私は人気の無い木工室の戸を開け、静まり返った室内を見回して分かってはいたけれどため息を吐いた。
高校の美術部に入部してから一ヵ月、一人しかいない最上級生の先輩は始業式の帰り道で車に撥ねられ入院中、まだ会った事も無い。二年の先輩達は軒並み幽霊部員。今年誰も入部しなければ休部……実質廃部だったらしい。
結局一年は私が一人入ったものの焼け石に水、来年はまた部員不足に悩まされるのだろう。
私は鞄を隅の工作机に置き、準備室に入ってセーラー服を脱ぎジャージに着替えた。
美術部と言っても私は絵は描かず彫刻をしている。木片が制服につくのは防がなくてはならない。
誰も居ない木工室の電気を点け、昨日削りかけのまま布を被せて隅に寄せておいた木材を作業台に持って来る。私は下に新聞紙を敷き、鞄から自腹で買ったマイ彫刻刀と見本の木彫熊を取り出し削り始めた。
私は部員が少ないのは美術部の顧問の先生の不真面目さにも起因するだろうと推測している。現にこうして六限後の掃除が終わり三十分も経っているのにやってくる様子は無い。大抵いつも下校時刻直前に鍵を閉めにやってくるだけで、早めに来る様な事があっても教卓に書類を広げてひたすら仕事をしている。
顧問との少ない会話から察するにどうやら適任が居らず消去法でかなり強引に任じられたらしく、それならばこのやる気の無さも納得出来るというものだ。
やる気の無さは興味の無さとも言い換えられ、入部届を出す際に彫刻をやりたいんですけど、と言うと二つ返事で許可が出た。俺は彫刻なんぞ知らんから独学で何とかしろ、希望すればコンクールに出品してやってもいい、彫刻コンクールが存在するかは知らんがな、と顧問とは思えない無責任極まりない台詞が後に続いたが私は気にしない事にしている。まともな教師ならここまで好きにさせてはくれないだろうから。
窓の外から聞こえる吹奏楽部の途切れ途切れの演奏と野球部の威勢の良い掛け声を聞きつつ私は黙々と彫刻刀を動かした。木材を削る度、ほんの少しずつ形が整っていく。
全体の外観がはっきりした所で一度彫刻刀を置き、木屑を払って出来を確認した。
どう贔屓目に見ても不格好な仕上がりになってきた木彫熊を角度を変えて眺めたが、どの角度から見ても犬か猫かすら判別できない新種の哺乳類がビーフジャーキーを咥えているようにしか見えず嘆息した。見本があるとは言えズブの素人がいきなり木彫熊、というのはハードルが高かったかも知れない。
家族で北海道旅行へ行った時に見た土産物屋のおじさんは手のひら大の熊を易々と一時間足らずで彫り上げていたので簡単に思えたが、私には敷居が高かったらしい。ヒトデあたりからはじめるべきだったか。
それでもこうして何かを彫っているだけで楽しいから良いのだけれど。
生き物に見えるだけでも上出来だと前向きに考え、取り敢えず完成させてしまおうと彫刻刀を取り上げた所で木工室の戸が開いた。珍しく早めに顧問が現れたかと思い私は顔を上げた。
「おお? ここ美術部だよね?」
入口に立ち、彫刻刀を片手に静止する私を怪訝そうに見たのは小学生ぐらいの小さな幼……少女だった。特注としか考えられないサイズの制服に身を包み、ずかずかと中に入ってくる。
歩くたびに不自然なほど真っ白な長い髪を纏めたなポニーテールが左右に揺れた。瞳は日本人らしい黒だったから髪は脱色か何かしたのだろうが、それにしては色がはっきりしている。色素が抜けているようには見えない。
ゲームの中から抜け出して来た様な整った幼い顔立ちはどこか人外めいていた。
高校のセーラー服を着てはいるものの恐ろしく似合っていない。立ち振る舞いが堂々としていなければ小学生が忍び込んだと思う所……いや、こんな目立つ子、この高校にいたか? いたようないないような……
「えーと……入部希望?」
「んにゃ、強いて言えば見学かな」
六月にもなって入部希望は有り得ないと分かりつつも聞いて返った言葉は否定とも肯定ともつかなかった。
女の子は私の横に立ち、彫りかけの熊と私を交互に見て首を傾げる。
「これ君が彫ったの?」
「……一応」
「ふうん?」
喉に小骨がつっかえたような顔をして熊を見て、私を見て、熊を見て。あまりの下手さ加減に私が美術部だと疑っているように見えていたたまれなくなってきた。 会話をして彼女の気を逸らそうとなんとか話題を探す。身長の事は言わない方がいいんだろうな……高校生でこの背丈というのは気にしてるだろうし。
「今顧問の先生いないけど……」
「知ってる」
一瞬で会話は途切れた。気のせいか女の子から威圧感のようなものを感じて身を縮める。
しばらく無言で熊を鑑定していた女の子は徐に私の瞳を覗き込んだ。のけ反ろうとしたが体が金縛りにあったかのように動かない。
「ねぇ、ここの一年部員って君一人?」
「そう、だけど」
「男子部員は居ないんだよね?」
「同学年には……」
静かな、厳かな口調の女の子の問いに勝手に口が動くような気すらした。得体の知れない目の前の存在にじわりと恐怖が滲み出る。
女の子は見透かす様に私の瞳の奥を覗き込んでいたが、ふっと目を逸らした。私の全身を舐め回す様に観察し、ジャージの胸に刺繍された私の名前に目を留めた。何故か驚いた顔をする。
「君、両親の名前は?」
妙な質問に戸惑いつつも素直に答えると、女の子は何度も頷いた。
「なるほどね、この世界ではデフォで女なのか」
「……はぁ」
何の話だろう。不思議ちゃんだろうか? だとしたらあまりお近付きになりたくない。
私は無神論を支持している。この世は物理法則が全てだと思っているからファンタジックな思考回路の人種とはそりが合わない。
私がうろんな目で見ている事に気付いたのだろう、女の子はちょっと気まずそうに彫りかけの熊を片手で弄んだ。
「……言っても意味無い気がするけど――――」
女の子の手が一瞬ぼやけた。カシュ、と乾いた音がして熊から木片が剥がれ、パラパラと床に零れ落ちる。瞬きする間に見本と瓜二つに削られた熊を女の子は空いた口が塞がらない私の手に握らせた。
え……今、何が起きた?
「白い毛玉には気をつける事だね」
「おい、何をぼーっとしてるんだ? もう閉めるぞ」
「……え、あ、はい」
いつの間にか居眠りしていたらしい。私は顧問の声で目を覚ました。窓の外を見るともう暗くなってきている。
私は慌ててジャージについたゴミを払った。掃除用具ロッカーから箒を出して木片をはき、塵取りですくってゴミ箱に入れる。新聞紙も丸めて捨て、机の上の彫りかけの――――
「あれ」
見本が二つに増えている。彫りかけの自作熊は?
思い出そうとしたが木工室に入り彫り始めてからの記憶に霞がかかった様になっいる。誰か……他に誰か……居たような?
「おい、早くしろ。下校時刻過ぎるぞ」
「あ、はい! すみません!」
私はイマイチ釈然としないまま急いでセーラー服に着替えようと準備室に飛び込んだ。
【白雪使用能力】
・周囲の認識力減衰(美術室までの道のりですれ違う生徒や教師に認識されないようにする)
・説得力強化(高校生である事に疑いを持たせ難くする)
・記憶力操作(遭遇した事を忘れさせる)
白雪の異世界同位体は平凡な女子高生だった、という話。