きっかけは本当に些細な事だった。「あッ!? 高町が花瓶割ったぞ!」本当に小さなミス。誰にとっても取るに足らないとっても小さな一つの過ち。でもそれは当時の私にはとっても大きかった訳で……。誰に弁解するでも歯向かう訳でもなく、ただ泣くしかなかった小学二年生の秋。「何してんだよ高町ぃ~。弁償だ、べんしょー!」それは子供心の内に芽生えた一種の罪への好奇心だったのかもしれない。人の不幸を笑うっていう気持ちへの前進。ある意味大人へと成長する過程でどうしても外す事の出来ない残酷な感情の開花。何でも良いけれど、子供っていうのは時に大人よりも残酷だからそうした事に対する抑制が出来ない。人の心なんて硝子細工よりも脆いって事も、どんな言葉で人が傷つくのかって事も分っていないから。「あ~ぁ、高町の所為だぁ。馬っ鹿じゃねぇの?」「本当にどん臭いのね、高町さんって。私たちまで怒られたらどう責任とってくれるの!?」放課後のお掃除の時、私がうっかり箒の柄をひっかけて割ってしまった。それが全ての始まりで、私の明るい学校生活の終わり。もう誰かと笑ったり、泣いたり、お話しする事の終わりだった。悪いのは私、そんな事は分っている。それが本当はふざけて走り回っていた男の子が私にぶつかった拍子に起こってしまった事だとしても、やったのは私。だから悪いのは全部私……本当に私?「先生ぇ! 僕達は素直に謝った方が良いよって言ったのに高町さんは隠そうって言ってました!」「まぁ……高町さん。それは本当なの?」嘘だ、私は隠したりなんてしていない。でも、本当の事を言うと皆が怒るから言うに言えなかっただけ。だからスカートをキュッと握りしめて私は聞かれてもずっと俯いたままだった。その間にも他の子達からの証言は続いた。だけど私は何も言わない。例え先生がその話を聞いて鬼みたいな顔をして私を怒ったとしても、私には御免なさいって言葉しか言えない。だって本当の事を言うとまた私は一人になっちゃうから。「お子さん、ちゃんと家でも本当の事を言っていますか? 実は先日―――――」「なのは、どうして隠そうと何かしたんだ。本当の事をちゃんと言わなきゃ駄目じゃないか」その後直ぐに先生からの電話があって、お父さんに怒られた。私の事を良く知っているお父さんなら私が無理をしている事も少しは察してくれるかもしれないって最初は期待してた。でも、お父さんは先生の言う事を復唱するだけでちっとも私の事なんか分ってくれない。此処でも私は泣くしかなかった。本当の事を言ったら皆に嫌われる。だけど言わなくちゃお父さんは分ってくれない。板ばさみだった……その時の私にはどっちの選択も取る事ができなかった。だから御免なさい……でも本当に悪いのは私?「おい! 高町が着たぞ。きったね~」「うわッ、こっち来んなよ高町! 高町菌がうつるだろ~」「やだ~私高町さんの鞄触っちゃった。手、洗いにいかなくちゃ~きゃはは」その出来事をきっかけに私の学校でも立場は一層酷くなった。元々社交的ではなかったけど数少ない友達はいなくなったし、クラスメイトの皆は揃いも揃って私の事を黴菌扱い。こと在る毎を騒ぎ立てては私を取り囲んで悪口を言う始末。中には酷い物もあって、ランドセルの中にお弁当の残りを入れたり教科書や上履きに黒マジックで落書きをする人もいた。そのたびに私は泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けて……誰も助けてくれないことを知った。「ごめんね、なのはちゃん。私……ね。本当に止めようとしたんだよ、本当だよ!」「ど、どうして言わなかったのよなのは! そんなにアタシたちが頼りない? アタシたち友達でしょう!?」友達だった月村すずかちゃんとアリサ・バニングスちゃんの言葉だ。聴いただけなら私を励ましているようにも思えるけど、所詮それだけだった。二人とも私と同じクラスだから見ていたはずだし、知らなかったなんて事は無い筈だ。本当は見ていた筈なのに……泣いている処ちゃんと見ていた筈なのに。二人とも何もしてくれなかった。今思い出すと二人とも何だか凄く必死だったような気もする。もしかしたら自分たちにまでとばっちりが回ってくるのが嫌だったのかな。それ以降二人ともあんまり話すことは無くなった。私は態の良い“友達”って言葉が大嫌いになった。「そういう事になるのは何か高町さんに原因があるんじゃないの?」先生に相談してもこう切り返してくるばかり。被害にあった物を見せても、泣いて頼み込んでみても何の対応もしてくれない。顔を顰めたり、慰めてくれたりはしたけど本当にそれだけ。他の先生に言うでもなければ問題にするでもなく、ただただ淡々とゴールの見えないやり取りを繰り返すだけだった。本当は私は知っている。虐めとか仲間はずれとかそんな問題が起こると先生が苦労する事になるから問題にしたくないって事、本当は知っている。だから私の学校は虐めなんて物とは無縁、皆仲良し。私はこの時“大人”って言う物が酷く汚く見えた。「なのは! 国語と社会の点数が前よりも20点も下がってるぞ。遊ぶのもいいけど、いい加減ちゃんと勉強しような」「なのは……お勉強大変なのは分るわ。でもね、塾もタダじゃないの。この前までAクラスだったじゃない。なのに突然Bクラスになるっていうのはやっぱり……」段々とこんな状況が続いてくると別の場所に影響が出てくるようになった。家に帰ってきても嫌な事を忘れる為に不貞寝ばかりしていた所為で学校の成績が下がってしまったのだ。学校でのテストは全盛期の頃よりも全体を通して20点ずつ位落ちてしまったし、それに伴って塾の方でも一番上のAクラスの居たのが一つ下のBクラスに編入しなければならなくなってしまった。勿論私は頑張った……でも身体も心もボロボロだった。毎日毎日学校に行けば嫌がらせ、家に帰れば何時も何時も両親揃って二言目にはお勉強お勉強。もう、うんざりだった。「もう誰も信用なんかしない……したく、ないよ……」その言葉に気が付いた時には私はもう三年生になっていた。誰かと会話するのが怖い。誰かと触れ合うのが怖い。誰かと対面するのが怖い。その頃にはもう私は立派な人間不信者になってしまっていた。友達なんか居ない。大人なんか信用しない。私なんかよりも私が取ってくる成績にしか目のないお父さんもお母さんも大っ嫌い。悲しいけれど、もう私にはどうする事もできなかった。どうする事もできないから、その言葉を吐き出した途端また泣いた。「皆嫌い……大っ嫌い!!」部屋に鍵を掛けて、ベットの中で泣きじゃくっていた私の必死の叫びだった。誰に聞こえていたわけではないけど、この言葉から私の人生は180°姿を変えたんだ。誰かに触れる事で傷つくのならもう誰とも関わらなくなってしまえばいい。こんなに苦しいのならいっそ他人の温もりなんか要らない。私は私、一人でも大丈夫。そうして……私は何もかも投げ捨てて孤独になった。これはそんな何処にでもある女の子の物語。海鳴市の人口はざっと10万人。大して何が盛んなわけでもないのに最近になって一部の地域が開発されつつある、何処にでもあるような小さな街だ。何がこの街に人を引き付けているのか、正直私には理解できない。人によってはこの街は誰もが幸せになる街だなんていう人も居るけど、所詮私にしてみれば此処に住んでいる人間も他の街に住んでいる人間も微塵も大差の無い物だからだ。人並みに笑い、人並みに苦難に陥って、人並みに誰かを蹴落とそうとする。出る杭は打たれ、抜きん出た何かは人目に付き、平均の上を行っても下を行っても蔑まれる。そんなリアルタイムで誰もが経験している事を、何の変わりもなく行われる悪い意味で人臭い街。所詮この街の評価なんてその辺りが妥当なところだろう。「はぁ……なんだ。また朝、か」そんな街にも朝は来る。当然だ、少なくとも地球が逆転でもしない限りはこの法則は乱れる事はない。東から出た太陽が西の海へと沈み、そのサイクルが一日を作る。小学三年生の私でも知っている常識だ。だけど私はそんな常識が憎たらしくてならなかった。このまま何時までも夜のまま夢が覚めてしまわなければいいのに。夢の中ならばこんな私でも安らかな安息を得る事が出来るのに。私は常日頃からそう思っている。だから……カーテンの隙間から漏れ出した眩し過ぎる太陽が憎くて堪らなかった。「起き出したくないなぁ……学校行きたくないし。今日体育あるし……はぁ」何処までも駄目な小学生な事は自分でも良く分っている。こういう時健全な小学生なら朝が来た途端元気よく起き出して朝早くからランドセル背負って家から飛び出すものなのだろうけど、そんなイメージと照らし合わせて見ても私はどうにもそうした人種の人間ではないからそんな振る舞いは一生できないと思う。朝起きる時は身体が気だるいし、寝るにしたって色々あって中々眠れないもんだから睡眠時間が短い所為で目元には薄っすら隈が出来ているほど見た目からして元気がない。加えて栄養失調気味に痩せこけた頬は病弱な人間のそれに等しいし、お父さん曰く今の私の瞳は死んだ魚みたいに濁っているらしいから生気があるのかどうかなんて事は自分で確認するまでもない。程よく最悪に不健康で小学生らしくない子供、それが私……高町なのはだった。「面倒臭いなぁ、本当。またサボって図書館行っちゃおうかな……なんて、こんな事言ってるとまたお兄ちゃんに怒られちゃうか」不承不承、行きたくないけど行かなきゃもっと面倒な事になる。邪な考えを導き出した傍から忘却の彼方へと追いやった私は力無く布団を退けてベットから本格的に起き出した。ふと起き出した拍子に部屋を見回してみると其処は当たり前の事だが私の部屋だった。傍らに開いたまま投げ捨てられた雑誌、コンビニのお弁当の空箱やカップラーメンのカップなどが山積になった机、小さな22型のテレビに繋がれた電源点けっぱなしのゲーム機。その他諸々汚れ放題、荒れ放題……昔の可愛かったぬいぐるみやらファンシーなペンケースやらは何処へやら、完璧に駄目駄目さんの住んでいる巣窟だった。「あー……掃除、しなきゃなぁ。でも面倒臭い……」起きた直後にげんなりする私。小学生の内からこれだけ朝から嫌な事が立て続けに起こる人間と言うのもある意味貴重なのかもしれないが、有り難味なんて全然ありはしない。やろうとは思ってる、でも二言目には面倒臭いが出てしまう。そんなこんなで汚れ果てた私の部屋、そして其処に住まう私の心。部屋は人を表すってよく朝10時頃からやっている家庭ドキュメンタリー番組の色黒な司会者が言ってたけど、あれって凄く正しいのだと今更になって思う。何処まで行っても気だるさの取れない朝の始まり、何時まで経っても憂鬱なだけだ。余談だけどなんでそんな朝遅い時間のテレビ番組を小学生の私が知っているのかと言う事に関しては秘密だ。別に学校が嫌で携帯電話を片手にテレビを見ながら学校をサボっていたわけでは決して無い、説得力なんてミジンコよりも小さいのだけれど。「お母さんにやってもらおうかなぁ……でも部屋の中一度入れると面倒な事になるしなぁ。前なんて掃除機掛けるついでにゲーム消してそれまでのクリアデータが全部パーになっちゃってた事もあったし……仕方ない、自分でやるか」人の事を信用しない割りに結局困った時の人頼みって言うのは私の悪い癖だ。でも、これでも初めの頃よりはちょっとはマシになった方だ。昔の私は事有る毎によく泣いたし、結局大人に縋ってばっかりだった。その頃に比べれば自分で何とかしようって気持ちが芽生えただけでもちょっとは進歩した方なのかもしれない。どうせ誰も助けてくれないなら最低限自分で出来る事は自分でしよう、きっと昨今稀に見る理知的な小学生だと自分でも自負している。……言っていて何だか自分で自分が気持ち悪くなった。「え~っと、制服~せいふく~っと、あったあった。うわッ!? スカートの所、カレーヌードルの汁で染みになっちゃってるよ。あちゃ~最悪だぁ、染み抜きするの凄く面倒臭いんだよなぁ。まっ、いいか。どうせそんなに目立たないよね」素足のまま床に散乱している女の子らしからない青年漫画雑誌やその単行本、殆ど落書きしかしていないようなノートやら教科書やらを素足で退かしながらそれ等に埋まっていた白いワンピース状の制服を指で摘み上げた私は徐にそれをベットの方へと投げ捨てた。年頃の女の子としては確実に零点を取るような行いだけど、見ているだけで憂鬱が加速するのだから仕方ない。きっとあの染みは昨日夕食に食べたカレー味のカップヌードルが啜っていた拍子に付いた物なのだろうけど、濡れたハンカチやティッシュなどで拭ってもああした物は中々落ちないことが分っているからそれ程気にしなかった。どうせ誰も私の事なんか注目しないだろうし、元からアイロンを掛けていないから皺くちゃで見るに耐えないような物なのだから汚れの一つや二つ今更どうした物でもない。私は身に纏ったオレンジの薄手のパジャマを脱ぎ散らかしながら、改めて此処まで堕ちた自分の感性に落胆するのだった。「紺ソは……あ~もう面倒だからハイソでいいか。髪止めのリボンは~って、こっちにもカレーヌードルの染みが!? パス、パス! やっぱりタダのゴムでいいや」制服以外にも髪止めやらソックスやらあれこれ煩わしい物を支度して慌てる私。他の優雅な小学生から見ればどれだけ慌しく余裕が無いことだろうか。きっと元友達だった二人のお嬢様なんか専属のメイドさんなんかが着替えさせてくれているんだろう事に比べてみれば殆ど満月と鼈のような状態だ。おまけにあっちは金持ち、きっと食事も上等な物を食べて、上等な香水でも使って、上等な服装で身を固める使用人をこき使っている事だろう。思い返せば思い返す程何だか腹立たしくなって来るほどだ。もっとも、所詮無い物強請りした処で手に入る訳でもないのだから考えるだけ無駄な労力だって事は初めから分っているのだが。「よし、此れで後は……消臭剤。これで完璧だ。今回は柑橘系~」無理やりにでもテンションを上げようと一人何となくはしゃいでみたりする。虚しい、そこはかとなく虚しい。くだらないし、意味が無いし、そもそもテンション上げる意味合いも自分でも分んないし……そんなネガティブな考えにほんの少しのポジティブ精神は簡単に押し潰された。柑橘系の消臭スプレーから漏れるシューッ、という気の抜ける音ですら気が滅入りそうになるほどだ。そもそも消臭剤で臭いを誤魔化した所で染み付いた生活臭は拭いきれないし、だからと言って掛けすぎると消臭剤臭いって言ってまた責められる。この微妙な加減を調整するのにまた神経を使って苛々が増す。とんだ悪循環だと私は思った。「あ~そういえば体操服も必要なんだっけ、今日。しかもドッチボールかぁ……いいや、面倒だから保健室行けば良いから持っていかなくていいや。っと~着替え、着替え」体操服を持っていくという選択肢をコンマ一秒蹴落とした私は徐にベットの上の制服を鷲掴みにして下着の上からそれを着込み始めた。小学生の内は義務教育、どれだけ授業を休もうが成績が悪かろうが進学は出来る。私は昔から体育が苦手だし、運動自体大嫌いだからこの最悪な生活が始まってからの7ヶ月間ずっと授業をサボっている。というよりも寧ろ学校の授業自体殆ど聞いて無いから、サボっているという事に関しては体育に限った事ではないのだけれど。ただ学校に行かないとお兄ちゃんが五月蝿いから最低限行かない訳にも行かない。最近になってようやく私とお兄ちゃんの血が……っていうよりも兄妹全員の血が繋がっていない事を知ったけど、言わば赤の他人からあれこれ私は指図されている訳だ。殴りこそしてこないけど家族の代表と言わんばかりに凄んでくるお兄ちゃんは正直ウザい。どうせ私が苦しんでいる時にはのうのうと恋人とイチャ付いているような人だ。信用なんか最初からしていないし、今はもう家族とも思ってはいない。もっとも、今の私に家族と呼べるような人間が居るのかどうかは謎だけど。「さぁて、と。歯……磨いてきますか」歯を磨いて顔を洗う、ここら辺の最低限の身嗜みは一応女の子なので毎日している。家族が寝静まった後では有るけどちゃんとお風呂を入れ直してから湯浴みもするし、シャンプーもリンスもボディソープもきっちり使って身体も洗う。最低最悪なこの家だけど無意味にお風呂は広いので湯に一人浸かってホッ、と一息つける時間は私にとって唯一の安らぎであるといって良い。後何年ローンが残っているのかは存じないし、お父さんやお母さんがどれだけ頑張ってこの家を建てたのかも知った事ではないけどこの家で褒められるてんが有るとするなら精々それくらいだった。何せ無意味に道場まであるような家だ、よくもまあこの景気の悪い時代に此処まで広い家をもてたものだと関心の気持ちすらこみ上げてきそうだ。とは言えども私としてはとっととこんな家出て行ってやりたいっていうのが本音だが。「肩重ぃ……眠ぃ……ダルぃ。負の三連鎖だね、まったく」小学生らしからない朝の三重苦に苦しめられながら部屋を出た私は制服のポケットをまさぐって在る物を取り出す。それは数少なくなった可愛らしいマスコットのキーホルダーの付いた少しだけ大きな鍵。自宅でも倉庫でも無く、私の部屋と私の心に鍵を掛ける文字通りキーアイテム。暇な時はゲームばっかりしている所為か思考が一々ゲームっぽくなるのは仕方のない事だけど、現実これはそんなに甘い物では無い事を私は知っている。本当はこの部屋には鍵なんか付いていなかった。入ってこようと思えば誰でも入れたし、別に私だって昔は誰かに干渉される事を今みたいに嫌っていた訳では無かった。寧ろ自分に誰かが構ってくれる事が嬉しくて、笑いながら招きいれたりした事も在ったほどだ。でも、今は違う。私は誰かに干渉されるのが大嫌いだ。だって干渉されれば干渉される程、私は踏み躙られて汚れていくだけだって事を知ってしまったから。「今日も一日、この部屋ともお別れだ」鍵を部屋のノブの鍵穴に差し込んで半回転。カチャン、と小気味いい音を立てたのと同時に部屋とこの家を繋ぐ空間に隔たりが生まれた。鍵を引き抜き、ポケットに入れた私はふとこの部屋がまだ小奇麗だった事を少しだけ思い出した。この家の誰もが笑顔で、私自身も純粋無垢に笑っていられたあの当時の事を。思い浮かぶのは何時だって皆の笑顔。家族の、友達の、クラスメイトの眩しいまでに淀んだ不定形な笑顔達。そしてその中には確かに私も含まれていた。含まれていたのに、私は零れ落ちてしまった。どうして? その答えは見つからないまま。私は皆から引き離され、孤独になって……そして自ら皆からの関係を断ったんだ。「どうか今日は昨日よりか碌でもない事に見舞われませんように……言っても無駄か」下らない、私は自らが発した言葉に軽く絶望しながら鍵をポケットに入れて階段を下っていく。人の一生は皆同じように幸福も不幸もあって均せば皆平等だって言っている人が時々居るけど、私はそんな事信じない。人によって運命は予め決め付けられていて他人からの評価で人の一生は決まる。まだ小学三年生の娘が勝手にほざいている馬鹿な理屈ではあるけれど、私からしてみればこっちの方がずっと共感する事が出来る。人は生まれる家も環境も両親も選べないし、其処からの延長線上で他者からの己に対する評価って言う物も決まってくるのだから結局当人にはどうしたって覆す事など出来ない。ほんのちょっと運が悪いというだけで、他の人間よりも少しだけ不幸だって言うだけで其処から後はもう全部台無しになるのだから人間って言うのは実に不平等な生き物だと私は常々思っている。だとしたら今日という一日を取ってみても、良い日になるか悪い日になるかなんて本人が気付くよりもずっと前に決まっているのではないか。実に夢の無い話だが、夢なんてものは何ヶ月も前にとっくに手放した。所詮夢なんて持つだけ虚しいだけで……結局は虚栄心から生まれる醜い願望の言い換えに過ぎないのだから。「“人”の“夢”って書いて“儚い”……昔の人はさぞや偉大だったんだろうな。これだけ的を得てる言葉も中々無いよ」ため息を付きながら覚束ない足を引きずってフラフラと階段を下って行く。最近意味の無い独り言が増えたな、って自分でもよく思う。気が付いた時には思ったことを直ぐに口に出してしまう、最近生まれた不思議な癖だ。昔はそんな事無かったのに今はふと気が付けば自分で自分と話している現状。もしかしたらまだ私自身寂しいだとか孤独は嫌だっていうような感情が残っていて、それが私をこうして動かしているのかもしれないと私は思った。高町なのはという人間は自分で言うのも難だが兎みたいな性格をしている。今は迷信だとか言われているけど兎は寂しいと死んでしまうようだし、一人になると良く鳴き声を発して自分の場所を仲間にアピールしようとするらしい。何ともまあ照らし合わせれば照らし合わせるほど今の私とそっくりだ。結局私が意味の無い独り言を言うようになったのは誰にも相手にされないという寂しさが本能的に防衛反応を示した結果生まれた物なのだろうし、今でも自分の立場が辛くないかと問われれば正直辛い。でも、それは仕方の無い事だ。こういう道しか私には無かったのだし、自分と言う存在を守る為には進むしかなかったのだから。そう……皆々、悪いのは私。最後に責められるのは何時も高町なのはだった。「……あぁ、気分悪い。今日も最低の一日決定か」階段を降りた私はよたよたと覚束ない足取りで洗面所へと続く廊下を歩いていく。正直この廊下と言うのは信じられない程長くて、朝の弱い私にとっては殆どこの行いは苦行の域にへと達していた。もう少しこじんまりとした家を作れば楽なのに、こういう時は常々他の一般的な家が羨ましく思う。温かい朝ごはんに、元気良く挨拶しあう家族。小さな家に思い出をいっぱい詰め込んで、別れる時には思わず涙なんか流しちゃって。そんな当たり前の家族が私は羨ましかった。大きな葛篭と小さな葛篭って言う童話にもあるように何も大きいから良いって物じゃない。こんな事を言うと失礼なのかもしれないけど小さいっていう事にこそいっぱい物を詰め込もうっていう良い意味での余裕の無さが溢れていて、その余裕の無さこそが何処となく温かい。体験した事なんて無いけど昔は私の家も似たような家族だった。今となっては遠い遠い理想になってしまったけど。「まるで空っぽのおもちゃ箱、か。まっ所詮―――――んっ?」私は廊下の反対側から歩いてくる人影を目に留めて、眉を顰めた。朝っぱらから家族の誰かと出くわすのだ、そりゃあ機嫌も悪くなるって物だ。特に家族って物が大嫌いな私にとっては会うだけで苛々の溜まる要因である事に他ならない。お父さんやお兄ちゃんなんか特に最悪だ……人の話なんか聞いてくれないし、お兄ちゃんに至ってはこの家族で唯一まだ私に文句をつけてくる。お母さんやお姉ちゃんも嫌いだ……何か行動を起こす毎に泣いてばかりで正直とってもウザったい。この家族の誰もが私にとってはストレスの原因、おまけにお父さんもお母さんも最終的には手が付けられない私の事なんか知ろうともしないで放置状態。そんな人が私の両親だなんて……望んだ事だとは言えども反吐が出る思いだ。朝っぱらから真面目に神様は私に何か恨みでもあるのだろうか、そう思いながら私は向こう側から向かってくる人間と相対した。「あっ……お、おはよう……なの、は……」「……………」ぎこちない挨拶。朝っぱらから嫌な者に出くわしちゃったなっていう露骨に引きつった表情。何処か余所余所しい態度。態々一瞥しなくても分る、私に挨拶してきた人間の正体はお姉ちゃんだった。運動盛りの高校生、小学生の私には理解できないがこの年頃の人間っていうのは如何にも意味無く身体を虐め倒す事に青春を感じるらしい。その証拠にお姉ちゃんの格好は汗まみれのTシャツと短パンに、首に下げたタオルとテンプレートでもしたかのようにスポーツ人間のそれだった。本当に暑苦しい、運動音痴の私にはこの手の人間の根性は微塵も理解できそうに無い。またそれを引いたとしてもそんなに私が嫌なら態々挨拶なんかしなければいいのに、その所為で余計苛々が加速する。「あ、あの……さ……」「邪魔」何か話しかけようとしていたお姉ちゃんを私は一言でばっさりと切り捨てて、無視を決め込む。気まずいからって話しかけてこないで欲しい、正直迷惑なのだ。私の事が嫌いならはっきりと面と向かってはっきりと言って欲しい。こういう生温い家族ごっこが余計に私の心を傷付けているとも知らないで。何時か時が過ぎればとかもう少しなのはが大きくなればとかそんな儚い幻想なんて早く捨てて欲しいのだ。私は十分傷ついた、でもその時まともに取り合ってくれなかったのはこの人達だ。悔しかった私は精一杯努力した、でも認めてくれなかったのはこの人間たちだ。それを今更取って付けたような笑顔で私を見つめるな……正直ムカつく。「ウザいなぁ、皆ウザい。消えちゃえばいいのに……」心なしか物騒な独り言を呟いた私はフラフラとした足取りのまま風呂場と一緒になっている洗面所の方へと向かい、廊下とその空間を隔てているスライド式の木製のドアを足で乱暴に開け放った。幸い誰も使っていない、朝シャワーを浴びているお兄ちゃんの姿も無い。此れは好都合、そう思った私は最低限の時間を使い顔を洗って歯を磨くと柔軟剤が良く利いたタオルに顔を埋めて水気を払った。その間掛かった時間は凡そ四分弱、この年頃の女の子にしてみれば驚くほど短い時間だ。だけどそれで十分だった。学校での私の評価なんて堕ちる処まで最初から堕ちている。失う物がなければ怖い物など無いのと同じような理屈で、もう堕ちる処なんて何処にも無いのだから底辺の人間が態々他者に気を使った処で目にも留まらない。無駄な努力ならしない方がマシ、そういう弱虫な私だから少女らしい恥じらいなんて遠い昔に捨ててしまえたのだろう。「今更……全部今更だよ……」粗方仕度を済ませた私は先ほどよりかはもう少しシャキッとした足取りで再び元来た道を戻り、今度はキッチンの方へと踵を返していく。後は何時もの日課を済ませればこの家での私の役目は終わりを告げる。此れでようやく開放されるのかと思うと清々する。私はこの家では決して朝食など取らないし、家族団欒などという気持ちの悪い物にも勿論参加なんかしない。私という存在が居るだけでこの家から笑みという物が消え、会話が途絶えるという事を身に染みて理解しているからだ。私が居れば話す会話は勉強、成績……どれだけ私が努力しても褒めてなんかくれはしない。果たして私の前で笑って欲しい、褒めて欲しいというのは甘えだったのだろうか。私はそれ程多くの物をこの家族に求めただろうか。子供なんだから優しくしてよ、何て贅沢は言わない。だからせめて一言でいいから「大丈夫?」って言葉を掛けて欲しかった。それは甘えだったんだろうか……今となっては全部遅いけど。「……あぁ、くだらない。何馬鹿なこと考えてるんだろ……私」時刻はまだ朝の六時半、キッチンの方からは熱せられたフライパンの上で食材が跳ねる小気味良い音が響き渡っている。きっとお母さんが朝食の卵焼きでも作っているのだろう。一応昔は大好きだった甘い卵焼きの味、今でも忘れてはいない。あの味がどんどん美味しくなくなって、食べた拍子に吐き出してしまうようになるまでの時間ずっと刻み付けられたあの味。今でも鮮明に思い出せる、今では何処か遠くに落っことしてきてしまった思い出。一年にも満たない期間の中で幻想になってしまったそれは、私にとって酷く切ない物だった。「お腹……減ったな……」ふと私は自身が空腹である事に気が付いた。昨夜は奮発してカップラーメンにおにぎりを二つも食べたというのに私のお腹は空腹を訴え、小さな腹痛にも似た感覚を疼かせていた。お母さんの手料理なんかもう彼是何ヶ月も食していないし、そもそもお腹いっぱい食べるという事も最近は経験した事がない。どちらにせよ私は拒否反応を起こして全部戻してしまうからだ。急に胃が苦しくなって、鼓動が荒くなって、口の中が嘔吐感で酸っぱくなる感覚。あの感覚がトラウマになって私にはお腹いっぱい物を食すという事も、お母さんの手料理を食べるという事も叶わなくなった。でも次第に痩せこける私を今では心配もしない。きっと見捨てられているのだろう、そう思うと不思議と笑みすらこみ上げて来そうになる。結局重要なのは私じゃなくて私を通して評価される世間体なのか、じゃあ私のあれだけの苦しみと努力は一体なんだったのか。本当に馬鹿馬鹿しくてたまらない。だからこんな家とっとと出てってしまう……そう思った私は掛かった暖簾をこれまた強引に払いのけて中へと入り、お母さんの元へと足を進めた。「ふ~ふふん♪ ……あぁ、なのは。起きたのね、おはよう」「……………」お母さんは思いのほか上機嫌だった。きっと最近自分が経営している喫茶店が繁盛してきている所為なのだろう。忌々しい事この上ない、だけど私は何も言わない。何か言っても無駄だって分っているからだ。お母さんは他の家族の人と違って酷く利己主義な人だった。私の事に対してもいち早くけりを付けた人でもある。元々自分の夢を誰よりも優先するタイプの人だったからかも知れないが、お母さんは目的さえ済ませてしまえば比較的大人しい私の扱いを非常に効率的に済ませようとする。それでこの子が大人しくしてくれるのなら、自分の邪魔をしないなら、家族の輪を乱さないでくれるなら……。なるほど子供の親としては最低だけど、一人の大人としてはこれほど立派な人も中々いない。それに私も他の家族の人間よりもこうしたお母さんとの端的なやり取りは比較的楽なので助かるといえば助かっている。ウザい説教を垂れてくるお兄ちゃんよりかはどれだけでもマシな人間だと言えた。「お金」「そう、今日は幾ら欲しいの?」「何時も通り、千円」一旦手を料理をする手を止めたお母さんは手馴れた手つきでエプロンのポケットからそれなりにお金が入っていそうな財布を取り出して其処から紙幣を摘んで私のほうに突き出してきた。その動作には無駄がなく、私のほうに何か一度も目を合わせてくれもしない。おまけに紙幣を私が受け取ると何事も無かったかのように料理を再開しだす始末だ。この人の目はきっと二度と私のほうに何か向かない。もうとっくの昔に諦めた事だが、まだ小学生の娘に向かってこれほど露骨な態度を取られると少しだけ未練もこみ上げて来る。後悔はしていない、そう決めたはずなのに改めて私は要らない子の烙印を押されているのだと思い知らされると辛い。こんな人でも一年程前はペットでも可愛がるように私を溺愛してくれた人だ。此処まで急激な態度の変化は……正直今になっても心に響く物があった。「……もう、学校行くから」「そう、行ってらっしゃい」それ以降お母さんは鼻歌を再開して一切私に注意を向けてこようともしなかった。まるで透明人間にでもなったかのような気分だった。きっとお母さんはこの後起きてくるだろうお父さんや、たぶん道場であれこれ汗臭い事しているんだろうお兄ちゃんと一緒に朝食をとって談笑するんだろう。でも私はその輪の中には居ない。私は結局家でも仲間はずれ、この家に住まう高町家の汚点。こんな家に愛情や温もりを求めるなんて私にとっては夜空に輝く星を掴むかのように難しい。温かい家庭という輝く星はこの世に五万とある。でも輝く星に人は決して触れる事ができない。当たり前のことなのに……どういう訳か私は急に胸が締め付けられるように苦しくなった。「……お母さんの、馬鹿」蚊の鳴くような小さな声でそうはき捨てた私は玄関でスニーカーを履いて、逃げるように家から飛び出していった。手の中にはくしゃくしゃに握られた千円札。たったそれっぽっちのお金が今日の私のご飯代。此れを贅沢と取るべきか味気ないと取るべきか、それは人によって千差万別なんだろうけど私にとっては致命的に物足りなかった。別にお金の問題じゃない。たぶん100万円在ったって私は満足しはしない。だけどその満たされない物の名前は……決して私の口から発せられる事は無かった。その分私は走った。運動不足と栄養失調と押し寄せる空腹でフラフラになりながらも振り向きもせずに。きっかけは本の小さな綻びから。でもその綻びは致命的な大穴を空ける原因になってしまう。今の私と私を取り巻く人達との関係のように。ぽっかりと空いて埋まらない、大きな大きな穴ぼこを造ってしまうのだろう。喉はからからでお腹は悲鳴を上げているのに、私の熱くなった目元からは久しぶりに熱い何かが頬を伝っている。この日の朝、私は久しぶりに涙を流して泣いた。本当に最悪最低な、嫌で嫌で仕方の無い一日の始まりだった。