我輩は刀である。名前はまだ無い。
我輩を鍛えたのは白雪という名の偉大な主である。主は幾多の鉄塊を経て我輩を精魂込めて鍛え上げ、究極の刀に仕上げられた。天割り地を裂く力を持つ我輩に斬れぬものなどなにもない。
工房から狸の妖怪に持ち出された我輩は風呂敷に雑多なガラクタと共に詰め込まれ、巣穴へと運ばれた。深い森の大木の根元にある薄汚いねぐらには我輩の他にも種々様々な盗品がひしめいている。
渦巻紋様が彫られた香炉、束になった銅銭、古びた壺、藍色の反物、大振りの金槌、欠けた茶器。見た目通りのガラクタもあれば名の知れた名品であろうと推測するに足る力を備えた物もあった。玉石混交である。所詮畜生に目利きは出来ないようだった。
狸が丑三つ時にコソコソ出かけては何かしらを盗んでくるのを我輩は一月ばかり眺めていた。我輩も目が利くとは言い難いが、反物の上に石像を投げておくのが不適切な保存法である事は分かる。多少乱暴に扱われた程度で痛む我が身では無いものの不愉快には違いない。
ああ、主の腰に下がっていたあの時の居心地の良さよ。
ある日の事、主の元に戻る日を夢想していた我輩は狸に巣穴から持ち出された。我輩の他にも数点――気のせいかも知れぬが――値の張りそうな品が風呂敷に包まれている。
狸の背に揺られて数時、我輩は市に並べられていた。
人間の気配が無い真夜中の廃村に化狸やら化狐やら化猫やらが集まり、茣蓙の上に並べられた商品を指差しては僅かでも安くしようと値切っている。
どうやらここは妖怪の盗品市らしい。
狸は我輩を客引きに使っていたが、興味を持って寄って来た者共は付けられた値札を見るや去って行った。
書かれた値はあまりにも高過ぎた。小さな屋敷が一軒建つ程である。客引き用の刀が売れては困る、しかしこの値なら売っても良い、そういう考えであろう。
夜明け近くまで晒し者にされていた我輩を救ったのは老いた男の付喪神だった。ひょろりと長い体躯で長い木の杖を持ち、長い白髭を撫でながらじっと我輩を見る。杖の付喪神であろうか。
しばし我輩を眺めていた付喪神は盛んに嘘八百の商品紹介をする狸を遮り、黙って小さな薄汚れた袋を渡した。狸が訝しげに逆さにすると中から砂金が零れ落ちる。
狸は途端にへりくだった態度になり……我輩は付喪神の物になった。
付喪神は大河の様な広い心を持つ者であった。
我輩を手に諸国を遍歴し、大抵は人里離れた洞窟や山小屋に泊まる。稀に杖を持った、ついた人間に近付くと使い方や心得の講釈をした。
妖怪にも人間にも決して怒らず責めず罵倒せず静かに受け答え、どんな悪党とも乞食とも富豪とも武士ともよく語り合い友となった。
争い事とは無縁の御仁である。
一方で我輩は専ら腰に下がるお荷物となっていた。付喪神は痩せていたがひ弱には見えず、悟りきった落ち着きを見せる眼光は武芸の達人のそれに似る。我輩を身に着けていて襲われる事は無かった。
付喪神はふらりふらりと旅をする。
東に病気の妖怪あれば行って看病してやり
西に疲れた母あれば行って杖を貸し
南に死にそうな人あれば行って安らかな成仏を約束し
北に喧嘩や戦があれば徳と法を説いて回り早期の収束を図る。
そして旅の間、我輩は相も変わらず一度も抜かれる事は無かった。これはこれで良いのだが、大枚をはたいて我輩を買った理由が分からず今一つ釈然としない。
長らくそのような退屈をしない日々を送っていたが、やはり別れの時は来た。
梅雨の季節、寂れ荒廃した古寺での事である。付喪神は雨漏りのしない隅の方で我輩を脇に置いて人間と話をしていた。
人間は武士であった。刀狩が行われ農民の帯刀が許されぬ世で刀を下げる人間は武であると相場が決まっている。
武士は我輩を語彙の限りを尽くして盛んに褒め、しきりに欲しがった。我輩、刀を持つ者にとって――しばしば持たぬ者にとっても――垂涎の一品である。無理無からぬ事であった。
付喪神は武士の熱心な言葉を聞きつつしばらく無言で我輩の鞘を撫でていたが、一言、小さく呟いた。
お前はなぜ付喪神とならないのか、と。
無論我輩は答える事など出来はしない。沈黙を返すのみである。
本来とうの昔に自我を持ち自律行動を可能としている筈のこの身は他でもない主により付喪神化を封じられている。それは祝福であり呪いであり、我輩を我輩たらしめる重要な要素であった。
それを知らぬ付喪神は我輩に動き出す気配が露ほども無い事を疑問に思っている様であった。思い返せば行く先々で後輩に当たる付喪神達に薫陶を与えていた。
通常付喪神はまず自我を持ち、更に年月を経て行動を始める。恐らくはあの盗品市で我輩が自我を持っている事を何らかの手段で――同族の勘か――感じ取り、動き出すまでの間の世話をするつもりで買い取ったのだろう。
しかし一向に変化を起こさぬ我輩に疑心を抱いている。
夜が明けるまでじっくりと長考していた付喪神だが……
これからも付喪神になる事は無い、と判断したらしく、我輩を手放した。
武士の手に渡った我輩は久方振りに獲物として扱われた。
素振りをされ、巻き藁を斬り、戦では敵を斬り、無礼討ちにも使われた。
真っ当な使い方をされているというのに違和感を感じる自分を奇妙に思う。まともに振るわれるのは……主に手渡された青年以来であろうか。主の下に居た短くも輝かしき日々が懐かしく思い出される。
武士は剣士としてなかなかの腕前であったが、生憎霊的資質は皆無。それではいつの頃からか魔力すら帯びるようになった我輩を使いこなすのは至難、いや不可能と断じて間違いは無い。
妻を娶り家臣を増やし、武士は我輩を振るい勢力を増した。破竹の如き勢いで敵対する者を打破して行く。厳格ではあるものの民草の事もよく気にかけていた。大衆からの人気は高い。
それが周囲の勘に触ったのだろう。
勢いがあるとは言え新興の者、武士は因縁を付けられ包囲を受け攻め立てられる。武士は手勢を引き連れ奮闘したが徐々に領土を削られ、追われ追い詰められとある河に差し掛かった。
昨日の雨により水かさを増した急流。背後には敵方の武将が迫る。武士は玉砕を覚悟した。
生き残った僅かな配下の者に自らの不手際を詫び、それに対し口々に返る忠誠の言葉に目の端を拭う。そして我輩を高々と天に掲げ、大音声の名乗り上げと共に敵陣に突撃した。
しかしやはり兵力差は覆し難く、結果は言うまでも無い。三人の首を取り、五人の心の臓を裂き、十人に致命傷を負わせた武士も最後には手から我輩を弾かれ命を失った。
一方で弾かれた我輩は天を舞い、背後の河に落ち呆気なく流されて行った。
冷たい水底に沈み藻に付かれ。
沼の主に飲み込まれ澱んだ空気の腹の中で幾歳月。
網に捕われた沼の主と共に陸に上がる。
漁師から漁の神に捧げられる。
大平の世、力は弱くも神の下で緩やかな時代の流れを感じ。
やがて参拝する者が消え、信仰を失い消滅した神の社でつくねんと取り残される。
偶然迷い込んだ旅の者に見つけられ。
道中病を患い山中にて倒れ伏す旅の者の傍らにて、死の気配を感じ寄り集まる死霊共を祓う。
幸運にも回復し、村に降り居を構えた旅の者に家宝とされ。
三代受け継がれたものの大飢饉で血筋は途絶えた。
骨と皮になった物言わぬ骸に抱かれた我輩は何かに引き寄せられる。
気が付けば名も無き墓石がそこかしこに見える暗い墓地にて紫の桜の根元にいた。
数日を置いてぶつぶつと薀蓄が煩い青年に拾われ、道具屋の雑多な品々の間に並べられる。
店内に微かに残る我が唯一の主の気配に歓喜するも、主が現れる前にどこの馬の骨とも知れぬ半人半霊に買い上げられ泣く泣く店を離れる事となった。
ああ、主の元に帰るのはいつの日か。今一度在るべき場所に戻る、それだけが我輩の望みである。