「――ふざけた冗談はよしたほうがいいぞ。宝琳院」
直樹は言い放った。
そう、さきほどから直樹が感じていたのは、違和感というよりむしろ既視感に近かった。
理ではない。直樹には直感的に、目の前の存在が宝琳院庵だと気づいたのだ。
沈黙に含まれた微細量の驚きを、直樹は感じた。
ややあって。笑いをこらえきれぬように、くすくすと笑いが起こった。
さざ波のような圧力が小刻みに肌を打つ。
人のカタチを取っていたモヤは、より収束し、直樹よりはるかに縮んでいく。
最後に残っていた薄靄が取り払われたとき、そこに現れたのは漆黒の髪に真っ白な肌、お姫様のような姿の少女、宝琳院庵のすがただった。
「やはりキミは怖いね。直樹くん――うん。ボクとしても、キミと話すときは、この姿のほうがしっくりとくる」
円の手から、たしかな震えが伝わってきた。
「なんで魔法陣から宝琳院が出てくるんだ?」
思わず、口調が宝琳院庵と話す時のものになる。
「なぜ、か。なぜだと思う? この魔法陣は悪魔を呼び出すためのもの。ならば答えはひとつしか無いのではないかな」
黒髪を、撫でるように弄る。
いつも通りの仕草で、彼女は言った。
「ボクが悪魔だからさ」
他人を弄るようなニヤニヤ哂いすら、いつもとおなじ。
だが、言葉の内容は、笑い飛ばせるものではない。
「宝琳院が……悪魔?」
「まさに。この十七年、人の姿を借りてはいたが、正真正銘、真正の悪魔だよ」
「マジでか……」
直樹は絶句した。
「マジなのさ」
宝琳院庵もおどけて肩をすくめてみせた。
「妙な成り行きで現し身を失うことになったがね。キミたちも無事なようでないよりだ」
言葉を失う直樹を尻目に、宝琳院庵は笑みを崩さない。
「ときに直樹くん、その魔法陣の端っこ……その文字を削ってくれないかい? 正直ここは窮屈でね」
直樹は何気なしに動きかけ――隣に立つ少女に腕を引かれた。
「やめろ。悪魔を、自由にしたいのか」
円の声は振り絞るようだった。
直樹も宝琳院庵に従おうと思ったわけではない。言葉に込められた力に、体が反応してしまったのだ。
「つれない事を言うね、龍造寺くん。キミとは、膝を突き合わせて話す機会に恵まれなかったが、クラスメイトじゃないか」
「お前が宝琳院の知識と姿を持っているとして、それが本人である保証にはならないだろう。よしんば宝琳院当人だったとして、悪魔の力をもったお前が、以前と同じであるとは思えない」
ニヤニヤ哂いを止めない宝琳院庵に、円が強い視線を投げ返した。
「それにあの悪魔は言った。その魔法陣はあの悪魔を完全な形で喚び出すためのものだと。ならばいま目の前にいるお前の正体は、あの悪魔だ。そんな奴の言葉を、信じるわけにはいかない」
直樹は絶句した。
宝琳院庵はニヤニヤと哂い。
龍造寺円は彼女を睨む。
「みごと」
と、宝琳院庵は言った。
「大要において龍造寺くんは正しく、本質においては直樹くんが正しい。一人一人は及第点だが、ふたり合わせれば満点だ。まったく、すばらしい。キミたちは理想のコンビだよ」
手放しの賛辞と、言葉の内容、双方に直樹は絶句する。
宝琳院庵という人間として過ごしてきたと、彼女は言い。
直樹たちに死のゲームを強いた悪魔だとも、彼女は認めた。
「なんで」
直樹は、口を開く。
「何で、こんな事を」
それしか言えなかった。
宝琳院庵を信じていた。
たった一年ほどの思い出が、宝物のようだった。
それを、すべて否定された気分だった。
「勘違いされては困るが、あれは正確にはボクではないよ」
宝琳院庵は顔をしかめて見せた。
それが本当に拗ねたようで、直樹は混乱する。
「多久くんが悪魔召喚の参考にした本、あれも、日本語訳本にしては、悪くない。悪くないんだが、しょせん本場のものに比べれば劣化も甚だしい。結果、ずいぶんと中途半端な召喚になったようだね。ボクの、力の一部だけを呼び出してしまった。無色の力は多久くんによってカタチが与えられた。彼女の想像する悪魔(という、カタチをね」
「それが……あの悪魔」
「その通り。あれも、おのれが何者かの一部だという事を自覚はしていたのだろう。だから、あんな儀式(を行った。本体が、ゲームに巻き込まれてるなんて知りもせずにね」
悪意で凝り固まったようなあのゲームに、宝琳院庵が関知していない。
それがわかってひどく安心している自分に、直樹は気づいた。
彼女が悪魔であるという事実よりも、彼女に嘘がなかった事のほうが、直樹にとっては大事だったのかもしれない。
「信じないで」
龍造寺円が、直樹の腕を引いた。
「たとえ事実だったとしても、宝琳院が悪魔だろうということには変わりない。だから、そいつを自由にしてはいけない」
円の言葉に、宝琳院庵はため息をついて見せる。
「やれやれ、嫌われたもの……は、もとからか。それがどんな感情に根ざすものかは知ってはいるが、理論武装が完璧なだけに厄介だね」
円の顔に淡い怒りの色が浮かんだ。
手を強く握り込まれ、直樹は危うく悲鳴を上げかけた。
「タダで出せとは言わないよ。親しき仲にも礼儀あり。人間ケジメは大事だからね――そのためにこんなものがある」
宝琳院庵の手に、五つの輝く球体が現れた。
それがなんなのか、直樹にはわからなかった。だが宝玉めいた輝きを持つそれは、なにがしかの温度を感じさせる。
「鹿島茂、神代良、中野一馬、千葉連、それに多久美咲の魂だ。この五人を生き返らせてやろうじゃないか」
にやりと、笑みを浮かべ、宝琳院庵は言った。
それこそ、悪魔の取引というものだろう。
五人の命と引き替えに、この悪魔は自由になる。
直樹は迷わなかった。
「わかった」「断る」
直樹と円が、同時に逆の返事をした。
たがいの言葉に驚いたように、ふたりは眼を合わせる。
「直樹」
「円」
直樹と円はにらみ合う。
それを宝琳院庵はニヤニヤ哂いで見守っている。
「なんでだ? みんなが生き返るんだぞ?」
「それでこいつを自由にしたら、もっとひどいことになるかも知れないだろう!」
「それでも、俺は宝琳院を信じるし、なによりみんなの命が返ってくるんだぞ! 一馬たちが生き返るんだぞ!」
「そしてみんなまとめて宝琳院に殺されるか!? 生き残った人間の命を危険にさらすのか!?」
「宝琳院がそんなことするわけないだろ!!」
「このわからず屋!」
「薄情者!」
ふたりの声は次第に高ぶり、終いには罵りあいになる。
もとより、ふたりの大事なものが違った。
円は死んだもの達の命などより、鍋島直樹のほうがよほど大事であり、一方直樹はみんなが生き返る事のほうが重要だった。
これでは話は平行線、決着がつくはずがない。
「――ふたりとも、まあ落ち着きたまえ」
たまらずといった風に、宝琳院庵が仲裁に入った。
こころなしか、こめかみが痙攣しているようにも見える。
「ふたりとも、もっと理性的に話し合いたまえ。感情でものを言い出しては、たがいに妥協点も探れないぞ。
まったく、発音に意味を持たせることで、自らの考えを子細に伝えられるほど高度に成長したその伝達器官を、あらくたな感情をぶつける事にしか使えないとは……キミたちは獣かね」
宝琳院庵の言葉に、ふたりは思わず顔を見合わせた。
悪魔に呆れられるという、非常にイタイ図だった。
だが、ご高説もっとも。直樹と円はたがいに苦笑を浮かべる。
「もういい、好きにしろ。たとえ死ぬ破目になっても、直樹と一緒だ」
でも。と、円は言葉を継いだ。
「もう一度考えてくれ。みんなを生き返らせることが、生き残ったものを危険にさらしてまでやる価値のあることなのか」
直樹にとって、その言葉は重い。
五人もの人間が、巻き込まれて死んだ狂気のゲーム。
その中で生き残った、たしかな命を、直樹は抵当にしようとしているのだ。
「円……みんないなきゃ、意味がないんだ」
円のまっすぐな言葉に、直樹はまっすぐに返した。
「一馬も、鹿島も、神代も……多久も、宝琳院だってそうだ。あんなゲームで理不尽に死んでいって、そのままなんて、俺は我慢できない。もし生き返ることができるんなら、なんだってやりたい」
「直樹……」
直樹の言葉から、覚悟を酌んだのだろうか、円はそれ以上なにも言って来なかった。
「もちろん、分の悪い賭けじゃないさ。一度言ったけど、もう一度言う。俺は、宝琳院を信じてる。人間性じゃなく、その在り方を、な」
直樹は言いきった。
円の顔にあきらめ混じりの苦笑が浮かんだ。
黙ったまま。円が顎で宝琳院庵を示した。
促されるまま、直樹は魔法陣の文字を、指示通りに削った。
「ありがとう、直樹くん、やはりキミは親友だ」
魔法陣はもはや意味を成さなくなった。
自由になったはずの宝琳院庵だが、彼女は彼女のままだった。
いつも通りのニヤニヤ哂いを浮かべたまま、宝琳院庵は掌に収まっていた魂を、宙に飛ばした。
三つの魂はこの教室の入り口のほうへ、ひとつは地面をすり抜けて階下へ、もうひとつは図書室のほうへ向かっていった。
魂は、元の場所に収まり、皆が生き返る。
それは、直樹の望んでいた事。
だが、ひとつだけ、直樹は宝琳院庵に聞きたいことがあった。
「宝琳院。お前はどうするんだ?」
直樹の問いに、宝琳院庵は腕を組み、首を傾けた。
「さて、人に混じってその生を観るのは、ボクのライフワークのようなものだからね。このままじゃいずれにせよ、長く世に留まれないし……また、人の胎を借りて赤ん坊からやりなおすさ」
それが一番楽だしね、と、彼女はつけ足した。
「駄目だ」
おそらく、もっとも穏当に済ませられるであろう宝琳院庵の考えに、直樹は否をつきつけた。
「ほう? どうしてだい?」
宝琳院庵が、珍しく意外の表情を作った。
言うまでもない。
直樹にとっての日常には、宝琳院庵も含まれるのだ。
失って初めて、直樹は当たり前のようにみんながいる尊さに気づいた。
もうそれを、手放したくなかった。だれかが欠けるなんて許せなかった。
「そんなこと、決まってる」
だから直樹は、宝琳院庵なら断れない、とっておきの手を使う。
「明日、もう学園祭だ。みんなそのために、遅くまでがんばったんだ。その結果をみんなで見たいし、お前とは、それを肴に話してみたいんだ」
自信たっぷりに言い切った直樹に、円も宝琳院庵も肩を落とした。
「そんなことで、ボクに宝琳院庵に戻れと?」
「そんなことだから(、だ」
直樹は、言い切った。
「いつの間にか、当たり前になって、当然のように感じてたけど、そんな当たり前が、俺にとってはかけがえのない事なんだって気づいた。みんなで共有する思い出一つ一つがどれほど大切か、わかった。それを、たかがゲームで死んだくらいで台無しにしちゃいけないんだよ。宝琳院、俺はみんなと思い出を作りたい。俺のために、戻ってきてくれ」
直樹の言葉に、宝琳院庵は面食らったように目を見開いた。
まるで子供の我儘のような、理屈になっていない理屈だった。
沈黙はたっぷり一呼吸。
ややあって、宝琳院庵は笑いをこらえきれないと言うように、声を漏らす。
「ふ、ふ、はっはっは、なるほど、至言だ。たしかに、たしかに宝琳院庵に戻る程度の労力と比較すべき事じゃない――ボクも、キミたちと学園祭を楽しみたい」
ためらいなく、宝琳院庵は魔法陣の外へ足を踏み出した。
その足に、腕に、どこからか飛んできた塩が絡んでくる。それとともに、宝琳院庵を取り巻く瘴気のようなものが、急速に収まっていく。
瞬きひとつする間に。
いつも通り、ごく当たり前の、ただの人のような、宝琳院庵の姿がそこにあった。
彼女は直樹に歩み寄り、手の甲を、直樹の胸に当てた。
「直樹くん、言ったからには責任を取ってもらうよ。明日一日、つき合ってもらうからね」
満面の笑みを浮かべる彼女に、直樹は、不覚にも頬が紅潮するのを感じた。
「駄目。直樹は、私と行くから」
横合いから円が直樹に腕を絡めてきた。
その様子に、宝琳院庵がニヤニヤ哂いを浮かべ。
「――さて、直樹くん。龍造寺くんからもお誘いがあったようだが、どうするね」
爆弾を投げかけた。
「さん――」
「三人で行こう、は駄目だぞ?」
円が釘を刺した。
いきなり逃げ口を塞がれ、直樹は窮地に立たされる。
そんな直樹に意地悪な笑みを向けて、宝琳院庵はとんでもない提案をしてきた。
「どちらと行きたいか、直樹くんに選んでもらおうか。好きなほうを指差しで(、ね?」
じりじりと追い詰められていく。
直樹は脂汗が流れるのを自覚した。
「直樹」
「直樹くん」
ふたりとも容赦ない。
直樹は息を飲み込み――殴られるのを承知で、左右の手で指差した。
ユビサシ 了