店内に入ると、テーブル席はすでに埋まっていた。
休日の午前中である。なかなか繁盛しているようだ。
店内を見渡す。窓側一番奥の席に、直樹は待ち合わせの相手を見つけた。
ちょうどむこうも直樹を見つけたらしい。無表情のまま手を振ってきた。
宝琳院白音。
先日知り合った、友人の妹である。
直樹は半眼になってつかつかと歩み寄った。
「昨日ぶりです。直樹さん」
「ああ」
しれっと言うこの曲者少女を睨みつけると、直樹は彼女の真正面に座った。
“明日、会えないでしょうか。”
そんなメールが彼女から送られてきたのは、昨日の夜である。
急なことではあったが、直樹は白音と会う約束をした。どうしても言わずにはいられないことがあったのだ。
「――あのな。澄香と忠に妙なこと吹き込んだろう。えらい目にあったぞ」
直樹は眼を眇める。
子供のころは可愛かった双子のも、いまのガタイでされては暴力と変わらない。いじられるネタがあればなおさらだった。
「肯定です」
白音は悪びれたようすもなく言った。
「肯定ですが、予想外のことです」
淡々と言葉を継ぐ。
彼女の癖のようなものである。
「肯定ですが、予想外のことでした。その程度で済んだとは」
「――って確信犯か!?」
「冗談です」
思わず声を上げた瞬間。
言葉をねじこまれ、直樹はつんのめった。
いいように玩ばれている。
ため息をついたところで、ちょうどウェイトレスが注文を取りにきた。
「――コーヒー」
「アッサム。ミルクでお願いします」
注文を伝えると、直樹は白音に目を向けた。
大きな椅子にちょこんと座る姿は、仕草を除けばほとんど宝琳院庵そのもので、直樹はどこかむず痒い気持ちになる。
「――紅茶とか、詳しいのか?」
「いえ、識っているだけです。紅茶を」
――話を続ける気、ねえのかよ。
と思うほど、学習能力がないわけではない。
直樹は白音の言葉を待った。
「紅茶が美味しいことを」
「ふ……ん?」
「ここの紅茶が美味しいことを。そしてコーヒーはそれほどでもないことを」
「さきに言えよ!」
直樹は思わず大声で突っ込んでしまう。
あたりは水を打ったように静まりかえった。
周囲の視線は遠慮なくふたりに集中している。
「つーか、お前、俺をからかってるのか?」
大柄な体をちぢ込ませてから、直樹は声をひそめて言った。
「いえ、からかうつもりはありませんでした。気を悪くされたのなら謝ります」
白音が深々と頭を下げた。
丁寧きわまる態度に、直樹のほうがあわててしまった。
「本日お呼びしたのは、姉の話を伺いたいからです」
白音が要件を切り出した。
「わたしなどが、姉を心配するなど不遜もいいところかもしれませんが、普段の姉を知るだけに、心配でもあるのです」
彼女の無表情では、その心情は図りがたい。
ただ、その言葉は真性のものである。直樹はそう感じた。
「いいさ。なにが聞きたい? 俺も、それほど答えられるわけじゃないかもしれないけどな」
直樹は両手を組んで、白音に微笑みかける。
「まず、これを読んでいただきたいのです」
そう言って白音が出したのは、一冊の大学ノートだった。
表紙には、達者な筆致で宝琳院庵の観察日記と書かれている。
「これは――」
「姉の、日記です」
「いや、観察日記って……宝琳院らしいっちゃらしいけど。で? これが?」
「読んでください」
白音は、なんのためらいもなく言ってきた。
「いや、そりゃ駄目だろ」
「読んでください。あなたは読むべきです」
直樹の前に、顔を近づけ、断言する白音。
その迫力に圧されるように、直樹はのけぞる形になる。
ノートに目を落とす。
興味がないと言えば嘘になる。だが、勝手に相手のプライベートを詮索するのは気が進まなかった。
「読んでください。当事者のあなたは読むべきです」
「当事者?」
「読めばわかります」
進められて、直樹はついに表紙を開いた。
9月29日(金)
今日も図書室に入り浸る。
図書室に来る面子も固定してきて、人間観察よりも読書のほうに身が入る毎日だったが、今日は面白い人物に出会った。
鍋島直樹。
無論先述のクラスメイトであるが、とても本を読む、あるいは調べ物をするなどの知的好奇心を満たす作業を好むとは思えない人物だったはずだ。彼の中でどのような革命が起こったのだろうか。
こちらを見つけて声をかけてきたので、それに応え、益体のない会話をした。
と言っても、こちらは例のごとく言葉にはしなかったが、妙に会話がかみ合う。
なかなかに面白い思考回路を持つ人物で、ボクのインスピレーションを刺激してくれる。知らぬ間にボクは声に出して話をしていた。
いきなり開いたところで、そんな言葉が踊っていた。
なんと言うか、言葉の端々に含まれる毒が、いかにも彼女らしかった。
直樹は、そのまま続きに目をやる。
9月30日(土)
午前のみの授業を終え、図書室に向かうと、鍋島直樹もついて来た。
どうやら昨日の話が面白かったようで、当然のようにボクの領地たる大机に座ってきた。
ボクとしても前日は久しぶりに面白い思いをさせてもらったのだ。話をするのにやぶさかではなかった。
彼といると、知の泉湧くこと滔々としたもので、気がつけば日が傾いていた。
正直言おう。素直に、楽しかった。
直樹は、心臓の鼓動がすこし早くなってきたのを感じた。
他人の秘密を見ているという背徳感と、行間に潜む微細な好意が、直樹の心を刺激する。
のどに渇きを覚え、冷や水に手を伸ばしかけたところ、ちょうどコーヒーが運ばれてきたので、それで口を湿らせた。
不味いとは言わないが、普通としか評価しようのない味だった。
あまり詳細に目を通すのもどうかと思い、直樹はすこし飛ばして先を見る。
2月11日(日)
明々後日はバレンタインだそうだ。
バレンチヌスなる聖人にも、製菓業者の手なる一大イベントにも興味はないが、日ごろの感謝をこめて、直樹くんには何か渡すべきだろうか。
いや、ただでさえ龍造寺くんからチョコレートをもらえる直樹くんには、世の男どもの嫉妬が降りかかる日だ。それに一助を添えるのも、まあ楽しくはあるが、本義ではないだろう。
だが、図書室でこっそり渡すという手はある。
都合よく、明日は代休だ。デパートを冷やかしてみるのも悪くない。
2月14日(水)
本日バレンタインデイ。鍋島直樹氏に未曾有の災厄が降りかかった日でもあった。
まず早朝一番に龍造寺女史謹製のチョコレートをもらった直樹くんは、クラスメイトから揉みくちゃにされていた。
さらに、下駄箱と机に差出人不詳(直樹くん本人は確認しているだろうが)のチョコレートが入っており、いっそう一部男子から批判を浴びることになった。
だが、同じクラスに大量のチョコレート(と同数量の女性の好意)を確保していた中野一馬くんが居たせいだろう、クラス内では比較的平穏と言えた。
昼休み。直樹くんが龍造寺くんからチョコレートを頂いたという噂は学校中に広まっており、一部の強硬派男子と、ごく一部の女子が、殺気立った目で直樹くんを見ていた。
さらに放課後、図書室でボクがチョコレートを渡した後、帰りに直樹くんは追い掛け回されていた。
およそそのような集団の心理は理解しがたいが、一助を成した者として、一応十字を切っておいた。吐き気がした。無理をするものではない。
――悪魔……十字切るんだ……
心の中で、なにかがガラガラと崩れていく気がする。
しかし――直樹は首をかしげる。
たしかに、登場人物として自分が出てきてはいるが、読む必要があるとも思えない。
だが、白音が断言するからには、それに足るものがあるのだろう。
直樹はさらにページを読み飛ばす。
4月9日(月)
今日は始業式だ。毎年クラス分けに悲喜交々な様を観察するのは、なかなかに心を楽しませるものがある。
だが今年に限っては、ボクも類に漏れないようで、他人がどのクラスに割り振られたのかを探すなどという、普通の学生のようなことをしていた。
自分の名前を探していると、後ろから直樹くんに声をかけられた。また同じクラスになれたことを喜ぶ趣旨のものだった。
直樹くんと一緒になれたのは、正直うれしかった。
どうも、毛色が変わってきている。
直樹は、気づき始めた。なにやら、文章からほのかに色気のようなものが漂ってきた。
5月2日(水)
明日からゴールデンウィークだ。
しばらく直樹くんの顔を見ることができないのは、残念だ。このところ、なにかにつけ彼の顔が思い浮かぶのは、これはどうしたことか。
まあいい。
直樹くんは、この休みを利用して、家族旅行を予定しているらしい。家族仲がよくて、なによりのことだ。だが龍造寺くんまで一緒とは、どうしたことか。
5月7日(月)
長い休みが明けて初日。直樹くんは旅行でのことを楽しげに話してくる。
だが、何故だろう。今日はちっとも楽しくない。
旅行での話というより、龍造寺くんとの思い出話になっているからだろうか。
その話になるたび、なにか焦れたような、妙な感情がわき起こる。体調が悪かったらしい。今日は早めに寝るとしよう。
5月8日(火)
昨日の続きのような一日だった。直樹くんと龍造寺くんが同じ日焼けをしていることが、至極気になる。
気がつけば、二人を見比べている。
どうも妙な気分だ。休みボケというものだろうか。
家に帰ってからも、なにか悶々としたものが収まらない。こんなとき無趣味はつらい。白音に本を借りた。恋愛小説を読むとはあいつもマセたものだ。
本を読んでいると悶々として眠れなくなった。
これ以上はマズイ。
直樹は無言で日記を閉じかけ――白音に腕をつかまれる。
「駄目です」
「だめだって、これヤバイって!」
宝琳院庵の日記を見るのも拙いが、読んでいる直樹のほうも、どんどん顔が紅潮してきている。
「駄目です。あなたには見る義務があります」
「なにがだよ。いくら関係あるからってこれは不味いって!」
なにが不味いって、どんどん宝琳院庵を意識しだした自分が一番不味い。
直樹は腰を浮かしかけるが、白音の腕がそれを許さない。
「駄目です。あなたには最後まで見る義務があります……見てて面白いので」
「コラいま最後にボソッと何いった!?」
「いえ、わたしとしては姉の悩みを解決したいと思いまして。たぶん、さきを読み進んでもらえば解決するものと」
白音の真剣な声色に、直樹はしばし黙考し――浮かしかけた腰を下ろした。
「も、もうすこしだけだからな」
直樹の声色も、どうも嫌々ながらとと言う感じではない。
7月21日(土)
今日は終業式だった。明日から直樹くんに会えないかと思うと、気が沈んで来る。
どうも……参った。
正直に言おう。どうやらボクは、直樹くんに好意をもってしまったようだ。
まったく、常に客観を自らに課しているわたしが、このざまだ。ままならないものだ。
思えばこの夏休みも、冷却期間としてはちょうどいいかもしれない。
夏休みが明ければ、彼とごく普通に接することができる。そんな自分が戻ってくるといいのだが。
8月14日(火)
今日、偶然直樹くんと出会った。
嘘だ。
本当は、彼がいるであろうことを知っていて、彼の家の方まで足を伸ばしたのだ。
彼と益体も無い話をした。ただそれだけで満ち足りてしまった。
なんて安いやつなんだ。
それも直樹くんが悪いのだ。
わたしを、ただの女に貶めた直樹くんが悪い。そう思わなければ、やっていられない。堕ちたものだ。
直樹は、言葉も無い。
どんどん深みに嵌まっていく宝琳院庵の姿が、そこに描かれていた。
――だが。
9月3日(月)
恋。これは恋なのだ。
わたしは、ようやく気づく。
生れ落ちてより一度もそのような感情を抱いたことが無かったので、気づくのに遅れた。
大幅に後れを取ってしまったようだ。
だが、まだ遅きに失したというには、早すぎる。
――だが、決定的な違和感を、直樹は見逃しはしなかった。
「てい!」
と、一番最後のページをめくる。
「――あ!?」
焦ったような白音の声を無視して、最後の日付を探す。
日付と、宝琳院庵が告白を心に決めたこと、その最後に、こう書かれていた。
著・宝琳院白音
痛いほどの沈黙が、二人の間に流れる。
「――やっぱり、お前の仕組んだイタズラか」
直樹は目を眇めた。
イタズラとしては悪質すぎる。
「変だと思ったんだよ。宝琳院は筋金入り(だからな。こんなことを書くわけがない」
直樹は白音を追い詰めるように、日記を指でたたいて見せた。
白音は、無表情のまま。
「ひどいです」
無表情のまま、目に涙をためる。
「ひどいです。せっかく苦労したのに」
ポロリと、涙がテーブルに落ちた。
「ひどいです。せっかく苦労して、直樹さんの慌てふためくさまを堪能しようと思っていたのに」
「最後の言葉で罪悪感も吹き飛んだぞ」
嘘泣きか、本当か。判断しかねたが、発言の内容に同情の余地はなさそうだ。
すこし気になって、仕込みにどれくらい時間をかけたのか尋ねてみると、徹夜しました、という言葉が返ってきた。
どうやら昨日からたった一日ですべての仕込みを終えたらしい。
「――その根性には、脱帽するよ」
感心半分、あきれ半分といった調子で息を吐き、直樹はテーブルに日記を置く。
「だが、俺を騙すには――」
とん、と、直樹の指が日記の上にのせられる。
「――ちょっと早かったようだな」
「――ほう? なにが早かったのかな?」
極低温の声が、背後から投げかけられた。
蛇に睨まれた蛙のように。背後からの強烈な視線に、直樹は動けなくなった。
――拙い。不味い。マズイ。
動かない首を、無理やり後ろに向ける。
予想通り。そこには龍造寺円の姿があった。
「教えてくれないか。直樹」
静かな怒りをたたえ、円は仁王立ちでいる。
さらに、その横に。
「――ボクも、キミについて言っておきたいことがあるのだよ、直樹くん。たぁっぷりとね」
宝琳院庵までが、怒りを隠しもせずに、そこにいた。
「キミが、人の日記を見る事をためらわない人種だったとは思わなかったよ。それに、妹を泣かせるような人だともね」
その言葉に、白音はあからさまに涙をぬぐって見せる。
――罠か!?
気づいても、もう遅い。
この状況はすでに詰みである。
「宝琳院。これは、だな」
宝琳院庵に釈明しようとすると、直樹は円に腕をつかまれた。
「直樹。わたしにも言うべきことあるんじゃないか? いろいろ(と」
ふたりのようすに、直樹は弁解を考え――本日の生存をあきらめた。
鍋島直樹がふたりの美少女に引きずられていった後。
白音は、何事もなかったかのように顔を上げた。無表情の中に、特定の感情は見て取れない。
「直樹さん、思ったより切れ物でびっくりしました」
ミルクティーを口にし、少女は窓の外に目をやる。
哀れな子羊が、駅前の往来で脚光を浴びていた。
「ですが、気づかなかったようですね。あの日記、途中までは本当の日記そのままだったのですけど。せっかく見せて差し上げたのに、気づかないなんてもったいない」
ほんのわずか、白音は口の端を上げる。
「とはいえ、ふふ、脈がないわけでもない。こういうの、妹冥利に尽きるとでもいうのですかね」
そう、ひとりごちて。
少女はカップの中身を一気に干した。