私は昔から欲しいと思ったものが手に入った試が無い、不意に私こと月村すずかは自分自身の事をそう振り返る。得難い親友、心温まる安らぎ、この身を犠牲にしてでも守りたかった人……そして今となっては嘗てと呼称するしかない誰もが正常だった時。その総て、極稀ながらに遭遇したそれら総てに私は袖にされてきた、され続けてきた。どれだけ私が求めてもある時は邪魔をされ、ある時は逃げられ、またある時は見向きすらもされない。そんな敗北と喪失の9年間、私はずっと歯痒い気持ちを抱えながら生き続けて来た。事の発端は何時だったのか憶えてはいない、もうずっとずっと前の事だから記憶もあやふやで自分でもよくその時の事を思い出せない。唯分っている事といえばその当時の私が凄く我が侭で、感情の抑制が利かないほど幼い女の子だったという事だ。恐らくはまだ私が4、5歳だった頃になるのだろうか、私はお姉ちゃんに何か大切な物を欲しがって我が侭を言った。それが何なのかは分らないけど、ともかくそれが欲しくて欲しくて堪らなくて何が何でも自分の物にしたいと思った。でも、それはお姉ちゃんにとっても大事な物で当然私にあげられる訳も無く……お姉ちゃんは妥協案として私にその代わりになる物を差し出してきた。勿論私が欲しいのはそんな物ではなくお姉ちゃんのもっていた物であるのだから、当然その妥協に意味があった訳でもなく……私はそれを受け取る事を拒否して膨れ顔のままお姉ちゃんに酷い事を言って塞ぎ込んでしまった。後々考えてみればそれは別段大した事である訳でもなく、変わりの物を受け取っておけば言いだけの話だったのだが……幼い私にはまだそれが理解できなかったのだろう。その後お姉ちゃんの部屋を再び訪れた時、お姉ちゃんが泣いていたのをこの目で見るまでは。その瞬間私は悟ったのだと思う、「あぁ、自分が何かを求めるという事は何処かで他人を傷付けてしまう」という事を。今となってはその論理が正しいのか間違っているかは定かではない、ただはっきりと言えるのは幼心の内に私は自分が何かを求めるという事がイコールとして人を傷付けるという風に解釈してしまったのだろう。だから私は今となっても欲しい物が手に入らない、手に入れようとするのが怖いから。欲しい物は……すぐ目の前にあるというのにも拘らず、私は手を伸ばす事が出来ない。そう、何時まで経っても……何時まで求め続けても……。私には何一つ手に入らない、そんなもどかしさがふとこんな事を思い出させたのだろうと私は思った。「ふぅ……やっぱり、駄目。駄目なんだよ……」月明かりの微弱な光だけが部屋を照らす真っ暗な闇の中私はリクライニングチェアに腰を降ろしながら、まるで何かを独白するようにそう漏らした。何が駄目なのか、それは自分でもよく分かっていない。ただ昼間の事を思い返し、何をどう言えば良いのかと考える度にそんな言葉が壊れたジュークのように口から勝手に出てくるのだ。そんな風な私だから殆ど真夜中であるというのにも関わらず、電気も点けないでこんな風にたそがれている……何というか肉体的な面にしても精神的な面にしてもとても褒められた行動では無かった。普段ならぐっすりと眠っている筈の時間なのだろうし、黒い薄手のネグリジェに着替えた今の格好では寝る以外の行動を取るのは不適切な事も良く分かっている。だけど私はそうせざるを得ない理由が在った、そしてその事を考えるだけで眠気が何処かへと消え去って言ってしまうのだ。彼女の……私が最も望み、そして零れ落としてしまった女の子の事を考えるだけで……。「私がこんな風じゃ駄目なのに……もっとしっかりしなくちゃいけないのに……」リクライニングチェアの上でギュッと手を握り締めながら私は吐き捨てるようにそう呟いた。暗い部屋の中に私の言葉が小さく反響し、その度に自分の言葉が胸を締め付けてくる。世話係のファリンは此処には居ない、同じくとしてノエルもお姉ちゃんも恐らくは寝静まっている事だろう。だから私はこうやって一人誰にも邪魔をされずに自己嫌悪に浸る事が出来る、きっと周りの人たちがこんな呟きを聞いたら心配してしまうだろうから普段は言えないのだけれど、この暗闇の中だけは心置きなく普段は胸に閊えている言葉を吐き出す事が出来た。私は夜が好きだ、静寂し切った雰囲気も、全てを飲み込んでくれそうな暗闇も、そんな闇を力無く照らす月も……心を落ち着かせる静かな夜が私は好きだった。だけど今となってはその夜は、もはや誰にも心配されたくない私が逃げ込んだ己が罪を独白する場所でしかなくなってしまっている。どれだけ懺悔してもし切れない己の罪を告白し、永劫に終わりの来ない解決の糸口を探し求める時間に。「私は何でこうも……勇気が持てないんだろう」情けない自分の姿を月明かりに照らしながら私は沈んだ心を曝け出す様にポツリとそう漏らして顔を背けた。何時も何時も思う、何で私はこうも意気地が無いのだろうと。受け止めるのが性に合っていると言えば聞こえはいいのかもしれない、だけど結局私は自分から手を伸ばそうとする事をせず何時も受け身に回っているだけなのだ。何かが欲しいと手を伸ばせば欲したそれが壊れてしまうかもしれないという恐怖、そして求めるという衝動の所為で周りが傷つくのではないかという不安……この身はどれだけズタズタに引き裂かれようとも構わないというのに、私は手を伸ばす事が叶わないのだ。それが人間であれ、物であれ、目に見えない成果であれ私は結局妥協した結果だけに甘んじてそれを手にする事しかしない。だからどれだけ欲した処で私が望んだ物は永遠に手に入る事は無い、大事な物を取りこぼしてそれに納得し続けている限りは。私は欲しい物が手に入らない、そんな煩わしさが今の自分と自分を取り巻く現状を生みだしているのだと私は改めて思い知らされるのだった。「何時だって誰かに助けられてばかりで、自分は何もしてあげられない。自分からは手が伸ばせないのに、誰かが自分に手を差し伸べるのを待っている。そんな風だから何時も甘んじた結果に飲み込まれるばかりなのに……」まるで小説の一節か歌劇の一場面のように私は悲しくそんな言葉を漏らす。だけどその言葉を聞く人間はいない、その当人である私という存在を除いては。元々文学が好きだからかもしれない、私がこんな風に一人で独白を漏らす時はどういう訳か一人語りの小説のように言葉を紡いでしまう。そうする事で少しでも自分の事なのだという事を忘れられるから、第三者として語る事で自分に降りかかる責任を一端でも軽くできるから。でもそれは根本的に何の解決にもならない事を私は知っている、結局正面から自分に向き合えないから自分という存在から顔を背けて逃げてばかりなのだという事も。私は私という存在が嫌いだ、望んだ先から手放して責任を感じている様に見せて実はどんな物からも逃げ出してしまっているから。逃げて、逃げて、逃げて……その過程で何もかも落っことして拾い上げる事もしない。何時も誰かに護って貰ってばかりで、いざ自分が護らなきゃいけない時には護ってくれた人に何も出来ず謝り続ける事しか出来ない。二言目には御免なさい、誰に何をされても頭を下げてばかりで……そんな自身が私は情けなくて堪らなかった。だから私は自分という人間が大嫌いだった。「そんな風だから友達があんな風になっても、何も出来ずに立ち止まってばかりなのに。本当……何をやってるんだろうね、私は」長い長い嘆息を宙へと吐き出しながら私は少しだけ記憶を遡る。視線は少しだけ上向きにして、天窓から洩れる月明かりの源である綺麗な弧を描いて輝いている満月へと移す。私は太陽に面と向かって向き合う事は出来ない、だからせめてその太陽の陰で輝く月には顔を向けておきたい……そんな自己満足から生まれた行動だった。不意に私は昨日の昼間の記憶を思い起こしてみる、午後の体育でドッチボールをしていた時の事だ。それは本当に偶然の発見だったのかもしれない、多分私だけしか彼女の存在に気が付いていなかったのだろうし、きっと彼女自身も私がその姿を見ていると気が付いているかどうかさえ定かではない。だけど私の頭からはどれだけ経っても忘れられないのだ、彼女の……私が真に求めている高町なのはという少女の瞳が私達を見下していたあの光景が。「あんなに悲しそうな顔をしているなのはちゃんに……私は何も、出来ない……」瞼を閉じてあの時の光景を私は思い出す。丁度私が外野に回っていた時、線の外へと零れだしたボールを拾い上げたその瞬間に不意に見えた彼女の冷たい視線。その日学校に来なかった筈のなのはちゃんがジーンズとTシャツという大凡私の知るなのはちゃんらしくも無い格好でフェンスの奥の道路に立っていて、そんな彼女が酷く淀んだ瞳で私達クラスメイトを見つめているそんな光景が私の記憶の中でリフレインする。何故なのはちゃんが昨日突然学校を休んだのか私は知らない、だから余計に昨日は一日中私も心配しっ放しだった。体調を崩したのだろうか、怪我をしたのだろうか、もしかしてもう学校に来るのが嫌になってしまったのではないか……ぐるぐると巡る思考は余計に不安を掻き立てるばかりでちっとも授業に集中出来なかった程だ。教室でたった一つだけの空席がまるで胸にぽっかりと空いてしまった穴のように喪失感を感じさせ、その違和感だけがしこりとなって私の心に残り続けていた。そしてそんな矢先に私はあれを見てしまった、なのはちゃんのあの……全てを見限ったかのような冷たくて怖くてまるで胸に刺さる様な……それでいてどこか寂しげなあの表情を。そして私は夜になってもあの顔を忘れられずに眠れないでいる、眠ってしまったらもう明日はなのはちゃんの顔が見れなくなってしまうのではないかという不安が私を蝕んでくるから。だから私は眠れない、この日もまた……眠れない。「出来る事をしようと思ったのに……結局私は無力なままだよ。ねぇ、なのはちゃん……私は一体……どうすればいいのかなぁ?」答えてくれる人間はいない、多分いたとしても私の言葉なんてなのはちゃんは気にも留めてくれない。こんなにも彼女を想っているのに、こんなにも彼女を護りたいと思っているのに。なのはちゃんは私を見てはくれない、どんな事があっても私は所詮彼女の眼中には既にないのだ。どうしてこんな風になってしまったのか、そう考えると私は居ても立ってもいられなくなる。全ては私の所為なのだ、私なんかが彼女に近づかなかったらなのはちゃんはあんな風にならなくて済んだのだ。なのにも拘らず私は彼女を求めてしまった、求めれば傷つくと分かっていた筈なのにそれでも尚私はなのはちゃんを求めてしまった……その所為でなのはちゃんは今も尚傷ついているのだ。私の所為で、私の所為で……。「あの日の約束も守れないままだよ、私。約束したのに……なのはちゃんと約束したのに……」約束、言葉が私の口から不意に漏れる。それは小学一年生の時に初めて彼女と出会って友達になった時に交わした絆、そして今になっても守れない風化した契りだった。小学校に上がりたての頃、私には周りの皆と違って友達という物がいなかった。内気で口下手な私にとって友達というのは同じ時を過ごす蔵書か家に複数いる猫さん位のもので、対人関係自体が苦手だった私にとって学校という場所は道の場所だった。周りの人たちは同じ幼稚園や保育園だった人間同士で集まって楽しそうに笑っているのに、反面私は俯き気味に本を開いて時間を潰すだけで積極的に誰かに関わろうともしない。そんな私だったから当然クラスの人間からも直孤立した、元々集団生活というのが苦手だったというのも在るのかもしれないが私は周りの空気に馴染む事が出来ず、学校が始まって三ヶ月もすれば立派な苛められっ子になっていた。この頃の苛めと言えば精々軽い揶揄いがある程度のもので、今なのはちゃんが受けている物とは比べ物にならない程軽い物だけど……私はそれが嫌で嫌で仕方が無かった。髪の毛を引っ張られたり、物を隠されたり、軽くハブられたりと私の精神は次第に参っていった。そんな矢先に出会ったのが今の親友であるアリサ・バニングスちゃんとなのはちゃんだった。二人との出会いは対照的だった、アリサちゃんは私とは違う意味でクラスから浮いていたけど私を虐める側の人間だったし、なのはちゃんはそんなアリサちゃんに責められている私をまるでヒーローみたいに助けてくれた。事はアリサちゃんが私の髪止めを貸して欲しいという事で口論になっただけなのだけれど、それが何時しか掴み合いの喧嘩に発展してしまい……其処をなのはちゃんが出てきてアリサちゃんを止めてくれたという具合だ。勿論アリサちゃんとなのはちゃんは当初とんでもなく仲が悪かった、お互い譲らない性格だからなのはちゃんの平手打ちから始まった喧嘩は何時しか殴り合いの喧嘩になって……事が全部終わって二人が仲直りした時は二人とも戦場から帰還してきた兵隊さんみたいにボロボロだった。そして何時しか私たちは一緒に肩を並べて遊ぶようになり、その中心には何時も私という存在があって……凄く楽しい毎日が続いていた。そんな楽しい日々が、私はずっとずっと続くのだと信じていた……そう信じて疑わなかった。だからあの時私は初めて出来た自分の友達であるなのはちゃんと約束したんだ、今となっては取り返しのつかない約束を。「なのはちゃんが責められてる時は今度は私が護ってあげるって約束したのに……」徐にリクライニングチェアから立ち上がった私はふらふらと暗闇の中を歩き、窓の近くへと歩を進める。冷たいタイルの床が素足を冷やし、その度に寒々しいという感情が私の中に芽生えてくる。だけど私は歩を進めるのを止めない、そんな事が気にならないほど私の目元が熱を帯びていたのからだ。はらり、はらりと頬を伝う其れはまるで私の気持ちを代弁してくれているかのように次から次へと止め処なく溢れてくる。約束を護れなかった自分を責めるように、そして護れなかった人へ許しを請うように。そう、私がなのはちゃんと約束した事というのは幼心の内に私たちが交わした小さな絆でしかなかった。もうきっとなのはちゃんは憶えていないのだろうし、こんな風に責任を感じてしまっている私を見ればなのはちゃんはきっと「ウザい、止めてよ」と私を突き放す事だろう。だけど私はずっと後悔している、その約束が今になっても護れて居ない事に……そしてなのはちゃんをこんな風へと追いやってしまった事に。「本当は……私が受ける罰なんだよ……私が……私が全部受けなきゃいけなかったのに……それなのに……」私はなのはちゃんに全てを押し付けて逃げ出してしまった、そんな言葉が頭に浮かぶ。その瞬間私はまるで胸を大きな杭で突き刺されたかのような大きな大きな痛みを感じた。本当なら私が受けなければいけない罰、それから逃げ出した事こそが私の最大の罪なのだ。本来なのはちゃんは周りの人間から虐められるような人じゃなかった、よく笑うし、何事にも一生懸命だし、それに時に危うく見えてしまうくらい優しい人だ。自壊的、もしくは自分を大事にしていないようにも見えてしまうくらい高町なのはという人間は何処までも直向きに真直ぐで輝いている人間だった。だけどそんななのはちゃんを此処まで落としてしまった原因はやはり私自身にあるといえた。明るくてよく笑うなのはちゃんとは対照的に口下手で人見知りの激しい私は、なのはちゃんやアリサちゃんと知り合った後も長らくクラスの内で孤立する状態が続いていた。そんなに周りから意地悪されるという訳ではなかったけれど、それでも疎外されている感じは否めなかったし、集団で何か物事をやる時に仲間外れにされるのはザラな話だった。曰く無口で何時も本ばかり読んでいるから取っ付き難い、通信簿の先生の欄にも社交的になったほうがいいというコメントを書かれる始末だったのだから私の根暗は相当な物であると言っても過言ではなかった。なのはちゃんはまだしもアリサちゃんに至っては今の現状に持ってくるまで結構な時間を弄した物だし、その時も私は積極的にアリサちゃんに話しかけるなのはちゃんに引っ張られてばかりだった。受身ばかりの人生、自分から手を出さずに只管待っていてもそれなりな結果が付いてくるから自ら手を伸ばさなくても妥協の出来る都合のいい生き方……なるほど確かに其れは楽な生き方なのかもしれない。ただ手を差し伸べられるのを待っていれば良いのだし、自分で何かを決める必要もなく“それなり”の物を手にして満足する事が出来るのだから。だけどそんな楽な生き方を周りが許容してくれる訳はない、周りの人達は私よりも遥かに社交的で人間との付き合い方というのをよく熟知している。権力のある者には猫なで声に擦り寄り、自分よりも格下の人間には身の毛も弥立つような仕打ちを平気でする……そんな二面性を彼ら彼女らはよく知っていた。良くも悪くも集団から浮き出た存在は周りから疎まれる、子供というのは時に恐ろしいほどの結束力を見せるもの……しかしそれは裏を返せばある一定のライン上にクラスメイトの立場を並列させて其処から漏れ出す人間を皆で監視し合っているとも解釈できる。つまりはそのラインよりも前に行こうとする人間、もしくはそのラインについて行けない人間を異端とみなし蔑む訳だ。古今東西異端者という物は集団から忌み嫌われる、軍事、宗教、思想、政治、理念……大小様々な格差はあれど根本は皆同じだった。自分には共感する仲間が大勢いる、皆自分と同じ考えをしているし恐らくは其れが正しいのだろう……だからその集団に居ない人間は“敵”である。図式にしてみれば子供の私にも分る程に単純なもの、しかしそれは世の中の心理そのものであるとも私は思えた。何せその図式の延長線上で……私もまたクラスの人達から迫害を受けた一人なのだから。「私は……逃げ出してしまったんだ……」カーテンを掴んでその場にへたり込む様に崩れる私。月明かりは容赦なくそんな私を照らし出し、今の私の状態を鮮明に照らし出していた。泣き崩れ、それでも尚何も出来ない無力な私を……得たいと思っているのに手が伸ばせない約束破りの醜い私を。月はまるで全てを見通し、そして浄化するようにただただ弱々しい光で夜の闇を照らしていた。そんな中で私は胸の痛む辛い思い出を記憶の中から引き出し、渦巻く思考へと加える。それはまだ私が小学二年生に進級したばかりの頃のこと、なのはちゃんという“親友”を得て、アリサちゃんという“友達”をようやく私が得始めた頃の事だ。私は人知れず周りの人間から蔑まれるようになった、理由は今でもよく分らない……なんでも彼らは口数の少ない私を「壊れている」と称して「修理」するのだと言っていた。人格の矯正、そんな生易しい物とは違う……子供心の内に芽生えた集団から漏れ出た人間を都合の良い理由をつけて嬲るという行動の正当化だ。トイレに行けば頭から水を浴びせられ、教室では目の前でお気に入りのペンケースを踏み潰され、屋上ではお財布を取られてボロボロの雑巾みたいになるまで私刑に晒される。なのはちゃんとは違って期間は短かったけど、私は一時期完全な対人恐怖症に陥るまでに成り果ててしまっていた。怖かった、周りの皆が怖かった……なんでこんな事をされるのか私には身に覚えがないし、其れを口に出しても「キモい」と言われて笑われるだけ。身体に負った傷の幾つかはまだ私の身体に残っている、とてもじゃないけどお姉ちゃんにもノエルやファリンにも言えるものじゃないから病院には行けず痕になってしまったのだ。透けている黒いネグリジェからは生々しく痕が残った刃物傷や小さな刺し傷が幾つか見え隠れしていた、私は他の人と比べて比較的治りが速いようだったから治癒した先から同じ所を何度も何度も痛めつけられた……恐らくはその所為なのだろう。だけど未だに私はこの事を家族に人には言っていない、この事実を知るのは私と……恐らくはなのはちゃんだけだ。アリサちゃんにもこの話は今でもしていない、なのはちゃんとの関係だけでも気を使わせてしまっているのにこれ以上心配事をさせたくないのだ。でも私はなのはちゃんにだけはしっかりとこの事を話した、もう限界だったというのと同時になのはちゃんならもう一度私を助けてくれるだろうという期待があった。そして案の定なのはちゃんは其れを聞いて飛び出していった、先生に話を付け、クラスの人達を糾弾し、私がまた何かされそうになっても身を挺して護ってくれた。嬉しかった、もう駄目かもしれないと思っていた私にとってなのはちゃんの存在は救いの天子様の様に見えた。結局証拠がないというのと誰もそれを”見ていない”という事でこの話はお流れになってしまったが御蔭で皆からの私へのイジメは無くなり、それ以降私が今日まで被害を受けることは無かった。私は初め此れで全てが解決したのだと思った、物語に終わりが在るのと同じようにこんな辛い出来事も此れでやって終りを迎えられるのだと思った。だけど私は後に知ってしまった、悲劇は同じように繰り返される……唯対象が私から私を庇ってラインを出てしまったなのはちゃんに変わったという違いを除いては。「ごめん……なさい……」涙がぽたりと真紅のカーペットに落ちる、そして其れと同時に謝罪の言葉が口から漏れ出した。其れは今の私に出来る精一杯の謝罪だった、あの時私がなのはちゃんに何も語っていなければなのはちゃんはあんな風になることは無かった。今も私という存在を忘れてアリサちゃんと笑っていられた、そうあるべきだったのだ。なのに私は不用意に手を伸ばしてしまった、自分が望めば誰かが傷つくと分っていながら私は救いを求めてしまった。その結果残ったのが今の現状、そしてそれを納得しそうになっている自分がいる。私は心底欲した物ほど手の内に収める事が出来ない、まるでそんな現実を神様が嘲笑っているかのように私は欲しい物を手に入れることが出来ない。私が求めたのは三人仲良く過ごせる平凡な日常だった、ドラマのように山や谷が無くてもいい、物語のように登場人物に明確なキャラが立ってなくてもいい、歌劇の様に情熱的な見せ場が無くてもいい……ただ昔のように三人仲良く肩を並べて笑って居たかった。なのはちゃんがいて、アリサちゃんがいて、そして真ん中に私がいる……其れだけで私は幸せだった筈なのに。私はどうしても自分が欲した物を手にすることが出来ない、どうしても。「ごめんなさい……」また口から謝罪の言葉が漏れる、けれど誰も其れを許す人はいない。なのはちゃんが虐められてからというもの私の周りの人間の立ち位置もドンドンおかしくなって行った。アレだけ仲の良かった筈のアリサちゃんは次第に私も含めてなのはちゃんから距離を置きたがるようになり、今となっては完全に仲違いをしてしまっている。お姉ちゃんの恋人であるなのはちゃんのお兄さんも最近では頭を抱えてばかりでなのはちゃんの存在を持て余しているようだった、きっと強情ななのはちゃんの事だから自分の現状を家族に報告してはいないのだろう。心境は昔の私と同じ、きっと初めの内は家族に心配を掛けたくなかったのだろう。其れが度合いが酷くなっていく中で無言のSОSを発するようになる、あの頃はなのはちゃんも勉強に手がつかないようで成績も著しく下がっていたから余計に言葉に出し辛かったのだろう。もしかしたら家族なら気が付いてくれるかもしれない、そして私を誰か救ってくれるかもしれない……きっとなのはちゃんにはそんな期待があった筈だ。だけどなのはちゃんの家族は其れに気が付かなかった、私の時はいち早くそのなのはちゃんが救いの手を差し伸べてくれたけれど、なのはちゃんの場合はそんな助ける側の人間が無言の助けを求めているなんて想像もできなかったのだろう。だからなのはちゃんはあんな風に歪んだ怖い人になってしまった、嬲られても蔑まれても疎まれても悲鳴一つ上げさせて貰えない環境がなのはちゃんをそうさせてしまったのだ。きっとなのはちゃんは私よりも多くの傷を負った事だろう、沢山お金も取られただろうし、聞く所だと家でも孤立してしまっているのだというのだからその辛さは私の時の比ではないだろう。なのに私はどうだろう、彼女に救いの手を差し伸べられているだろうか……確かにお弁当を作ったりアリサちゃんの制止も無視して話しかけたりはしているけれど全部跳ね除けられてしまう。なのはちゃんを見習って私は一杯努力した、周りの皆から好かれるような振る舞いも学んだし、周りに合わせるという事も憶えた……だから今の私は孤立はしていないでいられる。だけどそれが逆になのはちゃんを傷つけ、引っ張り上げてあげるどころか余計に傷付けてばかりだ。色々な手段も試してみた、担任の先生に報告したりクラスの人達の目を盗んでなのはちゃんの隠された物を元に戻してあげたりと小さな事だけど少しでもなのはちゃんの立場がよくなるのならと策を弄してみた事もある。だけど殆ど其れは徒労に終わってしまった、先生はクラスメイトの子達の証言ばかりを信用してまともに取り合ってくれないし、幾ら隠した物を元に戻してもその時にはもう壊れている物が殆どだった。思い切ってなのはちゃんの家族に全てを打ち明けてみようかと考えた事もある、だけど其れはどうしても出来なかった。其れは結局なのはちゃんの傷を大きく抉るだけだと分っていたから、これ以上なのはちゃんが擦り切れてしまったらもう彼女は立ち直れなくなってしまうと知っていたから……。だから私は結局周りの目線を気にしながらなのはちゃんに少しずつ話をしていく事しか出来ない、手を伸ばせば直ぐ其処にある距離なのに私は彼女を受け止めてあげることが出来ない。私は、恩を仇で返す事しかできない大嘘つきだ……そう思うと私はより一層泣き出したい気分になった。「ごめんなさい」私はその後も謝罪の言葉を延々と繰り返し、夜の闇の中で一人唯泣いていた。それで何が解決する訳でもないのに、伸ばした手が届く訳でもないというのに。私はただただ泣いて、そしてただただ謝り続ける。あの日の約束を護れない事を、そしてなのはちゃんをこんな風にしてしまった事を私は唯謝罪し続ける。許してくれる筈がない事は分っている、だけど私にはこうする他何も出来ないのだ。何せ私は求めれば求めた人間を傷付けてしまう穢れた人間だから、人を想いながらも待ち続けるしかない哀れな人間だから。だから私は今宵も泣き、そして謝り続ける。弱々しく輝く月に向かって、私は一晩ずっと非力な自分を悔やんで謝り続けるのだった。何時かこの手で真に欲する物を得たい、そんな願い事と共に。翌朝、まったく眠っていない所為かぼーっとする感覚を隠し切れないまま私は学校へと向かうバスに乗り込んだ。此処毎日大体こんな感じだから慣れていると言えば慣れているのだが、元々低血圧である事も相まって余計辛く感じてしまう事は否めない。焼けるような日差しを全身に浴びてふらふらする身体を引きずりながら毎朝登校するのはちょっとした地獄だった。最近は何時もそうだ、碌に夜眠る事が出来ないから歩くだけでも辛い日々が続いている。眠ろうとベットに入っても寝苦しく一、二時間で直に起き出してしまうし、眠りについたらついたで昔の事が夢に出てきて魘されてばかりでちっとも身体の疲れが取れない。そんな中で生活するのは苦行以外の何物でもない、だけど私は無理矢理笑顔を作って周りを心配させたり不審に思われない様に取り繕いながら毎日を生きている。なのはちゃんの受けた痛みはこんな物では無い、そう思うからこそ……私は毎日を絶えて居られるのだ。「うぅ……キツイなぁ。なんかくらくらする……」眉間に手を当てながらバスの中央の通路を歩きながら私は不意にそんな弱音を漏らす。元々私は朝が弱い、加えて最近は食事も殆ど喉を通らない日が進んでいるから頭の回転も日に日に鈍くなっていっている事も否めないと来ているのだからそれがどれほど辛い事なのかは言葉に出すまでも無かった。更に言えばそんな状況の中で授業を受けて、尚且つ周りの人たちに気を使いながら身体を酷使するというのだから一日に私が負う疲労の度合いもそれなりな物だった。それが此処丸一年近くずっと続いているのだ、きっと蓄積されている疲れもそろそろ限界に達するのではないかと私は思う。家族の人達やアリサちゃんに心配させない為にと表面上だけは何とか取り繕えるように心掛けてはいるけれど、最近はボロが出る事も少なくない。気をつけていてもドジを踏んでアリサちゃんを心配させる事なんてザラな事だし、物忘れも日を追うごとに酷くなってきている。何とかその場は笑って誤魔化してはいるけれど、それに本気で私が“気が付けていない”事を考えるとちょっと洒落にならない事態だった。見た目は綺麗な様に取り繕っていても中身はボロボロ、まるで内面から腐食を始める機械の様だと私は思った。「……当然の報いなんだろうけどね」でもそんな風になってしまったのもその状況を作り出したのも全て私の責任、自業自得だと思いながら私はバスの一番奥に在る少しだけ広いスペースの席に腰を降ろした。此処は私ともう一人……なのはちゃんしか座らない空間の大きな席だ。昔はアリサちゃんと三人で並んで座っていたのだけど、今はアリサちゃんもなのはちゃんに負い目を感じているのか、はたまた周りの皆に恐怖しているのか……家の車で毎日登校するようになってしまった。だからなのはちゃんが来るまで私は一人だ、だけど寂しいとは思わない。寧ろ私は安心していると言って良いのかもしれない、きっと此処にアリサちゃんが居たら私はアリサちゃんに余計な気苦労を掛けてしまう事になる。唯でさえ私が望んだ物は傷つけられるのだ、此処で私がアリサちゃんに縋ってしまったらきっとアリサちゃんもなのはちゃんと同じような風になってしまう……確証は無いけれど私はそう思わずにはいられなかった。何せ私の周りを取り囲んでいる環境は大凡最悪な人たちの集まりだったからだ。確かに私の通っている聖祥大学付属小学校は頭が良くそれなりにお金持ちな人の子が沢山集まる少し特殊な場所だ、傍目からは虐めとか学級崩壊とかそんな言葉とは無縁そうな様に見えるフィルターが掛かっている処と言ってもいいのかもしれない。虐めとか学級崩壊は頭の悪い学校にだけ起こり得るものだ、だからエリートばかりが集まる学校にならそういう問題は起こらないだろう……そういう大人から見ての安心感が故の印象付けなのだろう。だけど実際にはそんな事は無い、エリート感情故の劣等感や上下関係の煩わしさ、そしてそれに対する嫉妬や妬みが湾曲して人の心を歪めてしまい虐めに発展させているのだ。更に言えば私の年頃の子たちは皆グループを作る、友達同士だとか、塾が一緒だとか、スポーツクラブに一緒に通っているとか理由は様々だけど得てしてそういう人たちは同じ人間同士で纏まりやすくそれ以外の人達との交流を絶ってしまいがちだ。そしてそういう人たちの結び付きは強固だ、時として一人の人間の人生を狂わせてしまう程に強く強固で考えようによっては不気味とも取れる程の団結だ。そんな人たちだから余計に自分たちと違う人間を嫌う、そしてその嫌いという感情を実力行使に移す際は誰しもそれに協力を惜しまなくなる。自分が其処から洩れるのが嫌だから、だから周りの意見に合わせてその人間を悪だと認識するようになる。そしてその対象と見なされた人間は大した理由も無いのに蔑まれ、その集団から排除される方向に事が進んでしまう。昔の私や今のなのはちゃんがそれの筆頭と言えた、周りの人間に合わせられないから酷い目に遭う……それはある意味人の心理なのかもしれないと私は思った。「早く……来ないかなぁ、なのはちゃん」私は静かに席に座ったままポツリとそんな一言を漏らした。だけど待ち人は来ない、もしかしたら今日も来ないのかもしれない……そんな不安が頭の中に過る。何があっても学校に来る事だけは止めなかったなのはちゃん、だけど彼女も限界に近いと言えばそうだったのかもしれない。なのはちゃんが受けている仕打ちはもう彼是二年生の頃からずっと続いている、精神も相当参っているに違いない筈だ。おまけになのはちゃんには逃げ場が無い、なのはちゃんは時々授業をサボるけど彼女が何処で何をしているのか私には分からない……けれど一人ぼっちだろう事は容易に想像が付いた。どうすればいいのだろう、不意に私の頭にそんな考えが過る。もしもこれがお姉ちゃんなら、ノエルやファリンだったら……そしてアリサちゃんだったらどう考えるのだろうと私は考える。もしかしたらなのはちゃんを助ける為に身を投げ打って助けに入るのかもしれないし、もしかたらそれが時の流れであり人の心理なのだと諦めてしまうかもしれない……私は彼女達ではないから彼女達がどんな答えを示すのか分かりはしない。加えて私にはお姉ちゃんの様な聡明さも無ければファリンやノエルの様な包容力も無く、アリサちゃんのような賢い考えや人を分かろうとする行動力も無い。だから私は皆に憧れている、昔はなのはちゃんだけだったけど今は私に持っていない物を持っている人間に憧れているし……出来うる事なら私は「アリサちゃんの様な人になりたい」、そう思わずにはいられなかった。アリサちゃんは私と違って人付き合いが上手い、他人との距離感や感情の誘導などを巧みに操りながら水面下で行動が出来て、尚且つ相手を乗せるのが上手だ。周りの人に一切気を許さない代わりに拒絶するのではなく分かろうとする姿勢を常に保ち続けている、それなのにも関わらず人を本気で思いやってあげる事の出来るアリサちゃんは本当に凄い人だ。行動力も周りの人を理解しようという感情も薄い私にはまさに雲の上の存在、だけどアリサちゃんはずっと私の傍にいてくれる……そんなアリサちゃんにもしかしたら私は無意識の内に甘えているのかもしれない。彼女が傍にいてくれるから、それを言い訳にして自分を納得させているかもしれないのだ。幾ら憧れていても行動しなければ何も変わりはしないのに、そんな自虐的な思考に耽りながら私は疲れた様なため息を一度吐き出した。「ふぅ……本当に駄目だね、私。そうやって何時も何時も―――――」慣れない物ばかりに感けているから現実と素直に向き合えない、私はそう言うつもりだった。だけど私は其処で言葉を途切れさせた、視界に待ち人の姿を捉えたからだ。バスの乗車口に見えたハニーブラウンの髪、そして続けて姿を現す気だるい感じの表情と猫背の態勢で固定されたような身体。腕には何時ものコンビニの袋、そして決まって手はポケットの中へと入れている。まるでドラマに出てくるチンピラさんのような子、その子こそ私がずっと待っていた高町なのはちゃんその人だった。しかし、この日は少しだけ何時もと様子が違っていた。頬には痛々しい大きな絆創膏が貼り付けられており、何時もの覚束ない足取りは何処か片足を引きずっている様にも見える。加えて何時も気だるそうな表情も、何処か痛い物を堪えているかのように歪んでいた。その瞬間私は昨日見かけたなのはちゃんの姿が幻では無い事を悟った、なのはちゃんは間違いなくあの場所で私達を見つめていたんだ、と。それを改めて悟った時私は呆然となってしまった、なんと彼女に話しかけて良いのか……分からなくなってしまったからだ。私は初め昨日はどうしたの、とか休むなんてめずらしいね、とかそんな当たり障りのない話題を元になのはちゃんに話しかけようと思っていた。だけど私は昨日なのはちゃんの事を見掛けてしまっている、加えてもしかしたらなのはちゃんは私がなのはちゃんを見掛けた事を気が付いているのかもしれないのだ。話しかけるきっかけが失われてしまった、その現実に私はしばしの間呆けていることしか出来なかった。そしてなのはちゃんはそんな私を他所に何時ものように嫌そうな顔を一瞬浮かべると、私の隣の席に間隔を置いて腰を降ろした。「お、おはよう。なのはちゃん」「……………」一応通例通りなのはちゃんに挨拶をしてみる、でもやっぱり反応は返ってこない。本当に何時もどおりのやり取りだった、なのはちゃんは私が挨拶をしても挨拶を返してきたりはしない。そもそも私が話しかけて反応してくれる方が珍しい、最近は不承不承といった感じだけどちゃんと言葉を返してくれていたからそんな事も私は忘れていたのだ。チラッと横目でなのはちゃんを私は確認してみる、ビニール袋を広げて何時もの缶コーヒーを取り出している姿は正に私が知っている今のなのはちゃんその物だった。ただやはりどうにも頬の傷が気に掛かった、それによくよく見れば制服がずれた肩口からは真っ白な包帯が巻かれているのも目に付く。誰がどう見たってなのはちゃんの状態は大怪我をした人のそれだった、なのになのはちゃんは何も変わらないといった様子で缶コーヒーのプルタブを開けて一口啜っている。まるで自分は周りから誰にも見られていないと言わんばかりに、だけど私は直ぐになのはちゃんの傷に話題を持っていくことが出来なかった。あの時の……昨日の昼間ドッチボールをしていた時に一瞬見えた私たちを蔑むようななのはちゃんの表情が今のなのはちゃんとダブって上手く言葉を発する事が叶わなかったのだ。でも触れなくては話しが進まない、私は一生懸命血の廻らない頭で必死に話しかけるべき言葉を考え、そしてなのはちゃんへと考えた言葉を投げかけた。「今日も……コンビニのお弁当なんだね」「……別に」「言うのも何度目になるか分らないけど、止めた方がいいよ。やっぱり身体に良くないし……栄養も偏っちゃうよ?」「はぁ、私もさぁ……いい加減何度目になるか分らないけど知った風な口聞かないでよ。腹立つから」なのはちゃんの口から漏れた辛辣な言葉が私の胸に突き刺さる。昔の優しいなのはちゃんを知っている私としては、どうしても今のなのはちゃんの言動が自壊的な物に思えてならなかった。傍から見れば粗暴で投げ遣りな言葉にしか聞こえないのかもしれない、だけどなのはちゃんの言葉は暗に私に関わるなという事を前面に押し出しているようにも思えるのだ。自分という存在に触れられるのが怖いから、いっその事このまま誰からも忘れ去られて塵のように消えてしまえればいいのにと思っているから……なのはちゃんはこんな風な乱暴な言葉遣いで人を遠ざけているのだ。本当はなのはちゃんだって誰かに助けて欲しいと思っているはずなのに、そう思うと私は自分の胸が疼くのを感じた。あんなになのはちゃんに助けられたのに、私はその恩人に何一つとして恩を返せないままだ……“嘘吐き”頭に浮かんだそんな言葉が余計に私の心を沈ませた。だけど私はそれでも話しかけるのを止めたりはしない、無駄な事かも知れないとは分っているけど……それでも零ではないと信じているから。「あ、あのさ……なのはちゃん……」「……何?」「いや、その……その傷……」「言いたい事があるならはっきり言えば? 正直そうやって口篭られてもウザいだけなんだけど?」コンビニの袋から粗挽き胡椒のフランクフルトを取り出して一口齧りながら尚も私に辛辣な言葉を投げ続けるなのはちゃん。だけど彼女が悪い訳ではない、全部とろくさい私がいけないのだ。誰かが何かをしようといっても付いていけず、挙句言われてからようやく行動しだす事しか出来ないほど鈍い私……まるで油を挿していない薇細工のようだ。その所為で昔皆からいわれた呼称が「壊れた機械」、今はクラスの顔ぶれも変わってそんな事を言う人も少なくなったけど正にその通りだと私は思った。何処までもどん臭くて、どこまでもとろくさい……その所為でみんなの足を引っ張って、挙句不幸にしてしまう。私の存在が全部悪いのだ、なのはちゃんが悪いわけではない……でも私は思ってしまう。昔のように優しくて強いなのはちゃんでいてくれたら、と。彼女をこんな風にしてしまったというのに、何処までも自分勝手だ……私は自分で自分を叱咤しながら痛みに堪え、なのはちゃんに「ごめんなさい」と謝罪の言葉を投げてから言おうとしていた話題に流れを戻した。「なのはちゃん、その傷はどうしたの? なんだか凄く酷そうに見えるけど……」「……またか。いい加減皆大袈裟なんだって言うのに……ったく。別にすずかちゃんに言う必要なんて何処にもないと思うんだけど?」「……ごめんなさい」「ッ……野犬に襲われた。弾き飛ばされて嬲られて噛まれそうになった。それで通りすがりのお姉さんに助けて貰って丸一日病院送りにされた。どう、此れで満足した?」舌打ちをしながらもちゃんと私の質問になのはちゃんは答えてくれた。素直に驚いて私がなのはちゃんの方を向くと、彼女は面倒臭そうに顔を顰めながら缶コーヒーの缶を傾けていた。何時もだったら「分りゃいい」とか「話しかけてこないで」とか「いい加減にしてよ」とか言って突き放してくるのがザラなのに、なのはちゃんはちゃんと私の質問に答えてくれたのだ。やがて私の驚きは嬉しさに変わった、まだ私はなのはちゃんと話していられる……そんな安堵感を憶えたからだ。なんだかんだ言ってもなのはちゃんは根本的に優しい人だ、もしかしたら何か思うところがあって私にメッセージを送っているのかもしれない。私は少しの間だけそんな妄想に浸って……直ぐに現実に引き戻された。あの時の瞳、それが不意に目の前のなのはちゃんとダブったからだ。病院にいたのならあんな場所にいる筈がない、でもなのはちゃんは確かにあの場に居た。この流れならそれを確かめられるかもしれない、私はなけなしの勇気を振り絞って覚悟を決めるとなのはちゃんにゆっくりと言葉を投げかけた。「もう少しだけ、聞いてもいいかな?」「……好きにしたら」「なのはちゃん……もしかしたら私の勘違いかもしれないんだけど、昨日―――――」「あぁ、やっぱり見られてたか。気をつけてたつもりなんだけどな~」ドクンッ、となのはちゃんの言葉を聴いた瞬間心臓が跳ね上がった。きっとなのはちゃんは答えてくれないと思っていた、基本的に人から干渉されるのを極度に嫌う子だったからどうせ素直に話してはくれないだろうと私はそう考えていた。だけどなのはちゃんは私の予想に反してあっさりと私の言いたかった事を言い当てた。そしてそればかりか自分があの場にいたことを自ら認めたのだ。それは何時ものなのはちゃんを見ている限り異常な事態だった、まるで何か吹っ切れてしまったような……何時もと違う危うい雰囲気が目の前のなのはちゃんからは感じられた。自壊的な衝動が強まったような、まるでもう自分はこの世に必要ない人間なんだと思い込んでしまったような……そんな後ろ向きな雰囲気。そんな危うさを危機と感じたからだろうか、私は驚いてなのはちゃんの方を向いてより深くそのことについて追求してしまったのだった。「じゃ、じゃあやっぱりあの時は……」「午後2時頃だっけ、あそこにいたのは? 別に行く気は無かったんだけど……まさか見つかるとは思ってなかったからなぁ。正直誤算だったよ、まさかすずかちゃんに見られるなんてね」「……あそこで、何をしていたの?」「別に、何も。ただ通り掛ったからちょっと様子を見てただけ。ただまあ参ったなぁ……まさか本当に見られてたなんて……かったるい」こきこきと首を鳴らしながら本当に面倒くさそうになのはちゃんは顔を顰めながら私にそう言ってきた。否定もしないしはぐらかさない、なのはちゃんは確かにあの時あの場に居たと言っているのだ。つまりアレは見間違いじゃない、そう思うと私は身の毛も弥立つような感覚に晒されてしまった。あの目は……あの見下したような瞳は嘘なんかじゃない、彼女が本心からあんな目をしていたのだと私は確信してしまったからだ。本当に通り掛っただけなのか、はたまた私たちクラスメイトを意図して見下しに来ていたのか……その真偽のほどは定かではない。唯一つ言える事は、どちらにしてもなのはちゃんが完全に私たちに見切りをつけ始めているという事だった。アレは全てをかなぐり捨てる時の目だった、私も一時期あんな目をしていたと目の前のなのはちゃんに指摘された事があるからよく分る。今のなのはちゃんは……対人恐怖症に陥って部屋の中で塞ぎこんでいた昔の私自身にそっくりだったのだ。そんな風に私が漠然と考えているとなのはちゃんは有無を言わせず私に対して話しかけてくる。彼女から話し掛けてくるのは珍しい事だった、だけど内容が内容なだけに私はそれを喜びの感情と受け止めることは出来なかった。何故ならなのはちゃんの言葉は……私の胸を抉る事しかしてこなかったから。「で? 幾ら欲しいの?」「えっ……」「えっ、じゃないよ。口止め料だよ、口止め料。幾ら払えば他の人達に黙っててくれるの? 私もあんまりお金ないけど二、三万までなら何とか都合できるんだけど……って、ちょっと聞いてるすずかちゃん?」「いや、だって……」なのはちゃんの言葉は今まで私がなのはちゃんに言われてきたどの一言よりも深く深く私の心を抉った。幾ら欲しいのか、それは口に出さずとも分る通り恐らくはお金の事だろう。なのはちゃんがどんな気持ちで何を思って私にこんな事を言ってきているのか、私はそれが理解できない。なのはちゃんは口止め料と言っている、つまりそれは周りの人達にこの事を公言するなという事の代価という事なのだろう。でも私は信じられなかった、まさかなのはちゃんが私の事を周りの人達のように自分を蔑んでくる対象の一人だと思っていることが……信じられなかった。いや、信じたかったの間違いなのかもしれない……心の何処かでは思っていたのだ、私はもう見捨てられていると。だけど私はなのはちゃんを信じたかった、まだ彼女が昔のような人であってくれることを……優しくて笑顔の似合うなのはちゃんであると信じたかった。だけどこの瞬間私は理解した、あぁ……なのはちゃんはもう変わったしまったのだと。私が約束を破ったばかりに、私はもう今にも泣き出しそうになってしまった。なのはちゃんはお財布を取り出して中を確認している、なのはちゃんは冗談で言っている訳ではないという事の表れだ。だからこそ、私は余計に……辛かった。「お金なんて……いらないよ。私、そんなの欲しくない……」「えっと、つまりなに? すずかちゃんは言触らすつもりなわけ?」「ちッ、違うよ! 私は言触らしたりなんかしない! ただ……私は……」「あぁ、私さぁ……口約束って信用出来ないんだわ。何かしら保障が欲しい、何事もそう思っちゃうわけなんだよ。んで一番手打ちが早い方法を考えたんだけど……なんで拒否るわけ? 私、すずかちゃんに要らない借り作りたくないんだけど?」なのはちゃんは怪訝な顔をしたまま信じられないといった感じで私の方を睨んできた。其処に一切の嘘や冗談は含まれていない、本気でなのはちゃんはそう思っているらしかった。口約束は信用できない、だからお金という楔で私を縛ってしまおう……なのはちゃんの考えは凡そこんな感じなのだろう。お金というものの力は私もよく知っている、人はお金を目の前にすると目の色を変えるというのを私は間近で見てきたからだ。私はなるべく学校にお財布を持ってこないようにしているのもそれが理由だった、嘗て私は殆ど毎日のようにお金をせびられてお財布の中身をクラスメイトの女の子に取られ続けていたからだ。その子達はクラスでも意欲的にスポーツに取り組む人間だという事で有名で、私も何でこの子達がそんな風に私を足蹴にしてくるのか理解出来なかった。だけど私は後々知った、その子達は凡そクラスでもお金をもっているだろう私を最初からターゲットにしてお金を取れるように目をつけていたのだということを。私はその時その人達を酷く憎んだ、私はお金なんかいらない……欲しい物が手に入れたいだけなのに、そうずっと思い続けていた。だけど今回私はそのお金を取る側の人間になってしまった、例え受け取る気が無くてもそうなってしまった……それが私はショックでならなかった。「言わないよ……絶対、言ったりしない……。だからお願い、そんな風に言わないで……なのはちゃん」「絶対、ねぇ? 世の中にさ、絶対なんて言葉は無いんだよ。すずかちゃん気が弱いし、ちょっと責められたら直ぐ話しちゃうかもしれないじゃん。とてもじゃないけど信用できないよ……でも此れなら信用できる。此れで約束を果たしてくれるならそれで良いし、持ち逃げして皆に話せば問題にすればいいだけだからさ。あの先生でもお金絡めばちっとは働いてくれるでしょう、多分?」「いいよ、いらないよ……どうしてこんな風に言うの? 別に私は―――――」「信用できないからだよ。信じたって直ぐ裏切られるからね、だったら保険が欲しいじゃん。……あぁ、駄目だ。これじゃあ埒が明かないや……。んで、お金じゃないならすずかちゃんは私に何がしてほしい訳?」その言葉に私は押し黙る事しか出来なかった。望みはある、だけど言えるはず無いじゃない……また私に笑いかけて欲しい、昔のようにアリサちゃんも交えて三人で笑い合いたいなんて。だから私はそのままずっとなのはちゃんに何を言われても何も言わずに俯いていた、するとやがてなのはちゃんは諦めたのか「また聞くから、喋らないでね」とだけ言って食事を再開し始めた。そして私たちはそのまま学校に着くまでの間ずっとお互い黙ったままだった。だけど私は心の中で謝り続けた「ごめんなさい」と、貴女をこんな風にしてしまってごめんなさいと。あぁ、いっそ私の存在などこの世になければよかったのに……不意に私はそんな風に思った。私は何時だって欲しい物が手に入らない、目の前にそれがあるのに手を伸ばす事が出来ない。結局私は昔と何一つ変わっていない、私は学校に着くまでの間ずっと変わり行く時の中で一人取り残された自分を恥じながら心の中でなのはちゃんへと謝罪し続けた。ごめんなさい、私が貴女を欲してしまわなければこんな事にはならなかったのに……。後悔の念は何時まで経っても消えることは無かった。