マナが生まれた山あいの村は、小さく、土地が肥えているわけでもなく、他の村との交流もあまり無かった。沢から引いた水を使って細々と稲を育て畑を耕すこの時代どこにでもあるような村だ。
水源の確保のため、勢力の拡大のため、また食料を奪うため時折付近の村と交流という名の小競り合いを起こしていたが、どちらが勝つという事もなく毎回痛み分けで終わっている。幸いにして霊術を扱う才のある者が数人いたため妖怪からの守りもしっかりしており、マナの村は概ね平和と言って良かった。
あるうららかな春の日、マナは沢で汲んだ水を入れた大瓶を両手に抱えよろよろと村へ続く森の小道を歩いていた。十歳になるのと同時に毎朝の日課である水汲みの水瓶も大きくなり、朝露に濡れた小道の木の根や小石を踏むたびに転びそうになる。
転んで水をこぼしてしまうともう一度汲みなおしなので慎重に慎重に進んでいくが、段々腕が疲れてぷるぷる震えてくる。マナは水瓶を地面に下ろしちょっとだけ休憩する事にした。
さわさわと揺れる木の葉の音に囲まれて息を整えていると、小道の村の方から一人の少年が駆けてきた。水瓶を捧げるように持った少年は滑りやすい足場をものともせず凄い勢いで森の奥へ走り去っていき、一分もしない内に戻ってきた。
「マナ、どしたん?」
マナの前で急ブレーキをかけて止まった少年の名はリシュウ。銀髪に中性的な顔立ち(美形)、赤と蒼のオッドアイというアレな顔をしている。が、性格の方は言動が少々妙なのを除けば割と普通だった。マナの幼なじみである。
「つかれたから休んでる」
「あ、そう。ちょっとそれ貸してみ? 持ってやんよ!」
「え、いいよ。二つも持てないでしょ」
「元気があればなんでもできる! どりゃ!」
リシュウはかけ声と共にマナの水瓶を持ち上げて自分の水瓶の上に乗せた。マナの水瓶は危なっかしくぐらぐら揺れたが不思議と一滴もこぼれない。
リシュウの「気合いでなんとかする程度の能力」のおかげだ。リシュウは気合いがあればけっこうなんでもなんとかできてしまう。アバウト過ぎて本人も何ができて何ができないのかよく分かっていないのだが、なんとかできるんだからまあいいか、と軽く流している。そんな性格が能力のあやふやさに繋がっているのかも知れない。
「さっさと終わらせてケイドロやろうぜケイドロ」
きびきび歩きながらリシュウが楽しそうに言った。マナはニヤッと笑う。
「負けないから」
マナの能力、「敵から逃げ切る程度の能力」があれば絶対につかまらない。強力な結界に閉じ込められても狼の群に方位されてもそれとなく逃げ切る事ができる。追いかけっこ(逃げる側)でマナは無敗を誇っていた。
「マナはケーサツな」
「そんなっ」
しかし一度燕のように凄い速度で一直線に逃げていき五日も戻って来なかった事があり、以降リシュウはできるだけマナを追わず追わせないようにしていた。
やいのやいのと言い争っている内に村に着き、一端分かれて水がめを自分達の家に運び込んだマナとリシュウは村はずれの空き地に集合した。まだ他には誰も集まっていない。
リシュウはマナに指示を出して空き地の端から侵食を始めた草をむしって整備をさせた。自分は木の棒で陣地を地面に陣地を描いたり手ごろな石を集めさせたりしている。
「いたっ!」
「どした?」
マナが声を上げると地面に棒を突き立て石で支えていたリシュウが寄ってきた。マナは草の汁でべとべとになった手に滲む赤いスジを見せた。
「……切った」
「なんだそんな事か。んなもん気合で治る」
素っ気無いリシュウの反応にマナは頬を膨らませた。もう少し心配してくれてもいいのに、という不満が口をついて出る。
「私だって女の子なんだからもっとたいせつにしてよ」
「そういう台詞は乳揺れするようになってから言え。まだ膨らんですらいないだろこれ」
リシュウはおもむろにマナの平らな胸を揉んだ。顔をしかめ、なんだ揉む体積ねーな、ととんでもない事を言いくさる。マナの顔が一瞬で真っ赤になり、リシュウに平手を見舞った。
「ばかぁ!」
「気合いガード!」
しかしリシュウの周囲によくわからない力場が展開され、マナのビンタはなんとなく無効化された。理不尽極まりない。
漫才をしている内に三々五々他の子供達が集まってきて、二人は仲間と一緒にいつものようにきゃっきゃうふふと追いかけあった。ちょっとしたレーシングカーぐらいの速度が出ていたが。
その夜の事だった。
マナは微かな物音で目を覚ました。風の音とも、ネズミが走る音とも違う、何か不吉な……
土間に藁をしいて仰向けに寝ていたマナがまず目にしたのは天井だった。何かが張り付いて見下ろしているとか、大穴が空いているとか、そんな事はない。首を左に向けた。出入り口の戸があったが、閉まっている。つっかえ棒もしてある。泥棒が入ったわけでもなさそうだった。首を右に向けた。
暗闇に浮かぶ無数の目玉がぎょろりとマナを見つめていた。
「きゃー!」
間一髪だった。絶叫と共に横に転がるとコンマ数秒前まで体があった場所をどこからともなく伸びてきた長く黒い腕が薙いでいった。
心臓が爆発しそうだった。全身から一気に汗が噴出す。地面にはいつくばったマナは目玉がまだ自分を見つめているのに気がつき、恐怖で脱力状態の体を根性でなんとか動かし、足をもつれさせながら駆けだした。振り返らなくても背後であの不気味な腕と目が自分を狙っているのがまざまざと感じられた。マナは戸を開けるという面倒な事はせずに目を瞑って家の壁につっこんだ。マナの体は壁をすり抜け、外に出る。逃げている時のマナは物理法則を超越するのだ。
「皆起きて! 妖怪よ! 妖怪が出た!」
マナは裸足で村中を走り回り、懸命に叫び、家の戸を叩いて回った。マナは自分の両親はもう手遅れだろうと断腸の思いで見捨てている。まだ無事な寝ている他の村の皆を起こし、立ち向かうか、逃げるかしなければならない。
村の端から端まで叫んで回ったマナははたと気づいた。
叫ぶのを止めると、村は不自然なほど静まり返っていた。虫の音も、ふくろうの鳴き声も、風の音すら絶えている。ひんやりとした夜気が今夜に限って殊更にマナの肌に鳥肌を浮かばせる。
異様な静寂がマナを蝕んだ。静か過ぎる。これだけ大声で叫べば絶対に目を覚ますはずなのに……
「まさか、もうみんな」
マナは震える声で呟いた。もう足は止まっていた。声を聞きたい。誰でもいい。人の声を聞きたかった。こんな世界で私を一人にしないで――――
その時、叫び声が聞こえた。遠くくぐもってはいたが確かに人の声だった。
マナは反射的に声が聞こえる方へ走り出した。全身が心臓になったように体全体が熱く脈打っていた。限りない恐怖と一縷の希望をもってマナは走る。足の裏を尖った小石で切っても痛みを無視して走った。
どんどん声が近づき、次第に叫んでいる内容が聞き取れるようになってくる。それは聞きなれた男の子の声だった。
「――――ぉおおおお! もっと! 熱くなれよ俺ぇえええええ!」
明らかにリシュウだった。
しかしその声がらしくない焦りを帯びている気がして、マナはリシュウの家の戸をほとんど体当たりするようにして開け、中に飛び込んだ。
そこには地面にできた空間の亀裂(なぜかリボン付)にまさに飲み込まれようとしているリシュウがいた。既に胸まで飲まれていて、片手だけ亀裂から出して地面をバンバン叩いている。
「がんばれがんばれやればできる絶対できるがんばれもっとやれるって! うおマナ!? ごめーん今取り込み中! ぬぅぅぅぅうぁあああああっしゃあオラァ! 諦めんなよ! 諦めんなよ俺ェ! …………あ、ダメだやっぱこれ強過ぎ」
さらにずぶりと引きずり込まれるリシュウの体。もう首から上しか残っていない。マナは焦りに焦る。
「リシュウ! 大丈夫!?」
「だいじょばない。ゲート☆オブ☆ゆかりんで俺の寿命がマッハ。俺は物理的に喰われて骨になる。性的なら喜んでたべられるんだけどなー、なんか足元でぐじゅるぐじゅる言っイテェ! 親指食われた! 後で利子つけて返せよ! トイチだからな!」
「…………」
マナは困惑した。なにこの余裕。
「え、えーと、引っ張るからつかまって?」
マナが差し出した手をリシュウはじっと見た。ゆっくりとマナの顔に目を移し、ニカッと笑った。
「ここは俺にまかせて先にいけ」
「こんな時までなに言ってるの!? いいから!」
マナは強引にリシュウの手を掴もうとしたが振り払われた。驚愕してリシュウの顔を見れば悟りを開いたような穏やかな顔をしている。マナの目にはなぜかそこに色濃い死相が見えた。
「俺に構ってたらマナまで食われるぜ。ほら志村後ろ」
マナは背後から伸びてきた腕を横っ飛びに跳んでよけた。じりじりと腕から距離をとりながらマナは泣き声を出す。
「やだよリシュウ、いっしょに逃げようよ! わたしを一人にしないで!」
リシュウは顎まで飲まれながらのほほんと言った。
「マナ一人なら能力で逃げ切れるんじゃねーの? 俺がいたらお荷物になる事は確定的に明らか」
「リシュウはそれで良いの!?」
「元々ボーナスステージみたいな人生だったからな、悔いなんてこれっぽっちもありゃしねー。もー良いからさっさと逃げとけって。あと三秒も保たねぇし。あ、やべマジでもう無理だわむしろここまで保った俺に乾杯そんじゃグッバイマナ!」
リシュウはぐっと親指を立てた手を突き出し、ずぶずぶと裂け目に飲み込まれていった。
信じられない思いでぼうっとしていたマナは足をぬるりとした何かに踵を触られ我をとりもどす。
逃げないと。逃げないと。一心にそれだけを考えマナは駆けた。何よりも速く、迫り来る触手を置き去りにして、歪んだ境界をすり抜け逃げに逃げた。頬が濡れている。口からは悲鳴とも嗚咽ともつかない音が漏れ続けていた。
逃げるのを止めたのは朝日が昇ってからだった。どこか深い森の中で、マナは糸が切れた人形のようにふっと足を止め、その場に崩れ落ちる。気力も涙も枯れ果てた生き残りの少女はそのまま昏々と眠り続けた。
その日、とある村の住人達が、一夜にして忽然と消え去った。人はそれを「神隠し」と呼んだ。
目を覚ましたマナは妖怪を憎むようになった。逃げる事しかできなかった自分が情けなくて、霊術の腕も磨いた。マナの心を占めているものはいつも同じだ。
ああぁあぁあ! みんな死んだんだ! あいつのせいで! あいつが! 憎い! 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎いぃいいいぃいぁあの妖怪がぁ……邪悪の権化が、醜い化生がぁあぁあ……
長い年月憎悪に駆られ、恨み続け、怨念で動いていたマナが死後怨霊となったのは必然だったのだろう。
その時代、どこにでもいるような少女の、哀れな行く末だった。
マナ「八雲は絶対許早苗」
↑本当はこの台詞が書きたかった。ちなみにオリ主→オリシュ→リシュウ