幻想郷を一望するある山の頂上の楠木の枝に、一人の天狗が立っていた。
年の頃は人間で言う四十程。山伏装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、葉団扇を持っている。腕を組み赤ら顔で眼下を睥睨するその様は天狗と聞いて万人が想像する典型的な姿であった。
ただし鼻は短く頭はつるりとハゲていた。
彼の名を天魔と言う。
彼は遠く離れた南方の地に於いて五つの山を治めていた大妖怪である。永らく大過なく山々を一族と共に統治していたのだが、大地震で山が崩れ住家を失い、それを期に最近妖魔が集まっていると噂の幻想郷へと移住した。幻想郷への旅程は短く無く、道中周辺の同族を配下に加え、天魔の群は更に大きくなっている。
鬼が群れて住むというこの山だが、天魔はさして畏れておらず、彼等を屈伏させ再び自らの縄張りをここに復活させようと目論んでいた。以前治めていた地にも数回鬼が侵入した事があるが、天魔はそのことごとくを追い返している。
鬼は強い。が、決して勝てない相手ではない。
山下から吹き上げる心地よい風を感じながら獲物を探していた天魔は山の中腹で独り杯を傾けている鬼を見つけ、まずは小手調べと行く事にした。
鬼相手に話し合いはさしたる意味を持たない、と天魔はとうの昔に学んでいた。口合戦で鬼に要求を飲ませる事は難しく、口の勝負から始まろうと結局は拳の闘いとなる。
従って天魔は見つけた鬼に声をかけ、会話もそこそこに一対一での決闘を申し込んだ。正面から闘い、打ち負かせば鬼は非常に友好的になる。天魔はこの鬼を倒し山の鬼について情報を引き出そうと考えていた。
一本角の鬼は朱色の大杯を片手に持ったまま天魔に殴りかかる。天魔はひらりとかわして宙に舞い、葉団扇を一振り。その豪傑振りは強烈な突風と風刃を創り出す。
「はん、小賢しいね!」
鬼は正面から風の中に突っ込み、天魔の真正面に飛び出し拳を振りかぶった。天魔は葉団扇をもう一振り。妖術の風が横殴りに鬼の身体を押し、拳の軌道を逸した。
舌打ちをする鬼の肌には傷一つ無い。服のそこかしこに切れ目が入り肌が覗くばかりであった。
……天魔はこれのせいでよく妻と娘に助平ジジイと罵られる。風刃の妖術が得意であるからこの攻撃を多用しているだけで、誓って服を裂き着物をはだけさせるのが目的では無いのだが、悲しいかな信じては貰えない。
「あんたは服を切るしか能が無いのかい?」
やはり一筋縄では行きそうも無いと距離をとり、どう攻めようかと考えていると鬼にまで言われた。鬱になる。
「喧しいわ、手前は黙って儂に倒されりゃあええのだ」
「そいつは無理な相談だね!」
鬼は大玉の弾幕をこれでもかと撃ってきた。直線に進む単純な弾幕だったが、速さがあり力強く一発一発に込められた妖力が半端では無い。
やはり鬼相手に正面切ってやりうのは愚作……しかし逃げ回って消耗を待ち勝ちを拾っても鬼は良い気がしないだろう。
天魔は葉団扇をくるりと回し、竜巻を生み出して向かって来る弾幕を巻き上げた。その竜巻を突破り馬鹿の一つ覚えの様に突っ込んで来る鬼。いつの間にか大杯は小さく縮め腰に括りつけていた。
馬鹿の一つ覚えだが、鬼ともなるとその馬鹿が恐ろしい。何せ掠っただけでも痺れを残し、命中すれば骨折は確実。
天魔は能力を発動させ、葉団扇を振るう。雷撃が折れ曲がりつつ鬼へ伸び、直撃した。
「が!?」
鬼は雷を受け一瞬怯んだ。雷を操る程度の能力である。
天魔は連続で雷を放った。雷は全て鬼に命中し、痺れさせ空中に縫い止める。いかな耐久力を持つ鬼とは言え雷を喰らい続ければいつかは倒れる。
雷は射程を伸ばすと命中率が下がるため、天魔は雷が確実に当たりかつあちらの攻撃が届かない距離を作り出していた。この距離さえ保てれば勝ちは揺るがない。
……と、天魔は思い込んでいた。
天魔が今まで闘った鬼とこの鬼は格が違った。かつて打ち負かした鬼達は皆能力を持たず、齢百数十年の年若い鬼であった。対して今連続電撃をジワジワと破りつつあるのは妖怪の山の四天王、星熊勇儀。怪力乱神を持つ程度の能力をその身に備えた鬼である。
「洒落臭い!」
雷を何十発と喰らい、服と髪を焦げ付かせていた勇儀は腹の底から咆哮を轟かせた。全身から力強い妖力が吹き上がり、雷を打ち消す。
「何!?」
「私を撃ち落としたけりゃ天の雷三本持って来なぁ!」
驚愕する天魔に一瞬で接敵した鬼は拳を振り抜いた。避けられる間合いではない。
咄嗟に防御しようと掲げた葉団扇を粉砕し、山伏装束を突破り、鬼の鉄拳は天魔のあっさりと腹に突き刺さった。
薄曇りの、風の強い日であった。血反吐を吐いて倒れた天魔は鬼に担がれ山道を行く。
「お前さん、なかなか強いじゃないか」
星熊勇儀と名乗った鬼は大層機嫌が良さそうだ。口笛など吹いている。反比例して天魔の機嫌は悪かった。小手調べのつもりで挑んだ相手に負けたのだ。良いはずが無い。星熊が先程から天魔の光る頭をつるりと撫でてはケタケタ笑っているのも機嫌を悪くさせていた。ついでに言えば体調も悪い。
「儂を何処へ連れて行く?」
「大将んとこさ。今宴会中でね、あんたも付き合って行きなよ」
腹に強烈な一撃を貰い、血を吐いた直後に酒を飲めと言う。そんな無茶なと思ったが断っても無理矢理飲まされる事請け合い。天魔はため息を吐き、身を捩り筋肉を動かして自力で折れた肋骨の位置を直した。ちびりちびりと飲める程度には回復させておかなければならない。鬱になる。
妖力を集中させ回復を早めている内に宴会会場に着いた。そこではむき出しの岩に腰掛け茣蓙に寝そべり木の枝にぶら下がる鬼達が数十人酒盛りをしていた。
天魔は絶句する。これだけの数の鬼をどう打ち負かせば良いと言うのか。一族総出で挑みかかっても四分の一削られれば良い方だろう。
「勇儀おかえりー。んで何さそいつは」
「新参の天狗。大将への土産にね」
瓢箪を持った二本角の鬼がふらふら近付いて来て問うた。事も無げに答えた勇儀の言葉に肝が冷える。
土産とはなんだ。喰らう気か。鬼は負かした相手の肝でも喰らうのか。
「今大将は忙しいよ」
「なんだ、組み手中かい?」
「んにゃ白雪」
「ははあん……ま、会わせるだけ会わせるさ」
勇儀は天魔を担ぎ直して鬼の輪の中を進んで行く。天魔の低い鼻が辺りに充満する酒の匂いを吸い込み、それだけで酔いそうになった。何をされるか分からん、と逃げようともちらりと考えたが万全の状態なら話は別としても手負いで逃げ切れはしないだろう。
辞世の句を考え始めた天魔は地面に下ろされる。
「大将、新参の妖怪だよ。なかなか強かった。四天王の真下ぐらいかな」
天魔は立ち上がり、勇儀が大将と呼んだ鬼を見た。
そして美しい、と見惚れる。藍色の長髪を結って前に垂らし、大粒の黒真珠をつけたかんざしを刺している。百合模様の着物に包まれたその体は出る所がでて引っ込む所は引っ込んだ美の結晶とも言うべきスタイルを誇っていた。
天魔はくらりときて手を伸ばしかけたが妻の顔を思い出し踏みとどまる。心頭滅却。心頭滅却。心頭滅却。
心を鎮め、再び観察する。鬼の大将は膝に幼女を乗せその艶やかな白髪を慈しむ様に撫でていた。勇儀の声もまるで耳に入っていないようである。
紅の衣を着た幼女は柔らかそうな膝の上で丸くなりゴロゴロと甘えていた。
「すくなー、すくなー」
「姫姉と呼んでおくれ」
「ひめねぇちゃん、すきー」
「はぁああぁ……」
幼女にぽわっとした笑みを向けられ鬼の大将は恍惚とした表情を浮かべる。天魔は眼中に無し。
「し、白雪、白雪のために人間に着物をあつらえさせたのだが……」
「んん、どれー?」
「用意はしてある。これよ」
「んー、ひめねぇちゃんとお揃いー、着るー」
天魔はホワッとした笑みを浮かべ衣を脱ぎ始めた幼女と身悶えしている鬼から目を逸した。目の毒だった。致死性の猛毒だ。
「勇儀殿、儂に何をせよと言うのだ。姉妹の艶姿を眺めていろとでも言うのか」
「姉妹じゃあないよ。小さい方は客人さ。角が無いだろ?」
「大将殿も無いようだが」
「大将の角は短いから髪に隠れて分かんないのさ。それと目を逸したのは正解だね。男が白雪の裸なんか見たら大将に頭吹っ飛ばされるよ」
「…………」
「さ、顔見せは済んだし飲もうか!」
勇儀が戦友よ、という態度で天魔の背中をばしんとはたいた。治癒途中の傷口がばっくり開く。天魔は心の中で絶叫を上げた。
「あん? なんだいシケた面しちゃって」
「……いや。勇儀殿、酒盛りの前に我が一族の縄張りについて相談があるのだが」
「縄張りぃ? 適当にすりゃいいよ。自分の領土が欲しけりゃ自分で分捕りな。あ、デカい喧嘩をするなら呼びなよ。呼ばれ無くても首突っ込むけどね!」
勇儀はあっはっはと豪快に笑い、天魔の肩に腕を絡ませへべれけに酔っ払っている鬼の中に連行して行った。
天魔は座らされ酌をされながら考える。
鬼は山を統治しているというよりは象徴的に君臨しているだけらしい。勿論実質的な権力も持ち合わせているが、勇儀の口振りから察するに振りかざしてはいない。
山には規則も何も無いようだが風に含まれる血の匂いは薄く、戦乱状態という訳でも無さそうだ。これも勇儀が言った様に鬼の存在が抑止力となっているのだろう。大きな戦いを起こせば鬼が寄って来て双方甚大な被害を被る。ならば鬼が興味を抱かない程度の小競り合いか、交渉で片付けるのが良策。
鬼の威光を笠に着るのは憚られるが、上手く立ち回ればこの山を天狗一族の里として機能させる事は難しく無さそうであった。
一夜空け、翌日。天魔は頭痛と共に目を覚ました。見回せば鬼は皆潰れて地面に雑魚寝をしており、起きている者は天魔一人……いや、もう一人居た。
鬼神の腕に抱擁された白髪の幼女が呻き声を漏らしている。
天魔は幼女に近付き声をかけた。
「童、大丈夫か」
「あんまり大丈夫じゃない……つーか誰?」
幼女がしかめっ面で聞いて来た。昨夜と大分雰囲気が違う。酔いが覚めているようだ。
「儂か。儂は昨日この山へ越した天狗の頭領、天魔と申す」
「天魔ぁ? 天魔ねぇ……んー、ま、どうでもいいか。おりゃ!」
気合い一声、幼女は自分を締め付ける鬼神の腕を振りほどいて抜け出した。自分が着ている着物を指で摘んで首を傾げ、地面に落ちている紅の衣を拾い上げた。
そして着物に手をかけた所でジッと自分を見ている天魔を睨む。
「こっち見んなエロハゲ」
娘と同じぐらいの年齢の幼女に言われ、天魔はハゲしく落ち込んだ。
背を向けて衣擦れの音を聞きながらさて帰る前に鬼神に挨拶をしていくべきかと考える。……やはり眠る鬼を挨拶のためだけに起こすのは不味かろうか。起こしてそのまま再び宴会を再開されてもかなわない。天魔の内臓は色々と限界だった。
「お先」
天魔に声をかけ、幼女は空の向こうへ飛んで行った。無闇やたらと強い気配を出していた妖怪だが、山に住んでいる者では無いらしい。
天魔はその場で幼女を見送り、肩を鳴らし麓で待っている妻子と一族の元へ飛び立った。新しい縄張りの割り振りに特技に応じた役割分担など、これから忙しくなりそうであった。
麓に着いた後、妻に服の匂いを嗅がれ浮気者と頬を何十発も叩かれたのは余談である。娘の蔑んだ目が痛かった。