う嵐。この身は─────もはや、狂気と嗜虐に酔いしれた怪物でしかない。故に、私は自身の力が敵を蹂躙した事を認識した途端、壊れたオルゴールのように笑い出す。其処に声など無い。激痛に歪めた喉から漏れる乾いた微笑も、歓喜に震えて溢れ零れる嬌声も無用だ。しかし、その顔に浮かぶ表情……今この瞬間を何物にも変えがたい愉悦と絶望の瞬間であると物語る表情だけは絶え間なく哂い続けている。それだけで、私はもう十分。その感覚を感じているだけで、私はもう十分現状を把握する事が出来る。今この瞬間、標的の生命逸脱の権利は私側に在るのだという事を。この場における絶対的な強者は私なのだという事を。ただただ淡々と、しかし余す事なく……私は享受することが叶うのだ。そして、状況は更なる境地へと移り変わる。赤く濁った私の視界に一筋の輝きが照り輝き、その光がこの身に更なる衝動を叩き付けて来たのだ。この身に迸るのは耐え難い悪寒と、垂れ流される歪んだ欲望。様々な悪意が交じり合い、それが槌となって心の奥底を激しく打ち付けてくるような感覚が私の意識の中に溶け込み、消え掛かった理性を更に薄い物へと変えていく。そう、それはあの時と……ジュエルシードが発動した時とまったく同じ、酷く醜悪で気持ちの悪い波動だった。だが、私はその波動が心を揺す振った瞬間、視界の片隅で光る存在がその感覚の源である事を瞬時に感知した。何故そう思ったのかは私にもよく分からない。だけど、私には分かる。何の根拠も無いけれど、確かに解るのだ。もはや理屈ではなく勘─────人間的で雑多な理性ではなく、動物的で純粋な本能が幾度と無く私に訴えかけてくる。あれは自分もよく知っている波動であるのだと。あれを排除すれば私に降り掛かる危機は去るのだと。あれがあるから自分は今こんな理不尽な目に合っているのだと。何度も何度も、それこそ微塵となって消え去ろうとしていた理性が憤怒と憎悪となって再燃し始めるほどに私へと訴えかけてくるのだ。ならば……一体、私はどうすればいいのか。そんなことは今更論ずるまでもない。本能に、ただ只管に自分の本能に従ってあの波動の根源を標的から奪い取ってしまえばいいのだ。その考えが頭に浮かんだ瞬間、私の四肢は自然と反応を起し、傷だらけの脚が血と砂が交じり合って生まれた汚泥を後方へと跳ね飛ばす。目標の場所は分かっていて、ゲームのクリア条件も今や明確な物となった。どれだけ自分のライフが削られていてもミッションさえ充たせばクリアはクリア、この場を攻略した事に違いは無いのだ。すなわち、私がしなければ行けない行動はこの場において唯一つ。刹那、私は本能の赴くがままに地面を蹴って宙を飛び、負傷して動けなくなっている鳥獣の胸部へと腕を伸ばして一気に距離を詰めるのだった。「見つッ、けたァッ! と、どっ……けぇぇェェエエエエッ!!」苦痛と冷笑に表情を歪ませながら、私は一直線に鳥獣の喉元へ─────標的の身体に侵食し、肉と脂肪に塗れながらも変わらず負の波動を孕んだ光を放ち続けるジュエルシードへと手を伸ばす。私と鳥獣との距離は最早1メートルとない。幾ら私の身体能力が常人のそれを遥かに下回っているからといっても、決して届かない距離ではなかった。加えて、相手は先ほどの私の攻撃で手酷い損傷を負ってしまい、とてもじゃないが回避など出来る状態じゃない。故に、結果私の腕は鳥獣の喉元へと突き刺さり、伸ばした腕の全体を生温い感触が包み込んでいく。幾重にも刻まれた大小様々な傷へと鳥獣の体液が滴り落ち、それが言いようの無い不快感となって頭の内に幾度と無く警笛を鳴らす。だが、私は伸ばした腕を決して引っ込めようとは思わない。それどころか今この瞬間、自身の掌で掴んでいる物ごと喉を掻き切ってしまいたい衝動に私は駆られていた。「ぐえっ─────」という情けない嗚咽が鳥獣の口から不意に漏れる。喉元を内部から直接突かれた所為なのか、それとも核となるジュエルシードを排斥されかかっている所為なのかは定かではないが、その声色は酷く強張っていてまるで肉食獣に追われる小動物のような印象を私に抱かせた。それが理解できた途端、更に私の表情は邪で歪な感情に歪み、胸の内に秘めた嗜虐心が鼓動を回して心臓を跳ね上がらせる。ずっと……そう、私はずっと我慢してきたんだ。例えどれほどこの身が理不尽な人災に見舞われようとも抵抗しては更に仕打ちが酷くなると分かっていたから……もうこれ以上苦しみを増徴させたくないから私はずっと、ずっと息を殺して怨恨の念を溜め込み続けてきたのだ。だが、もうこうなってしまった以上何も我慢する必要なんか無い。普通なんて要らない。平凡も、日常も、平和も、皆須く音を立てて崩れ去ってしまえ。私はただ殺し、誅し、弑し、戮し、殲し、鏖すだけ。自身がこれまで溜め込んできた悪意を糧に、虐殺と略奪の限りを尽くさんと暴れ回るだけだ。ならば─────そう、ならばこの場において私は奪われる者ではなく奪う者だ。虐げられる者でもなく、蔑みを受け続ける者でもなく、ただ上を向いて嘆き続けるだけ者でもない。私は奪う取る者。私は簒奪する者。私は略奪する者。例えそれが一時の慰めにしかならないのだとしても、この場では私が主導者であり、今この瞬間私だけが標的から命を奪い取る事の出来る存在なのだ。だったら、もう私は周りに媚び諂いながら生きる『高町なのは』でも同級生や周囲の人間から嬲られ、排斥される『高町なのは』でもない。ただ本能のままに己が渇望を求めて暴れ狂う嵐─────唯一つの災厄としてこの場に吹き荒れる『高町なのは』だ。故に、私は食い破ろう。標的の喉元を引き千切り、その力の根源を簒奪し尽くしてしまう。私は苦しみのあまり一層脈動を増す鳥獣の喉元を必死に掌で押さえ込みながら、自身の体重を全て後方へと掛けて一気に侵食したジュエルシードを引き剥がそうと力を入れる。ぶちぶちと神経が引き千切れる音が鼓膜を震わせ、不快な絶叫と共に鳥獣がその場にのた打ち回ろうと足掻き始める。だが、私の腕は鳥獣の喉元へと突き刺さったまま、決してジュエルシードを取りこぼす事は無い。それどころか、鳥獣が暴れれば暴れるほど……苦しみから逃れようと足掻けば足掻くほど、その力が自身の肉や脂肪を裂き、更なる苦痛を鳥獣へと齎すばかりだ。そして数秒もすればジュエルシードを包み込んでいた肉は削がれ、私の手の内には徐々にジュエルシードの無骨な感触が露になっていく。このままなら鳥獣が負傷した部分を回復するよりも先にジュエルシードを引き抜くことも不可能ではない。私は今までよりより一層鳥獣の喉を掴んでいる腕に力を入れ、その行動だけに自身の全神経を集中させながら、獣のような咆哮をあげてジュエルシードを引き抜こうと猛るのだった。「うっ─────がァッ!? 引っ千切れろォォオオオァッ!!」腕を引き抜こうとすると同時に私の胸部に耐え難い激痛が迸る。どうやら鳥獣の連撃を突破する際に受けた攻撃の所為で肋骨か肺に手酷い損傷を負ってしまっていたらしい。もはや呼吸をする事すらもままならなく、私は堪らずその場に膝をつきそうになってしまう。だが、それでも……其処までされても尚、私は倒れたりはしない。此処で倒れる訳には行かないのと─────此処で死ぬ訳にはいかないと猛る本能が、私を諦めさせてはくれないのだ。例えどれだけ苦しくても、例えどれだけ投げ出したい気持ちになったとしても。私が今の私である以上、安易に膝をついたり、気絶したりなどを引き起こす事は赦されないのだ。口内でごぷっ、と何かが溢れ、血の味が舌の上を微かになぞって行く。吐血、どうやら本格的にあまり私に時間は残されていないということらしい。だが、ようやく私は此処まで来たのだ。あれだけの劣勢、あれだけの力量差、あれだけの不条理を全て覆して私はようやく勝利の間近へと歩を進めてこれたのだ。負けない……此処でイモを引く訳にはどうしてもいかないのだ。生き残りたい。この場において私は何物にも換え難い勝利の愉悦を得たい。だから……そう、だからこそ私は例えどれだけ傷付こうと、意識を手放そうとは考えたりなんかしないのだ。そして、その渇望は力となって言葉に顕現する。どれだけ暴れまわろうと、決して意識を手放すものかと猛る執念へと変わっていく。私は鳥獣の強引な抵抗に幾重にも身体を振り回され、見に奔る激痛に時折意識を失い掛けながらも、鳥獣の喉元から筋肉や神経ごと侵食したジュエルシードを無理やり引き剥がして高らかに自らの勝利を宣言するのだった。「これっ、でェ……ラスっ……トォッ! 私の─────勝ちだァァァァァアアアアアァァァッッ!!」瞬間、私が放った勝利の雄叫びだけが一体の空間を欠片すら余さず根こそぎ支配する。吐血と唾液が交じり合って生まれた飛沫が口元から漏れ出し、それは刹那の内に地面へと落ちて赤い染みを作っていく。息をするのも苦しい。そればかりか、もはや自分の感覚が正常であるのか否なのかも判別がつかなくなってしまいそうな程に意識は朦朧として、真っ赤に染まっていた視界は完全に景色を見失ってしまっている。もはや自分が前を向いているのか後ろを向いているのか、立っているのか座っているのか倒れているのかさえ私には分からない。恐らく、あまりにも身体を酷使し過ぎた所為でまともに五感が働いていない所為なのだろう。今や私の身体はまともに自身の状態を把握する事すら出来ない有様だった。唯一つの例外を……この身を包む鮮血の温もり以外の感覚を除いては。血に染まった掌の中で何かが鼓動する。それはまるで生物の心臓のように脈を打ち、残り香のような微かな温もりを孕んでいた。瞬間、私は自分が今どのような立場にいるのか、という事を瞬時に理解する。それは殆ど獣染みた理屈の元で導き出された答えだった。理性や思考など其処には欠片すらも存在せず、凡そ文明的な生活を送る者からすればその理屈が常識の埒外に位置する事は必須だと即座に理解する事が出来た事だろう。だが、この場においてはそれこそが事の顛末であり、心理だった。人の身姿をした獣と異形の身姿を獣が共食いを起し、互いの命を奪い合った末に片方が生命の核を抉り取られて事切れた。それが全て……そう、それこそがこの場に起こった出来事の全てなのだ。故に、今此処でこうして何かどうでもいいような戯言を考えていられる物こそが勝者であり絶対者。つまり、この私こそがこの場における勝利の愉悦を感じる事を赦されたただ一人の者なのだ。私は急に重くなった瞼で視界を閉ざし、込上げてくる血液交じりの胃液で何度も咳込みながら掌から溢れ出す温もりだけを自らを支える頚木に変えて、自らの内で溢れかえる幸福感に一人酔い痴れるのだった。「ハハハ、ははっ……ごぶっ、げふぉ……くっ、ひっひひ。あははは、はははははは! アッハハハハハハハァァァッッ!! どうよォ、ざまぁみろってねェッ! 出来たよ、一人で……ごォッ……ちゃんと、敵を……がァォっ! ひっ、ヒィハハハハハハハ! ハハ、ハハハハ、アァァハハハハハハハハ!! くくっ、かっ、はぁ……ひゃはっ、ぁ─────」その瞬間……その刹那に私が感じた幸福は間違いなくこの世に生を受けてから今に至るまでの九年という月日のなかで至上の物だった。何せ、この一瞬で私は自身の内に溜め込んでいた鬱憤や憎悪、殺意や怨恨といった悪意を全て解き放つ事が叶ったのだから。数多の人災に蔑まれ、踏み躙られ、脅され、穢され、虐げられてきた記憶からようやく『高町なのは』を開放する事が出来たのだから。故にこの瞬間私は何もかも忘れてただ只管に笑い続けた。自身が遠の昔に致死に至る量の傷を負い、己が何時死んでもおかしくない状況にあるのだという事も。自身が何の為に戦い、何の為に異能の力を今まで行使してきたのかと言う事も。自身の手の内で光るジュエルシードの活動がまだ終わっていない事さえ、私は忘却の彼方へと追いやったのだ。結果、その慢心は一瞬の内に勝敗を逆転させる引き金となってその場に現れ、即座に引き絞られて残酷な現実をこの世に露にする。ぼたりっ、ぼたりとどす黒い体液を撒き散らしながら、不死の鳥獣が駆動を開始するという現実へと私を誘って行くのだ。瞬間、私の身体が羽毛のように宙を舞い、コンクリート製と思わしき硬い壁に容赦なく叩き付けられる。痛みは無いし、疼きも無い。血が身に堕ちて滴る感触も、意識が遠退く感覚も、苦しみがこの身を蝕む事も、激痛が神経を蹂躙する事も……何もかもが私の中から欠落してしまったかのように活動を停止してしまうのだ。そして、その代わりに伝わってくるのは一筋の血流が口元から垂れ堕ちていく微かな温もりと、勝利の証を掌から剥奪される感覚。あれだけ苦労して……あれだけ傷付いて……ようやく手にした勝利が、容赦なく奪われていく。理由も理屈も分からない。今となっては確かめようも無いし、指先一つまともに動かす事も叶わない私が今更どうしようと結果を覆す事なんて出来ないと分かっているからだ。私は負けたのか。それとも勝ったのか。多分現状を言葉にして表現するのなら恐らくその両方とも当て嵌める事が出来るのだろうと私は想う。確かにあの瞬間、ジュエルシードを引き剥がす事に成功したあの瞬間までは間違いなく私は勝者としてこの場に君臨していられた。敵を倒し、生命の核を奪い、ただ一人生き残った物としての優越を感じていられた……それは紛れも無い真実だ。だが、本当に─────あぁ、心底どうでもいい事ではあるのだが、其処から先の私は今と同じ事切れた襤褸人形でしかなかった。魔力も生命力も何もかも使い果たし、一筋の幸福に酔いしれながら崩れ落ちていく目の粗い継接ぎだらけの人型でしかなかったのだ。故に今の現状は結局私が相手の力量を把握し切れず、無謀にも捨て身の攻撃を放って返り討ちにあったという結果に過ぎない。だから私は負けた……意識が事切れた先の未来で最後の最後に敗北してしまったのだ。最後の最後まで、ジュエルシードの危険性と特性を見極められなかった私自身と言う存在に。「……ぅ……ぁ……」私の瞳はもう何も映す事は無い。私の耳はもう何も聞き取る事は無い。私の鼻はもう何も嗅ぎ取る事は出来ない。私の指はもう何も感じる事は出来ない。私の舌はもう何も働く事は無い。五感が死滅し、ただ暗くなった意識の底で、私は一人元の『高町なのは』へと自己の意識を回帰させて行く。思えば今まで生きてきた人生なんて碌でも無い事の繰り返しでしかなかった。幼少の頃から家の中でも外でも居場所なんて無くて、誰一人私の事を注目してくれる人もいなかった。皆、みんな……私の事を無視するように遠ざかっていって、結局私は何時も一人だった。まぁ、四歳、五歳、六歳と歳が重なるに連れて確かに一時は私も気持ちを持ち直した時もあったにはあったのだけれど。お父さんも無事に病院から退院し、私も学校で友達が出来て、ようやく何もかもが一つに纏まっていくのだと想った時も無かった訳ではない。だが、現実は何処までだって非情で残酷だ。今となっては周りの人間からは悉く虐められ、家族からは邪魔者扱い。長年欲して止まなかった友達は遠ざかり、社会からは問題児のレッテルを張られて陰口をたたかれる始末。そして挙句の果てには此処でこうして努力も虚しく化け物に身を裂かれて殺されるのがその結末だと言うのだから、もうこれ以上の最低なんて他には無いだろう。未練が無い訳じゃない。生きたかった。もっと先の未来を……もしかしたらありえたかも知れない未来を私は生きたかった。だが、もう何をしたって私が助かる見込みは無い。何せ、自分の身体だ。自身の限界や状態くらい何となくだが掴む事くらいは出来る。いっぱい血も出たし、傷付きもした。多分さっきの衝撃で幾つか骨も折れたのだろうし、もう呼吸をする事もままならなくなりつつある。もう自力で回復魔法を唱えられもしない以上、後は死を待つ他私に選択肢は残されてはいないだろう。殺すならもういっそ一思いに殺して欲しい。薄暗い視界の中で私は残された意識をその一念を願う事のみに行使する。どうせこのままでは後数十分と持たない塵みたいな命だ。出来る事なら迅速に、そしてなるべく惨たらしく殺して欲しい。こんな私でも……こんな場所で打ち捨てられた襤褸人形のような私でもそれが生きた証明になってくれると言うのなら、どうかこの身を引き裂いて殺して欲しい。私は願う。誰に何を想う訳でもなく、ただ只管に自信の死に恋焦がれる。そう、きっとこれこそが私の本質なのだろう。未来に来るかもしれない幸福を夢見て先へ先へと進み続ける『高町なのは』と今の現実に絶望して自身の排斥を恋焦がれる『高町なのは』。どちらも均しく“私”であり、そのどちらもが駆動や自傷の衝動となって現れる以上、それらは均しく歪んだ本質を内包し、己が渇望として具現するのだろう。底知れぬ矛盾として─────未来を生きたいけど今の自分を消したいと望む、醜悪な矛盾として。ならば今此処に在る高町なのはが消えることもまた、私の望んだ未来の一つだ。自身の中の負の感情……陰と陽の内の陰としての自傷衝動の極限が今此処に具現しようとしているのだから。(あぁ……そっか。なら──────私は……)自傷の念に苛まれ、その果てに死滅する事をずっと望んでいたのだ。其処まで感情が浮かんだところで、私は不意に其処に疑問を感じた。では、何故私は勝ちたいと願ったのだろう。此処でこうして惨たらしい死を晒して、自分の人生は所詮最底辺の物に過ぎなかったのだと自嘲しながら死んでいく事を切に願っていたと言うのなら、何故私はあの時勝ちたいと望んだのだろう。分からない─────否、そんな事は初めから分かっていた筈だ。何の為に私は闘おうと決めたのだ。何の為に私は此処まで傷だらけになっても諦めようとしなかったのだ。何の為に私は命懸けで前に進もうと思い立ったのだ。それは自分の為なんかじゃない。独り善がりの考えの中で自身を陥れる事だけの為に生まれた考えなんかじゃない。ならば、私は一体何を求めたと言うのだろう……。─────あきらめないで。私の心の内で不意に小さな声が鈴の音のように響き渡る。それはとても聞き覚えのある女の子の声。小さくて切なげで、だけど雑多なそれとは違う凛とした表情の女の子の声だ。それは、一体誰だったろうか。分からない訳じゃない。だけど頭の中に靄が掛かって一向に名前が出てこないのだ。思い出したいのに……どうしても思い出さなきゃ行けないのに……。頭も身体も全然働いてはくれないのだ。だけど、そんな私の様子もお構い無しにその女の子は喋り続ける。否、これは願っているのだろう。どうして? そんな事は分からない。だけど、どういう訳か私にはそんな風に思えたのだ。一筋の祈りを込めて、只管に何かを願い続けるという……彼女の様子が。─────辛いのは分かるよ。苦しいのも、痛いのも……。だけど、此処で逃げちゃ駄目だよ! 何の為に一緒に此処まで頑張ってきたの!? こんな処で死ぬ為? 自分自身を消す為!? 違うよね! 大切な人を護りたいって……自分の大事な物を護りたいって、そう誓ったからでしょ!!その声はとても必死で、凄く焦りを帯びてた。悲しみも憂いも憤りも、何もかも孕んでふるふると震えていた。その様子がどうにも滑稽で、私はどういう訳か雨の降る夜に道端に打ち捨てられた段ボール箱の中で震える子猫の切なげな鳴き声を思い浮かべてしまった。場違いなのだと言う事は分かってる。自身が死ぬ間際に聞く幻聴に抱く感想としては酷くジャンル違いなのだと言う事も、勿論解っている。だけど、何でかよく分からないけど……その声を聞いていると酷く心が寂しくなるのだ。まるで自分が今も誰かに支えられているような……それでいて何故か、自身の中で蠢いていた自傷の念が総て掻き消えてしまうような、そんな感覚と共に。─────なら、此処で全部放り出しちゃうなんて駄目だよね!? そんなの……っ! そんなの絶対に赦せないよね!?そんな叱咤が心の内に響いた途端、どくんっ、と心臓が大きく跳ね上がる。それまでは静かに動きを止めるのを待つ他なかった筈なのに、まるで生命の息吹を吹きかけられたように何度も何度も鼓動が反復しだしていく。そして、次の瞬間には消え掛けていた私の意識が南極の氷が一気に解かされて水となって溢れ出すように私の内側を所甘さず満たして行く。枯れ掛けていた脳細胞が復活し、消え掛けていた理性が息を吹き返し、何もかもが鮮明となって私の身体の中を駆け巡っていくのだ。やがて、それ等は一斉に声を張り上げて私に訴え掛け始める。このままでいいのか、と。本当にこのまま惨めに死ぬことを選択するのか、と。何度も何度も、もはや千や万をでは満たぬ声をあげて、私へと訴えかけてくるのだ。故に、私もその意識に従って頭の中でその返答を何度も繰り返していく。あぁ、嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だとも。こんな薄暗い意識の穴倉で“私”が消滅するなんて真っ平御免だ。あぁ、赦せない。こんな場所で誰にも見取られる一人寂しく死ぬなんて絶対に赦さない。だが、今の私は所詮死に掛けの襤褸人形。幾ら想い願った所で、理想を現実に変える力など持ちようはずがない。だが、私は諦めない。諦めたくないという気持ちが再びこの胸を充たして暴れ回る以上、私はこの理不尽を許容して大人しく死んでやることは出来ないのだ。ならば、私はどうすればいい。こんな私が自分を救うには一体どうしたらいいというのだ。私は問い、そして求める。私の内側へ響く声の主へと……私の事を心から思ってくれる彼女へと。只管に、問い求め続ける。─────名前を……名前を呼んで……。それは酷く曖昧で、それでいて抽象的な言葉。何をしたらいいのか、何をせねばならないのか……そんな問いに返ってくる言葉としては些か言葉足らずという他ない、そんな言葉だ。だが、私はその言葉に従おうと何とか口を開けて音を出そうとする。唇は既に乾き切り、喉も荒れてまともな声なんか出せる状態じゃない。そればかりか、乾いて固まった血が口の中で泡となって微かな音すらも出せぬと言う有様だ。だが、私はそれでも何度も何度も必死になって声を出そうとする。小さくてもいい。微かでも……そう、ほんの僅かでかまわない。声よ、出ろ。せめて……せめてこの祈りの声に返答してあげられるだけでいいから。お願い、どうか私を叫ばせて。─────それだけでいいから。もうそれ以上は望まないから! 一度だけでいい。私の名前を……私の名前を……っ! なのはお姉ちゃん!!瞬間、私の中で何かが落ちていく。それはまるで朝露の一滴が葉っぱから落ちていくかのような小さな物で、衝動と呼ぶにはあまりにも小さい微かな感情だった。だが、それが心に落ちた瞬間、私は感じた。自身の内側が充たされていくのを……自身の心が充たされていくのを。あぁ、今になって私はようやく分かった。自分がどれだけ馬鹿で愚かで、それでいて救いようの無い人間なのかという事を。何が自分は一人だ。何が自分の人生は碌でもないことばかりだった、だ。私は一人なんかじゃないじゃないか。こんなにも……こんな死の境地にも私の事を想ってくれる人間がちゃんといるじゃないか。それを忘れて、何を私は諦めようなどと思っていたというのだ。私は自分の中に沸き立つ自己嫌悪の念を糧に、無理やり傷付いた自身の身体を動かしながら、いきり立つ怒りの衝動を自身の声として必死に外へと押し出そうと抗い続ける。「……っ…て……ア……シ……ぁっ!」何度も、何度も放とうとする言葉は喉を塞ぐ血の泡によって遮られて掻き消える。ごぼごぼ、と音が立ち、肝心の発音がまったく上手くいかないのだ。だが、それでも私は何度でも、そう何度だって声にならない声を発し続ける。あぁ、確かに私の渇望は矛盾だらけの継接ぎだ。生きたいと願った傍から消えたいと祈り、消滅を求めた果てから生へと執着して抗い続ける。何とも強欲で、何とも無節操。いっそまともじゃないと断じてしまってもおかしくないのではないのかと想うほど、私の渇望は破綻してしまっていると言う訳だ。でも、それが何だと言うのか。今になってようやく、私はそんな風に開き直る……開き直る事が出来る。矛盾が蔓延っているから? 自分は破綻しているから? 自分は嫌われ者だから?それが何だ、上等だ。それもひっくるめて私。そういう理屈が分かっていて尚心底諦めが悪いのが高町なのはだ。この際理屈がどうしたっていうのだ? 道理がどうしたっていうのだ?そんなものは私の無理でこじ開けてしまえばいい。私の心の内で溢れる衝動によって、総て覆い尽くして喰らい尽くしてしまえばいい。故に私は願い、叫ぶ。私が求める人へと……私を求める人へと……。一筋の声を荒げて、彼女の名前を私は叫んだ。「来て! アリシアぁぁあああ!!」『……あいよ。まったく、世話が焼けるんだから。なのはお姉ちゃんは』瞬間、私の身体はそんな皮肉めいた声と共に優しげな光に包まれる。それは癒しの光。黄金のように高貴な輝きを放ち、水銀のように自在に姿を変え、温かな毛布のように優しくこの身を包み込む癒しの光だ。フィジカルヒール。それがその光の正体であり、正式な魔法名だ。本来は簡単な傷を治療したり、応急手当などに使用したりする即効性の治癒魔法なのだが、私の身を包み込むそれは私が使用するものとは桁違いの効力を持ったものだった。流れ出た血潮が身体の中へと舞い戻り、引き裂かれた肉が水疱のように泡を作っては消えて本来の姿を取り戻し、折られた骨は一瞬にして元の形を取り戻していく。あまりにも出鱈目な治癒力。あまりにも非現実過ぎる新陳代謝。全身の細胞が歓喜の声をあげて、それ等の変化を祝福する。まるでゲーム等に出てくる体力を全回復させる魔法を現実に受けたかのようだと私は思った。しかし、私に身に起こった変化はそれだけでは無い。血だらけだった制服は漆黒色のジャケットやスカートへと姿を変え、それと相反するかのように純白のマントが背中へと装着されていく。腰には真紅のベルトが巻かれ、御腹とベルトの間には見慣れたクロームシルバーの小型拳銃が挟まっていく。血だらけだった掌には薄手のグローブが収まり、汚泥に穢れていた運動口が鋼鉄のような鈍い光を放つプロテクターへとその姿を変える。そして、極め付けが胸元に顕現した金色の土台に薄水色の宝石を装着したブローチと掌の内に収まった漆黒の戦斧。ジュエルシードとバルディッシュ。それが、今の私を支える獣の爪牙だ。私は正常に稼動するようになった眼で敵の姿を捉え、そして能力を行使する。敵は私の直ぐ前方─────ってていうか、私を半ば押し倒すような形で荒々しく爪を振り上げていた。だが、身体も魔力も回復し、完全装備になった私が振り解けないほどの相手でもない。私はバルディッシュを持つ腕とは逆の手で拳骨を作り、胸の内で煌く宝石に共鳴させるようにある一つの念をその拳へと込めていく。何をそんな下劣な腕で私に触っていると言うのだ。とっとと離せ、っていうかむしろ消えてしまえ。汚らわしい……バラバラに引き裂いてやる。私は鳥獣が我に帰ってこちらの方へと爪を振り下ろしてくるよりも先に、その拳を前後に大きく振り被って鳥獣へと殴り掛かるのだった。「そんなポテトチップ食べた後みたいなベタベタした手で─────」まるでクロスカウンターのように伸びる双方の攻撃は交差するように互いへと打ち放たれ、それぞれの身体に襲い掛かっていく。だが、鳥獣の攻撃は決して私に届くことは無い。私が触れられたくないと─────誰にもこの身に干渉を赦さないと願った時点で、この世界におけるどんな攻撃も意味を成さないからだ。結果、鳥獣の攻撃は何も無い空間に生まれた“遮断”の力によって受け止められ、瞬時に切り替えした“反射”の力で私の身体の真横へと逸れて行く。そうなると、残るは私の拳による一撃のみ。先ほどの防御と同じように“遮断”と“反射”の念が篭った、私の殴撃だけだ。そして、その攻撃は刹那の内に……鳥獣へと容赦なく突き刺さる。「私にィ、触れなァッ!!」拳が突き刺さった瞬間、めきっ、という鈍い音が鳥獣の身体から響き渡る。更に次の瞬間には、その身体は弾丸のように撃ち放たれ、容赦なく海面へと叩き付けられる。その速度は正に砲弾もかくや。着水した瞬間にはまるで鯨でも跳ね上がったかのような水しぶきがあたりに飛び散り、優に数十メートルは離れたいた筈の私にもその水滴が降り掛かってくる。だが、この程度でしとめた訳も無い。私はバルディッシュを杖にその場に立ち上がりながら、首を左右に振って数度小気味のいい音を立てながら鳥獣が叩き付けられた方の海面へと視線を移していく。するとぶくぶくと水面に泡が立ち、次の刹那には怒りを露にした鳥獣が双翼を広げて海面上に飛び上がってきた。どうやらあまりダメージは無いらしい。私は鳥獣の丈夫さと生命力の強さに半ば呆れにも似た関心を抱きながら、徐にベルトに挟まった小型拳銃を抜き放ちつつ、其方の方へを歩を進めていくのだった。『なのはお姉ちゃん……油断しないで。直ぐに来るよ』「解ってるって。心配性だなぁ、アリシアは。……ありがとう、助けてくれて」『ふふっ、パートナーでしょ。あっ、でもお話は後でちゃんと聞かせてもらうからね!』「はいはい、解ってますよーっと。んじゃ、始めようか。此処から先は第二ラウンドだ。盛り上がっていこうよ!」掛け声と共に私は走り出す。只管に、ただ真直ぐに目の前の敵の方へと。手の内の戦斧を振り上げて。手の内の銃把を握り締めて。目の前の敵を殴殺すべく、前へ前へと進み続ける。今この瞬間、私は生に満ち溢れていた。だが、同時に己が渇望に餓えつつもあった。そう、この瞬間……今この瞬間をもって『高町なのは』は完成する。果て無く荒れ狂う嵐へとその身を変え、自身が求める物の為にその力を行使する事が叶うのだ。加えて、今の私は一人じゃない。小さくて、甘えん坊で、頼りないけれど……今の私には仲間がいる。掛け替えのないパートナーが、直ぐ傍にいる。だから、私は負けない。負けてなんてやれないのだ。こうして私と鳥獣の戦いは次のラウンドへと昇華されていく。其処にあるのは身の破滅か。それとも勝利の愉悦か。分からない。だけど、絶対物にしてみせる。勝つのだ、私は……絶対に。私は自身の内に溢れる衝動に駆られ、私を待ち受ける標的に向かって一直線に突っ込んでいくのだった。駆け抜ける、嵐のように。・補足それではいつもどおりの補足です。・フィジカルヒール備考:原作ではユーノ君やクロノ君が使用。名前の通り肉体的な損傷を補う為の即効性の治癒魔法だが、本作のように骨や血液まで補えるかどうかは不明。本作ではアリシアがジュエルシードの力を用いて発動。回復力がそれこそ桁違いに上がっている。まぁ、要するにホイミがベホマズンになったっていう事ですね。・なのはさんの新装備『ブローチ』備考:ジュエルシードを何時までも直接持ってるのは描写的に辛い物があったので、バリアジャケットの一部として新たに追加。映画版のなのはさんのバリアジャケットの胸元についていた金属部分(原作版では赤いリボン)をモデルにジュエルシードをはめ込んだだけです。ぶっちゃけ武器でもなんでもないですが、指の間に挟んで殴ると多分痛いです。以上、補足でした。