夜空に浮かぶ満月は本当に綺麗だ、私はすっかり暗くなった空をふと見上げながら漠然とそんな感想を頭に浮かべた。吐き出す息は荒く、頬には玉のような汗が垂れて鬱陶しい……にも拘らず只管に足場の悪い山道を駆け上がる私の五感はそんなどうでもいいようなところにまで気が回ってしまうほど鋭く研ぎ澄まされている。鬱蒼と移り変わる林の緑と薄暗い空の黒とのコントラストを常時捉え続ける視覚。普段使わない身体を酷使した事とそれによって生まれ出た疲労によって悲鳴を上げる筋肉の状態を感じ続ける触覚。ざわざわと風が靡き、枝木と葉っぱが擦れあう微妙な音すら漏らさずに拾おうと働き続ける聴覚。そして荒い呼吸に混じって度々胃から込上げてくる胃酸の酸っぱい味を伝え続ける味覚と、それを追い討ちするように漂ってくる”異様な臭い“を示し続けてくる嗅覚。凡そこの身体にある全ての感覚機能を余すことなく動員させ、それら総てをナイフのように鋭く研ぎ澄ませながら私は尚も前を向いて足場の悪い山道を駆け続ける。既に体力も限界近く、防護服に覆われた身体もそれに比例するように既に悲鳴を上げつつあった……だけどそれと同時に私は此処で立ち止まってはいられないという感覚も私こと高町なのはは確かに覚えていた。傍から見たら夜空を時々見上げたりなんかして余裕をかましているようにも見えるのかもしれないが、実の事を言ってしまえば今の私にはそれ程余裕は残されてはいなかった。何処に敵が潜んでいるのかも定かでないという事に加えて、すっかり薄暗くなった視界と神経を逆撫でるように吹き抜ける夜の冷たい風が私の神経を一々尖らせてくるのだ。右から来るか左から来るか、正面から来るか背後から忍び寄られているのか……或いは漫画の敵役のように空から来るのか自分の足元から来るのか。考えれば考えるほどに泥沼に嵌っていく疑心暗鬼、そしてそれを裏付けるかのように漂ってくる生肉が腐ったような臭いが余計に私の苛々を加速させていく。その臭いは嗅ぎ慣れた匂いだった、嗅ぎ慣れたくはなかったけど一度嗅いでしまったら二度と忘れられないような強烈な物だったから思い出さずとも私はその臭いが何であるのかという事を理解する事が出来た。死臭、まるで日の照りつける夏場の道路に打ち捨てられた野生動物の腐食した亡骸が放つような強烈な死臭が私の鼻腔を擽ってくるのだ。だけどそれは動物の物ではない、私は自身の手の内に握られた戦斧の柄をギュッと握り締めながらほんの数日前に体験したとある出来事を思い出していた。今から凡そ数日前、あの猛獣のような化け物に私が襲われた日の事……私は生まれて始めて人間の亡骸という物を見た。牙で腹部からざっくりと食い千切られ、内臓を地面へと巻き散らかしながら無残にも息絶えた女の人の死体……普通私程の年頃の子が目の当たりにすれば卒倒してしまうような惨い品物だった。当然私も始め見た時は心底驚いたものだし、恐怖もした。というよりも寧ろあんな物を見せ付けられて怯えない子が居るのだったら是非ともお目に掛かりたい位だ。でも私は卒倒もしなければ気絶もしなかった、気絶しようにもその次の瞬間には自分自身が襲われていたのだから真っ当な恐怖を覚えている暇すらなかったのだ。だけど一応ちゃんと憶えている物もあった、それはあの時見た死体の状景とソーセージの中身の様にグチャグチャになった赤黒い“何か”から漂う強烈な悪臭だ。それが何の臭いであったのかという事に関してはもはや言うまでも無い、というか思い出すだけでも吐き気を催してしまうのだからあまり私自身も深くは考えたくは無かった……でもだからって簡単に忘れようと思って忘れられるような物でも無かった。嗅ぐだけでも私の神経をピリピリと尖らせるその臭いは大凡一度嗅いでしまえば二度と忘れられない様な酷い物だった。加えて私の視界に飛び込んできたあの無残な死体も相まったら普通の感性を持つ人間ならまず間違いなく一生もののトラウマとなって後を引き続ける事だろう。それを考えれば此処でこうして正常に人間として機能している私はある意味幸運であると言えた、尤もこの歳で漂ってくる臭いだけでその先にある物がどんな物であるのかを想像出来てしまう時点で殆ど人生のどん底の更に奥に落ちてしまったという感じも否めないのだが。ともあれ物凄く嫌な予感しかしない、私は視界を動かし辺りの様子により一層神経を尖らせながら薄暗くなった夜道を只管に掛け続けるのだった。「っ……嫌な臭いだ。月は魔性だなんてよく言うけど、これじゃあ本当に洒落にならないよ……ったく!」『気を付けてなのはお姉ちゃん。かなり気配が近い……しかも嫌な感じが凄くする。多分もう一人か二人犠牲者が……』「みなまで言わないでよ、胸糞悪い。言われなくたってこの臭いの所為で大体の事情はこっちも把握してる。今は気に病むよりもまずは行動、そうでしょ? だったらアリシアも探すのに集中して。これ以上、犠牲者を出さない為にもね」『……うん。でも、なのはお姉ちゃんも無理はしないでね。本当にパッと見てヤバそうな奴だったら直に逃げて。私は……なのはお姉ちゃんにまで死んで欲しくは無いよ……』シュンと落ち込むアリシアの言葉に「生憎私もこの歳で死ぬ予定は無いよ」と返事を返しながら異様な悪臭の立ちこめる方向へと進み続ける。とはいえ私も口ではこんな風に強がって入るがまったくこの状況に恐怖していないという訳ではない。寧ろその逆、もしかしたらもう既にまたあの時と同じような犠牲者が出てしまっている……そんな現実に私は心底恐怖していた。今こうして息衝いている瞬間にも何処の誰とも知れない者の命が奪われていくという非現実性、そして自分自身もその仲間入りを果たしかねないという状況に私自身が置かれているという現実が余計にその感覚に拍車を掛けてくる。別に私はそんな顔も名前も知らない赤の他人が死ぬという事にそれ程深い感慨を覚えているという訳ではない。基本的に私は母親と同じで利己主義な人間だし、此処数ヶ月は余計にそんな想いが際立っていると言っても良かった。正直な所他人の死を気に病むアリシアには悪いが、私は別に彼女の為に傷つこうとしている全ての物を救ってあげたい等という聖人君子のような心情は持ち合わせていなかった。ただ私は自分の求める人さえ無事ならそれでいい、私の唯一の拠り所である先生さえ無事ならば私は例え誰が犠牲になろうともどうでもいいとすら思っていた。何せ私は今まで先生以外の世界中の誰からも虐げられてきたような人間だ、別にそれを悲観する訳でもなければ悲劇のヒロインを気取る心算も無いけれど、今まで私の受けてきた仕打ちの数々は顔も名前も知らない人間をどうでもいい有無対象として切り捨てようという思考を生み出すには充分過ぎるほどの要因を孕んでいると言っても過言ではない。他人に優しくしようだとか救えるだけの力を持っているのだから救おうとかそんな考えは微塵も無い、それどころか例え自分が現場に居合わせたとしても無理だと思ったら助けに入るまでもなく見捨ててしまえばいいとすら私は考えていた。最終的に誰だって己のみが一番可愛いに決まっている、そしてそれは私自身も例外ではないのだ。確かに生き死にということに関してだけいえば私だって犠牲者が出ない事に越した事は無いし、アリシアの精神的な面も考えればこれ以上彼女の負担を上乗せしたくないとも思ってはいる。だけど思いだけではどうしようもないというのもまた現実であり、この臭いの事を考えればもはやそれは“過ぎた事”なのだ。自分自身も何時死ぬかも分からないような状況で何時までも過ぎた事に後悔していられるほど余裕は無い、それが分かっているからこそ私は割り切る事が出来るのだ。非情な人間と思われるかもしれないが私は別に正義のヒーローという訳でもなければ絶対的な力を持つ救世主という訳でもない、ただの素人に毛が生えた程度の貧弱な小学生だ。そんな私に他人の生き死にを左右するような大きな責任を背負える筈も無い、私はあえて自分自身に責任を感じさせない為にも内心でそんな風に思いながら尚も地面を蹴り続ける。そう思っていても尚やらねばいけないのは自分なのだと本当は分かっているから……。汗に濡れる額を服の袖口で拭いながら私はもう一度手の内の戦斧を握りなおし、今は自分のやれる事をやるしかないと覚悟を決めながら私は尚も前へ前へと歩を進めるのだった。「……近いな。臭いが強くなってる。こりゃあ十中八九、間違いなくこの辺りに目標は潜んでるね。バルディッシュ、貴方は如何思う?」『マスターの意見を全面的に肯定します。此処より北東の方角、40m先の林の中から強力な魔力反応が出ています。恐らくはそれがジュエルシードではないかと』「なるほど、ね。この妙な胸騒ぎの原因はそれか……となればいよいよ持って闘わなきゃいけなくなるって訳なのかな? はぁ、かったるい。出来れば痛い目見る前にとっとと帰りたいよ、くそっ!」『現在先ほどまで存在していた五つの生命反応が一つを残して全て消えました。恐らく最低でも既に四つの命が失われた事になります。ですがこれ以上暴走体を放置するとそれ以上の犠牲者を生む事にも為りかねません。此処は速やかなる処理をおこなう事を推奨します、マスター』あまりにも淡々と機械的に言葉を紡ぐバルディッシュのAIに「気軽に言ってくれるよ……」と悪態を付きながら私は有無を言わせず林の中へと飛び込んでいく。鉄製のプロテクターで覆われた靴の裏で地面を強く踏み締め、締め付けられるように痛みを発し始めた脇腹を押えながら私は尚も止まる事はしない。これ以上アリシアの心労を増やさない為にも私が何とかしなくては、そんな何処か使命感にも似た感情が私の胸を燻り続けるのだ。確かに既にもう四つの命が奪われてしまったという事に関しては確かに悲しいだろうし、同じジュエルシードの暴走体に殺されかけた身としては同情もするし祈ってあげてもいい。だけど所詮は赤の他人、襲われたのが例え身内だとしても大して何の感慨も抱かないであろう私からしてみれば顔も名前も知らない様な人なんてそれこそ傷つこうが殺されようがどうなったって構いはしない訳だ。そりゃあ私だって一応血の通った人間だし、そこまで非常に徹しられるかどうかという事を問われれば正直揺らいでしまう事もあるかもしれない……だけどそれも時と場合が揃ってこその物だろう。何時何処でどんな風に襲われるかも分からないような状況で人の心配なんかしちゃいられない、寧ろ自業自得と切り捨ててしまった方が幾分か心が楽なのだ。人に優しくするとか情を掛けるとかそういうのは確かに大切な事だ、だけどその所為で接している本人自体がその人間と同じ末路を辿るようでは本末転倒もいい処だ。ミイラ取りがミイラにならない様に気を配る、今私に出来る事と言えば精々その程度が関の山といった所だろう。どうしようもない物はそうそうに切り捨てて自分のやるべき事だけを忠実に実行する、私は心の中で自分が今しなければいけない事をそんな風に頭に浮かべながら徐に空いている片手でスカートのポケットの中に忍ばせてあるジュエルシードへと手を伸ばした。相手がジュエルシードの力を持ちいているのならこちらも同じように保険を掛けておくのが得策だろう、そう思ったが故の行動だった。だけど次の刹那、私はそんな甘い認識を一瞬にして改めた。ピチャッ、と音を立てて靴の裏で跳ね上がる赤黒い液体、そして噎せ返る様な真新しい血の臭いがムッと鼻腔を擽ってくる。漫画チックに言うなれば“死の香り”、もっと人間臭く言うならば身の毛も弥立つような生理的な嫌悪感が私の脳内を一瞬にして埋め尽くす。恐る恐る足元を見てみると其処には私の予想通り“汚泥に塗れた赤黒い何か”が撒き散らされていた。まるでペンキの缶をひっくり返したかのように地面一帯を赤く染め上げる鮮血、それに混じるようにその存在を誇張する臓腑色の固形物。そしてそれ等の撒き散らす原因となっている凡そ人の原形も留めていないような滅茶苦茶になった死体、亡骸、屍―――――腹は食い千切られ、四肢を捥ぎ取られ、残った顔の部分すら半分以上砕かれてしまっている“おぞましい何か”が私の視界に一気に飛び込んできたのだ。四つの生命反応が消えたといった時点である程度こういう状況は私も想定してはいた。だけど幾ら理屈付けて考えた所で目の前のそれを私はどうしても納得する事ができなかった。これが本当に人間の死に方なのだろうか、思わず私がそう思ってしまうくらいその死体たちの有様は酷い物だった。鋭い牙か何かで食い千切られた腕や脚は鮮血に染まった地面にぞんざいに打ち捨てられ、強力な力で無理やり引き裂かれたような腹部から漏れ出した内臓は一つとしてまともな形を保っている物は無い。其処にある肉と血は体液でぬかるんだ汚泥と混じって信じがたい程の悪臭を放ち、思わずこれは悪夢か何かなのではないかと私に錯覚させる。だけど私の手の内のジュエルシードもバルディッシュもこの悪臭も全てが現実の物であり、その感覚が今も尚持続している以上はこれは紛れも無い現実なのだ。刹那、私は自分の胃から何か酸っぱい物が口いっぱいに込上げてくるのを感じていた。夕食を食べる前で本当によかった、私は人生で初めて胃の中が空っぽであった自分自身に感謝した。もしも何かを口にした後にこれを見ていたのならば恐らく私は十中八九嘔吐していただろうし、例え耐えられたとしても恐らく何処かで戻してしまう事は確実だ。まあだからって今も尚込上げ続けている避けようもない嘔吐感も全身に鳥肌を立たせるような寒気も止まりはしない訳だけど、一応女の子の体裁として最低ラインの事は守る事ができたと私は思った。しかしそんなどうでもいい事に安心したからってどうなる訳でもないし、この地獄のような光景が醒める訳でもない。此処は恐らく地上で尤も残酷な戦場だ、私は改めてそんな場所に自分が身を置いているのだという事を実感しながら手の内の二つの“武器”をこれでもかという位強く握り締めるのだった。「くっ……こんな、こんな事って……ッ!!」『そ、んな……また……私は間に合わなかった、の? ひっ、人が……死んで……』「アリシア、直視しちゃ駄目、傷になる! これは貴方の責任じゃない!! それよりも今は―――――ッ!?」『なのはお姉ちゃん!?』刹那、汚泥を足場に呆然と立ち尽くす私の身体に強い衝撃が走った。それはまるで猛スピードの車に轢かれたかのような、成人した男の人の振るう大槌のフルスイングを直接受けたような……そしてその何れでもないような形容詞のし難い強烈な衝撃だった。私は咄嗟にその衝撃が身体に直接触れる直前に頭の中である術式を思い浮かべ、それをバルディッシュへと投げ掛ける。構築しようと思った術式は『ラウンドシールド』、凡そ魔法の力で小規模な盾を構築してあらゆる衝撃から身を護る防御魔法だ。確かに普段の私だったら当然間に合わなかっただろうし、気が付いた瞬間この身をその衝撃によって弾き飛ばされていた事だろう。だけど今の私にはバルディッシュという魔法を構築する上での手間を自動で処理してくれる便利な道具があった、それ故に今の私にはほんの一瞬で魔法を構築する術式を込上げる事が出来た。そして次の瞬間、私の目の前に幾重にも幾重にも奇怪な魔法陣が組み合わさった桜色の盾が出現し、その衝撃を余す事なく総て受け止めきったのだった。その衝撃と私の作り出した盾が衝突した瞬間、私の手の内のバルディッシュがギチギチと軋むような音を立てその衝撃が並みの物ではなかったという事を私に知らしめてくる。ズリッと音を立てながらしっかりと地面を捉えている筈の脚が衝撃によって押され、鉄で覆われた靴が血肉で染め上がった地面を深く抉る。あまりにも力強くあまりにも猛々しい純粋な暴力の力、それが私が相手にしているものの全てだった。人工皮のような繊維で作られたグローブに覆われた掌がピリピリと痺れるように次第に痛み始める。普段私がクラスメイトから受けているそれよりかは大分軽い物だから特に気にするような物でもないのだけれど、明らかにそれ等の痛みとは違った意味合いがその痺れには含まれていた。力負けしている、私はグッとバルディッシュを手にした腕を突き出したまま只管に目を瞑り、何とかそれを押し返そうと必死で地面を蹴ろうとする。しかし幾ら力を入れても目の前のそれはビクともせず、それどころか次第にラウンドシールドもその効力を薄れさせ始めている。一旦距離をとる為にも此処は奥の手を使うほか無い、私は思い切って両目を開き、崩れ始めそうになっている盾に阻まれている物を睨みつけながらもう一方の腕を振るうように突き出して願いを頭に思い浮かべるのだった。「私にィ―――――」『ラウンドシールド崩壊まで後二秒、一秒……術式の展開を強制終了します』「触れるなぁぁあああ!!!」如何なる物であってもこの身を蹂躙させる前にその干渉を”遮断“し、それら全てを完全に”拒絶”してしまえるだけの私の願い、凡そこの世界で私だけが行使することを許されたそんな“法則”を私は振るわれる腕の勢いに乗せて一気に目の前の物に叩きつける。イメージするのは腕全体を覆う筒状の手甲、この腕が相手に触れる前に相手が私に向かってくるという”干渉”を止め、刹那の瞬間に遠くへと弾き飛ばして”拒絶“するという極めて単純な目的の為に私は手の内の切り札を早速切った。バルディッシュの抑揚の無い機械的な言葉によってラウンドシールドがとかれた瞬間、私は突き出した手で待ってましたとばかりに一気に押し寄せてくる“それ”の鼻面に一気に拳を叩きつけるのだった。瞬間、私の目の前で血肉の混じった荒々しい吐息を漏らしていたそれが引き剥がされるように宙を舞った。むき出しになった鋭い犬歯を携えた顎が飴のように歪んで拉げ、砕けた骨と肉が交じり合うような異様な音を醸し出す。だが目の前のそれはその程度の事では怯まなかった。十数メートルほど弾き飛ばされた所で私に襲い掛かってきたそれはバサッとその身に不釣合いな蝙蝠のような羽を広げながらその身を翻し、軽々と地面へと足を付いてみせた。砕かれた筈の顎は一瞬にして再生し、凡そ自分が頭部に受けたダメージなぞ気にも留めないといった様子だ。化け物、私の脳裏にふとそんな言葉が過ぎって消える。そう……目の前に悠然と佇み威嚇するように唸るそれは凡そ化け物以外の何者でもなかった。猫科の猛禽類のようなしなやかな身体、古代の恐竜のように背中から尻尾に至るまで身体から突き出した刺々しい骨、獰猛な爬虫類のそれを思い出させる筋の張った四肢、どす黒い臓物を涎と共に垂れ流す毒々しい口元……そしてそれらを覆い隠すように肩口から空へとのびる蝙蝠のようなグロテスクな両翼。その姿は凡そ暴走体というよりは漫画『鋼の錬金術師』に出てきた合成獣キメラを連想させるような正真正銘の化け物だった。これが周りに居る人間たちを食い荒らしたのか、そんな確信にも似た予感が私の頭の中に浮かんでくる。恐らく元は野良猫か何かが元手になったのであろうジュエルシードの暴走体の口元は血肉を好み、人を喰らう童話の世界の狼のように汚らしく臓腑色で染まっていた。あまりにも現実離れしていて、動物が人を喰らう事など想像したこともなかった私にとっては信じがたい事なのだが……目の前の暴走体は己の『喰らいたい』という欲求にしたがって人間を喰ったのだ。恐らく周りに転がっている屍がこうも荒らされているのは十中八九目の前のそれが喰らいついたという事なのだろう。特に肉付の良い四肢や腹部などが重点的に食い荒らされている事が何よりもその惨状を物語っていた。そしてどうやら目の前のそれは今度は私に標的を定めたようで、じりじりと地面を蹴りながら飛びつく瞬間を今か今かと待ち焦がれている。タイミングを計られた瞬間が命取りになる、手の内のジュエルシードを一先ずそっとポケットの中に滑り込ませ、両手でしっかりとバルディッシュの柄を握りながら目の前で唸る暴走体と対峙するのだった。「くッ……なんかデジャブだね。前にもこんな風にこんな奴に襲われた気がするよ、私」『なのはお姉ちゃん、逃げて! 相手にするには分が悪すぎるよ。その子の願いは“空腹を満たす”こと、しかも欲求が強過ぎて歯止めが利かなくなってる! 下手をするとなのはお姉ちゃんまで犠牲に―――――』「……オーライ、それ以上は言わなくて良いよ。でも大丈夫、お姉ちゃんに任せなさいって。確かに相手にするには分が悪いけど……背を向けて逃げ出す方がもっとヤバイだろうしね。だからちょっとの間だけ黙っておいてくれる? なるべくこいつを倒す事だけに集中したいからね、分かった?」『なっ、なのはお姉ちゃん!?』まるで私の言葉に驚嘆するように素っ頓狂な声をあげるアリシア、そしてそんな彼女を無視しながら小さくもう一つの起動術式を口ずさむ私。瞬間、私の手の内のバルディッシュから『Scythe Form』という機械的な音声が流れ、斧状だったバルディッシュの形をまるでパズルを組み替えるかのように次々に変化させていく。それまで斧の刀身の役割を果たしていた部分が直角に開く様に展開し、先ほどまで繋ぎ目であった制御核との間に隙間を作り、其処に私の魔力を吸って桜色の新たなる刀身を出現させる。私の魔力の色に展開するその様はまるで『新機動戦記ガンダムW』に登場するガンダムデスサイズのビームシザースような何処か近未来的な印象を受ける鎌のようだった。だけど同時にそれはバルディッシュ自身の持つ独特の暴力性も相まって罪人を狩る死神の鎌の様でもあった。人を殺した獣を相手に死神の鎌とは中々洒落が利いている、私はそんなどうでもいい様な感想で自分自身の気持ちを落ち着かせながら手の内のバルディッシュの状態を満足気に見つめのだった。サイズフォーム、名前の通り大振りな戦鎌を模した形状をしたそれは素人である私から見ても一目で接近戦に特化された状態だという事が窺い知れた。正直私は漫画やゲームに出てくる主人公みたいに大剣振り回して敵に向かっていくなんていう様な無謀な事はしたくないし、出来れば穏便にアウトレンジから砲撃魔法で狙い撃って行く様な戦法の方がよっぽど性に合っているとも思った。だけど既に相手に見つかっていて背中を向けて逃げるにしたって確実に追いつかれてしまう様な状況では近接戦もやむを得ない、というよりも寧ろこの状況では自分の好みがどうこうとか論じている余裕も無かった。幸いにしてバルディッシュの重量は先ほどと変わらず軽い、私の様な力の無い子供の細うででも十分この凶器を取り回す事が可能だ。多少危険かもしれないが今はやれるようにやるしかない、私は自分の記憶の中から射撃魔法の術式を呼びだし、目の前に四つの桜色の発射体を顕現させながら目の前の暴走体に向かって狙いを定めるのだった。『Photon Lancer』「撃ち抜け……ファイアッ!!」右足を軸にその場で一度身体を回転させるように私はバルディッシュを横薙ぎに振う。途端目の前で静止していたフォトンスフィアと呼ばれる桜色の球体が細く鋭い杭状に変化し、亜音速をも超える強烈な初速を持って目標である暴走体へと一気に撃ち放たれる。それは殆ど魔力で造り出したライフル弾であると言っても過言ではなかった。大凡普通の人間ならば反応できない程の速度、それも理論上なら最大で厚さ二センチの鉄板も悠々と貫通出来る様な威力の弾丸が計四発同時に襲いかかる……それはもしかしたら下手な拳銃やナイフよりもよっぽど危険な攻撃であると言っても良かった。まあとは言え私の魔法はまだ完璧とは程遠い素人芸に毛が生えたような物だし、同時展開にしても出来そこないのフォトンスフィアを四つ造り出すのが精いっぱいな訳だけど……それでも十分生き物を殺傷出来るだけの破壊力は込められていた。それこそライオンであろうが虎であろうが同時に当たれば一撃で縊り殺せるだけの強力な威力を。だけどそれも当たらなければ意味が無い、私は暴走体に突き刺さるべくして放たれた四つの杭が軽々と避けられた事に若干の苛立ちを覚えながら心の中でそう思った。どれだけ高威力だろうが高性能だろうが放った攻撃が当たらないようでは元も子もないし、そもそも使えば使うほど体力が失われていく現状では無駄弾を撃ち続けるのも憚れる。今回はとりあえず様子見と牽制の意味も込めてフォトンランサーを放ってみたけれど、こうも軽々と避けられているようじゃあ当てるのには相当骨が折れそうだ。それにやたらめったら射撃魔法や砲撃魔法を撃ったところでこの調子じゃあジリ貧になるまで打ち続けたって一撃当てられるかどうかも怪しいし、その所為であの暴走体に食い殺されましたなんてな事にでもなればそれこそ目も当てられない。此処は一つ体力や魔力を温存しておかねば後が辛いという事も考慮して一か八か接近戦を挑んでみるしかない、私は足の裏でしっかりと地面を捉え、脚のバネの力を利用するように一気に地面を蹴って進みながら暴走体に近付いて大きくバルディッシュを振り被った。「殺ァァああああ!!!」『なのはお姉ちゃん、駄目!!』突然頭の中に響くアリシアの悲鳴にも似た制止の声、だけどその声が頭に響いてくる頃には私は既に行動を起してしまった後だった。物騒な掛け声と共に斧のように振り被った戦鎌を一気に暴走体へと叩きつける、だが手の内には肉を裂いたような感触も骨を断ったような手応えもなかった。代わりにに私に残されたのは虚空を切ったという現状と、標的を見失って困惑する私という情けない有様だけだった。まさか今の一瞬で避けたとでも言うのか、そんな驚愕と標的を見失った事で生まれた不安が私の頭に込上げてくる。予定では今の一撃でどれだけ小さくても良いから相手に手傷を負わせるはずだったのに、これでは間抜けもいいところではないか……私は無限に続くかのように思われた一瞬の中でそんな風に自分を叱咤しながら急いで次の行動を取ろうとした。しかし、そんな風に私が行動しようと思い立った刹那、私の身体は強い衝撃に弾き飛ばされ宙を舞った。まるで金属バットのフルスイングを叩きつけられたような鈍い痛みが私のわき腹に響き、視界が一瞬にして真っ赤に染まる。凡そ衝撃で5、6m以上吹き飛ばされた身体はそのまま地面へと落下し、ゴロゴロと転がって余計に受けた痛みを強く誇張させてくる。激痛に世界が歪んだ。ほんの一瞬であった筈の時間が永遠と思えるほどに引き延ばされる。地面にぶつかった衝撃で骨が軋み、膝や肘といった部分が擦り切れ、強く打ちつけた頭部からは薄っすらと血が垂れ流れてくる。痛い、何時もクラスメイトからそれなりを仕打ちを受けていたから痛みを感じる事には慣れていたけどそれでも尚激痛と呼べるような痛みが全身を駆け巡ってくる。思わず意識が飛びそうになり、しっかりしなければと思って力む度に傷の疼きがそれを妨害してくる。最悪だ、私はバルディッシュを杖代わりにしながらその場にゆっくりと立ち上がると、額から流れてくる己の血をバリアジャケットの袖口で拭いながら焦点の定まらない目で真直ぐに標的を見据えた。どうやら私は攻撃を避けた暴走体の腕になぎ払われてしまったようだ、私は血が抜けて少しだけ冷静になった思考でそんな風に自身に起きた状況を纏め上げる。体力や魔力の事も考えれば確かに私の取った選択は正しかったのかもしれない、だけどどうやら私は肝心な部分をその選択の要因に含めていなかった。それは己の実力、幾ら強大な力を持ったからといったそれで誰しも強者になれるのかと問われれば当然そんな訳は無い。実力っていうのは経験だ、勉強にしてもスポーツにしてもゲームにしてもそうだけど余り回数をこなしていないで取り組む人間と何度も何度もやり込んで取り組む人間とでは当然差が開いてしまうように戦闘であっても魔法であってもどれだけ数をこなしてきたかっていう事が自分の強さを示しだすのだ。そしてそれになぞるように考えれば私は戦闘どころか碌に喧嘩もした事の無いような筋金入りの素人で、訓練をしたとは言っても所詮は二日、三日適当に打ち込んだ程度の付け焼刃でしかない……よくよく考えればそんな私がまともに攻撃を当てられるはずも無いのだ。でもだからって此処で諦めたら食い殺される、私は殆ど生物としての原始的な生存本能に身体を委ねながらもう一度この場を切り抜けられるだけの戦法を思考し始めるのだった。「あ、づッ……まずったね、どうも。でもッ……ぐぁ、っ……御蔭で頭から血が抜けて……うっ、ぐぁ……すっきりしたよ」『もう止めて、なのはお姉ちゃん! そんな状態で戦えるはず無いよ! もういい、もういいから……』「ははっ、確かに私も……いづッ……逃げ出しちゃいたいよ。だけど、さぁ……今更逃げられる感じでも、あぐぅ……ないじゃん。だったら―――――最後まで全力出さなきゃ死に際に後悔しちゃうじゃん!」『Thunder Smasher』殴られた疼くわき腹や全身に負った細かい傷に言葉を途切れさせながらも何とか言葉を紡ぎ終わった私は片手を前に突き出し、もう一度術式を組み上げそれを即座に前へと撃ち出す。思い浮かべた術式は私の性格的に一番性に合っている部類に入る砲撃魔法、此処三日ほど生まれて始めて“糞真面目”に取り組んでようやく会得出来た魔法の中の一つだ。本当ならばこれはよく狙いを付けて撃たなければ先ほどのフォトンランサー以上に避けられるのが目に見えている品物だ。確かに威力はフォトンランサーの比ではないし、凡そ今私が扱える魔法の中では最高の攻撃力を持つ術式だと言ってもいい。だけどその反面撃ち出した後は制御に神経を使わなきゃいけないし、砲撃はあくまでも直線的なのがデフォルトだから先ほどのように横飛びで左右どちらかに避けられてしまえばそれこそ何の意味も無い。でも、私はそれを承知の上で掌の先で描かれている複雑な魔法陣へと力を込め、球体上に収縮されたエネルギーを一気に開放して暴走体へと撃ち放った。桜色の光の柱が私の掌から伸び、直線的な軌道を描きながら暴走体へと向かっていく。当然威力の程は折り紙付きだし、あわよくばこの一撃で事の全てに終止符を打つ事だって十分可能だっただろう。だけど暴走体だって知恵が無い訳でもなければ馬鹿でもないようで、自分に向かってくる桜色の砲撃を認識した暴走体はフォトンランサーや先ほどの斬撃と同じような要領でヒラリと身を返しながら軽々とその攻撃を避けて見せた。しかし、私はその様子をまるで嘲笑うかのように口元を吊り上げながら見ていた。別にもう打つ手が無いと自暴自棄になった訳でもなければ己の実力不足に落胆して頭がおかしくなってしまったという訳でもない、そう……これこそが私の狙いだったのだ。私は悠然と私の方を睨み、まるで皿の上に乗った子羊でも見るかのように舌なめずりをする暴走体をの方へと注意を向けながら血塗れの腕でポケットの中を弄り、ジュエルシードを手に取る。額を拭った所為で掌に付いたどす黒い血がジュエルシードを穢し、強く握り締めた事によって疼く傷が早鐘を打つようにその脈を刻んでこの身に痛みを齎してくる。だけど私はそんな事は気にはしなかった、いや寧ろ気にしている余裕もなかった。相手は完全に私を舐めきっている、それこそ後はミディアムでもローストでもご自由にと言わんばかりに余裕すら見せ始めてすらいた。でもそれは私からしてみれば決定的な隙でしかない訳で、もしも相手が避けられない程の速度で懐に潜り込めさえすれば後は連続で攻撃を叩き込んでやれば一発くらいは確実に当てる事が出来る状況でもある。そして私はその手段を有している、これを逃せば機会は皆無だろうからやるしかない……私はサンダースマッシャーの放出を停止させ、掌に握ったジュエルシードを掌が痛くなる程にギュッと握り締めながらゆっくりと魔法とは別のもう一つの切り札を開放した。「だぁぁああああああ!!!」『無茶だよ! 止めてッ!!』再度頭の中に響くアリシアの嘆願、だけど血を流し過ぎて脳がアドレナリン漬けになってしまっている私の思考はそんな彼女の言葉も理解出来てはいなかった。ただ目の前の敵に一撃を入れる、殆ど妄念ともいえるようなそんな想いだけが私の脳を支配し、身体を酷使し続けていた。普段の私ならこんな状況に陥る前に諦めていただろうし、例えそれで自分が死ぬのだとしても、まあその程度の命だったんだって納得してあの暴走体の牙にこの身を引き裂かせていた事だろう。でも、今の私はそんな考えを欠片たりとも頭の中に置いてはいなかった。目の前で嘲笑うように余裕を見せている胸糞悪い人食いの化け物に屑には屑なりの意地があるっていう事を存分にその身に刻ませ、生きてこの場を後にする……そんな熱血主人公気取りの妄想としか言いようの無い考えだけがただただ頭に蔓延り続けるだけ。しかも性質の悪い事にそのどうしようもない妄念は幾ら冷静になろうとしてもがん細胞のように次々に転移し、失われた血液を補うように滾る想いを醒まさせてくれないのだ。やれるだの、やれないだのの次元ではなく、事を為して生き残るか背中を見せて食い殺されるかの二択しか私にはもう選択肢が残されていない……冷静に考えればそんな事は無い筈なのだが今の私にはどうしてもそう思えて仕方がなかった。そしてその二つの選択肢が目の前に提示された時、どちらを選ぶのが本当に正しいのだろうか……そんな事は最早語るまでも無い。生きる、その為に敵を倒す。私は痛みと痺れで凍えたように震える左手でバルディッシュの柄を握り、もうとっくに限界が来ている筈の脚で地面を蹴りながら瞬間的にジュエルシードの力を行使するのだった。私のジュエルシードに込められた願いである“完全なる干渉の遮断”は凡そこの世にあるものならば例えそれがどんな物であっても例外なくこの身に触れる前にその干渉を“遮断”し、“拒絶”の念を送ることで弾くことが出来る。勿論それには地面や足場といった人間として絶対に避けられないような”干渉“も例外ではないし、当然”遮断“することが出来るのならば”拒絶する事だって可能だ。では今のような状態で靴の裏側に遮断の効果を加えて弾丸を打ち出す要領で地面を拒絶すればどういう効果を得る事が出来るのか、朦朧とした意識の中で考え付いた私の起死回生の方法の答えは次の瞬間には立証されていた。まるで弾丸のように加速する身体、凡そカタパルトから射出された戦闘機に掛かるような強力な空気の壁が私の身体に降りかかってくる。強烈な突風をこの身に受けたかのような衝撃が私の身体を駆け巡る、だが私はそんな衝撃も物ともせずに一気にバルディッシュを握った片手を振り上げる。既に私の視界には突然の速度に困惑する暴走体の身体が間近にあった、しかも暴走体は困惑しているのかそれを受け止めようとも避けようともしない。ただただ無防備な身体を晒すだけ、私はそんな様子を心の中で嘲笑いながら一気に片手で振り上げたバルディッシュの刀身を振り下ろし、無防備になっていた暴走体の身体へと一気に突き立てた。「隙だらけだよ、間抜けがぁ!!」『目標に軽度の損傷。マスター、即座に回復されます。このまま一気に畳み掛けてください』「言われなくたって―――――バルディッシュッ!」『Arc Saber』肩口に深々と付きたてた桜色の刃を肉を引き裂くように暴走体の身体から引き剥がしながら、私は次の手の内をバルディッシュへと念じて構築させ始める。初めて使う魔法、ぶっつけ本番だから上手く使えないのは当たり前だけど……この際四の五の言っているような余裕も時間もない。威力が如何とか精度が如何とかそんな事はどうでもいい、ただ相手の肉を引き裂ければそれ以上の事は望みはしない。私は桜色の刀身に肉を抉られ肩口から噴水のように鮮血を引き出しながら苦痛の咆哮をあげる暴走体へと身体の勢いを殺さぬままに近付き、自分の両脚にジュエルシードの願いの力で“遮断”と“拒絶”の込めながら一気にその傷に向かって蹴り込んでいく。鉄で覆われた靴先が回復し始めている暴走体の傷口に突き刺さり、瘡蓋のような粘膜に覆われた血液が弾けて私の脚を穢し始める。生暖かい感触が私の足首を濡らす、だけど私はそんな感触も気にせずに突き刺した足をふって暴走体をサッカーボールでも蹴り飛ばすかのように一気に”拒絶“する。刹那、苦悶の唸りをあげていた暴走体が私の足から一気に引き剥がされ、先ほど殴りつけたときと同じように歪な曲線を描いてその身体を宙へと躍らせた。だが私はそんな状態になっても尚容赦はしない、手の内のバルディッシュをもう一度振りかぶり、私は何も無い虚空に大きく一閃を放った。途端バルディッシュの先端を彩っていた桜色の刀身が結合部から分離し、まるでブーメランのように弧を描きながら吹き飛ばされた暴走体の方へと撃ち放たれた。アークセイバー、魔力斬撃用の圧縮魔力の光刃をブーメランのように回転させながら撃ち放って相手の肉をそぎ落とす中距離用斬撃魔法だ。勿論私のようなずべの素人が扱えるような物ではないし、今まで一度も扱ったことが無いから最大の特徴である簡易的な誘導性は失われてしまうけれど……それでも単なる斬撃投射としてならばサイの皮膚であろうがトドの脂肪であろうが一瞬にして真っ二つに出来るだけの殺傷能力は十分に孕んでいた。そしてそんな魔力の刃は直線状に飛翔して暴走体へと向かっていき、その輝く刃をもって暴走体の四肢の前半分を両断し、鮮血を纏いながらそのまま暴走体の腹部へと突き刺さった。身を裂くような激痛と連続する疼きに悲鳴のような咆哮をあげながら鮮血を撒き散らし、腹部から内臓をはみ出させる暴走体。それはあまりにも歪でグロテスクな光景、凡そ神話の中の化け物が数々の武器によって蹂躙されていく様を見事に再現しているような酷く薄気味悪い様子であると言ってもよかった。だけど私はそんな暴走体の様子を気にも留めず、全身を駆け巡る激痛と傷の疼きをなけなしの気力と根性で押さえ込みながら同時に二つの呪文を頭の中で思い浮かべる。攻撃魔法の同時発動、凡そアリシアから聞かされた話ではどんなに熟練の魔導師であっても展開するのが難しいとされる荒業中の荒業だ。何せ攻撃魔法というのは展開するだけでも、防御や他の補助呪文と違ってかなりの神経集中を必要とされる品物だ。そんなものを二つ同時に展開すれば使用者の負担もかなりの物になってしまう。当然私のような素人に扱えるような品物ではないし、私も初めから成功するだなんて思ってはいなかった。ただどちらかの攻撃が相手を穿てば良いだけ、凡そ一定のダメージさえ与えてくれれば成功するかどうか何ていうような事ははっきり言ってどうでもよかった。撃って当たればそれでいい、私は再び手の内の戦鎌に新しい刀身を顕現し、同時に二つの魔法陣を展開させながら一気に術式を組み上げる。呼び出す呪文はサンダースマッシャーとフォトンランサー、どちらもまだ扱うのが精一杯としか言いようの無い不完全な物だけど……それ相応の威力は有している。一つずつ撃って当たらないなら二つ同時に撃てばいい、私はそんな単純な思考で頭の中を満たしながら目の前に顕現した四つの発射体と桜色の粒子を収縮するエネルギー体を目に焼き付けながら二つ同時に暴走体に向かって撃ち放つのだった。『しゃっ、射撃魔法と砲撃魔法の同時展開!? そんなっ、無茶だよ! だってなのはお姉ちゃんは―――――』「無茶なのは百も承知ッ! でも、やるしかない!! 撃ち抜け、轟雷……撃ち放て、電杭……サンダースマッシャー、フォトンランサー……ダブルッ―――――」『Thunder Smasher Photon Lancer』「ファイアッ!!」同時に展開された奇怪な桜色の魔法陣が煌き、目の前の発射体とエネルギー体が同時に爆ぜる。そして刹那の瞬間に生まれる四つの杭と桜色の円柱が私の目の前に顕現し、その圧倒的な火力を持って周りの物を巻き込みながら悉く空間を蹂躙していく。辺りにあった汚泥とボロ雑巾のようになった屍が桜色の砲撃によって弾き飛ばし、噎せ返るような濃厚な血の臭いを四散させ、ドロドロになった地面を抉りながら二つの魔法は殆ど同時に暴走体の身体へと向かって飛来する。どちらもあまり制御が上手くいかず、見た目だけは何とか取り繕ってはいる物の威力の低下は否めないけれど……それでもまだ私に全力全開という言葉が残されているのだとしたら、その二つの攻撃は間違いなく死力を尽くした一撃だった。だが暴走体はそれ等の攻撃を物ともせずに私に向かってくる。ようやく回復した両足で地面を蹴り、蝙蝠のような両翼で勢いをつけながら私の喉元を喰らわんとその大きな顎を開いて真直ぐに私のほうへと突進してきた。瞬間四つの桜色の杭が暴走体の肩口や首元に次々と突き刺さり、辺りの物を纏めてなぎ倒すように突き進んでいた砲撃はものの見事に暴走体の下半身を消し飛ばした。勢いに乗って撒き散らされる血肉と臓物が私の身体に降りかかり、劈くような咆哮が私の鼓膜を痺れさせる。生肉が腐ったような臭いが私の鼻腔を侵し、耳鳴りを醸し出す大きな音が意識が当座駆ろうとする感覚に拍車を掛ける。ミシミシと軋む両腕の骨の痛みだけでも十分意識が飛びそうになっているというのに、それに畳み掛けるように押し寄せるこの感覚は最早拷問の域に達していた。もうこのまま気絶してしまいたい、殆ど本能的な面から来る欲求が私の頭の中を過ぎる。だけど暴走体の勢いは止まっていない、それどころか上半身だけになったはずの身体で宙を舞いながらその牙を私に突き立てんと目の前まで迫っている。もう既にバルディッシュを振るって如何にかなる距離じゃない、大振りの戦鎌であるバルディッシュではリーチが長過ぎるのだ。拳で何とかするほか無い、私は殆ど直感とも言えるような速度で瞬時に判断を下すと、ジュエルシードを握った手をギュッと硬く握り締めて思いっきり振りかぶる。無謀な事はよく分かっている、だけど今の私に実行出来る手段なんてこれ残されていないのだ。怪我をするのは承知の上、私は思いっきり勢いをつけた拳を目の前に迫る暴走体の口元へと叩き込んだ。だが此処で暴走体の顔が私を嘲笑うかのように歪んだ。私が拳を叩き込もうとした刹那、暴走体は血塗れの顎を開いて私の腕を勢いごと噛み殺そうと考えたのだ。止まらない腕、そして待ち構えるのは血肉に汚れた鋭い牙の羅列……既に私には腕を引くという選択肢は残されていなかった。今までの屈辱を晴らさんと煌くピラニアのような牙が殴りつけた私の拳を逆襲する。噛み砕き、食い千切る。拳を粉砕し、肉を咀嚼し、血を飲み干す。そんな未来が私の脳裏を過ぎり―――――「うぉぉおおおおおお!!」―――――激突した。激痛が腕に走り、拳が砕けるような鈍い音が頭の中に響き渡る。神経を行くパルスが宙まで奔り。痛感が飛び、飛んだ痛感があまりの痛みにまた戻る。そしてそれ等総てを体現させるかのごとく、牙を突き立てられた腕から血が吹き出し、歪んでいた視界を真っ赤に染め上げる。頭が潰れ、脳が飛び出すような錯覚が私の神経中を駆け巡る。痛い、痛い痛い痛い……連続して頭に警笛を鳴らすそんな単語の羅列に頭がどうにかなってしまいそうになる。肉を噛み切り、骨を砕こうとする鋭い牙、それが血管を噛み切り更に私の筋肉の奥深くへと沈んでいく。指の神経の一つ一つに直に触れる牙、剥き出しになった痛感が縦に引き裂かれる。「がッ……がァッ、ァァアアアああああああッ!!」それでも、私は尚拳を深く押し込む。更に奥に、もっと奥に……その念だけが私の身体を支配し、遠の昔に限界を超えた筈の身体を今になっても動かし続ける。目の前はもう真っ赤で何も見えない。同じくして耳もノイズだらけで何も聞こえてこない。喉はからからに渇いて水を欲し、吐き出される息は荒く欠乏した酸素を求め、バルディッシュを握る指先からドンドン力が抜けていく。もうこのまま気絶してしまえばどれだけ楽な事か、私はそう思わずにはいられなかった。でも私はそんな自分を必死で叱咤し、何時とんでもおかしくない意識を保ちながら必死に拳を奥へと押し込み続ける。そして私は痛みに支配される頭の中で一度だけ言葉にならない願いを思い浮かべた。この痛みという”干渉“を”拒絶“することが出来れば、言葉には出さなかったが私は確かに頭の中にそんな願いを思い浮かべた。それは普通なら極限まで精神をすり減らした人間の妄言で片付けられてしまう程、現実味の無い願いだった。だけどその願いは手の内のジュエルシードを通してこの世にその“法則”の結果を顕現し、通常ではありえないだけの奇跡をこの世に芽吹かせる。次の刹那、私の拳の中に握られていた血塗れのジュエルシードが光を発して私の腕の勢いを増徴させ、勢いを増徴させた私の拳は暴走体の牙を“食い千切る”。「んがぁ―――――ッ」『目標、損傷率90%オーバー。ジュエルシードの自動封印に入ります』言葉にならない悲鳴のような唸りを漏らす暴走体と淡々とその状態を告げるバルディッシュのAIの機械音が私の頭の中に一瞬過ぎる、だけどもう私にはその言葉がどういう意味なのかという事を処理するだけの感覚は残されてはいなかった。ただ分かるのは突き立てられた牙が深々と肉に食い込んで抜けないという感覚。限界以上に膨張した筋肉が食い込んだ牙を万力のように挟んで押さえ込んでいるという痛感だけだ。瞬間、暴走体の勢いと直に対峙していた腕が圧力に耐え切れずに血飛沫を上げて弾ける。筋肉だけでは到底支えきれず、肘の骨が歪に捻じ曲がる。まだ止まらない、肉と骨だけになっても進み続ける勢いだけが私の身体を支え、踏み込む身体を暴走体の顎へとねじ込んでいく。身体中の神経が悲鳴を上げ、肩が外れるようなガクッとした痛みが肩口に広がってくる。でもその結果として生まれ出た勢いは暴走体の鋭い牙を爪に変え、歯茎を抉り、顎の骨を砕き―――――「だぁァァアアアあああああああ―――――ッッ!!」一撃で暴走体の大きな身体を吹き飛ばし、近くにあった大木へと勢い良く叩きつけた。ミンチ肉を更に細かく磨り潰してペースト状にしたものを地面に叩きつけたときのような歪で奇怪な音があたりに響き渡る。最早私の真っ赤に染まりあがった視界では暴走体がどうなってしまったのかという事を確認する術は無いが、確実に倒したと言う感覚だけは未だに腕の中に残り続けていた。刹那、私の身体がグラッと傾き、足が縺れて私はそのまま前のめりにその場に転倒した。白い、頭の中が裏返ったかのように真っ白になる。身体中の神経が、血管が、痛感を伝える為だけの装置へとなれ果てる。血が針となって身体中を内側から突き刺し、神経は螺子となって肉という肉を食い被る。「んっ……がぁ、くっ……ぅ……!」『封印、完了しました』『なのはお姉ちゃん……っ! なのはお姉ちゃん!!』頭の中に様々な言葉が溢れ返り、朦朧とした意識を揺さぶるように脳を振るわせる。してやった、そして生きているという実感だけが私の身体の全てを支配する。だけど立ち上がろうにもどうやって右足を動かしていいのかも分からない。頭の中に響いている声は一体誰の物なのかというのも曖昧で、まともに判断できない。世界はどっちに傾いているのか、自分の輪郭は何処まで続いているのか、身体は痺れてしまっていて境界が曖昧だ。立ち上がろうとして、何度も転ぶ。世界が何度も揺らぎ、その為に苦悶の声が力なく私の口元から漏れ出す。三度立ち上がることに失敗して、私はようやく前に進む事ができた……でも目の前は真っ赤で何も見えない。自分が今何処にいて、何をしていて、どんな人間だったのかという事すらも今の私には判断が付かない。ただ分かるのはこの場を急いで離れなければいけないということだけ、だけどふらついて覚束ない足取りではどれだけ頑張っても数歩歩いただけでその場に倒れてしまう。地面から突き出した何かに躓き、私は正面からその場に倒れ込む……意識が完全に飛びそうになった。もうこれ以上は動けない、私は痛みに疼く自分の身体の状態を殆どその役目を果たさなくなった頭の片隅で考えながらゆっくりと目を瞑った。今が朝なのか夜なのかも分からない、そもそも私は今まで何をしていたのかも定かではない。だけど私には確信があった、もう私は休んでいいんだっていう確信が確かにあった。泥のように濁った頭で私は思った、あぁ自分は勝ったんだなって。私は最後の最後に自分が勝利を手にする事が出来たという感覚で存分の胸の内を満たしながら静かに意識を手放すのだった。それから数時間ほどの時間が経ち、辺りはすっかり深夜になってしまった頃……ある程度身体の状態がよくなった私はあの酷い惨状を物語っていた林から離れ、銃弾を撃ちつけていた大樹に腰掛けながら本格的に傷の治療に当たっていた。確保したジュエルシードと自分が持っているジュエルシードの両方を総動員させて新陳代謝を急激に速め、バルディッシュのメモリーに登録されていた物の中から重傷者に掛ける為の回復魔法を呼び出して私自身も自らの傷を癒していく。筋肉の断絶に複雑骨折、加えて大量出血に脳震盪……正直なんで自分は今生きているのだろうとつくづく思う。まあそれはバルディッシュに干渉したアリシアが殆ど死に掛けていた私に回復魔法を掛け続けていてくれた御蔭なのだけれど、よくもまあ自分でもあんな無茶をしたものだと私は思った。そしてそれと同時に私はもう二度とあんな死に掛けるような思いはしたくないと心から信じてもいない神様へと願うのだった……尤も二度も殺されかけているのに未だに死んでいない時点で既に私は天国からも地獄からも縁を切られているような感じがしないでもないのだが。ともあれしばらくは動けそうも無い、私は罅の入った肋骨に自分の魔力を当てながら静かにその傷が癒えるのを待つのだった。『もう、本当にこんな無茶ばっかりして! 死んじゃったらどうするつもりだったのッ!?』「にゃはは……ごめんごめん、正直私もこんな風になるとは思わなくてさ。いづッ……つい勢いで……」『勢いで、じゃないよ! 本当になのはお姉ちゃん死に掛けるところだったんだよ! ちょっとは自分が取った行動を反省して―――――』「あーはいはい、分かりましたってば。もうその話しするの16回目だよ、アリシア? いい加減何度も言われなくたって反省してるってば」プンスカという漫画みたいな表現を体現するようにギャアギャア騒ぎたてながら怒声を撒き散らすアリシアに私は半ばうんざりしながら投げ遣りな謝罪を投げ掛けた。確かにアリシアの言っている事も正しいし、私の命を救ってくれたのは紛れも無い彼女だ。本来ならば幾ら感謝しても尽きない態度を取るのが当たり前だろうし、私もそうした方が言いというのはよく分かっている。だけど流石に何度も何度も夏休み前の校長先生の話みたいに同じような事を何度も何度も繰り返されれば私だって段々と苛々もするというものだ。しかもその内容というのがついこの間病院でお兄ちゃんと口論になった時にお兄ちゃんが口にしていた説教と殆ど一緒なのだ。確かに無茶な事をしたのは悪かったし、これ以上私も同じような事を繰り返すつもりも毛頭ないのだけれど……正直いい加減にしてくれというのが私の一番の本音だった。『またそうやって直ぐに投げ遣りな態度を取る! それが駄目だってさっきから言ってるじゃん!』「私もさっきから何度も御免って言ってるけど? まあ過ぎた事はもういいじゃない、面倒くさい……結果的にはジュエルシードも回収できた訳だしさ。結果オーライって奴だよ」『そっ、それは確かにそうかもしれないけど……』「ね? だったらこれで話は終り、世は事もなしだよ。大分身体の方も良くなってきたし……流石にそろそろ家に帰らないと拙いだろうしね」既に時刻は夜中の二時過ぎ、流石の私だって床についているような時間だ。当然家に帰れば返ったでお兄ちゃん辺りから文句を言われるだろうし、一応骨折や筋肉の断絶は治したものの細かな傷まではまだ完全には癒えていないから見つかれば騒ぎの一つや二つにはなる可能性だって十分あり得る。まああの人達が未だに私に心配なんていうような感情を持ち合わせているかどうかは知らないけど、それでも一応小学生を深夜に出歩かせているなんて事が知られれば仲良し家族で通っている世間体にも傷が付くだろうし、下手をすれば捜索願を出されてしまう可能性だってある。それにあの死体を他の誰かが見つける前に此処を撤退しなければ色々とややこしい事になるだろうし、厄介ごとになるのは私としても出来ることならば避けたい。なるべく迅速に行動を起さなくては、私はすっかり身体に染み付いてしまった生臭い血の臭いに顔を顰めながらポケットに手を入れてゆっくりと立ち上がるのだった。「よっこらせっ……と。しっかしこの血の臭いはどうにかならないのかなぁ? 一応バリアジャケットを解除したから服の方は問題ないだろうけど、これじゃあちょっと……ねぇ?」『それは我慢しようよ。もうその臭いは身体に染み付いちゃってるみたいだし、一応臭いとかを浄化する魔法も無いではないけど……ジュエルシードもバルディッシュも傷の治療の方に回しちゃってて余裕が無いんだよ。一応誰かに見つかりそうになったら掛けてあげるから、今はあんまり贅沢言わないで』「はぁ、やれやれ……居た堪れないよ。さぁて、ちょっと遅くなっちゃったけど……帰るとしますか」暢気にそんな言葉を漏らしながら私はゆっくりと前へと歩を進め、その場を後にする。恐らく速ければ明日の昼間にでも死体の方は発見されるだろうし、アリシアがジュエルシードを使って上手く足跡とか争った痕跡とか私に関する証拠を根こそぎ始末してくれたから憂う事も何も無い。ただ今はひっそりとこの場から立ち去って、家に帰って思う存分熱いシャワーを浴びるだけを考えていればいい……そう思うと私は何だか少しだけ心が軽くなるような気がした。しかし、あの犠牲者達が何時先生に代わるかも判らないという事を考えると早々気を抜いてもいられないというのもまた事実だった。確かに今回は文字通り死ぬ思いで何とか頑張ったからどうにかなったけれど、次回からも上手くいくかどうかは限らないし、下手をすれば今日以上の強敵が待ち構えている可能性も十分にありえる。これからはいよいよ本格的に私も心してこの件に取り掛からなくては、私は心の中でそんな風に結論付けながら静かにその場を立ち去るのだった。夜空に輝く綺麗な弧を描く満月を不意に見上げながら、戦いを始める前と同じように。その満月から漏れ出した光でその身を照らし出しながら……。