春。桜の季節。
在学生にとっては、しばしの休息の時期。
長期の休みを満喫するのは誰も同じで、それは例えば市立佐賀野高校生、多久美咲(たく みさき)も同じだった。
暖かな日差しの恩恵を満身に受けながら、日がな一日ぼーっとしているのが常態で、友人たちの間では生命活動の有無すら論じられる日々を送る彼女も、たまには友人と遊びもする。
その日、美咲が遊ぶ約束をしていたのは、中学生の時、彼女と最も仲のよかった友人だ。
美咲とは別の高校に進学したせいで頻度こそ減ったものの、同じ趣味を持つ者ということもあって、いまでも一緒に遊ぶ仲だ。
趣味というのは、オカルトやおまじない関係のこと。
中学生の時は、前世とか何とか、現在の美咲が思い返せば悶絶しそうなことをやっていたものだ。
まあ、そんな仲なので、会った時の話といえば、どうしてもオカルト関連に偏ってしまう。
美咲としては恋愛相談なんかもしてみたいと思うのだが、まあ、普段仲間の居ない趣味人と言うのは、同じ趣味の人間と話す機会には自重しないものだ。
結果として、美咲はオカルトとおまじないとジンクスと学校の愚痴が入り混じったものを、数時間にわたって聞かされる羽目になってしまった。
とはいえ、美咲も嫌いではないのでさほど気にしていない。
というより、おっとりしている美咲は、次々とまくし立てる友人に口をさしはさむ機会を逃し続けながらも、けっこうそれを楽しんでいた。
そんな、彼女にとってはありきたりな日常の中で。
「美咲ちゃん、そういえば、――って知ってる?」
多久美咲は、運命に出会った。
◆
春休みが終わり、新学期が始まった。
新たな気持ちで迎えた高校生活最後の春は、どこかせわしない。
そう感じるのは、やはり卒業後のことを否応なしに考えさせられるからだろうか。
「将来、ねえ……」
つぶやいてみて、鍋島直樹はため息をついた。
教室の窓から見える外。グラウンドの周りでは、真新しい制服の少年少女が、初々しい笑顔で行き来している。
一年生のころは、将来のことなど考えもしなかった。
二年生でも、二学期の頭くらいまでは、友達と遊ぶことに夢中だった。
もし直樹がそのままだったなら。三年生になった今でも、あるいは変わらないままだったかもしれない。
しかし、文化祭前夜。
“ユビサシ”の事件が、直樹のすべてを変えた。
名を呼び、指をさす。その行為だけで人が死ぬ。
生き残るためには、仲間の中に紛れ込んだ悪魔を指名しなければならない。
そんな悪魔のゲームに引きずり込まれ、直樹は否応なしに人の狂気と、己の無力さ愚かさに気づかされた。
その後も“ユビオリ”の事件。“ユビキリ”の悪夢。そして“ユビツギ”の謀略に関わり、平凡な人生であれば一生かけても起こり得ない濃密な経験を経て、直樹は成長してきた。
だが、それが果たしてまっとうな成長かと問われれば、直樹自身、首を傾げるしかない。
普通ならば。
三年間の高校生活、仲間たちと一緒に勉学に励み、文化祭や体育祭などの行事をともに営み、気の置けない友達と遊び、恋愛の一つや二つ、経験する。
年上には面倒を見てもらい、同学年とは手をつなぎ、年下の面倒をみる。小中学生から続く小さな社会を営みながら、大人への階段を上っていく。そんな成長が、おそらくは望ましいのだろう。
それに比べて、直樹が経験したことは、どうだろう。
いびつで、悪意と憎悪と負の感情に満ちていて、真っ当な成長に必要とは思えないものばかりだ。
――だから自分の進路一つ、まともに決められないのかもな。
知っている適当な学校名をあてはめることしかできなかった進路希望調査のプリントを思い返して、直樹はまた、ため息をついた。
直樹の悩みは、的外れではないが、やはりすこし違う。
なんとなく。行ける所へ。あるいは、将来を先延ばしするために。
進路を決めてしまう人は少なくないし、それはけっして間違いではない。
現在決める力がないなら、自分の成長を待って、十分な情報を得てから決めようという選択は、それはそれでひとつの方法だ。
だが、直樹は精神的に成長してしまったが故に、進路を決めるには明白で明確な意思と確信が必要だと思いこんでしまっている。
それゆえに、悩んでいるのだ。
「やっほー直樹くん」
と、唐突な声が、直樹の思索を破った。
聞きなれた声だ。振り返らずとも、直樹には誰だかわかる。
「諫早」
憂鬱を引きずった声で返しながら、直樹は顧みた。
そこに居たのは、予想通り。ショートヘアの、凛とした雰囲気の美少女。
諫早直(いさはや なお)。
直樹の幼馴染にしてクラス委員の少女である。
本人、胸が無いのを気にしてはいるが、細身で均整の取れた彼女のプロポーションを羨む女子は多い。
「よう」
直樹が声をかけると、「や」と手を上げてから、少女は直樹の前の席を蹴飛ばして寄せ、座った。
「い、椅子がうらやましい」
遠くで席の持ち主がつぶやいたのが耳に入ったが、直樹はあえて聞こえないふりをした。
それがクラスメイトの神代良(くましろ りょう)の声だということも、今後の健全な友人関係のために気づかないでおく。
「直樹くん。アンニュイってるねー。なんか憂鬱でも?」
「……進路の決まってる諫早にゃ無縁の悩みだよ」
直樹は拗ねたように返した。
この優等生なクラス委員は、すでにして自分の将来を教師と定めており、そのために自分が行くべき大学すら明確に定めている。
「あー、進路か」
納得げに微笑んでから、諌早直は直樹に顔を寄せてきた。
造りの小さな顔立ちはよく整っていて、理想的に配置された大きな瞳が輝いている。
その片方を閉じてから、この美少女は直樹に向けて、拝むように手を合わせてきた。
「お悩みのところ悪いけどさ、直樹くん、ちょっと相談に乗ってくれないかな?」
「いいけど……なんだよ」
「美咲さん。彼女、最近ちょっと変なのよ」
直樹の耳元で囁くように、彼女はそう言った。
多久美咲。クラスメイトの名だ。
“ユビサシ”の事件で密接に関わってしまったものの、直樹としてはただの級友の一人であり、特別親しいというわけではない。
それを疑問に思いながら、直樹は事情を尋ねた。
「変、って、なにがだ?」
「素行がおかしい――ってのはオブラートに包み過ぎかな」
と、言葉を切って、少女はすこし躊躇ってから口を開いた。
「あのね、最近彼女、妙な宗教にハマってるみたいなの。その相談」
「宗教?」
唐突な話だが、直樹は驚かなかった。
オカルトやおまじないが好きで、それが高じて悪魔まで呼び出してしまった彼女である。宗教にハマる素養はたっぷりとある。
「ちょっと心配でね。もともとのほほんとした子だったけど、今は話がいまいち通じなくて、怖いっていうか」
それを聞いて。
直樹は思い出した。
誰にも相談せず、一人悩み、ついには悪魔を呼びだそうとした美咲と、その結果生まれた惨劇の夜のことを。
あの日、直樹は強く願った。
悪魔なんてわけの分からないものの力を借りるより、友人を、クラスメイトを、そして自分を頼って欲しかったと。
だったら。
この、諫早直の相談に対する答えなど、最初から決まっていた。
「わかった。俺も何か考えるから、直は多久のことを気にしといてくれ。できれば相談に乗ってやってくれ、頼む」
あのとき、後悔でしかなかった想いを言葉にして、直樹はこの、面倒見のいい幼馴染に頭を下げた。
「了解、まかせて」
と、直は席を離れていった。
タイミングを見計らったように、空いた椅子に滑り込んだのは、もう一人の幼馴染の少女。
「円」
龍造寺円。
諌早直とは対照的に長身だが、長く美しい髪と、輝くような美貌は学内でも際立った存在感を示している。
昨年から続く異常な体験を共有する数少ない人物の一人にして、元凶であったこともある。直樹にとって家族にも等しい幼馴染だ。
「よ、よし、今日は椅子を持って帰る!」
やっぱり遠くから神代良の声が聞こえた気がしたが、聞こえないことしておく。
心配しなくても、彼の兄貴分で突っ込み役の鹿島茂(かしま しげる)が良の暴走を止めてくれるだろうことを、直樹は確信している。
「直樹。なんの話だった?」
「多久が妙な宗教にはまってるらしい。相談された」
顔を近づけ、尋ねてきたので、直樹は円の耳元で説明した。
あまり広めていいような話では無いため、やむなくとった措置だったが、直樹に向けられる無言の殺気が、クラスメイト達が抱いたであろう誤解を明確に物語っている。
「そうか」
直樹の説明に、円はどこか不満げだった。
説明不足ゆえ、ではないだろう。明敏な円は、さきの言葉だけで、幼馴染ふたりがどのような会話をしたのか、脳内で再現できる。
「なんだよ」
それでもっと見てくる円に、直樹は眉をしかめ、返した。
幼馴染の少女は目を眇めて、珍しく粘着質な声で、こうつぶやいた。
「直の言うことはよく聞くんだな。いやらしい」
「おい、捏造すんな。俺は別に諫早の言うことだけ特別聞いてるわけじゃねえ」
事実ではないが、無根でもない。
なにより円にそんな皮肉めいたことを言われると思っていなかった直樹は、妙に図星を指された気になって、焦りながら返す。
「どうかな。私の言うことは、三割くらいは却下されてる気がするが」
「それは直が基本正論家で、お前が最近常識はずれなことばっかりするからだ」
“ユビキリ”の悪夢以降、この幼馴染は手に入れた悪魔の力を便利に使うことにためらいがない。
円に真っ当な人間として生きていって欲しい直樹としては、どうしてもそれを止めざるを得ないのだ。
まあ、円に悪魔の力を使わせたくない一番の原因として、円が直樹の夢の中に遊びに来た時、ちょうど直樹がいやらしい夢を見ていたことがあるのだが。
直樹の弁明にしばし目を眇めていた円だったが、ふいに彼女は、くぁ、とかわいいあくびをしはじめた。
「寝不足か? そういや今朝もあくびしてたな」
直樹はこれ幸いと話題を変える。
その意図が分からぬはずはないだろうが、円はああ、と素直に頷いた。
「なんだか最近名前を呼ばれる気がしてよく眠れない」
「気をつけろよ――どうした」
話している途中、円が窓の外に目をやったのを見て、直樹は尋ねる。
「いや」
と、同じように首を傾けながら、なお外を見ている円に、直樹も視線を窓の外に移した。
「また、呼ばれた気がした」
偶然だろうか。
円の視線の先、道端の木陰には、多久美咲の姿があった。