三日が過ぎた。
多久美咲の無断欠席も、三日目だ。
親は捜索願いを出したらしい。つまり家にも帰っていないということだ。
「いったい、どこ行ったんだよ……多久」
駅の改札口。
吐き出される人の群れを眺めながら、直樹はため息をついた。
屋上の一件以来、直樹は時間を見つけては、美咲の行方を追っていた。
一人だけではない。直樹は彼女を探すため、自分が持つあらゆる縁故を頼って捜索の手を借りている。
あの、異常の力を帯びた多久美咲をどうにかするため、だけではない。もう一つ、直樹には彼女を追う理由があった。
諌早直。
直樹の幼馴染は、あれ以来ずっと寝込んでいる。
多久美咲が「悪魔さま」と呼んだ、異常の気配の主。
あれに触れられた直は、狂奔のあと、心を奪われたように虚脱したままでいる。
「いったい何があったのだ」
中野一馬。
親友にして諫早直の従兄弟である彼に問われた直樹は、満足な答えを返すことができなかった。
直樹自身、理解できなかったからだが、あの時は犯人扱いされても文句は言えない状況だった。龍造寺円が弁護してくれなかったら、どうなっていたことか。
その、円。
悪魔の力を得て魔女のような存在になった彼女でも、直を癒すことはできなかった。
円は美咲が直に何をしたのか、直接見ていない。それゆえ、彼女の心を鷲掴みにして離さない何かを、どうにもすることができないのだという。
宝琳院庵は、多久美咲がまたぞろ悪魔を呼び出し、異常の力を手に入れたのではないかと推測している。
“ユビサシ”の夜、悪魔召喚に使われたあの書物は、佐賀野高校三階図書室に、たしかに眠って貸し出された形跡はない。
だが、美咲が以前この本を借りた折、必要な部分を書き写していたならば、どうだろう。可能性は、否定できない。
しかし、どれだけ推し測っても、結局は確信に至らない。
結局。多久美咲に直接会って、問いただすことでしか、真実に行き着く手段はない。
そして多久美咲の「悪魔さま」の正体がわからなければ、諌早直を回復させることもまた、叶わないのだ。
「多久。お前はいま、どこにいるんだ」
つぶやきながら、直樹は“ユビサシ”の夜を思い出す。
人の命が、紙屑のごとき軽さで奪い、奪われていった悪夢の一夜。
屋上で諌早直に対したときの多久美咲は、まさしくあの領域の住人だった。
「――ひょっとして、まだお前、あの夜を彷徨ってるのか」
日中だというのに、あたりは薄暗い。
駅の外を見れば、雨。空は分厚い雲に覆われている。
「雨、か」
薄暗い天を見上げながら、直樹はつぶやく。
その手は、強く握りこまれている。
直樹は悔しい。
あの夜を、いまだ乗り越えられていない、自分の無力が悔しいのだ。
◆
駅前の喫茶店“RATS”。
苦い思いを噛みしめながら、直樹は注文した紅茶を口にする。
疲労を覚え、ひと休みするために入ったのだが、まったく寛げていない。
雨は止まず、むしろ勢いを増すばかりだ。日中とは思えない暗さで、外を行きかう人間の顔立ちすらはっきりと分からない。
そんな、何もかもが不安定な時を見計らったように。
「――おや。直樹じゃないかい」
その声は、かけられた。
聞き覚えのある声だった。
見ると、テーブルの間仕切りに体を預け、一人の少女がこちらを見下ろしている。
年のころは、一見直樹と同程度。整った顔立ちを緩めたい放題に緩めた少女の顔は、忘れようがない。
二ヶ月前、“ユビツギ”の事件に遭った時、直樹に適切な助言を与えてくれた自称“おねーさん”だった。
「あんたは」
「おねーさんだよ、直樹。わたしのことはそう呼んでくれって言ったじゃないか……ともあれ、直樹、またぞろ悩み事を抱えているみたいだね」
いつかのように、少女は猫のごとき笑みを浮かべ、言った。
「――良ければ、おねーさんが相談に乗ろうか?」
その、提案を。
直樹が断れるはずがなかった。
注文を通した彼女は、届いたホットミルクに呆れるほど砂糖をぶちこみ、おまけとばかりに直樹のミルクティーにまでスティックシュガーの洗礼を浴びせた。
いわく。
「頭の疲れにはこれが一番」
たしかに砂糖は即効性の高い脳のエネルギー源だが、彼女の場合、明らかに過剰摂取だった。
そんな砂糖ミルクを舌で舐めとるように啜りながら、一通り話を聞いた少女は、すべてを理解したように深くうなずいた。
「なるほど。直樹のトモダチが、ねえ」
友達、という言葉に、彼女は妙な抑揚をつけた。
多久美咲が屋上で見せた異常な好意は説明しなかったが、彼女には、なにか察するものがあったのかもしれない。
「――それで、直樹はどうしたんだい?」
「助けたい」
直樹は即答した。
諌早直を救う。これは当然だ。
だが、それ以上に。直樹がやりたいことなど、半年前から決まっている。
多久美咲を助けたい。彼女の悩みを支えたい。彼女を悪魔の誘惑から――救いたい。
「俺は多久を……引きずってでも、日の当る所に戻したいんだ」
決意の声は、静かで、強く。
だからこそ、それに応える冷めた声は、いやでも直樹の耳を打った。
「なるほど。でも、おねーさんは協力できないかな」
「……理由を聞いていいか?」
奇妙な既視感を覚えながら、直樹は問い質した。
対する少女は、小憎らしいほどに落ちつき払っている。
ゆっくりと、言い聞かせるような調子で、彼女は口を開いた。
「言ったろう? おねーさんはおねーさんの都合でしか、動くつもりはないって」
「ああ」
「だから今回の件には、おねーさんは直樹に協力できない。おねーさんにはおねーさんの都合があって、それは直樹の都合とは相容れないから。分かるかな?」
言葉の意味は、わかった。
だからこそ直樹は耳を疑った。
今回の件に、自分は一枚かんでいる。
目の前の少女は、まさにそう言っているのだ。
直樹は、少女を見る。
整った顔を緩めた美少女。
その、半ば閉じられたような瞼の奥で、漆黒の瞳は強く輝いている。
――まるで、油断させた獲物を捕らえんとする猫のように。
ぞくりと、寒気がした。
考えてみれば、直樹は彼女の名も知らない。
そのことに淡い恐怖を覚えながら、直樹は問う。
「お前は……いったい、何者なんだ」
「……おねーさんはね、とても頭のいい人なんだよ」
問いには直接答えず。
彼女は眠るような眼を見開き、話し始めた。
「――創造力が豊かと言った方がいいかな。キャラクターと環境さえわかっていれば、そこで何が起こりうるか、どんなドラマが生まれるのか、ありとあらゆる可能性が分かってしまうんだ」
矢継ぎ早。少女は早口で滔々と語る。
「面白くないだろう? まるで退屈そのものだろう?」
「だから、おねーさん、いつもいつも眠ってるんだけどね」
「だからおねーさんは、おねーさんの確定予測を突き抜けてくれる人間が大好きだし、そういう要素を作りだすこともしてきたんだ」
目は爛々と輝いている。
さながらそれは獲物を狙う猫科の猛獣のような。
血の気が引いていくのを感じながら、直樹は再び名を問うた。
「言い忘れていたね。おねーさんの名前は秀林寺寝子」
少女は名乗った。
それはもっと早く尋ねるべきだったと後悔させるには十分な名。
もはやはっきりと見開かれた目に吸い込まれそうな錯覚を覚えながら、直樹は続く彼女の言葉を聞いた。
「――今回に限っては……直樹の敵さね」
同時に猛烈な睡魔の波が直樹を襲った。
そういえば。この少女、直樹のミルクティーに手ずからスティックシュガーを入れていた。
似合わぬことをするものだと思っていたが、睡眠薬か何かを混ぜていたのだ。
「くっ」
直樹は耐えた。
抗いがたい重力を伴う睡魔を、歯を食いしばって堪えた。
ただ強い意志だけで、耐えがたい欲求をはね退け意識をつなぎとめた。
だが、つぎの瞬間。首筋を襲った、あまりにも的確な衝撃に、睡魔と意思との拮抗はあっさりと崩れ去った。
「直樹が睡魔に耐えることができるなんて、出会ったときから知っていたよ」
意識が闇に沈む直前、直樹は至極つまらなそうな少女の声を聞いた。