突風が春めいた香りを運んできた、とある休日。
直樹は通い慣れた城東新町ではなく、そのひとつ向こう、城東駅で降車した。
新しく開発され、立派な繁華街になっている城東新町一帯にその地位を奪われてはいるが、かつては城東駅周辺が、城東地区の中心地だった。
その面影を偲ばせながらも、どこか寂びた風情の駅構内。
午前十時を半ばも過ぎたころ。一緒に降車したのは両手で数えられる程度で、だから改札の向こうで待ち構えるように立っている少女の姿も、すぐ目に入った。
光すら吸い込まれる漆黒の髪に、対象的に白い肌。
時代劇に出てくるオヒメサマのような容姿の美少女だ。
直樹の知人である。
クラスメイトにして友人である悪魔少女(比喩ではない)の三つ下の妹で、名を宝琳院白音という。
「お待ちしていました」
改札を出ると、歩み寄ってきた白音が口を開いた。
姉と違って完全な無表情だが、同じように感情の薄い龍造寺円と幼馴染やっている直樹である。どこかほっとした様子があるのに気づいている。
「お待ちしておりました。直樹さん」
そして、いつものように言葉を重ねながら。
「お待ちしておりました。直樹さん。どうか助けてください」
電話で連絡してきたときと同じように、助けを求めてくる。
少女の声音につられたように、直樹は硬い表情でうなずいた。
◆
「なんだって?」
直樹は声を上げた。
白音の家に向かう道すがらのことだ。
彼女が直面している困難について詳しいところを聞いては、そうせざるを得なかった。
この、親友に瓜二つの中学二年生は、無表情のままこう言ったのだ。
「料理を作りたいので手伝ってください」
またぞろ何か厄介な事件かと身構えていた直樹は、これを聞いて思い切り脱力した。
そんな態度が気に入らなかったのだろうか。白音はこれが自分にとって深刻な問題だということを精いっぱいに主張した。
どうも両親が外泊することになり、自分で料理を作る羽目になったらしい。
「つーかなんで俺」
「双子を頼れと?」
「それ以外にあてはねぇのかよ」
「年下ならなくもないのですが、同級生や年上にはいません」
「つーか、そもそもなんで料理をしようと? コンビニじゃ駄目なのか?」
直樹の問いに、白音は深刻な顔で言った。
「姉さまに、命じられたのです」
まあ、つまりはそういうこと。
ふたりで留守番をすることになり、家庭の指揮権を握った宝琳院庵が、その権限を発動し、家事の当番を割り振ったのだ。
ちなみに、宝琳院庵は料理ができる。
いつも彼女が持ってきている、ミニマムサイズの弁当箱の中身は、彼女のお手製だ。
そんな彼女が、わざわざ妹に料理させようというのは、彼女に料理を覚えさせようという親心に違いない。
しかし。
「かなり本気で挫折しそうです」
家に入り、台所に案内された直樹は、見た。
テーブルに広げられた皿には炭と生ごみが前衛的に盛り付けられている。
姉の期待に応えようと一生懸命やったのだろう。
だが、彼女に料理の才能は皆無らしい。異臭に鼻をつまみながら、直樹はこっそりとため息をつく。
「宝琳院は?」
「外出中です」
「ま、この臭いに気づかないほど、あいつも鈍くはないか……それで、俺に助けを求めたわけか」
「肯定です」
「でもな、白音。俺も料理はできんぞ」
「……それも予測済みです」
「なんだその、ちっ使えねーなこの先輩、みたいな表情は」
「直樹さんは勘が鋭すぎてやりにくいです」
「全肯定かよ! ちょっとは気を使って否定するふりくらいしろよ!」
直樹の突っ込みには答えず、白音は混沌と化した食卓を片づけ始めた。
直樹はそれ以上追及することに意義を見いだせなかったため、黙ってそれを手伝うことにした。
「ところで直樹さん、お知り合いに料理ができる人間は? 龍造寺先輩などは、直樹さんが呼べば飛んで来てくれそうですが」
「本当に来そうだからやめろ」
なんとなく背後を確認してから、直樹は肩を落とした。
最近人外っぷりに磨きがかかってきた彼女なら、比喩ではなく飛んで来かねない。
「あいつはな。料理自体は上手いんだけど……無理だ」
「どうしてです?」
「喰うんだよ。作った分だけきっちりとな。中学の時だったか、親がいないときに円に飯作ってもらったときあったんだけど、その時も本気で美味そうな料理作ってさ、涎垂らしてる澄香と忠の目の前で全部平らげやがった」
指をくわえて半泣きになっていた双子を思い出しながら、直樹は説明する。
「なんであのひとは、あれだけ完璧なのに、女性としてだけはすこぶる残念なのでしょう」
お前もたいがいじゃないか、と思いながら直樹は口にしなかった。賢明だった。
◆
「まあ、とりあえずいっぺん作ってみろ。どこがおかしいのか見てやるから」
一通り台所を片づけてから、直樹は白音に言った。
白音は神妙な顔で、では、作ってみます、と言って料理を作り始める。
レシピと作り方の載った本の通りだ。直樹の眼には、工程に問題はないように見える。
料理下手の基本とも言える無謀なアレンジもなく、それどころか完全に教科書通り。一見理想的な工程なのだが。
「これは……」
「オムライスが……魔界転生されました」
ふたりは息をのんだ。
どこかボタンをかけ違えたとしか思えない。
出来上がったオムライスは、異界の造形物と化してしまった。
直樹の眼には別段おかしいところは見られなかったが、どうも要所要所で失敗しているらしい。しだいに崩れていく形。人の口に入るものには不要な臭いは段々とその臭気を増し、ついには異界の法則が働いたとしか思えないものが生まれる。魔界転生とは言い得て妙である。
「一見ちゃんと料理で来てる風なのにな……ポイント抑えたら一気に上手くなりそうなんだけどな」
それをことごとく外しているが故の、この失敗なのだろう。
一種の才能と言っていい。
一朝一夕で改善できるとは、直樹にはとても思えない。
「なるほど……では、もう一度やりますので、直樹さんはチェックをお願いいたします」
だが白音のほうは直樹の、指摘とも言えない感想に一定の価値を見いだしたらしい。
真剣にうなずくと、魔界転生したオムライスを脇にやり、再びレシピとにらめっこしながら料理をしはじめる。
そのひたむきな様子に、直樹は素直に感心した。
「白音」
「なんですか直樹さん?」
「お前、えらいな。駄目だったらコンビニ飯で済ませることもできるのに」
正直な話、直樹は白音を安く見ていた。
困難に当たればこれを乗り越えようとせず、賢く立ち回ってそこから逃れる。そんな傾向のある少女だと思っていた。
だが、目の前の少女は、真剣に、ひたむきに、困難に正面から挑んでいる。
「姉さまを失望させたくないのです」
直樹の言葉に、白音は静かに答えた。
「姉さまは、必要がなければ日常会話すらまったくしない人間です。だからと言って心が通ってないとは言いませんが……本当に少ないんですよ。姉さまが私を頼ってくれることなんて」
たとえそれが、白音に家事を覚えさせるための口実だったにせよ。
小声で呟きながら、白音は続けた。
「ですので、本当にうれしいのですよ。今回のことは」
料理ができないからといって、宝琳院庵は失望しない。
だが、料理ができないからとあきらめれば、おそらく彼女はがっかりすることだろう。
それがわかるからこそ、白音は頑張るのだ。姉の期待に応えるために。
「……おまえはほんとにえらいよ」
「照れます」
しみじみと言った直樹に、白音がわずかにほほを紅潮させた。
ちょうどその時である。
かちゃり、と小さな音とともに、部屋の扉が開いた。
猫のごとく無音で、その奥から姿を現したのは、宝琳院白音と瓜二つの少女。
宝琳院庵。
直樹のクラスメイトにして親友。そして白音の三つ年上の姉だ。
「宝琳院」
「やあ、直樹くん。なにやらいい雰囲気だったみたいだね……お邪魔だったかい?」
いつも通り、顔ににやにや笑いを貼りつかせて、悪魔は笑う。
たしかに。部屋にふたりきりの少年少女。少女のほうはわずかにほほを染めている。いろいろと勘ぐれる状況である。
「いえ、姉さま、それは誤解です」
白音が妙にあわてた調子で否定した。
姉のほうはすこし意地悪な微笑を浮かべるのみだ。
それを見て、また白音があたあたと弁解めいたものを口にする。頭のいい娘だが、この少女、あんがい想定外の事態に弱い。
――宝琳院のやつ、分かってて意地悪してんだろうなあ。
紙切れ一枚ほどもやましいところの無い直樹は、ふたりの様子をほほえましげに見ながら――放りっぱなしになっている炒め物に気づいて、あわてて火を止めた。
◆
耳まで赤くなっていた白音がようやく落ち着くと、不意に直樹と宝琳院庵の目が合った。
黒髪の悪魔少女の視線は、そのままテーブルに向かい、そこに降臨されたオムライス(魔界転生)で止まる。
「それにしても直樹くん。ありがとう。うちの妹が世話になったようだ」
「たいした事、してないけどな」
苦笑を浮かべながら、頭を下げてくる少女に、直樹は頭をかきながら応じた。
「それで、姉さま……昼食なのですが」
白音がおずおずと口を開いた。
すでに昼前になっているが、出来上がっているのはオムライス(魔界転生)と、直樹が気づいて火を止めたおかげで惜しくも完全体になれなかった炭(80%)のみだ。
「ふむ、そうだね」
白音の言葉に、宝琳院庵は珍しく口に出して答えた。
「白音には、もうひと頑張りしてほしいところだけれど……お客様もいることだ。今日は一緒に作ることにしよう」
「姉さま」
やさしい笑みを浮かべる姉にたいし、無表情な妹はわずかに口の端をあげた。
それからふたりは、肩を並べて料理を作り始めた。
切られた食材は、多少不揃いだったが、宝琳院庵が重そうに持つフライパンの中で踊ると、魔法のように食欲をそそる香りを放ちだす。
妹がミスをしそうになるたび、姉が肩を叩いてそれを教えてやる。
ふたりがテーブルに並べた料理は、先程のそれが嘘のように、誰が見てもおいしそうなものだった。
「さて、料理ができたよ。直樹くん、もちろん味見してくれるだろうね?」
料理をまえに、宝琳院庵は笑いかけてくる。
「ああ、もちろん」
と、直樹は微笑み返した。
◆
「ところで直樹さん」
食事を前に、白音が話しかけてくる。
「なんだ?」
「今日は本当にありがとうございます。なにかお礼ができればいいのですが」
「いいって。手料理喰わしてくれるなら、それで十分だよ」
配膳を手伝いながら、直樹は笑って答えた。
「でも……あ、そういえば姉さま。食事の邪魔になるので、髪をまとめて差し上げますね」
宝琳院庵がこくりとうなずくと、白音はいそいそと姉の長い髪を高く結いあげ始めた。
光さえ拒むような黒髪の隙間からちら見える白いうなじに、直樹はどきりとしてあわてて目をそらした。
その反応を見て、悪魔少女がにやりと笑う。
「ふむ、ひょっとして、この髪型にすることが、直樹君へのご褒美になるのかい?」
獲物を見つけた猫の眼つきだ。
――なんて奴に教えてやがるんだ時江。
直樹は、白音に情報を漏らしたであろう少女を恨みつつ――とりあえず直接の元凶である白音にたいして、恨みがましく目を眇めた。