かつて城があった場所は、観光用に新築された一部を除いて、大部分が公園になっている。
公園ではあるが、もとは城だ。石垣や土塀、堀などはそのまま残っている。
龍造寺円が腰を下ろしているのも、そんな石垣の上だった。
季節はずれのぬるい風に髪をなびかせながら、彼女の視線は揺れることなく彼方に据えられている。
人通りはない。
地元のものなら、その事実を不思議に思うだろう。時節が外れているとはいえ、休日である。城跡を訪れる観光客は、少なくないはずなのだ。
にもかかわらず、龍造寺円が腰を下ろすこの石垣周辺だけは、ぱたりと人の足が絶えている。
円がそうしたのだ。
結界、とでも呼ぶべきものが、円の周囲に張り巡らされていた。
侵入者を拒むような剣呑なものではない。侵入者に居心地の悪さを感じさせる、その程度のものだ。
とはいえ、とうてい人間わざではない。
それができる存在に、いまの円はなっていた。
「悪魔の力を借りて、悪魔の力を行使する。そういう存在を、古来なんと呼ぶか、知っているかい?」
円は宝琳院庵の言葉を思い返す。
「魔女、と、呼ぶのだよ」
人でありながら、人ではない。
しかし円は思う。
人でありながら、人の心を持たなかった以前に比べれば、いまの自分のほうが、よほど人がましいと。
いまの円には、感情がある。
想うだけで暖かなものがこぼれてくるこの感覚が、自分のものであると、自信をもって言える。
それはなによりも尊く。
だからこそ、直樹に対して申し訳なかった。直樹が小指を失ったのは、ほかならぬ円の責任なのだ。
「気にするな」
と直樹は言う。
屈託のない、円の大好きな笑顔で。
そんな直樹の力になれるのであれば、魔女としての己を否定すまいと、円は心に決めていた。
遠く見えるは御城手前の駅。そちらから吹く風は温い。
だが。
唐突に湧き上がった違和が、黒いもやとなって円の心に沁みてきた。
あまりにも明確な不吉の予感。それを生じさせたのは、ひとつの気配である。
円の結界をつきぬけ、確たる意思をもって近づいてくる存在を、円の鋭敏きわまる感覚は捉えていた。
砂利を撥ね退ける音。気配は薄皮をはぐように明確になってくる。敵意と闘志。わずかに恐怖が混ざった感情の波が、円には視えた。
「キミがそれでいいと言うのなら、ボクとしてはなにも言うまい。だが、くれぐれも気をつけたまえ」
身構えながら、円はふいに宝琳院庵の忠告を思い出していた。
「人にとってキミの存在はすでに異物であり――異物は、常に狩られるものなのだから」
そして彼女は現れた。
同年代の少女だった。
鷹のごとき瞳は強い意思を宿し、五体すべてが明確な己のもと、律せられている。
凛然と。そう評すにふさわしい姿。結い上げられた髪は、刀の下げ緒を思わせる。
一振りの太刀のごとき少女は、車椅子に乗って、ゆっくりと姿を現した。
「まさか。本物とはな」
感情をゆるがせないままに、少女は口を開いた。
刃のごとき言葉に応じるように、円は立った。立たざるを得なかった。
この、車椅子に乗った、せいぜい高校生位の少女は、いままで円が出合ったどんな人間よりも強い。
「何者だ」
誰何に、少女はためらいなく名乗った。
「立花雪」
ゆっくりと、少女は車椅子から立ち上がった。不自由な仕草に偽りはない。左足が利かないのはあきらかだった。
「お前のような化生を……討つ者だ」
切りつけるような言葉とともに、立花雪は抜いた。
稲妻が弧を描いたように、円の目には映った。
コール音が留守電に切り替わった。二度目だった。
直樹は沸きだしてきた焦りを押さえつけながら、携帯を切った。
「また、出なかったの?」
「ああ」
耳をそばだてていた時江に、直樹はため息とともにうなずく。
「状況を整理すると」
視線を宙に浮かべながら、時江は難しい顔になる。
「あたしたちは、くっついてしまった手を、一刻も早くなんとかしなきゃいけない。
そのためには専門家が必要で、直樹さんにはその心当たりがある。だけどその人とは連絡がつかない」
そこではたと止まり、時江は困ったように眉寝を寄せた。
「まずくない?」
拙い。思い切り拙い。
とはいえ、拙さばかり言い立てても、状況はよくならない。
「とりあえず、あいつの家のほうにかけてみるよ」
再び携帯を操作し、円の自宅の番号を呼び出す。
数コールのあと、つながった。出たのは円の父だ。
どこかのんびりした調子で、「なんの用かな」などと尋ねてきた。
「おじさん。円は家にいる?」
「居ないよ」
質問に、期待した答えは返ってこなかった。
「どこへ出かけてるんだろうね」
などと、人ごとである。
「出かけるとき、円、どこ行くか言わなかったの?」
首を捻ったのは、外出時、必ず家族に出先を告げる円の習慣を知っていたからだ。
それに富家の気安さか、円の父、隆は円とともに帰ってきて以来、これといった職も持たず、ずっと家の中でのんびり過ごしている。どこへ出かけたか、円から聞いていないはずがない。
電話の向こうから、隆の苦笑が漏れ聞こえた。
「ごめん。僕、今日は朝から出かけていて、いま帰ったところだから。聞いてないんだ」
「そりゃ珍しい――じゃなくて、なら心当たりとかない?」
隆のほうに持って行かれそうになった会話を、あわてて引き戻す。
この際、隆の事情について詳しく尋ねる時間が惜しい。
「うーん。父さんが聞いてるかもしれないけれど、あいにくそっちも出かけてるみたいなんだ。自転車があるし、車は僕が使っていたから、どちらも近場だと思うんだけど」
「わかった。ありがとう」
礼を言って直樹は電話を切った。
居場所こそ特定できなかったが、自転車があるとなれば、円は歩いて出かけたに違いない。学校へ行くにも駅に行くにも、円は自転車を使う。
となれば、円が居る場所はかなり絞られる。
“城の中”一帯。彼女が行きつける場所となると両手で数えられる。
たとえば。
直樹は履歴から鍋島澄香の名を探し出し、コールした。
「あ、澄香? 円知らないか?」
「え? おねえちゃん? しらなーい」
なになに、と脇から忠志の声が聞こえてくる。どうやら双子そろって居るようだ。
――この急いでるときに。
直樹は心中で嘆いた。
この騒がしい双子がそろっているとなると、まともな意思の疎通は期待できない。
案の定、電話のむこうからわいわいと会話する声が聞こえてきた。
「なに?」
「円おねえちゃん探してるんだって」
「デートに誘うの?」
「なわけないでしょこんな時間から」
「ならなんの用なのかな」
「告白とか?」
「ほう、それは興味深い話ですね」
「でも円ねーちゃんいないよね」
「じじいは来てるのにね」
「じじい知ってるかもね」
「でもいまうちのおじいと五目並べしてるよ」
「囲碁でしょう」
「うんそれ。しかもめっちゃ負けてる」
「行ったら怒るよね」
「うん、絶対怒られる」
「なら、じじいはいないことにしとこう」
「うん、そうしよう」
なんだか他の声も混じっている気がしたが、双子からこれ以上の情報を得ることは不可能と確信するに充分なやりとりだった。
電話を切り、直樹は浅く息を切った。
続いて誰に電話をかけるか、知人の生活圏を思い浮かべながら考えていると。
――ひょっとして、陽花と清深が通りがかりに円を見ているかもしれない。
ふと、思い浮かべて。
ぞっとした。
陽花たちの出先など、知るはずがない。
だが、直樹は識っていた。
「混ざらないように、気をつけてね」
喫茶店の彼女に言われたことを思い出す。
その最初の段階。記憶の共有が始まっているらしかった。
芋づる式に浮かんでくる陽花たちの個人情報を、直樹はあわてて振り払う。
映像つきで鮮明に浮かんだ記憶は、拙いなんてものじゃなかった。
と、不安になって、直樹は時江のほうを見た。
同じことが彼女にも起こっているはずだった。
時江は直樹の目をまっすぐに見て言った。
「そんなに気にすることじゃないですよ。すくなくともあたしは平気だから」
それがなんについての言葉なのか、直樹は怖くて聞けなかった。
気をとりなおして、直樹は石井陽花に電話した。
「もしもし、おにいさん?」
数コールも待たず、電話越しに輝いた声が返ってきた。
「もしもし、陽花か?」
「――え?」
呆けたような声。
「陽花?」
「ええっ!? ……ちょ、ごめん、清深代わって! ニヤニヤが止まらないいま絶対まともに返せない変な子だと思われるっ!」
携帯から口が離れたのだろう、後半は声が遠かった。
直樹が不審に思っていると、姉川清深がおっとりした京なまりで話しかけてきた。
「直樹さん、陽花になに言うたん? なんやおかしなってるけど」
「いや、なにも――」
言いかけて、直樹は石井陽花を下の名で呼び捨てにしていたことに気づいた。
時江のそれがうつったのだろうか。
ひやりとしながら、直樹は誤魔化すように頭をかいた。
「そういやうっかり下の名前で呼んじゃったな。気を悪くしてないか?」
直樹の言葉に、特別深いため息が返ってきた。
「その逆やろけど……ところで直樹さん、なにか用でした?」
なにかをあきらめるような口調が引っかかったが、それを気にしている余裕はない。直樹は清深に、龍造寺円を見なかったか尋ねた。
「いや、見いひんだけど。通りがかっとったら純ちゃんが見つけとるやろし」
「そうか。すまないが見かけたら連絡してくれないか? 探してるんだ」
「わかりました。直樹さんの頼みやし、うちらも手伝わせてください」
ありがたい言葉だった。円の所在がわからぬ以上、しらみつぶしになる。人手が増えれば助かるのだ。
「すまん、世話になる」
心の中で頭を下げると、直樹は円が居そうな場所を伝え、捜索を頼んだ。
その脇で、時江は複雑な表情を浮かべていた。
直樹はそれに気づかなかった。
「とりあえず俺たちも戻って探そう。ここからなら……タクシーのが早いか?」
通話を終えると、直樹はそう提案した。
移動手段としては、おそらくそれが最速だ。
財布には厳しいが、いまの状況で時間と天秤に掛けるわけにはいかない。
だが、時江は申し訳なさそうに首を振った。
「わたし、車、ダメなんです……すみません」
直樹ははっとして、うかつを恥じた。
配慮してしかるべきだった。ユビオリの事件で、倉町時江は車にはねられ、重傷を負ったのだ。
それが、彼女の心に癒えぬ傷を残していることは想像に難くない。
時江の口惜しそうな表情は、足を引っ張る己のふがいなさゆえか。
「ま、電車でもそんなに変わらないさ。向こうの駅前に自転車置いてるしな」
努めて明るく言い放つと、直樹は励ますように彼女の頭に手を置いた。