しんみり注意
ある春の日の事。上白沢法徳はいつもの様に自室の布団で惰眠を貪っていた。大口を開け無防備に間抜け面を晒すその姿には仁獣の威厳など欠片も無い。窓の桟に乗った数羽の雀が騒がしく鳴いていたが起きる気配はまるで無かった。春眠暁を覚えずと言うが、法徳は夏秋冬も朝は布団で粘る。
日が山の向こうから顔を出し、里に生活音が満ち始める。法徳はまだ起きない。
窓の格子の隙間から烏天狗が顔を覗かせた。雀が驚いて逃げていく。
配達に来た射命丸文は寝相だけは良い法徳を発見し一瞬陰陽師の馬鹿面を撮ってやろうかとカメラを構えかけた。が、これは別に珍しい光景でも無い。新聞に載せた後の報復を考えて思い直した。
新聞を窓の格子の隙間から放り込み、文は何もせず去った。法徳はまだ起きない。
夢の中で弟子に髭剃りを持って追いかけられていた法徳が目を覚ましたのは里人が農作業に出掛け、店を開けてからだった。
上白沢慧音がそっと部屋の障子を叩いて声をかける。
「父上?」
へんじがない。ただのハクタクのようだ。
いつも起こされるまで必ず寝続けているのでこの確認は無意味に等しいかったが、慧音は毎日欠かさない。同居人からは呆れ半分に真面目だねぇと言われていた。
慧音は入ります、と断ってから障子を開けて中に入り、畳に落ちている新聞を拾い文机の上に置いた。それから多少乱暴に法徳の肩を揺する。
「父上!」
「おい馬鹿眉毛はよせ! ……む? ……慧音か」
「父上、たまには自分で起きてくれないか」
「その内な」
百年単位で続いているやりとりをし、法徳は大きな欠伸を一つして起きた。慧音はため息を吐いて部屋を出ていく。法徳はしばらくぼーっと壁の染みを眺めていたが、やがて服に手を入れて腹を掻きながらのっそり立ち上がった。妙に体に疲れが残っている。
廊下を渡る途中で法徳は今日一日休みを取るために昨日の夜中過ぎまで仕事をしていた事を思い出した。道理でいつにもまして肩が重いはずだ。
「そうか、もう一年経ったか……早いものだ」
法徳は誰に聞かせるともなく呟く。
寺小屋は盆と正月を除けば年に一度の休みの日。今日は上白沢一家の墓参りの日だった。
朝食を食べ終え、身仕度をして妹紅に留守を任せた二人は博麗神社へ向かい飛んでいた。
慧音は清楚な白と水色のワンピースに身を包んでいる。特徴的な帽子は外界では目立つため仕方無く外し家に置いていた。裕福な家庭の若奥さんと言った雰囲気だ。
対して法徳は一張羅のスーツ。ノリは効かせてあるはずだが法徳が着るとどうにもくたびれて見える。こちらは終電で帰宅しレンジで温めた夕食を一人寂しく食べる勤続二十年のサラリーマンの様な雰囲気だった。
疎らに構って欲しそうに弾幕を撃ってくる妖精がいたが容赦なく一撃で撃墜していく。運良く妖怪に会う事も無く二人は博麗神社の境内に降り立つ事が出来た。
博麗神社の敷地内は絶対安全地帯。二人はリラックスして本堂へ向かう。
本堂の扉は開け放たれており、入口の石段の上で博麗白雪が待っていた。膝の上に八雲の化け猫を乗せこしょこしょ顎をくすぐっている。
「ここか、ここがええのか」
「にゃ、にゃうん……」
「ふん、良い声で鳴きやがるぜ。ほらほら」
「にゃあん!」
化け猫は蕩けた鳴き声を上げて身を捩った。しかし白雪はがっしり掴んで離さない。
法徳はまた妙な事をやっているな、程度にしか思わず助ける気も無かったが、黙って終わるまで待っているのも馬鹿馬鹿しいので声をかける。
「おい、白雪」
「うん?」
手を止めて顔を上げ、法徳のスーツ姿を見た白雪は途端に腹を抱えて爆笑した。ハッと我に帰った化け猫は膝から飛び降りて一目散に逃げて行く。
法徳は憮然として転げ回る弟子を見た。自分でも見栄えが良い格好だとは思わないが、こうも真正面から笑われると良い気はしない。
笑い過ぎて息が止まり、涙目になっていた白雪は慧音の不機嫌な顔を見てようやく転がるのを止めた。息を整え立ち上がる。
「いらっしゃい。準備できてますよ万年係長」
「黙れ」
まだ笑いを堪えた顔をした白雪にイライラと返す。
「白雪、あまり笑わないでやってくれ。服に着られた冴えない容姿なのは本人の意思ではないんだ」
そして娘のフォローに傷ついた。悪気が無いのは分かっているので何も言えない。
白雪はニヤッと笑い、一歩横に下がって二人を本堂に招き入れた。白雪は外に残り、扉に手をかけている。
「師匠、髭剃った方が素敵ですよ」
「……お前はそれを会う度に言うな。剃らん」
法徳は今朝方の夢を思い出し顔をしかめた。一時期は毎日剃っていたが二、三年で挫け今では二週に一度形を整えるだけになっていた。
白雪はひげひげひーげひげダルマ~、と楽しそうに節をつけて歌いながらゆっくりと本堂の扉を閉めた。パタンと小さな音がする。
「全く、あいつは無駄に歌が上手いな」
「……歌唱力?」
「だろうな」
二人が身動きせずじっと待っていると唐突に歌が止んだ。本堂に静寂が広がり、窓から差す日の光が微妙に変化する。
慧音が窓から外を覗き、法徳に頷く。法徳が扉を開け放つとそこには荒れに荒れて雑草が伸び放題の境内が広がっていた。
外界に来たのだ。
二人が参りに行くのは法徳の妻、慧音の母にあたる女性の墓だった。彼女は幻想郷で死んだのではない。外の世界の博麗神社から電車で二時間ほどの距離にその墓はある。平安時代の墓だったが由緒正しい古い寺が脈々と管理を受け継ぎ当時の墓石が現存していた。
二人は一年毎に目まぐるしく変わる街の景色に感心半分呆れ半分の声を漏らしながら駅へ歩いた。道行く人々は慧音の白髪をちらちらと見ていたが、染めているとでも思ったのだろう、不審がる様子は無い。
昔は慧音の髪を染めていたが最近では気楽なものだった。幻想郷の住民ほど色鮮やかでは無いが、茶髪紫髪金髪の人間をちらほらと見掛けるようになった。白髪程度なんでもない。堂々としていれば良いのだ。
二人は何事も無く駅に着き、あらかじめ両替しておいた紙幣で往復切符を買った。改札口を通り、駅のホームで待つ事数分。時間通りやって来た電車に乗り込んだ。
法徳は二人掛けの座席に慧音と共に座った。向かいの席にはうたた寝をしている金髪と黒髪の少女。法徳は男を娘と同席させるつもりは露ほどもない。
やがて電車が動き出す。法徳は三駅か四駅過ぎるまでは起きていたが、延々と続く電車の単調な振動に揺られ、いつしか夢の世界に入っていた。
遠い昔の記憶が甦る。
法徳は元々大陸の生まれだった。歴史を司る仁獣ハクタクとして生を受け、生まれたばかりの頃は専ら獣形態で活動していた。
歴史を書き換える能力の他に法徳は種族としての能力で歴史を読む事ができる(そもそも読めなければ書き換えなどできない)。行く先々で歴史を読み、学び、身に着けた叡智を以て人間を導く。若い頃はそこに何の疑いも持たなかった。
悪政を敷く統治者の元に赴き、辛抱強く教え諭し仁君へと変えた。
徳が高いと噂の王の元に赴き、知識を分け与え更なる発展を促した。
人間の為に。ただ人間の為に。
その行動原理に疑問を抱き始めたのはいつの頃からだったか。
国は戦争を起こし敵国を打ち負かし巨大化する。その際に先勝国は自国の都合の良い様に歴史を改竄し、あたかも敗北した国が悪であったかのように装った。事実敗北国が悪であった事もあるが、多くはどす黒い権力欲を満たすためのものであったり、あるいは私怨であったりした。
勝った方が正義だとは誰が言い出したのか。大義銘文があり、勝者の正義を肯定する歴史を見せられれば民はそれが偽りと気付かず納得してしまう。
国主に民に誠実であれと説いた法徳の言葉は遠回しに否定された。確かに勝者が卑怯な騙し討ちと裏切りで勝った、と公表しいたずらに不安を煽るよりは嘘だろうが民衆を安定させる聞こえの良い英雄譚を広めた方が良い。人心が傾き易い戦乱の世なら尚更だ。
それは理解していた。しかし納得はできない。歴史が無残に塗り潰され消されていく事には耐えられなかった。
数十年数百年と時を重ね、人間の国は分裂併呑を繰り返しながらも巨大化していく。その中の名の通った国のどれもが真実の歴史をないがしろにしている。一方で歴史の真実を包み隠さず記録していた国家は国情が安定せず軒並み寿命が短かった。
法徳はそこに至り仁と徳のみで国を収められる時代は終わったのだと悟った。
法徳の中から何かが抜け落ちる。自分をつき動かしていた熱意を失った法徳は、人間の姿に化け裏に表に政治の助けをした最後の国に分かれを告げ、一匹の妖獣として流浪の旅に出た。最早たかが一匹の獣が政に口を出す段階ではない。人間は自らの力で平和共存を目指すだろう。自分は過去の遺物だ。
そう、思っていたのだが。
甘かった。あまりにも。
自分は神の子孫だの、天命を受けた由緒正しい王だの、捏造した歴史を掲げる諸王は皆ハクタクを疎ましく思った。歴史の真実を知る、ひいては自らの権力基盤を揺るがす妖獣だ。放ってはおけない。
法徳は執拗に追われた。なまじ仁獣として名が通っていたのが災いし、どこへ行こうとすぐに見つかる。法徳には既に歴史の闇を暴く心積もりなど無いと言うのに。
法徳は長きに渡る逃亡生活にほとほと嫌気が差していた。ハクタクなりに人間の為を思い行動した結果がこれだ。獣への戻り方も忘れ、人型をとるのが常になっていた法徳はハクタクとしての生を捨てる事を決意する。誰も困りはしないだろう。
かと言っても散々人間の為に働いて来たこの身、今更妖怪の群に混ざるには気が引ける。
法徳は追っ手から逃れる為に海を渡り、東の島国に入った。そこで人間に成り済まし、妖怪退治という消極的な人助けをして暮らし始める。国を動かす為政者ほど大量の人間を幸福にできる訳では無かったが、確実に人間の為になっていると自覚できる。大陸と比べて人間の気質が穏やかであり戦乱も少なかった事も気に入り、法徳はすぐに妖怪退治屋として島国に順応していた。
気ままに里を村を渡り歩き、妖怪を退治する。中には法徳では敵わない妖怪もいたが、その時は無理に調伏せずほどほどで手を打った。
若かりし頃は真面目一辺倒だった法徳もやがて俗っぽい処世術を覚える。酒を飲む様になり、悪人を見つけてもやたらに説法をしなくなり、着物を着崩す様になる。旅をしている間に人脈も増えた。
東へ西へふらりふらりと旅をして多くの歴史を眺める。かつての様に介入はしない。ただ眺めるだけだった。
冴えない顔に無精髭を生やし、妖怪退治の依頼が無ければ無職に等しい。昔自分には嘆かれるだろうか。だが心地良い日々だった。
知人の一人の薦めで平安京へ赴き、陰陽師の資格をとった。数年の間都でこき使われたが、仕事をこなす内にどうも権力のどろりとした手が自分にかかっている予感がしてアレコレ理由を付け逃げ出す。政はもう御免だった。
陰陽師という肩書きが加わっただけで以前と変わらず妖怪退治の日々。そして京を出て数年が経ったある日、ある街の市で法徳はスリに遭った。
「なによ、離しなさいよ!」
粗末な服を着た、十かそこらの童女だった。法徳に腕を掴んでぶら下げられ歯をむき出して暴れている。
「スッた財布を出せば離してやる」
「知らないわよ財布なんて! 離してよー!」
しらばっくれる童女にため息を吐き、法徳は少々歴史を読んだ。そうか、腰布に隠したか。
法徳が服に手を突っ込むと童女は変態! と叫んで暴れたが、気にせずまさぐって財布を抜き出した。
中身を確認し、今度はスられない様に懐の奥にしっかりとしまいこんだ。
「今度からスるなら金持ちで無防備な悪人からにしろ」
法徳は腕を離して踵を返した。数歩歩き、今日の宿の確保に頭を巡らせていると服がちょいと引っ張られた。
「む?」
振り返り、目線を下に落とすと哀れっぽい顔をした童女が居た。本人は隠しているつもりだろうが小狡そうな小悪党の臭いがぷんぷんする。
「おじさん、スッたりしてごめん。でも私一昨日から何も食べてないんだ」
「ほう?」
法徳は眉を吊り上げた。先程一瞬歴史を読んだ時に三日ほど前の行動まで読み取っていた。こいつは盗んだ金で三食しっかり食べている。
どうやらスリを咎めず見逃したせいで調子に乗ったらしい。
「だからお情けだと思ってどうか私に一食一飯のお恵みを。絶対恩は返すから」
器用にも目を潤ませて服の隙間から胸が見える角度で拝むようにしてくる童女。色仕掛けは十年早いと思ったが口には出さないでおいた。法徳は手持ちの銭を脳内で計算し、頷いた。
「構わん」
「ほんと!? ありがとー!」
童女が大喜びで抱き着いてきたが口許がニヤリと歪んだのは見逃さない。随分悪党根性が体に染み付いていると見える。しかしまだ小悪党、一食奢るぐらいはしても良いだろう。
法徳は童女の手を握って市の外、宿場へ向けて歩き出した。
歩いている間に童女は聞いてもいないのにペチャクチャとよく喋る。法徳は八割聞き流し、ある程度話させた所で話を切る。
「ところで」
「だからそこで私は言ってやった訳よ。あんたみたいな――――え、なに?」
「昨日の晩に喰った握り飯は旨かったか?」
「……だから一昨日から食べて無いんだってば」
「草餅も麦粥もニボシも食べて無いのか?」
「…………ちぇ、なーんだバレてたんだ。どうして分かったの? 心読めるの? 人間に見えるけどそういう妖怪なの?」
不利を悟った途端に童女は体に力が入っていないようなふらついた動作をやめ、俊敏な動きで法徳の背中に飛び付いた。飯の種は逃がさないとばかりに肩をがっちり掴んでいる。
「妖怪、だな。今は人間だが。読心術と言えば読心術だろう」
「ふーん。よくわかんないわ。でも嘘はつかないわよね? 一食一飯、頂くまで離れないから」
心 を読んだと言うのに気にした様子も無く笑う童女の笑顔は、食い意地が前面に出ていたがそれ故に純粋で――――
「……え……上……父上!」
「……む?」
「もう次の駅になる。降りる準備をしておいた方が良い」
慧音に肩を揺すられ目が覚めた。いつの間にか寝ていたらしい。昨日の疲れが残っていたのか。
「…………ああ」
「……私の顔に何か?」
法徳がじって見つめるので慧音は頬を手で触った。法徳は小さく笑う。
「いや。お前は母似で美人だな」
「…………」
慧音は無言で照れ臭そうに頬を掻いた。
慧音は自分を産んですぐに死んでしまった母の事をほとんど知らない。妻の犯罪歴は話していない。紆余曲折の末に真人間に戻った後の姿しか語らなかった。
「それで性格は俺似だ」
「……は?」
今度は真顔になってしまう。法徳は苦笑して冗談だと誤魔化した。「昔の」俺に似ているのだが、わざわざ言う事も無いだろう。
法徳は娘と共に停車した駅から降りた。降りる客は二人以外居ない。プラットフォームに人影の無い淋しげな駅だった。
駅を出てすぐ右にある花屋で花を買い、過疎が進んでいるらしく人気の無いアスファルトの道を歩いた。土の道から砂利の道。そしてアスファルトへ。もうどこにも食い逃げをした彼女を店主に謝らせ、手を繋いで帰ったあの道の面影は残っていない。
小道を数度曲がり、緑のトンネルを抜けて坂を上り寺に着く。門前で箒を動かしていた老いた住職が会釈をした。二人も会釈を返し、中へ進む。
二人は住職が少年の頃から毎年変わらない容姿で墓参りに来ていた。住職が二人をどう思っているのかは知らない。
親子は雑然と並んだ墓石の中でも一際古いそれの前に立つ。墓石には小さく風化しかけた文字で上白沢、とだけ刻まれていた。
法徳が柄杓を使い水をかけ、慧音が花を置く。そして二人は短い黙祷を捧げた。この墓石の下に法徳の妻はいない。彼女は現在生前犯した罪を償うために閻魔(ヤマザナドゥではない)の下で働いていた。それが済めば記憶を持ったまま転生する事ができる。
幻想郷の阿礼の子などは百年程度で勤労を終えるが、彼女は生前多くの罪を働いたため必要な償いが多く、百年や二百年ではとても終わらない。平安時代から今に至るまで未だ償いは続いている。
彼女は死後閻魔の元へ行く直前、法徳に転生をするつもりだと明かしていた。
全く母らしい事をしてやれなかった慧音へ今一度生を得て愛を注ぎたい。その時あなたは陰陽師で、私はその手伝い。また、一緒に。
黙祷を捧げる法徳の目には光るものがあった。
彼女が罪を償い現世に戻る日をいつまでも待っている。