ボン、と、音がした。
美咲を形作っていた輪郭が、淡い音を立てて崩れていく。
同時に、直樹は聴いた。薄いガラスが割れるような音を。それがなにを意味するのか、すぐに気づいた。
「円――数字が」
直樹は円の頭上を示す。彼女の、それに諫早直の頭上に浮かんでいた数字が、消えていた。
「……消えたようだな」
円も、直樹を見て確認したのだろう、淡い安堵の表情を見せた。
数字が消えた。
それは、無事死のゲームを乗り切った事を意味する。
だが、失った物は、あまりにも大きかった。
悪魔を見つける。そんな馬鹿げた事のために、人が死にすぎていた。
多久美咲の残骸を見ながら、直樹は思う。
彼女は何故悪魔などを喚ぼうと思ったのだろうか。
興味本位だったのかもしれないし、切なる願いがあったのかもしれない。
それも、もはや知る事はできない。
だが、直樹は思う。
悩みがあったなら打ち明けてほしかった。
叶えたい願いがあるなら、相談してほしかった。
なにも直樹でなくていいのだ。
諫早直でも、龍造寺円でも、クラスのほかの女子でもいい。悪魔なんてつまらないものに頼る前に、身近に頼れる者があると、気づいてほしかった。
だけどそれも、もう遅い。
みんな死んでしまったのだ。
突然、耳鳴りが直樹の耳を打った。
悪寒が、直樹を襲う。
空気が一変した。
時計の逆回しのように、世界がふたたび反転する。
正常が、異常に返る。
それは、あの悪夢の再現。
「ガァァッデェム! やってくれたな。オメデトウくそ野郎共! HA-HA!」
悪魔が、虚空から姿を現した。
「推理は正解だぜ! ただチョーット足りないところがあるけどな! HYA-HAHAHA!」
目論見が破れたにもかかわらず、壮絶に馬鹿笑いする悪魔。
だが、それはもはや悪魔の姿をしたものにすぎない。あの狂的な存在感や悪意は、どこかへ消え去っていた。
直樹はこの悪魔に恐怖を感じない。
だというのに、とてつもなく不吉な予感が、直樹を捉えて離さない。
「なにが足りない?」
円の問いは明快だった。彼女に恐れの色はない。
まるで人に対するように――ただ敵に対するように、円は惑わなかった。
「その三(、悪魔が召喚されるのはゲームが終わってからだって事さ! 人に寄生するような半端なカタチじゃなく本物、真性の悪魔がな! HYA-HAHAHA!」
「どういう、ことだ」
理解が追いつかない。
直樹は問い返すのがやっとだった。
「なんでこんなゲームを始めたと思う? このゲーム自体が、悪魔を呼び出すための儀式なんだよ HYA-HAHA! 数字は命の幻像(! そのやり取りこそが、悪魔を喚ぶ儀式なのさHA-HA!」
唐突に、直樹は思い出した。
“一体あの悪魔という存在は、何のために、このようなゲームを始めたのか、ということだよ”
そこまで目が届いていた、皮肉屋の少女が居た事を。
彼女に教えられたにもかかわらず、悪魔探しに気を取られ、忘れていた。
直樹は悔恨に歯嚙みした。
「――もっとも、五人じゃあチト足りない。足りないが、こんなときのために用意してあるのさ!」
悪魔の、にやりと笑う口が真紅の三日月を描く。
「教室の魔法陣、あれをチョチョイと弄っておいたのさ! それを通してオレのパーフェクトボディーがお出ましだ! HA-HA-HA-HA!!」
悪魔のように哂い、悪魔は教室の奥に飛んでいく。
「待てっ!」
直感的に剣呑さを感じ取り、直樹は追いすがった。
いま止めなくては、取り返しがつかない。
方法など考えてもいない。だが、足掻かずにはいられなかった。
「直樹!? まって!」
背中で聞いた円の声を無視し、悪魔の背中を追う。
だが、小回りのきく上に宙を飛ぶ悪魔は、教室の仕切りなど構わず越えていく。
悠々と飛んでいく悪魔を、歯ぎしりしながら直樹は追いかける。
三重に折り返してやっと最後の角を曲がろうとした、そのとき――背筋に悪寒が走った。
――この先に行ってはいけない。
本能が全力で体を制止させた。
抗おうにも、体の中でいう事をきくパーツが、一箇所も見つからない。
――この角を曲がれば、死ぬ。
それを直感でなく、実感として、事実として認識させられた。
ひやりと、冷えた感触が手に触れ、直樹は肩を跳ね上げる。
それが円の手だと気付いて、振り返り。
直樹は、頭から血の気が引いていくのを感じた。
円が。いつも無表情で、感情を面に出すのが下手くそな円の顔が、明確な恐怖の感情を刻んでいた。
「GYAAAAAA!!」
魂消るような悪魔の悲鳴が、壁越しに聞こえてきた。
「AAAAAAAA……■■■■■■ーー!!」
悪魔の声が意味を失っていく。
それは現れたときの巻き戻しのよう。
耳を覆いたくなるような長い断末魔の末、音が途切れたとき、直樹は悪魔が消えた事を知った。
なにが起こったのか、まるでわからなかった。
ただ、薄い板切れ一枚向こうには、あの悪魔より絶望的な“何か”があることが、たやすく知れた。
“其処に居る者。我が前に姿を見せよ”
鈍く、低い声が、聞こえてくる。
それは明確に直樹たちへ向けられたもの。
抗いがたい力に引きつけられるように、直樹は足を踏み出した。
――瞬間、命を鷲づかみにされた。
真綿で包まれるように、直樹は相手の視線に捕らえられた。
一刹那の間に、鍋島直樹という存在そのものが、相手の掌に落ち込んだ。
直樹は、視線を上げた。
二メートルほどの魔法陣いっぱいに、絶望が靄となって浮かんでいた。
漠然と人のカタチを取るそれは、さきの悪魔とは似ても似つかない。だが、それが同質の。同質で、はるかに圧倒的な存在であると、一目見て思い知らされた。
しかし。
直樹は同時に奇妙な違和感をおぼえた。
その正体がわからぬうち、魔法陣の中の存在がわずかに揺らめいた。
“よくぞ悪魔のゲームを乗り越えた”
発せられたのは、意外にも賞賛。
だが音が波打つたび、直樹の心臓は直接揺さぶられた。
“褒美に何でも願いを叶えてやろう。死後の魂と引き替えにな”
直樹は似たような話を聞いた事を、おぼろげに思い出した。
いつだったか、宝琳院庵との役体もない会話の中でそんな話を聞いたことを覚えている。
そこまで思いめぐらせたとき、直樹の頭にひらめくものがあった。
違和感の正体を知った。
否応なしに、すべての歯車が噛み合う。
“どうした? 思い悩むまでもない。この世の栄耀栄華も、世界の真理も、全てお前の物となるのだぞ”
悪魔の言葉は熱をもって直樹の心に響く。
それは、魂を魅了されたかのよう。
だが、直樹は惑わない。揺らぎもしない。
直樹は、確信をもってその言葉を口にした。
「――ふざけた冗談はよしたほうがいいぞ。宝琳院(」