我思う、ゆえに我あり。何時だか私は自分の恩師である“先生”からこんな言葉を聞いた事がある。確かフランス生まれの哲学者であるルネ・デカルトの言葉だっただろうか。まあ私もあまり文学には明るくないから良くは知らないし、コーヒーを飲んで寛いでいる時に聞きかじっただけだからあんまりはっきりとは断言できないけれど……多分そんな名前だったと思う。この世で確かな事とは一体何なのだろう。この世で全く疑う余地のない事とは何なのだろう。彼はそんな問いの内容は単純ながらも考えようによっては幾千、幾万もの答えが生まれる途方も無い事柄を只管に探求し続けた人物だ。自分が見て、聞いて、感じた事の全てをも疑い通し、まるで胡蝶の夢の様な水掛け論を延々と繰り返すその生き様は大凡並の感性を持つ人間が見たら不毛な事をしていると思わず笑い出してしまう程不毛な物だったらしい。自分の目に映る風景すら幻なのではないかと疑い、数学や論理といった物すら夢なのではないかと思い信用はしない。何故なら夢を見ている時は自分が夢を見ているのだと気が付かない訳だし、一度強く思いこんでしまえば例え近くに寄って触れられる物すら偽物なのではないかと思ってしまえるのだから。つまり幾ら説明を重ねて論理を立てた処で其処に寸分でも疑う余地が残ってしまうのであればどう抗っても原理的にこれは確かな事なのだと証明する事は出来ない訳だ。では、やはりこの世に“絶対的な確信を持って真実と断じられる物”は何一つとして無いのだろうか。否、彼は疑って疑って疑い続けたその先にちゃんとその答えを見出していた。確かに私自身が認識する物は全て嘘で塗り固められた偽りの現実なのかもしれない、だけどその現実を嘘か真かと疑う自分が今此処に存在しているという事実だけは本物である……そんな常人が聞けば気の利いた頓知だと呆れてしまう様な答えを彼は疑いの中から導き出したのだ。例え今起きている現実が全て夢だったのだとしても、その夢を見てこれは夢なのではないかと疑っている自分がいる事はどうやったって疑う事が出来ない。何故なら疑っている自分がいるという事を疑って見た処で結局自分は“何かを疑っている”という事には変わりないからだ。つまりこの『我思う、ゆえに我あり』という言葉の意味合いとしては、この世の全てが信じられない物で塗れているのだとしてもそれを疑い続ける限り、疑り続ける何者かが存在している事は紛れもない真実であるという風に解釈が出来る訳だ。まあ実際の処私自身も文学なんて小難しい事はあまり良く分からないし、聞きかじっただけの知識だからあまり深く踏み込んで物を言う事は出来ないけれど……何となく今の自分なら共感する事が出来る様な気がした。何せこんな風な事を考える私こと高町なのは自身もまた、今の自分が本当にこの世に存在している人間なのかどうなのかという事を疑う人間の一人なのだから……。「……な~んてな小難しい事を言った処でやっぱり現実は現実のまま、か。どちらかというと夢なら夢のままでとっとと覚めて欲しかったよ。私としては」『なのはお姉ちゃん、大丈夫? まだ気分悪い?』「う~ん、帰って来た時よりは大分マシになったかな。だけどまだ何かをお腹に入れる気にはなれないな。いざ冷静になってこうして事を思い返してみると如何にも吐き気の方が酷くてさ。しばらく食べ物は……特に肉類は遠慮願いたいね」『でも、そろそろ何か食べないと身体がもたないよ? なのはお姉ちゃん昨日の夕飯から数えて丸一日分ご飯抜いちゃってる訳だし、具合が悪い原因も半分は空腹っぽいしね。少し無理をしてでも食べられるだけ食べておいた方が身の為だよ。辛いのは分かるけど……』心配そうな声色を浮かべるアリシア、そしてそんな彼女に「そうは言ってもねぇ……」と難色を滲ませた言葉を吐き捨てる私。確かに御腹が空いていると問われれば当然そうだ。何せ私はあの地獄のような死地から這う這うの態で何とか帰ってきて、ご飯も食べぬままシャワーだけ軽く浴びて今の今まで自分の部屋の薄汚れたベットの上で泥に浸かるように深く眠っていたのだから。ふと視線を横に向けてみると完全に遮れ切れていないカーテンの間から微かに光が漏れだしているのが見て取れた。光の入り加減から考えてもう既に正午は過ぎているらしい、私は頭の中で漠然とそんな風に思いながら気だるくなった身体を起して溜息を宙へと吐き捨てた。途端、身体に纏ったバニラエッセンスの強烈な甘い香りが染み付いた臓腑の臭いを誤魔化す様に不自然に鼻腔を刺激する。全身を焼きつかせるような温度のシャワーを浴びながらも落ちなかった臓腑の臭いを家の人間に悟られまいと台所にあった物を勝手に拝借して身に付けたものなのだが、なかなかどうしてこの香りもまた臓腑の臭いにも勝らずとも劣らず強烈な物だった。噎せ返るような甘い臭いが鼻腔を通して胃に込上げ、血肉の臭いとはまた違った種類の吐き気を先ほどから延々と嫌がらせのように私へと訴えかけ続けてくる。失敗した、私はそんな噎せ返るような強烈な甘い匂いに頭をくらくらさせながらそんな風に心の中で何度も愚痴を吐き捨てるのだった。幾ら消臭スプレーでも香水石鹸でも臭いが落ちなかったからとは言っても安易に御菓子用の香料に手を付けるべきじゃなかった、そんな後悔の念が怒涛のように押し寄せてくる。幸い私の家は喫茶店で母親はその経営者だ、臭いを誤魔化すだけの材料ならキッチンに幾らでも転がっていた。バニラエッセンス、オリーブオイル、御菓子用のリキュールやブランデー……その他エトセトラエトセトラ。部屋に引籠もって一日家から誰もいなくなるまで染み付いた臭いを誤魔化すというだけなら事欠かないだけの物がちゃんと家には揃っていた、だけど私はそんな数ある選択肢の中からどういう訳か致命的に悪い物を選んでしまったのだ。バニラエッセンスというのは確かに少量なら良い香りなのかもしれないし、私自身もそれ程嫌いではない。しかし、皆が起き出す前に何とか臭いを消さなければと焦っていた私はあろう事か瓶の中の三分の一以上を念入りに身体に塗りたくってしまったのだ。当然そうなってくると匂いの度合いの方もキツくなるし、下手をすれば常人なら顔を顰めてしまう位の悪臭へと変わることにもなりかねない。でも更に致命的な事に極度に身体を動かした事による疲労とリアルなスプラッターシーンを延々と見続けたことによる精神的なショックでかなり参っていた私はそんな単純なことにも気を回すことが出来なかったのだ。結果確かに家族の人達は誤魔化し通すことが出来たし、確かに私自身も大分血の臭いを薄れさせる事には成功したのだけれど……何か別の処で余計な吐き気の原因を生み出してしまっていたという訳だ。因果応報、何ともままならない話ではあるのだがこれも自分がとった行動が招いてしまった結果なのだから仕方ないといえばそうなのかもしれない。私は御腹が空いているのか如何なのかも判断の付かなくなった頭を片手で押さえ、這い出るように冷たいフローリングの床に素足を付いて立ち上がりながら自分の取った行動の浅はかさを改めて痛感するのだった。「はぁ。もう一度お風呂入っておこうかなぁ? こんな状態じゃまともに食欲も湧かないよ、ったく……。癪だけどまた冷蔵庫の中から適当に拝借させて貰うしかないか。何か残ってたかなぁ?」『あんまり期待しない方が良いんじゃない? 何せもうとっくに正午は回ってる訳だし……面倒臭がらずにちゃんとコンビニかスーパーに行ったほうがいいよ。お金はまだ余ってるんだから』「だよねぇ……下手に料理して失敗する訳にもいかないし、やっぱりそれが一番ベストなのかな。でも歩くの嫌だなぁ、まだなんかちょっと気だるいし。正直このまま寝てた方が楽っちゃ楽なんだし、出来れば何か食べるよりも寝てたいなぁ……。まぁ、そうも言ってられないのも事実なんだけどね。結構お腹の方もキちゃってるみたいだし」『そうだよ。あんまり何も食べないでいると思考能力も低下しちゃうし、溜まった胃酸で臓器を傷付けちゃう事だってあるんだから。辛いかもしれないけどこの際無理をしてでも何か食べた方が身の為だよ。そうだねぇ……パスタなんかがいいんじゃないかな、麺類は消化にもいいっていうし。確か此処から南東400mちょっとの所に手軽な値段のイタリアンレストランもあるみたいだから偶には気分を入れ替えて外食にでも行ってみたら?』相変わらずカーナビのガイドをそのまま喋っているようなアリシアの口ぶりに私は少しだけ眉間に皺を寄せながら「外食ねぇ……」と力なく呟いた。確かに気分転換にはなるのだろうが、正直私としても其処までがっつり何かを食べたいかと言われればとてもじゃないがそんな気分ではない。それに今日は平日で私も先生に予めメールで連絡し、家の人達にも書置きを残して周りからの承知を得た上で学校を休ませてもらっている身の上だ。先生の方はまだ良いとして家族の人達には気分が優れないから今日は一日寝るという旨を伝えた上で了承を得ている手前、其処の所はある程度考慮しないと流石にお兄ちゃん辺りが黙っていないだろう。尤も昨日から今日の朝に掛けて私が部屋にいなかった事にも気付かなかったみたいだし、体調不良と実の娘が書置きを残していても顔一つ見せないような人達なのだからもう殆ど私自身も見放されているような物なのかもしれないのだけど。ともあれ気分が優れないのは本当の話な訳だし、周りの人の目という物もある。一応これでも私たち一家は周辺の住民からは良心的で仲睦まじい家族というような認識をされているのだし、それが今でも罷り通っている以上私としてもそれが下手に崩れて面倒を招くような事はしたくは無い。よって結論としてはアリシアの提案は一応思考の片隅に留める程度の事はしておくとしても、あまりで歩かないのが吉という事になる訳だ。まあ私としても昨日の余りと今日の分とで使えるお金は有り余っている訳だし、偶には惣菜やインスタントではないイタリア料理に舌鼓を打つというの悪い話ではないとは思う。幸いにして今日は天気もいいし、青空の下のオープン・カフェで一息つくなんていうのも吝かではない。赤唐辛子や黒胡椒で味付けられたプッタネスカを口いっぱいに頬張って、それを熱々のリボリータで流し込みながら日の光の下で一服つけたのならそりゃあもう最高の一言に尽きるだろう。だが、それはあくまでも普段の私がどうしても今の生活に行き詰った時に半ば自棄を起して気分を紛らわせる為にするような贅沢であり、とてもじゃないが今の心境を一新出来る程の効力を持っているとも思えない。精々御腹の中が空っぽになっている感覚を多少マシに出来る程度、良くても少しばかりの気が休まる位で大した効果があるという訳でもないだろう事は自明の理だ。してもしなくても大して変化の無いものなら、無意味にお金を使ってまで贅沢をする必要も無いというものだろう。贅沢を出来る環境だからこそ此処で安易な妥協をしないで本当に必要になった時の為に貯金でもしておいた方が幾分か建設的だろう、私はそんな考えを頭の中に浮かべながら澱んだ空気が充満する部屋の中をもう一度一瞥して適当に傍らに在ったテレビのリモコンを手に取った。ゲームをする気にはなれないけれどこういう時はテレビのグルメ情報でも見て気を紛らわせてから事を決めた方がいいだろう、そんな安直な考えから来る行動だった。殆ど連日同じように点けっ放しになっている真っ暗な『ビデオ1』という画面に向けて私は適当にチャンネルのボタンを押し、普段ゲームをするかDVDを見るかにしか使わないテレビの画面を民放へと切り替える。私の部屋のテレビは殆ど本来の機能の為に使われる事は無い。精々その役目をゲームかDVDの鑑賞の何れか以外に全うする事があるとするならば、それは深夜に放映されている所謂“大人のお友達御用達”なアニメを見る時か今のように何気なしに気を紛らわす為に適当にチャンネルを回すときのどちらかだといってしまっても構わないだろう。しかも前者の場合は見忘れたとしても先生がハードディスク録画してくれた物をDVDに焼き回ししてくれるから無理に見る必要は無いし、後者に至ってはこの生活を始めてから今回を数えて二、三度あったかなかったかというような極小の確率でしか起こりはしないのだから本来このテレビが民放に繋がっている意味合いなんてあってないようなものなのだ。どうせテレビのドキュメンタリーにしろバラエティにしろ何が面白いのかも分からないような感性しか持っていないのだし、見たところでそれを種にして会話に華を咲かせるような人間なんて私にはいないのだから。本当にままならない事ばかりで嫌になる、私は胸に込上げてくる鬱憤に思わず肩を竦めながら芸能人やレポーターが移り変わる画面を力なく見つめ続けるのだった。「……かったるぃ。何か今更何したって気分なんか晴れないような気がしてきたよ。ぶっちゃけちゃうとさぁ、たぶん今の状態じゃあ何か食べても直ぐ戻しちゃうだろうしね。だから、もうしばらくはこうして適当に時間潰してる事にするよ。ご飯食べるにしても今からじゃあお昼御飯には遅すぎるし、夕御飯には速すぎるし……区切りも悪いしさ」『まぁた、そうやって直ぐに面倒臭がるんだから! 駄目だよ、ちゃんと一度思い立った事は実行に移さないと。じゃないと直ぐにダラダラしちゃうんだから、特になのはお姉ちゃんは!』「はいはい分かったよ、分かりましたってば。後十分くらい適当にダラダラしたらもう一度軽くシャワー浴びて、そこいらのコンビニにでも足延ばすよ。あっ、イタリア料理は却下ね。高々食事に500円以上お金掛けたくないもん、基本的に」『もぅ、なのはお姉ちゃんったら……。ちゃんと十分経ったら動き出させるからね!』何というかそこら辺の漫画からテンプレートしてきたようなウザったい母親キャラみたいな口ぶりで注意してくるアリシアに「分かったってば……」とちょっとだけうんざりしながら私も適当に返事を返してその場に腰を降ろす。視線の先にある画面の向こう側では相も変わらず細淵の眼鏡を掛けたコメンテーターがゲストと思わしき色白い禿頭の老人に何やら意見を伺っていた。平日の昼間にやっているようなテレビ番組なんて大して面白くもないし、私としても特に何か興味があって目の前の番組にチャンネルをあわせたという訳ではない。ただ、こういう気分の時は下手に面白おかしい様なバラエティや頭を使って意味深に捉えなくてはいけないドラマなんかよりもこういうような私の日常とは無関係ながらも確実にこの世界で起きているニュースなんかに目を通していた方が何となく気持ちが落ち着くというただそれだけの事だ。特に何か深い意味がある訳でもなければ世間の動向に関心があるという訳でもない。単純に頭を使わずとも何となく必要っぽいような耳障りの良い知識的な単語が鼓膜を刺激し、人よりも少しだけ賢くなったのかもしれないという感覚に意識を酔わせてしまいたい……そんな馬鹿げた考えがこの行動を取った動機なのだ。それ以上でもなければそれ以下でもなく、目の前で繰り広げられていく静かな討論を特に何の感慨も無く見続けるという行為に私は自分の意識をただただ向け続ける。やれ最近の政治家がどうだとか、やれ汚職や偽装献金がどうだとかそんな事は私にはちっとも理解できないのだが、聞いていても特に不愉快だとか苛々するだとかそういうネガティブな感情は一向に私の中に芽生えてこない。これは先生の教えの一つでもあるのだが退屈になった時は何でも良いから一つでも多く知識を取り入れて物にしろっていうのが変な処で働いてしまっている所為なのだろう。確かにこうした小難しい話は今の私では到底理解できないし、恐らく何十年経っても完全に理解しているのか如何なのか正直自信も無い。だけど、だからと言って退屈な時にその暇な時間を全部投げ出して無駄にするよりはちょっとでも無駄な知識を詰め込む事に当てた方がまだ建設的というものだろう。動機や理由はどうであれ偶にはこんな風に一端の真人間を気取って真面目なニュースや討論に耳を傾けるのも悪い話じゃない、私は目の前で行われる静かな言葉のやり取りと目と耳でしっかりと受け止めながら心の中でそんな風に現状を評してみるのだった。だが、そんな私のささやかなポジティブシンキングが続いたのも束の間の事だった。前のニュースが終わった途端、細淵の眼鏡を掛けたコメンテーターにスタッフと思わしき作業服の人物から突然滑り込むように原稿が手渡されたのだ。そのスタッフは何だか凄く慌てていた様で、そんなスタッフから原稿を手渡されたコメンテーターも軽くその資料に目を通した途端今まで以上に一層顔を強張らせて二、三度咳払いをし始めた。何だか嫌な予感がする、私は何だか次第に盛り下がっていく画面の奥の人間達の様子を見ながら何となくそんな風に直感した。このチャンネルは私の住んでいる海鳴市の事をよく取り上げている地方局の物だし、とりわけ最近は何かと物騒な事件も多々あったからこの周辺の出来事へのアンテナは他のテレビ局に比べても俄然速い。当然それが行方不明や殺人事件ならば尚の事、特に私が見てしまったような大量殺人ならそれこそ起こったその日の午後には大々的に放映されていても何にもおかしい事は無い。刹那、私は自分の身体から冷や汗がにじみ出てくる感覚が全身を駆け巡るのをしっかりと感じ取っていた。気持ち悪い、そんな単語を頭に思い浮かべた瞬間忘れようとしていた記憶の中のグロテスクな場景が刹那的に頭の中を駆け巡り、テレビの砂嵐のようなノイズが頭の中を揺さぶって気持ちを不安定にさせてくる。これから報道される事件に心当たりがある、それだけならまだ幾分か私も心が楽だった。何せ私はその事件に関して一切の関与が無い訳だし、そもそもそんな非日常的な出来事に私のような力の無い子供が介入できる余地など何処にも無いと考えるのが所謂世の中で罷り通っている“普通”というものなのだから。しかし、非常に残念なことに私はその心当たりがある事件の直接的な当事者でもあるのだ。別に私が誰かを殺してしまっただとかそういう訳ではないのだけれど、それでも多くの命を奪った者の命を狩ってしまった以上は無関係という訳でもない。寧ろ殺された人達を真っ先に発見している身の上としては完全にこの件に関しては中核をなす部分にまで足を突っ込んでしまっているというような気もしてくるというのが現状なのだ。出来ればあの件の報道ではありませんように、私は全身血の気の引いて再びくらくらし始めた頭で必死にそんな祈りの言葉を繰り返した。でも現実は何時だって私に優しくは無い、その数秒後……私のささやかな願いはまるで金槌で硝子を打ち砕いた時の様に完膚なきまでに粉々に砕け散ったのだった。『え~ただいま飛び込みで衝撃的なニュースが飛び込んできました。今日午後一時半頃、野犬退治の為に山狩りに行ったまま行方不明になっていた地元の猟師組合の男性四人が全員遺体となって同僚の職員に発見されたとの事です。男性らの遺体はどれも損傷が激しく、まるで猛獣に食い殺されたかのような―――――』「ッ……!?」『海鳴市内では先週にも同様の事件が起きており、市では周辺の学校や幼稚園などを一時的に休校させると共に地域住民の避難や再発防止の為の対策を早急に打ち出す方針のようです。亡くなられた方々のご冥福を心から申し上げます』「……そっか。もう、見つかっちゃったんだね。存外……速かった、かな?」口では冷静を装いながらも私は画面の向こうから伝えられた情報に思わず何処か拭っても拭いきれないような不安を覚えてしまっていた。首筋のチリチリとした感覚がより一層強くなり、まるで微弱な電流でも流したかのような微かな痛みが徐々に私の精神を蝕んでいく。耳の中を駆け巡っていたノイズが一層その度合いを増し、頭の中に蔓延りつつあった記憶の中の場景がよりはっきりと私にあの時の状況を伝え始める。捥がれた四肢に砕かれた頭部、滴る赤黒い鮮血に腹部からはみ出す臓物、そして血肉でぬかるんだ地面を染め上げる、赤、紅、朱……。凡そ、この世の物とは思えないような地獄が私の記憶の中で止まった息を再び吹き返すように再び私の頭の中を冒し続けてくるのだ。もう勘弁して欲しい、私は今になって行き成り蘇ってくる記憶の数々にそんな情けないような言葉を思い浮かばせながら軽く二、三度頭を横に振ってもやもやする感情を何とか頭の中から払拭させようと試みる。しかし、何度試してみても結果は同じ……もやもやとした感情は一向に拭い去る事は出来ず、そればかりか治まり掛けていた吐き気すら蘇ってきそうになるだけだ。そう、如何抗っても私がこの事件に関ったという事実は消し去る事は出来はしない。結局どれだけ言い訳を重ねた所で人の生き死にが掛かっているような出来事に高町なのはという存在が関っているのは紛れも無い事実なのだ。アリシアに悟られまいと何とか強がってはいたもののやはり改めてこうして自分がとんでもない事に首を突っ込んでいるのだと思うと思わず寒気すら催しそうになる。私は微妙に震え始めた肩口をしっかりと両手で押さえながらニュースの動向を見守り続けるのだった。時折頭の中に響く「大丈夫……?」という力ないアリシアの慰めにうわ言のような相槌を返しながらニュースを見ていると、其処からは実に様々な事を窺い知る事が出来た。今週中にも此処周辺の小中学校は安全の事も考慮して数日ばかり休校にならざるを得ないという事が一つ。市は最悪自衛隊を投入する事も検討し、明日にも保健所の職員や地元警察を使っての大々的な捜査を行うということが一つ。もしかしたらこの事件は野犬によって引き起こされた物ではなく、周辺の動物園や違法に輸入された肉食動物の仕業かも知れない為そちらの方についても警察が捜査を始めるという事が一つ。そして最後に一番最初に起きた身元不明の少年がこの件に関して何か関わりがあるのではないかという可能性も視野に入れて、近い内に警察でも一連の騒動を踏まえて捜査本部を立ち上げる事が考えられるというのが一つ。もう何もかも真実が分かっていて、あまつさえそれを人知れず解決してしまった私としてはどれもこれも聞いた限りでは滑稽な物ではあったのだが……事が大事になっているという事を考えると笑いの一つすらまともに込上げては来なかった。それどころかこんな茶番みたいな事が本気で繰り広げ始められた原因を作ったしまったという罪悪感がドンドン胸の内に込上げて来て、何だか私は遣る瀬無さを感じてしまっていたのだった。私にその気は無かった、だけど結果的に私はこんな大々的な事件にどっぷり肩口まで使ってしまうようなところまで足を踏み入れてしまったのだ。もう後戻りする事は出来ない、そればかりかもしかしたら奇跡的に生き残った生存者として捜査の手が私の方にのびてくる事だって十分に考えられる。そして其処で下手な事を喋れば余計に事態が混乱する可能性だって十分に考えられるし、かと言って何時もの調子で恐怖に怯える女の子を演じれば最悪精神病院に送られて長期カウンセリングなんていうことだってありえない話ではない。一帯何を如何すればいいのか一向に見当も付かない、私は堂々巡りする考えを片っ端から模索しながら何とか答えを見つけ出そうと試みる。しかし、どれだけ考えてみても一向に明確にこれだと言えるような答えは出ては来ない。どれだけ悩んでみてもただただ空回りする思考が不安として残ってしまい、それによって引き起こされる混乱が更なる混乱を呼ぶばかりなのだ。もう誰か助けて欲しい、私はぐったりと力なく背を壁に預けながら全身の力を抜いてそんな他力本願な考えに没頭し続けるのだった。「拙い……これは拙過ぎるって。対応が早ければ明日か明後日かにでも警察が事情を聞きに来るかも。ううん、そればかりか根掘り葉掘りあること無いこと喋らされて……下手をしたら―――――」『だっ、大丈夫だって! この世界には魔法は知れ渡ってない訳だし、誰もなのはお姉ちゃんがこの件に関ってるなんて分かりはしないよ。それにいざとなったら私が何とかするから。幸いこっちには二つもジュエルシードがある訳だし、これにちょっと細工すれば大概の事は何とかなるから……って、いきなりそんな落ち込まないでってば! 大丈夫だから、ね?』「いやだって、こんな……っていうよりも寧ろもう八方塞じゃん。本当の事を喋るのも駄目、かといって下手に嘘をつくのも拙いじゃもうどうしようもないよ。今までやせ我慢してきたけど本当は私もリアルでああいうグロ系なのは本当に全然駄目だし、いざ追求されたら絶対ボロ出しちゃうって! もう最悪だよ、一体これから如何すれば……。あぁ、何だかまた胃がキリキリしてきた……気持ち悪っ」『心配ないってば! なのはお姉ちゃんは何でもかんでも悪い方向に考え過ぎなんだよ……ほら、ケータイ鳴ってるよ。一先ず今は落ち着いてやるべき事をちゃんとやらないと!』必死で慰めてくれているのはよく分かるのだがちっとも説得力の無いアリシアの言葉に脱力を隠しきれぬまま、私は彼女に言われたとおり脇に転がっていた自分の携帯電話を手に取った。震える手がバイブレーション機能で震える携帯の所為で余計にその度合いを増し、何時もだったら聞いていて心地いい筈のお気に入りのアニメソングの着信音が不安定な心持に拍車を掛けてくる。出来れば今日は誰とも話したくなんか無い、そう思った矢先にこうして着信してくるなんてもう私には悪質な嫌がらせようにしか思えなかった。だけど出ない訳にもいかないし、これが先生からの着信なのだとしたら尚更こんな風に挙動不審な声色で返事をして心配を掛けたくも無い。まあ親兄弟からの着信という可能性も無くは無いのだけれど、それならそれで下手な声色で話そうものならまた面倒な事に発展しかねない。何れにせよ気持ちを落ち着けてから電話に出るしかない、私はそんな風に思いながら一度その場で何度か深呼吸をして息を整えるとなるべく何時もの口調で返答出来る様に心の中で「大丈夫だ、大丈夫」と自分に言い聞かせ、二つ折りになっているケータイを開いて画面のほうへと視線を移したのだった。しかし、電話を掛けてきた相手は私が思っていた人間とは違ってもっと意外な人だった。『トーレ・スカリエッティ』、点滅する液晶画面には確かにそんな名前が示しだされていて、それは今も着信中であることを私に示し続けていた。一体トーレさんが私に何のようなのだろう、そんな疑問が一瞬私の脳裏を過ぎる。トーレさんとは昨日会って話したばかりだし、今日になって早急に話さなければならなくなるような言い漏らしが起こるほど密度の濃い話をした訳でもない。考えられる事といえば精々拳銃を扱う上での心構えとか下手に見せびらかさないようにしろという念押しとかそういう事も考えられなくはないが、トーレさんの性格から考えてそういうようなことを態々電話で伝えてくるような事はしてはこないだろう。では一体何の用があってトーレさんは私に電話をしてきているのだろう、私は一週廻って元に戻ってきた疑問について再度思考し……そして其処でようやく気が付いた。目の前で報道された事件、そしてその報道が終わった直後に電話を掛けてくるという絶妙なタイミング……総合すればその答えを導き出すのは実に容易かった。この件とジュエルシードの関連性、そして人知れずその事件が解決されたかもしれないという現状について。そんな単語が刹那的に頭の中を駆け巡り、はっと気が付いた時には私は携帯電話の着信ボタンを押してそれをそのまま耳元へと寄せていた。もしもジュエルシードや魔法の事がトーレさんにバレているのだとしたら、そんな今まで感じていた物とは別の不安が私の身体を自然に突き動かしたのだ。そうなのだとすれば当然何かしら弁解をしなくちゃならなくなるし、そうでなかったのだとしても十中八九間違いなくこの件に関することを言ってくるはず。前者にせよ後者にせよ、どちらにしても逃げてばかりはいられない……私はあらためて自分の気持ちを入れなおし、もう一度だけ短い溜息を吐くと何時もよりも数段トーンの低い静かな声で「もしもし、高町ですが……」と言葉を切り出すのだった。『あぁ、君か? 今、電話しても大丈夫かな?』「えっ、あぁ……大丈夫です。今日はちょっと体調を崩してしまって、学校を休んでいるので。けほッ、けほッ……もう大分よくはなったんですけど、まだ少し熱っぽくて……そんな状態でも構わないのなら全然大丈夫ですよ」『むっ、そうか……身体を大事にな。それはそうと、ならば都合がいい。実は君に聞いて欲しい事が出来た。本当ならば今すぐにでも君の元に行って直接話したいが……事が事だけにそういう訳にもいかなくなった。今は家に居るのか?』「あっ……はい、そうです。ちょっと今の状態じゃ起き上がる気力も無くて、今もベットの上です。にゃはは……情けない限りですけど」もう八割以上嘘で塗り固められた”気弱で臆病な高町なのは“を演じながら、私はトーレさんの口調から彼女がどのような精神状態にあるのかという事を分析し始める。トーレさんの声に怒気は無い、疑いを孕んだ違和感も此方の様子を窺ってこようとするねっとりした感覚も彼女から発せられた言葉には含まれていなかった。どうやら私が魔法を使った事だとかジュエルシードを複数個所有している事だとかそういうのがバレて追求する為に電話を掛けてきたという訳ではないらしい。一先ずそれを悟った途端、私はホッと胸を撫で下ろして自分の胸の内に蔓延っていた不安の一部を忘却の彼方へと追いやった。まだ完全に何もかも安心出来たという訳ではない。でも、とりあえずこれ以上敵を増やして自ら厄介ごとを招き入れるような事だけは避けることが出来た……正直今はこれだけでも十分だった。まだ最悪中の最悪の線は踏み越えてはいない、だったらまだ口八丁で如何にかできるかもしれないという希望が持てる訳だ。今までそうやって潜り抜けてきたのだし、此方にはまだアリシアとジュエルシードという切り札だって残されている。今はただ何時もの自分を何時ものように装っていればいい、私は改めて自分にそう言い聞かせると頭の中に浮かんだ記憶の何もかもを一時的に忘れ、もう一度口調と態度を修正しながらトーレさんの言葉に耳を傾けるのだった。『ならばいい、もしも外に出ていたのなら早急に戻って貰う手筈だったからな。病人に鞭を打つような事が無くて幸いだ。……さて、本題に入ろう。実は先ほどテレビの速報でとある事件が伝えられた。山狩りにいったまま行方不明になっていた男が四人、全員無残な死体となって発見されたのだそうだ』「そっ、そうなんですか!? でもっ、あの化け物はトーレさんが倒した筈じゃ……?」『まあ確かに君を襲った暴走体だけは、な。今回の事はそれとは別件だ。何せジュエルシードは君や私の持つ物を合わせても全部で二十一個もある。今回の事だって凡そ他の現住生物が何らかの形でジュエルシードを取り込んでしまい、その結果暴走してしまい犠牲者を出してしまったというだけに過ぎんのだろうさ。だが、それだけならばまだ良かった。他の人間がこの件に深く関わる前に私が直接出向いていって暴走体をしとめれば言いだけの話だからな。今日連絡を入れたのは其処の所に”狂い“が生じ始めたからなんだ。この意味が何だか分かるか?』「狂い、ですか……? う~ん、よく分からないです。一体どういうことなんですか?」自分でも業とらしいと思ってしまうような可愛い子ぶった口調でトーレさんに返答すると、それを今まで黙って聞いていたアリシアが「何かキャラ違うよね……?」と私の気持ちをそのまま言葉にしてくれたかのようにポツリと漏らしてきた。私だってこんなぶりっ子みたいなキャラが似合っているとは思っていないし、そもそもトーレさんの言った言葉が本当に分かっていないという訳じゃない。こういう意味深なスラングを交えての言葉のやり取りって言うのは案外漫画やアニメでは豊富に使われているから慣れているといえば慣れているし、第一先生との話している時なんか何時もこんな風だから何でもかんでも一々説明を求める必要性も無いと言ってしまっても全然構わないだろう。だが、それはあくまでも何時もの私がまともな精神状態の時に自分の意見に100%の確信を持っているというのが大前提の話だ。今回のような何時どんな風に言葉を切り返されてボロが出るかも分からないような状況では下手に自分を過信するよりも、相手が作る話の流れに乗って自発的に相手に喋らせてしまっておいた方が安全性は高い。それにトーレさんから見れば私は単なる小学三年生の女の子である”気弱で臆病な高町なのは”でしかないのだ。こういう時に下手に出しゃばって相手に変な印象を持たれるよりも最初に持たれた印象を崩さないようにキャラを作っておいた方が一貫性があって疑われにくい。其処まで計算してより相手に違和感をもたれないようにする為の演技、それが今先ほど私が取った行動の全てだった。そしてトーレさんもそんな私の演技をものの見事に信じてくれたようで、『実はな……』という切り出しから事の真相をしっかりと私に聞かせてくれたのだった。『今回の件に関してなんだが、もう既に解決してしまっているんだよ。しかも、まことに遺憾な事ながら私のあずかり知れない所でな。こう言えば、君にも理解しやすいかな?』「あの、それってまさか……」『私たち以外の”外部の人間“が行動を開始した。はっきり言ってしまえばそういう事になる。それもまるで私がこの街からいなくなるタイミングを見計らったように、な。正直な処私も不気味な事この上ないのだが、十中八九この件にけりを付けた人間は私たちの動向を監視していると考えてしまってもいいだろう。つまり、君の所在についても暴かれてしまっている可能性が高いということだ』「ひッ……!? そ、そんな……」口では怯えたような声を漏らしながらも私は顔色を一切変えぬまま、額を手で押さえ、こっちもこっちでいらない誤解を招いてしまったという後悔の念が胸の内に湧き上がってくるのを必死で押さえ込んでいた。多少マシになりかけていた胃の痛みが急にぶり返し、先ほどから感じていた物とはまた別の不安が頭の中をぐるぐると駆け廻って来る。もしかして私は余計な事をして事態を混乱させてしまっただけのではないか、そんな言葉が不意に私の脳裏を過る。何せ私自身トーレさんやそれ以外の人間のように何か特別な目的があってジュエルシードを集めているという訳ではないし、これからもその力を如何こうしようなんていうような風にも思ってはいない。私はただ自分が望むちっぽけな幸せを噛み締めていたいだけ、それ以上は何も望まないし、それが脅かされるような事が起きて欲しくないだけなのだ。だが、如何考えても今回私が引き起こしてしまった事は事態を混乱させるばかり……それどころかより状況を悪化させてさえいる。そんな心算は全然無かった、ただ私はアリシアに言われるがままに危険物を回収しただけに過ぎない。にも拘らず事態は最悪な方向に流れを変えつつある。しかも、まるで警察が家にまで押しかけてきたら如何しようとか、下手に騒ぎが大きくなってスポットライトが私に向けられたりして余慶にイジメが酷くなったら如何しようとかそんな事を必死になって悩んでいる私を嘲笑うかのように急速にその速度を上げ始めてもいるのだ。八方塞な上に手を打つことも出来ず、おまけに追い討ちまで掛けられてしまっている……正直私は今すぐにでもベットの下に置いてある胃薬の錠剤を鷲掴みにしてそのまま流し込みたい気分だった。だけどまだ何かもかも終わったという訳ではない。私はそんな風な言葉を頭に浮かべ、なるべくネガティブな方向に思考が向かないように今の現状にそんな小さな希望を抱きながら再び頭の中で今後私は如何動けばいいのかという事を改めて考え始める。確かに現状は最悪だ、寧ろこの状況を最悪以外の言葉以外にどう表現すればいいのか私には見当も付かない。下手をすれば数日中にも生存者だからとかいう理由で警察の人間が家に訪ねて来るかもしれないし、その時にこの荒んだ家の状況が知られる事にでもなったらそれこそ面倒な事になる。加えて今更本当の事を正直に言おうにもこんな緊迫した雰囲気じゃとても言い出せないし、かと言って偶然を装って発見出来るほどジュエルシードだった軟な存在ではない筈だ。前者にしろ後者にしろ私が何とか上手く立ち回って誤魔化し通すしか道は残されてはいない、ならば……私が今取るべき行動も一つだ。そんな風な考えを浮かべたまま私はゆっくりと息を吸い、そのまま胸の内に溜まった鬱憤と共に即座にそれを吐き捨てる。冷静にならなければいけない、冷静にならなければ唯でさえボロが出やすい演技に亀裂を生む事にもなりかねない。しかも相手はあのトーレさんだ、一度私の本性が見破られてしまえば其処を突かれて暴かれる事だって十分にありえると言っていい。完璧に役になりきらなければ、私は自分の中に芽生えたそんな意識を即座に頭の中にめぐらせ意識を集中させると、今時分が演じなければいけない”役柄“についての情報を自らの動作や口調に完璧にトレースさせ、そのままゆっくりと携帯電話に向かって言葉を紡ぎ始めるのだった。「わっ、私の家が……他の魔法使いさんに!? そんなっ、でもどうしたら……。うっ、けほっ……」『大丈夫か? 風邪を拗らせてしまっているのならあまり無理はしないほうがいい。まぁ……無理も無い話しだが、な。此方としても何とかして君や君の家族、友人に危害が及ばないよう立ち回りたいんだが……如何せん相手の情報が全然足りん。それに相手の素性が分からん以上、下手に君と接触をして気に触れさせでもしたらそれこそ事だ。今後は君との接触も今以上に慎重な物にならざるを得なくなるだろう。……すまんな、君にまた余計な重荷を背負わせてしまう事になってしまった。本当に、すまない』「そっ、そ、それじゃあ……つっ、つまり私が自分で身を護らなくちゃいけなくなるって事ですか? あ、あの拳銃で……うぅっ、ゴホッゴホッ!」『無理をするな、余計に具合が悪くなるぞ。ッ……この話を君にするには少々タイミングが悪かったみたいだな。とりあえず今はゆっくり養生して風邪を治すことに専念してくれ。護るべき自分の身体に鞭を入れるのでは元も子もないからな。ともあれ、今後は君の予想する通り一人で自分の身を護って貰う事になる。極力私も捜査範囲を広げる等して君に負担が掛からないようにはするが、今このタイミングで彼奴が動き出した事を考えるとその矛先が君に向かう可能性は非常に高い。十中八九間違いなく、アプローチくらいはかけてくるかもな……。君はとりあえずこの前渡した拳銃とジュエルシードを常に携帯してもしもの時に備えておいてくれ。風邪が二、三日続くようなら怪しまれないように枕の下にでも隠したりしてな』何だか何処かのB級映画の演出みたいなアドバイスを語りかけてくるトーレさんに私はこんなに良い人を騙してしまっているんだという深い罪悪感を感じながら、業と具合の悪そうな口調を装いつつ「そうしてみます……」と力なく応えた。本当は私だってこんな事はしたくは無い、嘘が得意なのと嘘吐きなのでは全然意味合いが異なるのだ。例えそれが偽りなのだとしてもあたかも本当の事のように相手に信じ込ませる事が出来るのが前者、どれだけ嘘を重ねてもそれを悪い事であると認識せず、責任を丸投げしてしまうのが後者だ。そしてそのどちらかに私自身が身を置く事になるのだとすれば、私は間違いなく自分は前者であると言い切ることが出来る。何故なら私だって別に人を騙す事に何の感慨も抱かないような非情な人間ではないからだ。騙して、裏切って、見捨てて……そうやって遠ざかられていった人間が最終的にどうなってしまうのか私は身をもって知っている。泣いても喚いても解放されず、震えても怯えても永劫許される事は無い。他人から蔑まれて一人になるっていう恐怖がどれほどの物なのか、それが分かっているからこそ私は私を平然と裏切っていった連中と同じような風になりたくは無いのだ。基本的に私の周りの人間は俄然後者の人間が多かった、人一人を陥れるにしても何の罪悪感も抱かなければ何の感慨も抱きはしない。さもそれが当り前な様に人を嬲り、そして笑いながら泣いて赦しを請おうともそれを平然と足蹴にする。そんな人間に塗れて地獄の釜底みたいな立場に身を落としたからこそ、私はそいつ等と同じような心情のままトーレさんを裏切りたくは無かったのだ。これがただの感傷だってことも、独り善がりの偽善的な想いだって言うのも重々承知してはいる。でも、本当に嘘を吐く事に何の罪悪感も抱く事が無くなったのならば私は本当の意味で最低最悪の糞野郎になり下がってしまう。確かにこの身は遠の昔に信用を失い尽くした穢れ物だ。だけどまだ私が罪の意識を感じている以上は最後の一線を踏み越えてはいない。何時か謝る機会が訪れるのならその時はちゃんと誠意を持って謝る事にしよう、私は胸の内にもやもやと湧き上がってくる罪悪感にそうけりを付けると再び病人を装いつつ、受話器から洩れるトーレさんの言葉に耳を傾けるのだった。『では、あまり長く電話していると君の身体に障るかもしれんから私はこれで。っと……あぁ、そうそう。先ほど警察の方から連絡があってな、是非私と君にあの“野犬”の目撃証言を聞かせて欲しいとの事なんだが……どうする? 上手く口裏を合わせられるか?』「あっ、あの……私、人に嘘をつくのとかそういうのは苦手で……。そっ、それにまだちょっとあの事は思い出すだけで怖いんです……。御免なさい。私、役に立てそうも無いです……けほッ、けほッ! 本当に、御免なさい」『あぁ、いや別に気に病む事は無い。元々病院の方でも君の精神的な面を考えてなるべくトラウマを刺激する様な事は避けてくれと言われていたみたいだし、私もそれ程乗り気ではない話だったからな。私一人で何とか誤魔化し通してみるさ。とりあえずこれ以上君に気苦労を掛けんようこちらも尽力する、だから君も早く体調を戻すようにな』「はい、お気遣いありがとう御座います。よろしくお願いしますね、トーレさん」切り際に「任せておけ」という心強いお言葉を頂戴した私は、そのまま恭しく別れの句を述べて彼女との会話を打ち切った。状況は最悪から可もなく不可も無くといった状態に移行してくれた。どうやら私の悪運もまだまだ捨てた物ではないみたいだ、私は全身の力がドッと抜けていくのを全身で感じながら現在の状況をそんな風に評価するのだった。病院が圧力を掛けてくれるなら少なくとも当分は警察の手も私には伸びてはこないだろうし、“気弱で臆病な高町なのは”を継続していけばいざ事情聴取をされたとしても誤魔化し通せる可能性もある。希望はまだ断たれてはいない、それが分かっただけでも今の私にとっては十分過ぎる成果だと言う事が出来た。しかし、まだ安心する事は出来ない。此処で気を抜いてしまえば其処に付け込まれてボロを出してしまう可能性だって否めないのだし、そもそもジュエルシードはこちらの手元にあるのだから問題としては何も解決してはいないのだ。確かにこれで国家権力に怯える事にはならなくて済んだけど、一つが解決しただけで事が抜本から解決される訳ではない。今後慎重に物事を考えて、迂闊な行動を取らないよう心がけなければまたすぐにでも状況は元に逆戻りしてしまう。ようやく射し込み始めた光を態々自分から閉ざす様な真似だけは絶対に避けなければ、私は安堵して気の抜けた自分にそう言い聞かせると、その為にはどのような行動を取ればいいのかという事を一人思案し始めながら肺に突っ掛かっていた息を鬱憤と一緒に纏めて宙へと吐き捨てるのだった。「はぁ……前途多難だよぉ。一つが終わったかと思えば、次の面倒事が目白押しだもん。いい加減誰かに気を使いながら嘘吐くのも疲れてきたよ、ったく。いっそ……これが全部幻って事にしてチャラに出来るなら楽なんだろうけどねぇ」『お疲れ様、なのはお姉ちゃん。でもよかったじゃない、何も進展が無かったって訳じゃなかったんだからさ。努力に見合った対価位には状況も前を向いてくれてるってことだよ。このチャンスを逃さない様に今は現実から顔を背けちゃ駄目。どう抗っても起こしちゃった事は取り返しが付かない訳だから、ね?』「あのさぁ……アリシア自身は良い事言ってるつもりなのかもしれないけど、人を巻き込んだ張本人が言う台詞じゃないよ、それは。相手に演技を信じさせるっていうのも案外気を使うもんなんだよ、実際? バレないかどうかなんて何時も五分五分だし、冷や汗ダラダラ垂れてくるし……碌なもんじゃないよ。あぁ、疲れた。昨日といい、今日といい何でこうもかったるい事が次々と舞い込んでくるのかなぁ?」『ある意味、なのはお姉ちゃんが自ら進んで招いた結果なのかもしれないけどね。まぁ、何にしても……全てはこれからだよ。ほぉら、気分も一新した処でまずは腹ごしらえだよ。お腹が減ってちゃあ、働く物も働かなくなっちゃうしね。今はただしなくちゃいけない事だけに頭を回せばいいんだよ、なのはお姉ちゃん』気軽に言ってくれるよ、私は心の中でそんな風に悪態をつきながら手の内の携帯電話をベットの方へと放り出してその場に立ちあがる。確かに今起こっている事の全てが夢や幻として片付けられるならこの上なく楽なのだろうし、出来うる事なら私だって投げ出してしまいたいのは山々だった。でも此処でこうして悩んで自体を解決しなければならないと思い立つ自分自身がいる以上は今の状況を現実とは非なる物として否定する事は出来ないし、投げ出した処で何の解決にもなりはしないのだ。我思う、故に我あり。此処にいる自分が確かな物と断じられてしまうのならば、私もそれ相応に頭を働かせなければいけない。何故ならそれだけが私自身を救う唯一の道であり、この状況を良い方向に導く為の一番の近道なのだから。ともあれ、今は緊張も解けた所為か妙にお腹の空腹感が強くなってしまっている。今はただ自分の為すべき事を成す為の下準備に徹する他ない。私は込み上げてくる想いにひとまずそんな結論を付け、まずは事を始める一番最初のステップとして身体に染み付いた臭いを落とす為にお風呂場へと歩を進めるのだった。もしかしたら今後は昔以上に胃薬が必要になって来るのかもしれない、そんな予感に少しだけ怖気を感じながら。