宝琳院庵。
中野一馬。
かけがえのない友人だったふたりを、直樹は一瞬にして失った。
いや、ひとりは、おのれの明確な意思のもと、殺した。己の命と親友と、天秤にかけて、浅ましく自分を選んだのだ。
諫早直は、下を向いたまま動こうともしない。
声をかける事もためらわれるような、そんな態度が、直樹には、無言の責めであるように思われた
直樹は涙を禁じた。悲しむ資格など、直樹にはない。
もとより、そんなところはとうに通り過ぎていた。いまの直樹は、自らの五体をなにかに叩きつけてすり潰してしまいたい。そんな思いに駆られている。
直樹もまた、心が死んでしまっていることに、本人は気づいていない。
「直樹」
見かねて円が声をかけた。
「一度教室に戻ったほうがいい。多久も、一人にしておくわけにもいかない」
目を向けて、直樹は円の瞳に悲しみの色が浮かぶさまを見た。
そして気づいた。
――いまは。この悪夢が終わるまでは。
直樹は無気力であることなど、許されないのだ。
宝琳院庵が殺され、中野一馬を殺した以上、龍造寺円を、諌早直を、多久美咲を守るのは、もはや直樹しかいないのだ。
直樹は半ば死んだおのれの体に鞭を入れた。
「一度、戻るか」
直樹が口に出していったのは、諫早直に聞かせるためだった。
ひとりにさせておくのは心配だったが、一馬を殺した張本人である直樹や円がいても、逆効果でしかない。
「俺たち、教室に戻ってるから」
頑なに下を向き続ける彼女にそれだけ言って、直樹たちは図書室を出ていく。
「待って」
背後から、直のか細い声が上がった。
「大丈夫、だから。行けるから」
そう言って健気に、直は無理やりの笑顔を造ってみせる。
その目が、死んでいる。
いっそ無残なその姿に、直樹は声をかけることもできず、ただ、直に合わせて歩速を緩めることしかできなかった。
校舎の中で、唯一灯りがついた彼らの教室は、だというのに暗く沈んでいた。
仕切ってあるせいで、やけに狭く感じた教室も、いまはうそ寒いほど広い。
三人が教室に入ると、その音が耳に障ったのだろう、多久美咲の目が薄く開いた。
寝ぼけ眼の少女は、かるく頭を振って、ようやく視線をこちらに向けてきた。
「あ……ゆめ、じゃ、ないの?」
美咲は戸口に立つ直樹達をぼうっとみて、口を開いた。
「神代くんは?」
言う間に、状況を思い出したのだろう。美咲の顔がどんどん青ざめていく。
「中野くんは? 宝琳院さんは? いったいどうしたの?」
美咲の質問に、直樹は答えることができなかった。
それが、なによりの、答え。
美咲は後じさった。面に浮かぶものは、怯えというより、恐怖に近い。
「多久――」
「来ないで!」
美咲のあげた叫びは、明確な拒絶。
「おかしいよ! わけ分からない! 近寄らないで!」
彼女の言葉に、直樹はあらためて傷を抉られた。
神代良と中野一馬を殺したのは直樹である。
鍋島直樹はふたりの人間を殺した。たとえそれが身を守るためだとしても、言い訳してはならない、事実なのだ。
多久美咲が直樹に向ける視線は、まるで怪物を見るようだった。
それでも、直樹は現状を彼女に伝える義務がある。
口を開こうとして、直樹の肩に手が置かれた。
手の主――円が、首を横に振る。
いまの彼女には、言葉は通じない。興奮した彼女を刺激しないほうがいい。
無言の言葉が、明確に伝わってきた。
直樹はあきらめて、地面に腰をかけた。
美咲は、警戒するように距離を置き、やがてその場で座り込んだ。
廊下側と、窓側の壁際。
それが、美咲と直樹の心の距離だった。
伏した頭の奥から、すすり泣く音が聞こえてくる。
直樹は、ただそれを聞いているしかない。
いや。すべきことは、ある。
「――円」
決然と、直樹は声をかけた。
肩を並べて座る幼馴染は、揺れぬ表情で直樹を見ている。
「なに? 直樹」
「宝琳院が、お前なら見当がつくだろうって言ってたけど、どうなんだ?」
直樹は問うた。
彼女はわずかに目を伏せ、そして答えた。
「推論交じりに八割がた、といったところだが」
「それでいい、聞かせてくれ」
「――千葉先生」
ふたりの会話に、錆びたような高い声が割って入った。
諫早直だった。宙に視線を据えて動かさず、それでも声は直樹たちに向いていた。
「千葉先生も、巻き込まれてるかもしれない」
言われて、はじめて直樹はその可能性に思い至った。
なんとなく、死のゲームに巻き込まれたのは教室にいた八人だけだと思っていたが、よく考えてみれば職員室にいた彼女も、巻き込まれていないという保障はない。
「それは……考えていなかったな」
直樹は腕を組んで唸った。
「ひとりだけ安全なところに居たのなら、あの人が犯人かもしれない」
陰に篭ったような、直の声だった。
その様子に、直樹は漠然とした危うさを感じた。
「――わたし、行って来る」
「私も行こう」
決然と立ち上がる直に、円が同調した。
「俺も」
「いや。やめておいた方がいい」
諫早直の様子が不安になった直樹は、続こうとして、円に止められた。
「私と直樹は“仲間”だから、直樹は残った方がいい」
円が耳打ちした言葉が、すべてを語っている。
いまの直を、いたずらに刺激するわけにはいかない。直樹は残るしかなかった。
「気をつけて、行ってこいよ」
円たちの背に、直樹は声をかける。
軽く手を挙げて、円がそれに応えた。
階段を下りた正面にある職員室の中、扉を開けて右手の奥に宿直室がある。
ふたりは無言で歩を進めていく。
憑かれたように行く直の前を、円は静かに歩いている。
彼女もまた、ふたりの人間を、指さしで殺した。
にもかかわらず端正な顔に、罪悪も、悔恨もみられない。
龍造寺円には、生まれたときから欠けているものがあった。
感情である。
彼女は生来、希薄な感情しか持ち得なかった。
それゆえ、人がなぜ笑うのか、なぜ泣くのか、理解することができなかった。
だが、天性聡明な彼女は、物心つくころには、そんな自分を隠すことを覚えていた。
しかし、演技をすればするほど、自分が人形のように思えてくる。
感情を揺り動かすため、橋の上から河へ飛び込むような、あるいは走ってくる車の前に飛び出すような無茶もやった。
だがそんな訓練が、円によりいっそう怪物じみた冷静さをもたらした。
それもあきらめ始めた十一歳の春。円は直樹に出会った。
引っ越してきた実家の隣。そこに住む少年の顔を見たとき、少女の胸は高鳴った。
少年と話している間中、心臓が躍り上がっていた。少年の一挙手一投足が気になり、また、なに気ない会話すら、楽しくて仕方ない。
このような体験は、円にとって初めてのことだった。
おそらく、父親や友人に尋ねれば、すぐさま答えが返ってきただろう。
それは恋というものだ、と。
だが、自分の異常をひた隠しにしてきた円には、相談する相手などいなかった。
それゆえに。
龍造寺円にとって、鍋島直樹は、自分を人間にしてくれる無二の存在なのだ。
いま、直樹を残してきたのも、底にある理由は、直樹を危険に巻き込まないためだ。
彼女にとって、直樹を守るということは、自分の命よりはるか上位におかれるべき事項なのだ。
暗い階段を下りると、正面に職員室が見えてきた。扉に手をかけ、円はそろそろと開く。
音ひとつ立てずに中に入ると、諫早直も、それに続いた。
闇の中、雑然と並んだ机を縫って進んでいくと、奥のほうから明かりが漏れているのが見えた。
それを宿直室だとあたりをつけ、円はなお注意深く足音を殺しながら近づく。
と、部屋の中から声が漏れ聞こえてきた。
特徴的なその声色は、円たちにとって、聞きたくもない類のものだった。
「――てなわけだ! がんばってゲームやろうぜYA‐HA!」
「ふざけないで! わたしの生徒たちに指一本でも触れて御覧なさい。どんな手段を使ってでも、あなたを殺してやるから」
円は迷わず扉を開けた。
そこにいたのは千葉連と、あの悪魔。
悪魔を相手に、千葉連は一歩も引かず、相対している。その姿は、紛れもなく教師のもの。
「YA-! 大事な生徒さん達が来たぜ!? どうする? センセイよ! HA-HAA!」
嘲笑を残して、悪魔の姿はかき消えた。
その虚空にしばし視線をとどめ、ようやく気付いたのだろう。戸口に立つふたりを、彼女は顧みた。
「……あ、龍造寺さんに諌早さん、みんなは無事なの?」
心配そうな教師の顔、その頭上には“3”の数字が浮かんでいる。
円が答えようと、言葉を選んだ、一呼吸ほどの間。
円の背後から指が伸びた。
「諌早さん!?」
「千葉連!!」
直の声には一片の躊躇もない。
淡い驚きの表情を浮かべたまま、千葉連は塩の柱と化した。
「諌早」
円が、瞳を直にむける。
諫早直はそれに警戒するように一歩、間合いを外した。
「――これで、わたしの数字はあなたを越えた」
円は、片眉を上げた。
諫早直の貌は憎悪で歪んでいる。そこまでの憎悪をぶつけられた事が、円にとっては純粋に意外だった。
「一馬は慎重なヤツだから。宝琳院さんが“4”なら、わたしの数字は“4”以上。それに宝琳院さんの数字を加えて“6”。いまので“9”。やっと、あなたを殺せる数字になった」
「中野のことか」
そのことに思い至らなかったのは、円が鈍いからではない。
円は、直樹を通した感情しか知らない。
だから直樹に絡まない感情に関しては、円は極端に鈍いのだ。たとえそれが殺意であっても。
「あれは、やっぱり一馬が悪いんだと思う……でも、あいつは死んであなたは生きてる。そんなこと――許せない!」
静かに、そして迅速に、直の指先は円を捉えた。
あらかじめ計算を立てていた諫早直と、心理的な不意をつかれた龍造寺円。その差は歴然。
「龍造寺――」
だが、龍造寺円の身体能力は、その差を埋めてなお余りある。
直の口が最後の言葉を紡ぐはるか前に、円の拳は五歩の距離を埋め、直の腹に突き刺さっていた。
体重の乗った円の拳は、華奢な直の意識をたやすく奪った。
「護身術のひとつも習えば、間合いの取り方くらいわかったろうに」
軽くため息をつき、円は直を担ぎ上げる。
抵抗なく持ち上がる彼女の軽さに淡い羨望を覚え、円は口を引き結んだ。
部屋を出ようとして、円は足を止めた。顧みれば、千葉連であった塩の塊が地面に散らばっている。
「一番手ごわいと思っていたが、やはりスタートの差はいかんともし難かったな。
あなたがいつものようにぼやぼやしてる内に……こちらはとっくに覚悟をきめていたんだ」
言葉を投げ捨て、円は引き戸を閉めた。
円にとって、直樹さえ無事なら、だれが死のうと、どうでもいいことなのだ。